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第3章:月下の妖精
第33話 チグハグな心
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――会わせたい貴族令息が居る。
お母様からこんなことを言い出すのは初めてだ。
私は少し緊張しながら言葉を口にする。
「貴族令息、ですか? どのような方なのですか?」
お母様は少し困ったように微笑んだ。
「そんなに緊張しないで。領内の有力貴族子息の一人よ」
相手はマッテオ・ベルケ・クリザンティ伯爵の嫡男、ファウスト・レウル・クリザンティ伯爵令息というらしい。
クリザンティ伯爵と言えば、領内でも有数の騎士だ。
私兵団にも、精強な騎士を抱えている。
確か領地の特産品はワインだったかな。
私は飲んだことがないけれど、甘みが強いのが特徴らしい。
アルコール度数が低く、子供でも飲みやすいのがクリザンティ領のワインだ。
「あなたももう十歳ですもの。少しは交友関係を広げてもいいと思うの」
「ですが、社交界には出なくても良いという話ではありませんでしたか?」
「安心して。これは社交界に出ろと言う話ではないわ。
小さなお茶会を開いて、ヴァレンティーノの友人の子を招くだけ。
クリザンティ伯爵令息はあなたと同い年よ。
彼に試しに会ってみて欲しいの。もちろん、無理にとは言わないわ」
同い年の男の子か~。
ここまでお母様が言うなら、会うくらいはいいかなぁ。
「そのファウスト様は、どのような方なのですか?」
「騎士として有望な男の子よ。
綺麗な顔をしているから、社交界に出れば令嬢たちが放っておかないでしょうね」
「お兄様と比べたら、どちらが人気が出ると思いますか?」
「公爵家と伯爵家の令息を比べるの? あなた、中々ひどいことを言うわね……」
そんなことを言われても、比較対象が身近にはアンリ兄様しかいないもん。
「家格を除けば、アンリともいい勝負ができると思うわよ?
アンリを見慣れたあなたでも、少しはかっこいいと思えるんじゃないかしら」
そうなのかなぁ?
別にアンリ兄様もかっこいいとは特に思わないし。
綺麗で優しくて頼りになる兄ではあるけれど。
「わかりました。会うだけで良いなら構いません。
そのお茶会はいつ頃のお話なのですか?」
「明日よ」
「明日?!」
かなり急な話だな?!
こっちは他の貴族子女と関わらなくなって三年以上、前回の人生以来なんだよ?!
「お母様、性急すぎませんか?」
「たまたま明日、クリザンティ伯爵がヴァレンティーノとの打ち合わせで我が家にやってくるのよ。
向こうもあなたに会いたがっているし、あなたさえ良ければ私たちでお茶会を開こうかと思ったの」
「なるほど、お父様のお仕事のついでと言う訳ですわね。
ではお茶会の時間はいつ頃になるのですか?」
「午前中からクリザンティ伯爵が来るから、その時になるわね。
あなたが相手を気に入ったら、昼食を一緒にとっても構わないんじゃないかしら」
やっぱり気が早いな……お母様、相手をかなり気に入ってるのかな?
まるで私が相手を気に入ることを前提で話が進んでるような気がする。
「お話は分かりました。
ですが、私はお茶会以上のことをする気はありませんよ?」
「ええ、それで構わないわ。では明日は聖水製作をしないで頂戴。気絶していたら、お茶会どころじゃなくなるもの」
あ、そうか。午前中に来るなら、そういうことになるのか。
「……わかりました。お話は以上ですか?」
「ええ、それだけよ。ではお願いね」
言うだけ言うと、お母様は私の部屋から出ていってしまった。
これで少なくとも明日、見たこともない貴族令息とお茶を飲むことが決定した。
疲れを感じた私は大きくため息をついて、椅子の背もたれに背中を預けた。
「……レナート、甘いミルクティーを頂戴」
「かしこまりました」
紫紺の髪の毛をした従僕が、丁寧に紅茶を入れて行く。
パリッとした服装、きびきびとした動作、有能人材のオーラをこれでもかと垂れ流す少年だ。
邸内で年の近い従僕として、一年前から私の専属になった子だった。
年齢は今年で十二歳、アンリ兄様の一つ下だ。
私は、その綺麗な所作を見ながらつぶやく。
「レナートは貴族出身なのかしら」
従僕でも下位貴族出身者は珍しくない。
家を継がない子供が上位貴族に仕えるのだ。
騎士として仕える人もいれば、使用人や従者として仕える人だっている。
レナートが澄まし顔で応える。
「いえ、私は平民の出自ですよ、お嬢様」
「平民なの? それでそんなにきれいな所作ができるの?」
レナートがわずかに微笑んだ。
「同じ平民出身のお嬢様の口から、そのような言葉が出るとは思いませんでした。
私の所作など、お嬢様に比べたら未熟もいいところです」
だって私は何年もしごかれたし……ということは、レナートも厳しく躾けられたということかな。
「それだけの所作を身に着けるの、大変だったでしょう?」
レナートは澄まし顔で応える。
「苦労はしましたが、それに見合う待遇が待っているとわかっていましたから」
レナートがミルクティーのカップを私の前に置いた。
お茶請けにジャムが乗せられたバターのカップケーキも忘れていない……さすがだ。
私はミルクティーの香りを楽しみつつ、あま~いカップケーキも頬張って、先ほどの疲れを癒していた。
そんな私を、レナートがまじまじと見つめていた。
「……なによ? 言いたいことがあるなら言いなさい?」
「いえ、それほど甘いものをお食べになっていて、よくその細い体型を維持できるものだと感心しておりました」
それは自分でも不思議だった。
運動らしい運動をしなくなって久しい。お父さんの稽古を受けていた時ならわかるんだけど。
考えられるのは聖水の製作作業……あれで体力をすり減らすから、太らないのかもしれない。
私はミルクティーを飲みながら、ぼんやりと窓から庭を見下ろした。
今年も色とりどりのチューリップが綺麗に咲いている。
その花がまるで、貴族令嬢たちが広げるスカートのように思えていた。
私もいよいよ十歳、そろそろ社交界と無縁ではいられなくなってくる。
今までは病弱な令嬢として、他の貴族子女と関わることもせずに済んだ。
だけどダヴィデ殿下がきちんと次の王に相応しい人物に育っていなければ、私が選んだ相手が次の王になる。
そのためにも、交友関係は広げておくべきなのだろう。
頭ではわかっていても、心の拒絶反応までは抑えられなかった。
宮廷の社交界は亡者の世界、そんなところに近寄らざるを得なくなるのだ。
私は亡者たちと渡り合いながら、王妃としてこの国を導いて行かなければならない。
深く大きなため息が知らずに漏れていた。
「お嬢様、それほどお嫌でしたら、今からでも奥様に断りを入れてはいかがですか」
レナートの言葉に顔を向け、微笑んで応える。
「明日のことが嫌なのではありませんわ。
その先のことを考えてしまって、気分が重たくなっているだけです。
大丈夫、明日はきちんとのりきってみせますわ」
私の微笑みを、レナートは眉をひそめて見つめていた。
「そのようにおつらそうな笑みを見せられても、『連れて逃げてくれ』と仰っているようにしか感じません。
お嬢様がお望みなら、私がいつでも連れて逃げてみせます。
どこかに身を隠し、ひっそりと暮らしてみたいとは考えないのですか」
身を隠してひっそりと――それができれば、どれだけ楽だろう。
「ありがとうレナート。
ですが私は聖神様に定められた聖女。為すべき役割を持つ者です。
その使命を果たさずに生きることは、私にはできません」
庭から聞こえていたお父さんとアンリ兄様の声が途切れ、「今日はここまで!」とお父さんの大きな声が聞こえた。
私はティーカップをテーブルに置いて立ち上がり、いそいそと部屋の外へ向かう。
階段を上ってくるアンリ兄様を階段の影で待ち構え、上りきったところで飛びついた。
「お兄様、おつかれさまです!」
「あぶないシトラス!」
階段の上で私に飛びつかれたアンリ兄様が、私をしっかりと受け止めた。
私はアンリ兄様の胸に顔を埋めながら、ぎゅっと抱き着いていた。
「……シトラス、いつも言っているだろう? 階段の上でふざけて飛びつくのはやめるんだ」
「えへへ、申し訳ありません」
あれからも優しい兄で在り続けたアンリ兄様に、私はすっかり心を許していた。
最近はスキンシップを取ってくれなくなったので、こちらからこうして抱き着いて心の充足感を得ている。
穏やかな生活を送っているうちに前回の人生の記憶が遠くなり、今の私は十歳の少女の自覚を持つようになっていた。
あの記憶は悪い夢だったのではないかと思ってしまうくらいだ。
そのせいか、行動が子供っぽくなったようにも感じていた。
すっかりたくましくなったアンリ兄様が、私をひょいと抱え上げた。
そのまま私を部屋まで連れて行き、ソファの上に下ろされる。
「稽古の後の私に飛びついたりして、汗臭いだろうに」
「お兄様を汗臭いと思った事など、一度もありませんわよ?」
アンリ兄様は普段から優しい香りの香水を愛用しているし、私はその香りを心地良く感じている。
思わず抱き着きたくなるのは、たぶん香水のせいだろう。
アンリ兄様が困ったように微笑んだ。
「だとしても、淑女が男性に飛びつくものではない。
シトラスももう十歳だ。公爵令嬢らしい所作はどこへいったんだ?」
「それはその……お兄様が私に構ってくださらないからです!
もっと私との時間を増やしていただければ、このようなこともしませんのに」
アンリ兄様が勉学や鍛錬に時間をかけるようになったのもあるけど、だんだん私とスキンシップを取ろうとしなくなってきていることに不満を持っていた。
最初はあんなにべたべたとくっついてきていたのに、私が懐いた頃には距離を取ろうとしてくるのだ。不満に思ってもしかたがないと思う。
昔のように頭を撫でたりしてくれてもいいんじゃない?
……うーん、本当に思考が子供っぽくなってるな。
心が身体に引っ張られてるのかなぁ?
もう自分が十歳の少女だと信じて疑ってない気がする。
むくれている私を見て、アンリ兄様が優しい微笑みを浮かべた。
「では久しぶりに、馬に乗ってみるか?
またあの場所へ行って景色を見てこよう」
「はい! ぜひ!」
私はアンリ兄様の腕を捕まえて、両腕で抱え込んだ。
そのまま上機嫌で鼻歌を歌い、一緒に階段を降りて行く。
十歳になった私の胸には、ささやかな双丘ができていた。
この胸で腕を抱え込むと、アンリ兄様が逃げられないのを私は知っている。
十三歳の少年は、抱え込まれた腕を緊張させて身動きが取れなくなるのだ。
ふふふ、可愛いものよのう――いけない、これでは男をもてあそぶ悪い女のようだ。
こういうところは以前の記憶が影響してるのかなぁ。
記憶だけなら、私は二十歳だ。十三歳の少年なんて、まだまだ子供に思える。
二十歳の私の身体なら、立派な双丘で腕を包み込んで全身を金縛りに出来ただろうに……などと悪いことを考えてみたりもした。
そんなどこかチグハグな心を持った私は、今日もアンリ兄様を困らせながら過ごしていた。
お母様からこんなことを言い出すのは初めてだ。
私は少し緊張しながら言葉を口にする。
「貴族令息、ですか? どのような方なのですか?」
お母様は少し困ったように微笑んだ。
「そんなに緊張しないで。領内の有力貴族子息の一人よ」
相手はマッテオ・ベルケ・クリザンティ伯爵の嫡男、ファウスト・レウル・クリザンティ伯爵令息というらしい。
クリザンティ伯爵と言えば、領内でも有数の騎士だ。
私兵団にも、精強な騎士を抱えている。
確か領地の特産品はワインだったかな。
私は飲んだことがないけれど、甘みが強いのが特徴らしい。
アルコール度数が低く、子供でも飲みやすいのがクリザンティ領のワインだ。
「あなたももう十歳ですもの。少しは交友関係を広げてもいいと思うの」
「ですが、社交界には出なくても良いという話ではありませんでしたか?」
「安心して。これは社交界に出ろと言う話ではないわ。
小さなお茶会を開いて、ヴァレンティーノの友人の子を招くだけ。
クリザンティ伯爵令息はあなたと同い年よ。
彼に試しに会ってみて欲しいの。もちろん、無理にとは言わないわ」
同い年の男の子か~。
ここまでお母様が言うなら、会うくらいはいいかなぁ。
「そのファウスト様は、どのような方なのですか?」
「騎士として有望な男の子よ。
綺麗な顔をしているから、社交界に出れば令嬢たちが放っておかないでしょうね」
「お兄様と比べたら、どちらが人気が出ると思いますか?」
「公爵家と伯爵家の令息を比べるの? あなた、中々ひどいことを言うわね……」
そんなことを言われても、比較対象が身近にはアンリ兄様しかいないもん。
「家格を除けば、アンリともいい勝負ができると思うわよ?
アンリを見慣れたあなたでも、少しはかっこいいと思えるんじゃないかしら」
そうなのかなぁ?
別にアンリ兄様もかっこいいとは特に思わないし。
綺麗で優しくて頼りになる兄ではあるけれど。
「わかりました。会うだけで良いなら構いません。
そのお茶会はいつ頃のお話なのですか?」
「明日よ」
「明日?!」
かなり急な話だな?!
こっちは他の貴族子女と関わらなくなって三年以上、前回の人生以来なんだよ?!
「お母様、性急すぎませんか?」
「たまたま明日、クリザンティ伯爵がヴァレンティーノとの打ち合わせで我が家にやってくるのよ。
向こうもあなたに会いたがっているし、あなたさえ良ければ私たちでお茶会を開こうかと思ったの」
「なるほど、お父様のお仕事のついでと言う訳ですわね。
ではお茶会の時間はいつ頃になるのですか?」
「午前中からクリザンティ伯爵が来るから、その時になるわね。
あなたが相手を気に入ったら、昼食を一緒にとっても構わないんじゃないかしら」
やっぱり気が早いな……お母様、相手をかなり気に入ってるのかな?
まるで私が相手を気に入ることを前提で話が進んでるような気がする。
「お話は分かりました。
ですが、私はお茶会以上のことをする気はありませんよ?」
「ええ、それで構わないわ。では明日は聖水製作をしないで頂戴。気絶していたら、お茶会どころじゃなくなるもの」
あ、そうか。午前中に来るなら、そういうことになるのか。
「……わかりました。お話は以上ですか?」
「ええ、それだけよ。ではお願いね」
言うだけ言うと、お母様は私の部屋から出ていってしまった。
これで少なくとも明日、見たこともない貴族令息とお茶を飲むことが決定した。
疲れを感じた私は大きくため息をついて、椅子の背もたれに背中を預けた。
「……レナート、甘いミルクティーを頂戴」
「かしこまりました」
紫紺の髪の毛をした従僕が、丁寧に紅茶を入れて行く。
パリッとした服装、きびきびとした動作、有能人材のオーラをこれでもかと垂れ流す少年だ。
邸内で年の近い従僕として、一年前から私の専属になった子だった。
年齢は今年で十二歳、アンリ兄様の一つ下だ。
私は、その綺麗な所作を見ながらつぶやく。
「レナートは貴族出身なのかしら」
従僕でも下位貴族出身者は珍しくない。
家を継がない子供が上位貴族に仕えるのだ。
騎士として仕える人もいれば、使用人や従者として仕える人だっている。
レナートが澄まし顔で応える。
「いえ、私は平民の出自ですよ、お嬢様」
「平民なの? それでそんなにきれいな所作ができるの?」
レナートがわずかに微笑んだ。
「同じ平民出身のお嬢様の口から、そのような言葉が出るとは思いませんでした。
私の所作など、お嬢様に比べたら未熟もいいところです」
だって私は何年もしごかれたし……ということは、レナートも厳しく躾けられたということかな。
「それだけの所作を身に着けるの、大変だったでしょう?」
レナートは澄まし顔で応える。
「苦労はしましたが、それに見合う待遇が待っているとわかっていましたから」
レナートがミルクティーのカップを私の前に置いた。
お茶請けにジャムが乗せられたバターのカップケーキも忘れていない……さすがだ。
私はミルクティーの香りを楽しみつつ、あま~いカップケーキも頬張って、先ほどの疲れを癒していた。
そんな私を、レナートがまじまじと見つめていた。
「……なによ? 言いたいことがあるなら言いなさい?」
「いえ、それほど甘いものをお食べになっていて、よくその細い体型を維持できるものだと感心しておりました」
それは自分でも不思議だった。
運動らしい運動をしなくなって久しい。お父さんの稽古を受けていた時ならわかるんだけど。
考えられるのは聖水の製作作業……あれで体力をすり減らすから、太らないのかもしれない。
私はミルクティーを飲みながら、ぼんやりと窓から庭を見下ろした。
今年も色とりどりのチューリップが綺麗に咲いている。
その花がまるで、貴族令嬢たちが広げるスカートのように思えていた。
私もいよいよ十歳、そろそろ社交界と無縁ではいられなくなってくる。
今までは病弱な令嬢として、他の貴族子女と関わることもせずに済んだ。
だけどダヴィデ殿下がきちんと次の王に相応しい人物に育っていなければ、私が選んだ相手が次の王になる。
そのためにも、交友関係は広げておくべきなのだろう。
頭ではわかっていても、心の拒絶反応までは抑えられなかった。
宮廷の社交界は亡者の世界、そんなところに近寄らざるを得なくなるのだ。
私は亡者たちと渡り合いながら、王妃としてこの国を導いて行かなければならない。
深く大きなため息が知らずに漏れていた。
「お嬢様、それほどお嫌でしたら、今からでも奥様に断りを入れてはいかがですか」
レナートの言葉に顔を向け、微笑んで応える。
「明日のことが嫌なのではありませんわ。
その先のことを考えてしまって、気分が重たくなっているだけです。
大丈夫、明日はきちんとのりきってみせますわ」
私の微笑みを、レナートは眉をひそめて見つめていた。
「そのようにおつらそうな笑みを見せられても、『連れて逃げてくれ』と仰っているようにしか感じません。
お嬢様がお望みなら、私がいつでも連れて逃げてみせます。
どこかに身を隠し、ひっそりと暮らしてみたいとは考えないのですか」
身を隠してひっそりと――それができれば、どれだけ楽だろう。
「ありがとうレナート。
ですが私は聖神様に定められた聖女。為すべき役割を持つ者です。
その使命を果たさずに生きることは、私にはできません」
庭から聞こえていたお父さんとアンリ兄様の声が途切れ、「今日はここまで!」とお父さんの大きな声が聞こえた。
私はティーカップをテーブルに置いて立ち上がり、いそいそと部屋の外へ向かう。
階段を上ってくるアンリ兄様を階段の影で待ち構え、上りきったところで飛びついた。
「お兄様、おつかれさまです!」
「あぶないシトラス!」
階段の上で私に飛びつかれたアンリ兄様が、私をしっかりと受け止めた。
私はアンリ兄様の胸に顔を埋めながら、ぎゅっと抱き着いていた。
「……シトラス、いつも言っているだろう? 階段の上でふざけて飛びつくのはやめるんだ」
「えへへ、申し訳ありません」
あれからも優しい兄で在り続けたアンリ兄様に、私はすっかり心を許していた。
最近はスキンシップを取ってくれなくなったので、こちらからこうして抱き着いて心の充足感を得ている。
穏やかな生活を送っているうちに前回の人生の記憶が遠くなり、今の私は十歳の少女の自覚を持つようになっていた。
あの記憶は悪い夢だったのではないかと思ってしまうくらいだ。
そのせいか、行動が子供っぽくなったようにも感じていた。
すっかりたくましくなったアンリ兄様が、私をひょいと抱え上げた。
そのまま私を部屋まで連れて行き、ソファの上に下ろされる。
「稽古の後の私に飛びついたりして、汗臭いだろうに」
「お兄様を汗臭いと思った事など、一度もありませんわよ?」
アンリ兄様は普段から優しい香りの香水を愛用しているし、私はその香りを心地良く感じている。
思わず抱き着きたくなるのは、たぶん香水のせいだろう。
アンリ兄様が困ったように微笑んだ。
「だとしても、淑女が男性に飛びつくものではない。
シトラスももう十歳だ。公爵令嬢らしい所作はどこへいったんだ?」
「それはその……お兄様が私に構ってくださらないからです!
もっと私との時間を増やしていただければ、このようなこともしませんのに」
アンリ兄様が勉学や鍛錬に時間をかけるようになったのもあるけど、だんだん私とスキンシップを取ろうとしなくなってきていることに不満を持っていた。
最初はあんなにべたべたとくっついてきていたのに、私が懐いた頃には距離を取ろうとしてくるのだ。不満に思ってもしかたがないと思う。
昔のように頭を撫でたりしてくれてもいいんじゃない?
……うーん、本当に思考が子供っぽくなってるな。
心が身体に引っ張られてるのかなぁ?
もう自分が十歳の少女だと信じて疑ってない気がする。
むくれている私を見て、アンリ兄様が優しい微笑みを浮かべた。
「では久しぶりに、馬に乗ってみるか?
またあの場所へ行って景色を見てこよう」
「はい! ぜひ!」
私はアンリ兄様の腕を捕まえて、両腕で抱え込んだ。
そのまま上機嫌で鼻歌を歌い、一緒に階段を降りて行く。
十歳になった私の胸には、ささやかな双丘ができていた。
この胸で腕を抱え込むと、アンリ兄様が逃げられないのを私は知っている。
十三歳の少年は、抱え込まれた腕を緊張させて身動きが取れなくなるのだ。
ふふふ、可愛いものよのう――いけない、これでは男をもてあそぶ悪い女のようだ。
こういうところは以前の記憶が影響してるのかなぁ。
記憶だけなら、私は二十歳だ。十三歳の少年なんて、まだまだ子供に思える。
二十歳の私の身体なら、立派な双丘で腕を包み込んで全身を金縛りに出来ただろうに……などと悪いことを考えてみたりもした。
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