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第40話 これから
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カラン。
いつものカウベル……ではなく、グラスの氷が立てた音だ。
汗と体液でぐちゃぐちゃな部屋にルームサービスを呼ぶ気にもならず、部屋に据え置きの水と氷で喉を潤し昨晩の火照りを冷ました二人は、お湯を使って身綺麗にしたものの、
「あんたはまったく……」
「いや、ほんとすまんかった」
誤魔化せはしないだろうがシーツやらをまとめ、丸テーブルを挟んでいた。もう太陽は中天に差し掛かり、それでもチェックアウトを言ってこないのはさすが妖族でも最高級の宿だ。
呆れたように頬杖をつくアルノは、その言葉や声とは裏腹にやたらと肌艶がよく、反対にハルはちょっと細身の戦士体型が魔法師体型になったのかと思われるほどげっそりしていた。
が、完全にこれは自業自得だった。
「二十発よ、二十発。猿か!猿ね、猿なのね!」
「え、数えてたのかよ、凄ぇな」
「目が覚めたらお腹が重くてびっくりしたっての。どんだけ中に出したのよ。腰もガクガクだから、今日は私を抱いて動きなさい」
「はい、仰せのままに」
口調はキツイがにやにやしているので圧力はない。
自分がハルのものになった実感と、ハルを完全に自分のものにした満足感に包まれていたからだ。
「で、今日はどうする?」
「あー、俺は別に戻る必要なさそうだな。ああそうだ、ちょうど良いからこの後のことを話しておくか」
「ここで?」
「いや、ちょうど昼だし……って、そういやアルノ、お前は大丈夫なのか」
「何がよ」
「いや、腹減ってないかなと」
ああ、と頷く。
そう言えばカレンが話しているかと思って自分から言ったことはなかった。
「食事の必要ないのよ、私」
「は、マジか」
「吸血鬼だからね。カレンは眷属だから実際に血を吸うこともあるけど、私は基本的に誰かの存在を吸収してるから。今までは戦場で人族から吸ったりしてたけど」
そう言うとハルは途端にむっとした表情になった。どう吸血するかは知らなくとも、アルノがどこぞの兵士、もちろん男から「吸う」という行為をしたことそのものが許容できないらしい。
「あんたは可愛いわね」
そんなハルの様子を察して笑うアルノ。
どんなハルを見ても幸せしか浮かばない。それが嫉妬だと尚更だ。
「そりゃそうだろ。お前に近づく男はたとえ魔王でも嫉妬するわ」
ましてハルから直接聞けると、嬉しくてにまにましてしまう。
「何だよ」
まったく、見た目三十路だが女神の眷属、人族の軍事最高司令官である男が自分のために嫉妬に染まるのは、何とも嬉しいものだ。
「何でも。まあ安心しなさい、別に血を吸ってる訳じゃないし、触れる必要もないからあんたが考えるようなことはしてないわ」
「む……そうか、いや、でも今後は俺からだけ吸え。いくら吸っても構わんから」
「言ったわね、覚悟しておきなさい、って言いたいところだけど正直もうお腹いっぱいで向こう数ヶ月は必要ないくらいよ」
「そうなのか?俺には何の影響もないんだが」
「今までも『夜に鳴く鶏亭』で吸ってたの、実は。気づかなかったでしょう。それくらいハルの実在は大きいのよ」
見た目は完全に美少女、それも十三か十四の成人前でしかないようなアルノが、一夜を超えて何か変わったのか妙に妖艶に見える。惚れた弱みって奴かなあ、と元気になりそうな息子を気合いで抑えつつハルは腰を上げた。
「じゃあまあ、その辺でお茶でも飲みながら話すか。夜は久しぶりに『夜に鳴く鶏亭』に行くだろ?」
「そうね、じゃあほら」
両手を差し出すアルノ。
実際には吸血鬼の再生能力のせいか体調は万全なのだが、折角のチャンスは活かした方が良いし、面倒なナンパ野郎どもも避けられる。ついでに自分がハルのもので、ハルが自分のものだと実感もできるのだから一石三鳥か四鳥だろう。
「畏まりました、お嬢様」
おどけた態度でアルノを横抱きに抱え上げると、
「あ、これだとチェックアウトできん」
「私がやるからいいわ。ほら、さっさと行くわよ」
ぎゅっと首に腕を回して胸に顔を埋めるアルノに、ハルは別の理由でロビーに向かいたくなくなった。
昼間の妖族の街へはあまり足を運んだことがなかったが、やはり不思議な場所だと思った。宿から少し歩いた店に入り、テラス席で街を往く人々を眺めていたハルは首を傾げる。
どこか違和感があるのだが、それが何だかわからない。
「どうしたのよ」
その様子を見たアルノが、どうせだから付き合う、と頼んだパンケーキをもぐもぐしながら尋ねると、
「うーん、『夜に鳴く鶏亭』は客が人族か魔族だろう。だからあまり考えなかったんだけどな、こうやって昼の街を見ていると何かこう違和感があると言うか」
最後のパスタをぱくりとしてフォークを皿に置き、再びうーむと目を眇める。
「何だろうな、違いは」
そんなハルを面白そうに眺めたアルノは、片手を挙げてウェイトレスを呼ぶとコーヒーを頼んだ。
「珍しいな」
「そう?たまには良いんじゃない。あ、あとチーゴのジュースとクッキーもね」
ハルの世界で言うところのイチゴジュースまで追加で頼んだアルノに怪訝そうな目を向けるが、吸血鬼の嗜好は違うのかもしれない、そしてそんなアルノの嗜好はこれからいくらでも知ることができるという満足感とともに頭から追い払う。
「元の世界でも見られないような穏和で明るい街なんだけどな、これなら西方辺境伯領都のスラムの方が安心するというか」
「スラム?そんなとこに行ってたの?」
「アリアが孤児院の慰問に行くってんで付き添いでな。あ、そう言えばアルノ、アリアたちに会ったって?」
「ええ。あの子、本物ね」
「本物って……偽物の聖女なんているのか?いや、いたってことか」
「何年前だったかな、えーと、最初の勇者の頃だから百年前かも。ついてきてた聖女がいたけど、あれは治癒の力を使えても魔族を浄化できなかったからね」
「ふぅん。ん?待て、アリアは魔族を浄化できるってことか」
「できるというか、できるようになってたわね。カレンが自分の髪で試したら一瞬で消し飛んだわ」
「えええ……お前、大丈夫だったのかよ」
「何とも。普通の魔族なら危ないけど、カレンや族の長クラスには大した影響はないと思うわ。カレンの髪の毛が消えたのも、体から離れて死の状態になったものだからね」
「そうか」
安心したハルにアルノはにやりとしてテーブルに体を乗り出す。
「心配した?愛しのアルノヴィーチェが聖女にやられちゃうって」
「そりゃそうだろ、俺のアルノを傷つけるやつは許さん」
「なっ」
思わぬ返しに身を引いたアルノの目に、口端を上げるハルが映った。
「な、生意気よハル!私を揶揄うなんて」
「揶揄ってなんかいない。本心だ。きりっ」
「きりっとか口で言ってる時点で遊んでるじゃないの!」
「いやいや、気のせいですよ司令官殿、きりっ」
「きー!」
「だが、それだとアリアも戦場に駆り出される可能性があったということか。危なかったな」
なだめられたアルノがぶすっくれて座り直すと、改めてハルが危険性に思い至る。
ハルが知らなかったくらいだからカノ王女も聖女アリアも、気づいて隠していたのだろう。それをアルノが言う「女子会」とやらで放出した理由がわからないけれども。
「まあ、出てきても別に何もしないわよ」
「うん?じゃあ良い関係は築けたってことか」
そうハルが尋ねると、なぜか遠い目をしたアルノは、
「うん、まあ、そうね……」
「何だ?何かあったのか」
「いやあの子、だいぶ甘やかされて育ったでしょう?出自が出自だから幼い頃は苦しい思いしたんでしょうけど、少なくともあんたに拾われてからは」
「うーん……それ、ヴェセルやカノにもよく言われるんだが、俺としては厳しく育てたつもりなんだよ。なんだろうな」
本気で考え込むハルだったが、ちょっと泣き真似されて陥落したり、甘えた目で見られただけで撫でたり、そういったことは厳しく育てたと言わない。
だが、ハルの居ない所では教会の戒律の中で自律していたことは確かだし、厳しい環境の中にいたというのは事実ではある。
ハルのみが甘やかしていただけだ。
「いや絶対ハルが甘やかしてたに決まってるわ。で、何と言うか、一人っ子思想というか末娘思考というか……やたらと姉ぶるのよ」
「アルノに?アリアが?姉ぶる?」
うん、と頷くアルノ。
ハルには想像しかねる光景だったが、困ったような顔をしても嫌がっているようには見えない。
だとしたら問題はないのではないだろうか。現状でも見た目だけで言えば確実にアリアが年上に見えるし、この先も成長しないアルノと成長するアリアの差は埋まらない。
対外的には何も問題はない。
と、そう言うとアルノはきょとんとした目をした。
「え、ハル気づいて……あー、そうか同じ眷属だから気づかないか」
「……え、おい、まさか」
「あの子、加護を祝福に昇華させたわよ」
「は?」
「あの力は確実に女神を脅は……女神に頼んで本物の聖女になったんだろうってこと。祝福だからね、あんたと同じ」
「え、待て、それ……つまりアリアは」
「永遠に生きるわね」
何かを言いかけたまま、口をあんぐりと開けたハルは一瞬後に我に返って歯噛みする。
「あのクソ女神……アリアに普通の幸せを与えないつもりか」
だが、アルノの反応は異なっていた。
アルノにアリアがハルにとってのそれより近い存在ではない、ということからではない。むしろ、アリアが近い存在になったからこそのハルに対する不快感だった。
「ハル、あんた調子に乗ってんじゃないわよ」
「え」
「アリアの幸せはアリアが決めるわ。あんたが決めることじゃない。あの子はハルと一緒に居ることを自分の幸福と定めた。だから眷属化したのよ。あの子にそう思わせたのはあんただし、そう決めたアリアの意思をどうこう言う資格があんたにあるのかしら」
厳しい目つきのアルノに、ハルは何も言えず口を閉ざす。
街に流れる空気は穏やかなのに、テラス席の一部だけは氷点下のような雰囲気だった。
「アリアがどう生きるかは、アリアが決めることでしょう」
言い切ったアルノに、ハルはふうと息を吐く。
「そうだな、まったくアルノの言う通りだ」
頭を振って切り替えると、手を伸ばしアルノの頭に置く。
「ありがとなアルノ。さすが年の功、言うことが違うな」
「んなっ?!年寄り扱いすんな、バカハル!」
ばっと片手で頭に置かれた手を振り払う。
「おいおい、感謝してるんだぜ。よしよし、ありがとな」
「子供扱いか大人扱いか、はっきりしなさいよ!」
「うんまあ、あいつが飽きるまで一緒にいてやるさ。それが親代わりってもんだしな」
再びむくれたアルノに笑う。
「コブ付きの新婚で悪いが、いいか?」
「はへ?新婚?新婚ってあんた……」
「あれ、違ったか?どうせ永遠なんだ、今の世界の婚姻なんて紙だけのもんだが、俺としてはお前と一生添い遂げるつもりだから結婚状態だと思ってたんだが」
「ち、違わない、違わないわ。ええ、まあ、うん。結婚してあげてもいいわよ。アリアもやたら姉ぶることを除けば、まあいいんじゃないかしら」
「うーん、やっぱツンデレなんだな」
「ツンデレ言うな!」
ぷい、とそっぽを向くアルノに笑っているとちょうどコーヒーとクッキー、それにチーゴのジュースが運ばれてくる。
「ああ、ちょうど良かったわ」
置かれたチーゴジュースに手を伸ばす。
コーヒーを口に運びながら何の気なしにその様子を見ていると、アルノは赤いジュースを自分のコーヒーに入れた。
「え。おいそれ、不味いんじゃないか」
ハルのぎょっとしたような声を無視して、ソーサーに戻したハルのカップ、チーゴを入れたアルノのカップを並べる。
「これ。見た目どう?」
「ん?同じにしか見えないが」
「じゃあ、こう」
二つのカップの間に、チーゴのジュースを並べる。
黒いコーヒーの間に赤いジュース。
「同じに見える?」
「いや、完全に別物だが」
「コーヒーが魔族と人族。チーゴのジュースが妖族」
そこまで言われてはっと気づく。
先ほどの違和感の正体はこれだったようだ。顔を上げて通りを眺めると、そこには明るい陽射しの下を歩く人族、魔族、妖族が見えた。
「そうか、妖族の街なのに妖族だけが違って見えるんだな。確かに妖族だけは別の存在だが……」
「で、こっち」
いくつかの種類が見た目にもきれいに並べられたクッキーの入った小皿を引き寄せ、そのうちの何枚かを割って適当に戻す。
じっとそれを見ていたハルだったが、何かに思い至ったのか再び目線を上げて通りを眺めた。きれいに整えられた街路、そこを歩く妖族もまたどこか生き物らしさを感じない。
視線を正面のアルノに向ける。
昨晩、自分のものになった眼前の少女は、さすが二百年生きているだけあってそこに内包される存在感は様々なものに満ちている。それは彼の能力を使わなくとも感じられる、生の在り方だった。
「なるほどな……よくわかった」
だが、と微笑むアルノに続けて言う。
「なら結局、妖族ってのは何なんだ。アルノは知っているのか?」
「さあ。私もよく知らないわね。でも何となくだけど、今日なら大将が教えてくれる気がする」
「なんで」
「わからないわよ。そんな気がするだけだから」
ひょい、とクッキーを口に放り入れるアルノは、
「で、とりあえずはこの後のことでしょ。セーガル河戦域、どこまで引けば良いのよ」
いつものカウベル……ではなく、グラスの氷が立てた音だ。
汗と体液でぐちゃぐちゃな部屋にルームサービスを呼ぶ気にもならず、部屋に据え置きの水と氷で喉を潤し昨晩の火照りを冷ました二人は、お湯を使って身綺麗にしたものの、
「あんたはまったく……」
「いや、ほんとすまんかった」
誤魔化せはしないだろうがシーツやらをまとめ、丸テーブルを挟んでいた。もう太陽は中天に差し掛かり、それでもチェックアウトを言ってこないのはさすが妖族でも最高級の宿だ。
呆れたように頬杖をつくアルノは、その言葉や声とは裏腹にやたらと肌艶がよく、反対にハルはちょっと細身の戦士体型が魔法師体型になったのかと思われるほどげっそりしていた。
が、完全にこれは自業自得だった。
「二十発よ、二十発。猿か!猿ね、猿なのね!」
「え、数えてたのかよ、凄ぇな」
「目が覚めたらお腹が重くてびっくりしたっての。どんだけ中に出したのよ。腰もガクガクだから、今日は私を抱いて動きなさい」
「はい、仰せのままに」
口調はキツイがにやにやしているので圧力はない。
自分がハルのものになった実感と、ハルを完全に自分のものにした満足感に包まれていたからだ。
「で、今日はどうする?」
「あー、俺は別に戻る必要なさそうだな。ああそうだ、ちょうど良いからこの後のことを話しておくか」
「ここで?」
「いや、ちょうど昼だし……って、そういやアルノ、お前は大丈夫なのか」
「何がよ」
「いや、腹減ってないかなと」
ああ、と頷く。
そう言えばカレンが話しているかと思って自分から言ったことはなかった。
「食事の必要ないのよ、私」
「は、マジか」
「吸血鬼だからね。カレンは眷属だから実際に血を吸うこともあるけど、私は基本的に誰かの存在を吸収してるから。今までは戦場で人族から吸ったりしてたけど」
そう言うとハルは途端にむっとした表情になった。どう吸血するかは知らなくとも、アルノがどこぞの兵士、もちろん男から「吸う」という行為をしたことそのものが許容できないらしい。
「あんたは可愛いわね」
そんなハルの様子を察して笑うアルノ。
どんなハルを見ても幸せしか浮かばない。それが嫉妬だと尚更だ。
「そりゃそうだろ。お前に近づく男はたとえ魔王でも嫉妬するわ」
ましてハルから直接聞けると、嬉しくてにまにましてしまう。
「何だよ」
まったく、見た目三十路だが女神の眷属、人族の軍事最高司令官である男が自分のために嫉妬に染まるのは、何とも嬉しいものだ。
「何でも。まあ安心しなさい、別に血を吸ってる訳じゃないし、触れる必要もないからあんたが考えるようなことはしてないわ」
「む……そうか、いや、でも今後は俺からだけ吸え。いくら吸っても構わんから」
「言ったわね、覚悟しておきなさい、って言いたいところだけど正直もうお腹いっぱいで向こう数ヶ月は必要ないくらいよ」
「そうなのか?俺には何の影響もないんだが」
「今までも『夜に鳴く鶏亭』で吸ってたの、実は。気づかなかったでしょう。それくらいハルの実在は大きいのよ」
見た目は完全に美少女、それも十三か十四の成人前でしかないようなアルノが、一夜を超えて何か変わったのか妙に妖艶に見える。惚れた弱みって奴かなあ、と元気になりそうな息子を気合いで抑えつつハルは腰を上げた。
「じゃあまあ、その辺でお茶でも飲みながら話すか。夜は久しぶりに『夜に鳴く鶏亭』に行くだろ?」
「そうね、じゃあほら」
両手を差し出すアルノ。
実際には吸血鬼の再生能力のせいか体調は万全なのだが、折角のチャンスは活かした方が良いし、面倒なナンパ野郎どもも避けられる。ついでに自分がハルのもので、ハルが自分のものだと実感もできるのだから一石三鳥か四鳥だろう。
「畏まりました、お嬢様」
おどけた態度でアルノを横抱きに抱え上げると、
「あ、これだとチェックアウトできん」
「私がやるからいいわ。ほら、さっさと行くわよ」
ぎゅっと首に腕を回して胸に顔を埋めるアルノに、ハルは別の理由でロビーに向かいたくなくなった。
昼間の妖族の街へはあまり足を運んだことがなかったが、やはり不思議な場所だと思った。宿から少し歩いた店に入り、テラス席で街を往く人々を眺めていたハルは首を傾げる。
どこか違和感があるのだが、それが何だかわからない。
「どうしたのよ」
その様子を見たアルノが、どうせだから付き合う、と頼んだパンケーキをもぐもぐしながら尋ねると、
「うーん、『夜に鳴く鶏亭』は客が人族か魔族だろう。だからあまり考えなかったんだけどな、こうやって昼の街を見ていると何かこう違和感があると言うか」
最後のパスタをぱくりとしてフォークを皿に置き、再びうーむと目を眇める。
「何だろうな、違いは」
そんなハルを面白そうに眺めたアルノは、片手を挙げてウェイトレスを呼ぶとコーヒーを頼んだ。
「珍しいな」
「そう?たまには良いんじゃない。あ、あとチーゴのジュースとクッキーもね」
ハルの世界で言うところのイチゴジュースまで追加で頼んだアルノに怪訝そうな目を向けるが、吸血鬼の嗜好は違うのかもしれない、そしてそんなアルノの嗜好はこれからいくらでも知ることができるという満足感とともに頭から追い払う。
「元の世界でも見られないような穏和で明るい街なんだけどな、これなら西方辺境伯領都のスラムの方が安心するというか」
「スラム?そんなとこに行ってたの?」
「アリアが孤児院の慰問に行くってんで付き添いでな。あ、そう言えばアルノ、アリアたちに会ったって?」
「ええ。あの子、本物ね」
「本物って……偽物の聖女なんているのか?いや、いたってことか」
「何年前だったかな、えーと、最初の勇者の頃だから百年前かも。ついてきてた聖女がいたけど、あれは治癒の力を使えても魔族を浄化できなかったからね」
「ふぅん。ん?待て、アリアは魔族を浄化できるってことか」
「できるというか、できるようになってたわね。カレンが自分の髪で試したら一瞬で消し飛んだわ」
「えええ……お前、大丈夫だったのかよ」
「何とも。普通の魔族なら危ないけど、カレンや族の長クラスには大した影響はないと思うわ。カレンの髪の毛が消えたのも、体から離れて死の状態になったものだからね」
「そうか」
安心したハルにアルノはにやりとしてテーブルに体を乗り出す。
「心配した?愛しのアルノヴィーチェが聖女にやられちゃうって」
「そりゃそうだろ、俺のアルノを傷つけるやつは許さん」
「なっ」
思わぬ返しに身を引いたアルノの目に、口端を上げるハルが映った。
「な、生意気よハル!私を揶揄うなんて」
「揶揄ってなんかいない。本心だ。きりっ」
「きりっとか口で言ってる時点で遊んでるじゃないの!」
「いやいや、気のせいですよ司令官殿、きりっ」
「きー!」
「だが、それだとアリアも戦場に駆り出される可能性があったということか。危なかったな」
なだめられたアルノがぶすっくれて座り直すと、改めてハルが危険性に思い至る。
ハルが知らなかったくらいだからカノ王女も聖女アリアも、気づいて隠していたのだろう。それをアルノが言う「女子会」とやらで放出した理由がわからないけれども。
「まあ、出てきても別に何もしないわよ」
「うん?じゃあ良い関係は築けたってことか」
そうハルが尋ねると、なぜか遠い目をしたアルノは、
「うん、まあ、そうね……」
「何だ?何かあったのか」
「いやあの子、だいぶ甘やかされて育ったでしょう?出自が出自だから幼い頃は苦しい思いしたんでしょうけど、少なくともあんたに拾われてからは」
「うーん……それ、ヴェセルやカノにもよく言われるんだが、俺としては厳しく育てたつもりなんだよ。なんだろうな」
本気で考え込むハルだったが、ちょっと泣き真似されて陥落したり、甘えた目で見られただけで撫でたり、そういったことは厳しく育てたと言わない。
だが、ハルの居ない所では教会の戒律の中で自律していたことは確かだし、厳しい環境の中にいたというのは事実ではある。
ハルのみが甘やかしていただけだ。
「いや絶対ハルが甘やかしてたに決まってるわ。で、何と言うか、一人っ子思想というか末娘思考というか……やたらと姉ぶるのよ」
「アルノに?アリアが?姉ぶる?」
うん、と頷くアルノ。
ハルには想像しかねる光景だったが、困ったような顔をしても嫌がっているようには見えない。
だとしたら問題はないのではないだろうか。現状でも見た目だけで言えば確実にアリアが年上に見えるし、この先も成長しないアルノと成長するアリアの差は埋まらない。
対外的には何も問題はない。
と、そう言うとアルノはきょとんとした目をした。
「え、ハル気づいて……あー、そうか同じ眷属だから気づかないか」
「……え、おい、まさか」
「あの子、加護を祝福に昇華させたわよ」
「は?」
「あの力は確実に女神を脅は……女神に頼んで本物の聖女になったんだろうってこと。祝福だからね、あんたと同じ」
「え、待て、それ……つまりアリアは」
「永遠に生きるわね」
何かを言いかけたまま、口をあんぐりと開けたハルは一瞬後に我に返って歯噛みする。
「あのクソ女神……アリアに普通の幸せを与えないつもりか」
だが、アルノの反応は異なっていた。
アルノにアリアがハルにとってのそれより近い存在ではない、ということからではない。むしろ、アリアが近い存在になったからこそのハルに対する不快感だった。
「ハル、あんた調子に乗ってんじゃないわよ」
「え」
「アリアの幸せはアリアが決めるわ。あんたが決めることじゃない。あの子はハルと一緒に居ることを自分の幸福と定めた。だから眷属化したのよ。あの子にそう思わせたのはあんただし、そう決めたアリアの意思をどうこう言う資格があんたにあるのかしら」
厳しい目つきのアルノに、ハルは何も言えず口を閉ざす。
街に流れる空気は穏やかなのに、テラス席の一部だけは氷点下のような雰囲気だった。
「アリアがどう生きるかは、アリアが決めることでしょう」
言い切ったアルノに、ハルはふうと息を吐く。
「そうだな、まったくアルノの言う通りだ」
頭を振って切り替えると、手を伸ばしアルノの頭に置く。
「ありがとなアルノ。さすが年の功、言うことが違うな」
「んなっ?!年寄り扱いすんな、バカハル!」
ばっと片手で頭に置かれた手を振り払う。
「おいおい、感謝してるんだぜ。よしよし、ありがとな」
「子供扱いか大人扱いか、はっきりしなさいよ!」
「うんまあ、あいつが飽きるまで一緒にいてやるさ。それが親代わりってもんだしな」
再びむくれたアルノに笑う。
「コブ付きの新婚で悪いが、いいか?」
「はへ?新婚?新婚ってあんた……」
「あれ、違ったか?どうせ永遠なんだ、今の世界の婚姻なんて紙だけのもんだが、俺としてはお前と一生添い遂げるつもりだから結婚状態だと思ってたんだが」
「ち、違わない、違わないわ。ええ、まあ、うん。結婚してあげてもいいわよ。アリアもやたら姉ぶることを除けば、まあいいんじゃないかしら」
「うーん、やっぱツンデレなんだな」
「ツンデレ言うな!」
ぷい、とそっぽを向くアルノに笑っているとちょうどコーヒーとクッキー、それにチーゴのジュースが運ばれてくる。
「ああ、ちょうど良かったわ」
置かれたチーゴジュースに手を伸ばす。
コーヒーを口に運びながら何の気なしにその様子を見ていると、アルノは赤いジュースを自分のコーヒーに入れた。
「え。おいそれ、不味いんじゃないか」
ハルのぎょっとしたような声を無視して、ソーサーに戻したハルのカップ、チーゴを入れたアルノのカップを並べる。
「これ。見た目どう?」
「ん?同じにしか見えないが」
「じゃあ、こう」
二つのカップの間に、チーゴのジュースを並べる。
黒いコーヒーの間に赤いジュース。
「同じに見える?」
「いや、完全に別物だが」
「コーヒーが魔族と人族。チーゴのジュースが妖族」
そこまで言われてはっと気づく。
先ほどの違和感の正体はこれだったようだ。顔を上げて通りを眺めると、そこには明るい陽射しの下を歩く人族、魔族、妖族が見えた。
「そうか、妖族の街なのに妖族だけが違って見えるんだな。確かに妖族だけは別の存在だが……」
「で、こっち」
いくつかの種類が見た目にもきれいに並べられたクッキーの入った小皿を引き寄せ、そのうちの何枚かを割って適当に戻す。
じっとそれを見ていたハルだったが、何かに思い至ったのか再び目線を上げて通りを眺めた。きれいに整えられた街路、そこを歩く妖族もまたどこか生き物らしさを感じない。
視線を正面のアルノに向ける。
昨晩、自分のものになった眼前の少女は、さすが二百年生きているだけあってそこに内包される存在感は様々なものに満ちている。それは彼の能力を使わなくとも感じられる、生の在り方だった。
「なるほどな……よくわかった」
だが、と微笑むアルノに続けて言う。
「なら結局、妖族ってのは何なんだ。アルノは知っているのか?」
「さあ。私もよく知らないわね。でも何となくだけど、今日なら大将が教えてくれる気がする」
「なんで」
「わからないわよ。そんな気がするだけだから」
ひょい、とクッキーを口に放り入れるアルノは、
「で、とりあえずはこの後のことでしょ。セーガル河戦域、どこまで引けば良いのよ」
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