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六 : 大志 - (17) 六月一日

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 天正十年五月二十九日。小姓衆だけ連れて安土を発った信長は、その日の内に京へ到着。本能寺に入った。畿内やその周辺は全て織田家の支配地域で、大勢の兵を連れていなくても安心して通行する事が出来た。
 翌、六月一日。天下人・信長の上洛を知った近衛前久や勧修寺晴豊・甘露寺かんろじ経元つねもとなどの公家衆が本能寺を訪れた。信長は安土から持参した“名物”と呼ばれる茶器や茶道具を披露したとされる。
 同じ日、武田攻めに参加せず静養していた斎藤利治が毛利攻めに加わるべく上洛。利治と合流した信忠は二人で本能寺を訪れた。
「おぉ、勘九郎。それに新五郎も」
 出迎えた父は、珍しく上機嫌だった。それに、頬が僅かにあかい。
「……ささを召されておられるのですか?」
「うむ。なんだか飲みたい気分になって、な」
 信忠の指摘に父はあっさりと認める。普段はあまり酒を飲まないので、本当に珍しい。
 二人が座ると蘭丸が盃を出してきた。父が徳利を手に取ったので、断るのは礼に失すると思い信忠は受ける。ただ、利治は休養明けで長距離を移動してきたのもあり、固辞している。
「今日は愉快だった。長袖共は揃いも揃って俺の顔色を窺い、機嫌を損ねないよう阿諛追従あゆついしょうに徹しておったわ」
 楽し気に語る父。その時の事を思い出して「ククク」と笑いを零す。
 だが、信忠は真面目な表情を崩さない。父の笑いが収まるのを待って、声を掛ける。
「……暦の件は如何いかがなりましたか?」
 京都所司代の村井貞勝が頭を悩ませている難題に、父が切り込まない筈がない。信忠はどうしても確認しておきたかった。
 下手をすれば一気に機嫌を悪くする覚悟をしていた信忠だが……意外にも父は上機嫌なまま答えた。
「奴等、俺がその件を訊ねたら全身汗だくで『陰陽寮おんようりょうに聞かないと……』の一点張りだったわ」
 普段は怒っている時を除けば父の感情が読めない事が多いが、今は分かる。これは、呆れて笑っているのだ。そして、表情こそ笑ってはいるが、腹の中は相当に煮えくり返っている。
「日ノ本でバラバラになっている暦を統一する事を、陰陽寮のような下っ端が決められる訳がなかろう。七百年用いてきた暦の転換なぞ帝や公卿にしか決められないわ。俺の怒りを買いたくないから逃げているとしか思えん。皆、我が身可愛さが第一で、この国を良くしたいという気概など持ってない。地位と権力にしか興味の無い輩なぞ、何の役にも立たん」
 なかなかに辛辣しんらつな言い方をする父。かなり苛立ちが溜まっているみたいだ。
「では、三職の件も……」
「受ける気は無い」
 父はキッパリと言い切る。手にした盃を傾けると、さらに言葉を継ぐ。
「俺がここまで版図を拡げたのは俺自身の力で切り取ったもので、別に朝廷の後ろ盾や官位官職の威光があったからではない。それに、俺は武家や公家の頂点に立ちたい訳ではなく、外的からこの国を守る為に天下を統一したいだけだ。今更官職に就いたところで、何になるというのか」
 やはり、か。信忠は父の回答に驚きを感じなかった。
 元亀年間に八方塞がりとなった際には、朝廷や帝に働きかけて和睦のちょくを出してもらい危地を脱した恩はある。しかし、逆にあと一押しで倒せるという所で信長に和睦の勅が出された事もあり、足枷にもなっていた。だからこそ官職に就く意義を見出せなくなった信長は天正六年に全ての官位官職を辞したのだ。それから四年の歳月が経ったが、弊害を感じた事はない。即ち、世間が信長を天下人と捉えているのは、官位官職による権威よりも圧倒する軍事力や経済力・影響力にるところが大きかった。
 それに、これは信忠の憶測になるが……父は“偉くなりたい”とか“人の上に立ちたい”という欲をそんなに持ってないように思う。日ノ本を統一して自分の考えを行き渡らせたいとは考えているが、それを実行する権限さえあればいいのだ。だからこそ権威付けとなる官位官職に興味を示さない、と考えれば納得がいく。
 帝や朝廷の後ろ盾を頼りとせず、今後も天下布武事業に邁進していくつもりだろう。しかし、そこまで考えて、信忠はある疑問にぶつかる。
「……では、帝や朝廷は如何いかがするおつもりですか?」
 神武天皇から始まり今上天皇に当たる正親町天皇まで百六代・約二千年に渡り脈々と繋いできた系譜がある。帝こそ日ノ本で頂点に立つ御方、力こそ持たないがこの国の象徴だ。父は、帝をどう扱うのだろうか。“役に立たない”から潰すとでも? そうなった場合、織田家は『帝を排そうと企む不忠者』として“朝敵”の汚名を着せられることとなる。朝敵にされた者は一部を除いて悲しい末路を辿っている。帝に刃を向けるのは神に刃を向けるに等しい行為だ。……父は、そんな危ない橋を渡ろうというのか?
 信忠だけでなく、隣に座る利治の顔も強張る。しかし、険しい表情の二人とは対照的に、父は穏やかな声で答える。
「心配するな。帝をしいする気はない。だが、京は役に立たない癖にあれこれ言う取り巻きが多いからな。安土へ移徙わたまし願う」
 父も朝敵にされる悪影響や弊害は考慮しているみたいで、腹案を明かしてくれた。
 帝がまつりごとを動かしていた時代もあったが、公家や武家にその役割を奪われてからは象徴的位置づけとして君臨してきた。端的に言えば、帝や皇室自体は無害な存在だ。厄介なのは帝の権威を利用と色々吹き込む公家達。様々な繋がりや自らの思惑が絡み、帝を利用して伸し上がろうとしている。だからこそ、そうした害悪を排除すべく京から安土へ移そうと父は言うのだ。
「されど、そんな簡単には……」
「こうなる事を予め想定し、城の御殿には帝がお住まいになられても問題ない造りにしてある。あとは帝の英断だけだ」
 太田牛一が記した『信長公記』の中に『(安土城で)“御幸みゆきの間”“皇居の間”を拝見した』という記述がある。他にも礎石そせきの間隔が通常と比べて非常に長かったり、調査で作成された復元図が帝の生活する建物である“清涼殿せいりょうでん”に極めて似ていたりと、帝の移徙を想定していた可能性が感じられる要素が幾つもあった。
「明日、参内する」
 盃のふちを嘗めながら何気ない風に告げる父。しかし、虚を衝かれた信忠はビックリした。
「……出来るのでしょうか」
 俄かには信じられないという表情を浮かべる信忠。
 帝に拝謁する“昇殿しょうでん”は公卿か勅許を受けた特定の蔵人くろうど(天皇の秘書的役割を担う人)にしか原則許されていなかった。その権利を有する者は“殿上人でんじょうびと”と呼ばれ特別視されるくらいで、無位無官となっている信長に前例踏襲主義の強い朝廷や宮中関係者が認めるとは思えなかった。
「俺は前右府さきのうふだぞ。それに過去前例が無ければ俺が覆してやる」
 出来る・出来ないではなく、認めさせる。父は自信満々に言い切った。
 官位官職を返上したものの、世間から天下人と認められる程の影響力を持っている信長を朝廷や皇室も捨て置けなかった。既成概念に囚われず時代にそぐわないと判断すれば容赦なく壊してきた信長を何とか懐柔せんと、“関白・太政大臣・征夷大将軍”の三職で好きなものを授けるよう提示したくらいだ。それ程までの人物が「参内したい」と言えば“前例にない”と断る訳にもいかないだろう。
「暦にしてもそうだ。実情に合っておらず民は困っているというのに、役人共は面子めんつだの前例だのくだらない理由で変えようとしない。ただ、この国に生きる全ての人々の安寧あんねいを願っておられる帝が腐った役人や公家達と同じ穴のむじなとも思えん。こちらの想いを懇々こんこんとお伝え申し上げれば、きっと分かって下さる。……俺はそう信じている」
「……だからこそ、京から安土へ移徙願う、と」
 信忠の言葉に、父は黙って頷く。理由を聞いて、当初は困惑した信忠も腑に落ちた。
 延暦十三年(七九四年)に遷都せんと以降、平清盛による福原へ遷都した期間を除いた約八百年に渡り、京は都であり続けた。八百年の月日を積み重ねてきた京の地は、しがらみや利権で雁字搦めになっていた。歴史の重みと言えば聞こえはいいが、変革を嫌い拒絶してきた裏返しとも言える。信長が帝に「変えましょう!」と迫っても、帝の周りの者達が「なりませぬ!」と訴えれば、帝も人数の多い方に考えを傾けざるを得ない。そうした余計な声を排除し、利害の要素をはぶいてありのままの実情に触れられたら、きっと帝も信長の考えに賛同してくれる。……そう、父は言うのだ。
「壊すのは俺の役割だ。この国が良い方向に進むのなら何だってやってやる。それに……俺の次には頼もしい奴が控えているしな」
 そう言い、信忠に笑みを見せる父。先日信忠が出した例えを気に入っている様子だった。
 盃に残っていた酒を一気に呷った父は、決意を込めた瞳で宣言した。
「明日は、この国の未来を占う大事な日となろう。古い価値観や慣習から脱却し、時代に合ったものに生まれ変わらせる。移徙はその第一歩ぞ」
 力強く語る父は、まるで御家存亡を賭けた戦に臨むような凄まじい雰囲気を発していた。信忠はその圧に気圧けおされつつも、この父なら絶対にやり遂げてくれると確信していた。
 やはり、父は凄い人だ。信忠は改めてその偉大さを噛み締めていた。

 夜も更けてきたので本能寺を辞した信忠は、宿所としている妙覚寺に帰ってきた。
「お帰りなさいませ」
 自室に戻った信忠を、松姫が迎えてくれた。
「まだ起きていらしたのですね」
「はい。少しでも長くお話がしたかったので……」
 少しはにかみながら明かしてくれた松姫。可愛い。愛くるしい。
 信忠は松姫と向かい合わせになるよう座る。それを待って、松姫の方から話し掛けてきた。
「……お忙しそうですね。お疲れではありませんか?」
「お気遣いありがとうございます。今日は父が京に着いたので、顔を出してきました」
 流石に父と話した内容については言えないので、簡潔に伝える。すると、松姫の方から訊ねてきた。
「勘九郎様から見て、父君はどのような御方ですか?」
 何気なく問われ、すぐに言葉が出てこない信忠。そういえば、信忠へ父について聞いてくる人は居なかった。父は良くも悪くも有名人で、その名を知らない人が居ないくらいだ。
 それでも訊ねてきたのは、世間一般に広まっている“信長評”ではなく息子から見て“どういう人物か”を知りたいのだろう。ちまたに出回っている情報は真偽が混在しており、実像とかけ離れているものも事実のように語られていた。
「さて……どうお答えしたらいいものか……」
 答えようとしたものの、言葉が上手く出てこない。そもそも、幼い頃から父と接する機会自体が限られていたのだので、信忠も正確には掴みかねていた。
 少し考えて、真っ先に浮かんだ印象を信忠はそのまま口にする。
「……猜疑心さいぎしんが強くて、癇癪かんしゃく持ちで、自分の考えを人に説明するのが下手な上に面倒くさがりで、他人に気を利かせることを求めるのに独断が過ぎれば怒って」
 連々つらつらと並べる信忠に、松姫はクスッと笑った。
「まるで、手の掛かるわらべみたいですね」
 そう言われて、言い得て妙だなと感心した。童、確かにその通りだ。
 しかし、このままでは松姫に“取り扱いが難しい人”と受け取られてしまう。信忠が補足しようと思った矢先、松姫が先に口を開いた。
「どの家も一緒みたいで、ホッとしました」
 思いがけない言葉に、信忠はキョトンとする。
「……松姫様の父君が、一緒?」
「えぇ。疑い深くて、家臣達には“一を聞いて十を知る”ことを求めるのに『先走るな!』と叱ったり、自分の思い通りにならないと腹を立てたり……」
 信忠が思う信玄像は“威厳に満ち溢れていて、智謀ちぼうが泉の如く湧き出て、どんな状況にもどっしりと構える”という感じだったが……実の娘から出た言葉は真逆に近く、俄かには信じられなかった。
「私も、勘九郎様の父君は“自らを神と称している”とか“残虐な事を好む”と聞いていたので、思ったより人間味のある方だなと思いました。……本当に、他人様の言う事は当てになりませんね」
「ですね」
 二人で顔を見合わせると、共に笑った。世に流布るふしている人物評とは誇大だったり誤りだったりするのかも知れない。
「……機会があれば、勘九郎様の父君にお会いしたいです」
「是非、会って下さい。神でも魔王でもない、只の人と分かりますよ」
 松姫の言葉に、信忠は気さくに応じた。父に松姫を紹介したら、どんな顔をするのかな。その時のことを想像すると、ワクワクする自分が居て信忠はとても楽しみだった。
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