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六 : 大志 - (4) 一つの終わり

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 信濃へ侵攻してきた織田勢に対して高遠城を軸に防衛せんと考えていた勝頼だったが、後詰に入るつもりだった高遠城が僅か一日で落とされたのに加え、駿河を任せていた重臣・穴山梅雪が徳川方に降ったと知らされ、本国甲斐が危ういと捉えた勝頼は諏訪上原城から新府城への撤退を決定。さらに、相次ぐ家臣の離反に持ち堪えられないと判断した勝頼は、小山田信茂の勧めもあり新府城を捨てて信茂の岩殿いわど城へ落ち延びる事を決めた。なお、この時に真田昌幸はまだ織田方の手が伸びていない上野国岩櫃いわびつ城へ勝頼を迎え入れようとしたが、昌幸が譜代でない点や遠方である点などから選択しなかった。
 天正十年三月五日。天下人・信長が武田攻めの為に安土城から出陣。翌六日には美濃国揖斐いび川に達し、そこで信忠から盛信の首が届いたので首実験を行い、長良川に晒した。信長は明智光秀や長岡藤孝、蒲生教秀など近江や畿内の諸将を率いているが、信忠率いる先遣隊がほぼ露払いを済ませていたのもあり、道中は平穏そのものだった。
 高遠城を落とした信忠率いる織田勢は、甲斐へ向け進軍。唯一の抵抗を見せた仁科盛信の顛末を知っている武田方の国衆や家臣達は攻め滅ぼされるのを恐れて降伏する者が続出した。三月七日、信忠は甲府に入り、捕らえていた武田家一門衆の武田信友(信玄の弟)・信廉などを処刑した。
 一方、先月は一万の兵を率いていた勝頼だったが、旗色が悪いと悟った足軽の逃亡が後を絶たず、岩殿城へ向かう頃には千にも満たない数まで激減していた。一説では二百しか残っていなかったとされる。こうした状況に小山田信茂は“自らの手勢で勝てる”と判断、三月七日にそれまでの態度から一転して領内との境を封鎖して勝頼一行を締め出したのだ。頼る筈だった家臣の裏切りに、勝頼は已む無く天目山てんもくさんを目指すこととした。

 天正十年三月十日。穴山梅雪と共に徳川家康が甲府に入った。翌十一日、信忠の陣を家康が訪れたのだが……。
「織田中将様。此度の戦勝、真におめでとうございます」
 まるで臣下の者のように下座へ座り、深々と頭を下げる家康。その後ろに控える梅雪もそれに倣う。この明白あからさまな姿勢に、信忠はただただ困惑した。
 家康は織田家と同盟を結ぶ相手、本来であればどちらが上か下かは存在せず対等な関係だ。そして、家康は徳川家の盟主であるのに対し、信忠は盟主の嫡男。へりくだるべきは年若の信忠の方だ。父は天正三年の折もそうだったが、どれだけ織田家が勢力を伸ばしても徳川家や家康に最大限の敬意をもって応対してきた。お互いを“上総介殿”“三河殿”と呼び合う間柄で、天下人になった今でも変わらない。
 今日は降将の梅雪を伴っているから、こうした必要以上の対応をしているのか。そうとしか信忠は考えられなかった。あの入道さえ居なければ今すぐにでも上座から下りて家康と向かい合って話したいのに……と内心歯噛みする。
「中将様におかれましては、某の降伏を許して頂けただけでなく、本領も安堵して下さるとのこと。真に、感謝しかありません」
 信忠の気持ちとは裏腹に、殊勝な態度で低くこうべを垂れる梅雪。大仰な所作や言葉遣いに、心の内で舌打ちする。
 穴山梅雪。天文十年生まれで当年四十二。武田家重臣の穴山家に生まれた梅雪は“信君のぶただ”の名で信玄存命時から一門衆として武田家を支え、信玄による駿河侵攻以降は駿河方面を担当した。設楽原の戦いにも参陣しているが、多くの武将が討死している中で他の将達より早く離脱したのもあり、殆ど被害を出さずに帰還している。天正八年、信君は出家し“梅雪斎”と号した。
 梅雪に信忠が腹を立てているのは、他の国衆や家臣達とは異なり離反に打算が見え隠れしている点だ。事前に内応の誘いを受けた梅雪は武田家に出していた人質を秘かに脱出させ、後顧の憂いなく徳川方に降っている。しかも、自らが武田宗家に最も近い一門衆の地位と駿河方面から甲斐へ侵攻する足懸かりになる地理を最大限に利用し、本領安堵を約束させている。命を助けてもらっただけでも泣いて喜ぶ者が多い中、地位も所領も傷つく不安がないのはしゃくさわる。
朝敵ちょうてき・諏訪四郎を討ち果たすべく、この梅雪尖兵せんぺいとなり働く所存にございます!」
 つい先日まで主君だった勝頼を“四郎”呼ばわりする変わり身の早さに、信忠は吐き気がした。信用ならない、信忠の中でその評価が深く刻み込まれた。
 どうやって梅雪を下がらせようか思案している信忠へ、取次の者が慌てた様子で会見の場に入ってきた。
「お話し中、失礼致します。滝川“左近将監”様より火急の報せが入りました」
「うむ。通せ」
 一益は他の将達と共に勝頼の行方を捜索させていた。何か具体的な情報を掴んだのだろう。
 信忠は二人に非礼を詫びると、家康も梅雪も「お気になさらず」と鷹揚に応えた。程なくして、鎧姿の武者が現れる。
「申し上げます。本日の正刻(午前十時)、天目山付近に潜伏していた武田勝頼一行を発見。交戦の末、うまの初刻(午前十一時)に討ち取りました!」
 力強い声でハキハキと報告する武者。その声には誇らしさと喜びが込められていた。
 頼ろうとした信茂の裏切りで行き場を失った勝頼一行は、天目山を目指した。天目山は応永おうえい二十四年(一四一七年)二月六日に当時の武田家当主・武田信満のぶみつさきの関東管領・上杉禅秀ぜんしゅうの起こした反乱に巻き込まれる形で追い詰められた末に自刃した地であり、この時既に最悪の事態を想定していたのかも知れない。
 しかし、天目山まであと少しの所にある田野たのの地で、滝川一益の部隊に発見される。勝頼に従う者は七十人程度に激減しており、おまけに北条夫人や嫡男・武王丸など非戦闘員も多く抱え、状況は圧倒的に不利だった。それでも土屋昌恒まさつねを始めとする勇士が敵中に斬り込み、勝頼に名門武田家当主に相応しい最期を迎える刻を稼ごうとした。特に、昌恒は隘路あいろで片手に藤蔓ふじつるを掴みながら反対の片手で戦い多くの織田兵を倒した事から“片手千人斬り”の異名が付いた。この働きは敵方の記録である『信長公記』『三河物語』にも記載され称賛されている。
 完全に追い詰められた勝頼は、最後にどうしてもやらねばならない事を実行に移した。信玄の遺言にもあった、武田家の正当な跡取り・武王丸の元服である。武王丸は“信勝のぶかつ”と名を改め、武田家の二十一代当主となった。それを見届けた後、北条夫人や信勝を刺した後に勝頼は自刃。勝頼、享年三十七。信勝、享年十六。北条夫人、享年十九。他に長坂光堅を始めとした家臣が殉死または戦死した。ここに、清和源氏の流れを汲む名門武田家は滅亡の時を迎えた。
「……分かった。大儀であった」
 絞り出すような声で信忠が応えると、武者は一礼して下がっていった。
 武田家滅亡の報に接し、信忠は力が抜けた。
(終わった……呆気ないくらいに、あっさりと)
 もっと感情が爆発するくらいに喜びが込み上げてくるとばかり思っていたが、全然違った。膨らんだ紙風船がしぼむような、そんな感覚に近い。
 信忠にとって、武田家は何かと縁のある相手だった。永禄十年には松姫との婚約が決まって喜び、元亀三年に岩村城へ武田勢が押し寄せてきた時には戦慄し、天正三年の岩村城攻めでは“自分に出来るのか?”と不安を抱いた。一言で表せない、複雑な気持ちが入り混じっていた。
 正直、もっと困難なものになると覚悟していた。設楽原で多くの将兵を失ったが、依然として信玄の薫陶を受けた将兵が残っている。勝頼も織田方の侵攻を想定して南信濃に一門衆や頼りとする家臣を配置し、甲斐へ絶対に入れない布陣を敷いた。衰えたとは言え高遠城の後詰に一万の兵をかき集めるだけの底力を武田家は持っていた。設楽原の時のように、互いの軍勢が正面からぶつかる無二の合戦があるかもと心のどこかで思っていた。
 しかし……蓋を開けてみれば、信忠が兵を進めると雪崩を打ったかのように降伏や逃亡が相次いだ。誰も武田家に忠義を尽くそうとしない、そればかりか見捨てたのは鉄の結束があると信じていた信忠には意外だった。木曽義昌の離反が侵攻の決め手と捉えていたが、もっと前から武田家の内部はバラバラになりかけていたのかも知れない。そうでなければ、国衆だけでなく勝頼に近い信廉や梅雪があっさりと引く筈がない。信忠による侵攻はあくまでキッカケで、落ち目の武田家から一日も早く見切りをつけたかったのが本音なのだろう。
 一時は織田家を御家存亡の危機にまで追い詰めた武田家を倒しても、信忠に達成感や高揚感は一切無かった。ただ一つ思うのは、“こうなりたくない”と戒める気持ちだけだった。
 ふと我に返ると、家康と梅雪の姿はなかった。信忠の心中を察して静かに辞した、と小姓から聞かされた。一つ大きな息を吐くと、信忠はゆっくりと腰を上げた。
 これで全てが終わった訳ではない。武田家の残党狩りにまだ降伏していない旧武田家臣への対応、それにこれから向かって来る父率いる本軍の受け入れ準備もある。信忠は頭を切り替えて、次へ向かおうとしていた。
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