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六 : 大志 - (3) 高遠城攻防戦

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 天正十年三月二日。織田勢は日の出と共に攻撃を開始した。
 大手側には河尻秀隆を大将に、森長可・団忠正・毛利長秀など総勢二万。搦手からめて側は信忠を大将に旗本勢一万。総大将である信忠が「一日で落とす」と宣言したのもあり、将兵達は競うように攻め立てた。
 しかし……開戦から半刻、一刻と経過するが、一番乗りを知らせる使者は一向に現れない。それどころか、入ってくるのは苦戦を知らせるものばかりだ。
 大手側を攻める家臣達も、搦手側を攻める織田家の将兵達も、手を抜いている訳ではない。むしろ、ここまで戦闘の機会に恵まれず武功に飢えていた諸将達には、やっと巡って来た場面だ。信忠の檄もあって“絶対にやらなければならない”と気合が入っていた。諸将も旗本達も皆一斉に攻め懸かったが、それ以上に武田方が上手うわてだった。
 決死の覚悟を固めていた武田勢は予め来襲を想定して矢弾を大量に蓄えていたらしく、惜し気もなく矢弾の雨を浴びせる。敵の出足が鈍ったと見れば門扉もんぴを開いて手勢が突撃し、織田勢をさらにかき乱す。さらに、兵だけでなく非戦闘員である女子おなご達も戦に加わっており、中でも諏訪“勝左衛門しょうざえもんのじょう頼辰よりときの妻・はなは薙刀なぎなたを手に七人も倒したと『信長公記』などに記されている。
 なかなか思うように進まないばかりか、味方の損害は嵩む一方。戦況は膠着、いや武田方に分がある。
(……これが松姫様が慕っていた兄の実力か)
 守将の名を耳にした時、信忠はどこか覚えがあるように感じた。よくよく考えた末に、松姫から送られてきた手紙の中に記されていたのを思い出した。奇しくも生年は一緒という縁もあり、何となく親近感を覚えたものだ。それが今では、敵味方に分かれて争っている。……もし会っていれば意気投合したかも知れないだけに、残念である。
 こちらが兵力で十倍上回りながらも苦戦を強いられているのは、指揮を執る大将の経験の差か。勝頼による東美濃侵攻から上野侵攻などに従軍し、盛信は武功を挙げてきている。対する信忠も幾度か戦に臨んでいるものの、その殆どが実践経験豊富な臣の支えがあり安全が担保されている状況が多かった。踏んだ場数も内容も圧倒的に違い過ぎるのだ。“勇将の下に弱兵なし”、正にそれを表している。
 ギリッと奥歯を噛む信忠。
(このままでは、まずい)
 三万の軍勢が火の出るような攻めを見せるも、武田方の築城術や敵の将兵の奮闘もあり戦況はかんばしくない。もし仮に高遠城の攻略に時間を要するようならば、ここまでの良い流れが変わる恐れがある。地力のある武田家が相手だけに、足止めは許されない。この後には天下人の父と六万の軍勢が控えているが、それに頼っていては独り立ちなど永遠に叶わない。織田家嫡男として、父の力を借りなければ何も出来ないと思われるのは是が非でも避けたい。
 ここは、多少危ない橋を渡ってでも、攻めあぐねる戦況を変える必要がある。
 本陣で床几に座っていた信忠が、不意に立ち上がる。皆の視線が集中するのも構わず、信忠は歩き出す。
「殿、どちらへ?」
 伝兵衛が声を掛けるが、返事はない。信忠は険しい顔つきのまま、前線の方へズンズンと歩いて行く、
 そして……最前線の手前まで来て、歩みを止めた。前触れもなく総大将が登場した事に、将だけでなく末端の兵達も驚きの目を向けてくる。
 鉄砲の音、喊声かんせい剣戟けんげきの音。硝煙の臭い、血の臭い。目・鼻・耳で、戦場に立っている事を肌で感じる信忠。“戦は生き物だ”と例える者は多いが、正しくその通りだ。刻一刻と変化している。
「殿、ここは危のうございます。どうかお下がりを……」
 本陣から信忠の後を追ってきた伝兵衛が促す。鉄砲も矢も届かない距離にはあるが、流れ弾に当たりでもしたら洒落しゃれにならない。敵に総大将が前線に出てきている事が知られれば、血眼ちまなこになって殺到してくるだろう。他の近習達も信忠の身に万一の事があったらと思い、不安気な表情を浮かべている。
 視線の先で命を懸けた戦いが繰り広げられている現場から目を離さず、信忠は「伝兵衛」と呼び掛ける。
「上様は、尾張にあった頃や美濃へ攻め入る時に陣頭へ立たれたと聞いている」
「……はい。新左様から、そう伺っております」
 唐突に言われ、訳が分からないまま正直に答える伝兵衛。
 弾正忠家同士の争いとなった弘治二年八月の稲生の戦いでは、自軍が数で劣るのもあり信長自ら槍を握って戦い敵方の林美作守を討ち取っているし、美濃侵攻の折にも先陣を切ったとされる。近年では天正四年五月の天王寺の戦いで本願寺勢に囲まれ絶体絶命の窮地に立たされている光秀達を救うべく信長が陣頭指揮を執っている。
「かの浅井“備前守”(長政)も、野村合戦の折には自ら先頭に立って突撃したと聞く」
 元亀元年六月の姉川の戦いでは浅井方第一陣の磯野員昌かずまさ勢が織田勢の奥深くまで斬り込んだとされるが、その磯野勢の戦闘には浅井方の総大将である長政と旗本が居た、という話がある。数で圧倒的に劣る浅井勢が奮闘したのも、偉丈夫いじょうふ知勇兼備ちゆうけんびの長政が自ら武器を手に取り突貫したと考えれば納得がいく。
 何を、言いたいのか。伝兵衛を始めとした将兵達が固唾を呑んで見守る。
「武家に生きる者にとって、この先を左右する一世一代の戦に巡り合う事がある。そうなった時、どんな高位こういにあっても、帷幕いばくの内に留まらず将兵達に混じって戦場いくさばに身を投じるとか」
 滔々とうとうと語る信忠。長い付き合いの伝兵衛は主君の意図を察知した途端、表情が変わる。
「殿。まさか――」
「命の賭け時は、今だ」
 伝兵衛の声をかき消すように信忠が告げると、腰に下げた刀をさやから抜き放つ。
 右手に持った刀を天に向け、信忠は目一杯に息を吸い込んでから――。
「私に続けー!!」
 ありったけの声で叫ぶと、戦場に向けて走り出した。成り行きを見守っていた将兵達も総大将の突撃で慌ててその後を追う。
「いかん!! 殿を守れ!! 我等も行くぞ!!」
 一瞬遅れた伝兵衛は他の朋輩ほうばいに呼び掛けると、自らも槍を取って信忠を追いかける。
 血が昂るとは、こういう感じなのか。自分が自分でないみたいだ。沸々ふつふつき上がる熱い何かに突き動かされるように、ひたすら駆ける信忠。鉄砲の弾や矢が、近くを通過していく。それでも“怖い”とは思わなかった。
 他の将兵が塀や柵に取りつき、続々と城の中へ入っていく。城方も懸命に食い止めようとするが、織田方の人数と勢いに押されて侵入を許してしまう。敷地内に大勢の織田兵の侵入を許したことで、同士討ちを恐れて弓や鉄砲などの飛び道具が使えなくなってしまった。白兵戦へ移行したが、人数で圧倒する織田勢が次々と武田の兵を倒していく。そうこうしている間に搦手門が開かれ、城の外に居た織田勢も雪崩れ込んできた。
 そこまで見届け、足を止める信忠。自分の役目はもう済んだ。抜いた刀を鞘に収める。
「……殿」
 横から声が掛けられる。肩で息をしている伝兵衛だ。
 感情の昂りが落ち着いてくるのと共に、信忠の心の内にちょっとした達成感と誇らしい気持ちが湧いてきた。もう少しこの心地に浸りたい気分だが、それは許されないみたいだ。
 他の将兵達は功名を挙げるべく、城の奥へ突き進んでいく。別に手柄を求めてない信忠は門から入ってすぐのところで皆が突撃していく様を眺めていた。
「お怪我は?」
「ない。乱戦にありながら傷一つ負わなかったのは、これのお蔭かな?」
 微笑みながら答える信忠。直後、懐を探って何かを取り出す。手にしたのは……色せた紺色の御守。十余年前、松姫から巻貝の御礼に贈られた諏訪大社から取り寄せた品だ。流石は由緒ある神社の御守だ、霊験あらたかといったところか。
 大きなうねりに身を任せ、勢いのまま城内まで攻め込んだ信忠。矢や鉛玉は飛んできただろうが、不幸中の幸いか掠りもしていない。敵と刃を交える事もなかった。……本当に、運が良かった。そうとしか言えない。
「……まったく、何という無茶を。上様の御耳に知れたら一大事ですぞ」
「仕方あるまい。局面を変えるには、あぁするしかなかった」
 息が整ってきた伝兵衛の諫言に、信忠はそう釈明した。
 あのままでは、今日中に落とすという目標が達成出来るか分からなかった。勝頼も御家存亡の危機に瀕しており、いつ後詰が現れてもおかしくない。そうなれば織田勢は前後を挟まれ、形勢が逆転する恐れがあった。流れを変えるには、自らの命を危機に晒してでも突撃するしか方法がなかった。
 負ければ全てを失う恐れがあった賭けは、勝った。総大将自ら攻め口を開いた事で潮目が変わった。搦手を突破した織田勢は数で圧倒的に上回っている。城内への侵入を許した事で武田方も動揺するだろうし、大手側も負けじと圧を強めるだろう。じきに、城は落ちる。
「……このような真似、金輪際こんりんざいなさらないで下さい」
「分かっている。もう、やらない」
 伝兵衛が釘を刺すと、信忠もあっさりと約束した。
 今回のような一かばちかの運任せの戦いは、二回も三回も通用するとは信忠も思っていない。今回五体無事に帰ってこれただけでも感謝しなければならない。もし流れ弾に当たって討死しようものなら“功を焦って先陣を切った結果、運悪く命を落とした愚か者”と後世に汚名を残したことだろう。
 城の奥では、今も喊声や剣戟の音が聞こえてくる。私の役割は終わった。あとは吉報を待つだけだ。
「……戻るか」
「はっ」
 信忠は体を反転して城の外へと歩き出す。初めて陣頭に立ち、少しだけ成長したように信忠は感じた。
 搦手側で信忠が一世一代の大勝負に出たのと頃合を同じくして、大手側でも森長可の家臣・各務元正などが一番乗りを果たすなどして突破。そのままの勢いで一気に攻め立てた。十倍の相手に善戦していた武田勢も城内への侵入を許してからは持ちこたえる事は難しく、追い詰められた盛信は自刃。享年二十六。盛信の遺骸いがいは領民達の手で手厚く埋葬され、現代の長野県歌『信濃の国』にもその名が入るなど、如何に慕われていたかが分かるかと思う。
 織田勢も織田信家のぶいえ(織田伊勢守家、信忠の弾正忠家とは別家)が討死するなど少なくない死傷者を出したが、宣言通りに一日で高遠城を落とす事が出来た。高遠城を攻略した織田勢は、甲信掌握に向けて大きく前進した。信忠にとっても、武将として殻を破る記憶に残る一戦となった。
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