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六 : 大志 - (2) 武田攻め開始

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 年が明けて、甲斐の武田家中でも“木曽義昌、離反の動きあり”の噂が囁かれるようになった。当初勝頼は異母妹の真理姫を娶った義昌が裏切る筈がないと取り合わなかったが、義昌の弟・上松うえまつ(“あげまつ”とも)義豊よしとよを織田家へ人質に出したなど具体性のある情報が入るようになると態度を変えた。事の真偽を確かめるべく木曽谷へ詰問の使者を送ったが、義昌は理由をつけて会おうとはしなかった。これを受け、勝頼は義昌離反と断じ、木曽家から預かっている人質の処刑と追討の兵を差し向ける事を決めた。
 天正十年一月下旬、義昌の母(七十歳)・側室・長女岩姫(十七歳)・嫡男千太郎(十三歳)が新府城にて磔刑たっけい。一月二十八日、勝頼の従弟いとこで一門衆の武田信豊のぶとよを大将とする約五千の兵が府中から出陣した。また、勝頼も一万の兵を率いて諏訪上原城に後詰で入っている。
 一方、織田家も黙っていない。木曽家から救援を求めてきたので、二月三日に森長可・だん忠正ただまさを大将とする先遣隊を派遣。団忠正は信長の馬廻出身で、天正八年頃から信忠付の家臣となっている。出自や経歴を示す史料に乏しいが、恐らくは長可と似たような年齢と思われる。また、これとは別に河尻秀隆の軍勢も岩村城から出陣した。
 天正十年二月六日、森・団勢は木曾口から、河尻勢は伊那口から、それぞれ信濃へ侵攻。伊那口では地元国衆の下条しもじょう信氏のぶうじが難所を押さえて徹底抗戦の構えを見せたが、信氏の弟・氏長うじながや家臣の造反で頓挫。武田方の防衛戦略は最初から大きな狂いが生じた。また、同日には義昌率いる木曾勢五百騎が信豊率いる武田勢二千騎を鳥居峠で撃退している。
 二月十二日。伊那口を確保したのを受け、信忠は尾張・美濃衆を率いて岐阜城から出陣。軍監の滝川一益も伊勢長島城を発った。十四日には信濃国境に近い岩村城へ両名は入った。そして――同日、浅間山が噴火。『多聞院日記』やフロイスの『日本史』にも記載がある程で、信濃や甲斐の民達は武田家に悪い未来が訪れる天の啓示と受け止めた。この天災に衝撃を特に受けたのは伊那方面の小笠原信嶺のぶみねで、浅間山の噴火で兵が逃げ出してしまったが為に組織的な対処が難しくなり、降伏している。
 二月十六日。十日前の戦いで負傷した武田信豊に代わり大将となった今福いまふく昌和まさかずが三千騎を率いて再び鳥居砦へ進軍。義昌は前回に引き続き武田勢を迎え撃ったが、戦の途中で梶原かじわら景久かげひさ(団忠正の父または親族と言われているが、関係性は不明)など織田勢が加勢したのもあり、再び勝利を収めた。二度の敗戦で武田勢の士気は著しく低下し、木曽家討伐どころか織田勢に押される展開になっていく。
 通行の安全が確保された信忠は、十七日に平谷ひらや、翌十八日には飯田まで進軍。信忠率いる織田勢の主力部隊がすぐ近くまで迫っていると知った飯田城主の保科ほしな正直まさなおは高遠城へ逃亡。勝頼の叔父で大島城主の武田信廉のぶかども甲斐へ逃れた。これにより、僅か半月足らずで伊那・筑摩ちくま郡の大部分を掌握した。
 また、二月十八日には徳川家康が兵を率いては浜松城から出陣。その日は掛川城に入り、二十日には依田よだ信蕃のぶしげが守る遠江・田中城を包囲。翌二十一日には駿府城まで進んだ。田中城は頑強に抵抗しているが、遠江・駿河方面でも国衆の離反が相次いだ。駿河を任されている穴山あなやま梅雪ばいせつこそ徳川家の進軍を阻んでくれる……と武田家中は期待したが、それも怪しくなってきた。母は信玄の姉、妻は信玄の次女と血筋で言えば武田宗家に最も近い梅雪だが、勝頼の側近である長坂光堅や跡部勝資の専横に不満を抱いていた。勝頼が当主となった武田家とは距離を置いていた梅雪は二月二十五日に甲府で預けられていた人質を秘かに逃れさせると、二月末には家康の調略に応じる形で降伏してしまった。落ち目の武田家より勢いのある織田・徳川家を選んだ恰好で、武田家中にさらなる動揺をもたらした。
 それから、事前に織田家から武田侵攻の通告をされていなかった北条家も、やや遅れて動き出した。相模から国境を越えて駿河に兵を出したり、上野国内の武田領に侵攻したりと、織田方と協調して武田家と対峙する姿勢を見せた。
 徳川・北条家が動き出す中、信忠は次なる敵に狙いを定めた。勝頼の異母弟いぼていで松姫の実の兄・仁科盛信が守る高遠城だ。

 天正十年三月一日。高遠城を包囲した織田勢は、守将の仁科盛信へ地元の僧侶を使者に送った。僧侶に手紙と黄金を持たせ、速やかに開城すれば相応の領地を約束する旨も伝えさせた。
 これに対し、盛信の反応は――使者となった僧侶の耳と鼻を削いで送り返してきたのだ。僧侶はどちらの陣営にも関与しない中立の立場で、仏門に入る者を傷つける行為は人道上許されない事である。そうした事を敢えておこなったのは、盛信に降伏の意思が一切無いのを示した形だった。
 盛信は先々を見据えて伊那郡の要となる高遠城に配置された際、名を“信盛”と改めて織田や徳川に屈しない事を固く誓ったとされる。設楽原の大敗後も上杉領との国境に近い地で警護に就いており、正に武田家の功臣と言えた。
 降伏を促す使者を突っ撥ねてきた敵方の反応を受け、織田勢は軍議を開いた。
「城には三千の兵が籠もっております。物見の調べでは守りが堅く攻め入るのは容易ではないとのこと」
 陣卓子の上に置かれた高遠城の絵図を指し棒で示しながら説明する秀隆。上座には大将の信忠、他に森長可や団忠正・毛利長秀などの姿がある。ちなみに、信忠を長らく支えてきた副将の斎藤利治は今回の武田攻めに加わっていない。ここ数年の越中遠征や有岡城攻めなど連戦が続いており、疲労を考慮しての差配と見られる。
「我が方は三万! 一気に攻め潰しましょうぞ!」
 威勢の良い発言をするのは長可。信濃へ入って以来、まともに戦えていなかったのでやる気がみなぎっている。武功を挙げたい忠正も同意見らしく、力強く頷いている。
「いえ。堅城で敵の士気も高いことから力攻めすれば相当な犠牲が出ましょう。ここは損失を抑える為にも兵糧攻めにすべきかと」
 慎重論を口にしたのは長秀。天文十年生まれで当年四十二。赤母衣衆にも選ばれた武辺者で、各地を転戦。天正元年十二月に松永久秀から多聞山城を引き渡された際には佐久間信盛・福富秀勝と共に受け取り役を務めている。
 長秀が慎重論を主張するのも理由がある。高遠城は武田晴信が中信濃侵攻の足懸かりとして重要視し、天文十六年に晴信の軍師である山本“勘助”晴幸の縄張りで大規模な改修が行われていた。永禄五年には諏訪家へ入った勝頼が城主となり、その勝頼が義信廃嫡で後継者となってからは信玄の弟・信廉、さらに昨年には盛信と、一門衆が城を任されていた。城は堅牢な造りとなっており、迂闊に手を出せば痛い目を見るのは明白だった。
 長可の強行論にも長秀の慎重論にも、双方分がある。互いの意見が出尽くした頃合で、大将の信忠の判断を仰ぐ形となった。
 皆の視線を一身に浴びる中、信忠が下した決断は……。
「――ここは、我等の力の差を見せつけるべきだと思う」
 はっきりとした口調で信忠が自らの考えを述べると、誰からも異論は出なかった。
 手堅さを求めるならば、長秀が提案した兵糧攻め一択だ。大軍を前に逃げ出すような腰抜け共とは違い、高遠城を守るのは盛信に譜代家臣の小山田おやまだ昌成まさゆき大学助だいがくのすけ兄弟が副将に入り、将兵の士気も極めて高い。真正面から攻めれば、数で圧倒する織田勢でも死傷者が多数出る事が予想される。
 しかし、敢えて損害覚悟で強行するのは、ここまで順調に進んできた勢いを殺したくない思惑があった。高遠城を短期間で攻め落とせば、織田方に降るべきか迷っている国衆に「こうなる前に」と決断を促す材料になる。そして、離反逃亡が相次ぐ武田家の凋落ちょうらくを世間に印象付けたい為にも、ここは一気に押し切りたいと信忠は考えた。それに……この後に控える父が率いる本軍が到着する前に決着がつけば、恩賞は信忠が指揮する者達で独占出来るし、“天下人の手を借りるまでもなく名門武田家を制した”と世間に知らしめる事が出来る。恐らくは、父もそれを望んでいるだろう。
「必ず、明日には落とそうぞ」
 信忠の決意表明に、諸将は一斉にこうべを垂れた。“明日”と限定したところに、信忠の強い意志が込められていた。
 この時、この高遠城を巡る戦が武田攻めで最大の激戦となることを、まだ誰も知らない――。
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