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五 : 青葉 - (29) 腕の中の温もり

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 尾張・美濃を管轄する織田“弾正忠”家の当主である信忠は、天正九年に入ってから穏やかな日々が続いていた。天下人である父が号令をかけて大掛かりな軍事行動に出ないのもあったが、畿内周辺を含めて情勢が安定していたのが大きかった。
 本貫の地である尾張の清州城へ赴く事もあったが、基本的には岐阜城で政務に取り組んでいた。家督を継いで今年で五年目、当初は難渋していた政務も回数を重ねていく内にコツを掴んで滞りなく進められるようになった。ただ、慣れはあっても初心を忘れない気持ちを信忠は持つようにしていた。
 あまりあちこちに行かないので、嬉しい事もある。三法師の成長を目に出来るのだ。
 寝返りが打てるようになったと思えば、今ではハイハイが出来るようになった。あんなに小さかった身体も、日に日に大きくなっている。生命の偉大さを感じずにいられない。
「……いな」
 ハイハイで座っている信忠の膝に寄ってきた三法師の姿に、思わず目を細める。
「何か仰いましたか?」
 近くに居た鈴が反応すると、信忠はしみじみと漏らした。
「いやなに、自らの血を分けた子は、これ程までに可愛いものかと思ったまでだ」
「左様でしたか。……実を申しますと、私も同じ思いです」
 幸せそうな表情で答える鈴。その顔はすっかり母の顔をしている。
 子育てについては、乳母めのとが乳を与える他は全て鈴がおこなっていた。信忠は乳母や側女に任せてもいいと思っていたが、「実家で他の子の世話をしていましたから。それに、自らの子は自らで育てたい」と鈴の意向もあり、それを尊重していた。
「殿、三法師は父御ててごに抱かれたいみたいですよ?」
「そ、そうか。では……」
 鈴に促され、恐る恐る我が子を両腕で抱く。ぎこちない動作でも、三法師は嫌がる素振りを見せない。
 その様子を見た鈴はクスッと笑った。
「そんなに固くならなくてもよろしいのに」
「……思えば、父に抱かれた記憶がないのだ。だから、勝手が分からなくてな」
 物心つく前の記憶はあまり覚えてないが、父が出てくる事は無い。当時の父は後ろ盾だった義父・斎藤道三を失い、尾張国内だけでなく弾正忠家の内にも敵を抱える身。待望の嫡男誕生を素直に喜べる状況ではなかった。多忙を極める中で生駒屋敷を訪れても、気を許せる相手である母・吉乃との関わりが優先され、赤子の自分は後回し。母の温もりは覚えていても父から愛情を注がれた覚えがないのは当然とも言える。
 すると、鈴は穏やかな表情で言った。
「ならば、これから覚えていけばよろしいのではありませんか。殿には三法師と触れ合う機会がまだまだ沢山ありますから。最初から完璧に出来る人なんて居ませんよ」
 鈴の言葉に、信忠もそうかも知れないと思った。
 織田信長の嫡男・織田弾正忠家の跡取りの肩書きを意識するようになってから、失敗を極度に恐れるようになった。茶の湯にしても戦にしても政にしても、失敗は即ち自らの立場を危うくするものだと決めつけていた。真面目な性格だから余計に追い詰めている面もあるが、一度や二度の失敗で命を取られる訳ではないのだからもっと気楽に臨めばいいのだ。失敗しても反省して次に活かせばいい。……毎回いつも同じ事を思っているが、性分しょうぶんなのか容易に変わらないな。
 苦笑いを浮かべた信忠と目が合った三法師は、無邪気に笑った。無垢な笑顔に信忠も癒されるのだった。
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