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五 : 青葉 - (11) 目指すべき夫婦像

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 翌日。不在にしていた間に溜まっていた政務を片付けるべく机に向かっていた信忠だが、作業はなかなかはかどらない。
 果たして、これから鈴と良好な関係を築けるのだろうか。その一事で頭が一杯になり、筆がなかなか進まなかった。
 信忠自身、跡継ぎは欲しいと思っている。だが、子作りよりも二人の距離を縮めるのが先ではないか? と考えている。世の夫婦はどうしているのか聞いてみたいが、相談する相手は居ない。はてさて、どうしたものか。
「おやおや、浮かない顔をされておられますね」
 不意に、声が掛けられた。我に返って声のした方を向くと、義母の濃姫が立っていた。
義母上ははうえ……いつ此方こちらへ?」
 安土城の作事がある程度進んだら、濃姫は岐阜から安土へ移っていた。父・信長との仲は相変わらず良好で、なるべく側に居たいのだろう。
「先程、こちらへ着きました。久し振りに馬に乗って、心地良かったです」
 確かに、今日の義母はいつもと装いが違う。髪は一つに束ね、馬乗袴うまのりはかまに小袖というで立ちだ。
 しかし、義母はどうして岐阜へ来たのだろうか。気分転換なら安土の近辺を走れば充分だし、顔を見に来たという訳でもない。
 ゆっくりと腰を下ろした義母は、何気ない風に言った。
「勘九郎様が岐阜へ戻られたと聞き、恐らくは初めて会った女子おなごのことで頭を悩ませておられると思い、参りました」
 義母の言葉に虚を衝かれた。信忠が今まさに悩んでいる事を言い当てられ、とても驚いた。
 その反応に義母も「やはり」と頷く。
わらわや母君とのやりとりを間近で見ておられたので、きっと戸惑っておられるだろうなと心配しておりました。……妾でよければ話を聞きますけれど」
 その申し出に、信忠は昨晩の出来事を説明した。全てを聞いた義母は、静かに語り始めた。
「……左様でしたか。されど、鈴御前ごぜんのお気持ちも痛い程に分かります。『女子は男子おのこを産んでこそ』という考え方は武家の中で普通ですし、男子を産んで実家の飛躍に繋げたい鈴御前の覚悟も理解出来ます。一方、縁あって結ばれたのですから仲睦まじく愛をはぐくみたい勘九郎様との間でズレが生じている、と」
「はい……」
 余人を排して二人きりで話す義母と信忠。人の目や耳を気にしないでいいからか、信忠はすっかり悄気しょげていた。
 結果的に誘いを拒否した事も、鈴の気持ちを傷つけたのではないか? と信忠は気にしていた。御家の未来を背負っているのは分かるが、ちぎりを結ぶのは互いの気持ちが通じ合ってから、と考える信忠には些か性急過ぎると感じていた。
「勘九郎様はお優しいのですね」
「いえ、そんな……」
「世の殿方の多くは、女子の気持ちなど斟酌しんしゃくしません。抱きたいと思えば抱き、気が合わないと思えば遠ざける。これでは売女ばいたと変わらないではありませんか。そう思えば、鈴御前の立場をおもんばかる勘九郎様は立派です」
 優しいと言われて一度は首を振った信忠だったが、義母の言葉に何も言えなかった。
 フゥと一つ息を吐いた義母は、決意を固めたような表情で告げる。
「……ここは妾が一肌脱ぎましょう。鈴御前と話をします」
「お願い致します」
 義母の提案に、信忠は深々と頭を下げた。
 奥向き・武家における家政かせいは主に当主の正妻が中心となって取り仕切るものだが、岐阜城では濃姫が安土に移ってからは長らくその座にある者が不在な状態が続いていた。そこへ鈴が輿入れされ、その役割を担うようになった訳だ。信忠が留守の間に女中達が鈴に従うようになったのも、この為である。本来であればしゅうとめに当たる義母の濃姫が織田家の決まり事や作法を鈴に教えるべきだが、それが出来なかった。義母はその点について責任を感じているのかも知れない。
 女子の気持ちは、女子が一番分かっている。義母が鈴へ働きかけてくれるのは、本当にありがたかった。
 すると、義母は微かな笑みを浮かべて信忠にこう返した。
「これくらい大した事ではありません。妾は勘九郎様の母なのですから」
 それからサッと立ち上がった義母は、軽やかな足取りで部屋を後にした。遠ざかっていく義母の背中が、いつも以上に頼もしく感じる信忠だった。

 その日の夜。信忠は珍しく酒を飲んでいた。ふと空を見上げたら闇夜に浮かぶ月がとても綺麗で、無性むしょうに飲みたい気分になったのだ。
 縁側に一人座り、月を眺めながらちびりちびりと盃を傾ける。あまり飲めないのもあり、減る量はゆっくりだ。
 すると、遠くから衣擦れの音が聞こえてきた。信忠はそちらの方を見て誰か確認しようとしない。誰が来たか、何となく分かっていたからだ。
「……お隣、よろしいでしょうか?」
 声が掛けられ、信忠は「うむ」と了承する。それを受けて、声の主はゆったりと腰を下ろす。
 隣に座ったのは――鈴。
「殿はお酒をよく召し上がるのですか?」
「いや。あまり飲まないが、今宵は特に月が美しくて、飲みたい気分になった。それに……」
 一度言葉を区切った信忠は盃を少し傾けると、続きを発した。
「……今宵は、鈴が来ると思ったからな」
 鈴と初めて会った時、信忠は“さとそう”という印象を抱いた。その印象は元から働いている女中達が鈴に従っている事や昨晩の寝室でのやり取りで確信に変わった。『初めて会った女子おなごを抱く気になれない』の一言で信忠の心情を理解し、食い下がろうとしないのはなかなか出来る事ではない。
 そして、義母と話をしたら、聡い鈴なら必ず自分の元に訪ねて来ると思った。何を話したかまでは分からないが、鈴はきっと自分と話をしたくなる、と踏んだ。その読みが正しかった事は、今証明された。
「……飲むか?」
「はい」
 鈴が頷いたので、信忠は残り少ない盃の中身を一気に呷る。空になった盃を鈴に手渡し、少しだけ酒を注いであげる。
 盃を受け取った鈴は、二度に分けて酒を飲み干す。一つ息を吐いた鈴は、盃を返しながら言った。
「……体が、ポカポカします」
「鈴はあまり酒を飲まないのか」
「はい。弱いので、あまり飲みません……」
「そうか。ならば私と一緒だな」
 盃を二度傾けて酒を飲んだ鈴の姿を見た信忠は、不意に三々九度を連想した。鈴が先に岐阜へ向かい、信忠と会うまで半年近くの間が空いた。新婚気分になるのも無理はない。
「お互い、知らない事だらけだ」
「えぇ。本当に」
 信忠の言葉に、鈴も同意を示す。その表情は、柔らかい。
 それから、二人で月を眺める。会話は無いが、居心地の悪さは感じない。ゆったりとした時間が流れていく。
 ふちを舐めるように飲んでいた信忠の隣で、鈴がクシュンと小さくくしゃみをした。
「……大丈夫か? 寒くないか?」
「お気遣いありがとうございます。心配ありません」
 体調を気遣った信忠が女中を呼ぼうとしたが、鈴は大丈夫と押し留める。直後、鈴はクスッと笑みをこぼした。
「……義母上様の仰る通り、殿はお優しい御方ですね」
「そうなのか? 自分では分からないが……」
 小首をかしげる信忠に「はい」とはっきり頷く鈴。
「昨晩もそうでした。私を傷つけないよう、言葉を選ばれておられました。嫌だと突き放しても構わないのに」
 膝の上に置いた手に目を落としながら、ゆっくりと語る鈴。信忠はそれを静かに聞いていた。
「正直、殿のお気持ちは全く分かりませんでした。“武家に嫁いだ女子は男子おのこを産んでこそ一人前、子を産まない女子に価値はない”という考え方に囚われていました。里の期待もあり、余計に」
 訥々とつとつと語る鈴。「でも」と言い、顔を上げる。
「今日、義母上様とお話をして、私の考えが間違っている事に気付かされました」
 昨晩の出来事で気落ちしている鈴の元に、濃姫が訪ねて来た。突然の来訪にとても驚いた鈴だったが、気さくな濃姫の人柄もあり緊張せずに済んだという。
 自室で二人向かい合わせに座ると、濃姫はまず自分や信忠の事について語り始めた。自分の名前に始まり、信忠とは血の繋がりがないこと、信忠は幼少期に生母を亡くしていること、それに……正室ながら信長との間に子を設けていないこと。
「『私は石女うまずめかも知れませんが、殿は全く気になされませんでした。それどころか、殿は私が側に居ると心が穏やかになると仰せになられ、常に側に置いて下さいました。子も産んでない、帰る場所もないこの私を、殿は一番大事にしてくれてます』……そう義母上様は仰られておられました。義母上様のお話を聞いていく内に、私の中で凝り固まっていた考え方が誤りだったと思うと共に、こういう関係になりたいという気持ちが強くなりました」
 信長が濃姫をめとったのは織田家と斎藤家の融和が一番の目的だった。信長の父・信秀が亡くなった後は、義父の道三が唯一の理解者として信長を支えてくれた。しかし、長良川の戦いで道三が討たれ、嫁いで以来一人の子も産んでない濃姫の利用価値は一気に無くなってしまった。織田家の事を考えれば公卿や有力大名の娘を後妻こうさいに据えるべきなのだが、信長は濃姫と離縁せず一貫して正室として扱った。それは何故か? その答えは、気難しい信長と気がバッチリ合ったからだ。二人の間に子は居ないが、気を遣わず素のままで居て心の底から楽しめる関係だったので、人生の伴侶はんりょとして最適の人物だった。側室は何人も抱えているが、最も寵愛ちょうあいを受けるのは濃姫に変わりなかった。信長にとって、濃姫はそれくらい大事な存在だったのだ。
 鈴の話を聞き終えた信忠は、盃を置くと「鈴」と呼んでから体をそちらに向ける。
「私が目指す夫婦像は、父と義母のような関係だ。互いが互いを思いやり、肩肘張らずに笑い合える間柄でありたい。……まずはお互いの事を知るところから始めたい。それで構わないか?」
「はい。喜んで」
 真剣な眼差しで語る信忠に、鈴は笑顔で応じる。この瞬間、信忠は“鈴と良好な関係を築けるかも知れない”と感じた。
 それから、二人は月を眺めながら何気ない会話を夜遅くまで続けた。話した分だけ、心の距離が縮まったような気がした。
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