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四 : 根張 - (2) 油断大敵、毘沙門天の化身
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天正年間に一つずつ敵対勢力を潰してきた甲斐もあり、天正四年は比較的平穏な時が続いた。信長は京と築城途中にある安土を往復する日々が続き、信忠も東の武田家の動向を注視しながら内政に取り組む日々を送っていた。畿内で織田家と敵対しているのは再挙兵した石山本願寺だけだが、攻めて来る訳ではないので信長もそんなに危険視していなかった。その証拠に、本願寺を囲む軍勢の中には実績十分な佐久間信盛や明智光秀が居たにも関わらず、本願寺方面の担当を任されたのは子飼いの家臣である原田直政を据えたのは、本願寺を軽視していた裏返しとも言える。本願寺を包囲するように付け城や砦を築いたものの、難波方面に通ずる水路を本願寺側が確保していたが為に、あまり効果が上がらなかった。それでも、長期戦に持ち込めば本願寺もきっと音を上げるだろう、という楽観的な見方を信長も家臣達もしていた。
しかし――五月三日、事態は急転する。
原田直政を総大将とする軍勢は、本願寺方の補給面で重要拠点とされる木津砦(一説には三津寺とも)を攻めようとしたが、本願寺勢一万と遭遇。激戦の末、総大将の直政が討たれる波乱が起きた。原田勢は他にも一族や家臣も多く討死する大敗を喫してしまった。この勝利に勢いづいた本願寺勢一万五千は、余勢を駆って明智光秀・佐久間信栄(信盛の嫡男)が籠もる天王寺砦を十重二十重と包囲。この時、砦内の手勢は本願寺勢より圧倒的に少なく、落城必死の絶望的な状況に置かれた。
原田直政討死・明智光秀が敵中で孤立しているとの一報が京に居る信長の元に届いたのは、五月五日。直ちに諸国へ緊急の動員令を発すると同時に、自らはその日の内に百の手勢を連れて河内・若江城に入った。この信長の呼び掛けに安土城築城の奉行を務めていた丹羽長秀や羽柴秀吉、遊軍的立ち位置の滝川一益や佐久間信盛、さらに蜂屋頼隆や稲葉一鉄など有力武将も六日には各地から駆け付けたが、皆大急ぎで参集したのもあり手勢は多く連れて来ておらず信長の手勢を合わせても三千程度しか居なかった。
天王寺砦に籠もる将兵も本願寺勢の攻めを必死に堪えていたが、それもかなり限界が近付いており『これ以上持ち堪えるのは難しい』と伝えてきた。一刻の猶予も残されてないと判断した信長は、兵が揃ってない状況でも天王寺砦の味方を救出すべく明日には戦に臨む事を決定。永禄十一年の上洛以降、信長が出陣する際は必ず万を超える軍勢を率いており、さらに言えば今回のように圧倒的不利な戦に挑むのは桶狭間に次いで二度目という異例尽くめの対応だった。本願寺方面の総大将を務めていた原田直政が討たれたのも痛手だが、他家にも知られる重臣の明智光秀を見殺しにしようものなら、天下人・織田信長の威信は地に堕ちてしまう。それだけは何が何でも避けなければならず、負ける事も十分に有り得るくらいに信長は追い詰められていた。
翌、五月七日。約五倍の本願寺勢に突撃した織田勢は、序盤から怒涛の攻めを見せた。本願寺方には鉄砲に特化した傭兵集団である雑賀衆も加わっていたが、大半は非戦闘員出身の一揆兵で統率を執れる者が少なかった。傍ら、織田方は将も多く戦に慣れた者が多く占めており、死に物狂いで攻め懸かる織田勢の勢いに呑まれて本願寺勢は数の上で優っているにも関わらず防戦一方だった。そんな時、天王寺砦に籠もっていた明智・佐久間勢が扉を開いて打って出ると、前後を挟まれる形になった本願寺勢は大いに混乱、撤退せざるを得なかった。約五倍の相手を退けた織田方だったが、激戦を物語るように総大将である信長も敵の鉄砲で脚に軽傷を負っている。
天王寺砦を敵の包囲から解放して当初の目的を達成した信長だが、これで終わらない。思わぬ猛攻に一度は退いたものの態勢を立て直しつつある本願寺勢に、再度攻撃を仕掛けると宣言したのだ。これには家臣達も危険だと止めに入ったが、信長は「今近くに敵が居るのは、天が与えた好機だ」と一蹴。対する本願寺勢もまさか一日に二度も攻めて来るとは思ってもおらず、織田勢の奇襲にまたしても大混乱に陥った。結果、本願寺勢は大損害を出し、石山本願寺の木戸口まで追撃された。
一万五千の本願寺勢を三千の兵で撃破する奇蹟的勝利を収めた信長だったが、本願寺対策にさらに十の付け城を築くよう命じ、戦後処理を済ませて六月五日に若江城へ入り、翌六日には京へ戻った。
本願寺方面を任せていた原田直政が討たれる予想外の痛手はあったが、天王寺の戦いに勝利した事で影響を最小限に留められた。一方で、本願寺の底力を再認識させられた信長は、今回の失敗を教訓に気を緩めないよう考え直すキッカケとなる出来事だった。
信長の目が摂津方面に向けられる一方、織田家に新たな脅威が迫りつつあった。
越後の上杉謙信である。
織田家と上杉家は、正確にはまだ領土の境界を接していない。両家の間に一向一揆が治める加賀や畠山家の能登が挟んでいる。
上杉“不識庵”謙信、享禄三年(一五三〇年)一月二十一日生まれで、今年齢四十七。越後守護である長尾為景の四男で、天文五年に長兄の晴景が長尾家の家督を継ぐと虎千代(謙信の幼名)は林泉寺に入れられた。天文十一年十二月に父・為景が病没すると、病弱で才覚に乏しい晴景の下で長尾家はみるみる内に弱体化の一途を辿っていく。
こうした状況の中、天文十二年八月十五日に虎千代は元服、景虎と名を改めた。長尾家へ復帰した景虎は、反旗を翻した国人達を兄に代わり次々と討伐していった。景虎の名声は日に日に高まり、家中でもパッとしない晴景ではなく景虎を長尾家の当主に擁立したい動きが出始めた。このままでは晴景派と景虎派で長尾家が二分する内紛に発展する恐れが出てきた為、天文十七年十二月三十日に晴景が景虎を自らの養子にした上で隠居。景虎が長尾家の家督を継いだ。その後も越後国内の反乱鎮圧に奔走し、天文二十年に越後統一を果たしている。
景虎の武勇が一躍全国に広まるキッカケとなったのが、天文二十二年から五度に渡り繰り広げられた武田晴信(後の信玄)との“川中島の戦い”である。
天文二十二年八月、武田晴信に二度勝利した北信濃の国人・村上義清が越後へ逃れてきた。武田の勢力圏が本拠・春日山城に迫っていたのもあり、景虎は武田家を北信濃から排除すべく信濃へ侵攻した。五回の内四回は小規模な戦闘こそあれど互いに相手の出方を窺ったり兵の損失を避けたりした為、睨み合いを続けてから両者兵を引いていた。
唯一の激戦となったのが永禄四年に行われた第四次川中島の戦い、通称“八幡原の戦い”である。妻女山に布陣した上杉勢一万三千を何とか下ろしたい信玄(永禄二年に出家・改名)は、軍師・山本“勘助”道鬼から提案された『別動隊が妻女山の背後から奇襲を仕掛け、逃れてきた上杉勢を八幡原に予め布陣していた本隊と挟撃する』作戦(通称“啄木鳥”作戦)を採用、実行に移した。しかし、決戦前日に武田勢が籠もる海津城から上がる炊煙が普段より多い事に違和感を抱いた政虎(同年閏三月十六日に上杉家を相続、上杉政虎と改名)は、敵が今夜動く事を見抜いたのだ。九月九日に政虎率いる上杉勢は秘かに妻女山から移動、翌十日に八幡原で待ち構える武田信玄率いる本隊に襲い掛かった! 完全に裏を掻かれた武田勢は信玄の弟で副将を務める“典厩”信繁や山本勘助など多くの家臣が討死、本陣奥深くまで上杉勢の侵入を許すなど、圧倒的劣勢に立たされた。その後はもぬけの殻だった妻女山から大急ぎで駆け付けた武田の別動隊が上杉勢を逆襲し、政虎は被害が大きくなる前に兵を引いた。この戦で上杉勢は約三千、武田勢は約四千の死者を出したとされ、“前半は上杉勢・後半は武田勢の勝利”で両者痛み分けの結果となった。因みに、この戦で政虎が単身武田本陣に斬り込んで相手の総大将である信玄と一騎討ちをしたとする逸話が有名だが、現在では信憑性に欠けるという見方が強い。
景虎は、天皇家や足利将軍家など権威ある者に重きを置く人物だった。
天文二十一年一月には、北条家に追われた関東管領の上杉憲政を保護すると、上杉家再興を果たすべく関東へ出兵するようになった。永禄三年五月に今川義元が桶狭間で討たれた事で、それまで強固な結び付きにあった三国同盟(“甲相駿三国同盟”とも)の一角が崩れた。これを契機と捉えた長尾景虎は八月二十六日に三国峠を越えて上野国へ侵攻、次々と北条方の城を落としていく快進撃を続けた。これを受けて上野・武蔵の国人達は景虎の元に馳せ参じ、北条家は国人達の離反もあり劣勢に立たされた。
関東で越年した景虎の勢いは衰えず、関東各地から国人が続々と加わって総勢十万を超える大軍勢に膨れ上がった。永禄四年三月下旬、景虎を総大将とする軍勢は北条家の本拠・小田原城を包囲した。しかし、北条家と同盟を結ぶ武田家のみならず再建途上にある今川家からも援軍が送られてきただけでなく、長期間に渡る遠征や兵糧攻めに掛かる費用で加勢した国人衆の間で不満が高まり士気が著しく低下した。こうした事情から景虎は北条攻めを一カ月で断念せざるを得なかった。
永禄四年閏三月十六日、鎌倉の鶴岡八幡宮にて上杉憲政から上杉家の家督と関東管領の職を譲り受けた景虎は、名を上杉政虎と改めた。名門上杉家を(形式上ではあるが)継いだ政虎は関東管領として関東における自らと敵対する勢力を討伐出来る大義名分を手に入れた事になる。この年の暮れにも輝虎(同年十二月、足利義輝から一字賜り改名)は関東へ出兵。以降、冬に関東へ出兵する事が数年続いた。
元亀元年十二月、輝虎は出家し、名を“不識庵”謙信と改めた。
謙信は自らを“毘沙門天の生まれ変わりだ”と公言しており、“戦国最強”と謳われた武田家を相手に互角で渡り合った。その神懸かり的な強さから“軍神”“越後の龍”と呼ばれ周辺諸国の大名から恐れられた。
その謙信だが、足利義昭が主導した元亀年間における反信長包囲網には加わらなかった。領土を接していないので直接的な脅威を感じていなかったのもあるが、上洛前後から信長が謙信に贈り物をするなど機嫌を損ねないよう腐心していた影響が大きい。さらに言えば、北信濃の国人達の求めに応じて信濃へ出兵したり、関東管領の務めとして関東を荒らし回る北条征伐に出たりして、織田家に構っている暇が無かったのもある。
ただ、年を経ていく内に謙信を巡る情勢にも変化が生じた。
北信濃の旧領回復を目的とした出兵を繰り返したものの、武田家が信濃全土の掌握を断念し北信濃の一部が上杉領となった事で、本拠・春日山城を脅かされる不安は取り除かれた。その為、永禄七年八月の第五次川中島の戦いを最後に北信濃への出兵は行われなくなった。また、関東の北条家とも永禄十二年六月に同盟が締結され、出兵する動機が失われていた。この同盟は関東各地の国人と対立する中で甲斐の武田家との関係も悪化して四方に敵を抱える恰好となった北条家から持ち掛けられた話で、輝虎も当初は難色を示したが度重なる関東遠征が重い負担に感じていた家臣達の意見もあり、受け容れに至った。これまで南に向けられていた目線が、武田・北条を討つ大義名分を失った事で変更を余儀なくされたのだ。
そこで着目したのが、西の越中だ。
越中を巡る戦いは、謙信の祖父である長尾能景の代から続く因縁でもある。永正三年(一五〇六年)九月、越後守護代の能景は越中で発生した一向一揆が越後へ波及するのを阻止すべく出兵したが、越中の有力国人である神保慶宗が一揆勢と交戦中に離脱した事により形勢が一気に悪化、九月十八日に般若野の戦いで能景は討死してしまったのだ。その後、能景の子・為景は仇敵・慶宗を討つのだが、越中の一向一揆と度々戦う事となる。一向一揆に手を焼いていた為景は、大永元年(一五二一年)二月に自領内にて浄土真宗を禁教にした程に嫌っていた。
月日は流れ、越中国内の勢力図にも変化が出た。一時期衰えていた有力国人の神保家と椎名家が勢力を拡大、互いに鎬を削るようになった。椎名家の椎名康胤は長尾為景との結び付きを強めたのに対し、神保家の神保長職(慶宗の子)は父の頃から繋がりのあった一向一揆の助力を受けた。永禄三年三月、神保勢の攻勢で追い込まれた康胤は景虎へ援軍を要請、越中に出陣した景虎は神保勢を打ち破った。その後、武田信玄が景虎を牽制すべく長職を秘かに支援、さらに石山本願寺宗主・顕如の妻・如春尼が信玄の側室・三条の方の妹という間柄から、信玄が仲介する形で一向一揆勢も神保方に加担した。永禄五年九月五日の神通川の戦いで神保勢が椎名勢に大勝して椎名家の本拠である松倉城まで攻め込んだが、十月に政虎率いる上杉勢が越中へ侵攻すると形勢は逆転。長職は本拠である増山城を包囲されるまで追い詰められ、最終的には能登の畠山義綱の仲立ちで両者は和睦を結ぶに至った。以降、神保家は徐々に押され、椎名家が越中国内で勢力を伸ばしていくこととなる。
ところが……永禄十一年三月、上杉方に属していた椎名康胤が突如上杉家に反旗を翻したのだ。永禄五年に結んだ和議で決まった領土の配分に不満を抱いていた康胤の元へ、武田信玄が調略を仕掛けたのだ。政虎は康胤を討伐すべく越中へ攻め込んだが、翌四月には同じく武田信玄の調略に応じた上杉家有力家臣の本庄繁長が越後国内で反乱を起こした為、越中攻めを中断して越後へ戻らざるを得なかった。永禄十二年三月に繁長は降伏、六月に北条家と同盟を締結して後顧の憂いを絶った政虎は八月に康胤を討伐すべく再び越中へ攻め込んだが、康胤が籠もる松倉城は三方が断崖絶壁と天然の要害だった為に流石の政虎も攻めあぐねていた。そうこうしている間に武田信玄が十月に入り上野国へ侵攻したと報せが入り、政虎は百日間にも及ぶ松倉城攻めを切り上げて越後へ引き揚げた。
元亀二年二月、今度こそ決着をつける意気込みで謙信は二万八千の兵を率いて越中へ侵攻。前回は攻略出来なかった松倉城を始め、新庄城・富山城など椎名方の主要な城を次々と落としていき、康胤を守山城に追い詰めた。しかし、またしても武田勢が上野国に侵攻したと報せが届き、あと一歩というところで謙信は撤退を余儀なくされた。
ここで、謙信にさらなる逆風が吹く。加賀の一向一揆で主要な人物である杉浦玄任へ、元亀二年四月二十八日に武田勝頼が書状で上杉謙信に対抗するよう要請したのだ。玄任率いる加賀の一向一揆勢は同年五月に越中へ入り、現地の一向一揆勢や椎名康胤、さらには神保長城(長職の次男)も加わり、一大勢力となって越中国内の上杉方に襲い掛かったのだ! この時関東へ出兵する方向で考えていた謙信だが、一揆勢が破竹の勢いで越中国内における上杉方の拠点を落としていた事で方針を転換。八月十日に一万の兵を率いて越中へ向かった。九月、尻垂坂の地で一揆勢に大勝したのを境目に、上杉勢が次第に優勢に立っていく。玄任は加賀へ逃れ。越中の一向一揆勢と国人達は勢いを失い、形勢は一気に悪化した。元亀四年正月、これ以上の抵抗は難しいと判断した一向一揆勢は謙信に和議を申し入れた。実質的な降伏で、謙信もこれを了承した。信玄の西上作戦で謙信に邪魔されたくないが為に扇動したが、結果的に信玄の目論見通りとなった。対する謙信も大規模な動乱となったものの越中国内における反上杉勢力を一挙に弱体化させたのは大きな収穫だった。
越中の大半を掌握した謙信は、西へ版図を拡げる道筋を確保した。逆に、織田家から見れば信玄存命時の武田家と対等に渡り合った上杉謙信とぶつかる可能性が現実味を帯びたことになる。
それに加え、謙信が西上する材料も出てきた。天正四年四月、備後鞆に居る足利義昭が謙信に対して幕府再興に協力を求めたのだ。さらに義昭は、石山本願寺の顕如へ長年対立してきた上杉謙信と和睦するよう促した。これまで武田家が織田家を攻撃する際に上杉家が横槍を入れないよう石山本願寺を通して一向一揆を扇動してきたが、共通の敵となった織田家を倒すには上杉家の参戦が必要不可欠だった。謙信の方も自領及び隣国の一向一揆が足枷になっていた側面があった事から、本願寺と和睦を結ぶのは満更でもなかった。両者の思惑が一致したのもあり、五月には義昭の仲介で上杉家と石山本願寺の和睦が成立した。
四月からの二ヶ月で、謙信は織田家を攻める口実と環境が整った。信長が現状最も相手にしたくない上杉家が、遂に動き出そうとしていた……。
しかし――五月三日、事態は急転する。
原田直政を総大将とする軍勢は、本願寺方の補給面で重要拠点とされる木津砦(一説には三津寺とも)を攻めようとしたが、本願寺勢一万と遭遇。激戦の末、総大将の直政が討たれる波乱が起きた。原田勢は他にも一族や家臣も多く討死する大敗を喫してしまった。この勝利に勢いづいた本願寺勢一万五千は、余勢を駆って明智光秀・佐久間信栄(信盛の嫡男)が籠もる天王寺砦を十重二十重と包囲。この時、砦内の手勢は本願寺勢より圧倒的に少なく、落城必死の絶望的な状況に置かれた。
原田直政討死・明智光秀が敵中で孤立しているとの一報が京に居る信長の元に届いたのは、五月五日。直ちに諸国へ緊急の動員令を発すると同時に、自らはその日の内に百の手勢を連れて河内・若江城に入った。この信長の呼び掛けに安土城築城の奉行を務めていた丹羽長秀や羽柴秀吉、遊軍的立ち位置の滝川一益や佐久間信盛、さらに蜂屋頼隆や稲葉一鉄など有力武将も六日には各地から駆け付けたが、皆大急ぎで参集したのもあり手勢は多く連れて来ておらず信長の手勢を合わせても三千程度しか居なかった。
天王寺砦に籠もる将兵も本願寺勢の攻めを必死に堪えていたが、それもかなり限界が近付いており『これ以上持ち堪えるのは難しい』と伝えてきた。一刻の猶予も残されてないと判断した信長は、兵が揃ってない状況でも天王寺砦の味方を救出すべく明日には戦に臨む事を決定。永禄十一年の上洛以降、信長が出陣する際は必ず万を超える軍勢を率いており、さらに言えば今回のように圧倒的不利な戦に挑むのは桶狭間に次いで二度目という異例尽くめの対応だった。本願寺方面の総大将を務めていた原田直政が討たれたのも痛手だが、他家にも知られる重臣の明智光秀を見殺しにしようものなら、天下人・織田信長の威信は地に堕ちてしまう。それだけは何が何でも避けなければならず、負ける事も十分に有り得るくらいに信長は追い詰められていた。
翌、五月七日。約五倍の本願寺勢に突撃した織田勢は、序盤から怒涛の攻めを見せた。本願寺方には鉄砲に特化した傭兵集団である雑賀衆も加わっていたが、大半は非戦闘員出身の一揆兵で統率を執れる者が少なかった。傍ら、織田方は将も多く戦に慣れた者が多く占めており、死に物狂いで攻め懸かる織田勢の勢いに呑まれて本願寺勢は数の上で優っているにも関わらず防戦一方だった。そんな時、天王寺砦に籠もっていた明智・佐久間勢が扉を開いて打って出ると、前後を挟まれる形になった本願寺勢は大いに混乱、撤退せざるを得なかった。約五倍の相手を退けた織田方だったが、激戦を物語るように総大将である信長も敵の鉄砲で脚に軽傷を負っている。
天王寺砦を敵の包囲から解放して当初の目的を達成した信長だが、これで終わらない。思わぬ猛攻に一度は退いたものの態勢を立て直しつつある本願寺勢に、再度攻撃を仕掛けると宣言したのだ。これには家臣達も危険だと止めに入ったが、信長は「今近くに敵が居るのは、天が与えた好機だ」と一蹴。対する本願寺勢もまさか一日に二度も攻めて来るとは思ってもおらず、織田勢の奇襲にまたしても大混乱に陥った。結果、本願寺勢は大損害を出し、石山本願寺の木戸口まで追撃された。
一万五千の本願寺勢を三千の兵で撃破する奇蹟的勝利を収めた信長だったが、本願寺対策にさらに十の付け城を築くよう命じ、戦後処理を済ませて六月五日に若江城へ入り、翌六日には京へ戻った。
本願寺方面を任せていた原田直政が討たれる予想外の痛手はあったが、天王寺の戦いに勝利した事で影響を最小限に留められた。一方で、本願寺の底力を再認識させられた信長は、今回の失敗を教訓に気を緩めないよう考え直すキッカケとなる出来事だった。
信長の目が摂津方面に向けられる一方、織田家に新たな脅威が迫りつつあった。
越後の上杉謙信である。
織田家と上杉家は、正確にはまだ領土の境界を接していない。両家の間に一向一揆が治める加賀や畠山家の能登が挟んでいる。
上杉“不識庵”謙信、享禄三年(一五三〇年)一月二十一日生まれで、今年齢四十七。越後守護である長尾為景の四男で、天文五年に長兄の晴景が長尾家の家督を継ぐと虎千代(謙信の幼名)は林泉寺に入れられた。天文十一年十二月に父・為景が病没すると、病弱で才覚に乏しい晴景の下で長尾家はみるみる内に弱体化の一途を辿っていく。
こうした状況の中、天文十二年八月十五日に虎千代は元服、景虎と名を改めた。長尾家へ復帰した景虎は、反旗を翻した国人達を兄に代わり次々と討伐していった。景虎の名声は日に日に高まり、家中でもパッとしない晴景ではなく景虎を長尾家の当主に擁立したい動きが出始めた。このままでは晴景派と景虎派で長尾家が二分する内紛に発展する恐れが出てきた為、天文十七年十二月三十日に晴景が景虎を自らの養子にした上で隠居。景虎が長尾家の家督を継いだ。その後も越後国内の反乱鎮圧に奔走し、天文二十年に越後統一を果たしている。
景虎の武勇が一躍全国に広まるキッカケとなったのが、天文二十二年から五度に渡り繰り広げられた武田晴信(後の信玄)との“川中島の戦い”である。
天文二十二年八月、武田晴信に二度勝利した北信濃の国人・村上義清が越後へ逃れてきた。武田の勢力圏が本拠・春日山城に迫っていたのもあり、景虎は武田家を北信濃から排除すべく信濃へ侵攻した。五回の内四回は小規模な戦闘こそあれど互いに相手の出方を窺ったり兵の損失を避けたりした為、睨み合いを続けてから両者兵を引いていた。
唯一の激戦となったのが永禄四年に行われた第四次川中島の戦い、通称“八幡原の戦い”である。妻女山に布陣した上杉勢一万三千を何とか下ろしたい信玄(永禄二年に出家・改名)は、軍師・山本“勘助”道鬼から提案された『別動隊が妻女山の背後から奇襲を仕掛け、逃れてきた上杉勢を八幡原に予め布陣していた本隊と挟撃する』作戦(通称“啄木鳥”作戦)を採用、実行に移した。しかし、決戦前日に武田勢が籠もる海津城から上がる炊煙が普段より多い事に違和感を抱いた政虎(同年閏三月十六日に上杉家を相続、上杉政虎と改名)は、敵が今夜動く事を見抜いたのだ。九月九日に政虎率いる上杉勢は秘かに妻女山から移動、翌十日に八幡原で待ち構える武田信玄率いる本隊に襲い掛かった! 完全に裏を掻かれた武田勢は信玄の弟で副将を務める“典厩”信繁や山本勘助など多くの家臣が討死、本陣奥深くまで上杉勢の侵入を許すなど、圧倒的劣勢に立たされた。その後はもぬけの殻だった妻女山から大急ぎで駆け付けた武田の別動隊が上杉勢を逆襲し、政虎は被害が大きくなる前に兵を引いた。この戦で上杉勢は約三千、武田勢は約四千の死者を出したとされ、“前半は上杉勢・後半は武田勢の勝利”で両者痛み分けの結果となった。因みに、この戦で政虎が単身武田本陣に斬り込んで相手の総大将である信玄と一騎討ちをしたとする逸話が有名だが、現在では信憑性に欠けるという見方が強い。
景虎は、天皇家や足利将軍家など権威ある者に重きを置く人物だった。
天文二十一年一月には、北条家に追われた関東管領の上杉憲政を保護すると、上杉家再興を果たすべく関東へ出兵するようになった。永禄三年五月に今川義元が桶狭間で討たれた事で、それまで強固な結び付きにあった三国同盟(“甲相駿三国同盟”とも)の一角が崩れた。これを契機と捉えた長尾景虎は八月二十六日に三国峠を越えて上野国へ侵攻、次々と北条方の城を落としていく快進撃を続けた。これを受けて上野・武蔵の国人達は景虎の元に馳せ参じ、北条家は国人達の離反もあり劣勢に立たされた。
関東で越年した景虎の勢いは衰えず、関東各地から国人が続々と加わって総勢十万を超える大軍勢に膨れ上がった。永禄四年三月下旬、景虎を総大将とする軍勢は北条家の本拠・小田原城を包囲した。しかし、北条家と同盟を結ぶ武田家のみならず再建途上にある今川家からも援軍が送られてきただけでなく、長期間に渡る遠征や兵糧攻めに掛かる費用で加勢した国人衆の間で不満が高まり士気が著しく低下した。こうした事情から景虎は北条攻めを一カ月で断念せざるを得なかった。
永禄四年閏三月十六日、鎌倉の鶴岡八幡宮にて上杉憲政から上杉家の家督と関東管領の職を譲り受けた景虎は、名を上杉政虎と改めた。名門上杉家を(形式上ではあるが)継いだ政虎は関東管領として関東における自らと敵対する勢力を討伐出来る大義名分を手に入れた事になる。この年の暮れにも輝虎(同年十二月、足利義輝から一字賜り改名)は関東へ出兵。以降、冬に関東へ出兵する事が数年続いた。
元亀元年十二月、輝虎は出家し、名を“不識庵”謙信と改めた。
謙信は自らを“毘沙門天の生まれ変わりだ”と公言しており、“戦国最強”と謳われた武田家を相手に互角で渡り合った。その神懸かり的な強さから“軍神”“越後の龍”と呼ばれ周辺諸国の大名から恐れられた。
その謙信だが、足利義昭が主導した元亀年間における反信長包囲網には加わらなかった。領土を接していないので直接的な脅威を感じていなかったのもあるが、上洛前後から信長が謙信に贈り物をするなど機嫌を損ねないよう腐心していた影響が大きい。さらに言えば、北信濃の国人達の求めに応じて信濃へ出兵したり、関東管領の務めとして関東を荒らし回る北条征伐に出たりして、織田家に構っている暇が無かったのもある。
ただ、年を経ていく内に謙信を巡る情勢にも変化が生じた。
北信濃の旧領回復を目的とした出兵を繰り返したものの、武田家が信濃全土の掌握を断念し北信濃の一部が上杉領となった事で、本拠・春日山城を脅かされる不安は取り除かれた。その為、永禄七年八月の第五次川中島の戦いを最後に北信濃への出兵は行われなくなった。また、関東の北条家とも永禄十二年六月に同盟が締結され、出兵する動機が失われていた。この同盟は関東各地の国人と対立する中で甲斐の武田家との関係も悪化して四方に敵を抱える恰好となった北条家から持ち掛けられた話で、輝虎も当初は難色を示したが度重なる関東遠征が重い負担に感じていた家臣達の意見もあり、受け容れに至った。これまで南に向けられていた目線が、武田・北条を討つ大義名分を失った事で変更を余儀なくされたのだ。
そこで着目したのが、西の越中だ。
越中を巡る戦いは、謙信の祖父である長尾能景の代から続く因縁でもある。永正三年(一五〇六年)九月、越後守護代の能景は越中で発生した一向一揆が越後へ波及するのを阻止すべく出兵したが、越中の有力国人である神保慶宗が一揆勢と交戦中に離脱した事により形勢が一気に悪化、九月十八日に般若野の戦いで能景は討死してしまったのだ。その後、能景の子・為景は仇敵・慶宗を討つのだが、越中の一向一揆と度々戦う事となる。一向一揆に手を焼いていた為景は、大永元年(一五二一年)二月に自領内にて浄土真宗を禁教にした程に嫌っていた。
月日は流れ、越中国内の勢力図にも変化が出た。一時期衰えていた有力国人の神保家と椎名家が勢力を拡大、互いに鎬を削るようになった。椎名家の椎名康胤は長尾為景との結び付きを強めたのに対し、神保家の神保長職(慶宗の子)は父の頃から繋がりのあった一向一揆の助力を受けた。永禄三年三月、神保勢の攻勢で追い込まれた康胤は景虎へ援軍を要請、越中に出陣した景虎は神保勢を打ち破った。その後、武田信玄が景虎を牽制すべく長職を秘かに支援、さらに石山本願寺宗主・顕如の妻・如春尼が信玄の側室・三条の方の妹という間柄から、信玄が仲介する形で一向一揆勢も神保方に加担した。永禄五年九月五日の神通川の戦いで神保勢が椎名勢に大勝して椎名家の本拠である松倉城まで攻め込んだが、十月に政虎率いる上杉勢が越中へ侵攻すると形勢は逆転。長職は本拠である増山城を包囲されるまで追い詰められ、最終的には能登の畠山義綱の仲立ちで両者は和睦を結ぶに至った。以降、神保家は徐々に押され、椎名家が越中国内で勢力を伸ばしていくこととなる。
ところが……永禄十一年三月、上杉方に属していた椎名康胤が突如上杉家に反旗を翻したのだ。永禄五年に結んだ和議で決まった領土の配分に不満を抱いていた康胤の元へ、武田信玄が調略を仕掛けたのだ。政虎は康胤を討伐すべく越中へ攻め込んだが、翌四月には同じく武田信玄の調略に応じた上杉家有力家臣の本庄繁長が越後国内で反乱を起こした為、越中攻めを中断して越後へ戻らざるを得なかった。永禄十二年三月に繁長は降伏、六月に北条家と同盟を締結して後顧の憂いを絶った政虎は八月に康胤を討伐すべく再び越中へ攻め込んだが、康胤が籠もる松倉城は三方が断崖絶壁と天然の要害だった為に流石の政虎も攻めあぐねていた。そうこうしている間に武田信玄が十月に入り上野国へ侵攻したと報せが入り、政虎は百日間にも及ぶ松倉城攻めを切り上げて越後へ引き揚げた。
元亀二年二月、今度こそ決着をつける意気込みで謙信は二万八千の兵を率いて越中へ侵攻。前回は攻略出来なかった松倉城を始め、新庄城・富山城など椎名方の主要な城を次々と落としていき、康胤を守山城に追い詰めた。しかし、またしても武田勢が上野国に侵攻したと報せが届き、あと一歩というところで謙信は撤退を余儀なくされた。
ここで、謙信にさらなる逆風が吹く。加賀の一向一揆で主要な人物である杉浦玄任へ、元亀二年四月二十八日に武田勝頼が書状で上杉謙信に対抗するよう要請したのだ。玄任率いる加賀の一向一揆勢は同年五月に越中へ入り、現地の一向一揆勢や椎名康胤、さらには神保長城(長職の次男)も加わり、一大勢力となって越中国内の上杉方に襲い掛かったのだ! この時関東へ出兵する方向で考えていた謙信だが、一揆勢が破竹の勢いで越中国内における上杉方の拠点を落としていた事で方針を転換。八月十日に一万の兵を率いて越中へ向かった。九月、尻垂坂の地で一揆勢に大勝したのを境目に、上杉勢が次第に優勢に立っていく。玄任は加賀へ逃れ。越中の一向一揆勢と国人達は勢いを失い、形勢は一気に悪化した。元亀四年正月、これ以上の抵抗は難しいと判断した一向一揆勢は謙信に和議を申し入れた。実質的な降伏で、謙信もこれを了承した。信玄の西上作戦で謙信に邪魔されたくないが為に扇動したが、結果的に信玄の目論見通りとなった。対する謙信も大規模な動乱となったものの越中国内における反上杉勢力を一挙に弱体化させたのは大きな収穫だった。
越中の大半を掌握した謙信は、西へ版図を拡げる道筋を確保した。逆に、織田家から見れば信玄存命時の武田家と対等に渡り合った上杉謙信とぶつかる可能性が現実味を帯びたことになる。
それに加え、謙信が西上する材料も出てきた。天正四年四月、備後鞆に居る足利義昭が謙信に対して幕府再興に協力を求めたのだ。さらに義昭は、石山本願寺の顕如へ長年対立してきた上杉謙信と和睦するよう促した。これまで武田家が織田家を攻撃する際に上杉家が横槍を入れないよう石山本願寺を通して一向一揆を扇動してきたが、共通の敵となった織田家を倒すには上杉家の参戦が必要不可欠だった。謙信の方も自領及び隣国の一向一揆が足枷になっていた側面があった事から、本願寺と和睦を結ぶのは満更でもなかった。両者の思惑が一致したのもあり、五月には義昭の仲介で上杉家と石山本願寺の和睦が成立した。
四月からの二ヶ月で、謙信は織田家を攻める口実と環境が整った。信長が現状最も相手にしたくない上杉家が、遂に動き出そうとしていた……。
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