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三 : 萌芽 - (19) 設楽原の決戦
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五月二十一日、早朝。信忠は設楽原の自陣で夜明けの時を待っていた。
父・信長は茶臼山に本陣を構えているが、信忠はそこから少し離れた場所に配置された。万一の時に当主と嫡男が二人共討たれる最悪の事態を避ける為の措置だ。
信忠を大将に、副将は河尻秀隆、他に森長可を始めとした尾張・美濃衆が付けられている。
白々と、夜の闇が引いていく。朝靄が立ち込める設楽原で、床机に腰掛ける信忠の心境は正直なところ穏やかではない。見通しが利かず、この先に布陣している筈の武田勢の姿が見えないのは、やっぱり不安になる。
こういう時こそ不安を紛らわす為に話をしたい気持ちの信忠だったが……傍らに控えるのは、秀隆。秀隆が纏う陰鬱な雰囲気が元々苦手な上に、戦の前で明らかに気が立っているのが伝わってくる。非常に、気まずい。側には伝兵衛も控えているものの、秀隆が居る手前もあり雑談をする事自体が躊躇われる。あとは歳が近く何度も話をしている長可だけど、今は前線に出ていて不在だ。
信忠が一軍を率いた経験は、数える程度。その内、伊勢長島では一揆勢に死に物狂いの猛反撃に遭い一門衆の将が何人も討たれる失態を犯している。今回は流石にそうした事態は避けたい。
陣中を見回りに行こうか。信忠が立ち上がろうとした、その時。
「……お待ち下さい」
不意に、横から声が掛かる。秀隆だ。
秀隆の制止で思い留まった信忠は、一旦浮かせた腰を再び床机に下ろす。それを確認してから、秀隆が口を開いた。
「既に配置は完了し、あとは開戦を待つのみ。……畏れながら、勘九郎様が出るまでもありません」
「……そうか」
出るまでもないと秀隆は言っているが、本音では“貴方様の出る幕はない”と言いたいのだろう。確かに、実戦経験の浅い雛が今更現場に出て行って何が出来るというのか。自分でもそれくらい分かっていた。
ただ、秀隆も思う所があったのか、信忠の方に顔を向けて諭すように言った。
「……ご心配には及びません。此度の戦では、勘九郎様のお手を煩わせる事はないでしょう。どっしりと構えておられれば十分です」
安心させたい意図があって言っている秀隆だが、受け手の信忠にはそう聞こえない。座っているだけでいいなら、誰でも出来るではないか? と思わなくもない。信忠は“信長の子”である事に意味がある、と言っているようにも受け取れる。
一方で、信忠に求められるのは命を懸けた武功ではない。一軍の将として状況に応じて判断し指示を出す事と、取り乱さず冷静に振る舞う事だ。中小の土豪同士の合戦ならば兵を鼓舞する為にも自ら武器を取り敵中に切り込んでいく姿を見せるのが務めなのだろうが、今の織田家は違う。京を収め、天下で五本の指に入る規模を誇る大大名だ。個人の武勇よりも軍の象徴こそ優先されるべきである。万一にも信忠が命を落とすような事があれば、戦に勝ったとしても家名に傷が付き、勝利の効果が著しく欠けてしまう。信忠はそういう存在なのだと自覚していた。
反駁したい気持ちをグッと堪える信忠。戦の前に言い争いをして士気を下げるような愚行は慎むべきだ。
そうこうしている間に、夜が明けた。太陽暦では六月二十九日、梅雨の時期に当たるが空は薄曇りで雨が降りそうな気配はない。
すると、遠くから法螺の音が聞こえてきた。これは織田家や徳川家のものではない。靄の先に居る、武田勢のものだ。
武田勢突撃の合図と思われる法螺の音を受け、陣内は俄かに人の行き来が増える。ただ、慌てふためくというよりも予め襲来するのを織り込み済みで粛然とやるべき事をしているように信忠の目には映る。
馬防柵の前に、鉄砲を構えた兵がズラリと並ぶ。既に火縄には火が点いており、あとは引き金を引くだけの状態だ。
やがて……靄の先から、大勢の騎馬武者が姿を現した。織田・徳川の陣へ目掛けて、鯨波のように猛然と押し寄せてくる。
その距離は刻一刻と縮まっていく。設楽原に面で向かってくる武田勢の圧を感じてはいるが、まだ発砲の命令は出ない。鉄砲は有効射程から外れると威力がガクンと落ちる。矢より遠く飛ぶがギリギリまで引き付けておきたい。
そして――馬防柵まであと少しまで武田の騎馬隊が迫った、その時。
「放てー!!」
鉄砲頭の命令で、一斉に鉄砲が火を噴く。百雷が一度に落ちたような轟音が木霊し、辺りは硝煙で煙る。
撃ち終わった組がサッと持ち場から離れ、入れ替わりで次の組が前に出て鉄砲を構える。
「放てー!!」
再び、並べられた筒が火を噴く。無数の鉛玉が立て続けに武田勢を襲い、立っている者の姿は極僅かだ。
今度も撃ち終えた者が退き、先程の組の者達は既に再装填を済ませており、入れ替わりでまた撃つ。
こうして“間断なく”とまではいかないものの比較的早い間隔でどんどん撃っていく。武田の騎馬隊は本来の敵陣を蹂躙する突破力を発揮出来ず、次々と鉛弾の餌食になっていく。
信長は、鉄砲という武器を用いて、なるべく犠牲が出ない戦を実現させようとしていた。
武田勢の強さの源は、自慢の馬を最大限に活かした騎馬隊だ。武田家の本国である甲斐は馬の産地で、優れた馬が多いだけでなく馬の扱いに長ける者も多かった事から、軍の編成に多く取り入れていた。騎馬隊は機動力に優れ、馬自体に人を殺傷するだけの力があり、鍛錬を積んだ武者が馬上から攻撃する事で、他家を圧倒する強さを手に入れたのだ。
まず始めに矢を放ったり石を投じたりする事で敵に出足を挫き、怯んだ所を騎馬隊が敵陣へ突撃、陣形が乱れた所へ歩兵を投入する。これが武田家の基本的な戦法で、特に野戦で勝利を収めてきた。
これに対し、信長は鉄砲で対抗しようと考えた。南北数里に渡る馬防柵を三重に設け、騎馬隊の突撃を食い止めると共に鉄砲隊の安全を確保した。それと特筆すべきは、鉄砲の数。信長は今回の戦に三千挺とも四千挺とも言われる桁外れの量の鉄砲を持ち込んだ。今、日ノ本でこれだけの数の鉄砲を持っているのは、畿内を押さえる織田家くらいだ。鉄砲のみならず火薬の原材料となる硝石を購入するにも金が掛かるが、資金力の面で他家を圧倒する織田家は十分に賄う事が出来た。織田家だからこそ実現した戦い方とも言える。
通説では、三千挺の鉄砲を三つに分けた上で“一組目が撃ち・二組目が弾込め・三組目が筒内を掃除する”のを順繰りで行う“三段撃ち”が有名だが、近年の研究では真実ではないという見方が強い。それでも、三千挺を二つに分けた千五百挺が交互に撃ったとしても、当時としてはかなり画期的な戦法だった。
信忠は、目の前の光景を俄かに信じがたい気持ちだった。
武田勢の強さは、身に沁みて知っているつもりだ。元亀三年の武田信玄による西上の折には織田家よりも兵が強いとされる徳川家が赤子の手を捻るように大敗し、昨年は東美濃を刈り取られ、先代信玄すら落とせなかった難攻不落の高天神城を攻略された。偉大な君主だった信玄が亡くなってからも、その薫陶を受けた将も鍛え上げられた兵も健在だった。正直なところ、信忠は今回の戦は相当苦しいものになると覚悟していた。
それが……蓋を開けてみたらどうだ。開戦直後から、武田勢を圧倒しているではないか。
武田勢が押し寄せてくる。織田・徳川の鉄砲が火を噴く。武田勢が倒れる。ずっと、この繰り返しだ。一部の武田勢が中央ではなく馬防柵の端へ迂回する動きを見せたが、事前に兵を厚く配置していたのもあり交戦はあれど破られたという報告は入っていない。馬防柵も一部の一列目は引き倒されたが、二列目・三列目は未だ無傷だ。
本当に、どっしり構えているだけで勝てそうな勢いだ。
あの“戦国最強”と謳われた武田家に、こんなあっさりと勝っていいものなのか。信忠は興奮するより困惑していた。
合戦は昼過ぎまで四刻(約八時間)に渡り続いたが、最後まで織田・徳川連合軍が圧倒した。武田勢は一門衆の武田信豊や穴山信君が合戦の最中に兵を引くなど結束した行動を取れず、勝頼も当初こそ最後まで残る覚悟だったが馬場信春に「我等が時間を稼ぐので、その間に退却を」と進言され、未の正刻(午後二時)頃に少数の供を連れて退却した。
この戦いで武田方は一万を超える戦死者を出した。その中には先代信玄の頃から武田家の屋台骨を支えてきた重臣の山県昌景・馬場信春・内藤昌豊、将来の武田家を支える若手有望株の真田信綱・昌輝兄弟・土屋昌続・さらに他家にも知られる原昌胤・安中景繁など錚々たる面々が数多く含まれ、数字以上に壊滅的な損失と言える。一方の織田・徳川連合軍の戦死者は皆無とはいかなかったが、千人程度と武田勢を相手にした戦を思えばかなり抑えられた。
勝頼は信濃へ逃れた後、設楽原の敗戦を聞いて駆け付けた海津城の春日虎綱が駒場で出迎えてくれ、六月二日に甲府へ戻った。しかし、設楽原における惨敗で三分の二以上の将兵を失い、武田家の飛躍を支えた歴戦の猛者も多数討死してしまった。功臣と屈強な兵を一度に失った武田家は再建に向けて奔走することとなる。
父・信長は茶臼山に本陣を構えているが、信忠はそこから少し離れた場所に配置された。万一の時に当主と嫡男が二人共討たれる最悪の事態を避ける為の措置だ。
信忠を大将に、副将は河尻秀隆、他に森長可を始めとした尾張・美濃衆が付けられている。
白々と、夜の闇が引いていく。朝靄が立ち込める設楽原で、床机に腰掛ける信忠の心境は正直なところ穏やかではない。見通しが利かず、この先に布陣している筈の武田勢の姿が見えないのは、やっぱり不安になる。
こういう時こそ不安を紛らわす為に話をしたい気持ちの信忠だったが……傍らに控えるのは、秀隆。秀隆が纏う陰鬱な雰囲気が元々苦手な上に、戦の前で明らかに気が立っているのが伝わってくる。非常に、気まずい。側には伝兵衛も控えているものの、秀隆が居る手前もあり雑談をする事自体が躊躇われる。あとは歳が近く何度も話をしている長可だけど、今は前線に出ていて不在だ。
信忠が一軍を率いた経験は、数える程度。その内、伊勢長島では一揆勢に死に物狂いの猛反撃に遭い一門衆の将が何人も討たれる失態を犯している。今回は流石にそうした事態は避けたい。
陣中を見回りに行こうか。信忠が立ち上がろうとした、その時。
「……お待ち下さい」
不意に、横から声が掛かる。秀隆だ。
秀隆の制止で思い留まった信忠は、一旦浮かせた腰を再び床机に下ろす。それを確認してから、秀隆が口を開いた。
「既に配置は完了し、あとは開戦を待つのみ。……畏れながら、勘九郎様が出るまでもありません」
「……そうか」
出るまでもないと秀隆は言っているが、本音では“貴方様の出る幕はない”と言いたいのだろう。確かに、実戦経験の浅い雛が今更現場に出て行って何が出来るというのか。自分でもそれくらい分かっていた。
ただ、秀隆も思う所があったのか、信忠の方に顔を向けて諭すように言った。
「……ご心配には及びません。此度の戦では、勘九郎様のお手を煩わせる事はないでしょう。どっしりと構えておられれば十分です」
安心させたい意図があって言っている秀隆だが、受け手の信忠にはそう聞こえない。座っているだけでいいなら、誰でも出来るではないか? と思わなくもない。信忠は“信長の子”である事に意味がある、と言っているようにも受け取れる。
一方で、信忠に求められるのは命を懸けた武功ではない。一軍の将として状況に応じて判断し指示を出す事と、取り乱さず冷静に振る舞う事だ。中小の土豪同士の合戦ならば兵を鼓舞する為にも自ら武器を取り敵中に切り込んでいく姿を見せるのが務めなのだろうが、今の織田家は違う。京を収め、天下で五本の指に入る規模を誇る大大名だ。個人の武勇よりも軍の象徴こそ優先されるべきである。万一にも信忠が命を落とすような事があれば、戦に勝ったとしても家名に傷が付き、勝利の効果が著しく欠けてしまう。信忠はそういう存在なのだと自覚していた。
反駁したい気持ちをグッと堪える信忠。戦の前に言い争いをして士気を下げるような愚行は慎むべきだ。
そうこうしている間に、夜が明けた。太陽暦では六月二十九日、梅雨の時期に当たるが空は薄曇りで雨が降りそうな気配はない。
すると、遠くから法螺の音が聞こえてきた。これは織田家や徳川家のものではない。靄の先に居る、武田勢のものだ。
武田勢突撃の合図と思われる法螺の音を受け、陣内は俄かに人の行き来が増える。ただ、慌てふためくというよりも予め襲来するのを織り込み済みで粛然とやるべき事をしているように信忠の目には映る。
馬防柵の前に、鉄砲を構えた兵がズラリと並ぶ。既に火縄には火が点いており、あとは引き金を引くだけの状態だ。
やがて……靄の先から、大勢の騎馬武者が姿を現した。織田・徳川の陣へ目掛けて、鯨波のように猛然と押し寄せてくる。
その距離は刻一刻と縮まっていく。設楽原に面で向かってくる武田勢の圧を感じてはいるが、まだ発砲の命令は出ない。鉄砲は有効射程から外れると威力がガクンと落ちる。矢より遠く飛ぶがギリギリまで引き付けておきたい。
そして――馬防柵まであと少しまで武田の騎馬隊が迫った、その時。
「放てー!!」
鉄砲頭の命令で、一斉に鉄砲が火を噴く。百雷が一度に落ちたような轟音が木霊し、辺りは硝煙で煙る。
撃ち終わった組がサッと持ち場から離れ、入れ替わりで次の組が前に出て鉄砲を構える。
「放てー!!」
再び、並べられた筒が火を噴く。無数の鉛玉が立て続けに武田勢を襲い、立っている者の姿は極僅かだ。
今度も撃ち終えた者が退き、先程の組の者達は既に再装填を済ませており、入れ替わりでまた撃つ。
こうして“間断なく”とまではいかないものの比較的早い間隔でどんどん撃っていく。武田の騎馬隊は本来の敵陣を蹂躙する突破力を発揮出来ず、次々と鉛弾の餌食になっていく。
信長は、鉄砲という武器を用いて、なるべく犠牲が出ない戦を実現させようとしていた。
武田勢の強さの源は、自慢の馬を最大限に活かした騎馬隊だ。武田家の本国である甲斐は馬の産地で、優れた馬が多いだけでなく馬の扱いに長ける者も多かった事から、軍の編成に多く取り入れていた。騎馬隊は機動力に優れ、馬自体に人を殺傷するだけの力があり、鍛錬を積んだ武者が馬上から攻撃する事で、他家を圧倒する強さを手に入れたのだ。
まず始めに矢を放ったり石を投じたりする事で敵に出足を挫き、怯んだ所を騎馬隊が敵陣へ突撃、陣形が乱れた所へ歩兵を投入する。これが武田家の基本的な戦法で、特に野戦で勝利を収めてきた。
これに対し、信長は鉄砲で対抗しようと考えた。南北数里に渡る馬防柵を三重に設け、騎馬隊の突撃を食い止めると共に鉄砲隊の安全を確保した。それと特筆すべきは、鉄砲の数。信長は今回の戦に三千挺とも四千挺とも言われる桁外れの量の鉄砲を持ち込んだ。今、日ノ本でこれだけの数の鉄砲を持っているのは、畿内を押さえる織田家くらいだ。鉄砲のみならず火薬の原材料となる硝石を購入するにも金が掛かるが、資金力の面で他家を圧倒する織田家は十分に賄う事が出来た。織田家だからこそ実現した戦い方とも言える。
通説では、三千挺の鉄砲を三つに分けた上で“一組目が撃ち・二組目が弾込め・三組目が筒内を掃除する”のを順繰りで行う“三段撃ち”が有名だが、近年の研究では真実ではないという見方が強い。それでも、三千挺を二つに分けた千五百挺が交互に撃ったとしても、当時としてはかなり画期的な戦法だった。
信忠は、目の前の光景を俄かに信じがたい気持ちだった。
武田勢の強さは、身に沁みて知っているつもりだ。元亀三年の武田信玄による西上の折には織田家よりも兵が強いとされる徳川家が赤子の手を捻るように大敗し、昨年は東美濃を刈り取られ、先代信玄すら落とせなかった難攻不落の高天神城を攻略された。偉大な君主だった信玄が亡くなってからも、その薫陶を受けた将も鍛え上げられた兵も健在だった。正直なところ、信忠は今回の戦は相当苦しいものになると覚悟していた。
それが……蓋を開けてみたらどうだ。開戦直後から、武田勢を圧倒しているではないか。
武田勢が押し寄せてくる。織田・徳川の鉄砲が火を噴く。武田勢が倒れる。ずっと、この繰り返しだ。一部の武田勢が中央ではなく馬防柵の端へ迂回する動きを見せたが、事前に兵を厚く配置していたのもあり交戦はあれど破られたという報告は入っていない。馬防柵も一部の一列目は引き倒されたが、二列目・三列目は未だ無傷だ。
本当に、どっしり構えているだけで勝てそうな勢いだ。
あの“戦国最強”と謳われた武田家に、こんなあっさりと勝っていいものなのか。信忠は興奮するより困惑していた。
合戦は昼過ぎまで四刻(約八時間)に渡り続いたが、最後まで織田・徳川連合軍が圧倒した。武田勢は一門衆の武田信豊や穴山信君が合戦の最中に兵を引くなど結束した行動を取れず、勝頼も当初こそ最後まで残る覚悟だったが馬場信春に「我等が時間を稼ぐので、その間に退却を」と進言され、未の正刻(午後二時)頃に少数の供を連れて退却した。
この戦いで武田方は一万を超える戦死者を出した。その中には先代信玄の頃から武田家の屋台骨を支えてきた重臣の山県昌景・馬場信春・内藤昌豊、将来の武田家を支える若手有望株の真田信綱・昌輝兄弟・土屋昌続・さらに他家にも知られる原昌胤・安中景繁など錚々たる面々が数多く含まれ、数字以上に壊滅的な損失と言える。一方の織田・徳川連合軍の戦死者は皆無とはいかなかったが、千人程度と武田勢を相手にした戦を思えばかなり抑えられた。
勝頼は信濃へ逃れた後、設楽原の敗戦を聞いて駆け付けた海津城の春日虎綱が駒場で出迎えてくれ、六月二日に甲府へ戻った。しかし、設楽原における惨敗で三分の二以上の将兵を失い、武田家の飛躍を支えた歴戦の猛者も多数討死してしまった。功臣と屈強な兵を一度に失った武田家は再建に向けて奔走することとなる。
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