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二 : 立志 - (18) 終わりの足音

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 二月末に義昭方の石山・今堅田の両砦を落とした織田勢だが、そこで動きを停止した。あくまで武力行使はしたくないという姿勢を崩さなかったが、義昭は和睦に応じようとしなかった。この頃になると武田勢が引き返したという報せが義昭の耳にも届いていたが、それでもまだ勝算はあると諦めていなかった。約一月の猶予を与えたが義昭の心境に変化は無いと信長は判断。三月二十五日に義昭を討伐すべく軍勢を率いて岐阜を発った。この軍勢の中には、人質に求められた時を想定して奇妙丸も同行している。
 信長率いる軍勢は西へ進み、途中で先月近江に派遣した部隊と合流。三月二十九日には近江国と山城国の境にある逢坂おうさか関に迫った。
 逢坂関は古来から京の都を守る上で重要な関所で、通行する者達から関銭を徴収していた時期もあったが現在は廃止され、関所だけが残っていた。それでも、東海道・東山道とうさんどうといった主要な街道は逢坂関を通っており、東から都を目指す場合は“京はもうすぐそこ”ということを示すしるべの役割を果たしていた。
 その逢坂関に達しようとした頃、『前方に二人の武家の者が控えている』と先遣せんけんの者から報せが入った。それを聞いた信長は供を一人連れて先頭に立ち、関へ向かう。
 関にはそれぞれ供を一人だけ伴い、身分ある武家の者と思しき二人が信長の到着を待っていた。細身の端正な顔立ちをした男と、がっちりとした体格の髭面ひげづらの男だ。
 信長は二人の姿を確かめると、馬から降りて声を掛けた。
兵部ひょうぶ大輔たいふ信濃守しなののかみ、出迎え大儀である」
「ははっ!!」
 声を掛けられ、恭しくこうべを垂れる二人。その内、細身の男が僅かに頭を上げ、口を開いた。
それがし、長年公方様に仕えて参りましたが、近年の振る舞いは武家の棟梁に相応しくないと常々思っておりました。この度の挙兵も某には賛同しかねず、織田様の御力になりたいと考え、お待ちしていた次第にございます」
 こう述べるのは、細川藤孝。元は代々幕府の奉公衆の家柄だった三淵みつぶち家で生を受けたが、七歳の時に細川元常もとつねの養子となる。始めは義輝に仕えていたが、永禄の変で義輝が討たれると他の幕臣達と共に興福寺で幽閉されていた一乗院覚慶かくけい(後の義昭)の救出に尽力し、義昭の将軍就任に向けて奔走ほんそうした。その血筋からも分かるように生粋の幕臣で、その藤孝が義昭を見限り信長に臣従する姿勢を示したのは、とても衝撃的な出来事だった。
 隣に控える髭面の男は、荒木村重。摂津国の国人の生まれだが、主君筋の池田長正ながまさの娘をめとるなど池田家内で頭角を現した。その後、三好三人衆の調略に応じて主君の勝正(長正の子)を追放すると独立、義昭はその実力を買って幕臣に引き入れた。小禄の幕臣にあって摂津国の大半を治める有力武将の村重が信長の下に降ったのは、義昭方にとって致命的な痛手とも言える。
 戦う前から義昭を支える有力幕臣が二人も軍門に降った事は、義昭の影響力が著しく低下しているのを象徴していた。
 その後、織田勢は京へ侵攻、洛外に布陣した。信長は内裏だいりに黄金五枚を贈呈した上で「安心されたし」と伝えた一方、義昭に対して明智光秀・細川藤孝が使者となり「講和の意思があるなら自分(信長)と嫡男(奇妙丸)は剃髪ていはつし、嫡男を人質に差し出す」と最大限の譲歩を示した。対立が決定的になった状況でも信長は和睦を求める姿勢を崩さなかったが、義昭はこれを拒否。三十日には京都奉行の村井貞勝の屋敷を義昭方の兵が包囲し火を放った。貞勝は逃げ出して無事だったが、この暴挙で衝突は避けられない事は誰の目にも明らかだった。
 そんな中で、一万を超える織田方が京を焼き討ちにするという噂を知った町衆が、焼き討ちの中止を嘆願たんがんする為に信長へ面会を求めた。上京かみぎょうの町衆は銀千五百枚、下京しもぎょうの町衆は銀八百枚をそれぞれ信長に献上した。これに対して信長は、庶民が多い下京の町衆から献上された銀は受け取らずに焼き討ちを行わない旨を明言したが、信長に批判的な層が多い上京の町衆は銀を受け取っても中止に言及しなかった。
 四月二日。信長は家臣達に命じて京の市外を放火。四日には義昭が籠もる二条城を包囲した上で、上京の焼き討ちを命じた。
 上京で焼き討ちが行われている最中、信長の本陣がかれた知恩院ちおんいんに奇妙丸を訪ねてきた人物が居た。
「奇妙丸様、お久しゅうございます」
「隆佐様!! お久し振りにございます!!」
 思いがけない再会に、奇妙丸の声も弾む。
「かれこれ四年になりますか。立派になられましたな」
「ありがとうございます。隆佐様も、息災のようで何よりです。……して、本日はどのような用向きでこちらに参られたのですか?」
 奇妙丸が疑問を投げ掛けると、隆佐は少し困ったような顔を浮かべた。
「実を申しますと……本日は、信長様へ京に居る宣教師達の身の安全を保障して頂けるよう、お願いに伺いました。耶蘇教に寛容な姿勢の信長様なら、きっと我々の要望をお聞き届け下さると思いましたので」
 信長が上洛を果たしてから、京の治安は劇的に改善された。将軍家とその後ろ盾となる織田家の間に勢力争いは無く、京をおびやかす勢力も近隣に存在せず、人々は久しく忘れていた平穏の中にあった。ところが、義昭の挙兵からにわかにきな臭くなり、信長が大軍を率いて京に迫っていると知ると、戦に巻き込まれたくないとばかりに京の市中は大騒ぎになった。南蛮から来た宣教師達は日本語が分からなかったり地理にうとかったりの者ばかりで、急転した情勢を理解出来ずに不安がっていた。
 こうした状況に、畿内における宣教師達の最大の庇護ひご者に当たる小西隆佐が動いた。伝手を頼って信長との対面を実現させ、フロイスの警護も買って出たのだ。フロイスは渡来品の金平糖などを信長に献上した上で宣教師達の保護を求め、信長もこれを了承している。
「此度の信長様の出陣に奇妙丸様も同行されていると聞き、是非ともお会いしたいと思い、フロイス殿の警護を息子に任せて挨拶に伺った次第です」
 そう話す隆佐に、嬉しそうに頷く奇妙丸。本当ならもっと話していたいが、今は上京の焼き討ちの真っ只中。和気藹々わきあいあいと歓談している場合ではない。
 顔を見れて良かった、という感じで隆佐が辞そうとした。その去り際、隆佐は奇妙丸の方を向いて呟いた。
「……本当に、武家の者らしくたくましい顔つきになられましたな」
 こう述べた隆佐は一つ頭を下げて、奇妙丸の前から去って行った。
 武家の者らしく逞しい顔つき……隆佐が残した一言に、奇妙丸は小首をかしげた。自分自身そんなに変わったと思っていないが、あの隆佐が言うからには事実なのだろう。それが果たして良いのか悪いのか、奇妙丸には判別がつかなかった。
 上京の焼き討ちを断行した織田方だったが、非難の声はむしろ義昭方の方に向けられた。この当時、町を焼かれた場合の多くが非道な行いをした攻め手ではなく、住民を守れなかった守り手が批判された。外敵の侵攻を防ぐのが武家の務めであり、その最低限の事すら出来なければ領民からの信頼はがた落ちで、影響力の低下に直結した。義昭は夜の空に赤々と照らされる光の怖さや自らの支持層である上京の住民の反発ですくみ上がり、信長に和睦交渉を申し入れた。
 四月七日、正親町天皇が『これ以上の争乱は望まない』旨を両陣営に通知し、和睦の勅命が出された。信長も義昭もこれに応じ、両者の間で和睦が成立。翌八日には信長が京を発ち、途中近江国内の反織田勢力の拠点を落としてから十一日に岐阜へ帰還した。
 万一の事態に備えて父に同行していた奇妙丸だったが、人質になる事は無かった。しかし、約一カ月に渡り父と同行する中で、政治的駆け引きを間近で見れたのは大変有意義な経験を得られた。
 帝の意向もあり矛を収めたものの、奇妙丸の目から見ても義昭は再度挙兵するだろうなと予想していた。ただ、今回の出兵でも義昭とほぼ戦わずに勝てたので、次があっても勝ちは揺るぎないとも見ていた。負けると他の者でも分かっているのに、どうして戦いを挑むのだろうか。これが権威の魔物に魅入みいられたせいか、と奇妙丸は考えずにいられなかった。

 義昭が挙兵した最大の決め手は、武田信玄が上洛を標榜ひょうぼうして西上する動きを見せたからだ。実際に、武田勢が西上を開始してから快進撃を続けていたし、信長も差し迫る脅威に神経をとがらせていた。義昭のみならず、長年織田家と対峙してきた反織田勢力にとっても、武田家は頼みの綱だった。
 だが、年が明けると武田勢の動きは鈍く、三河の野田城を二ヶ月掛けて落としたかと思うと、来た道を引き返してしまったのだ。その動向は敵味方問わず注視していたが、明らかに様子がおかしかった。その後、長篠城に暫く留まっていた武田勢は、四月に入り甲斐へ向けて東に移動を開始した。
 そして――元亀四年四月十二日。武田信玄、死去。享年五十三。
 甲斐へ戻る途中、信濃国駒場で亡くなったとされる。信玄は亡くなる間際に『自らの死は三年秘匿ひとくとすること』『武王丸(勝頼の嫡男、遠山直廉の娘の子)が成人するまでは勝頼が代行すること』『自らの死後は越後の上杉謙信を頼ること』を遺言として家臣達に託した。また、山県昌景に対して『源四郎(昌景の幼名)、明日は瀬田に旗を立てよ』と言ったとされる。
 偉大な絶対的君主の死を外部に悟られないよう武田家中で隠匿いんとくしたが、それは敵わなかった。飛騨ひだ国の国人・江馬えま輝盛てるもりの家臣で河上富信が四月二十五日付で上杉家家臣・河田かわだ長親ながちかに宛てた書状の中で信玄の死に触れており、この時点で信玄の死が外部に漏洩ろうえいした事が分かると思う。また、武田勢の侵攻により徳川家から離反していた奥平貞能が家康の調略に応じて復帰するに際し、元亀四年六月二十二日に家康へ“信玄は確実に死んでいる”旨を伝えたとされる。
 信玄の死で、東からの脅威は完全に取り除かれた。信長は後顧の憂いなく西へ兵力を投入出来る下地が整った。
 元亀に改元されてから逆風続きだったが、ようやく光が見えてきた。恐らく信長の心境はそんな感じだったに違いなかろう。
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