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一 : 黎明 - (5) 沢彦宗恩

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 数日後。座学の為に招かれた講師を伴って、新左が部屋に入ってきた。
沢彦たくげん和尚、こちらにいらっしゃるのが若君にございます」
 黒の袈裟けさに身を包んだお坊様が、奇妙丸の方に目を向けた。角ばった顔で柔らかな眼差しをした人、というのが奇妙丸の抱いた第一印象だった。
「お初にお目にかかります。奇妙丸にございます」
 奇妙丸が自分の名を名乗ると大半の人が「えっ」と驚いたり戸惑った表情を浮かべたりするのだが、和尚は動じるどころか相好を崩した。
「おぉ、貴方が吉法師きっぽうし様の御子ですか。父君に似て、とても利発そうな顔をされておる」
 思わぬ発言に、目を丸くする奇妙丸。
「……父上をご存知なのですか?」
「存じているも何も、吉法師様に学問を教えたのは拙僧だからな。……あぁ、挨拶が遅れた。拙僧の名は沢彦宗恩そうおんじゃ。皆からは『沢彦和尚』と呼ばれておる」
 沢彦は臨済宗の僧侶で、その昔は信長がまだ“吉法師”の名で“うつけ”と呼ばれる程に奇妙で自由気儘きままな振る舞いをしていた時に、当時信長の傅役を務めていた平手政秀が教育役として招かれた事から織田家との関わりが始まる。後に平手政秀が自害すると、その菩提をとむらう為に建立こんりゅうした政秀寺せいしゅうじ開山かいさんを沢彦が務めている。また、最近だと元々は“井ノ口”と呼ばれていた稲葉山城下の名を、中国の周の故事にならい“岐阜”と改めるよう信長に進言したとされる。
 すると、側で控えていた新左が恐る恐るといった感じで沢彦に声を掛けた。
「あの……沢彦和尚、御屋形様を幼名で呼ばれるのはちょっと……」
「何を申すか。吉法師様は幾つになられても吉法師様じゃ。本人にも昔と同じように呼んでいるが、止めてくれと言われた事は無い。それで何が悪いのか?」
「いえ、その……」
 主君である信長の呼称をやんわりと直すようにお願いした新左だったが、見事な返り討ちに遭ってしまった。武芸の稽古では滅法強かったのに今日は沢彦和尚の前にタジタジである。
「さて、座学を始める前に、奇妙丸様に一つ質問をしたい」
「何なりと」
 新左に対する舌鋒鋭いやり取りを目の当たりにしていた奇妙丸は、やや緊張しながら応じる。
「――武家は、何故なにゆえ様々な者達の上に立っているか、お分かりでしょうか?」
 沢彦から単刀直入に問われた奇妙丸だったが、すぐに返す事が出来なかった。
 正直に言って、考えた事も無かった。
 生まれてからずっと何不自由なく生活してきたが、よくよく考えてみれば炊事や洗濯、掃除などの雑事は全て下働きの者に丸投げしているのを当たり前に思っていた事を、今更ながら気付かされた。百姓で同じ年頃の子は既に親の仕事の手伝いをしているだろうし、町に住む子でもおつかいや家の前の掃き掃除はしているだろう。自分は武家の子に生まれたからこそ、そうした事をしないで暮らしていける環境を手にしたのだ。
 目を向けてこなかった現実を突き付けられた奇妙丸だったが、それでも必死に沢彦の質問の答えを探ろうとしていた。
「……民の代わりに命をけて敵と戦い、人々と暮らしを守るから?」
「確かに。外敵から生活と財産を守る。それもある」
 うんうんと頷く沢彦。だが、正答ではない様子。
「ならば、何故武家は他人の領地をおかすのでしょうか?」
 返す刀で質問を重ねられ、言葉に詰まる奇妙丸。戦がある事が当たり前で、これもまた深く考えた事が無かった。
「戦というのは、まぁお金が掛かる。兵を雇い、兵糧を揃え、武器や装備を用意し、馬のまぐさも必要となる……戦を始める前でも色々挙げるが正直キリがない。戦が終わってからも、負傷者の手当、戦死者の見舞金、雇った人足にんそくへの日当、さらに戦火に遭った者達への補償。その他にも後処理や手続きなども合わせれば、割に合わない。でも、武家の者は戦をやりたがる。それは何故か?」
 そこまで雄弁に語った沢彦は、最後にうんざりするといった表情を浮かべる。その話を聞く内に、奇妙丸も少しだけ分かった気がした。
「……自分のところの民を、豊かにする為?」
「金が掛かる、面倒、人が死んで悲しむ者が出る、田畑を荒らされ金品を奪われ途方に暮れる、女は犯され男は売られる。それでも戦をめないのは、諸々もろもろの負の要素を上回るだけの価値があるから。成る程、その通り。――では」
 沢彦は息つく間も与えないように、さらに質問を畳み掛ける。
「武家は何故、決まりを作り揉め事を裁く地位にあるのでしょうか?」
 これまで奇妙丸は、自分なりの正解を見出して答えていたが、今度ばかりは流石にお手上げだった。当たり前のように感じていた事に対して理由を求められても、それまでの常識を疑うくらい辛く難しかった。
 頭を抱える奇妙丸の姿を見て、沢彦は「やり過ぎた」と少し反省した顔で言った。
「……いや、少々意地悪な質問でしたな。されど、すぐに『分からない』と投げ出さず懸命に答えを導き出そうとする姿勢は、本当に素晴らしかったです」
 沢彦は軽く詫びながら、感心したような眼差しで奇妙丸を見つめる。
「さて、まずは武家の成り立ちからお話ししましょうか」
 コホンと咳払いを一つしてから、沢彦は落ち着いた口調で語り始めた。
「その昔、京の公家が帝から任じられて各地方へおもむいて年貢の管理や調停などを行ってきましたが、時代が移ろうにつれて公家達はその土地の者に代行させて自らは京に留まるようになりました。その代行者が徐々に力を付けていき、やがては地方から中央へ影響を及ぼすようになりました」
「それが……武家、と?」
 奇妙丸の言葉に、沢彦は「しかり」とうなずく。
「武家の祖先は中央から流れてきた公家やその土地伝来の豪族など色々ありますが、いずれにしても『朝廷しくは公家の代わりにその土地を治めている』事に変わりはありません。だからこそ、落ちぶれても帝や公家は地方の大名達に影響力があるのです。幕府の征夷大将軍の職も、もとを正せば帝から任じられたものであり、将軍は帝に逆らえません。もし逆らえば、帝を害そうとする“朝敵”として討伐の対象にされるからです」
 流れるような説明に、奇妙丸は真剣な表情で聞き入っていた。側で控える新左も興味津々に聞き耳を立てている。
「元々は公家が制度を作っていましたが、公家の力が弱まり武家が世を支配するようになった為、武家がまつりごとを行うようになりました。ですから、『武力があるから偉い』訳ではありません。その理屈が通るなら、強いだけの野盗の輩が上に立つ事となります。武家の中にも勘違いしている阿呆あほうが少なくないですが、民を武力で脅して従わせるなどもってのほかです」
 沢彦が強い口調で断言すると、奇妙丸も表情を引き締める。釣られるように、新左も背筋を伸ばす。
「百姓は作物を生み、職人は物を作り、商人は銭を生みます。なれど、武士は何も生まないどころか民が一生懸命作ったものを奪う始末。その代表的な例が、戦です。一見すれば戦は簡単に勝ち負けがつくと考えますが、実際は違います。大損害を出していても勝つ事もありますし、逆に軽微な損害でも負ける事もあります。勝敗がつくならまだマシな方で、どちらが勝ったか判別がつかずに結果が有耶無耶うやむやになる時だってあります。それと、子どもの喧嘩と決定的な違いは、戦では多かれ少なかれ巻き添えを喰う者が出る事。何の関係もない者達に影響を及ぼし、その怨嗟えんさは巡り巡って武家に返ってくると思って下さい」
「……沢彦の話を聞いていると、戦とはつくづく益のない事だな」
「はい」
 奇妙丸の呟きに、はっきりと沢彦は言い切った。
「戦で物事を決着させるなど、愚の骨頂。武家が己の欲求を満たす為に他国を侵略しても、仮に領地が広がっても出費がかさんで人心はすさんで、結果的に大損になった……なんて事になりかねません。武力を頼りにかすめ取った土地は、戦の影響で田畑は荒れ、町は焼かれ、人々の心は疲れ果てております。そこから何が生まれましょうか。外敵の侵攻を跳ね返しても、それを繰り返せば出費は嵩み土地は荒れ、次第に人心が離れていきます。今回の吉法師様が行った美濃攻めでは、負けても何度も何度も繰り返し出兵を行いましたが、斎藤家の内部を疲弊させる一種の策だったのです。ですから、奇妙丸様はくれぐれも戦を好む人にはなりませぬように」
「……分かりました。和尚のお言葉、しかと胸に刻みます」
 神妙な面持ちで答える奇妙丸に、沢彦は満足そうに穏やかな笑みを浮かべた。
「戦はしないに越したことはありませんが、どうしても避けられない場合もございます。その時に備えて、これから学んで参りましょう」
「はい。よろしくお願い致します」
 はっきりとした声で挨拶した奇妙丸に、沢彦は目を細めた。大名家の子どもとは思えない程に真摯しんしでひたむきな姿勢に、将来大物になる予感を沢彦は抱いていた。
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