6 / 12
6. 五月四日:敦盛
しおりを挟む
同日夜。信長は蘭丸を始めとする小姓も遠ざけ、居室の寝台に一人腰かけていた。
ひどく疲れた顔をしており時折深い溜息を吐いている。日中に晴豊の他にも様々な人物との会合を重ねたのが夜になって一気に噴出したのだろうか。
暫くそうしていると、静かに障子の戸が開かれた。誰かと思って顔を上げると、そこには濃姫が立っていた。
「お疲れのようですね」
濃姫が率直な印象を口にすると、信長も力なく応じた。
「疲れた」
吐き捨てるように短く告げると、再び俯いてしまった。
齢を重ねると、体を動かさなくても疲れてしまう。人と会っているだけなのに、激戦直後のような倦怠感に襲われる。おまけに、肉体的な疲れと比べて精神的な疲れは何日経っても抜けた気がしない。真に厄介だ。
濃姫は信長の前に座るが、信長はそちらに目を向ける気力も失せているのか俯き加減のまま吐露を続けた。
「毎年毎年、考えなければならない事が増えていく。領土が広がれば広がった分だけ懸念事項が多くなる。付き合いが増えると応対するのも面倒臭くなる。どうしたらいいのか、全く見当がつかん」
どうしてだろうか。濃を前にすると言いたい事が次々と口から出てくる。
口下手で、自分の思いを言葉に表すのが苦手で、言葉足らずな自分が、いつの間にか雄弁を振るっている。溜め込んでいた想いや感情が素直に打ち明けられる。本当に不思議な気分だ。
思いの丈を全て吐き出し終えるのを待って、濃姫はさらりと指摘した。
「上様は少々荷を背負い過ぎているのです」
柔らかい口調で、それでいて断定するような言葉に、信長は反射的に顔を上げた。その顔をしっかりと見つめながら濃姫は続けた。
「その肩に天下が懸かっているのです。今この国で最も重たい荷物を担いでいるのですから当然疲れましょう。なれば、少しだけ気楽に、頭の中を空っぽにしてみては如何でしょうか?」
「左様なこと、簡単に出来るはずなど―――」
反論しようと濃姫の方を向くと、その膝の上に何か乗っているのが見えた。鼓である。刹那、信長の脳裏に閃くものがあった。
「……『敦盛』、か」
濃姫は小さく頷くと鼓を肩へ乗せた。成る程、これに付き合うのも一興。
信長は扇子を開くと寝台から立ち上がる。瞑目して呼吸を静かに整えると、意を決して声を発した。
「人間五十年 下天のうちを比ぶれば 夢幻の如くなり 一度生を享け 滅せぬもののあるべきか これを菩提の種と思ひ定めざらんは 口惜しかりき次第ぞ」
朗々とした声で謡いながら、濃姫の打つ鼓の音に合わせて優雅に幸若舞を演じ切る。その顔には先程までの疲れや迷いが一切消えていた。
「如何ですか?」
「……少し、楽になった」
「それは良うございました」
濃姫の問いにすっきりとした表情で答える。吹っ切れた様子であった。
「……桶狭間の合戦の前の晩を、思い出した」
家督を巡る内乱を終結させて落ち着いた矢先、駿河の今川義元が上洛を目的に侵攻してきた。家臣の中から寝返りも発生し、侵攻に備えて造った砦も次々と陥とされ、信長は苦境に立たされていた。
そんな状況の下、清洲城の一室で濃が鼓を打つ中で信長は敦盛を演じた。舞い終えると立ちながら湯漬けを流し込み、乾坤一擲の大勝負に出た。敗色濃厚で勝てる見込みは不明。それでも、座して死を待つのは絶対に嫌だった。
一か八かの賭けは、天候と運に恵まれた信長の勝利で終わった。今思えば、あの戦いで掴んだ勝利が、天下へ飛躍する第一歩だったのかもしれない。
敦盛の一説にある『人間五十年』の一節は、信長の行動哲学だ。齢五十になるまでに日ノ本を統一する。その目標を果たす為に今日まで足を止めることなく走り続けてきた。だが、年齢は既に四十九を数えるが、九州・四国・関東・奥羽は手付かずの状態だ。寿命が五十だとすればあと一年しか残されていない。その事実が信長を追い詰めていき、焦りを生んだ。
効率を優先する傾向は年々強まり、達成の為ならばどんな犠牲も厭わなくなった。全ては、あと一年で天下統一を実現するために。
「あれこれ急いでもキリがありません。上様は無駄を嫌う性分ではありますが、時にはゆるりと立ち止まられてはどうでしょうか?」
「……考えておく」
濃姫の言葉に信長は素っ気無い返事を返した。他人の助言を素直に受け取れない意固地さも昔と変わっていないことに、濃は嬉しそうに笑っていた。
ひどく疲れた顔をしており時折深い溜息を吐いている。日中に晴豊の他にも様々な人物との会合を重ねたのが夜になって一気に噴出したのだろうか。
暫くそうしていると、静かに障子の戸が開かれた。誰かと思って顔を上げると、そこには濃姫が立っていた。
「お疲れのようですね」
濃姫が率直な印象を口にすると、信長も力なく応じた。
「疲れた」
吐き捨てるように短く告げると、再び俯いてしまった。
齢を重ねると、体を動かさなくても疲れてしまう。人と会っているだけなのに、激戦直後のような倦怠感に襲われる。おまけに、肉体的な疲れと比べて精神的な疲れは何日経っても抜けた気がしない。真に厄介だ。
濃姫は信長の前に座るが、信長はそちらに目を向ける気力も失せているのか俯き加減のまま吐露を続けた。
「毎年毎年、考えなければならない事が増えていく。領土が広がれば広がった分だけ懸念事項が多くなる。付き合いが増えると応対するのも面倒臭くなる。どうしたらいいのか、全く見当がつかん」
どうしてだろうか。濃を前にすると言いたい事が次々と口から出てくる。
口下手で、自分の思いを言葉に表すのが苦手で、言葉足らずな自分が、いつの間にか雄弁を振るっている。溜め込んでいた想いや感情が素直に打ち明けられる。本当に不思議な気分だ。
思いの丈を全て吐き出し終えるのを待って、濃姫はさらりと指摘した。
「上様は少々荷を背負い過ぎているのです」
柔らかい口調で、それでいて断定するような言葉に、信長は反射的に顔を上げた。その顔をしっかりと見つめながら濃姫は続けた。
「その肩に天下が懸かっているのです。今この国で最も重たい荷物を担いでいるのですから当然疲れましょう。なれば、少しだけ気楽に、頭の中を空っぽにしてみては如何でしょうか?」
「左様なこと、簡単に出来るはずなど―――」
反論しようと濃姫の方を向くと、その膝の上に何か乗っているのが見えた。鼓である。刹那、信長の脳裏に閃くものがあった。
「……『敦盛』、か」
濃姫は小さく頷くと鼓を肩へ乗せた。成る程、これに付き合うのも一興。
信長は扇子を開くと寝台から立ち上がる。瞑目して呼吸を静かに整えると、意を決して声を発した。
「人間五十年 下天のうちを比ぶれば 夢幻の如くなり 一度生を享け 滅せぬもののあるべきか これを菩提の種と思ひ定めざらんは 口惜しかりき次第ぞ」
朗々とした声で謡いながら、濃姫の打つ鼓の音に合わせて優雅に幸若舞を演じ切る。その顔には先程までの疲れや迷いが一切消えていた。
「如何ですか?」
「……少し、楽になった」
「それは良うございました」
濃姫の問いにすっきりとした表情で答える。吹っ切れた様子であった。
「……桶狭間の合戦の前の晩を、思い出した」
家督を巡る内乱を終結させて落ち着いた矢先、駿河の今川義元が上洛を目的に侵攻してきた。家臣の中から寝返りも発生し、侵攻に備えて造った砦も次々と陥とされ、信長は苦境に立たされていた。
そんな状況の下、清洲城の一室で濃が鼓を打つ中で信長は敦盛を演じた。舞い終えると立ちながら湯漬けを流し込み、乾坤一擲の大勝負に出た。敗色濃厚で勝てる見込みは不明。それでも、座して死を待つのは絶対に嫌だった。
一か八かの賭けは、天候と運に恵まれた信長の勝利で終わった。今思えば、あの戦いで掴んだ勝利が、天下へ飛躍する第一歩だったのかもしれない。
敦盛の一説にある『人間五十年』の一節は、信長の行動哲学だ。齢五十になるまでに日ノ本を統一する。その目標を果たす為に今日まで足を止めることなく走り続けてきた。だが、年齢は既に四十九を数えるが、九州・四国・関東・奥羽は手付かずの状態だ。寿命が五十だとすればあと一年しか残されていない。その事実が信長を追い詰めていき、焦りを生んだ。
効率を優先する傾向は年々強まり、達成の為ならばどんな犠牲も厭わなくなった。全ては、あと一年で天下統一を実現するために。
「あれこれ急いでもキリがありません。上様は無駄を嫌う性分ではありますが、時にはゆるりと立ち止まられてはどうでしょうか?」
「……考えておく」
濃姫の言葉に信長は素っ気無い返事を返した。他人の助言を素直に受け取れない意固地さも昔と変わっていないことに、濃は嬉しそうに笑っていた。
0
お気に入りに追加
5
あなたにおすすめの小説
木瓜の試練 ~人間五十年、生きるも死ぬも一瞬~
佐倉伸哉
歴史・時代
織田家の家紋に用いられている、木瓜。その花言葉は“早熟”“平凡”―――。
永禄三年(西暦一五六〇年)三月、熱田を散策する、織田“上総介”信長。
そこで偶然再会した古くからの馴染みである“弥助”から、駿河の米商人が米を買い集めているという情報を耳にする。
それは駿河・遠江・三河の三ヶ国を治める“海道一の弓取り”今川“治部大輔”義元が西上する兆しに違いなかった―――!!
家督相続を巡り勃発した内紛の傷が癒えていない織田家は、一枚岩とは到底言い難い状況。
今川勢西上の動きに籠城と抗戦で二分する家臣達。その家臣を信じきれない信長。
果たして、信長は迫り来る強敵・今川義元とどう対峙するのか―――!?
◇第125回文學界新人賞 応募作品(落選)◇
※この作品は第125回文學界新人賞に応募した作品を一部加筆修正しています。
<第6回歴史・時代小説大賞>にエントリーしました!
皆様の投票、よろしくお願い致します。
◆この作品は、『小説家になろう』(https://ncode.syosetu.com/n4425gc/)、私の運営するサイト『海の見える高台の家』でも掲載しています。
浮雲の譜
神尾 宥人
歴史・時代
時は天正。織田の侵攻によって落城した高遠城にて、武田家家臣・飯島善十郎は蔦と名乗る透波の手によって九死に一生を得る。主家を失って流浪の身となったふたりは、流れ着くように訪れた富山の城下で、ひょんなことから長瀬小太郎という若侍、そして尾上備前守氏綱という男と出会う。そして善十郎は氏綱の誘いにより、かの者の主家である飛州帰雲城主・内ヶ島兵庫頭氏理のもとに仕官することとする。
峻厳な山々に守られ、四代百二十年の歴史を築いてきた内ヶ島家。その元で善十郎は、若武者たちに槍を指南しながら、穏やかな日々を過ごす。しかしそんな辺境の小国にも、乱世の荒波はひたひたと忍び寄ってきていた……
荒川にそばだつ
和田さとみ
歴史・時代
戦国時代、北武蔵を治める藤田氏の娘大福(おふく)は8歳で、新興勢力北条氏康の息子、乙千代丸を婿に貰います。
平和のために、幼いながらも仲睦まじくあろうとする二人ですが、次第に…。
二人三脚で北武蔵を治める二人とはお構いなく、時代の波は大きくうねり始めます。
空蝉
横山美香
歴史・時代
薩摩藩島津家の分家の娘として生まれながら、将軍家御台所となった天璋院篤姫。孝明天皇の妹という高貴な生まれから、第十四代将軍・徳川家定の妻となった和宮親子内親王。
二人の女性と二組の夫婦の恋と人生の物語です。
帰る旅
七瀬京
歴史・時代
宣教師に「見世物」として飼われていた私は、この国の人たちにとって珍奇な姿をして居る。
それを織田信長という男が気に入り、私は、信長の側で飼われることになった・・・。
荘厳な安土城から世界を見下ろす信長は、その傲岸な態度とは裏腹に、深い孤独を抱えた人物だった・・。
『本能寺』へ至るまでの信長の孤独を、側に仕えた『私』の視点で浮き彫りにする。
独裁者・武田信玄
いずもカリーシ
歴史・時代
歴史の本とは別の視点で武田信玄という人間を描きます!
平和な時代に、戦争の素人が娯楽[エンターテイメント]の一貫で歴史の本を書いたことで、歴史はただ暗記するだけの詰まらないものと化してしまいました。
『事実は小説よりも奇なり』
この言葉の通り、事実の方が好奇心をそそるものであるのに……
歴史の本が単純で薄い内容であるせいで、フィクションの方が面白く、深い内容になっていることが残念でなりません。
過去の出来事ではありますが、独裁国家が民主国家を数で上回り、戦争が相次いで起こる『現代』だからこそ、この歴史物語はどこかに通じるものがあるかもしれません。
【第壱章 独裁者への階段】 国を一つにできない弱く愚かな支配者は、必ず滅ぶのが戦国乱世の習い
【第弐章 川中島合戦】 戦争の勝利に必要な条件は第一に補給、第二に地形
【第参章 戦いの黒幕】 人の持つ欲を煽って争いの種を撒き、愚かな者を操って戦争へと発展させる武器商人
【第肆章 織田信長の愛娘】 人間の生きる価値は、誰かの役に立つ生き方のみにこそある
【最終章 西上作戦】 人々を一つにするには、敵が絶対に必要である
この小説は『大罪人の娘』を補完するものでもあります。
(前編が執筆終了していますが、後編の執筆に向けて修正中です)
信忠 ~“奇妙”と呼ばれた男~
佐倉伸哉
歴史・時代
その男は、幼名を“奇妙丸”という。人の名前につけるような単語ではないが、名付けた父親が父親だけに仕方がないと思われた。
父親の名前は、織田信長。その男の名は――織田信忠。
稀代の英邁を父に持ち、その父から『天下の儀も御与奪なさるべき旨』と認められた。しかし、彼は父と同じ日に命を落としてしまう。
明智勢が本能寺に殺到し、信忠は京から脱出する事も可能だった。それなのに、どうして彼はそれを選ばなかったのか? その決断の裏には、彼の辿って来た道が関係していた――。
◇この作品は『小説家になろう(https://ncode.syosetu.com/n9394ie/)』『カクヨム(https://kakuyomu.jp/works/16818093085367901420)』でも同時掲載しています◇
けふ、須古銀次に會ひました。
蒼乃悠生
歴史・時代
一九四四年。戦時中。まだ特別攻撃隊があらわれる前のこと。
海軍の航空隊がある基地に、須古銀次(すこぎんじ)という男がいた。その者は、身長が高く、白髪で、白鬼と呼ばれる。
彼が個室の部屋で書類に鉛筆を走らせていると、二人の男達がやって来た——憲兵だ。
彼らはその部屋に逃げ込んだ二人組を引き渡せと言う。詳しい事情を語らない憲兵達に、須古は口を開いた。
「それは、正義な(正しい)のか」
言い返された憲兵達は部屋を後にする。
すると、机下に隠れていた、彼杵(そのぎ)と馬見(うまみ)が出てきた。だが、須古はすぐに用事があるのか、彼らに「〝目を閉じ、耳を塞ぎ、決して口を開くな〟」と言って隠れるように促す。
須古が部屋を出て行ってすぐに憲兵達は戻ってきた。
※当作品はフィクションです。
作中の登場人物、時代、事情、全てにおいて事実とは全く関係ありません。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる