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八 : 関ヶ原(前)
しおりを挟む時は流れて慶長三年八月下旬。小牧長久手の戦いから十四年が経過して、忠勝は五十歳になっていた。
この十四年の間に、徳川家も大きく変化を遂げた。
筆頭家老だった酒井忠次は小牧長久手の戦いから四年後の天正十六年に隠居、二年前に亡くなった。石川数正は小牧長久手の戦いの翌年になんと敵対する羽柴方へ出奔してしまった。年長者二人が相次いで居なくなったことで次世代の忠勝や康政が家老職となり、家中をまとめる重責を担うこととなる。
天正十六年十月、天下統一に向けて日々伸張する豊臣(羽柴から改称)の影響力に屈する形で家康は上洛。秀吉に対して臣下の礼を取った。
天正十八年七月、秀吉が関東の北条を滅ぼすと徳川家が領有していた五カ国を召し上げて北条の旧領へ移封する命令が下された。先祖代々受け継いできた愛着ある三河を手放すことに反発する家臣も少なくなかったが、天下統一を果たした豊臣に刃向かうのは自殺行為に等しいため、家康は泣く泣く秀吉の要求を呑んだ。
ただ、五カ国百五十万石から八カ国二百五十万石へ大幅に所領を増やした家康は、長年の労苦に報いるべく家臣達に分け与えられた。家康のお気に入りである井伊直政の上野箕輪十二万石を筆頭に、榊原康政に上野館林十万石、そして忠勝も上総大多喜十万石が付与された。
一躍十万石の大名となった忠勝だったが、喜ばしいとは感じていなかった。功績を認められたことは素直に嬉しかったが、大名格となれば領国の治政や相応の振る舞いをすることが堅苦しいと思っていたし、何より主君の側に居られなくなることが一番淋しかった。
それでも忠勝は私心を心の片隅に追いやり、与えられた領国経営に尽力した。この地の民を潤わせて主君の期待に応えようと、槍の稽古の時間を削って慣れない治政に奮闘した。
大多喜に封入してから八年余り。領国経営は順調だった。民百姓も飢えておらず、地侍も素直に従っている。三河以来従っている古参の家臣と関東に移ってから加わった新参の家臣の間で対立や諍いもなく、皆懸命に働いてくれている。
温暖な気候の房総半島は穏やかで過ごしやすく感じる。戸を開け放ち、入ってくる風を肌で感じながら、秋に収穫する年貢の目録に忠勝は目を通していた。
暫く集中して読んでいたが、目を上げると首や肩に凝りを覚えた。ちょっと体を動かすだけであちこち音が鳴る。
(……老いたな)
昔は疲れを感じても少し休憩するとすぐに抜けたし、一晩寝れば完全に疲れは吹き飛んだ。しかし、今はじっと読み物をしていても疲れるしなかなか疲れが抜けてくれない。否が応でも年齢の衰えを痛感させられる。
この十四年、幸か不幸か忠勝が躍動するような戦の場面に巡り合うことは無かった。北条征伐の後に起きた奥羽騒乱では主君に従って参陣したが出番は無く、二度の朝鮮出兵では海を渡ることすら無かった。武人として勘が鈍らないよう毎日槍の稽古をするように努めているが、政務に忙殺されて若い頃のように多くの時間を割くことは出来なかった。おまけに齢のせいかすぐに息が上がり、体も重たくなる。そんな自分を情けなく思うことも多々ある。
気分転換がてら少し体を動かすとするか。ぐーっと固まっている筋肉を解すように腕を伸ばすと、廊下を急ぎ足で近付いてくる足音が聞こえてきた。
姿を現したのは都築秀綱。忠勝が大多喜十万石を授かると付家老に抜擢され、内政面から忠勝を支えていた。
「こちらに居ましたか、平八郎様」
大名となり周囲からは『殿』と呼ばれる事も増えてきたが、未だに実感が湧かない。忠勝にとって『殿』と呼べる存在は家康唯一人だ。そんな忠勝の心情を察してか、古参の家臣達は変わらず『平八郎様』と呼んでくれている。
「如何した?」
「一大事にございます。去る八月十八日、太閤が亡くなったと江戸から報せが届きました」
瞬間、全身の肌が粟立つのを感じた。
天下統一を果たし、太政大臣にも任じられた時の権力者・豊臣秀吉がこの世を去った。後継の秀頼はまだ幼子で、政権基盤はまだ固まりきっていない。即ち、近い将来に大きな争乱が起きる可能性が高い。忠勝はそれを瞬時に悟ったのだ。
「……相分かった。直ちに江戸へ参る」
スッと立ち上がると、それまで読んでいた紙が突風に煽られてふわりと宙に舞い上がった。戦が始まる。長く眠っていた武人の血が沸き上がるのを、忠勝は痛切に感じていた。
秀吉が死去したことで、家康は一旦封印していた天下獲りへの野望を復活させた。信長が弑された時は、家康が逡巡している間に秀吉が横から攫った為に天下獲りの道を諦めざるを得なかったが、前例があれば迷いは無い。
朝鮮に渡っている将兵を九州名護屋で迎えた後から、家康は天下獲りに向けた行動を開始した。ただ、まだ豊臣家に忠誠を誓う者が多い状況で謀叛を示唆すれば即座に潰されるので、表立たない形で進められた。
私的に大名の屋敷を訪問して交友を深めたり、大名家の間で結ばれる婚姻の仲立ちを務めたり、さりげなく自らの基盤を固めていった。
だが、秀吉の生前から豊臣家の許可なく大名同士で婚姻関係になることを禁じていた為、秀頼の後見人である前田利家や奉行衆筆頭格の石田三成を中心とした勢力から反発する動きが出た。翌慶長四年一月には家康の真意を糺す詰問の使者が送られた。
婚姻関係について指摘を受けると家康は「忘れていたので改めて申請する」と惚けただけでなく、自らに嫌疑がかけられていることに触れて「儂は太閤殿下より政事を託された身、それなのにあらぬ罪を問うとは何事か」と恫喝して詰問使を追い返した。
こうした事態から家康と豊臣政権中枢の間で一触即発の対立となり、畿内の住人からは戦乱が起きるのではと心配する声も出始めた。
一方で大多喜から江戸に急行した忠勝は上方の情勢を考慮して江戸に留まり、いつでも京大坂へ向かえる支度を整えていた。京には近臣を除けば僅かな手勢しか居ないので、万一の事態を考えると非常に心許ない状況だった。
慶長四年一月。江戸城には主立った家臣が顔を揃えていた。話題は当然のことながら上方の事である。
「京・伏見には万千代くらいしか腕の立つ者はおらぬ。殿の命を第一に考えれば、一刻も早く上洛したいが……」
忠勝が深刻な表情を浮かべながら話す。
前田利家は大坂に数千の兵を置いていると聞くし、反家康派の急先鋒である石田三成も常駐する兵こそ少ないが、領国の近江佐和山は畿内の近くなのでいつでも兵を呼び寄せることが可能だ。
それに対して家康は数百名程度の兵と身辺警護の忍びしかおらず、陰湿な性格の正信や奉公人など戦力に数えられない者も大勢含まれている。相手が兵を動かせば、家康は容易く討ち取られるだろう。
「されど、我等が理由なく兵を送れば要らぬ反感を買う恐れがあるぞ」
上座に座る徳川秀忠が懸念を示した。
家康の三男として生まれた秀忠は信康が切腹した後に後継者として大切に育てられた。兄二人が血気盛んな性格だったのとは対照的に、温厚で大人しい性格の秀忠はこの場においても居並ぶ家臣達に遠慮してか控え目に発言していた。
「何を申されますか! 日に日に緊張が高まっている以上、我等も相応の兵を送らねばなりますまい!」
反論したのは結城“少将”秀康。幼名を於義丸と言い、豊臣家へ人質に出されていた家康の次男だ。徳川家が関東へ移封された際に復帰し、それと同時に名門結城家へ養子に入った。徳川家から離れたことで相続権は喪失しており、一家臣として扱われていた。
秀康は兄の信康と同じく武の面で秀でており、秀吉と共に参加した九州征伐でも武功を挙げていた。忠勝や他の家臣とも分け隔てなく気さくに接していたので、家中の評判も上々だった。
「その通りにございます。嫌疑がかかるのを恐れて、殿が討たれては元も子もありません」
「康政……」
渋る秀忠の背中を押すように康政が意見を述べる。
「実際に、京畿では『石田方が家康を暗殺する』という噂が流れております。黙って死を待つくらいなら、一か八か動くべきかと存じます」
畳み掛けるように話す康政の勢いに、秀忠も頷かざるを得なかった。武闘派の意見が主導権を握り、京へ三千の兵を送ることで決着した。徳川家が現在動員出来る人数から比べれば遥かに少ないが、忠勝・康政・秀康の実行部隊と元忠の諜報部隊が大勢を占めており実用性を重視した陣容だった。
秀忠は江戸で待機、他の者も報せがあれば第二陣として出撃する準備を整えていくことが決まった。
同月下旬。江戸から大急ぎで東海道を西上してきた徳川軍三千は京の手前の近江国瀬田へ到着した。すると、突然行軍を停止して街道を封鎖してしまった。
関を設けて通行人の行き来を制限しているのは、榊原家の者だった。その様を眺めていた忠勝へ不意に康政から声が掛かった。
「おう、平八郎。お主の家中で人相の悪い者を何人か貸してくれるか?」
「それは構わぬが……何をするつもりだ?」
「ふふふ。ちょっとした小細工を弄するのさ」
意味あり気な笑みを漏らしながら康政は答えた。後方を振り返れば京畿方面を目指していた通行人が長蛇の列を作っている。
関所で通行を止める事も、人相の悪い人間を使う事も、忠勝には何がしたいかさっぱり見当がつかなかった。ただ、知恵者の康政が考えることだから何か狙いがあるのだろうと思い、黙って言う通りにした。
三日後。封鎖されていた関所が開け放たれると、足止めを喰らっていた通行人が一斉に京へ雪崩れ込んだ。京に通じる主要街道を全て塞いでいた影響は大きく、まるで大津波のように京へ押し寄せた。その人波に混じって徳川の旗を掲げた軍装姿の徳川勢も京へ入る。
道幅いっぱいに人で埋め尽くされる異様な光景に呆然と眺めるのは、沿線で店を構える人々。そこへ薄汚れた風体の牢人二人組が店へ入ってきた。お武家の人は気性の荒い者も多いので店員が警戒していると、片方の男が声を掛けてきた。
「おう。何か食べる物は無いか? 出来ればすぐに食べられる物が欲しい。饅頭でも餅でも構わぬ」
捲し立てるように早口で告げると店員の表情が強張る。朝鮮出兵から京畿の治安は急速に悪化しており、不逞の輩による強盗や代金踏み倒しがあちこちで発生していたことから、すわ狼藉かと身構える。
すると、もう片方の男が宥めるように語り掛ける。
「我等は徳川に雇われた者で関東から参ったが、総勢十万と大軍が故に兵糧が末端まで行き届いておらぬ。給金はたんまり頂いておるから代金は通常の二倍払おう」
その証拠に懐からたっぷり中身の詰まった麻袋を取り出して店員に示す。すると途端に態度が急変して愛想が良くなった。
群集に混じって京へ入ることで人数を嵩増ししただけでなく、偽の情報をばら撒くことで信憑性を高める。相手を惑わす策を思いついた康政の策謀に舌を巻く思いだ。
こうして関東から急行してきた徳川軍は誰の妨害に遭うことなく伏見の徳川屋敷へ入ることに成功した。
大広間に通された一同が軍装を解かず待っていると、正信と直政を伴って家康が現れた。諸大名の調整役を務める直政が同席するのは分かるが、側近面して始終侍っている正信は気に食わない。
「皆の衆、大儀である」
家康が居並ぶ一同の顔を一人一人確認してから、労いの言葉をかけた。
この時、家康齢五十七。若い頃と比べて恰幅が良くなったが、身体を鍛えている為か必要な箇所は筋肉質で絞られている。但し下腹部は肥満気味で、この時期には下帯を自分で締められず侍女に結んでもらっていた。
家康は秀吉の体調が芳しくない頃から畿内にずっと留まっていたので暫く顔を合わせていなかったが、いつの間にか人を威圧する迫力が滲み出ていた。豊臣家の中で重きをなしていく内に貫禄がついたのだろう。天下獲りを狙う者に相応しい風貌になったと忠勝は秘かに喜んだ。
「状況はどうなっていますか?」
関東から上洛してきた一同を代表して康政が訊ねると、直政が応えた。
「今のところ、不穏な動きは鎮まっているようです。ただ、まだ安心するには早いので半蔵を始めとした忍び衆に身辺警護を任せています。大坂や伏見城へ上る際は、拙者が同伴しています」
高天神城攻めの際には、家康の寝所へ忍び込もうとしていた敵を寝ずの番をしていた直政が討ち取った実績があるので心配はしていない。役に立たない正信が居たら足手纏いになるが。
関東から三千の兵が伏見に到着したことで敵から攻められる危険は薄らいだが、一方で警戒する勢力があるのも事実だ。
実際に反家康の急先鋒である奉行の石田三成や、家康と同じく大老筆頭の前田利家は家康の水面下で行われた行動に反感を抱いていた。秀吉という偉大な君主を失った今、徳川がその座を奪うのではないかと懸念する大名も少なくない。
「とりあえず暫く様子を見ようではないか。ただ、我等を不当に貶めるような動きがあれば、その時は断固とした態度で対処する」
最後に家康がそう締め括って会合は終了した。天下人に最も近い存在であることを自覚しているのか、家康は不安定な状況でも余裕を持った態度を示していた。
まだ天下獲りに向けた下地が整ってないと判断した家康は、自らの非を素直に詫びて利家と和解する選択を下した。関係修復の為に利家が伏見にある家康の屋敷を訪れ、返礼として家康が大坂の利家の屋敷を訪れたことで、一触即発の状態は一先ず解消された。
しかし慶長四年閏三月三日、家康と同格の実力者である前田利家が大坂の屋敷で死去した。前田利家は豊臣家の中で深刻的な対立となっている武闘派と吏僚派の両方から支持を受ける大黒柱的存在で、その死去は豊臣家にとって大きな損失であった。
同日夜、石田三成に日頃から不満を抱いていた加藤清正を始めとする武闘派の大名七人が、この機に乗じて三成を殺害目的で襲撃を試みる事件が勃発。事前に危険を察知した三成は屋敷から脱出して、転々と何箇所か居場所を変えた末に伏見の徳川屋敷へ逃げ込んだ。
反家康の急先鋒である三成が徳川の屋敷へ転がり込んできたのを好機と捉え、始末するよう進言する者も少なからず居たが、家康は“窮鳥懐に入れば猟師も殺さず”の諺の通りに三成の身柄を保護した。大坂から乗り込んできた武闘派七名が三成の身柄を引き渡すよう要求してきたが、これを断固とした態度で家康は拒否した。
三成は命の危機から脱したものの、一連の騒動の責任を取る形で奉行職を辞職、本拠地の佐和山で蟄居する処分が決まった。
三成の失脚により、結果的に豊臣家中における家康の影響力が大きくなった。同年九月には伏見から大坂城の西の丸に移り、豊臣家の政務を実質的に支配するようになった。
さらに家康は『家康の暗殺する企みがあった』と公表、その首謀者は前田利家の長男・利長だと主張した。暗殺の企て自体真っ赤な偽りだったが、これを口実に前田家を討伐しようと図ったのだ。
ありもしない罪を着せられた利長は、身の潔白を証明するため利家の妻であり利長の母の芳春院を人質に差し出すなど屈辱的な条件を呑む事で嫌疑を晴らした。これで家康を除く大老四名の内、前田家が徳川家に屈した形となる。
慶長五年三月、今度は会津の上杉景勝が戦支度をしていると報せが届いた。先日の前田家を巡る騒動で徳川家による自作自演だったが、今回の動きは実際に上杉家が行っているものだった。
これを受けて家康は景勝へ向けて問罪使を派遣するも、景勝の重臣である直江兼続が『天下の平穏を脅かしているのは徳川の方だ』と挑発する返書を送りつけてきた。この返答は徳川へ喧嘩を売ってきたも同然で、家康も書状を読み終えた直後に上杉征伐を決断した。
豊臣家の一部奉行から上杉征伐を中止するよう申し出があったが、家康はこれを却下。六月六日には大坂城西の丸にて上杉征伐の軍議が開催、十六日には大坂城を出発して同日伏見城に入った。留守居に鳥居元忠を任じて、家康不在の間の京畿における情報収集の役割を与えた。
本腰を入れて上杉から売られた喧嘩を買う姿勢を見せていたが、家康は本気で戦おうとは考えていなかった。自らが京畿から離れることで、敢えて隙を作ったのだ。家康不在の京畿で誰かが“打倒家康”の旗を振ることを期待しての行動だった。
家康は東海道をゆっくりと進み、七月二日に江戸へ到着した。留守を任されていた秀忠とも合流。上杉征伐に参加した豊臣家の大名も含めて一度軍を再編成すると、結城秀康を先手として先発させ、家康は二十一日に江戸を出発した。忠勝も息子の忠政と共に、自らの軍勢を率いて会津へ向かう。
大坂を発してから一月が経過しているのも関わらず行軍速度は相変わらずゆっくりしている。そこに忠勝は何らかの意図を感じ取っていた。
(恐らく、殿は待っておられるのだろう)
年齢を重ね経験を積んでいく中で、物事を客観的に捉える力が身についた。猪武者のように単純思考だった若い頃から比べれば格段に成長を遂げていた。……直政や康政のように深慮遠謀とは程遠いが。
大坂で政事を思い通りに牛耳っていたにも関わらず、それを放り出して東国へ遠征に出れば、留守を狙って何かしらの動きが起きる筈だ。殿は敢えて不測の事態が起きるのを待っているのだ。そして、敵が動けば即座に返す刀で反撃に転じる。成功するかどうか見通しの立たない危ない策ではあるが、一気に天下を掌握するには博奕を打つしかない。
だからこそ大坂を発ってから速度を上げず、江戸に到着してからも半月以上滞在している。挑発を繰り返す上杉を本気で討伐しようと考えてないのは明らかだ。
家康率いる本隊は今日二十四日に下野小山に着いたと聞いている。懸命に引き伸ばしているものの、上杉征伐に参加した大名も居る手前あまりのんびりしていては家康の心中を怪しむ者も出かねない。上方の動きをいつまで待てばいいのか。
「父上、どうされましたか?」
不意に馬を連ねていた忠政が声をかけてきた。この時二十五歳。溌剌とした爽やかな若人に成長していた。
「何、大事ない。ちと考え事をしていただけだ」
自分のような槍働きしか能のない者が頭を唸らせても仕方ない。そう割り切った忠勝は何でもないように振舞った。
刹那、頬に微かな風を感じた。視線を落とすと、自分の馬の轡を黒装束に身を包んだ男が握っていた。
普通であれば不審者として問答無用に斬り捨てるのだが、忠勝には心当たりがあったので平静を装った。
(本多平八郎様、殿がお呼びです。至急小山の陣まで)
(相分かった。直ちに向かう)
黒装束の男は無声音で用件を伝えると、風のように去っていった。この間、傍らで馬首を並べていた忠政や忠勝の側に居た者は黒装束の男の存在に気付いた者は居なかった。
家康の元には服部半蔵を頭とした忍びの組が存在しており、極一部の人間を除いてその存在は知られていなかった。あまり公にしたくない情報を伝えるために、手練れの忍びを送ってきたのだろう。
それ即ち、御家の未来に関わる重大な報せ。
「……忠政。少しだけ離れる。後は任せたぞ」
「承知しました」
詳しいことは明かさず短く告げると、忠勝はすぐに小山の本陣へ向けて馬を走らせた。隊列から離れると徐々に胸の鼓動が高鳴るのをヒシヒシと感じていた。それは久しく感じていなかった、戦が始まる前のワクワクした気持ちに似ていた。
七月二十四日。この日、小山の家康の元に重大な報せが入っていたことを、この時の忠勝はまだ知らない。
同日夜。小山の家康本陣に到着した忠勝は野外に張られた陣幕に通された。通常ならば組み立て式の仮陣屋に居る筈だが、何故か取次から場所だけ告げられて警護の兵や近習は陣幕から遠ざけられていた。
幕を捲って中に入ると、正面に座っていた家康から声がかかった。
「おぉ、忠勝。待っておったぞ」
家康は忠勝の姿を目にすると笑みを湛えて迎え入れてくれるが、心なしか表情が強張っているように見える。何かあったと忠勝は直感した。
家康の右には謀臣・正信が、左にはお気に入りの家臣・直政が既に座っている。主君の向かい側の左右に据えられた床机はまだ空で、忠勝は直政の隣に腰を下ろす。直政は腕組みしたまま目を閉じて動かず、いつも愛想笑いを浮かべている正信も今夜は緊張した面持ちをしている。双方共に何も知らされてないようだ。
そこへ背後から足音が近付いてきた。幕が上がって姿を現したのは、榊原康政だった。
「康政、よう参った」
主君から声をかけられた康政は一礼すると、最後まで空いていた床机に腰を下ろす。その際に床机をさり気なく忠勝の方に寄せたのは、正信から距離を置きたい心理が表れたか。
五人が円を囲うように座り、中央に台が一つ置かれ、陣の四隅に灯りの燭台が置かれている。徳川の中枢を担う重臣の集まりにしては少々手狭で殺風景だ。
そして全員が揃い、呼ばれた理由が家康の口から明かされた。
「本日、伏見の元忠より使者が届いた。石田三成が挙兵すると共に、その動きに同調した者共の軍勢が伏見城へ押し寄せた」
七月十七日、石田三成は天下を簒奪する野心ありと家康討伐の狼煙を上げた。総大将には家康と並ぶ大老の一人にして西国の大大名・毛利輝元を据え、上杉征伐のため大坂に上ってきた大名を自陣営へ引き込むことに成功した。
そして、上方における徳川方の拠点である伏見城を第一目標として、攻撃することを決定。宇喜多・毛利・小早川などの大大名や小西・長曽我部など西国の有力大名、さらには伏見城入城を拒まれた島津義久も加わり総勢四万の大軍で伏見城を包囲した。
一方の徳川方は守将の鳥居元忠以下二千に満たない手勢。家康に従い幾度の合戦を経験してきた猛将の元忠であったが、開戦前から圧倒的劣勢に立たされることとなった。
大坂城に入った毛利輝元から『大人しく開城すれば将兵の命は助ける』とする旨の使者が送られたが、元忠はこれを拒絶。十九日、降伏の意志なしと判断した攻め手の責任者である宇喜多秀家が城攻めを決断した。
家康の口から三成挙兵の報を聞かされた四名は息を呑んだ。
「して、伏見の方は……」
「まだ落城したとは聞いていない。しかし、元忠のことだから敵に屈するような真似はしないだろう」
正信の問いに家康が答えるものの、右肩下がりに言葉が萎んでいった。言い終えると寂しそうに俯く。
家康が駿府へ人質として送られる際にも同行した元忠は、昔気質の三河武士らしく頑固で忠誠心が篤く、敵に背を向けたり敵に屈することを恥と思う気持ちが強かった。家康から伏見城の留守を任された以上は、最期の一瞬まで抵抗するに違いない。
ほろりと家康の瞳から一粒の涙が零れ落ちて、足元の草を揺らした。全員が元忠の身を想い口を閉ざす。家康は目元を拳でグイと拭うと、重苦しい雰囲気を振り払うように声を張った。
「此度の上杉征伐に加わった諸将には、明日この小山に参集して上方の動きを詳らかにするが……皆を呼んだのは次の手だ」
ようやく訪れた天下獲りへの好機、どのように動くべきか。それを話し合うのが今回行われる密談の目的のようだ。
まず始めに正信が口を開いた。
「会津の上杉も勿論ながら、常陸の佐竹も向背定まっておりませぬ。一旦関東へ戻り、守りを固めた上で迎え撃つのが最善策かと存じます。地の利は我等にあり、上方の敵は長期遠征で疲弊した所を叩けば勝利は堅いかと」
かなり消極的な意見に家康も眉を顰める。
常陸の佐竹義宣は石田三成と親しい間柄で、先日の襲撃事件の際も危険を顧みず三成の逃走を手助けした。今回の上杉征伐にも参加しているが、領国の常陸から出ようとしなかった。巷には、義宣が裏で上杉と通じていて、徳川を背後から襲うのではないかとする噂も流れている。
「何を寝惚けたことを申すのか」
怒気を含んだ声で反発したのは、日頃から正信を毛嫌いしている忠勝だった。
「仮に北と西から同時に攻められれば、兵力は各地に分散されて対応が後手に回る。機先を制されると勢いづいた相手を食い止めるのは至難の業だ。そんな消極的な策を打ち出せば、我等に従う豊臣家大名を動揺させる危険もある。北条の二の舞を演じることになるぞ」
最後まで秀吉に楯突いた関東の覇者・北条氏は小田原城で籠城戦を選択したものの、兵力で圧倒する豊臣軍は関東各地の城や拠点を各個撃破、最終的には小田原城だけ孤立して滅亡した経緯がある。
猛然と反論する忠勝の顔には『戦の事を知らぬ奴が余計な口出しをするな』とはっきり書かれていた。
康政も「同感だ」と賛同の姿勢を表明する。
「かの前右府(信長の官名)殿は常に自領の外に出て戦いました。我等も急ぎ美濃か尾張辺りまで兵を西に進めるべきと存じます。幸い、上杉征伐に参陣した大名の多くは東海道筋に城を持つ者達。彼等に協力を仰げば移動も速やかになることでしょう」
その意見に直政も力強く頷く。そして主君もまた同じ考えだったようで、満足気な表情を浮かべていた。
「二人の申す通りだ。ここは外に出て勝負するぞ」
家康が結論を下すと四人は頭を垂れた。正信だけは一人気まずそうな顔だったが。
「さて、上杉への押さえに誰を残そうか」
決戦予定地となる美濃・尾張まで兵を進める方針は固まったが、背後には強敵上杉が控えている。先代・謙信の頃から強兵として知られる上に現在の領地は百二十万石と動員人数も大幅に増加している。本拠地の江戸を敵に取られる訳にはいかないので、上杉の動きを封じる必要がある。問題は人選と人数だ。
兵数が少なければ上杉に突破されて本国を脅かされるし、逆に過剰だと上方勢と直接対決の時に兵数で劣る可能性がある。徳川軍の総数は変わらないので、守りに割く分だけ人数は減ることになる。調整が難しいところだ。
「上杉攻めで先鋒を務める少将殿に任されては如何でしょうか」
提案したのは康政だ。
「結城家は元々下野が地盤で土地勘もあります。それに少将殿は九州攻め・小田原攻めで武功を挙げた実績もあります。今の徳川家で最も適している人物と考えます」
「某も同意です。少将殿に一万の兵を預ければ、例え上杉が攻めてきたとしても対処してくれることでしょう」
忠勝も康政の考えを支持した。徳川家中では武闘派寄りなので忠勝や康政の評価が高く、信頼も篤かった。他の二人からも反対の声が出なかったので北の守りは秀康に一任された。
「最後に、我が軍勢だが……」
家康は思案があるらしく、一拍間を空けてから言葉を続けた。
「先程も康政が申していたが、此度の上杉征伐に参加した大名は東海道沿いに城を構える者が多い。そこで、上杉征伐に参加した大名と旗本衆が東海道を、徳川家臣団は中山道を、それぞれ利用して西へ向かうこととする。東海道は儂が大将となり、中山道は秀忠を大将とする。また、忠勝と直政は豊臣家大名と共に東海道を進み、敵方の切り崩しを行え。康政と正信は中山道を進んで若年の秀忠を補佐せよ」
「……お待ち下され」
ここで声を上げた人物が居た。忠勝である。
「某はこれまで槍働き一辺倒で、交渉事は不得手で些か荷が重うございます。ここは諸大名と面識のある康政や正信に任せるべきと存じます」
今この場に集められた四名はいずれも陪臣ながら天下に名前を広く知られる存在だが、忠勝だけはあまり表舞台に出ることは無かった。直政は公の用件で取次を行い、正信は謀臣として諸侯と会談を重ね、康政も親密に交流している大名が何名か居た。口下手で社交性に乏しい性格であることを忠勝は自覚していたし、顔を広めたいとも思っていなかった。
それが東海道を進む武将達の世話役どころか敵の調略まで行えとなると、忠勝の才覚では到底役に立たないのは明々白々だ。康政や直政なら無難にこなせるだろうし、陰湿な性格の正信なら適任だ。……あの正信より下なのは悔しいが。
だが、家康は忠勝の提案に首を振った。
「ならぬ。この役目は交渉事に不慣れな御主こそ適任なのだ」
言っている意味が分からず困惑していると、家康はさらに言葉を付け加える。
「難しい事や面倒事は、全て直政がしてくれるから心配するな。もし分からぬ事があれば、直政や黒田甲斐守・藤堂佐渡守に聞くが良い」
主君からそう言われて安堵する反面、新たな疑問も浮かぶ。当家に仕える直政は理解出来るが、何故他家の者の名前が挙がるのだろうか?しかも両名は豊臣恩顧の子飼い大名だ。
黒田“甲斐守”長政は、天才軍師として名高い黒田官兵衛如水を父に持つ若手武将。幼少期に秀吉の元へ人質に出されていた影響で、加藤清正や福島正則といった武闘派の面々と親しい関係にあった。先日の朝鮮出兵にも参加しており、数々の武功を挙げている。
藤堂“佐渡守”高虎も、秀吉が長浜城主となった頃から仕えている古参の武将だ。元々は秀吉の弟・秀長の家臣だったが、秀長が死去した後に転籍して直臣となった。こちらは秀吉の存命時から家康に接近してきた。
どちらも家康を次の天下人として認め、徳川の為に動いている身だが、この時点の忠勝は全く知らなかった。
忠勝が腑に落ちない顔をしていると、直政から声がかかった。
「今度の役では、平八郎様のような方こそ必要なのです。委細この直政にお任せ下され」
見れば康政も背中を押すように頷いている。正信も異論を挟まず黙っている。他の三名はこの配置に不満も懸念も無いらしい。
よく分からないが、どうやら主を含め他の参加者には納得の人選のようだ
「……承知致しました」
これ以上駄々をこねる訳にもいかず、忠勝は承服した。何を求められているか理解していないが、それでも任された以上は自分の出来る事を全力で尽くすしかない。
以上で密談は終了となり、散会となった。陣の外へ出て自隊に戻る途上、家康の居る陣幕へ入る黒田長政の姿を目撃した。己の知らない所で何かが動いていることを、改めて思い知らされることとなった。
翌二十五日。家康の要請で小山の徳川本陣にて緊急の会合が開催、その場にて上方で起きた一連の動きを諸将に公表した。大坂に置いている諸大名の妻子が人質に囚われていることも明かした上で「これからどうするかは各々の自由」と伝え、対応を一任させた。
家康と行動を共にするか、それとも大坂方へ転ずるか。今後の進退を丸投げされ、困惑する一同。
皆が対応を苦慮している中で、福島正則が真っ先に家康へ味方することを高らかに宣言。それから遅れてなるまいと徳川方につくと表明する者が続出。結果、大多数の人数が徳川に味方することとなった。
満場一致で決した形となったが、これには裏があった。
軍議が開かれる前日、日頃から石田三成を憎悪の感情を抱いていた正則に仲の良い黒田長政が近付き、『三成は豊臣家にとって害悪、もし仮に三成を倒しても秀頼公に危害は及ばない』と吹き込んだ。その代わり評定では先陣を切って家康に味方する旨を表明するよう、事前に工作していた。
さらに、評定の場で上杉征伐に参加していた山内一豊が、自らの居城である遠江掛川城を家康へ譲ることを申し出た。城を明け渡すのは臣下になるも同然の行為であり、家康の予想を遥かに上回る収穫だった。この提案が余程嬉しかったのか、家康は関ヶ原の合戦後に一豊へ土佐一国を与えている。
元々東海道沿いには家康対策として豊臣恩顧の譜代大名が配置していたが、奇しくも家康の手により引っくり返されることとなった。打倒三成で結束した諸侯は二十六日から順次行動を開始、正則の拠城である尾張清洲城を目指して東海道を西に進んだ。
忠勝は東海道を進む軍の目付として行動するため、本多家の軍勢は中山道を行く息子の忠政に預けられた。僅かな供廻りだけ連れた忠勝は、東海道を西へ進んだ。
東海道を西上する途上、伏見城攻防の続報が忠勝の元に届いた。
二千にも満たない兵で守る徳川勢(以下、三成方を西軍、家康方を東軍と表記)は、四万の西軍を相手に十日以上も堪えた。伏見城が平城ながら防御面に優れていて最初の攻防で寄せ手に大きな損害が生じたこともあるが、それ以上に西軍に参加した兵の士気が著しく低かった影響もあった。
しかし、七月二十九日に大谷吉継が伏見城攻めに加わると、風向きが一変。城内から内応者が出たのもあり、八月一日に伏見城は陥落した。
(……愚か者が)
伏見城落城の報が伝えられると忠勝は家臣を遠ざけ、一人感慨に耽った。
元忠は最期まで主から与えられた役目を果たした。忠義一筋の三河武士としては誇らしい最期だったとも言える。だが、命を落とすことが最大の奉公だとは思わない。御家の為を考えるならば、落城寸前まで抵抗した後は降伏して上方の情報を引き続き届けるべきだった。泥に汚れても、恥を晒しても、生きるべきだった。味方を巻き込んで玉砕するのはあまりに無責任だ。
……だが、もし仮に伏見城の留守を任されたのが元忠ではなく自分だったらどうしたか?置き換えて考えてみたが、自分も元忠と同じ行動をしていたに違いない。
非難の言葉を心中で口にしたものの、自分も元忠も同類だ。文字通り“命を賭けて”御家に忠義を尽くすだけが取り得の、不器用な生き方しか出来ない。
数々の戦を共に戦ってきた同朋の死を悼んでいたら、自然と涙が零れた。溢れた涙に気付いた忠勝が慌てて拳で乱暴に拭う。もし元忠が目にしていたら、「何を泣いているのだ、愚か者め」と責めたことだろう。
湿っぽい雰囲気を強引に振り払い、込み上げてくる感情を堪えながら顔を上げる。今は御家の為に、やれる事をやる。それが先に散った同朋への餞だ。
下野小山の評定で西軍と対峙することで一致結束した豊臣恩顧の大名衆は、東海道を西進して第一目的地である清洲へ到着。大名衆の動きを管理監督する役割で付けられた軍目付の忠勝もまた、家康より先んじて清洲城に入った。
ただ、忠勝は用意された一室で過ごすことが多かった。いつ何時訪れる決戦の時まで手持ち無沙汰で待っていた訳でもなく……
「平八郎様、こちらへ署名をお願い致します」
部屋を訪ねてきた直政から幾枚かの書状が手渡される。内容を改めると既に文面は清書され、直政の署名も入っている。あとは忠勝が署名すれば完成する。
「承った」
忠勝が書状の束を受け取ると、直政は一礼してから部屋を後にした。忠勝と違って直政は多忙で、一箇所に留まる暇は無いみたいだ。
宛名を見れば、黒田長政や藤堂高虎といった味方の名前が記されている物もあるが、多くは西軍に参加している大名やその家臣の名前が記されていた。
はっきり言えば忠勝は自分の名前を書く事が唯一の仕事だったが、不満に感じるどころか感心していた。
(……成る程な)
小山で家康が言っていた通り、『難しい事や面倒事』は全て直政が一手に引き受けた。家康の最側近で諸大名の折衝も担っていた直政なら交渉事の経験も豊富だが、『何か裏があるのでは?』と勘繰る者が出ないとも限らない。そこへ武闘派で外交に疎い忠勝の署名が添えられていれば……『腹芸の出来ない人間も一枚噛んでいる』だけで信じるに値すると先方は考えるだろう。
この役目は確かに某が適任だ。何を考えているか怪しい正信や、諸大名と交友のある康政では務まらない。
早速筆を取ると空けられた余白に自らの名前を記していく。墨が乾いた物から順に折り畳んでいくが、量が多いせいか嵩がなかなか減らない。
暫く黙々と作業を続けていると、ドタドタと廊下を荒々しく踏み鳴らす音が近付いてきた。忠勝はその音を耳にしただけで「またか」とうんざりした顔をして、一旦筆を置く。
「本多殿!!」
歩いてきた者は開口一番に吼えると、不作法に断りも無く勝手に文机の向かいにどかっと座る。文机を挟んで反対側に座った小太りの男は苛立ちを隠そうともせず、無遠慮に切り出してきた。
「内府(家康の官名)殿は一体いつになったら清洲へ来るのだ!?」
この男こそ、清洲城主で東軍に参加した豊臣恩顧の大名衆で旗振り役を務める福島“侍従”正則だ。
秀吉が長浜城主となった頃に小姓として仕える古参の家臣で、腕っ節が強く体格にも恵まれたことから数々の合戦で武功を挙げてきた。
戦場では猛然と敵に立ち向かう一方で思慮に欠ける一面があり、粗暴な振る舞いで問題を引き起こすことも数知れず。特に尾張出身で正妻おねの寵愛を受けてきた武闘派の正則と対極にある、近江出身で側室淀の方と近い官僚派の石田三成を心底から毛嫌いしていた。徳川家で忠勝や康政が正信を嫌う構図と非常に似ている。
豊臣家中で生じていた深刻な対立を利用して家康は自陣営に引き込んだものの、その扱いには常に神経を使わなければならない難しい存在だった。正則が一言「家康は信用に足らないから西軍に鞍替えする」と発すれば多くの大名が敵方に転じる程に、強い影響力を保持していた。
その厄介者の正則が、ここ最近毎日のように忠勝の元を訪ねてくる。用件はいつも一緒で『家康の清洲入りがいつになるか』と迫るのだ。
上杉征伐に参加した大名衆や軍目付の忠勝と直政が清洲に着いてから既に半月以上が経過しているが、総大将の家康が一向に来る気配が見えない。そればかりか東海道の宿場町に到着したとする報せも届いていない。
「さて……某も逐次確認していますが、まだ何も聞いておりませぬ……」
忠勝はそう答えたものの、『いつ来るか』は知らないが『江戸に居る』のは知っていた。
八月五日に江戸へ戻った家康だったが、それ以降ずっと江戸に留まっていた。何度も清洲来訪を促す使者を送っているものの、腰を上げる気配は伝わってこない。
豊臣恩顧の大名衆の間では『自分達を捨て駒にするつもりか』と疑念を抱く者も出始めている。忠勝や直政が懸命に釈明しているが、苛立ちや不満は日に日に積み重なっていく一方だ。
「本多殿、その言葉信じていいのだな?」
「……某が嘘偽りを申しているとでもお思いで?」
血走った眼で睨みつける正則。その迫力に負けまいと忠勝も胸を張り、露骨に威圧する正則と正対する。
下手に言い繕っても逆効果だと判断した忠勝は、敢えて強気な姿勢で対峙する。両者は暫く無言で睨み合うが、先に観念したのは正則の方だった。
「……相分かった。その誠心に免じて今日は信じよう。だが、敵も馬鹿ではない。一刻も早い徳川殿の出陣を重ねて申し上げる」
「承知しました。必ず主に伝えましょう」
正則はフンと鼻を鳴らしてから大股で立ち去っていった。その背中が消えるのを見届けてから静かに溜め息を漏らした。
(……疲れるのう)
嵐も過ぎ去ったので、凝り固まった肩を揉み解す。本当に困った御仁である。
物事の表面ばかり見て裏側について考えようとしない。はっきり言えば暴れるだけが取り得の猪武者で、本来であれば人の上に立つ器ではない。百姓の出自で縁故にも乏しかった豊臣家でなければ、足軽の組頭が関の山だ。仕える家と時期に恵まれた、それに尽きる。
そんな阿呆を宥めるのは実に骨の折れる仕事だ。協力者と上司の狭間で苦労するのは中間管理職の辛さである。
忠勝も本心では主が一日でも早く清洲に到着するのを切望しているが、こればかりはどうしようもない。背後に控える上杉の動向が気掛かりなのか、大名衆が本気で戦う意志があるか見定めているのか、西軍の切り崩し工作に手間取っているのか。今日は正則が大人しく引き下がってくれたが、いつまた再燃するか定かでない。
重苦しい空気を胸に抱いたまま、中断していた署名入れを再開した。とりあえず目に見える所から地道に片付けていくしかない。
戦場で槍を振り回している方が何倍も楽だ、と痛切に感じた。日頃から折衝を重ねている直政の凄さを思い知らされることとなった。
清洲の地で悪戦苦闘する忠勝と直政の元へ、八月中旬に朗報が届いた。家康の伝言を預かった使者・村越直吉が東海道を西上していると報せが入ったのだ。ようやく板挟みの状況から解放されると二人は素直に喜んだ。
八月二十日に直吉が清洲に到着、早速大広間に通された。そこには、正則を始めとした家康の来訪を渇望している豊臣恩顧の大名衆が待ち構えていた。
だが、直吉は初っ端からとんでもない事を口にした。
「まだ殿は出陣しておらぬ。予定もない」
ざっくばらんな直吉の物言いに軍目付の二人はギョッとした。家康の態度に疑いを持つ大名達に爆弾を投げつけたも同然の行為だ。瞬く間に大広間は不穏な空気が充満する。
「……どういうことだ? 何故出陣されない?」
眉間に皺を寄せ、額に青筋を浮かべた正則が問い質す。直吉の返答次第では血気に逸って抜刀しかねない雰囲気だ。
それに対して直吉は物怖じするどころか、顔色一つ変えず平然と言い放つ。
「待てど暮らせど各々方は清洲から動こうとされない。まず各々方が戦う姿勢を示せば、殿も江戸を発つ」
また火に油を注ぐような発言に、忠勝も直政も生きた心地がしなかった。諸将がこの場で怒りを爆発させれば、今日まで積み上げてきた苦労が一瞬で霧散してしまう。事の成り行きを注視していると、不意に大きな笑い声が上がった。場違いな程の底抜けに明るい笑い声の主は、家康の動向を最も怪しんでいた正則だった。
「あっはっは! 左様か、確かに内府殿の申す通りだ。それならそうと、始めから言って下されれば良いものを」
腹を抱えて大笑する様子に、他の大名達も軍目付の二人も呆然と眺めるしかない。一触即発の雰囲気は正則の笑い声で完全に毒気を抜かれた形だ。
「承知した。我等は直ちにこれより出陣して、岐阜を陥としてみせる。内府殿にそう伝えてくれ」
そう言い放つと愉快そうに席を立った正則。……もしかしたらこの男、早く戦いたくてウズウズしていただけなのか。居並ぶ諸将も目付役の二人も、唖然とした表情で遠ざかっていく正則の背中を見つめるだけだった。
正則の言葉が決して大言壮語でないことは、正則自身が証明してみせた。
翌二十一日、東軍諸将の軍勢は清洲城を出発。二十二日未明、東軍の進軍を警戒して木曽川河畔に配備されていた西軍方に属する織田秀信(幼名三法師、信長の孫)の軍勢を撃破すると、同日中に織田秀信の拠城である岐阜城を包囲した。諸将が競い合うように攻め立てた結果、難攻不落で知られた岐阜城は僅か一日の攻防戦で陥落してしまった。たった二日足らずで美濃の重要拠点である岐阜が陥落した事実は、西軍に大きな衝撃を与えた。
そして家康も、この報せを聞いて大いに驚いた。このまま放置すれば、自分が出向く前に全てが決着してしまう勢いだ。自分が不在の中で両軍が激突して勝利を収めた場合、それは単なる豊臣家の勢力争いで完結してしまう。それでは豊臣家中の内紛に乗じて天下獲りを目指す、家康の野望が根底から覆ることになる。それだけは何としても避けなければならない。
家康は即座に東軍の諸将達へ、今回の岐阜城攻めを称賛する言葉を送ると共に暫く自重するよう要請、急いで美濃へ向けて出立することを決断した。
九月一日に江戸を出発すると東海道を大急ぎで西上、半月後の十四日に美濃赤坂に着陣した。西軍の実質的大将である石田三成は家康に先んじて大垣城に入っており、遂に互いが視認出来る距離に迫った。
両軍の大将が揃ったことで、決戦に向けた機運が急速に高まっていった―――
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