スパダリ社長の狼くん

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第四章

十四話

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 佑が俺はいいよ、と辞退したため、一人で瞬の病室に戻る。いよいよ手術室へ移される寸前で、瞬の顔色は傍目にも分かるほどに青ざめていた。カタカタと震えてしまう指先を握り込んで忍がきてくれるのを待っていたその瞳が涙も忘れるほどに怯えているのを見て、忍が静かにその髪を撫でる。ベッド脇に置かれたパイプ椅子──昨晩佑が矢田に一撃をお見舞いしたものだが──に腰を下ろし、優しくその指先をなぞってやる。怖い、と一年前なら……いや、数ヶ月前であってもすぐに口にしていたであろう瞬が、苦心しながらも自らの恐怖をコントロールしようと戦っている姿に感慨を覚えてしまう。
「大丈夫だよ。大丈夫。ここの先生の手術の腕は確かだそうだよ、長谷部さんのお墨付きだそうだ。僕も寸前まで一緒にいてあげる。お守り、持ってる?」
「…………ああ、持ってる……大丈夫だよ、ガキじゃねえんだからさ」
 苦心して笑顔を作る。その執刀医が信用ならないのだという事実を忍に告げずに耐えることがこれほどに不安を煽ることなのかと、瞬の胸中はこれ以上ないほどの恐怖で混乱の一歩手前まで来ている。それでも理性を失わずにいられるのは、いつか忍が流したあの涙──瞬を失う未来が怖いと泣いた忍のあの涙のおかげだ。忍を不安にさせたくない。もう二度と涙など流させたくない。きっと瞬の手術に当たって、忍もかなりのストレスを感じているに違いないのに、瞬が危険な目に遭うかもしれない事実を告げてこれ以上不安にさせたくないのだ。大好きでたまらない主人のためならば、口輪を嵌められてゲージに入れられても耐え抜ける。命を落とすかもしれない状況さえも。
 喉に力を込めて、余計なことを口走らないように戒める。
 看護師が数人で病室を訪れた。ストレッチャーに乗り換えて、お守りを握りしめる。取り乱すな、と強く念じる瞬の瞼を柔らかく忍の手が塞いだ。
「怖くないよ、大丈夫。君に昨日起きたことは……佑に聞いた。その上で大丈夫と僕が保証するから。この手術では何も起きない。ほら、おまじないは? Everything’s gonna be alright、大丈夫だよ。安心して」
 忍の言葉に緊張の糸が緩んでしまう。点滴をされたまま忍の手を握りしめて額を押し付ける。
「大丈夫だよ。僕がいる。ずっとそばに僕がいるからね。終わったらたくさん甘やかしてあげる。何をして欲しい?」
「……お前の、歌が聞きたい……」
 掠れた声の懇願にまつ毛を伏せて柔らかくその髪をかき上げてやる。
「いい子だね。何を歌ってあげようかな。君の力になるような曲を考えておくよ」
 じゃあ、行きますね。看護師の声に瞬が涙を滲ませるのを優しく撫でて見送ってやる。室内表示灯が赤色に変わるのを見守って、脇のベンチに腰を下ろす。握りしめたお守りは忍にとっても今はただ一つの希望だった。何事もなく手術を終えて、瞬の獣人化が解決したら……全てがやっと動き出す。追い詰めるまでもなく繋がった秋平との糸も、その絡んだ先に己の過去があったことも……その先に待つ瞬の最大の問題も、やっと。

 疲れた。微かに瞼が下がるその喉からまた、死の香りの漂う咳が漏れる。胸郭から骨を蝕み、激痛が走る。シャツの合わせを握りしめて耐える忍の隣に俯いて腰を下ろした佑がそっとその背を撫でた。
「忍。俺の調べた限り、あいつの過去に関わる人間で法的に罪に問えるのは矢田──秋平だけだ。他の飼い主のやったことは、性暴力にしろ暴力にしろ、証拠が何も残ってない。火傷の痕を残した矢田は唯一足を残した。過去の……火傷痕を証拠とするのは難しいかもだけどあいつは唯一、追い詰められる。でもさ……俺としては一つだけ約束して欲しいわけ。無茶しないで。なんでも協力するから……お前のためならなんでもするから、だから無茶しないで……」
 佑の言葉に覚悟も決まる。命の砂が落ちる前に、秋平だけでも……それが見せしめになれば。



 三時間後、室内表示灯が消えた。手術室から出てきた矢田が、忍に薄い笑みを向ける。立ち上がった忍が正面からその視線を受け止めた。記憶の奥から蘇るその顔が忍の意識をいつまでも脅かしてはいるけれど、それでも今の忍はもう一人ではないのだ。簡単に退きはしないし、隷属もしない。
「坊や、手術成功。回復待ち。良かったな、東條。今度は大事なもんを簡単に手放しゃしないって顔してるな。あの坊やを手放せないならお前が手放せるものを手放せばいい。待ってるよ、メール」
 青い術着のまま、矢田は言い置いて踵を返す。手術室へ戻っていくその背に、忍が声をかけた。
「秋平先輩。僕はあなたを、必ず──……」
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