スパダリ社長の狼くん

soirée

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第三章

十八話

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 ラウンジで話すべきことは話してしまったので、バーのジャズのメロディを聴くともなく耳に入れながらいくつかのカクテルメニューを眺める。鮮やかなシロップやリキュールのボトルが並び、その奥には数知れないほどのジンやウォッカ、ウイスキーが並ぶ。夜半に外に出ることすら珍しい瞬にとってはすべてが目新しく、興味と同時に気後れも湧いてしまう。忍がスツールに腰掛けたままそっとカウンターの下で指に触れてやった。
「何になさいますか?」
 穏やかに尋ねられて、それほどカクテルの種類に詳しくない瞬が困った顔をする。手元のオリーブを齧りながら、忍がバーテンダーに秘密を吐露するかのような瞳で紫色のボトルを指差す。
「ブルームーンのドライジンを少し少なめにして、飲みやすいものにして欲しい。僕からの、ということでね。もちろん、いい意味だ」
 忍のオーダーに、バーテンダーが妖艶な微笑みを浮かべる。シェイカーにパルフェタムールとロンドンドライジンを注いでレモンを絞り、軽やかに振る。やがて注がれた青紫の美しいカクテルを飲みやすいようにソーダで割り、清楚な黄色い薔薇の花びらを添えて瞬に差し出してくれる。躊躇いながら口にした瞬が、芳醇な花の香りに瞳を細めた。レモンが加わったせいか、とても飲みやすい。炭酸のおかげもあってついすぐに飲み干してしまいそうになるが、あとからかっと体に熱を残すところを見ると、それほど弱いカクテルではなさそうだ。
「先ほどの紫色のリキュールには「完璧な愛」という意味がございます。ソーダで割らなければ、カクテルそのもののカクテル言葉も同じです。いい意味でと仰いましたからね。パルフェタムールはその昔は……いえ、これはご本人様がきっと教えてくださいますね。ニオイスミレやバラを用いたとても香り高いリキュールですよ。イリオスのエディブルフラワーは私の持った印象ですが、いかがでしたか」
 もはや公言したともとれる忍のオーダーの意味を知って、瞬が咎めるようにその瞳を覗く。いつもいつも忍からばかり悪戯を仕掛けられて、とつい仕返しをしてやりたくなった。これだけの非日常を演出された上、普段から特に同性愛に対する嫌悪を向けられているわけでもない。瞬もこの頃は忍との関係を知られてしまうことへの抵抗感は薄れていた。挑むように瞳を覗き込んで、鮮烈なレモンイエローのエディブルフラワーを唇で一枚掬い取って忍の前に差し出してやる。瞬の挑戦に、忍がほう……と意地の悪い表情を見せた。
「なるほど。そんなことをしちゃうようになったか」
囁いて、瞬の唇に唇を触れさせて差し出された花びらを奪う。齧りながら何事もなかったかのようにバーテンダーに向き直る。
「可愛い子なんだ。たまにこんな悪戯もするところが特に」
「愛されておいでですね。どうです。彼に何か、オーダーしたいリキュールはありますか? 些細なイメージでもよろしいですよ」
 尋ねられて、棚を見渡してみるが、忍とは経験値が違いすぎる。思案したのちにストレートに口にする。
「こいつの目……ほんと腹立つんですよね。黙らせたい」
 思わず忍が笑ってしまう。その碧玉の瞳を一瞥したバーテンダーが、
「グリーンアイズなどいかがでしょう。カクテル言葉は『見つめないで』、ぴったりですね。美しい翡翠の瞳をしておられますし」
「君を見つめないで僕は何をしたらいいのかな?」
 その言葉に思わず赤面して視線を逸らす。結局のところ翻弄されてしまうことに変わりはないのだが、一矢報いたような気持ちにはなる。菫の香りに酔わされながら、ビルドされた美しいグリーンのカクテルをステアする忍を見つめてしまう。
「君の方は遠慮もなく見つめてくるね。少し飲んでみる?」
「いいのか?」
 グラスに伸ばした指先をいとも簡単に捉えられて引き寄せられてしまう。問答無用で重ねられた唇から口移しで飲まされたカクテルの南国を思わせる甘い誘惑が、喉の奥に流れて消える。通常のバーでこんなことをしていては、例え男女であろうと顰蹙ものだが……背後に広がるナイトプール、時刻は午前1時。口づけを交わすカップルも少なくはない。その上カウンターに居座っているのは忍たちだけだ。バーテンダーも大目に見るように片眉を上げるだけで咎めてこない。
「これ、少しここから離れても問題ない?」
 忍のこれ以上ないわかりやすい質問に、瞬がさすがに視線を泳がせた。バーテンダーは特に気にも留めない。
「結構ですよ。グラスも手近なテーブルに戻していただければ特にお声がけは要りません。せっかくのナイトプールですから、楽しんでいらしてください」
 ジャケットを取り上げて忍が席を立つ。どうしたものかといった顔つきでグラスを手に取り、瞬が続く。ネオンの輝くナイトプールの脇を素足で歩く忍のつま先が真珠のように光っている。かすかに光を弾く浅い水たまりに残される波紋と水音。広々としたメインプールを二人で後にし、奥に続く小さな庭園のようなプールを散策する。膝ほどまでの深さのプールは、柔らかな照明に照らされてほのかな反射を返している。せせらぐような水が絶えず形を変えながらいくつも連なっていた。言葉は交わさないまま点在するプールを抜けて、最奥の広い空間に忍は腰を下ろす。
「濡れるだろ?」
「どうかな。気にしても仕方ない。どうせ部屋に戻る頃には人目もないし」
白い指先を水に幽かに浸して、忍が瞬を見上げる。グリーンアイズか……とその瞳を見つめ返しながら仕方なく瞬も腰を下ろす。案の定じわりと水が染みる。演出としての例の下着は既に外しており、チョーカーの代わりに首元を飾るネックレスのコードを忍が指先で引き寄せるのに、抗う理由もなく身を寄せる。重ねた唇をどちらからともなく割って舌を絡める。プールの水音に混じって濡れた音が響く。互いに瞳を閉じないまま互いの目に挑むように熱を孕んだ視線を晒す。
「はっ……忍……」
 喘ぐように瞬が声を漏らす。息もつかせない忍の舌に、酸欠を起こしかけた視界が霞む。指先がグラスを倒し、菫の香りが思考回路を白く焼く。
「……キスの最中は黙っていないと」
 一瞬唇を浮かせた忍に叱られてしまう。欲の滲んだ瞬の瞳を真っ直ぐに射抜いて、噛み付くようにまた唇を塞ぐ。歯列をなぞってそのまま口蓋をちろちろと擽り、力が抜けてしまった瞬の体をプールサイドに押し倒しながらさらに深く蹂躙していく。濡れたプールサイドに広がる瞬のジャケットの懐に手を滑り込ませて、胸骨に手のひらをそわせて撫で上げる。びくんと震える瞬の口から嬌声が漏れてしまわないよう、唇を塞いだままニットを捲って乳首を愛でる。舌を絡め返すこともできずに震える瞬が苦しそうに喘ぐ。
「息ができない?」
忍が唇を離す。その瞬間を狙っていたかのように瞬の手が忍の首裏を捉えた。上半身を起こしながら、のしかかっていた忍の首を引き寄せて抱きすくめ、うなじに噛み跡を刻む。不意を突かれた忍の背がかすかに震えたのに満足そうに耳元に囁く。
「……お前の飼い犬はもう、されるばっかじゃないぜ。噛みつかれないようにしねぇと」
 瞬の低く抑えたハスキーボイスがこれほどセクシーなものだったかと忍が目尻を染めた。
「それはいけないな……じっくり躾けてあげないと」
 お互いに濡れてしまったジャケットを脱いで、立ち上がる。この先は二人だけのスイートルームで思う存分最愛の恋人を乱したい。


 部屋に帰ってくるなり服を脱ぎ捨てて口付けを交わす飼い主たちに、ピー助が呆れ気味にベッドを空けた。
 パルフェタムールの完全な愛は、かつては媚薬とも称された魔性の香り。青い満月にもう怯えることはないようにという、忍の想いが刻まれていた。
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