スパダリ社長の狼くん

soirée

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第二章

二十九話

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 獣人化してしまった瞬を一瞥して、忍を観察する。普段は流石に一企業の社長だけあって、それほど感情を外に出さないのが忍だ。基本的には穏やかに微笑んでいることが多い彼が苦痛を隠しきれていない。MRIの説明をしながら、瞬の瞳も一瞥する。こちらは露骨に傷ついている。何があったのか。ため息をつきたくなる。
(まぁ東條さんもずいぶん頑張ってきたからねぇ……そろそろ限界か……)
 忍が瞬を拾った翌日から彼らに関わってきている安曇は、忍がひどくトラウマを負っている上事情を抱えた瞬を守るのに随分と苦労をしてきたのを目の当たりにしている。それまでろくに家族の温かみも知らなかった忍にとっては最初から難題続きで、その上瞬のメンタルの幼さは二十歳とは程遠い。容易く傷ついてしまう繊細な心を成長させるために常日頃から心を配り、忍耐を重ね、いくら年上とはいえまだ36歳の忍には求めすぎなほどのケアを続けている。
「東條さん、ちょっと説明したいことがあるから残って。シュンは待合室にいてくれる?」
「あ……ああ……分かった……」
 明らかに離れ難いようになかなか立ち上がらない瞬がちらりと忍を窺うが、小さく無理やり口の端を釣り上げただけのような笑みを浮かべて忍は首を振る。ぶちまけたいものを堪えるようにグッと唾を飲んだ瞬が診察室を出ていくのを見送って、尋ねてやる。
「東條さん。シュンの面倒見るの大変になってきたんじゃない?」
 忍が苦笑した。自嘲に近いような表情で眉間を揉んだ。
「……違うんだ。僕がひどく自分勝手な願望で瞬を手放せないだけだ」
 首を傾げて続きを促す。忍がよわよわしく漏らした本音に、安曇が小さく微笑した。
「ねぇ、それ別に悪いことじゃないんじゃないの? それだけちゃんと向き合ってきた証拠だよ。それにシュンは……いや、うん、この先はオレより本人の言葉の方が刺さるよね。ちゃんと座っててよ」
 扉を開けて瞬を呼ぶ。不安な顔をして戻ってきた瞬に気軽な声をかけた。
「シュン。東條さんがどうしてコマンドに従っちゃダメって言ったかはね、本人にしっかり問い詰めてやるといいよ。多分東條さんの予想とは違う言葉をシュンは返せるからね。家に帰ったら家族会議してね」
ぎょっとした顔をする忍に意地の悪い視線を向ける。
「カッコつけてないで本音をシュンに話したほうがいいよ。んじゃ、検査の日程はさっきの説明の通り。当日は夜に来てね。仕事の後でいい。受付でオレと長谷部の名前を出してね。紹介状オレじゃ書きようがないからさ」
 
 叩き出されたものの、どう説明をしたものやら……と困り果てて愛車のドアを開ける。なかなか乗ろうとしない瞬に視線を投げる。
「俺のこと、要らないんだろ。一人で帰れよ……俺少し……頭冷やして帰るから」
「ダメだよ。その姿をわかってないの? 今日は何も隠すものもないじゃ──」
「だからだよ!!」
 遮るように怒鳴った瞬に忍が口を噤む。
「今……夜の街をうろつけばすぐに飼い主は見つかる……お前が俺を要らないなら仕方ねぇだろ! なんなんだよ……お前が言ったんじゃねえか、余裕がない時でも振り回すなって! 自分の都合で捨てるなって……違うか?!」
 安曇が応急処置を施してくれた指先を無意識になぞる。呟くような声しか出ないことに情けなさを覚えながら弁解する。
「違うんだ、さっきのは……そういう意味で言ったんじゃない……本当なんだ、信じて欲しい」
 伸ばした指先を跳ね除けられて、血の気が引いた。
「瞬、聞いて──頼むから。今じゃなくてもいい、とにかく帰ろう……そのまま出ていかないで」
 いつになく弱気な忍の声に、瞬も何も言えなくなってしまう。だがだからと言って怒りが収まるものではない。つけられた傷に比例して膨れ上がる怒りが理不尽に忍を傷つけ返そうとしてしまうのを抑えられない。
「聞くことなんかあるか? お前が俺をこんなふうに躾けたんじゃないか……俺はもともと誰にも心を許さずに生きてきたからここまで生き延びてこれたんだ。無理矢理入り込んできたくせに勝手なことばっか言うなよ……俺のことならどれだけ傷つけても後でなんとかできるとでも思ってんのか? つけられた傷は忘れることはできても消えはしないんだよ、俺の火傷の痕を知ってるお前なら分かるだろ」
「そうだね……ごめん。ちゃんと話し合おう。とにかく乗って。お願いだ」
 俯いた忍に瞬が溜飲を下げる。黙ったまま助手席に乗り込んだ。沈黙ばかりが続く暗い車内に、都心の夜景が光の粒を落としていった。




 部屋に戻った途端に瞬が自室に引き篭もる。忍がドアをノックしても返事すら返ってこない。ピー助も部屋に閉じ込めたまま出す気がないのか、ドアを内側から引っ掻く小さな爪の音だけが響いた。仕方なく一人リビングでウォーターサーバーから汲んだミネラルウォーターに口をつけるが、ひどく味気ない。
 無味無臭を好んでいた忍の味覚に彩りを添えたのと同じように、人との関係に重視を置いていなかった彼の人生にある日突然光が射し込むように現れたたった一人の家族。失いたくない。失うくらいなら、忍も瞬と同じ我儘を口にしたいのを堪えているのだ。瞬のためだから、瞬の自由を取り戻してやりたいから──その願いを妨げるほどの独占欲が抑えられない。
 ソファに身を沈めて、疲れたように片手で瞼を覆う。愛しているから手放さなくてはいけない時があるのだと、そういう愛し方もあるのだと頭では理解しているのに、感情は全くそれを受け入れてくれない。広いリビングに瞬がいないだけでこんなにもこの部屋は無機質で冷たい空間だっただろうか。
 ネクタイも解かず、スーツのジャケットだけを脱ぎ捨ててソファに横になる。こんな本音を瞬が知れば、彼は忍のためだけに本来手にできるはずの自由を捨ててしまうと思い込んでいた。





 薄暗い空間で目を開く。いつのまにか寝込んでいたようだった。間接照明とエアコンがきちんと付けられている。身を起こしてはじめて、掛けられていた毛布に気がついた。首を巡らせると、ソファにもたれるように瞬が座り込んでいる。眠っているのかと肩に触れようとした刹那、瞬が呟く。
「ごめん……俺もお前のこと傷つける権利なんてないのに。話聞いてやれなくて……ごめん。なんか悩んでるんだろ……話して。一人で抱え込んだまま俺を遠ざけるなよ……こんな終わり方、絶対に俺は認めないからな……っ」
 泣くのを堪えているような、思い詰めた声。思わず気が緩む。気がついた時には、堪えていた本音が零れてしまっていた。
「君がこれから生きていくのに、僕に依存したままじゃダメなのは分かってるんだ。獣人化だってしなくなるに越したことはないし、コマンドにも従わなくなればそれは君の意思ってことだ。分かってる……分かってるのに、僕は現状を変える勇気がない……君がそうして強くなってしまって僕から離れていく未来がどうしようもなく怖い。君のいない人生を歩むことが……考えるだけで怖いんだ」
 苦渋の滲む声に、瞬の耳がピクっと動く。振り向かないまま返された言葉に忍が小さく瞠目した。
「なんで……俺が強くなったらお前から離れる選択肢しかないことになってんだよ……? それを選ぶのは俺だろ? こんなに近くで俺を見てたお前が、もしそんな全てがうまくいったとして……それをくれたお前を、こんなに俺を大事にしてくれたお前を捨てて離れたりするわけないって、何で分かってくれないんだよ。お前に依存するなって言うなら、俺だって頑張るよ。たしかにお前のコマンドに全部任せっきりじゃお前が大変だ、そんなのは……ちゃんと頑張る。けどその先お前のそばにいたいと思うのはそれは依存なんかじゃないだろ? 好きだって言ってるじゃねえか、お前のそばにいたいんだ。どうしてそんなこと言うんだよ」
 僅かに垂れた耳が小さく忍の方へと傾く。返事を聞きたいと言うように。だが、言葉にしたいことは山ほどあるはずなのに何も浮かんでこない。ただただ込み上げるものが大きすぎて、瞼から一筋涙が伝った。察した瞬が振り返って頬を舐めてくれるのが、余計に涙腺を緩くしてしまう。こんなにも一人で抱え込んでいたのかと瞬が丹念に舌で涙を掬う。体温を帯びた塩気の混じる涙の味がどうにも胸を締めつけた。忍は忍耐強いだけで、人並みの感情や悩みを持たないわけではないことを気づいてやれなかった。瞬が甘えるばかりだったから誰にも言えなかったのだと、自責の念でその首を抱き寄せる。
 その涙はどんな言葉よりも瞬を強くさせるのだとこの時はまだ知らないまま、抱き上げた忍をベッドに運んでやる。落ち着くまで静かにそばに寄り添っていた瞬が、そろそろ大丈夫そうだと忍の自室から部屋着を持ってきてやる。俯いたまま着替えた忍が疲れたように布団に潜り込むのを、何も言わずに隣に潜り込んで指先を握る。
「ありがとう」
 小さく呟いた忍の指先を小さく噛んで、二人でそのまま眠りに落ちた。

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