スパダリ社長の狼くん

soirée

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第二章

十二話

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 会議室の扉を開けてくれる槙野に頭を下げて、総務で借りた研修用の荷物を運び込む。
 不意に槙野が瞬の肩を押さえた。スーツの一番下のボタンを外す。ビクッとする瞬に笑った。

「心配しなくてもあなたがいい子でいてくれれば危害は加えませんよ。後輩としてきちんと面倒は見ます。スーツのマナーを知らなかったんですか? アンボタンマナー……一番下は外すんです。皺になりますよ」
「あ……はい……」
 隠せない怯えが見え隠れする瞳に、槙野が苦笑した。
「そんなに私のお仕置きは効き目がありましたか? 躾けやすい人ですね。大丈夫ですよ、何もしません。あなたも私もお互いがキャリアに必須な存在でしょう? 協力していきましょう。今からそんなことでどうするんです、おそらくこの先半年は私とコンビを組むことになりますよ」
上目遣いになってしまう瞬の背を厳しく叩く。
「ほら、しゃんとして。そんな顔をしていては舐められますよ。社長の期待に応えましょう。私もできる限りはサポートしますから」
「は……はい……」
しどろもどろな瞬の荷物を受け取って、座るように促す。スーツを指差すのも忘れない。
「座るときはボタンを外す。シルエットが乱れますからね。今日から色々始めていくわけですが……まずあなたの場合は知識より何より、そのすぐに相手に負けてしまう性格から矯正していきたいところです。とはいえ人の性格は一朝一夕に変わるものでもないですし、あなたのそれは長所にもなりうる。なのでまずはあなたをこの会社に馴染ませて、多くの人間と関わりを持たせるところからです。全ての部署に挨拶に行きましょう。…………こんなことを確認するのも何ですが……自己紹介、できますか?」
 槙野の確認に瞬が追い詰められたように視線を泳がせるのに、槙野がやれやれと嘆息した。世話が焼ける。
「したことないんですね。まぁあなたの経歴や態度から察してはいました。そうですね……まず当然ですが、名前を名乗る。そしてどのような経緯で入社したのかということも説明できたほうがいいでしょう。私と共に社長の秘書としてのポストにつくだろうということも言ってしまっていいですよ。ああ、私の今後については公言しなくて結構です。あとは笑顔でよろしくお願いしますと言ってください。第一印象は大切ですよ。ハキハキと。やってみてください」

 槙野の指導は厳しくはあれど的確で、何度か練習を重ねるうちに瞬の態度から少しずつ気後れが消えていった。やっと頷いてくれた槙野に瞬がホッとしたように力を抜く。
「上出来です。あなたの順応力は高そうだ。少し休憩しましょうか」
 会議室のバリスタからコーヒーを手渡してくれる槙野に礼を言い、瞬が紙コップを受け取る。
 槙野が気さくな笑みを向けてくれることで
瞬の中の警戒心が薄らぐ。
「思ってたより……いや、なんでもないです」
優しいんですね、と口にしかけてさすがに言葉を濁す。初日から図々しすぎるだろう。
「わかりやすい人ですね。言葉よりも雄弁な表情をするんですから……あの時は私も随分酷いことをしたと自覚していますからね。すみませんでした」
「いえ……でもあれはやっぱ本当の事、ですよね……」
「あなたが社長にとって毒だという言葉ですか?」
 目を細めた槙野に瞬が頷く。傷ついた表情に、槙野がその頬を撫でた。
「半分は本心です。あなたは社長を狂わせる唯一の弱点だ。けれど、それはそれだけあなたが社長にとって大切な存在だからでしょう」
 槙野の口調にはあの時ほどの冷淡さはない。むしろ気遣うように言葉を選ぶ。
「今のあなたは、社長のアキレス腱でしょう。でもあなた次第であなたは社長の何よりの武器にもなれる。伸び代は無限大、といったところでしょうか」
そして瞬の自信を持てないままの頬を軽くつねった。
「あまりに頼りないようなら、また躾けて差し上げますよ。それが嫌なら頑張りなさい」
 瞬が目元を引き攣らせてコーヒーを飲み干す。意地悪く笑った槙野が手にしていたバインダーで軽くその頭を小突いた。
「さぁ、行きますよ。本番です。いいですね、笑顔でハキハキと。やれますね?」
「……はい!」


 各部署で槙野が教えた通り快活に挨拶をして回る瞬の姿に、社員たちが自然と好意を持って接する。
 瞬の持ち前の素直さは先輩社員たちから存分に可愛がられる天性の資質だろう。槙野のスマートなサポートも手伝って、すっかり瞬は愛され社員として会社に居場所を作り上げた。写真のもたらしたマイナスの印象さえ塗り替え、むしろこれは社長が手放さないはずだと多くの社員が納得した。
 廊下を通りかかった忍への社員たちの視線も元の通りの敬意を取り戻し、瞬への賞賛を告げるものも多かった。視線を投げる先に槙野と共にリラックスした笑顔を見せる瞬がいる。ふっと口元を緩め、忍がその場を後にした。
 せっかく好意的に受け入れられた瞬を必要以上に忍が構うと、嫉妬や羨望を招きかねない。実力ではなくコネで入社をしたのかと陰口を叩くものも出るだろう。会社の中では忍は瞬には極力ノータッチで過ごすことを決めていた。

 とはいえ、社内を歩いていれば自然と耳に入る瞬への声は、純粋な好意ばかりではもちろんない。身体で忍に取り入ったという詮索や、欲望を露わにした下賎な言葉ももちろんあった。瞬のあの警戒心のなさは危険だとすら言える状況に、槙野のスマートフォンに繋いで声をかける。
「槙野。瞬はどうやらうまく馴染んだようだね。けれど君も気づいているだろう? この空気は」
 冷静な槙野の声が返る。
「ええ。彼はもともと見た目がいいのもありますからね。手を出されそうになっているのは明白ですね」
 嘆息した忍が指示を出す。
「すまないね。君にはどうやら厄介な仕事を任せてしまったようだ。できる限り目を光らせておいて欲しい」
「分かっています。可能な限りガードします。後輩を食い物にはさせません」
 通話を切って、己のタスクを片付ける。瞬を社会に順応させることを決めたのは忍だ。あまりに過保護になるのは良くないのだろう。瞬が自分である程度のトラブルは解決できるようにならなければならない。

 コーヒーを啜りながら、窓の外をちらりと見遣った忍の目に憂鬱そうな光が見え隠れしていた。
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