スパダリ社長の狼くん【2】

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第三章

11話

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 忍に聞かされたこの家のロックの外し方には少々驚いたところがあった。事前に連絡しておけば家に着いたと電話をするだけで忍のスマホから解錠できるという。意外と最新機器好きなのか、それでいて妙なところで職人の技が光る家具があったりモネのリトグラフが飾られていたり、良くも悪くもめちゃくちゃだ。本人のセンスがいいので纏まっているが、逆にそれがおかしいと秋平は思う。自分と同じ匂いを感じるのだ。掛け違えたボタンを気づかせないという生き方……。

 家に入るとさらにその違和感が増す。おそらく同類でなければ気づかない性格の破綻のような何か。
 

 ともかくもやたらと広い家の中で、瞬が自室にいるのかリビングにいるのかわからない。常識的にと選んで引き開けたリビングのドアの向こうに燦々と降り注ぐ静かな空間が広がっていた。
 以前副反応の看病に呼ばれた時にはこの静けさに気づかなかった。これは確かに一人でいさせてはいけない。無言で見回すと、窓に向かって設えられた日差しの降り注ぐソファの座面ではなく床に直接、体を固くして膝を抱えたまま座っている瞬に気づく。伏せた顔は抱えた膝に埋めたまま、明るい日差しの中にただじっと座っている。


「瞬。大丈夫か」


 驚かせないように慎重に声をかけると、顔はあげずに小さく、弱々しく瞬は首を振った。縦に。
 歩み寄って、何でもないことのようにすぐ隣に座る。瞬に語りかけているというよりは独白のように秋平が手持ちの知識を軽く披露してやる。医学部で学んだことというよりは人生経験の中で得たものだが。


「人間ってのは意外と脆くてな。しかも最初からちょっとしたバグがある。褒められると嬉しい、認められれば誇らしい、そんな感情を持って生まれてくるのにそれを求めすぎて無理を続けるうちに自分の限界がわからなくなる。限界近くになると人間の脳ってのは限界の値を見極められなくなるんだよ。そのままあり得ないほど頑張り続けてぶっ壊れたやつをたくさん知ってる。Plastic、って忍に教えてもらったか? 可逆性、液体になっても固体に戻れる。そんなのは文字通りプラスチックみたいな命を持たないもんだけだ。……お前は壊れたらもう戻れなくなる。もう一度聞くぞ、本当に大丈夫か?」

 瞬は何も答えない。限界だと、もう無理だと投げ出すことで忍を失ったらどうしたらいいのか。壊れようが何だろうが忍のそばにいられればそれでいい、最初から瞬はそれしか望んでいない。

「もう泣くなとは俺は言わないし、東條だってそうだろ? 別に限界だからってそこで何もかも終わるわけじゃない。壊れる前だったら人間はちゃんと立ち直れる。何なら前より強くなるもんだ。壊れる前にちょっと泣いてガス抜きしとけばそれでいい」

 大きな手が瞬の頭を少し雑に、しかし優しく撫でた。たったそれだけで、秋平への虚勢も、弱い自分は嫌だという意地もなにもかもが溶けて涙に変わる。
 幼い頃よりも自分が大きくなったから、感触は少し違う。でもずっとこの大きくて、意外なほど繊細な手を求めていた。忍とはまた違った意味で、大切だった。


「俺、おれ……会社で上手くやれなくて、……自分より年下の後輩にずっと嫌がらせされてて……相手もSubなのに全然逆らえないんだ、こんな俺を連れてたら忍の顔に泥塗っちまう……今日だって俺が休みたいって言ったのに、忍がいないと辛いとか勝手なことばっかで……」
 聞き上手な秋平が相槌を打ってくれるままに、この一週間の出来事を全て白状する。



「なるほどな。まぁお前はそういうのされたことないからな……で、自分が許せなくてその態勢でいるのか?」
 図星を突かれて言葉に詰まる。たしかに、一週間パドルで打たれ続けた尻は赤みも引かず、伊南がそこにさらに打撃を加えたせいで一部出血しているのではと疑う鮮明な紅が刻まれている。ソファでもない固いフローリングにこの態勢で座っていると痛みでおかしくなりそうだが、それくらいの罰を自分に与えていないとこのままいつまでも逃げ続けるばかりのような気がしたのだ。


「よっ、と」
 
 答えられないでいるうちにあっさりと担ぎ上げられてしまう。忍より遥かに高い190cmの身長、しかも抱き方もまさに肩に担ぎ上げるだけなので、急激に目線が上がって咄嗟にしがみついてしまう。

「はは、重くなったなお前。俺の記憶にある頃はお前、まだ40kgもなかったからなぁ……」
「うるさいな! そりゃ、昔はチビだったけど……」
 ぽすっとソファの上に下ろされ、思わずその顔を見上げるとまた手のひらが髪を撫でた。
「……そうだな。大きくなったな」
 何となく、どれほど蟠りは解けてももう二度と過去には戻れないのだとその言葉に知らしめられたような気がした。
「とおる……」
「なんだ」
「一度でいいから、これで最後にするから──」

 瞬が口にしたおねだりに秋平が苦笑する。ソファに下ろした瞬をもう一度、今度はきちんと向かい合うように抱き上げる。
「これでいいか?」
「…………」

 微かに頷く頬を感じながら、こんな程度で贖罪になるはずがないのにと秋平が自嘲する。どこまでも優しい瞬は誰のことも酷く恨んだりすることがない。
 しばらく無言で抱き上げているうちに、瞬が軽く秋平の体を押し返した。
「ありがと。もう大丈夫」

 そのまま瞬が色々と話す他愛もない話を聞きながら、秋平は軽めの昼食を作ってくれる。瞬を仕込んだだけあって秋平もそれなりに料理が上手い。
 甘くはない、食事向けのスフレパンケーキがさらりと出てくる。メレンゲを泡立てるのも電動ホイッパーではなく手でさっさと出来てしまうのは本人の腕の力ももちろんあるのだが、それだけ何度も繰り返してコツを得ているからだった。
 バターとチーズのほんのりとした香りのパンケーキにはたっぷりのチーズソースとカリカリのベーコン、半熟の目玉焼きが乗せられ、リーフサラダが添えられている。

「食わなきゃ力が出ないからな、体も心も。食う気が起きなくても飯はちゃんと食えよ」

 そう言われて初めて、この一週間ろくに料理をしていなかったことを思い出す。毎日を乗り切ることに必死で、家事などろくにしていなかった。思わず心配になって改めて部屋を見回すが、綺麗に掃除も片付けも行き届いている。忍がやってくれたのだろうか。
 申し訳なさで落ち込んだ顔になってしまう瞬の手に秋平がナイフとフォークを押し付ける。食べさせてやるところまでしてしまうと忍に怒られてしまいそうだからだ。


「とにかく食え。東條には後で色々謝らなきゃならないんだろ? その時にまとめて言っとけ」

 意地の悪いことを言う秋平に瞬がぶるっと身震いする。これ以上尻を叩くようなことは忍はしないだろうが、真正面から長時間の説教をされるのもそれはそれで怖い。


「美味い! なぁ、前から思ってたんだけど透、なんでこんな家事できるんだよ? お前ならやってくれる奴いくらでもいるだろ?」
一口食べるなり素直な感想と疑問をぶつけてくる瞬に秋平は辟易としたように目を回してみせた。
「お前は何か勘違いしてるみたいだけどな、俺はむやみやたらに誰にでも優しくはしない。外科医の相手なんてそんないいもんじゃない。年がら年中いつ呼び出されるかわからないから旅行も連れてってやれなければ休みの日に出掛けてても突然帰るぞなんてことにもなる。夜勤もあるし、緊急の手術が入ればぶっとおしで10時間以上施術してそのまま仮眠して次の手術なんてことも珍しくない。学会で呼び出されることも多い。付き合い切れないだろ、そんなの。そういう男に寄ってくるのは放置されててもその間自由に遊べる金が目当てって場合がほとんどなんだよ」
「ふぅん……ハイスペにはハイスペなりの悩みがあんのか……」

 瞬らしからぬ言葉が出たことを聞き逃さず、遠慮もなく尋ね返す。

「どうした、今更学歴がないことに悩み出したのか?」
「だって不可抗力だっただろ。俺が学校なんて行けたはずない。なのに当たり前みたいに親に学費出してもらって俺が必死で生き延びるために這いずってた間友達と楽しく遊んでた奴に見下されるのは俺だって悔しい。じゃあお前は俺と同じ条件でもその学校行けたのかよって思う」
 不貞腐れたように呟く瞬の頭を手を伸ばして強めに拳で小突く。
「あのなぁ、誰でも楽してイイもん手に入れられるわけじゃねえんだぞ? 奨学金で通って社会人になってから必死に返済に励んでる奴だっている。お前は最初から与えられなかったことに甘え過ぎなんだよ、それでも必死で食らいついて自分の道を切り拓いてくタフな奴だって世の中には大勢いる。東條はその典型だぞ」
「……っ、そんなの分かってる!!」

 瞬が喚く。そんなこといちいち言われなくても分かっている。最初から最後まで瞬は忍にふさわしくなんてない。忍がどうして自分に優しくしてくれるのかだって本当はよくわからない。色々と二人で乗り越えたつもりでいたのに、いざ蓋を開けてみれば忍のSubは瞬だけではなく、社会人としても合コンひとつまともに乗り切れない。いくら秘書としてそれらしく振る舞ってみても、伊南のような優秀で強かな人間が入ってきたら勝てるはずもない。忍とは最初から出来が違うのだ。与えられたかそうでないかなど本質ではなく、元々人としての格が違う。
「でも、それでも忍に相応しい恋人でいたいって俺なりに頑張ってきたんだ、俺はたしかに恵まれてる奴が裏でどんな苦労してたかなんて分からないけど、でもそれはお互い様だろ!」

 怒鳴るように一息にそこまでいって荒くなった息を抑えようと俯く。
「…………」
 会話が途切れる。居心地の悪さを誤魔化すようにパンケーキを口に詰め込み、席を立つ。ソファで膝を抱えて明るいテラスを睨みつけながら泣くものかと瞼に力を込めた。
「悪かった。少し説教臭かったか。……まぁしかし、お前と東條は本当によく似た人格してるんだな。だからこそ東條はお前が可愛いんだろうが」
 
 何も答えずにいる瞬を気にする様子もなく、秋平は己の過去を反芻しているように淡々と語る。

「……学校にしろ社会にしろ集団があればその中で標的にされる弱いのってのはいつでもいる。俺が言えた義理じゃないが、東條は俺からのあれこれ以外にもあいつがどれほど助けてくれと声を上げても誰もまともに取り合わなかったのが相当キツかったんだろう。中学でのあいつの成績は悲惨だったぞ。拒食も出てたからガリガリに痩せてたし、その頃から不眠症もちらほら出てたようだしな。俺はそれを知れば知るほど余計に追い詰めたし、周りもクソ生意気だった東條が弱れば弱るほど面白がって甚振るほうへ手を貸した。どういう経緯でそんな状態からあの根性を炙り出したのかは知らないが……東條は実家の援助は一切受けていなかったみたいだから、そこから東大に受かるまでどれほど血反吐を吐いて努力したかは想像はできるだろう。なぁ、もしお前が中学生の東條に出会っていたら、お前はあいつに対してそんなにも敵わないって気は抱かなかったんじゃないかと俺は思う。あのボロボロの中学生がまさか大企業の社長になるだなんて同じ学校にいた人間なら誰だって想像しなかっただろうからな」
「……何が言いたいんだよ」
「さぁ、な。ただ、東條はお前にあいつと同じ資質を見出してるからそばで育ててるんじゃないのか? 分かってるだろ、東條がこれほど手をかけて褒めて叱って励まして、自分の全てを捧げるみたいに溺愛してるのはお前しかいない。どう見てもあいつはお前にベタ惚れしてるだろうが」
秋平のセリフに、彼に背を向けている瞬の耳が真っ赤に染まる。しばらくしてポツリと呟いた。

「……そうかな……俺、本当に忍に好きって思われてるのかな……」

 秋平が深いため息をつく。心底忍に同情しながら呆れたような声を出した。

「あのなぁ……それを疑われてんなら流石の俺も東條が気の毒だと思うがな。これ以上あいつがお前に何をやれる? あいつはほとんど何もかもをお前のために惜しみなくくれてんじゃないのか?」

 さらに耳が赤くなる。しばらくして振り向いた真っ赤な顔と、強い意志をもって輝く赤銅色の瞳が秋平に素直に教えを乞うた。


「……負けたくない。忍の隣を伊南に取られるなんて絶対に嫌だ……どうしたらいい? どうしたら負けないでいられるんだ? 学歴も職歴もあいつには敵わない、でもせめてもう言いなりになりたくない。だってSTグループで働いてる時間も忍のそばで忍をずっと見てた時間も俺の方が長いんだから……俺も忍みたいな人間になりたい、何から頑張ればいいのか教えてくれ。自分じゃわからないんだ……」


 にやりと秋平の唇が少し歪な弧を描く。顔に出さないよう心がけていただけで、伊南のやり方には少々苛立ちを覚えていた。傷つけるにしても愚鈍すぎる立ち居振る舞いが気に障って仕方がないのだ。



「よく言った。東條が帰ってくるまで作戦会議だな」

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