スパダリ社長の狼くん【2】

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第二章

14話

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 ジャケットをクローゼットに掛けて、ブラシをかける。シワにならないように適度に整え、結び目のついたネクタイはもちろん、ワイシャツも瞬がアイロンを当てる。瞬はどこで身につけたのか、ワイシャツの扱いはプロに近く、彼に任せておけばシワひとつない仕上がりでいつのまにかクローゼットに並んでいる。今までそれなりに一人暮らし歴も長いが故に、簡単に見えるこの家事がどれほど大変かは身に沁みていた。例のタワーマンションに入居してからはコンシェルジュサービスをフル活用していたが、二社目が倒産する少し前までは全て自分でアイロン掛けや染み抜きをやっていた。毎日着るものなのに、ワイシャツの手入れというのは意外なほど手間がかかるのだ。
「何かご褒美をあげたいな……お仕置きも頑張って耐えてくれたし、どこか連れて行ってあげようか……」
 何気なく独りごちた瞬間、スマホが震える。通知ではない。着信だ。
「……東條だ。どうした?」
 一応私的なものと仕事で使うものは分けている。着信があったのはプライベートのものだ。電話越しにのんびりとした口調が当然のように名乗りもせずに用件を伝えてくる。
「オレ。季節的にまぁ、わかると思うけどシュンを引きずってきてもらわないといけないよっていうお知らせね。あと今年は東條さんもだよ。まぁ、東條さんは大丈夫と思うけどシュンは毎年逃げ回って大変だからよろしくね」
「ああ……もうそんな時期か。うーん……」
 珍しく渋る忍に、電話の向こうで安曇がきょとんとする。
「あらら、珍しい。シュンの健康のためならって必ず心を鬼にする東條さんが。もしかして東條さんも怖いとか?」
「いや、僕は特には。喜んで受けるものでもないけれどね。ただ、ここしばらく瞬にはちょっと厳しくしすぎてしまっていたところだから少しかわいそうかなって……」
 
 
 毎年恒例の、瞬の苦手なこの知らせ。予防接種である。瞬にイヌ科の細胞がある以上は避けて通れないこれらだが、本人がものすごく嫌がるのだ。それこそ忍からのお仕置きと同じくらいに怖がる。そんなに痛いのかと尋ねると、涙目で頷いていたのでおそらく本当に痛いのだろう。それに、イヌ用なので仕方がないのだが、狂犬病・混合・コア・ノンコアの四本だてになってしまう。毎回連れて行くと忍の負担が大きすぎるので、安曇は容赦なく全て一度に打つのである。たしかに何度も何度も刺されれば嫌なのは分かるし、毎年予防接種の後瞬は副反応で熱を出したり下痢を起こしたりと散々な目に遭うことが多い。逃げたくなるのも無理はなかった。
「んー、何があったかは知らないけどねぇ……狂犬病なんかは本当に怖いからちゃんと受けさせてね。ん? 受けてね、になるのかな今年は。まぁ、シュンが逃げないように二人掛かりで抑える羽目になるだろうし、副反応で東條さんが伸びちゃったら元も子もないから先にシュンを済ませちゃおう」
「分かった。予約はいつが空いてる?」
 忍たちが獣人であるという俄かには信じ難い事実は、何度も足を運んではいても院長である安曇を除いて誰も把握していない。安曇本人の空いている日を聞いて、最短の日付で押さえる。週末の土曜日、午前11:00。もう明後日だ。
 あ、と安曇が声を上げた。
「お二人、土日誰か頼れる人はいる? シュンももちろんだけど、東條さんだって副反応がどれだけ強く出るかはわからないから。二人とも倒れちゃったんじゃ看病する人もいないでしょ」
 忍が言葉を濁す。安曇の家にはまだ幼い美桜もいる。娘の世話に忙しい安曇や春香に負担はかけられない。
「当日までに何人かあたってみるよ」
 頭の中で何人かリストアップはしてみるものの、そうそう都合良くはいかないものだ。

 迷った末に、もうこうなれば腐れ縁だと最近やたらと履歴が多い番号をタップした。







「嫌だ、絶対に嫌だっ……」
全力で逃げようとする瞬の腰のベルトに繋いだリードを力任せに引く。柱にしがみついて梃子でも動かない構えの瞬に、何度目になるかもわからない叱責を飛ばす。
「ほら、行かなくちゃダメだろう? 子供じゃないんだから注射くらい我慢して」
「お、お前だって一度打てば絶対嫌になる! すげー痛いんだよ、しかもまた四本って……ほんとにやだ!!!!」
あと数メートルで玄関扉に届くのに、往生際の悪い瞬は必死で足を突っ張っている。

 ちょうどその時、外側からチャイムが鳴った。びくりと瞬が固まる。インターホンに忍が向かう隙をついて逃げようとしているのがありありと透けて見えて、思わず苦笑が漏れた。無造作にドアの向こうに声を投げる。
「どうぞ。手が空いてないもので、すみません」
 ゆっくりと開いたドアの向こうで気まずい顔をしている秋平と、その背に引っ付くように好奇心丸出しの目をしている佑。瞬が「どういうことだよ」と狼狽えて口走った。





「悪く思うなよ。俺だって本当はお前には近づきたくない。訴えられれば俺が負ける」
 秋平が決まり悪そうに前置きをする。予想外の相手に出会したことで瞬が硬直したのを見逃さず、忍があっさりとその体を抱き上げた。
「ごめんね。先輩とは色々和解もしたし、今は普通に飲み仲間なんだよ。もしかしたらワクチンの副反応で僕も倒れてしまうかもしれないから、応援に呼んだんだ。佑は先輩のパートナーだ」
 付いていけない状況説明に瞬が呆然としているのをいいことに、佑が遠慮もなく家に上がり込む。
「すげー。さすが忍。透んちも結構規格外だけどさらに上いってるね」
「まぁ、年収で言えば俺と東條は似たようなもんだろうが……俺は固定資産税にこんなに払いたくはないな」
 医師免許は剥奪された秋平だが、もちろんもともと医師としてだけの資産形成はしていない。本業から離れて時間も有り余る中、今は株式の個人ディーラーとして稼いでいた。忍もそうだが、ただ稼いでいるだけではもったいないという認識なのだ。増やしてこそという頭である。
「家にあるものは自由に飲食してもらっていいよ。まさか運転もできないなんてことにはならないと思うけど、万が一の時はよろしくね」
「ああ」
 ひらひらと片手を振って見送った秋平が扉の向こうに消える。いつの間にか抱えられたまま連れ出されたことに今更気づいた瞬が、予防接種に反抗するべきなのか秋平と佑が居候することに異議を唱えるべきなのか、はたまた両方なのかと頭を抱えた。
「仕方がないだろう? 君は毎年寝込んでしまうし、僕は今年が初めてだ。どうなるか分からないからね」
「でも、でもなんであいつらなんだよ?! 透に看病されるなんて生きた心地がしないし、佑なんてマトモに家事もできないだろ?!」
 縋り付くように喚く瞬の唇に忍が人差し指を当てた。
「文句は後でゆっくり聞くから。君はまず大人しく予防接種を受けて、副反応が落ち着くまで我慢して。元気になったらたくさん甘やかしてあげるから、ね? お仕置きを我慢できたご褒美もまだだったし、なんでもわがままを言っていいよ」

 一瞬誘惑に飲まれて口を噤んだが、それこそ秋平と佑の目があるところでそんなに甘え切れるかどうかは全くの謎なのだった。
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