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第325話

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「良い朝だ……」

 それは彼にとって久しく経験していない感覚であった。
 各国間の競争に加え、三十年近くの間繰り返し異世界の怪物共探索者、そしてなにより消したはずのカナリアという天才がそれらに協力し命を狙ってきたからだ。

 だが一か月ほど前から彼の運気というものは非常に上がっていた、いや、本人がそう感じていた。

 まず剛力だ。
 何があったかは知らないが彼はクレストの周囲を嗅ぎまわり、子供一人を守ろうなどと下らない精神でその尻尾を現した。
 剛力自身の実力はあれど、事前にクレストの魔法を知らぬまま戦いを挑んで勝てるはずもなく、三度の時戻しによって彼の存在をこの世から消し去ることに成功した。

 これはクレストにとって思いがけない幸運であった。
 当時生き残っていた探索者の中でかの男が最も警戒すべき存在であったからだ。

 そしてそこから推測できることとは、今回のカナリアは探索者連中に連絡を取っていない、ということだ。
 これは結城教授が消えた影響だろう、彼の研究者生命で培った人脈も地味ではあるが厄介であった。

 最後に、一週間ほど前、遂にカナリアが顔を出した……結城教授の忘れ形見というべき少女を連れて。

 当然彼女の存在自体は補足していた。
 どうやら施設に預けられた後何の因果か探索者へと足を踏み入れたようだが、その成長が著しいことも報告には受けていた。
 だが当時は十全の信頼を受けていたはずの剛力が報告しないことで、彼女の実力を侮っていたのは事実だ。

 一度は人質にした少女だ、数年間の食生活の影響か多少容姿は異なっていたが。
 当時は戦闘能力を持ち合わせていないのを確認済みであったし、本来であれば一年程度ダンジョンに潜った程度で脅威になることはまずない。

 だが実際に対面し、己に振るわれた彼女の膂力、瞬発力、機転、そして体内から感じる膨大な魔力は今まで一度も体験したことのない領域にあった。
 かつて第三王子として王国の東にいた巨竜や、地下に巣くう植物型の魔生物を打ち滅ぼした時ですら、彼女の一振りから感じたあの威圧感、恐怖は無かった。

 化物だ、間違いなく。

 彼とて王族の血だ。
 優秀なものを掻き集め代々受け継ぎ、自己鍛錬を怠らず、日々新たに出る魔術理論を研究者程とは言わないが学んでいる。
 常人では決して手の届かない領域にいる彼が心の底から震えあがった、彼女が本気で行動した時の挙動が全く見えなかった。
 しかもどうやらまだ奥の手を隠している、その全てを見ることは出来なかったが。

 その意味がどれだけの事か。
 恐らくこちらの世界でも彼女が一切の躊躇いなく、冷徹に攻撃を仕掛けて逃げ切れる生物はいない。
 下手すれば数百の犠牲者が出た東の巨竜ですら、彼女の前ではそこいらを走り回るトカゲと大きな差を産まない可能性すらある。
 しかもそれがたった一年で育ったらしい。質の悪い冗談としか言いようがないし、はっきり言って理外の存在だろう。

「私は、実に幸運に恵まれている……」

 無言の召使がコトリ、と小さな机へ置いた淹れたての茶を一口啜り、クレストは熱いため息を漏らした。

 だがその怪物にも弱点はあった、経験だ。
 機転は利く、力はある、だがあまりに経験が足りていない。

 かの世界で嘗て米国軍が敷いていた高等個別訓練、これの最長は一年と八か月だったらしい。
 しかしこの訓練だけを受ければ一流の兵士になれるわけではない、当然下地やその先にも様々な訓練が待っているだろう。
 確かに探索者はレベルアップ……という名の魔力を体内に蓄える作業によって、身体能力自体は比較的手軽に増強することが可能だ。
 だが危機に陥った時の判断力、異常な事態に巻き込まれた場合の精神性、対処法などは時間と経験以外で培うことが出来ない。

 確かに彼女は身体能力こそ化物だった、だがあまりに精神が未熟であった。
 人を傷つけることすら躊躇う……確かに人間としては美点かもしれないが、世界を救う、その為に誰かを手に掛けなくてはいけないという立場においてはあまりに大きな弱点だ。
 彼女の両親やカナリアの協力者も多少は似た性質を持っていたが、若さからの経験不足ゆえに彼女はより一層強く出ている。

 しかしだからこそ彼女の行動力を削ぐことが可能であったし、最も目障りであったカナリアを完全に仕留めることが出来た。

 まさに幸運だった、としか言えない。
 あの力がもし、人を殺すことに喜びを覚える快楽殺人鬼に備わっていたら、間違いなくクレスト……そして時を戻そうとしたクラリスすらもがあっけなく殺されていただろう。

 まあ、そんな奴をカナリア君が協力者に選ぶとは思えないが、ね。

「ああ……実に、実に……」

 小鳥が気まぐれに鳴き、青い空には白い雲が所々へ浮かんでいる。
 美しい空だ、何度見ても飽きることが無い平和な空。
 そして空の下、城下に望むのは朝もはやくからあくせくと人々が大路を行き交い、今日を始めようと活気づいている。

 普通の深い眠り、普通の空、一杯の茶……そして人々の喧騒。

 クレストが三十年間待ちわびていた平穏は、なんとも胸に沁みる感覚であった。

「クレスト様」
「やあクラリス君、良い朝だね。一体どうしたんだい」

 静かに自室で座っていた彼の元へ、あまり感情を表さぬ秘書が姿を現した。

「少しばかりお耳に入れておきたいことが」

 彼女は存外の拾い物だった。
 かの天才には及ばぬが優秀な幼馴染であり、しかし同じ研究者として燻ぶっているところを上手く擽ってやれば、いとも簡単に彼の信奉者へと変わってくれた。
 そして消し去られたはずの次元の狭間の論文に始まり、魔天楼の基礎理論、各種研究と王国へ大きな繁栄をもたらした。

 当然クレストからしてみれば可愛くて仕方がない、そんな彼女が少しばかり顔をしかめて口を開く。

「我が国の外れにある大森林から強大な魔力反応が突如として発生、教国方面へと一直線に進んでいるようです」
「ほう……それはまさか」

 男の言葉に彼女がコクリと頷いた。

「恐らくあのフォリアという少女かと」
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