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A09運行:国鉄ミステリー②蒲須坂事件
0097A:こべりついたそれはどうやっても取ることができないように思えた。しかし彼女は、それを自らこそげ落とした
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「用は済んだか?」
井関は、一応嶋技師長に経過を報告すると言って、現場最寄り駅の鉄道電話を借りに走った。しばらくして息を切らしながら戻ってきた井関に、小林はこう声をかけた。
「ああ、すまないね。じゃあ行こうか」
いざ、現場へ。井関が先陣を切って被害を受けた遺族宅へと赴く。
その家はここいら一帯の有力者の家なのか、あまりにも立派だった。そしてその裏手には、列車が抉り取った傷跡が残る。
「ごめんください」
井関が、戸をノックした。中からこの間の女性が出てくる。だがその眼に、以前のような力強さはない。
「帰って」
その言葉も、どこか弱々しかった。井関はその場で腰を折る。
「お願いします。どうか、お話を聞かせてください」
女性は、何かを腹に据えかねたように鼻で息をすると、一瞬の時を置いて井関を中に入れた。
「……すぐに帰ってください」
女性はチエと名乗った。亡くなった積田文吾さんのご婦人にあたる。
「あの人と息子は、ここで死にました」
家の中に入ってすぐ、チエは立ち止まって指を差した。その先にはふすまがある。井関は恐る恐るそれを開くと、その先は何もなかった。
いや、あった。あるのは惨状としか形容しきれないそれだ。列車が無残にも抉り取った家の欠片がそこにあるのみだ。
井関は動揺する。ふすまを閉めていればそこには日常が広がっている。だが、ふすまを開けた瞬間、そこには非日常であったはずの絶望しかない。
外から見てわからない、事故の悲惨さ。この事故がどれだけ彼女の心に傷を与えたのか、井関は本当の意味でようやくわかったようになった。
「……私は助かりました。私は、あの人のために朝食をつくっていましたから」
見れば、食卓には何かがある。それは、変わり果てた朝食だった。
「あの人は毎朝3時に起きます。それから、白湯を呑んだ後、一汁一菜にたくあんを食べて、仕事に行きます。私はそのために、毎日毎日2時には起きて朝の用意をしておりました。だから、私は助かりました」
そこは、寝床があった。ボロボロになった布団の残骸のようなものが顔を出している。
「ここでカマドに火を起こし、湯を沸かし、お湯の温度をあの人好みに寄せて、汁の塩気をあの人の身体に丁度いいように整えて……。あの人のことを考えながら、もう何年もやってきたことをあの日もやっていました」
夫人はそっと夫婦茶碗に手を添える。それはまだ、綺麗な形で残っていた。
「あの時、一瞬にして私は家族を失いました。そしていま、家まで失おうとしています。この心情が、あなた方に理解できますか」
井関はとっさに、”はい、とてもよくわかります”と、そう言おうとした。だが、その言葉が喉から出ていかない。言葉が痰に絡んで先へ飛んでいかない。
井関から出てきたのは嗚咽混じりの咳気だけだ。
その時、笹井が夫人の前で膝をついた。
「申し訳ない。だが、とてもわかりはしません」
笹井が頭を、ボロボロになった床にこすりつける。木片がおでこに刺さるが、お構いなしに、笹井は頭を下げ続けた。
その言葉に、井関はハッとした。そして彼も同じく、床に頭をつけた。
「私は戦争で兄と叔父、そして親友を遠い戦地で亡くしました。ですがそれでも、私は貴女の気持ちを完全に同情することができません。貴女の苦しみは、我々の計り知れないところにあると、わかりました」
そう言うと、夫人の顔つきはふと柔らかくなった。
「……そう。あの総裁が言っていたのは、こういうことだったのね」
夫人は二人に顔を上げるように言う。それから彼らに背を向けた。
「食卓の上にある食器、下げておいてもらえますか。もう、そこにある必要はありませんから」
彼女はそう言った後、決意を込めたように拳を握りこんだ。
「私は、手記を持ってまいりますから」
彼女はそのまま自室へと消えていった。四人は、その後ろ姿に腰を折った。
井関は、一応嶋技師長に経過を報告すると言って、現場最寄り駅の鉄道電話を借りに走った。しばらくして息を切らしながら戻ってきた井関に、小林はこう声をかけた。
「ああ、すまないね。じゃあ行こうか」
いざ、現場へ。井関が先陣を切って被害を受けた遺族宅へと赴く。
その家はここいら一帯の有力者の家なのか、あまりにも立派だった。そしてその裏手には、列車が抉り取った傷跡が残る。
「ごめんください」
井関が、戸をノックした。中からこの間の女性が出てくる。だがその眼に、以前のような力強さはない。
「帰って」
その言葉も、どこか弱々しかった。井関はその場で腰を折る。
「お願いします。どうか、お話を聞かせてください」
女性は、何かを腹に据えかねたように鼻で息をすると、一瞬の時を置いて井関を中に入れた。
「……すぐに帰ってください」
女性はチエと名乗った。亡くなった積田文吾さんのご婦人にあたる。
「あの人と息子は、ここで死にました」
家の中に入ってすぐ、チエは立ち止まって指を差した。その先にはふすまがある。井関は恐る恐るそれを開くと、その先は何もなかった。
いや、あった。あるのは惨状としか形容しきれないそれだ。列車が無残にも抉り取った家の欠片がそこにあるのみだ。
井関は動揺する。ふすまを閉めていればそこには日常が広がっている。だが、ふすまを開けた瞬間、そこには非日常であったはずの絶望しかない。
外から見てわからない、事故の悲惨さ。この事故がどれだけ彼女の心に傷を与えたのか、井関は本当の意味でようやくわかったようになった。
「……私は助かりました。私は、あの人のために朝食をつくっていましたから」
見れば、食卓には何かがある。それは、変わり果てた朝食だった。
「あの人は毎朝3時に起きます。それから、白湯を呑んだ後、一汁一菜にたくあんを食べて、仕事に行きます。私はそのために、毎日毎日2時には起きて朝の用意をしておりました。だから、私は助かりました」
そこは、寝床があった。ボロボロになった布団の残骸のようなものが顔を出している。
「ここでカマドに火を起こし、湯を沸かし、お湯の温度をあの人好みに寄せて、汁の塩気をあの人の身体に丁度いいように整えて……。あの人のことを考えながら、もう何年もやってきたことをあの日もやっていました」
夫人はそっと夫婦茶碗に手を添える。それはまだ、綺麗な形で残っていた。
「あの時、一瞬にして私は家族を失いました。そしていま、家まで失おうとしています。この心情が、あなた方に理解できますか」
井関はとっさに、”はい、とてもよくわかります”と、そう言おうとした。だが、その言葉が喉から出ていかない。言葉が痰に絡んで先へ飛んでいかない。
井関から出てきたのは嗚咽混じりの咳気だけだ。
その時、笹井が夫人の前で膝をついた。
「申し訳ない。だが、とてもわかりはしません」
笹井が頭を、ボロボロになった床にこすりつける。木片がおでこに刺さるが、お構いなしに、笹井は頭を下げ続けた。
その言葉に、井関はハッとした。そして彼も同じく、床に頭をつけた。
「私は戦争で兄と叔父、そして親友を遠い戦地で亡くしました。ですがそれでも、私は貴女の気持ちを完全に同情することができません。貴女の苦しみは、我々の計り知れないところにあると、わかりました」
そう言うと、夫人の顔つきはふと柔らかくなった。
「……そう。あの総裁が言っていたのは、こういうことだったのね」
夫人は二人に顔を上げるように言う。それから彼らに背を向けた。
「食卓の上にある食器、下げておいてもらえますか。もう、そこにある必要はありませんから」
彼女はそう言った後、決意を込めたように拳を握りこんだ。
「私は、手記を持ってまいりますから」
彼女はそのまま自室へと消えていった。四人は、その後ろ姿に腰を折った。
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