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第四章
しおりを挟む先に歩き出した樹さんのあとについて非常階段へ行こうとすると誰かが階段を上がってくる靴音が聞こえた。
僕らは反射的に立ち止まった。そして視線の先の人の姿を見て僕は身体が硬直した。隣にいた織音さんも強張った表情になっているのがわかった。
「誰なんだ……あの人は?」
前にいた樹さんが僕らに尋ねた。
「榊……毅仁です……」
僕が答えると近くにいた平さんも表情を変えた。
「こんな場所で……最悪やな……」
「樹さん、友利歌さん、僕らの後ろに下がって」
僕は二人に後ろに隠れるよう急ぎ促した。そして屋上の中央まで後ずさった。
榊毅仁は不敵に笑いながらこちらにゆっくりと近づいてきた。
「治験者が揃って何の相談かね?」
榊毅仁は僕らの5メートルくらい先で立ち止まった。
「アナタには関係ない事よ」
織音さんが間髪を入れずに言った。だが、榊毅仁は表情も変えずに続けた。
「君たちは要注意人物だからな……これ以上、余計な真似をされると私の研究に支障が出るんだ……」
榊毅仁は僕らを一瞥して空を見上げた。
「最良の選択をして行動する。僕らはシステムを正しく使っているだけだ!」
「それが余計だと言うんだ!お前たちは私の研究の為だけに存在していればいいんだ!!」
僕の言葉に榊毅仁はあからさまに怒りを混じらせて言葉を吐き捨てた。
「天才科学者言うからどんな奴かと思うたら……ただのカスやないか」
「言葉には気をつけてもらおうか……お前達の生殺与奪は私にあるのを覚えておく事だ……」
「そんな脅しに私たちが屈するとでも思っているの?」
「脅しかどうか試してみるか?」
榊毅仁は片手を僕らの前にかざした。すると、地面に落ちていたナイフが宙に浮いて榊毅仁の手の前で止まった。
「君達はイメージだけで殺人が可能なのは知っているかね?人間の想像力を逆手に取れば簡単な事だ……ここで強烈なイメージを植え付ければ現実世界の君たちを殺す事など容易い……それを見れないのが残念だがな!」
宙に浮いたナイフがゆっくり僕らの方を向いた。僕はとっさに織音さんの前に立って身構えたが次の瞬間、僕の前に友利歌さんが出てきて両手を広げた。
「友利歌!ダメだ!」
樹さんの声が後ろから聞こえた。
「この人たちには未来があるんです。だから殺すなら私だけにして」
友利歌さんはハッキリとした口調で言った。
「良い覚悟だ……システムが創り出した人間を殺しても面白みに欠けるが後ろの男の反応は研究の対象になりそうだな」
榊毅仁の冷笑が僕らの体を凍りつかせた。
「この外道が!!」
「泉さん!ダメ!逃げて!!」
平さんと織音さんが声を荒げた。
「アナタたちを助ける方法が他に思いつかないの……唯祐……約束守れなくてゴメンね……」
「友利歌ぁぁ!!」
樹さんの叫び声に近い声と同時に宙に浮いていたナイフが友利歌さんの心臓めがけて飛んだ。
「なっ、なんだ……これは………」
突然、榊毅仁の戸惑う声が聞こえた。絶体絶命の状況の中、恐怖で目を瞑っていた僕はゆっくり目を開けた。すると榊毅仁が自分の両手を見ていた。彼の身体から細かく光った白い粒子のようなものが無数に出てきては空中に消えていた。
友利歌さんをめがけて飛んだナイフが刺さる手前で止まり地面に落ちていた。
「まっ、まさか……知仁なのか……奴め、また私の邪魔をするのか……一度ならず二度までも……実の兄を二度も殺すというのか!許さん!許さんぞ!!知仁ぉぉ!!」
「まだ……私の研究は……終わってはいな……」
その言葉を最後に榊毅仁の身体は蒸発して僕らの目の前から消えてなくなった。
「一体……何が起こったんだ……?」
「私たち……助かったの……?」
目の前で起きた状況を理解する事が出来なかった。その直後、立っていた友利歌さんが膝から崩れ落ちて倒れた。
「友利歌!」
樹さんがすぐに友利歌さんを抱きかかえた。
「怪我はないか?」
「……うん、大丈夫……唯祐……私…すごく怖かった」
僕の隣にいた織音さんが心配そうに二人に近寄った。
「泉さん!大丈夫ですか?」
「ええ……心配かけてごめんね」
僕と平さんは二人のやり取りを見て安堵した。
「とりあえずは全員が無事でよかった」
「ああ……それにしても榊毅仁はどうなったんやろな?」
「状況から考えるとシステム内からは消えたと思ってよさそうですね」
「ホンマけったいな奴やったな……胸くそ悪いわ」
(榊毅仁の目的はなんだったんだろうか……)
最期は弟の知仁の名前を叫びながら消えていった。多少の疑問は残るが危機的状況から脱する事はできた。
「みなさん、心配かけましたが友利歌は大丈夫なので改めて式場に向かいましょう」
樹さんは友利歌さんを支えながら僕らの前に来た。
「これで邪魔者はいなくなったし……心置きなく結婚式に参加できる」
織音さんが両手を組んで背伸びしながら言った。
「さっきまで命の危険があったとは思えん発言やな」
「女の子は切り替えが早いんです。それに結婚式ですよ!女性にとったら人生の一大イベント!ねぇ……藤乃さん?」
「あっ、ああ……そうだね……」
僕の曖昧な相槌にみんなが何故か笑っていた。
「あの……樹さん、式に参加するのは僕ら3人だけでいいんですか?」
「僕と友利歌が結婚した事実をずっと覚えていてくれる人がいい。だからあなた達じゃないとダメなんだ」
樹さんの答えに自分がとても野暮な事を聞いてしまったと恥ずかしくなった。
「思い立ったが吉日、早く行きましょ♪さあさあ、藤乃さん♪」
人一倍楽しそうな織音さんが僕の背中を押しながら歩き出した。
「ちょっ、ちょっと……僕は道知らないよ……」
樹さんの心が良い方向に向き始めているのが本当に嬉しかった。一時はどうなるかと思ったけど誰かの心が救われるのが僕にとって大きな喜びになっていた。
そしてみんな笑顔で式場までの道のりを楽しみながら歩いていた。
「すごい立派なホテル……」
遥香さんがホテルを見上げながら言った。他の2人も同様に見上げていた。
僕も結婚式の打ち合わせで数回、ここに来たが改めて見ると立派なホテルだった。
「私……さっき打ち合わせしたばかりなんだけど……浅井さんきっとビックリするよね……今から結婚式やりたいなんて言ったら」
「仕方ないよ。事情が事情だから……ダメもとで聞いてみよう」
多少の不安はあるがここは開き直って当たって砕けるしかない。僕は決意を胸に後ろにいる3人の方を振り向いた。
「みなさん、申し訳ないんですがこれから2人で結婚式が出来るかどうか確認してくるので待っていてもらっていいですか?」
「いいですよ。吉報を待ってます」
「絶対大丈夫ですよ」
「ゆっくり待っとくわ」
「ありがとう。それじゃあ、友利歌行こう」
「うん」
僕たちは3人に見送られてホテルの入り口へ向かった。
「あっ!藤乃さん……もしかしてあれって東京都庁?」
「織音さん、都庁見るの初めて?」
「うん!まさに東京のシンボルって感じよね」
「俺は通天閣の方がええけどなあ……」
うしろからそんな会話が聞こえてきて僕と友利歌は思わず笑ってしまった。
ホテルの中は外観に負けず豪華だった。まるで洋館の玄関のような造りになっていて目の前に幅の広い階段と踊り場があり、踊り場から左右に階段が二階へ伸びている。入り口から左側に広めのラウンジ、右側にフロントがあった。入り口に立って周りを見ていると先の階段を下りてくる人が目に入った。
それは偶然にも僕たちが探していたウェディングプランナーの浅井由美子さんだった。セミロングの黒髪を後ろで束ねて黒いスーツに身を包んでメイクもバッチリ決まっていた。
彼女は入り口にいた僕たちに気づいて驚いた顔をして近づいてきた。
「どうなさったんですか?お二人で揃って……」
2年ぶりに会う浅井さんが懐かしく思えた。僕たちのために結婚式や披露宴のプランを親身になって考えてくれた。友利歌は当時、良い人に出会えたと喜んでいた。
友利歌の事件後も彼女は葬儀に参列して友利歌の死を悼んで涙を流してくれた。
「突然すいません……折り入って相談があるんですが……お時間ありますか?浅井さんにしか頼めない事なんです」
僕の切迫した表情が出てしまったらしく浅井さんは面をくらっていた。
「ここだとなんですから……こちらへどうぞ」
浅井さんは僕たちを二階の応接室へ案内してくれた。僕と友利歌はテーブルを挟んで浅井さんと向かい合わせの形で座った。
「忙しいのに……二度も来てすいません……」
友利歌が浅井さんに申し訳なさそうに謝った。
「いいえ、大丈夫ですよ。新郎新婦さまが絶対に納得のいく結婚式、披露宴を演出するのが私たちの仕事ですから」
浅井さんは笑顔で言ってくれた。僕と友利歌はその言葉にホッとして顔を見合わせた。
「それでお願いと言うのは何でしょうか?」
「実は……今日、結婚式をやりたいんです」
「えっ……でも式は来週の日曜日のはずですよね?」
彼女は怪訝な顔をして聞き返した。やはり予想通りの反応と返しだった。
「無理なお願いをしているのは重々承知しています。でもどうしても今日じゃないとダメなんです!」
僕は自分で言いながら、なんて無茶な事をお願いしているんだと強く思った。
「今日、式を挙げたい理由は教えて頂けるんですか?」
「……詳しい理由は教えられません……でも今日、式を挙げないと僕と友利歌は一生後悔してしまう……」
おそらく本当の事を言えば出来るモノも出来なくなるような気がした。僕の答えに浅井さんは困った表情を浮かべていた。すると友利歌が僕の膝に手を置いた。
「私からもお願いします……私たちには今しかないんです……浅井さんには本当に感謝しています……私たちのために素敵な結婚式のプランを考えてくれて……それに私のワガママもたくさん聞いてくれた。あなたのような人に出会えた事が私にとって人生の幸福だと心から思えるんです……」
自分の未来がわかってしまっている友利歌だからこそ出てくる言葉だった。そして沈黙のあと浅井さんは神妙な顔で口を開いた。
「……わかりました。どうなるかわかりませんが上司に掛け合ってみますね。ですが……たとえ結婚式が出来たとしても簡易的なものになってしまうと思いますがよろしいですか?」
「ありがとうございます。彼と結婚式が出来ればどんな形でもいいです」
無茶なお願いを真摯に受け止めてくれた浅井さんに僕と友利歌は頭を下げて感謝した。
「私も新郎新婦さまの担当になれて本当に嬉しく思えます。お客様とプランナーの関係を越えて人間対人間になれたとき、初めて自分の仕事の本来の意味を知る事が出来る気がするんです……友利歌さん……さっきの言葉……一生忘れません……ありがとう」
浅井さんは友利歌にお礼を言うと席を立った。
「では少しの間、席を外しますね」
そして彼女は僕たちに会釈をしたあとドアを開けて外へ出て行った。
「とりあえず、良い知らせを待とう」
「私……嬉しくってドキドキしてきちゃった」
「僕もだよ……」
胸に手を当てながら嬉しそうにしている友利歌を引き寄せて髪を優しく撫でた。
そして僕たちは顔を見合わせて無邪気に笑い合っていた。
しばらくするとドアが開いて浅井さんが戻ってきた。
「おまたせしました」
彼女は椅子に座り直し再び僕たちと対面した。
「結婚式の件なんですが…………」
浅井さんの神妙な表情にまさかと思い僕と友利歌は息を呑んだ。
「………大丈夫、出来ますよ」
彼女は急に笑顔になった。その言葉で僕たちは椅子の背もたれにほぼ同時にもたれかかっていた。
「ダメかと思った……浅井さんも人が悪いなあ」
「ごめんなさい。でもこういう演出がある方が驚きもあるけどその分、喜びも倍になってお二人の思い出になったりするんですよ」
浅井さんは謝りながら冗談っぽく笑顔を見せた。
彼女の言う通りこういう演出があるのと無いのではある方が思い出になるかもしれない。
「それでは本題に入りましょう。今から使用するチャペルは少人数プランの小さなところです。列席者はいかがなさいますか?」
「3人です。実は今、外に待たせていて……」
「わかりました。それとですね……式の時に着て頂く衣装なんですが以前に試着して頂いた物の直しは出来てますのでそれを着て頂きます」
僕と友利歌は彼女の話を頷きながら聞いた。
「あと実は今日……牧師がいないんですよ。突然のお話だったので……」
「じゃあ……牧師役は浅井さんお願いします」
「えっ……私がですか?」
「思い出に残る演出ですよ」
僕の提案に隣で友利歌がクスクス笑っている。
「わかりました。言い出したのは私ですから」
「それでは移動して衣装合わせをいたしましょう。まずは新婦の友利歌さん…こちらへ」
「はい……」
「浅井さん、すいません……外で待っている列席者の人たちをここに呼んでいいですか?」
「あっ、そうですね。お任せしてよろしいですか?」
「はい、これから行って呼んできます」
3人は立ち上がり応接室をあとにした。
「それではまたお呼びしますので列席者の方と応接室でお待ちください」
浅井さんはそう言うと友利歌を連れて行ってしまった。それを見送った僕は治験者の3人を待たせているホテルの出入り口に向かった。
ホテルの外に出ても3人の姿はなく、歩道まで出て左右を見た。すると100メートルくらい先に3人がこっちに向かって歩いて来るのが見えた。
僕は3人に手を振りながら彼らのいる方へ歩いた。前の3人も僕に気づいて手を振り返し小走りで僕の近くまで来てくれた。
「どうでしたか?」
「OKもらえたよ。簡易的な式になっちゃうけど」
「よかったですね!」
「システム内で結婚式に参列できるなんて夢みたい……」
「しかもさっきまで名前も知らん他人やったんやからな……人生なにが起こるかわからんな」
喜んでくれている3人を見ながら僕は感謝したい気持ちでいっぱいだった。復讐心に駆られて後先を考えられなくなっていた他人の僕を彼らは救ってくれた。
「本当にありがとう。あなた達のおかげで現実世界で叶わなかった友利歌との結婚式ができる」
「僕らはただ……お手伝いしただけですよ。樹さんの心が恐怖やトラウマに勝ったんです。だからこそ、この選択ができた」
藤乃くんの言葉に2人は頷き彼はさらに続けた。
「僕は織音さんや平さんの過去を一緒に体験してわかった事があるんです……それは誰かがそばで寄り添ってあげないと人の弱い心はすぐに潰れてしまう。人間は誰しも弱い部分があります……榊毅仁はこのシステムを悪用して人間の一番弱い部分を剥き出しにさせて治験者の心を弄んで自分の私利私欲のために利用したんです」
僕は改めてこのシステムの恐ろしさを思い知らされた。いくら完璧なシステムでも扱う人間が間違った使い方をすれば悲劇しか生まれない。危うく榊毅仁の思惑通り自分の過去を自分自身で傷つけるという過ちを犯すところだった。
「私も……怖い体験をしたけど藤乃さんの助けもあって自分の意志で行動して自分なりの答えを出せたと今は思っています。過去は変えられないけど自分が行動した事で私の中の何かはきっと変わったと信じたい」
遥香さんは少し視線を落としていたが、その目は強い意志を感じた。
「二度と会われへんと思うてた家族にも会えたしな……終わり良ければっちゅうやつやな……」
平さんは笑みをこぼしていた。辛い過去を持っていたのは僕だけじゃなかった。僕はこの3人と友利歌のおかげで自分を取り戻す事ができた。遥香さんの言う通り過去は変えられないが、これからの自分の行動次第で意識を変える事は出来るはずだ。
少し前の僕からは考えられないような前向きな思考になっていた。
「式の列席者があなた達で本当によかった。これから式の準備があるので一緒に行きましょう。案内します」
僕は3人を連れてホテルの入り口へ向かった。
そして応接室に入ると僕たち4人は椅子に座った。すると座ったタイミングでドアが開いて中に入ろうとした浅井さんが僕たちを見て少し驚いた表情を見せた。
「あっ、こちらが列席者の方々ですか?ウェディングプランナーの浅井由美子です。本日はよろしくお願いします」
浅井さんは僕たち4人に対して丁寧にお辞儀をした。すると3人は同時に立ち上がって彼女に会釈をした。
「わざわざありがとうございます。どうぞ、お掛けください」
彼女に促されて3人はまた座り直した。
「新婦さまのドレスの着付けが終わりましたので次は新郎さま、よろしいですか?」
「あっ、はい」
僕はすぐに立ち上がりドアの方へ移動しようとした。
「あの……すいません。泉さんのドレス姿見たいんですけど……いいですか?」
遥香さんが手を挙げながら申し訳なさそうに言った。
「大丈夫ですよ」
「やったぁ」
遥香さんは嬉しそうに立ち上がった。
「お二人はどうなさいますか?」
浅井さんが座っていた藤乃くんと平さんに聞いた。
「僕は樹さんの方について行こうかな……」
「まあ、女同士で話したい事もあるやろからな……俺も藤乃について行くわ」
「わかりました。それではまずは新郎さまの試着室に案内しますので私について来てください」
僕たちは浅井さんについて部屋を移動した。階段を使って三階に行くと広い廊下に5メートル感覚でドアがあり、浅井さんは一番手前にあるドアの前で立ち止まった。
「こちらが試着室になります」
彼女はドアを開けて中に入った。僕たちも続いて部屋に入るとそこは明かりが煌々としていて見回すと試着室と大きな鏡があり壁に青いタキシードが掛けられていた。そして浅井さんはタキシードの前に立った。
「こちらが新郎さまの衣装になります。あちらの試着室でご試着の方お願いします」
「わかりました」
「お着替えが終わる頃にまた来ますので……それでは新婦さまのところに行きましょう」
「はい!………フフッ……楽しみ♪」
遥香さんは笑顔で浅井さんと部屋を出て行った。
「すぐ着替えますからお二人は座って待っていてください」
「僕らに気を使わずにゆっくり着替えてください」
「急いで着替えてシャツでも出とったらカッコ悪いしな……」
「ありがとう。お言葉に甘えてゆっくり着替えるよ」
僕はタキシードを持って試着室に入り着替えを始めた。
上着を脱ごうとしてふとポケットに手を入れると何かが触れた。取り出して手を開くと、そこには二つの指輪があった。
「こんな事………本当にあるのか?」
信じられなかった。それは2年前から僕がずっと持ち歩いていた指輪だった。事件後も友利歌の事が忘れられずに持ち続けていた。2年もの間、行き場を無くしてきた結婚指輪はこの日を待っていたかのように輝きを放っていた。
僕はその指輪をタキシードの上着のポケットに入れた。
そして衣装に着替えて着ていた服を畳み試着室を出た。
「おっ、男前が一段と上がったなあ」
「平さん、なんか親戚のおじさんみたいですね」
「せやろ?俺も自分の結婚式の時、身内におんなじこと言われたからな」
平さんの冗談に僕たちは一斉に笑った。その時、ドアをノックする音がした。
「どうぞ」
僕が声を掛けるとドアがゆっくり開いて遥香さんが入ってきた。
「おじゃまします……あっ、樹さんもずっごい似合ってる!」
「ありがとう。それで友利歌の方はどうだった?」
「そりゃあもう……ウェディングドレスが似合いすぎて似合いすぎて……このまま式場のパンフレットのモデルとか出来そうなくらいでした」
遥香さんは憧れの人を見ているような瞳で宙を見上げながら言った。彼女の言葉に僕も早く友利歌に会いたくなった。
「それは楽しみやな。新郎も早く花嫁に会いたいやろ?」
「そうですね。現実世界で見る事が出来ませんでしたから……」
平さんの質問に答えるとまたドアをノックする音がした。
「はい」
返事をするとドアが開いて浅井さんが顔をのぞかせて部屋に入ってきた。
「失礼します……お着替えは済んだみたいですね。これから式の打ち合わせをしようと思うのですがよろしいですか?」
「はい、お願いします」
「列席者の方々も一緒に聞いて下さい。これからチャペルの方へ移動します。まず新郎さまはバージンロードの先でお待ち頂いてBGMが鳴りましたら入口の扉が開きます。そこで新婦さまに登場して頂いてバージンロードをゆっくり歩いて新郎さまのところまで来て対面いたしましたら私がいくつかの質問をしますのでお二人には質問に答えて誓約を誓っていただきます。そして指輪を交換したあと誓いのキスをしてから最後に結婚を列席者に宣言して頂いて式は終了です」
浅井さんは少し早口で式の流れを話し終えると改めて僕を見た。
「これまでの流れで質問はありますか?」
「いいえ、大丈夫です」
「わかりました。それではチャペルの方に移動しましょう」
浅井さんの声に促されて僕たちは部屋を出た。そして彼女の後をついて歩いた。
エレベーターの前に来ると浅井さんは上のボタンを押した。しばらくするとエレベーターが開いて全員が乗り込むと彼女は5のボタンを押し扉が閉まってエレベーターは上昇を始めた。
そして5階に着くと浅井さんは僕たち4人を出してからエレベーターを出た。
外に出たすぐのところに大きな扉がある部屋が見えた。
「こちらが今回、式に使用するチャペルになります」
浅井さんは移動しながら扉の前に立ち、両手で勢いよく扉を開けた。
「わあ……素敵なチャペル」
遥香さんが感嘆の声を上げた。
中をのぞくとモダンな作りで綺麗な場所だった。身内だけで式を挙げるにはちょうどいい広さの小さなチャペルだ。
「では列席者の方は席に座って頂いて……新郎さまは聖書台の前でお待ちください」
「わかりました」
いよいよだと思うと緊張してきた。僕たちはバージンロードを歩いて3人は聖書台から一番近い席に座り、僕は聖書台の前に立った。
「樹さん!がんばって!」
遥香さんに声援をもらって僕は片手を上げて答えた。ふと、横を見ると壁際に一台のアップライトピアノが置いてあった。僕は感慨深く置いてあるピアノを眺めていた。
「お待たせしませた。新婦さまが到着しましたので式の方を始めさせてはいただきたいと思います」
浅井さんの声に反応して扉の方を見た。だが扉は閉められてしまい残念ながら友利歌の姿を見る事が出来なかった。そして浅井さんは壁づたいにこちらの方へ歩いてきた。
「音楽が鳴ったら扉を開けますので」
「はい」
浅井さんは僕の近くに来ると小声で言った。
「そうだ、浅井さん……これを」
僕はポケットから指輪を二つ取り出して彼女に渡してから改めて扉の方を向き、そのときを待った。
チャペル全体に『フェリックス・メンデルスゾーン』の結婚行進曲が響いた。
バージンロードの先にある扉がゆっくり開き始めて友利歌の姿が見えてきた。
曲が一番盛り上がるところで扉が全開になって純白のウェディングドレスに身を包んだ友利歌が前を見ながらゆっくり歩いてきた。
「綺麗だ……」
僕は自然と言葉がこぼれていた。友利歌は本当に美しかった。初めて彼女に会ったときの自分に戻っていた。ふと前に座っていた治験者の3人が目に入り彼らも僕と同様、友利歌のウェディングドレス姿に釘付けになっていた。
そして友利歌はゆっくりと僕の隣に来て立ち止まった。同時に音楽が鳴り止み、僕たちはお互いの立ち位置に立って浅井さんの方を見た。
「それでは、誓約の誓いを」
聖書台に立った浅井さんはやはり緊張しているようだった。
「汝『樹唯祐』はこの女『泉友利歌』を妻とし、良き時も悪き時も富める時も貧しき時も、病める時も健やかなる時も、共に歩み、他の物に依らず、死が二人を分かつまで愛を誓い、妻を想い、妻のみを添うことを神聖なる婚姻の契約のもとに誓いますか?」
「はい、誓います」
僕が答えると彼女は頷き、次に友利歌の方を見て続けた。
「汝『泉友利歌』は、この男『樹唯祐』を夫とし、良き時も悪き時も、富める時も貧しき時も、病める時も健やかなる時も共に歩み、他の者に依らず、死が二人を分かつまで愛を誓い、夫を想い、夫のみに添うことを神聖なる婚姻の契約のもとに誓いますか?」
「はい、誓います」
浅井さんは友利歌の誓いに頷き、正面を向いて続けた。
「皆さん、お二人の上に神の祝福を願い、結婚の絆によって結ばれたこのお二人を神が慈しみ深く守り、助けてくださるよう祈りましょう」
浅井さんが慣れてないのに牧師役をやってくれているのが本当にありがたかった。
「それでは指輪の交換を」
そう言うと浅井さんは聖書台の下からリングトレイを出して僕のそばに来た。
トレイに乗っていた2つの指輪の内、1つを取ると浅井さんは一歩下がった。
そして僕は友利歌と向き合って近づき、優しく左手を取って薬指に持った指輪をゆっくりはめた。
友利歌の手を離すと次に浅井さんは友利歌のそばに来てお互い頷き合うと友利歌はトレイから指輪を取り、今度は僕の左手薬指に指輪をゆっくりはめてくれた。僕たちは改めて見つめ合い微笑んだ。
浅井さんは指輪交換を見届けると聖書台に戻って僕たちを交互に見た。
「では……誓いのキスを」
その言葉に促されて僕はもう半歩、友利歌に近づき彼女の両腕に手を添えた。
友利歌は自然と瞳を閉じて顔を少し上げた。
僕は思わずその姿にドキッとしてしまい一瞬、動きが止まってしまった。しかし、友利歌をこの状態で待たせるわけにはいかないので僕はゆっくりと顔を近づかせて友利歌とキスをした。
たった数秒間が永遠のように感じられた。忘れかけていた友利歌とのキスの感触を忘れないように心に刻もうと思った。
そしてお互いゆっくりと唇を離した。見ると何故か友利歌の目から一筋の涙がこぼれていた。
「ごめんなさい……でもわたし本当に嬉しいの……唯祐と結婚式ができて……これで樹友利歌になれるんだね」
涙を流しながらはにかんでいる彼女がとても愛おしかった。僕は頷きながら友利歌の涙を指で軽く拭った。
「さあ、最後に2人の結婚を宣言しよう」
僕と友利歌は列席者の方を向いた。
「本日は2人の為に結婚式に列席していただき本当にありがとうございます。みなさんのおかげで僕たちは晴れて夫婦になる事が出来ました」
僕の言葉に治験者の3人は席を立ち上がり温かい拍手を送ってくれた。
僕たちは3人に深くお辞儀をして再び聖書台の方を向いた。
「これで式は終了です……おつかれさまでした」
「こんな素敵な式が出来たのも浅井さんのおかげです。あなたが無理を聞いてくれたから僕たちはこうやって夫婦になれた。本当に感謝しかありません」
僕は言いながら彼女にお辞儀をした。
「私の方こそ、お礼を言わせてください。結婚という人生の大きなイベントに絶対的妥協したくないというご夫婦の願いを可能な限り協力できてウェディングプランナーとしてお二人のお力になれたことで仕事以上の物を手に入れられた気がします」
浅井さんは満足げな表情で僕たちにお辞儀をしてくれた。
「唯祐、…お願いがあるの……」
友利歌が小声で僕に言った。僕は頷き、次の言葉を待った。
「この感謝の気持ちをどうしても形にして返したい……だから披露宴でやる予定だった歌をここでやりたいの」
友利歌の表情は真剣だった。僕も名案だと思ったが心はどこかざわついていた。
「わかった……やろう……浅井さん、これから歌を披露したいんですけどそこにあるピアノは使っても大丈夫ですか?」
ざわつきが気にはなったが友利歌の気持ちを優先させたかった。
「よろしいですよ。私も個人的にすごく聴きたかったので素直に嬉しいです」
「みなさん、これから披露宴でやる予定だった歌とピアノの演奏をお見せします」
僕が言うと治験者の3人は顔を見合わせて喜んでいた。
「もう見れないと思ってたからほんと嬉しい!」
「夫婦になって初めての共同作業やな」
「どんな歌と演奏が聴けるんだろう……楽しみだね」
僕と友利歌は彼らの反応に笑顔になり僕はピアノが置いてある場所へ移動した。改めて近くで見るとチャペルの雰囲気に合わせた木目調でお洒落な造りのピアノだった。
僕はピアノの蓋を開けてカバーを取った。椅子を引いて座り鍵盤を目の前にすると懐かしい気持ちになった。
そしてゆっくり鍵盤に両手を置いた。数秒後、指が震えてさらに動悸と息苦しさを覚えた。
(やっぱりまだダメなのか……)
2年前の事件のトラウマから僕はピアノに触れる事が出来なくなっていた。そして震えていた僕の右手の上に誰かの手が優しく重なるように置かれた。
「友利歌……」
僕のすぐ横に友利歌が優しい顔つきで立っていた。
「大丈夫……唯祐なら出来る……私の事だけを考えて」
彼女の言葉と手のぬくもりで不思議と指の震えは治まっていた。
(僕は友利歌のためにピアノを弾くと心に決めたんだ……だから彼女が望むことなら何でもできるはずだ……)
そのとき、僕の中で何かが変わった。
友利歌を見つめて僕は力強く頷いた。そして友利歌も頷き返し、そっと乗せていた手を離した。
初めて大学の教室で友利歌と出会ったときの気持ちに戻っていた。
僕は深呼吸をして改めて鍵盤に両手を置き直した。
静かなチャペルにピアノの音色が響いた。
僕が前奏を弾き終えると隣にいた友利歌が歌い始める。
友利歌の美しい歌声がチャペル全体を優しく包み込んでいった。
アメージング・グレイス
何と美しい響きであろうか
私のような者までも救ってくださる
道を踏み外しさまよっていた私を
神は救い上げてくださり
今まで見えなかった神の恵みを
今は見出すことができる
神の恵みこそが私の恐れる心を諭し
その恐れから心を解き放ち給う
信じる事を始めたその時の
神の恵みのなんと尊いことか
これまで数多くの危機や苦しみ
誘惑があったが私を救い導きたもうたのは
他でもない神の恵みであった
忘れていた……。
いつも友利歌の歌に励まされてきた事を……。
彼女の歌声の中にいると、悲しみ……怒り……迷い……不安から一時的に解放されて本当に神の恩恵を受けているような気になってしまう。
友利歌の歌には不思議な力が宿っていると今なら確信を持って言える。
ピアノを弾く手も驚くほど滑らかに動いている。僕はこの一曲に全てを注ぎ込む思いで弾き続けた。
気がつくと僕たち二人がが奏でる音と歌が調和して式場を特別な空間に変えていった。
この感覚を久しぶりに感じた。会場が一体になって音の虜になっている感覚……。
(そうだ……僕はこの感覚が忘れられなくてピアノを始めたんだった……)
子供の頃、親に連れられて観に行ったクラシックコンサート……そのときに初めてこの感覚を味わった。そして友利歌と出会うきっかけを与えてくれたのもピアノだった。
常に僕の人生の傍らにピアノがあった。
友利歌の歌声がさらに会場を暖かい光のベールになって包み込んでいく……。
主は私に約束された
主の御言葉は私の望みとなり
主は私の盾となり私の一部となった
命の続く限り
そうだ この心と体が朽ち果て
そして限りある命が止むとき
私はベールに包まれ
喜びと安らぎの時を手に入れるのだ
やがて大地が雪のように解け
太陽が輝くのをやめても
私を召された主は
永遠に私のものだ
何万年経とうとも
太陽のように光り輝き
最初に歌い始めた以上に
神の恵みを歌い讃え続けることだろう
そして僕たちの思い出の曲は余韻を残しながら静かにラストを迎えた。
弾き終わった僕は鍵盤に手をのせたまま目を閉じていた。そして後ろから拍手が聞こえてきた。
感無量だった。僕は閉じていた目を開けて椅子から立ち上がると友利歌と向き合った。
「友利歌……ありがとう……」
僕が礼を言うと彼女は首を左右に振った。
「ううん……私の方こそ……最後に唯祐の伴奏でアメイジング・グレイスを歌う事が出来て幸せだった……」
友利歌は瞳を潤ませながら言った。その表情を見て僕は彼女に近づこうとした。すると突然、目の前が真っ白になっていった。
僕はとっさにリストバンドを見た。だがリストバンドは何の反応も示してはいなかった。
(どうして……まだ僕のミッションは終わっていないはずだ……)
「もう少しだけ待ってくれ!まだ友利歌に言いたい事があるん……」
結局……願いは届かず……僕は強制的にミッションを終了させられた。
榊知仁がプログラムの復旧作業を始めてから3時間以上が経過していた。だけど彼は未だに強制終了ボタンを押す気配はなかった。
私はモニターに向き合う榊知仁の背中を見ながら若干のもどかしさを感じていた。
「……作業は終了した……」
突然、彼はキーボードを打つ手を止めて座っていた椅子をクルッと回して私の方に体を向けた。
「え………強制終了はしなかったってこと?」
私は怪訝な顔をしていた。違うモニターを見ていた仲村と林も彼の言葉を聞いて怪訝な顔をしている。
「兄のせいで治験者の人たちに多大な迷惑をかけてしまった。そのお詫びと言うわけではないが彼らには別のミッションに参加してもらった後に現実世界へ戻れるようプログラムを組んだ」
榊知仁の顔に疲れは見えたが少し笑みをこぼしていた。
「そう……治験者が全員無事なら問題ないわ」
私は気丈に答えたが本音は胸を撫で下ろして喜びたい気分だった。
一時はどうなるかと思ったがとりあえず危機からは脱した。
「三神先生、治験者たちが現実世界に戻ったら彼らの心のケアの方をお願いしたい」
「わかったわ……出来る限りのケアはします」
私の答えに頷くと彼は椅子から立ち上がった。
「どこにいくの?」
「………警察に……理由はどうあれ、私は殺人犯だ……実の兄を二度も殺した……」
「………でも……あなたは榊毅仁とは違う……あなたはこのシステムを守ろうとして結果的に実の兄に手を掛けてしまったのよ……こうやって治験者だって救ってくれたじゃない……」
ここを去ろうとする榊知仁に対して私は何か言葉を掛けたかった。
「こんな私を擁護してくれるのか……ありがとう……三神先生……あなたの思いやりの少しでも毅仁が持ち合わせていたなら……このシステムは間違いなく日本の医学に貢献できただろう……それが本当に残念でならない……科学や医学の進歩は『人への思いやり』から始まるものなんだ……私はそう信じている……」
榊知仁はドアノブに手を置いて外に出ようとしていた。
「待って!」
私は理由はわからないが反射的に榊知仁を呼び止めていた。そして彼は振り向き私を見つめていた。その顔は自分の非を認め、罪を受け入れた人間の穏やかな表情だった。
「最後に科学者『榊知仁』として会えたのが三神先生……あなたでよかった……」
それだけ言うと彼は制御室から出て行ってしまった。私は彼を追い掛けたかったが、これ以上は干渉できない事もわかっていた。今はもうすぐ現実世界に戻ってくる藤乃くんや他の治験者の心のケアが最優先だ。
「仲村くん、林くん。もうすぐ治験者がシステム内から戻ってくるから脳波と脈拍のチェック忘れないで……それと各地の施設にも密に連絡を取って」
2人に声をかけると彼らは定位置に戻って作業を始めていた。とにかく今は自分の責任を全うすふ事だけを考えよう。
わからない未来の事をあれこれ考えても仕方が無い。そう自分に言い聞かせて私は中村が座るモニターの後ろに立ち、この先の行方を見守った。
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