Mind Revive Network System 

MONCHER-CAFE

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第三章

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藤乃くんがシステムの世界に入ってから8時間近くが経過していた。
私の目の前ではエンジニアの仲村と林がプログラムの復旧作業を続けている。

「仲村くん、状況を教えて」

私が聞くとキーボードを打っていた仲村が作業を止めて椅子を回して私と向き合った。

「あくまで私の感覚ですが作業の進み具合は6割から7割くらいです。でもまだ気は抜けません。どこでまた地雷を踏むか検討もつかないですから……」

「このプログラムを仕組んだのが榊兄弟なら尚更ね……」

私はため息まじりで言った。あの兄弟の目的がわからない以上、次に何が起こるかさえも予測できない。
そして2時間くらい前にも治験者の脳波と脈拍の乱れがあった。現在、奈良県で治験を受けている平稔という男性。さらに平稔の異変と同じくらいに藤乃くんと織音遥香にも脳波と脈拍の乱れが若干あった。

(もしかして……治験者同士が同じ世界にいるのかしら……)

状況から考えるとその可能性が非常に高かった。だが、その事実を知ったところで私たちにはどうする事もできない。

いっその事……私自身がシステムの中に入ろうかとも考えた……しかし……。

「トラウマか……」

私は無意識に小さく呟いていた。自分の過去の後悔を考えると今システムの中に入るのは正直、怖かった。それは人間は恐怖に対してあまりにも無防備だからだ。

もし、同じ恐怖体験をしたら間違いなく精神に大きなダメージを受けるだろう。それが原因で精神的、肉体的な病を併発する可能性も十分にある。

(待つのもツラいけど……今システムの中にいる人たちの方がきっとツラい思いをしている……)

私は藤乃くんがいる部屋を見つめながら現状の厳しさを改めて思い知った。


















また目の前が光で溢れた。僕はゆっくりと目を開けて周囲を確認した。
空はどんよりとした曇り空で今にも雨が降ってきそうだった。
目の前に自動販売機が置いてあり僕はちょうど自販機の裏側に立っていた。
どうやらここはコインパーキングの敷地内のようだ。駐車している車を見るとわりと新しめの車種があったのでこの世界はそんなに昔ではない事に少し安堵した。
そしてコインパーキングから通りに出て左右を確認した。右側を見ると大きな通りが見えた。

「すごい人だ……ここはどこだ?」

大通りは通行人と車の量がとにかく多かった。そして僕は大通りに向かって歩き始めた。

(ここは……新宿だ……間違いない)

周りの建物に見覚えがあった。僕がいるのは新宿三丁目近くの老舗デパートが見える交差点だった。

(この中から治験者を探せっていうのか……無理だよ……)

通りを歩いている大勢の人を見ながら僕は落胆していた。

(とりあえず今はいつなのか知っておかないと)

誰かに聞こうかと思ったが東京暮らしの僕は都会の人の冷たさは知っていた。出来る事なら一回の会話で終わらせたい。
僕は目の前の老舗デパートがあったのでそこの店員に聞けばすぐ答えてくれると思いデパートに向かった。
横断歩道を渡ってデパートの前にやってきた。普段なら入らないであろう老舗デパートの入口に立ち、店内の様子を一度確認した。
システムの中とはいえ、やはり若干の入りづらさは感じる。
僕は意を決してデパートの中に入った。
一階は化粧品と女性用のバッグや財布、小物などが主に売られているらしくお客さんも女性ばかりだった。僕は周囲をキョロキョロと見回して近くにインフォメーションを見つけたので受付の女性のところへ向かった。

「あの……すいません」

「いらっしゃいませ、お客様どのようなご用件でしょうか?」

僕が声を掛けると受付の女性は笑顔で丁寧にお辞儀をして答えた。

「あっ、ええっと……今日って何年の何月何日ですか?」

「本日は平成15年6月20日の金曜日でございます」

「ありがとうございます。実は来週、友人の結婚式があってメッセージカードを買って書こうと思ったんですけど日にちをど忘れしちゃって……ちなみにメッセージカードって何階にありますか?」

僕はまた適当な嘘を言って切り抜けようとしていた。

(システムの中だからいちいちこんな事をする必要もないんだけど……)

「メッセージカードでございましたら6階にございます」

「ありがとう。さっそく行ってみます」

丁寧に答えてくれた女性にお礼を言って僕はその場を立ち去った。そして6階に行くふりをして別の出口から出ようとした。
システムの中だとわかっているのに大胆な行動が出来ない。自分の性分だから仕方ないとは思うが空気を読みすぎてしまうところは少し考え物だ。

(そういえば……今は2年前の2003年6月20日って言ってたな……今回は誰の後悔なんだろうか?それに織音さんや平さんは近くにいるんだろうか?)

僕は大通りを避けて路地裏や脇道を中心に歩こうと思った。もしかしたら平さんの時みたいに治験者が誰かを尾行している可能性もある。人ごみを闇雲に探してもただ疲れるだけだし、まずは織音さんや平さんと合流して治験者を探した方が効率が良い。

僕はデパートを出て人通りの少ない路地裏を歩き出した。新宿の土地勘はあまりないが過去に逢沢と新宿の洋風居酒屋で数回だけ呑んだ事を思い出した。場所は確かゴールデン街と東新宿駅の中間辺りだったと思う。
僕は適当に歩くのを止めてゴールデン街の方へ足を向けた。ここからだとおそらく5分くらいで行けるだろう。
大きな交差点を渡り『花園神社』の前を通って少し歩くとゴールデン街の看板の下まで来た。
昼間の時間帯の為か開いているお店も少なく人の通りも疎らだった。

「こんなところに治験者がいるわけないか……」

僕は独り言をつぶやき、その場から立ち去ろうとすると飲み屋がひしめく細い通りの先から見覚えのある顔がこちらに向かってきているのが見えた。

「あれは……平さん……」

僕が気付くと平さんも僕の存在に気付いて驚いた顔をしながらこちらに歩いてきた。

「こんな大都会で藤乃に会えるとはな……」

「ほんとですね……会えてよかったです」

「その様子やと治験者はまだ見つけてないみたいやな」

「はい……今回はかなり難しいかもしれません」

お互いにこの状況を察して多少のうんざり感を見せ合っていた。

「せやなあ……この新宿にいる中の一人やからなあ……」

浜辺で小さいダイヤモンドを探すという比喩がよく使われるけど今回はまさにそうかもしれない。
毎回、治験者の情報が全くない状態で始まるのでミッションの場所や状況によっては探すのは相当難しくなる。

「まあ、僕らが他の治験者のミッションにいる事自体がイレギュラーな事ですから……地道に探すしかないですね……」

「そうやな。まずはどっから探そうか?」

腕組みしている平さんを見ながら僕は前のミッションでの出来事を思い出していた。そしてある事を思い付いた。

「あっ、そうだ……平さん。このミッションの治験者がリトライを押す可能性があるかもしれないので最初に待ち合わせ場所を決めておきませんか?」

「それは名案やな。俺が藤乃に初めて会った時みたいな事があるかもしれんからな。全く土地勘のない俺からしたら新宿の街は迷宮と一緒や」

「この近くに何回か行った事がある居酒屋があるので待ち合わせはそこにしましょう。今から案内します」

僕らはゴールデン街を出て花園神社の方へ向かった。

「まずはこの神社を目指してください。そこからここの脇道に入ってずっと行けば洋風の居酒屋があるので」

神社近くの脇道に入りさらに進むと『フェリース・ノーチェ』という店の看板が見えた。
外観は黒を基調としたお洒落なスペインバルの店だ。

「ここです。この通りは比較的、人の往来も少ないみたいですし、店も開店前なので待ち合わせにはちょうどいいですね」

「ちょっと心配やから、あとでもう一回行き方教えてもらってええか?」

「いいですよ。ここをさらに行くと東新宿駅があります。場所的には神社と東新宿の中間くらいです」

平さんは風景をよく観察して場所を記憶しようとしているのがわかった。通りに立っていると後ろの首筋に冷たいものが当たるのを感じた。

「雨が降ってきましたね」

「ちょっと雨宿りさせてもらおか……」

僕らはお店の軒先に立ってポツポツと降り出した雨を凌いだ。

「遥香ちゃんも新宿におるんやろか?」

軒下から雨を見つめていた平さんが呟いた。

「いると思っていた方がいいですね。彼女もきっと治験者と僕らを探しているはずです」

僕の言葉に頷いた平さんは視線を上げて空を見ているようだった。

「あの娘はホンマにええ娘や。他人の俺を必死になって怒ってくれた……言いたくもない自分の過去の話までして……」

「織音さんは自分が経験した辛い思いを他の治験者にはしてほしくないという強い思いがあるんだと思います。悲劇は一度でいいんです……僕も織音さんの過去を一緒に体験してそれを痛感しました……だから僕らの行動で救える命や心があるなら救いたい……」

僕は信じたかった。自分の意志でリトライして母親を救った織音さんと火事から家族を守った平さんの心を……。

「今回の治験者も俺や遥香ちゃんと同じくらい悲しい過去を持ってるはずや……何が何でも助けてやらんとな……」

平さんの言葉に強く頷いた。僕は雨が止んでいるかもしれないと思い、軒先から手を出して確かめた。

「どうやら雨が止んだみたいです」

「ぼちぼち動き出すか……その前にもう一回、道を教えてもろうてからな」

「行きましょう」

そして僕と平さんは雨上がりの新宿の街を治験者を探すために動き出した。




















また目の前が明るくなってきた。木と土の匂いがする……ゆっくりと目を開けると私は林の中に立っていた。

「え?森の中?」

私は焦って周りをキョロキョロと見回した。

「あれ……ビルが見える……」

木々の隙間からものすごい高いビルが見えた。
高層ビルが見える場所にこんな自然があるなんて思わなかったのでちょっとビックリした。
まずはここが何処なのか確認しないといけなかった。私は林を抜けて道を探した。そして思ったよりすぐに広場に出た。

「人がいる……ここは公園なのかな?」

広場には家族連れやお年寄り、スーツを着たサラリーマン、それに外国人の姿もあった。私は広場を見回りながら歩いていると目の前に公園の案内図があるのを見つけた。

「……新宿御苑……ここがそうなんだ……」

大きな案内図の前で私は呟いた。新宿御苑という名前は知っていたが、そこがどういう場所なのかは知らなかった。
おそらくここは都会のオアシスのような場所なんだろう。
私の住んでいる街からは山も見えるし近くにたくさん自然がある。
都会の人はわざわざこういう所に来ないと自然が味わえないなんてちょっと可哀相な気がした。

(場所はわかったけど……今はいつなんだろう)

ここには人がいるので誰かしら聞けば教えてくれそうな気がした。
私は案内図を眺めながら考えていた。

(少しだけ……散歩してみようかな……)

この場所に興味が出てしまいちょっとだけ散策しようと思った。
歩き出そうと、ふと空を見上げると今にも雨が降りそうな天気だった。

(傘なんて持ってないよ……システムの世界で風邪をひく事ってあるのかな?)

私は雨が凌げそうな場所を探し歩き出した。広場を見渡すと芝生に横になっている人やベンチに座ってお話をする人、親子でかけっこしたりと各々が新宿御苑を満喫していた。

(この新宿のどこかにミッションの治験者がいるのか……見つけられるのかな?)

私は一応、広場にいる人たちの腕を確認したが黒いリストバンドをしている人はいなかった。

「そんなにすぐ見つかるわけないか……」

広場から見える高層ビル群を眺めながら呟いた。とりあえず私は広場から離れて適当に歩いた。さすがは都心の公共施設だけあってよく整備されていてゴミひとつ落ちていない。
苑内を見ると様々な木々や花々が植えられていてここに来れば春夏秋冬、色んな景色が楽しめそうだった。そして道なりに歩いていると大きな池がある場所に着いた。

「なんだろう……あの建物……?」

池の奥に昔の中国のお城にありそうな建物が見えた。私は立ち止まって池と建物を眺めていた。
すると突然、私の頬に冷たいものが当たった。

「あっ、雨……」

空を見るとポツポツと雨が降ってきた。濡れたくなかったので私は素早く周囲を確認した。運良くすぐ近くに雨宿りが出来そうな東屋を見つけたので走って東屋に向かった。

(よかった……これで濡れなくてすみそう……)

そこは5、6人が座れるベンチがあり、女性が一人先に座っていた。
私は女性から離れたベンチに腰掛けた。

(すごい綺麗な人……スタイルも良いし……)

見た目は二十代半ばから後半くらいだろうか。
きれいな黒髪のロングヘアーで清楚という言葉がピッタリな女性だった。
東屋から外を見ると雨がしとしと降っていて大きな池に次々と波紋を作っていた。
私の後ろでは雨が木々の葉に当たる音が微かに聞こえる。この雨が都会の汚れみたいなものを洗い流しているイメージが頭の中に浮かんだ。
私はしばらく雨と景色をボッーっと眺めた。周りをゆっくり見渡していると紫陽花がキレイに咲いているのが目に入った。

(今はきっと6月ね……)

普段は雨に対してネガティブな印象しか持てないけど、こういう場所での雨はまた違う印象を持つ事が出来る。雨に濡れた紫陽花を見ているだけで心が休まった。
ふと、座っていた女性が私の視界に入った。女性も外の景色を見ながら物思いにふけっている様子だった。

(座っているだけで絵になる人って本当にいるんだ……)

私は景色を見るフリをして女性を見ていた。しばらくすると女性はバッグから携帯電話を取り出して誰かに電話を掛け始めた。

「もしもし……お母さん?……うん……今新宿にいる……雨?……うん……大丈夫……」

ここからだと女性の会話が聞こえてしまう。

「さっき式場の人と最後の打ち合わせしてきた……うん……きっと素敵な式になると思う……来週は楽しみにしてて………お父さんは?……そっか……わかった……じゃあね……」

話が終わると女性は携帯電話をバッグにしまい直した。私は会話を聞いてしまった形になったがこの女性に興味が湧いていた。

(そうだ……この人に色々聞いてみよう)


「あの……ご結婚されるんですか……?」

私は女性の反応を伺いながら声を掛けた。

「え……もしかして……聞こえちゃってましたか?」

「はい。よく聞こえちゃってました……」

女性は少し驚いた顔を見せたが表情は柔らかかった。真正面から見るとさらに容姿の美しさが際立っていた。

「実は来週の日曜日に結婚式を挙げるんです」

「おめでとうございます。それにジューンブライドですよね?いいなあ……」

「ありがとうございます。私と彼が6月生まれなので以前から結婚するなら6月って決めていたんです」

「もうウェディングドレスは着たんですか?」

「ええ、このまえ試着しました」

私は彼女のウェディングドレス姿を想像したがとにかく似合い過ぎていてため息しか出なかった。
彼もきっとカッコイイ人なんだろうと勝手にイメージしてしまう。
すると女性は思い出したように手を叩いて両手を合わせた。

「あっ、そうだ。披露宴用のメッセージカードが出来たからアナタに見てもらおうかな?」

「ぜひ見たいです!」

私が食い気味に言うと女性は笑顔になり自分のバッグを開けて中を確認しだした。

「これなんだけど……」

女性は二つ折りになった厚手の紙を渡してきた。私は紙をゆっくり開いた。

「わあ……素敵……」

メッセージカードには平成15年6月29日
新郎・樹唯祐(いつきゆうすけ)
新婦・泉友利歌(いずみゆりか)
と書いてあり、披露宴に来てくれた人への感謝とこれから夫婦になる二人の抱負が書かれていた。そして五線譜と音階が一小節だけ載っていた。
私は楽譜が読めなかったのでこれが何の曲なのかはわからなかった。

「この楽譜の曲って何ですか?」

「アメイジング・グレイス……私と彼の思い出の曲なの……」

泉さんは優しい顔で何かを思い出している様子だった。

「どんな思い出ですか?」

私は二人の馴れ初めに興味津々だった。

「私たちは音楽大学の同級生なの。私は声楽、彼はピアノを専攻していて……大学二年のある日……私が大学の教室で歌の個人練習をしてた時に突然、彼が教室に入ってきて私に言ったの『君のためにピアノの伴奏がしたい』って私ビックリして……でも彼の真剣な顔を見てピアノの伴奏をお願いしたの。その時、私が練習していた曲がアメイジンググレイス……それから私たちは一緒に過ごす事が多くなって彼は私の歌声がすごく気に入ってくれてて、私も彼が弾くピアノの優しい音色が好きだった。そして気がついたら付き合うようになっていたの」

きっと私はいま目をキラキラさせているに違いないと思った。こんな素敵な馴れ初めを今まで聞いたことがなかった。私はますます泉さんに興味が出てきていた。

「それで大学卒業後は?」

「彼はプロのピアニストを目指していたんだけど今はピアノ教室で講師をしてる。私も本当はプロの歌手になりたかったんだけどね。今はフリーランスで色々な仕事をやってるの。ボーカル教室のインストラクターに企業のCMソングを歌ったり、アーティストのライブのコーラスとか歌に関係ある仕事は何でもやってる……あと他にメインの仕事以外でやってる事があってね、彼と二人で月に2、3回くらい児童養護施設や福祉施設に行って無償でライブをやらせてもらってるのよ。心に傷を負った子や障害を持ってる子に音楽の素晴らしさを届けてあげたくて始めたのがきっかけなんだけどね……私も彼も子供が大好きだから」

泉さんはとびきりの笑顔を見せた。女の私でもドキッとしてしまう程の可愛らしい笑顔だった。それに泉さんの美しさの秘密はこの澄んだ心のように思えた。彼女は他人の喜びと悲しみを本気で受け止めてくれるだけの心の広さと深さをもっているような気がしていた。ちょっと一緒にいるだけなのに彼女のおおらかさに気持ちが穏やかになっている自分がいた。

「私も泉さんの歌と樹さんのピアノ聴きたいなあ……」

無理だとはわかっていたが口に出してしまっていた。

「今日の夕方に彼と音楽スタジオで練習するんだけど……よかったら観に来る?」

「えっ、行っていいんですか?」

泉さんの思いがけない提案に驚いて聞き返した。

「披露宴の時に彼の演奏で一曲歌う予定なの。その為の練習だから、アナタさえ良ければ聴きに来て」

(すごく行きたいけど……治験者と藤乃さんや平さんも探さないといけないし……)

「実は……駅前で人と待ち合わせしてて……その用事を済ませたら必ずスタジオに行きます!」

本当の事なんて言えるわけないが泉さんに嘘をついている事に少し罪悪感があった。

「アナタが来るの楽しみに待ってるね……そうだ、スタジオの名刺があるから渡しておくわね。住所と電話番号が載ってるから」

彼女はバッグから財布を出して中から名刺を一枚渡してきた。

「ありがとうございます。それと……新宿駅ってどうやって行けばいいんですか?」

私はとても恥ずかしい質問をしている事を自覚しながら聞いた。

「私もこれからデパートに買い物があるから駅まで一緒に行こうか?」

「すごい助かります……あとメッセージカードもお返しします。色々ありがとうございました」

私は持っていたメッセージカードを泉さん二返した。

「雨も止んだみたいね……ちょうどよかった。また降るかもしれないから急ぎましょう」

泉さんはバッグを持って立ち上がった。私もほぼ同時に立ち上がり二人で新宿御苑の出口に向かって並んで歩いた。

「泉さんは新宿にはよく来るんですか?」

「普段はあまり来ないわね。式場が新宿だから今は式の打ち合わせの為に何度か来てるくらい」

「私なんて新宿自体が初めてなので……新宿御苑が公園だっていうのもさっき知ったくらいだし……田舎者丸出しで恥ずかしいです……」

私は恥ずかしさで伏せ目になっていた。

「でも初めてって戸惑うけどワクワクするよね。自分の可能性というか感覚みたいなものに新しく出会えるような気がするのよ。私も施設で初めてライブした時にみんな聴いてくれるかなってすごい緊張したけど子供たちも私たちの生演奏と生歌を聴くのが初めてだったからお互いが初めて同士だったのよね……それで初めて聴くピアノと歌に瞳を輝かせて聴いてる子供たちの表情を見てると音楽やっていて本当に良かったと心から思えた。たまにライブを観た子供たちからお礼の手紙をもらう事があるんだけど将来はピアニストになりたいとか歌手になりたいって書いてあるのを読むと明日からまた頑張ろうって気になれるし、逆に私の方が子供たちから元気をもらってる」

泉さんの屈託のない笑顔に私はとても癒されていた。彼女のそばにいるだけで自分が抱えているものが軽くなっている気さえした。だからこそ私は泉さんに対して少なからず劣等感があったのも事実だった。

「私には……そういう特別な能力が無いから泉さんが羨ましいですよ……」

私はつい本音を言ってしまった。一瞬、気まずくなりチラッと泉さんの表情を見ると目が合ってしまい私はすぐに逸らしてしまった。

「私は……別にこれが特別な能力だとは思ってないよ。好きだから続けられてるだけ……私の歌を聴いて元気が出たって言ってくれる人がいるから私は歌を続けられているの。アナタの近くにも必ずいるはずよ、アナタがいる事で元気になっている人が……だから特別な能力なんて必要ないのよ。必要としている人のそばにアナタがいるってだけで充分じゃない?」

私はさっきまでこの人に劣等感を感じていた自分が恥ずかしくなった。
泉さんの言う通りだった。人間は一人一人与えられているものが違うし生き方も違う。泉さんは与えられたものを最大限に活かして日々を精一杯生きているだけだった……。

「そうですよね……私にしか出来ない事がきっとあるはずですよね……」

私は改めて泉さんの方を見ると彼女は笑顔で頷いてくれた。

「もうすぐ新宿三丁目ね……この辺から人が多くなるから私から離れないでね」

「はい、わかりました」

私は泉さんのそばを離れないように歩いた。彼女の言ったとおり人が急に増えてきた。
周囲の建物は見上げるほど高くて車の交通量もとにかく多かった。
テレビや雑誌で見た風景が私の眼前に広がっていた。
周りにはお洒落なカフェ、たくさんの飲食店、家電量販店にデパートが建ち並んでいる。歩行者も老若男女いろんな格好をしたいろんな人が歩いていた。
私は泉さんとはぐれないよう彼女の背中についていった。そして大きな交差点がある場所に来た。前を歩いていた泉さんがデパートの入り口で立ち止まり振り返った。

「待ち合わせ場所って新宿駅のどの辺かわかる?」

(どうしよう……藤乃さんたちがどこにいるのかまだわからないし……それに治験者だって……)

「えっと……もうすぐ待ち合わせしてる人から携帯に電話かメールが来ると思うのでここで大丈夫です」

これ以上は泉さんに迷惑がかかると思い嘘をついた。

「そっか……私はここで買い物があるから一旦お別れだね」

「ありがとうございました。泉さんの歌、必ず聴きに行きますね」

「あっ、そうだ……アナタの名前教えてもらっていい?」

「織音遥香です」

「織音遥香さん……とっても素敵な名前ね」








そして私たちは別れた。デパートに入っていく泉さんの背中を少しの間、眺めていた。
彼女の姿が見えなくなって不意に我に返った。
私は大都会の真ん中で一人ぼっちになっていた。

(この人混みにずっといたら気分が悪くなりそう……)

人の多いメイン通りを避けて裏通りを歩こうと思い向かった。
少しでも人が少ない場所を探し歩いた。
裏通りは居酒屋やラーメン屋が軒を連ねていてオシャレな表通りとは違う感じを受けた。

(藤乃さんと平さんはこの辺にいるのかな……)

考えながら歩いていると先の曲がり角から突然、人が出てきてぶつかってしまった。

「ごめんなさい!」

私は咄嗟に謝った。ぶつかった相手の男性は私の顔を一瞬だけ見て何も言わずに行ってしまった。
私は男性の後ろ姿をしばらく見ていた。

(カッコイイ人だなぁ……それに……手の形がすごいキレイって………あれ?)

男性が腕に何かついているのに気づいて目を凝らしてよく見た。

「あれは……黒いリストバンド……治験者だ!」

思わず声を上げると私はすぐに男性の後を追った。こんな人の多い街中で治験者に出会えるなんて本当に運が良い……だから絶対に見失うわけにはいかない。私は気付かれないように治験者との距離を保ちながら歩いた。

そして治験者は人通りの少ない裏道で立ち止まり急に辺りを警戒しだした。

(一体……なにをしているんだろう……?)

私は近くにあった自動販売機の影に隠れて治験者の行動を窺っていた。しばらく見ていると今度は治験者が物陰に隠れだした。すると治験者が隠れている場所の近くの路地から人が歩いてくるのが見えた。

(あの人は……誰なんだろう……治験者の過去と関係ある人なのかな……?)

私の位置からでは数秒しか見えなかったが歩いていたのはチノパンにジャケット姿の若い男性だった。見た目は20代前半だろうか何か思い詰めた表情をしているようだった。
若い男性が通り過ぎると治験者は物陰から通りに出てきていた。そして通りを去った若い男性の後ろ姿をしばらく見ているようだった。

(どうしよう……声を掛けるのはまずいかな……)

私は自販機の影で考えていた。すると治験者はリストバンドに触れて液晶画面を出しているのが見えた。

(え……まさか……リトライする気?)

焦った私は隠れていた自販機からおもいきって通りに出た。

「ちょっと待ってください!」

私の大声に気付いて治験者がこっちを見た。

「あなた治験者でしょ?それにここはあなたの過去……そうでしょ?」

私の問いかけに治験者はリストバンドから手を離した。

「その通りだ……ここは僕の過去……これからどうしてもやらなくてはならない事がある……だから僕の邪魔だけはしないでくれ……」

それだけ言うと治験者はまたリストバンドに触れてリトライを押した。

「お願い!待って!」

私が叫ぶと同時に目の前が真っ白になって意識が飛ばされた。






気がつくとまたどこか違う場所に立っていた。

(あの人……何が目的なんだろう……)

辺りを見回すと、そこは駐車場の敷地内だった。私はリトライ前の治験者の行動を思い出していた。

(でも……さっきいたあの通り……治験者は待ち伏せしていたのかもしれない……もしかしたらあの道で待っていればまた現れるかも……)

私はまず泉さんと別れた場所に行こうと思い、通りに出た。
そして大通りの方へ歩を進めようとした時、突然うしろから肩を叩かれた。ビックリして振り向くと平さんが立っていた。

「誰かと思ったぁ……驚かさないでください」

「悪かったな。リトライされてすぐ遥香ちゃんの姿が見えたから嬉しなってな」

「ところで藤乃さんには会えましたか?」

「ああ、さっきまで一緒に行動しとったんや」

「俺らは治験者、見つけられんかったけど遥香ちゃんは?」

「実は私……治験者を見つけてさっきまで尾行してました。結局バレてリトライされちゃったんですけど……」

「どんなやつやった?」

「30代前半くらいの男性でした。身長は180センチあったと思います。顔はカッコイイ人でした!」

「カッコイイは別にええねんけど……一体、何が目的なんやろな?」

「治験者は若い男性を待ち伏せしてるみたいでした。そこの場所に行けばまた会えるかもしれません」

「藤乃と合流して治験者のとこに行くか……リトライ前に合流場所を決めとったんや。土地勘のない俺に根気よく道教えてくれて藤乃はホンマにええやつやな……」

平さんは嬉しそうに笑顔で言った。私も早く藤乃さんに会いたかった。

「じゃあ忘れないうちに早く行きましょう」

「せやな。こっちや」

私は平さんの後について藤乃さんとの合流場所に向かった。





「ここや、ここや。あの神社の先を右に入ったとこや」

大きな交差点を渡り『花園神社』と彫られた社号票の隣に鳥居が見えた。神社の前を通り過ぎて右側の路地に入った。通りをしばらく歩いていると黒い建物の前に藤乃さんが立っているのが見えた。私は思わず前を歩く平さんを追い越して藤乃さんに駆け寄った。

「藤乃さん!」

「やっと会えたね。よかった」

彼は安心した表情を浮かべていた。私もそんな彼を見て笑顔になっていた。

「東京はホンマに人がぎょうさんおって疲れるわ……」

私のすぐ後ろから平さんの疲れた声が聞こえた。やっと3人が集まれた。藤乃さんは私と平さんを見ると口を開いた。

「2人に話があるんです……これからここで起こる事で……」

真剣な彼の言葉に私と平さんは耳を傾けた。

「さっき思い出したんです。ちょっと前にニュースで今日の事がやってたのを……」

私はドキドキしながら彼の次の言葉を待った。

「通り魔事件です。確か……新宿三丁目駅付近で……一人が亡くなって他に多数の重軽傷者が出たと思います」

私は息を呑んだ。そして少しの沈黙の後、平さんが私の方を見た。

「遥香ちゃん……さっき治験者は誰かを待ち伏せしてた言うてたな?」

「えっ、ええ。実はリトライされる前、治験者に声を掛けたんです。そしたら『これからどうしてもやらなくてはならない事があるから邪魔しないでくれ』って言われました……」

あの人の表情に何か哀しく冷たい決意みたいなものを感じた。

「おそらく……復讐やな……」

平さんは険しい表情で静かに言った。

「でっ、でも何のために?」

私は反射的に言葉が出てしまった。

「大切な人を突然失うのは……ホンマにツライ……」

自分の過去と重なったのか平さんの表情が本当に寂しそうだった。

「その人の事を愛している分だけ加害者に対する憎悪は計り知れないと思う……」

「俺も放火魔を吊し上げようとしてたしな……」

「たとえシステムの中とはいえ殺人が許されるわけがない。治験者の今後の人生にも関わってくる……だから僕らで絶対に阻止しましょう」

藤乃さんの真剣な表情から事態が切迫しているのが伝わってくる。

「復讐したとこで何の意味もないしな……己の心に傷が残るだけや……」

「そうですよ!亡くなった人だってそんな事を望んでいるはずがないです!」

私は言いながら被害者の家族や恋人の事を思った。こういった事件で大切な人を失えば誰でも加害者に復讐心は芽生えると思う。私だって大切な人を殺されたら平静ではいられなくなる……でも、もしも私が被害者本人だったら家族や恋人には出来るだけ今まで通り普通の生活をしてほしいと願うかもしれない。自分を失った事でずっと哀しみや憎しみを引きずってほしくはない……。

「治験者がいた場所に行きましょう。私が案内します」

亡くなった被害者の人はシステム内ではまだ生きていて、この新宿のどこかにいると思うと治験者に会わせてあげたいという気持ちが私の中で強くなっていた。




















私の目の前で仲村が考え込んでいる。さっきまで動いていた手も止まっているようだった。

「仲村くん、どうしたの?」

「作業も最終段階なんですが……コードが暗号化されていて……」

「コードはわからないの?」

「ええ、マザーコンピューター最深部はセキュリティもかなり厳重になっていて……おそらく開発者にしかわからないかもしれません……」

落胆している仲村を見て私も言葉を失った。

(ここまできて……しかも開発者は未だに行方不明なのよ……)

「三神先生、プロジェクトの最高責任者からメールが届いています」

「読んでみて」

近くでノートPCを見ていた林の声に私は反応した。

「システムトラブルに伴い……優秀なエンジニアを現場に派遣するので期待して待つように……との事です」

メールの内容に私たちは顔を見合わせていた。

「知らないわよ……私は。あなた達は何か知ってる?」

「いいえ、我々も知らないです」

事態が把握できずに私は腕組みして怪訝な顔で考え込んだ。

(この状況を打開できる人材がいるっていうの……開発者にしかわからないコードなのよ……)

制御室内にまた不穏な空気が流れていた。その時、制御室のドアがゆっくり開いた。

その音に反射的に全員が開いたドアの向こう側に注目した。


「…………まさか……あなただったの……榊知仁……」


初めて会った時より多少は老けてはいるが間違いなく榊知仁本人だった。制御室にいる全員が意外な人間の登場に唖然としていた。そして榊知仁は制御室に入りドアを閉めた。

「どうやってここまで入ってきたの?専門のスタッフ以外は入れないはずよ」

私は榊知仁に対して強めの口調で言った。

「私は元々……ここのスタッフだったからな……入るのは簡単だったよ……」

榊知仁は薄い笑みを浮かべていた。

「何が目的なの?この強制的なプログラム変更もアナタたち兄弟の仕業なんでしょ?」

「これは兄が仕組んだことだ……」

私は疑いの目で榊知仁を睨んでいた。

「信用できないわね……上層部は一体なにを考えているのよ……」

このトラブルの原因を作った人間を呼んでシステムを直させるなんて常軌を逸している……私は宙を見上げてため息をついていた。

「信用できないのも無理はないな……私は開発者としての仕事を全うせずに勝手に行方不明になり……そして突然、のこのこ現れたのだから……」

榊知仁は一度、視線を落としたがすぐに私の目を見た。

「三神先生、あなたは精神科の医師でしたね?それなら心理学にも精通しているはずだ……これから私の知っている事を全て話そう。私が言っている事が真実が虚偽か……あなたに判断してほしい。どうだね?」

悔しいけどこの状況を打開できるのは、ここにいる榊知仁しかいない……私は彼の提案を受け入れるしかなかった。

「いいわ……仲村くん、林くん。一旦手を止めて一緒に彼の話を聞いて」

私の言葉に二人はこちらに注目した。私は榊知仁に近くの椅子に座るよう促した。
彼が椅子に座ると私も横にある椅子に座った。そして私と榊知仁は対面した格好になった。

「さあ、どうぞ。全てを話してもらいましょうか」

精神科医をしていると仕事柄、相手が何を考えて話しているのか理解できるようになる。話し方、目の動き、息づかい、手足の微妙な動き、長年多くの患者をカウンセリングして培った私のスキル……それがこの榊知仁にどこまで通用するのか試される。

「どこから話をしようか……私と兄の毅仁はこの『Mind Revive Network System』の理論を10年前に考えた。まあ、基礎的な理論を考えたのは兄の毅仁だが……私は主にネットワーク構築とマザーコンピューターの設計をしていた。私が言うのもおかしな話だが兄は科学者としては超一流だった……だが人としての感覚や感情が著しく欠落している。これは天才と呼ばれている人種の致命的な欠点かもしれない。世間や俗社会に馴染めず自分は特別な存在だと思い込んでしまう……だからこそ兄とは意見が合わない事が多かった。それでも私はこのシステムを本気で鬱病や精神疾患の人たちの為に開発をした。今でもその考えは変わってはいない……しかし、兄の考えは全く違っていた。兄はあくまで自分の研究の為にシステムを使う事しか頭になかったんだ……」

榊知仁は私の目を見ながら話し続けた。今のところは嘘を言っている素振りはない。

「榊毅仁がやりたかった研究って何なの?」

私の質問に彼は一旦、視線を落としたがまた私の目を見て口を開いた。


「恐怖心やトラウマがどれだけ人の心に影響を及ぼすか……そして過去の恐怖体験再度する事で人間の精神状態がどうなるか……これが兄がやろうとしていた研究だ……」


制御室に沈黙が流れた。私は榊毅仁の本来の目的に戦慄した。

「兄はシステムを使って人体実験をしようとしていたんだ。現実でこんな事は到底できない。だがシステムを通してなら実験は可能だ。システム内が外部から監視出来なくしたのも兄の強い要望からだった。それはシステム内での人体実験を他者に見られない為には絶対不可欠な条件だった。そして兄自身もシステムの中に入れば心置きなく研究に没頭できる……」

榊毅仁の研究者としての強すぎる執着心が知仁の言葉から気分が悪くなるほどわかった。

「イカれてるわね……性犯罪者の質の悪い性癖を聞かされてるみたい……」

私は言葉を吐き捨てた。しかし、こちらからシステム内が見えない以上、何でも出来るという怖さはある。犯罪も簡単に出来るし、極論を言えば殺人も罪にはならない。

「私が気付くのが遅かったんだ……兄はこのシステムトラブルを周到に準備していた。プログラムに細工をして後悔のレベルのリミッターを解除させて治験者に無理やり体験させる。それを兄自身が傍観者となり監視する」

ここまでの話し方や仕草を見ても榊知仁が嘘を言っている様子はなかった。今回の事件はおそらく榊毅仁が単独で仕組んだ事になる。そうなると榊毅仁は今現在システムの中にいる事になる。そしてそれと同時に本人の肉体はどこにあるのかという疑問が浮かんできた。
制御室内のモニターに榊毅仁の情報は出ていない。サブコンピューターのある施設からもそんな連絡はない。

「榊毅仁は現在システムの中にいるの?」

「間違いなくいるだろう……治験者たちの恐怖体験をどこかで見ているはずだ……」

「それともうひとつ聞きたい事があるわ。榊毅仁がシステム内にいるのはわかったけど本人の肉体はどこにあるの?」

私のこの質問で榊知仁の表情が急に変わったのがわかった。


「その事について………これから……あなたに告白しなければならない………」


榊知仁は神妙な面持ちで言った。彼の一言で制御室内の空気が一変した。

「あれは……マザーコンピューターの完成直後だった……。私はその日、偶然にも兄の恐ろしい研究目的を知ってしまった。以前から兄とは研究方針で対立する事はしばしばあったがシステム本来の目的を完全に無視した考えに私は戦慄すら覚えた。だからといって説得して考えを変えるような人間ではない事は弟の私が一番よく知っている。精神科の未来を変えるシステムを作りだして天才兄弟と世間から持て囃されてようやく理想が手に届くところまできたのに、それが兄の異常な研究の為に私たち兄弟が築き上げてきたものが、いとも簡単に崩壊してしまう。それを私はどうしても許す事が出来なかった……」

榊知仁の話し方に熱が入っていた。さっきまで私の目を見ながら話していたが今は下を向いて一点を見つめている。

「そして私は……ある計画を思い付いた。次の日、システムの最終調整をすると言って兄を呼び出した。他のエンジニアやスタッフには前日に引き上げてもらい、兄と私の二人だけでシステムの調整を始めた。私は兄にシステムの不具合を見たいからシステム内に入ってほしいと頼んだ。兄は素直に私の言う事を聞き、システム内に転送されて行った……そして無防備になった兄の肉体を…………」

話す手が微妙に震えていた。目も虚ろで下をずっと見ている。私は敢えて自分から言葉を出さないようにした。

そして数分間の沈黙の後……榊知仁はゆっくり口を開いた。






「兄を殺害し……遺体を遺棄した……」





かける言葉が見つからなかった。これが天才兄弟と世間から注目され精神科の未来を変えるシステムを作った人間の末路とは思いたくなかった。

「きっと……他に方法があったはずだ……だが、あの時の私は殺害する事に固執して他を模索しようとはしなかった……」

榊知仁は唇を震わせながら自分のしてしまった事を後悔している様子だった。

「兄は私を相当怨んでいるだろう……もしかしたらそれすらも予知していてこのシステムトラブルを仕組んだのかもしれないな……」

私は榊知仁の兄殺害は正直、かなりの衝撃を受けた。でも私には精神科医として彼の告白を真摯に聞く義務があった。
私は姿勢を変えず真っ直ぐ彼を見続けた。

「だが……兄はまだシステムの中に存在している」

彼の言葉に私はいくつかの疑問が浮かんだ。それは肉体がなくなってもシステム内に存在する事は                       
可能なのか?
それとも死んだ毅仁の精神だけがシステム内を彷徨っているとでもいうのだろうか……。

「肉体がないのにシステム内にどうやって存在するというの?」

「おそらく兄は自分のコピーを作ったんだ。もしも現実世界の自分に何かあったら誕生するようにマザーコンピューターに命令させていたのかもしれない……」   

(そこまで考えて準備していたなんて……榊毅仁……恐ろしいまでの執念深さね……)

「この件が片付いたら私は警察に自首するつもりだ……だが、その前にシステム内を彷徨う兄の怨念を消さなければならない……弟である私のけじめとして……」        

榊知仁の目は正気を取り戻して私の目を力強く真っ直ぐ見つめていた。

「わかったわ。あなたに全てを任せます……二人もそれでいいでしょ?」

近くで話を聞いていた仲村と林に声をかけた。

「はい。三神先生が決めた事なら異論はありません」

「私も三神先生の指示に従います」

「二人ともありがとう。榊さん、早速だけどプログラムの復旧作業をお願いします」

榊知仁は頷き、椅子から立ち上がった。そして仲村のいるモニターの前に移動した。仲村はすぐに椅子を譲った。

「兄は研究の為なら何でもする人だ……もしかしたら治験者に危害を加える可能性もある」

彼は水を得た魚のように物凄いスピードでキーボードを叩き始めた。画面上に英数字が次々と埋め尽くされていく。近くでモニターを見ている仲村と林も驚きの表情を隠せないようだった。

「私の作業中は治験者の脳波を常にチェックしてほしい。全員の脳波が安定した時、システムを強制終了させる」

モニターと向き合いながら榊知仁は言った。私は二人を見て無言で頷いた。そして二人は別のモニターに移動をして脳波のチェックを始めた。
私は立ち上がり榊知仁の背中を見ていた。行方不明になってからの空白の一年を思うと憐れな気持ちさえ芽生えてくる。実の兄を殺し、自分の人生を賭けて作り上げた物を何もかも捨てての惨めな逃避行……。

そして自分の過去と罪を精算する為にまたシステムの前に現れる。
システム開発者自身が後悔した人生を送っているというのは皮肉以外の何者でもなかった。しかし、過去と向き合い私たちに協力してくれている点だけは称賛に値する。

「ほんと………これからどうなるのかしら………」

私はため息と一緒に心の声が漏れていた。ガラス越しから見えるマザーコンピューターは全てを把握していると言わんばかりに私たちの動向を静観していた。





















目の前が白い光で溢れた。ゆっくり目を開けるとそこは地下鉄の駅の構内だった。
近くに切符の券売機と改札があり人々がせわしなく行き交っている。周囲を見回すと大きな地図があった。どうやらここは新宿三丁目駅の中のようだ。

今度はもっと警戒して移動しないといけない。さっき治験者に顔がバレてしまった。
リトライを押して逃げたが、きっとまだ近くにいるはずだ。
僕は駅の階段を上がって地上に向かった。あいつが現れる場所はもう頭に入っている。


次は必ず殺す……。
僕から大切な人を奪った……。
あの日から何もかもが変わってしまった……。
市松皓大(いちまつこうだい)僕の人生を狂わせた男の名前……。


2003年6月20日
婚約者が通り魔事件に巻き込まれて亡くなった。その人は僕の最愛の人だった……。

僕はあの日、夕方に彼女と新宿駅前で待ち合わせをしていた。
でも待ち合わせの時間になっても彼女は現れなかった。その日は駅前がいつもと何か違っていた。異様なまでの警官とパトカーの数とテレビ局のカメラマンと報道のリポーターがあちこちにいて新宿駅前は帰宅時間とも重なってか、人でごった返していた。通行人からは『通り魔』という言葉がひっきりなしに聞こえた。
僕は心配になり彼女の携帯にメールを送り、電話も掛けたが反応はなかった。
まさかと思い自然と新宿三丁目方面に足が向いていた。
新宿三丁目駅近くに行くと規制線が張られて警察官が交通規制をしていた。
規制線の中はブルーシートで覆われていて見えなかったが事件の凄惨さは容易に想像できた。

事件現場を目の当たりにして僕は言い切れない不安に襲われていた。
ポケットから携帯を取り出して彼女にまた電話を掛けようすると着信があった。
彼女からだと思い、急いで携帯を開くと知らない番号の通知が表示されていた。
僕はおそるおそる通話ボタンを押して電話に出た。電話の相手は彼女の母親からだった。
ひどく取り乱している様子で最初何を言っているのか聞き取れなかった。
新宿にある病院の名前を何度も言ったので僕はすぐタクシーを拾い、その病院に向かった。移動するタクシーの中で祈りながら彼女の名前を呟き続けた。そして病院に着くと料金を支払い、すぐに受付に駆け込んだ。

受付で彼女の名前を言うとすぐに看護師が来て案内してくれた。
看護師の背中を追っていると病室ではない部屋の前で立ち止まった。
僕は無意識に目の前のドアノブに手をかけてゆっくりと開けた。
暗い部屋の奥にベッドがあり、見ると人が横になっていて体には白い布が掛けられていた。
僕は震えながらゆっくり歩を進めてベッドに近づいた。ベッドの前に立つと顔にも白い布が掛けられていて僕はゆっくり布を取った。


「友利歌……」


そこには婚約者の泉友利歌が目を閉じて寝ていた。

「友利歌……どうしたんだよ……これから歌の練習があるのに……」

僕は友利歌の肩を揺すった。

「結婚式……あんなに楽しみにしてたじゃないか……起きろよ……」

だが、彼女は何の反応も示さなかった。僕は友利歌の頬に右手を優しく置いた。


とても冷たかった……そこで僕は現実を知った。


「どうして……君なんだ……どうして……君じゃないといけないんだ……友利歌……」

僕はその場にしゃがみ込んで泣いていた。案内してくれた看護師が僕の肩に手を置いて何かを言ったが無視して泣き続けた。しばらくすると友利歌の両親が部屋に入ってきた。母親は娘の変わり果てた姿を見て泣き崩れた。父親は必死に涙を堪えて母親に寄り添っていた。その後の記憶が曖昧でほとんど覚えてなかった。どうやら友利歌の父親が病院や警察への対応をしてくれたらしい。僕も何人かに声を掛けられたのは覚えてはいるが相手が何を言っていたか、そして自分が何を言ったかは全く覚えてはいなかった。

現実が消化できず、ずっと僕の目の前に大きく横たわっていた。
次に気がつくとタクシーに乗っていてどこかへ向かっていた。
タクシーは自宅があるマンションの前に停まった。
支払いは友利歌の父親が先に払っていたらしく僕はそのまま車をおりた。

雨が降っていた……。
僕は濡れながら部屋までとぼとぼ歩いた。
友利歌の笑顔が頭に浮かんでは消える。
友利歌は僕の全てだった……。
大学2年の時……初めて友利歌の歌を聴いたときから……。

学校の廊下を歩いていると、どこからか歌が聞こえてきた。僕はその歌声に生まれて初めて鳥肌が立った。気がつくと僕は歌が聞こえた教室の前にいた。
そして後先考えずに教室の扉を開けた。教室内には女性が一人で歌っていた。
綺麗で美しい人だった。僕は女性の歌声にも容姿にも惚れてしまっていた。
突然、教室に入ってきた僕の姿を見て彼女は歌うのを止め、不安な表情で僕の方を見ていた。

「あの……なにか用ですか?」

質問の答えに困っていると女性の横にアップライトピアノが置いてあるのが見えた。

「あっ…ええっと……君の為にピアノで伴奏したいんだけど……いいかな?」

とっさの思いつきで聞いてみた。女性はまだ戸惑っている様子だった。

「さっき歌ってたのってアメイジンググレイスでしょ?それなら弾けるから……」

僕は言いながら絶対に断られると思っていた。

「来週……歌の試験なんです……人前で歌う練習もしたいから……お願いします」

彼女は下を向いて恥ずかしそうに言った。意外な答えに僕の方がキョトンとしてしまった。
これが僕達の出会いだった。それから二人で頻繁に会うようになった。ピアノで彼女の歌の伴奏をしたり、僕の課題曲を聴いてもらったりして少しずつお互いの距離を縮めていった。
彼女は僕の弾くピアノの音色が好きだと言ってくれた。僕も彼女の歌声がとても好きだった。
そして自然と僕達は付き合うようになっていった。


大学3年のある日、児童養護施設で働いている知り合いから休日にボランティアで施設の子供たちにピアノの演奏会をやってほしいと頼まれた。
やろうかどうか迷って彼女に相談したら私も一緒に歌いたいと言ってきた。そして次の週の日曜日に施設で演奏会を開いた。
演奏会を観覧してくれた子供たちは彼女の歌声と僕の弾くピアノの音色に瞳を輝かせて感動してくれた。演奏会は大成功に終わり、知り合いや施設で働くスタッフの方たちにも感謝されて、またぜひやってほしいと頼まれた。僕達はその申し出を快く了承した。
そしてこのボランティアが僕達二人の絆を繋げる生きがいになっていった。

そして大学4年になりお互いの進路について話す機会が多くなった。僕は大学入学当初はプロのピアニストになるのが夢だった。でも友利歌と出会ってからその考えは変わりつつあった。
僕はずっと友利歌の為にピアノを弾きたいと強く思うようになっていた。彼女の歌を一番近くで聴いていたかった。出来ることならこれからも友利歌とボランティアを続けたい。そういう理由から僕はピアノ教室の講師という仕事を選ぼうと考えていた。それを友利歌に話すとまるで自分の事のように喜んでくれた。

そして友利歌の方も僕と出会ってから考えが変わったらしくフリーランスで色んな仕事をしながら好きな歌を続けてボランティアもやりたいと考えていたようだった。
音大卒業後は二人とも望み通りの仕事に就け、ボランティアのライブ活動も月に2、3回くらいは定期的に出来るようになった。
お互い生活は大変だったが、とても充実した日々を送れて幸せだった。
そして大学を卒業してから4年が経ちお互いの仕事も起動に乗り始めた頃、僕は友利歌にプロポーズをした。
二人が好きな歌手のコンサートを観に行った帰り道、婚約指輪を友利歌に見せて指にはめてあげた。これが人生で一番緊張した瞬間かもしれない。そして僕のぎこちない求婚に彼女は涙を流して了承してくれた。

それから2人の誕生日でもある6月に結婚式を挙げようと仕事の合間を縫って式と披露宴の準備を進めていた。


しかし……友利歌は僕と結婚する前に殺されてしまった……。


自宅玄関のドアを開け、電気も付けずにリビングまでの廊下を歩いた。

嘘であってほしい……。
夢であってほしい……。
僕は心の中で何度も呟いた……。

リビングの電気を付けると2人で暮らしていた生活感がまだ残っていた。
キッチンカウンターの上に友利歌が大好きなお菓子が置いてあった。
冷蔵庫に友利歌が書いたメモが貼ってある。
リビングのサイドボードの上に二人で撮った写真が飾ってある。
そして壁に掛けてあるコルクボードには施設の子供たちと一緒に撮った写真がたくさん張ってあった。どの写真も友利歌は楽しそうに笑っていた。

ボーッとリビングを見回してるとサイドボードの写真立ての横に一枚のCDを見つけた。僕はおもむろにそのCDを手に取った。それは音楽用のCD-Rだった。僕は無意識にカバーを開けて近くにあったミニコンポの電源を入れCD-Rをセットした。

そして再生ボタンを押すと静まり返った部屋に友利歌の歌声が響いた。



(これは………アメイジング・グレイス……)



全てを包み込んでくれる優しい歌声に僕は両膝をつき……おでこを床にこすりつけて涙を流した。


「友利歌………友利歌…………友利歌………ゆり………」

声を震わせながら何度も何度も友利歌の名前を呼んでいた。








そして次の日から辛くて苦しい現実が僕の意思とは関係なく襲いかかってきた。
最愛の人を失った現実を受け入れられないまま通夜と告別式を行われた。
皮肉にも二人の結婚記念日になるはずだった6月29日が告別式の日だった。


友利歌を殺された事のトラウマなのか僕はピアノに触れることが出来なくなっていた。

そして一人の人間を憎悪するだけの日々に変わっていった……。

市松皓大、友利歌を殺した男。事件を起こした日の夜に市松は逮捕された。
供述で市松は『殺すのは誰でもよかった』と言っていた。
そんな理由で友利歌が殺されたと思うと絶対に納得が出来なかった。被害者の遺族は当然、加害者の死刑を望んだ。しかし、司法が出した答えは無期懲役だった。被害者遺族の気持ちを全く無視した判決に深い深い憤りを覚えた。

僕が奴を八つ裂きにしてやりたいと日を追うごとに市松に対する憎しみが増していた。

だからこそ、このミッションが始まった時、僕は心が震えた。
現実世界がダメな以上、仮想世界で積年の怨みを晴らすしかない。

これから僕は復讐の為に市松皓大を殺しにいく……。




地上に出ると相変わらず通行人が多かった。だが、他の治験者に見つかりにくいという点では都合が良かった。
僕は市松が通る道で待ち伏せて殺すつもりだった。
前は裏道を使って待ち伏せ場所まで行ったが他の治験者の事を考えると敢えて人混みの中を移動した方が良さそうだった。僕は人の流れに入り移動を始めた。

現実世界では事件後、新宿には一回も行っていない。というより行けなくなったと言った方が正しいかもしれない。

今は市松を殺すという気持ちだけが僕を突き動かしていた。

待ち伏せ場所までは裏道を使えばすぐ着くのだが人がいる大通りからだと大回りになってしまい目的の通りに着くのに多少時間がかかってしまった。そして辺りを充分に警戒して路地に入る。この通りは隠れるのに最適だった。住居なのかオフィスなのか、よくわからない中途半端な高さのビルが通りに何棟もあった。そして通りに誰もいない事を確認するとビルを一棟一棟見て回った。


(ここが良さそうだな……)


あるビルの前で立ち止まった。10階建ての古いビルだった。ビルのすぐ脇に非常階段があって上を見ると屋上まで続いているようだった。僕は周りを確認してから非常階段を上がって行った。そして数分をかけて屋上まで来た。
そこは床が全て灰色一色、黒い手摺りの柵で覆われた殺風景な場所だった。屋上に立って新宿の街を見ながら僕は考えていた。

(ここなら……誰にも邪魔されずに奴を殺せる……)

治験者が僕を探している以上、通りで大胆な行動は出来ない。僕は屋上から真下の通りを見た。

僕はここで市松が現れるのを待つ事にした。


「やっと……やっとだ……やっと友利歌の無念が晴らせる……もう少し……もう少しで友利歌の仇を取れるんだ……」

僕は不敵に笑いながら呟いていた。







屋上へ来て、どれくらい経っただろうか……。
殺風景な屋上と新宿の景色にも飽きてきた頃ふと、下の通りを見ると男が歩いているのが見えた。僕はすぐに立ち上がり急いで階段を下りた。
そして地上に着いたと同時に市松が僕の目の前を通り過ぎようとした。僕は急ぎ足で市松の背中を追った。
接近すると奴のジャケットの右ポケットから素早くダガーナイフを抜き取り、市松の首に突きつけた。

「動くな……」

市松は一瞬の出来事に状況が把握出来ていない様子だった。

「一緒に来てもらおうか……」

「な……なんで……俺がナイフを持っているのがわかった?」

市松は声を震わせながら言った。

「お前の事なら何でも知っているからだ……お前がこれから何をしようとしているかも知っている……」

僕の言葉に市松は驚きの表情を浮かべた。そして奴のジャケットの襟を掴んで強引にビルの方へ押した。

「……そこの階段を上がるんだ……」

市松はゆっくりと僕の前を歩き出した。奴が少しでも妙な動きをしたら背中をナイフで刺そうと思っていた。だが、市松は素直に階段を上がり始めた。僕は奴の背中にナイフの先を近づけて階段を上がる。

「……あんた……一体……何者なんだ……」

「そんな事を答える義務はない……いいから黙って歩け!」

僕は答えるつもりはなかった。こいつに本当の事を言っても意味はない。それから奴は無言になった。そして市松と僕は非常階段をゆっくり上がった。

屋上に着くと敷地の中央に市松を無理やり押して移動させた。

「両膝をついて手を頭の後ろで組め……」

「……助けてくれ………たのむ………」

市松は震えながら両膝をつき、脅えきった声で言った。

僕はこの命乞いすら強い殺意を覚えた。
こいつは被害者に対して命乞いする暇も与えずナイフで次々刺したに違いなかった。

「お前に命乞いをする権利なんてないんだ……」

僕は市松の首元を目掛けてナイフを振り下ろした。





















私たちは治験者がリトライを押した場所の近くを歩いていた。

「たしか…ここを曲がった通りだと思います」

「織音さん、ちょっと待って。君は治験者に顔が割れてるから僕らの後ろに回って」

「あっ、そっか…」

そういう事をちゃんと考えている藤乃さんに無頓着な私はいつも感心してしまう。私は2人の後ろに付き例の通りに入る。

「おらんな……」

「まだ来てないのか……」

2人は誰もいない通りを見ながら言った。

「治験者がまだ現れてないなら僕らもどこかに隠れないといけなくなる」

「3人で隠れる言うてもなあ……適当な場所あるか?」

藤乃さんと平さんは辺りを見ながら考え込んでいたので私は改めて通りを眺めた。

「ここって古いビルが多いですよね……屋上とか開いてないのかな?」

私がなんとなく言った言葉に2人はハッとして顔を見合わせた。

「それ名案だよ!さっそく屋上に入れそうなビルを探そう」

藤乃さんに褒められては思わず笑みがこぼれた。そして私たちは通りにあるビルを見て回った。

「ここのビルはどうですか?脇に非常階段がありますけど……」

「どれ………アカンわ。上を見てみい……人がおる」

「ホントだ……男の人が2人……って……あれ?」

私はビルの非常階段を上がっている2人の男性をよく見た。そして前にいた藤乃さんの肩を叩いた。

「え……なに?」

「いた………治験者……」

「ホンマにラッキーやな!遥香ちゃんは!」

「あの治験者と一緒にいる人って……まさか……」

「治験者が待ち伏せしてた人ですよ!おそらく通り魔です!」

「急がないと取り返しのつかない事になる!」

言い終わる前に藤乃さんは走り出していた。私と平さんは彼の後を追って非常階段を駆け上がった。


屋上に着くと通り魔が両手を頭の後ろに組んで座らされていた。そしてすぐ後ろには治験者がナイフを振り上げて今まさに通り魔を殺そうとしていた。

「やめるんだ!!」

藤乃さんが叫んだ。その声に治験者はビクッとして振り返った。私たちの姿を見ると治験者は驚き慌てて通り魔を羽交い締めにして敷地の奥へ引きずった。

「来るな!!」

治験者は通り魔の首すじにナイフを突き立て叫んだ。その声に私たちは動きを止めた。
通り魔は完全に怯えきって声も出せなくなっていた。

「落ち着くんだ……そんな事をしても何の意味もない事くらい治験者ならわかっているはずだ……」

藤乃さんは治験者に向かって説き伏せるように言った。

「治験者だからこそ殺るんだ……僕はずっとこの瞬間を待っていた……」

治験者は我を忘れて呼吸が荒くなっていた。

「人殺しがこのミッションで選んだ最良の選択なんか?」

「僕の婚約者はこいつに殺されたんだ……泉友利歌は僕の全てだった……全てを奪った奴を殺すのは当然の事じゃないか!」

治験者は哀しみと怒りが混ざった表情で私たちに向かって叫んだ。

「うそ………泉さんが………殺された……?」

信じられなかった……あの女神のような人が通り魔に殺されたなんて。

(じゃあ……あの治験者は樹唯祐さんなの……?)

「考え直すんだ!婚約者がこんな事を望んでいるはずがない!」

藤乃さんが声を荒げて言った。私はその言葉にハッとしていた。

(そうだ……泉さんなら……きっとあの人を止められる……今なら新宿のどこかにいるはず……)

私はゆっくりその場を後ずさり上がってきた非常階段を下りて新宿三丁目の方へ走った。

(急がないと……樹さんが人殺しになってしまう……泉さんどこにいるの?)






私は泉さんと別れたデパートの前に来た。
息を切らせながら通りを歩く一人一人を確認していた。
こんな人混みの中で泉さん一人を探すなんて無謀だった。それでも私は必死に彼女を探し続けた。デパートの前でキョロキョロしているとお店から出てくる女性に目が止まった。彼女を見つけた私は泣きながら泉さんに駆け寄った。

「泉さん!私と来て!」

「え……?アナタは……?」

「説明してる暇はないの!樹さんが……」

「彼がどうかしたの?」

「とにかく急がないと取り返しのつかない事になっちゃう……」

私は泣きながら必死に訴えた。事態を把握した泉さんは真剣な表情になっていた。

「わかったわ……私を唯祐のところに案内して」

私は泉さんを連れて樹さんのいるビルの屋上へ向かった。



















力を入れすぎてナイフを持っている手が震えていた。まさか、こんなところまで来るなんて想定していなかった。僕の前に治験者の男が2人立っていた。

「なぜ、僕の邪魔をするんだ?」

「アナタが今……感情的になっているからです。冷静になれば必ずやっている事の間違いに気がつく……」

「冷静になれ……?最愛の人を殺されて冷静になれるものか!お前たちにこの苦しみがわからないんだ!!」

僕は2人に強い口調で言った。すると中年の治験者が一歩前に出てきた。

「お前……ええ加減にせえよ……自分の事なんか言いたないけどな……俺は9年前に火事で女房と息子を亡くしたんや……俺は家族を守れなかった事をずっと後悔しとった。自責の念に駆られて自暴自棄な生活を続けとった。だが、前のミッションで死んだ家族に会うたんや……俺はずっと家族に怨まれてると思うてた。でもそれはただの思い込みやった……独りよがりやったんや……女房と息子は何も言わずに許してくれたんや……家族はそういうもんや言うて……」

中年の男の話に僕はかなり動揺してナイフを持つ手がさらに震えていた。そして男は僕を睨みつけた。

「お前、何で真っ先に婚約者に会わへんのや!」

僕はその言葉にドキッとした。そしてさらに男性は言葉を続けた。

「苦しみや憎悪に満ちた心で婚約者に会われへんのを知ってるからや……お前自身が間違いを証明しとるやないか。しっかり己の過去と向き合わんかい!」

「うるさい!!」

中年男性に核心を突かれて僕は大声を出していた。

「そいつ殺したあと……婚約者の墓の前で何て説明する気や!復讐できたとでも言うつもりか!」

「こいつは生きるんだ!現実世界で……たとえ刑務所の中でも……こいつはまだ生きてるんだ……友利歌はいないのに……どうして……友利歌だけ……友利歌だけがいないんだ……」

僕は言葉を詰まらせて涙を流していた。







「私ならここにいるじゃない………唯祐……」

2人の後ろから声が聞こえた。聞き覚えのある声の主を目で探した。


「ゆ………りか………」

目の前には哀しい瞳で僕を見つめる友利歌が立っていた。僕は反射的に手からナイフを落として地面に両手をついた。すると横にいた市松は体勢を崩しながら走り出して屋上から逃げて行った。
そしてすぐ友利歌が僕のそばに駆け寄って優しく手を握っていた。僕の涙が彼女の手の甲にポタポタと落ちた。

「友利歌……僕は……」

「何も言わなくていいから……」

僕は友利歌の顔を見る事が出来なかった。もう2年前の僕ではない。ピアノも弾けなくなり他人を憎悪するだけの人間に成り下がってしまった。

(わかっていたんだ……こんな事をしても意味がないのは……でもそれだけは認めたくなかった……)

「一つだけ言わせて……唯祐の手は他人を傷つける為にあるんじゃないでしょ?唯祐の手には人の心を癒やしたり……感動させたり……そして子供たちに明るくて楽しい世界を魅せてあげられる表現力と優しさを持ってる……それだけは忘れないでほしい……」

友利歌の優しい声に僕はゆっくり体を起こして彼女の顔を見た。

「だって……私が選んだ男性(ひと)だもん……」

友利歌は瞳を潤ませて、はにかみながら僕を優しく抱きしめた。もう二度と感じる事が出来ないと思っていた友利歌の温もりに僕は声を出して泣いていた。
市松に対しての憎しみの心は消えていた。友利歌の愛情で僕は自分の愚かさに気付く事ができた。
しばらくすると友利歌は抱きしめていた腕を緩めて僕と正面で向き合った。

「唯祐……お願い……本当の事を教えてほしい。アナタは絶対にこんな事を出来る人じゃない……きっとやらなければいけない理由があると思うの」

僕は彼女の問いに答えようか迷っていた。僕を見る友利歌から視線を逸らすと3人の治験者たちが視界に入った。その中の若い女性が涙を流しながら僕たちを見ていた。

「あの娘が私をここまで案内してくれたの。きっと本気で唯祐を救いたかったんだと思う……」

友利歌は若い女性の方を見ながら言った。僕は久しぶりに他人に対して感謝の気持ちが芽生えていた。僕が殺人を犯してしまうのを必死に止めようとしてくれた。この治験者たちもきっと辛く苦しい過去を乗り越えてきたに違いなかった。そして僕は立ち上がり治験者たちと改めて向き合った。

「僕が間違っていた。あなた達のおかげで復讐なんて愚かな事をしないで済んだ……ありがとう」

僕はお辞儀をしながら彼らに感謝を伝えた。

「お礼なんていいんですよ。泉さんと樹さんが再会できて本当によかった……」

若い女性は泣きながら喜んでいた。

「僕らは前のミッションからずっと一緒だったんです。だから今回のミッションの治験者も出来る限り支援しようってみんなで決めていたんです」

次に若い男性が嬉しそうに言った。彼らがいたから僕は友利歌と再会できたんだと思った。

「だから俺達はもう仲間やな……さっきは酷い事言うて悪かったな……」

「いいえ、アナタの言葉があったから踏み止まれたんです……アナタの言う通り……僕の独りよがりだった……」

このミッションがなければ一生気づく事が出来なかったかもしれない。僕は改めて友利歌と向き合う。

「友利歌……本当の事を言うよ。これから信じられないような話をするけど信じて聞いてほしい」

友利歌は真剣な眼差しで頷いた。僕は周りの治験者にも視線を送った。彼らも僕の目を見て頷いてくれた。

「実を言うと僕はこの世界の人間じゃないんだ。ある兄弟が開発したシステムの治験者としてこの世界にいる。それは過去の後悔をやり直せるというシステムなんだ……バーチャルリアリティで現実そっくりな世界を創り出して後悔する前に戻り体験者が納得する行動をして後悔を回避するという代物なんだ……」

僕は一度話を止めて深呼吸をした。やはり友利歌に真実を話すのは勇気がいる……。

「ここは僕の後悔なんだ……2003年6月20日……君はさっき逃げ出した男にナイフで刺されて殺されてしまう……」

殺された本人に真実を話すのは正直辛い。事実を知った友利歌はしばらく下を向いて黙っていた。

「じゃあ……唯祐のいる世界に私はもういないんだ……」

友利歌は呟くと僕の顔を心配そうに見つめた。

「唯祐、ごめんなさい……結婚式キャンセルしたり私のお葬式とか大変だったよね?」

僕が答えようとすると彼女は何かを思い出したかのように続けた。

「そうだ!ウェディングプランナーの浅井さんにも謝らないと……あんなに親身になって私のワガママ聞いてくれたのに……」

ひさしぶりに友利歌に会ったので忘れていたが彼女は昔から少し天然なところがあった。

「ウェディングドレス着たかったなあ……」

友利歌は残念そうに言った。僕は友利歌のウェディングドレス姿を見ていない。彼女が試着した時も仕事で見れなかった。

「友利歌……やろうよ……結婚式」

「え……?」

「今から式場に行って結婚式を挙げよう」

「でも……これから行ってやってくれるのかな?式は来週なのに……」

僕は戸惑っている友利歌の両肩に手を置いた。

「僕達には今しかないんだ。このミッションが終わればまた君のいない現実世界で生きていかなければいけなくなる……だから……」

「わかった……2人が後悔しないようにしないとね」

僕の真剣な訴えに彼女は優しく頷いてくれた。そして治験者3人の方を向いた。

「治験者のみなさん、これから友利歌と出来なかった結婚式をするつもりなんですが良かったら参列して頂けないですか?」

「ぜひ!参加させてください!」

若い女性が目をキラキラさせて嬉しそうに答えた。

「あっ、ありがとう。そういえばアナタ方の名前を教えてもらえませんか?」

「私は織音遥香、こっちの人は藤乃雅臣さん、そしてこっちの関西弁のおじさんが平稔さんです」

「なんで俺だけ関西弁のおじさんやねん」

「平さん、まあまあ……」

3人のやり取りに僕と友利歌は笑みをこぼした。

「この人たちなら安心だ」

「うん、楽しみね」

そして僕達は和やかな雰囲気の中、僕の先導で結婚式場へ向かうため非常階段へ歩き出した。



    
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