10 / 49
少女期~淑女の嗜みと領地について~
2
しおりを挟む
「あ……」
今日も、本が頭から滑り落ちていった。
無言でカント夫人が拾い上げる。
「……ミーティア様が努力されていることはわかります。ですが、もう少し進歩していただけないでしょうか。このままでは、いつまで経っても次のレッスンに進めませんわ」
「ごめんなさい……」
ミーティアが項垂れると、背中に扇がピシリと当てられる。
「ほら、しゃんとなさいませ。またお背中が丸まっていらっしゃいます」
ようやく物差し生活から抜け出せたと思ったのに、このままでは逆戻りしてしまう。あれには戻りたくない、なぜなら背中のよくわからない筋肉が攣ってしまって、泣きそうになるからだ。
「ひとつ、ヒントを差し上げますわ」
あまりに不器用なミーティアに同情したらしいカント夫人が、ため息交じりに呟いた。
「頭の上の本に意識を集中するのではなく、視線を一点に集中なさいませ」
ミーティアは深く頷いて、もう一度挑戦してみる。本を落とさずに、扉から窓際まで歩ければ合格なのだ。
姿勢を正し、重心を落として下腹に力を入れて歩く。そろり、そろり……。
窓際まで、あともう少し……。
……また、本が落ちた。あと二、三歩というところで。思わず脱力しそうになるが、寸でで堪えた。
「もう少しですね、よろしいでしょう。今日はこの辺で」
「ほんじつもありがとうございました、カント夫人」
ミーティアのカーテシーを見て、満足そうに微笑むと、カント夫人は部屋を出て行った。
*****
オルヴェノク伯爵家で淑女教育を受けるようになってから、ひと月が過ぎた。
毎日、毎日カント夫人に叱責されながらも食らいつく。もう、ほとんど体育会系部活のノリとしか思えない。
そのおかげか、初日に微妙な反応をされていたカーテシーは、言葉に出して褒めてもらえた試しはないが、夫人の表情を見るに及第点は貰えたようだった。
カント夫人が部屋を出て行ってからしばらくして、ノックの音とともにエリーの声が聞こえた。
「ミーティア様、大奥様がお呼びです」
「わかりました、いままいります」
ミーティアはエリーに連れられて、祖母の待つ中庭へとやってきた。
この屋敷の中庭は、腰の高さに整えられた緑と季節の花が咲き乱れる花壇との調和が美しく、祖母のお気に入りの場所だった。
「おばあさま、おまたせしました」
「ミーティア、喉が渇いたでしょう?お茶菓子もあるのよ、さ、おかけなさいな」
「はい、おばあさま」
祖母付きの侍女が入れてくれた紅茶がテーブルに置かれる。そっとカップを持ち上げると、ふわりと花のような甘い香りがした。
「ここのところ、ずっとカント夫人が付きっきりで教えてくださっていたけれど、どうかしら?」
あのカント夫人が、祖母に進捗報告をしていないのかと驚く。いや、そんなことはないはずだ、ミーティアの口からどうなのかを聞きたいのかもしれない。
紅茶を一口飲んでソーサーに戻すと、ミーティアは口を開いた。
「わたくしがぶきようなので、カント夫人にはごめいわくをおかけしているとおもいます」
「あら、どうして?」
祖母がその白い指を頬に当てて、不思議そうにミーティアを見た。
「つぎのレッスンにすすめないからです……どうしてわたくしはできないのか、かなしくなります」
ミーティアはそっと目を伏せた。
「そう……ミーティアには気分転換が必要かもしれないわ」
「きぶんてんかん、ですか?」
「そうよ、ふふふ……もうそろそろ、こちらに来るんじゃないかしら?」
祖母がいたずらっぽく笑っているが、なんのことなのかミーティアには全くわからない。
「待たせたな」
ふいに低く野太い声がした。
「おじいさま、ごきげんよう」
ミーティアは席を立って淑女の礼をすると、祖父は目を細めて片手を上げる。
「形式ばった挨拶はいらん。それよりミーティア、お前に乗馬を教えてやろうと思ってな」
「じょうばですか?」
オルヴェノク伯爵領は馬の産地として有名で、王家の馬もオルヴェノク領産の馬がほとんどらしい。
また、鉱山を所有し、蹄鉄工場も持っているそうだ。
武闘派の家系で馬の産地となれば、乗馬は出来て当たり前だろう。実は母のグロリアも乗馬を嗜んでいるらしい。
母が乗っているのを見たことがないと言うと「それはニール殿に嫌われたくないからよ」と祖母がのんびりと言うから驚いた。
父と母は、父が13歳、母が9歳の時に婚約が決まったそうだ。
母は乗馬はもちろん、祖父に手ほどきを受けて剣を握ることもあったそうだが、父が読書が好きな穏やかな少年だったため、相応しくあろうと全て封印してしまったらしい。もったいない。
あの頼りない父のどこがいいのかよくわからないが、それは母にしかわからないことなんだろうとミーティアは思う。
「まずは馬に慣れることから始めなければな。儂と馬で出かけよう」
「えっと……ドレスのままで、ですか?」
戸惑いつつも祖父に尋ねると、祖父の後ろに控えていた執事がすっと乗馬服らしきものを差し出した。
「これはね、グロリアが着ていたものなの。今のあなたなら着られるかと思って」
「おばあさま、ありがとうございます」
執事からエリーが乗馬服を受け取ってくれ、ミーティアを着替えのために与えられている部屋へと先導してくれた。
今日も、本が頭から滑り落ちていった。
無言でカント夫人が拾い上げる。
「……ミーティア様が努力されていることはわかります。ですが、もう少し進歩していただけないでしょうか。このままでは、いつまで経っても次のレッスンに進めませんわ」
「ごめんなさい……」
ミーティアが項垂れると、背中に扇がピシリと当てられる。
「ほら、しゃんとなさいませ。またお背中が丸まっていらっしゃいます」
ようやく物差し生活から抜け出せたと思ったのに、このままでは逆戻りしてしまう。あれには戻りたくない、なぜなら背中のよくわからない筋肉が攣ってしまって、泣きそうになるからだ。
「ひとつ、ヒントを差し上げますわ」
あまりに不器用なミーティアに同情したらしいカント夫人が、ため息交じりに呟いた。
「頭の上の本に意識を集中するのではなく、視線を一点に集中なさいませ」
ミーティアは深く頷いて、もう一度挑戦してみる。本を落とさずに、扉から窓際まで歩ければ合格なのだ。
姿勢を正し、重心を落として下腹に力を入れて歩く。そろり、そろり……。
窓際まで、あともう少し……。
……また、本が落ちた。あと二、三歩というところで。思わず脱力しそうになるが、寸でで堪えた。
「もう少しですね、よろしいでしょう。今日はこの辺で」
「ほんじつもありがとうございました、カント夫人」
ミーティアのカーテシーを見て、満足そうに微笑むと、カント夫人は部屋を出て行った。
*****
オルヴェノク伯爵家で淑女教育を受けるようになってから、ひと月が過ぎた。
毎日、毎日カント夫人に叱責されながらも食らいつく。もう、ほとんど体育会系部活のノリとしか思えない。
そのおかげか、初日に微妙な反応をされていたカーテシーは、言葉に出して褒めてもらえた試しはないが、夫人の表情を見るに及第点は貰えたようだった。
カント夫人が部屋を出て行ってからしばらくして、ノックの音とともにエリーの声が聞こえた。
「ミーティア様、大奥様がお呼びです」
「わかりました、いままいります」
ミーティアはエリーに連れられて、祖母の待つ中庭へとやってきた。
この屋敷の中庭は、腰の高さに整えられた緑と季節の花が咲き乱れる花壇との調和が美しく、祖母のお気に入りの場所だった。
「おばあさま、おまたせしました」
「ミーティア、喉が渇いたでしょう?お茶菓子もあるのよ、さ、おかけなさいな」
「はい、おばあさま」
祖母付きの侍女が入れてくれた紅茶がテーブルに置かれる。そっとカップを持ち上げると、ふわりと花のような甘い香りがした。
「ここのところ、ずっとカント夫人が付きっきりで教えてくださっていたけれど、どうかしら?」
あのカント夫人が、祖母に進捗報告をしていないのかと驚く。いや、そんなことはないはずだ、ミーティアの口からどうなのかを聞きたいのかもしれない。
紅茶を一口飲んでソーサーに戻すと、ミーティアは口を開いた。
「わたくしがぶきようなので、カント夫人にはごめいわくをおかけしているとおもいます」
「あら、どうして?」
祖母がその白い指を頬に当てて、不思議そうにミーティアを見た。
「つぎのレッスンにすすめないからです……どうしてわたくしはできないのか、かなしくなります」
ミーティアはそっと目を伏せた。
「そう……ミーティアには気分転換が必要かもしれないわ」
「きぶんてんかん、ですか?」
「そうよ、ふふふ……もうそろそろ、こちらに来るんじゃないかしら?」
祖母がいたずらっぽく笑っているが、なんのことなのかミーティアには全くわからない。
「待たせたな」
ふいに低く野太い声がした。
「おじいさま、ごきげんよう」
ミーティアは席を立って淑女の礼をすると、祖父は目を細めて片手を上げる。
「形式ばった挨拶はいらん。それよりミーティア、お前に乗馬を教えてやろうと思ってな」
「じょうばですか?」
オルヴェノク伯爵領は馬の産地として有名で、王家の馬もオルヴェノク領産の馬がほとんどらしい。
また、鉱山を所有し、蹄鉄工場も持っているそうだ。
武闘派の家系で馬の産地となれば、乗馬は出来て当たり前だろう。実は母のグロリアも乗馬を嗜んでいるらしい。
母が乗っているのを見たことがないと言うと「それはニール殿に嫌われたくないからよ」と祖母がのんびりと言うから驚いた。
父と母は、父が13歳、母が9歳の時に婚約が決まったそうだ。
母は乗馬はもちろん、祖父に手ほどきを受けて剣を握ることもあったそうだが、父が読書が好きな穏やかな少年だったため、相応しくあろうと全て封印してしまったらしい。もったいない。
あの頼りない父のどこがいいのかよくわからないが、それは母にしかわからないことなんだろうとミーティアは思う。
「まずは馬に慣れることから始めなければな。儂と馬で出かけよう」
「えっと……ドレスのままで、ですか?」
戸惑いつつも祖父に尋ねると、祖父の後ろに控えていた執事がすっと乗馬服らしきものを差し出した。
「これはね、グロリアが着ていたものなの。今のあなたなら着られるかと思って」
「おばあさま、ありがとうございます」
執事からエリーが乗馬服を受け取ってくれ、ミーティアを着替えのために与えられている部屋へと先導してくれた。
36
お気に入りに追加
4,296
あなたにおすすめの小説
女性が全く生まれない世界とか嘘ですよね?
青海 兎稀
恋愛
ただの一般人である主人公・ユヅキは、知らぬうちに全く知らない街の中にいた。ここがどこだかも分からず、ただ当てもなく歩いていた時、誰かにぶつかってしまい、そのまま意識を失う。
そして、意識を取り戻し、助けてくれたイケメンにこの世界には全く女性がいないことを知らされる。
そんなユヅキの逆ハーレムのお話。
転生した世界のイケメンが怖い
祐月
恋愛
わたしの通う学院では、近頃毎日のように喜劇が繰り広げられている。
第二皇子殿下を含む学院で人気の美形子息達がこぞって一人の子爵令嬢に愛を囁き、殿下の婚約者の公爵令嬢が諌めては返り討ちにあうという、わたしにはどこかで見覚えのある光景だ。
わたし以外の皆が口を揃えて言う。彼らはものすごい美形だと。
でもわたしは彼らが怖い。
わたしの目には彼らは同じ人間には見えない。
彼らはどこからどう見ても、女児向けアニメキャラクターショーの着ぐるみだった。
2024/10/06 IF追加
小説を読もう!にも掲載しています。
乙女ゲームに転生した世界でメイドやってます!毎日大変ですが、瓶底メガネ片手に邁進します!
美月一乃
恋愛
前世で大好きなゲームの世界?に転生した自分の立ち位置はモブ!
でも、自分の人生満喫をと仕事を初めたら
偶然にも大好きなライバルキャラに仕えていますが、毎日がちょっと、いえすっごい大変です!
瓶底メガネと縄を片手に、メイド服で邁進してます。
「ちがいますよ、これは邁進してちゃダメな奴なのにー」
と思いながら
私は逃げます
恵葉
恋愛
ブラック企業で社畜なんてやっていたら、23歳で血反吐を吐いて、死んじゃった…と思ったら、異世界へ転生してしまったOLです。
そしてこれまたありがちな、貴族令嬢として転生してしまったのですが、運命から…ではなく、文字通り物理的に逃げます。
貴族のあれやこれやなんて、構っていられません!
今度こそ好きなように生きます!
【完結】ヒロインに転生しましたが、モブのイケオジが好きなので、悪役令嬢の婚約破棄を回避させたつもりが、やっぱり婚約破棄されている。
樹結理(きゆり)
恋愛
「アイリーン、貴女との婚約は破棄させてもらう」
大勢が集まるパーティの場で、この国の第一王子セルディ殿下がそう宣言した。
はぁぁあ!? なんでどうしてそうなった!!
私の必死の努力を返してー!!
乙女ゲーム『ラベルシアの乙女』の世界に転生してしまった日本人のアラサー女子。
気付けば物語が始まる学園への入学式の日。
私ってヒロインなの!?攻略対象のイケメンたちに囲まれる日々。でも!私が好きなのは攻略対象たちじゃないのよー!!
私が好きなのは攻略対象でもなんでもない、物語にたった二回しか出てこないイケオジ!
所謂モブと言っても過言ではないほど、関わることが少ないイケオジ。
でもでも!せっかくこの世界に転生出来たのなら何度も見たイケメンたちよりも、レアなイケオジを!!
攻略対象たちや悪役令嬢と友好的な関係を築きつつ、悪役令嬢の婚約破棄を回避しつつ、イケオジを狙う十六歳、侯爵令嬢!
必死に悪役令嬢の婚約破棄イベントを回避してきたつもりが、なんでどうしてそうなった!!
やっぱり婚約破棄されてるじゃないのー!!
必死に努力したのは無駄足だったのか!?ヒロインは一体誰と結ばれるのか……。
※この物語は作者の世界観から成り立っております。正式な貴族社会をお望みの方はご遠慮ください。
※この作品は小説家になろう、カクヨムで完結済み。
なりすまされた令嬢 〜健気に働く王室の寵姫〜
瀬乃アンナ
恋愛
国内随一の名門に生まれたセシル。しかし姉は選ばれし子に与えられる瞳を手に入れるために、赤ん坊のセシルを生贄として捨て、成り代わってしまう。順風満帆に人望を手に入れる姉とは別の場所で、奇しくも助けられたセシルは妖精も悪魔をも魅了する不思議な能力に助けられながら、平民として美しく成長する。
ひょんな事件をきっかけに皇族と接することになり、森と動物と育った世間知らずセシルは皇太子から名門貴族まで、素直関わる度に人の興味を惹いては何かと構われ始める。
何に対しても興味を持たなかった皇太子に慌てる周りと、無垢なセシルのお話
小説家になろう様でも掲載しております。
(更新は深夜か土日が多くなるかとおもいます!)
転生したら乙ゲーのモブでした
おかる
恋愛
主人公の転生先は何の因果か前世で妹が嵌っていた乙女ゲームの世界のモブ。
登場人物たちと距離をとりつつ学園生活を送っていたけど気づけばヒロインの残念な場面を見てしまったりとなんだかんだと物語に巻き込まれてしまう。
主人公が普通の生活を取り戻すために奮闘する物語です
本作はなろう様でも公開しています
女性の少ない異世界に生まれ変わったら
Azuki
恋愛
高校に登校している途中、道路に飛び出した子供を助ける形でトラックに轢かれてそのまま意識を失った私。
目を覚ますと、私はベッドに寝ていて、目の前にも周りにもイケメン、イケメン、イケメンだらけーーー!?
なんと私は幼女に生まれ変わっており、しかもお嬢様だった!!
ーーやった〜!勝ち組人生来た〜〜〜!!!
そう、心の中で思いっきり歓喜していた私だけど、この世界はとんでもない世界で・・・!?
これは、女性が圧倒的に少ない異世界に転生した私が、家族や周りから溺愛されながら様々な問題を解決して、更に溺愛されていく物語。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる