果実

伽藍堂益太

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果実 15

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 翌日、酒の抜けた光は、罪悪感で起き上がれなくなっていた。額に手を当てて、溜息をつく。
 酔っていたとはいえ、あんなことをしてしまうとは、自己嫌悪で気が滅入る。これは完全に、浮気と言っていい。
 だが、光には迷いが芽生えていた。二宮と鳳の件があったせいかもしれない。
 果実を完全にものとして扱っている二人。その二人の態度こそが正しいのであって、自分の態度は正しくない。
 そもそも何故、自分は千秋のことを愛したのか。それは多分、出会った時、千秋のことを人間だと思い接し始めたことに原因がある。人間だと思って惹かれて恋をして、千秋が果実だと分かっても、それが消えなかった。
 なら何故、自分は千秋に恋をしたのだろうと考える。それは、色のない日々に色をくれたからだ。
 希望のない生活の中で、千秋と出会って、一緒にいたいという希望を抱いた。その希望を抱いたおかげで、今、自分は前を向いて生活できている。
 千秋を裏切ることは、今の生活それ自体を裏切ることになる。そう思っていても、舞衣との再会に、光の心は揺らされた。
 初めて恋をした相手で、千秋の前、最後に恋をした相手なのだ。今の自分を作り上げた、何割かは舞衣が作り上げたと言っても過言ではない。それは多くが負の部分ではあるのだが。
 舞衣は自分とどうなりたいのだろう。キスをされた。それ以上のことをされた。近づきたいと思われているのだろうか。それともただ、性欲を処理しようと思われたのか。
 時刻は昼時だった。点滅する携帯のランプに気がついて、光はそれを手に取った。メッセージだ。舞衣からだった。色めきと緊張、それに背徳と、複雑に絡んだ感情で開いたメッセージはとても快活に単純で、それだけに、光の気持ちは重くなった。
『昨日は楽しかったよ。また行こうね。今度はもっとゆっくりしたいな』
 気を持たせるような言い方をしてくる。こっちの気持ちを知っているみたいに。そして、光は驚嘆した。舞衣の精神の強靭さに。あんな言い方をして、あんな時間に家を追い出したにも関わらず、こうしてまた当然のように連絡をよこす。その神経の太さに、光はむしろ関心した。
『うん、また行こう!』
 ただそれだけ返した。携帯を放り投げて、光は枕に顔をうずめた。あの日千秋と抱き合った布団にはもう、千秋の香りは残っていない。今この布団から香るのは、舞衣の人工的な芳香だけだった。

 勤務中にミスが増えた。それは些細なことで、次郎はいちいち怒ったりはしないし、今一緒に仕事をしている猿渡も、さりげなくフォローしてくれる。
 前の職場だったら、どんな小さなミスでもネチネチと怒られて、それこそ一時間も二時間も拘束されていた。今の職場がどれだけ恵まれているか、と思うと同時に申し訳なくなる。
 舞衣から誘いの連絡は来ていたが、のらりくらりと躱していた。今、誘いに乗ってしまえば、自分を抑えることができないと、自覚できる程度には、まだ理性が残っていた。
 千秋はどんどん成長していく。もう、中学生くらいの見た目だ。性的嗜好によっては、この辺りで取り出すこともあるらしい。
 しかし、千秋にはあの時の千秋の姿で出てきて欲しい。それと共に、まだ出てきて欲しくないという気持ちも、どこか片隅にあった。
 こんな気持ちが生まれるなんて、千秋がいなくなった時には考えられなかった。所詮自分は、二宮と同じなのか。しかしそれは正常ということであって、決して嫌がるようなことではない。そのはずなのに、そういう自分を嫌悪する。
 もどかしく抜け道も行き着く先も見えなくなっていたということは、どうやら次郎に見抜かれていたようだ。仕事が終わって店を閉める頃、次郎が自宅から降りてきた。
「東くん、終わったら一緒にご飯でもどうかな? うちで」
「いいんですか?」
「あまりおもてなしもできないけどね。終わったら上がっておいで」
「はい」
 何か言われるのだろう。そういう予感はあった。だからこそ、誘いを断るわけにもいかず、光は店のシャッターを下ろして、上階の次郎の自宅のチャイムを鳴らした。
「いらっしゃい」
「お邪魔します」
 靴を脱いで家に上がる。次郎の家に来るのは、三回目だった。入社する時以来だ。
 家の内装のことなど、ほとんど覚えていなかった。あの時は取り乱していたか緊張していたかで、周りに気を払うようなことができるわけなどなく、思い出して顔が熱くなる。
「ま、ご飯でも食べようか」
「すいません、いただきます」
 準備しておいてくれたらしく、惣菜が並んでいる。次郎が食べだしたので、自分も箸を伸ばして、食事をつまむ。
「今日は、奥さんいないんですね」
「あぁ、今日はいないんだ」
 光の質問を皮切りに、次郎が本題を切り出した。
「最近、何か悩みがあるのかな?」
「あの……」
 話していいものだろうか。いっそ話した方がいいのではないだろうか。光の逡巡を、次郎はただ黙って待ってくれていた。
 その優しさに、応えた方がよくはないか。喉が乾く。いっそ酒でも呷りたかったが、素面で話さなければならない気もする。
 どうせこのまま、こんな気持ちを抱えたまま、千秋と再会することはできない。瞬間接着剤で糊付けされたみたいに開かない口を無理矢理に広げて、光はようやく声を出した。
「実は、最近、再会した人がいて――」
 それから、光は話し始めた。光自身の、千秋と出会う前の、過去の話だ。

 小学生の時、光は一人の少女と出会った。少女の名は姫路舞衣といった。出会いと言っても、同じ小学校に通っていて、五年生のクラス替えの時に同じクラスになっただけだ。
 恋をしたのもなんてことないきっかけで、席替えで隣の席になったから。舞衣は忘れ物をよくしていて、教科書を見せたりだとか、消しゴムを貸したりだとか、結局その消しゴムをあげたりだとか、そんなことをしているうちに仲良くなった。
 長い黒髪が綺麗だったのと、自分に優しくしてくれたから、光は舞衣の虜になっていた。お願いをされれば、なんでも聞いてしまうくらいに。だが、結局舞衣が同じ県内の違う市に引っ越したため、そこでお別れとなった。
 再会したのは大学だ。偶然、同じ大学の同じ学科に入学していた。光の方は入学した時の自己紹介で気がついていたのだが、向こうに認識してもらったのは、大学三年でゼミが同じになった時だ。
 自己紹介の時、舞衣が日本の歴史を題材にしたゲームにハマって史学科に入ったと言っていたので、もしかしたらと思っていたのだが、案の定、日本史を専攻した光と同じゼミに入ることになった。
 同じゼミになって、光は勇気を出して舞衣に話しかけた。小学校の名前を出して。すると、舞衣の方でも光のことを思い出してくれたらしく、それでやっと、友達に戻ることができた。
 光は初恋の人との再会というシチュエーションにときめいていたから、常にはなく積極的になり、舞衣と仲良くなろうとした。出席カードを提出してあげたり、レポートを手伝ったり、結局ほとんど書いたり、テスト前にはノートを貸したり、地道な努力を続けた。
 そしてついに、クリスマス・イブのデートに誘うことに成功した。
 光は歓喜した。クリスマス・イブにデートに誘い、それに応じてくれたということは、こちらの気持ちを察した上で、その気持ちを受け入れてくれたということなんだと、光は柄にもなく色めきだって、最高のデートプランを用意したし、プレゼントも用意した。舞衣も楽しみだと言ってくれた。
 しかし当日、舞衣は現れなかった。何時間も、光は舞衣を待った。何度も連絡した。それでも、舞衣からの連絡はなかった。悲嘆にくれた光は、ひとりで街を歩いた。手に持ったプレゼントは嫌に重く感じた。
 そして、見てしまった。舞衣が同じ学科の、自分よりも背が高く、顔もよく、頭もよくて、部活でいい成績を残している男と歩いているのを、目の前で。
 一瞬、舞衣と目が合った。しかし、舞衣は素通りした。
 それからの大学生活はほとんど地獄で、数少ない友達がいてくれなかったら、中退しかねないくらいに落ち込んだ。
 それから、クリスマス・イブが、いや、恋をすること自体がトラウマになり、一人寂しい生活を送っていた。言葉にすると、大したトラウマではないのかもしれない、と思わされてしまう。
 別に付き合っていたわけでも、目の前で寝取られたわけでもないのだ。こんなにいつまでも引きずっている方がおかしい。理屈で分かっていても、気持ちはそうはいかなかった。
 しかし、千秋と出会い、全てが変わり、失い、そしてまた出会うのを、心待ちにしていた。だが、舞衣がまた現れた。前の舞衣とは変わっている。もう、待ち合わせに来ないということはない。
 そう思わされたところで、キスされた。それ以上のことをされた。いや、違う。してしまった。
 果実を愛するということは異常なのだと学び、舞衣からはおそらく、好意を向けられている。心が揺れて、決められない。
 卑劣で卑怯な、男としてどころか人間として最低の優柔不断な発言をしている。穏やかな次郎だが、殴られたって文句は言えない。
 人に秘密を晒すという危険を犯してまで、自分のために千秋の転生に手を貸してくれたのだ。そこまでした相手に裏切り同然のことをされているのだから、怒って当然なのだ。光は歯を食いしばった。
「東くん、食事を終えたら、製造所に行こうか?」
「え? あ、はい」
 予想していなかった次郎の反応で、光は呆気にとられた。次郎は黙々と食事を続ける。光もそれに倣って、食事を続けた。目の前の物を食べつくすと、二人は製造所に向かった。次郎はいつもの白いライトバンで。光は原付で。
 同じ車内にいなければならなかったとしたら、どれだけ息苦しかったろう。それを想像するだけで、脇に大量の汗をかく。白いライトバンの後を原付のアクセルを回して、第一車線を走った。
 製造所について、次郎に先んじて門を開く。そこは社員らしく、社長を煩わせるわけにはいかなかった。
 駐車場に車と原付を止めて、誰もいない製造所の扉を開いた。金属と金属の擦れる音が寂しげに響く。廊下を歩く靴音がまるで心音のようで、毎日のように来ているはずなのに、その音に呼応するように、光の心音も一音一音高鳴っていった。
 目的地は、なんとなく分かっている。五機のはぐれ製造機だろう。
 光の予想は的中した。製造機の間を縫って、二人は五機の製造機の前に立った。五機のうち、四機が稼働している。その中身を、光は一つしか知らない。それはもちろん、千秋のことだ。次郎が個人的にどんな果実を製造しているのかは、プライバシーの範疇だから、中を覗いたこともない。
 製造機と顔を見合わせるようにして、二人はパイプ椅子を並べて座った。次郎が電気ストーブの電源を入れた。やっと空気が温まったところで、次郎が口を開いた。
「もうあと一週間だね。千秋が転生するまで」
「はい……」
 光はもう、軽々しく口をきくことができなくなっていた。
「今日は、君に話しておかなければならないと思ったんだ。私と、そして、妻のことを」
 次郎と冬美のこと。一体何を。
「冬美と出会ったのは、もう四十年前になる」
 ありえない。あの見た目で少なくとも四十路を越えているというのか。どう見ても、三十代かそこらに見えたが。
「私が谷間の世代だというのは知っているだろう?」
 谷間の世代。果実が流通しはじめのころ、多くの男性が果実にハマり、既婚率が極端に下がった世代がいる。次郎はその世代だ。
「はい」
「私もね、当時働きだして、手にした給料で果実を買ったものさ。それでね、愛してしまったんだよ、果実のことを。私は果実に期限がきて、動かなくなると発狂寸前までいったよ。悲しかったんだ、本当に。それで、橘果実店の先代にすがりついたんだ。助けてくれ、冬美を助けてくれって」
 冬美を助けて、ということは。
「そう、冬美は果実なんだ。一緒になって、もう四十年になる」
 そう言うと、次郎は左端の製造機の小窓を開けた。そこからちらりと見えたのは、どこか冬美の面影がある、少女だった。
「私もね、君と同じなんだ。果実を愛してしまい、そして、一緒に生きたいと、心から願ってしまった。私も果実を物として扱えない。正常ではないんだよ」
 次郎は穏やかな笑みを浮かべて、小窓を閉めた。
「君に、果実との生活というものはどういうものか、現実を教えてあげよう。まず、果実は生まれて三十日間活動できるが、その後、この製造機の中で四十日間を過ごす。一年のうち、半分も一緒にはいられない。
 それに、子供はできない。当然の話だがね。果実に対して貞操を守るつもりがないのなら、どこかで子供を作ってしまえばいい話ではあるが、私にはできなかったよ。養子というのもね、私は法律的には独身だから、難しかったね」
 その言葉は、光の胸にズンと重くのしかかった。
「最後に、冬美は、私なしには転生することができない。これは絶対だ。分かるだろう? 冬美が転生するには、私の血液と精液が必要なんだ。すべての記憶や感情を引き継がせることは、私にしかできない」
 姿形が同じでも、記憶や感情が引き継がれていないのでは、それを転生と呼ぶことはできない。それは光にも、よく分かっている。
「付喪神という妖怪を知っているかい? 長い間使われた道具に、魂が宿って妖怪になるというやつだよ。私はね、物にだって魂は宿ると思っている。無論、果実にもね。冬美には絶対に魂が宿っている。それを誰にも否定させやしない」
 常にない、強い語気で次郎は言い切った。
「なぁ、考えてみてくれないか? もし私が気まぐれで冬美を転生することをやめたとしよう。そして、その種を壊したとしよう。それは、殺人と何が違うんだろう? 魂があるものを葬ったとして、それを殺人でないと言えるか? 私には言えないよ」
 次郎は光の目を真っ直ぐに見た。
「冬美が死ぬ時が私の死ぬ時で、私が死ぬ時が冬美の死ぬ時だ」
 果実と生きるということ。それには、これだけの覚悟が必要なのか。光は下唇を噛んだ。自分にこれだけの覚悟があるだろうかと。
「君の気持ちがどこにあるのか、私は知らない。だから、自分自身で決めるといい。君が誰を選ぶのか。これを置いていく。
 もし千秋以外の誰かを選ぶのなら、君がその手で、千秋の命に決着をつけるんだ。製造機を止めれば、千秋の成長はそこで止まる。中から千秋を出して、君のその手で、千秋を殺しなさい」
 次郎は鞄から、中華包丁のような刃物を取り出し、自分が座っていた椅子に置いた。あの日、千秋の体を解体した、それだ。
「ゆっくり考えるといい」
 次郎はそう言うと、最後にもう一度冬美の製造機を覗いて微笑み、製造所を後にした。

 一人取り残された製造室。機械音だけが低く唸りを上げている。光は両手で顔を覆い、隣の椅子に置かれた中華包丁の存在に圧迫されていた。
 誰を選ぶ。そんなの、千秋に決まっている。それなのに、舞衣のことを断ち切れない。断ち切らなければ、千秋を選ぶことができないのに。
 千秋のどこがいいのか。その黒い髪か。それは舞衣だって持っている。
 鼻腔をくすぐる香りか。それは舞衣も持っている。
 一緒にいた時間のことを、素晴らしいと思えるか。それは、舞衣といた時間だって、素晴らしいと思っている。
 比較してしまうと、どちらが勝っているかなんて、不遜なことを考えてしまう。そもそも、この期に及んでどちらかを選ぼうなんて考えていること自体がおかしいのだ。もうすでに、あの夜、決断したはずなんだ。
 千秋がこうして眠っているからといって、別の人にうつつを抜かしていたことは罪だ。千秋に会わなければいけない。会って、謝らなければならない。
 千秋はどんな風に怒るだろう。怒ったところを見てみたい。千秋は悲しむかもしれない。悲しんだ時、千秋はどんな顔をするのだろう。
 まだ見たことのない千秋がたくさんいる。これから、自分と過ごす中で、千秋は記憶と経験を積み重ね、成長していく。千秋と一緒に成長していきたい。二人で二人の歴史を紡いでいく。
 そう、歴史を紡ぐこと、それは千秋の望みだったはずだ。千秋はずっと繋がりを求めていた。それは横の人間関係だけでなくて、縦の時間軸に対しても。千秋の望みを、時間を積み重ねていくことを、横で手伝いたい。それは、光の望みだった。
 そして、聞きたかった。まだ聞いていない千秋の気持ちを。まだ一度もはっきりと、千秋の気持ちは聞けていない。ただ一言、千秋の気持ちが聞けるなら、それが背負う重みの理由になる。
 気持ちに整理がついた。光は中華包丁を手に、パイプ椅子を片付け、製造機の中にいる千秋に手を振った。またね、と声には出さなかったけれど。

 最後に舞衣にメッセージを送った。
『事情があってもう会えなくなりました。ごめんなさい』
 まだ可能性を残したいからメッセージを送ったわけではない。未練ではない。ただ、何も言わずに無視するのは悪いと思っただけだ。
 その後、舞衣からのメッセージはぱったりと途切れ、きちんと終われたのだなと、僅かな寂寥を感じながらも、濡れた服を着替えたような爽快さがあった。
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