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一話 ヘンゼルとグレーテル
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グレーテルは、緑豊かなフランツ王国の、ベルケル伯爵の一人娘として生を受けた。
彼女は両親に溺愛され、まるでおとぎ話の姫君のように可憐で愛らしく、無垢な少女に育った。
瑠璃色の瞳に、ふわふわの黄金の髪。木苺のような赤い唇は陶器人形のような肌に映え、瑞々しい。
愛らしい微笑みは周囲の人々を惹きつけ、グレーテルは『たんぽぽ』と言う愛称で、家族や使用人達から親しまれ、愛されていた。
けれど、幼い彼女の幸せはそう長くは続かなかった。
優しい母が、闘病の末に天に召されてしまったのだ。
愛する母を失い、悲しみに暮れる幼いグレーテルの身を案じたベルケル伯爵は、愛娘のために新しい母親が必要だと考えた。
「私の愛しいたんぽぽ。お前に新しいお母様を紹介しよう。それから、グレーテルは、昔から兄妹を欲しがっていただろう?」
「あたらしい、おかあさま?」
長らく悲しみに暮れていたのは、グレーテルだけではない。最愛の妻を亡くし、酒浸りになっていたベルケル伯爵もそうだ。
堕落していく父を、グレーテルは子供ながらに心配していた。
しかし、いつの頃からかベルケル伯爵は酒を辞め、以前のように身なりを整えるようになり、外出をする事が多くなった。
優しい乳母が城にいても、亡くなった母の代わりにはならない。外出ばかりで、グレーテルを構ってくれない父親に対して、寂しさは募るばかり。
ある日、ベルケル伯爵は優しく微笑んで、グレーテルを抱き締めると、ゆっくりと立ち上がり客人を紹介した。
「そうだよ、グレーテル。彼女の名はザビーネ。新しいお義母様だよ。そしてこの子が、お前のお兄様となるヘンゼルだ」
羽がついたお洒落な帽子を被ったザビーネは、グレーテルがこれまで会った女性の中で、最も美しい人だった。綺麗に整えられた神秘的な黒髪、燃えるような赤い瞳、そしてドレスから見える豊満な胸。
その場にいるだけで、周囲が華やぐような美しく、知的な女性だったが、その表情はどこか尖っていて、冷たい印象を受けた。
ザビーネはドレスの裾を掴み、グレーテルの前まで来ると、扇を広げて挨拶をする。そして、小さな彼女を巨人のように見下ろした。
「まぁ……うふふ。なんて愛くるしいのでしょう。お噂通りですわね、グレーテル。今日から、私の事は、ザビーネお母様と呼んでちょうだい」
「は……はい、ザビーネおかあさま」
ザビーネは優しく微笑んだが、目の奥は笑っていなかった。
————この継母に対して、敬意を持って『おかあさま』と呼ばなければいけない。
幼いグレーテルは、本能的にそのように感じ、威圧的なザビーネに恐怖を覚えた。
ふと、グレーテルが視線をずらすと、継母の隣にいた、自分より年上であろう少年に視線を向ける。
満月のような金色の瞳に、燃えるような赤髪は、父親譲りなのだろうか。彼もまた、母親に良く似ていて、幼いながらに気品のある整った顔立ちをしている。
彼は、グレーテルを見つめると優しく微笑んだので、緊張が解れるような気がした。
兄妹がいなかった彼女にとって、年齢の近い、年上の『お兄様』と遊べるのはとても新鮮な事だった。
「はじめまして、グレーテル。君がたんぽぽのお姫さまなんだね。僕はヘンゼルだよ。これからよろしくね」
「はじめまして、ヘンゼルおにいさま。よろしくね」
突然現れた継母の存在に驚きつつも、優しい笑顔で彼に手を差し伸べられると、幼いグレーテルは、なんの躊躇もなく連れ子の彼の手を取り、共に走り出す。
子供たちは大人と打ち解けるよりも早く、二人はあっという間に、本当の兄妹のように親密になった。
✣✣✣✣
ベルケル伯爵は、美しい後妻のザビーネに夢中になっていた。
彼女の我儘ならばなんでも叶え、何年経てども美しい妻を、美の女神のように崇めていた。
使用人の噂話によれば、ザビーネは元々この国の貴族ではなく、異国生まれの娼婦だった。その美貌と教養から、少数の上流貴族や知識人達を相手にする、高級娼婦として生きていたのだという。
そんな彼女は、客の一人だったベルケル伯爵に、見初められたのだ。
高級娼婦が貴族の愛人となり、そこから紆余曲折あって本妻になる事は、この国において別段、めずらしい事ではない。実際に、王族の愛人として有名な者もいる。
とはいえ当初は娼婦と蔑んでいた使用人達も、年数が経てば、知的でユーモアのセンスがある伯爵夫人に、惹きつけられていた。
ただ一人、グレーテルを除いては。
「あの……ザビーネお母様。私のドレスが、ずいぶん古くなってしまっているのです。わ、私にも一着新しいドレスを買って頂きたいのですが……」
新しいドレスを試着し、上機嫌の継母を鏡越しに見ながら、グレーテルは遠慮がちに話しかけた。もう、ずいぶんと長い間、新しいドレスを買ってもらえていない。刺繍もほつれてしまっていて、これでは客人に挨拶も出来ないだろう。
それどころか、グレーテルは最低限の衣服しか与えられていない。
父にねだってみても、お母様に頼みなさいと、笑顔でやんわりと断られてしまう。まるで人が変わってしまったかのように、ベルケル伯爵は娘の事を顧みなくなった。
本当ならば、グレーテルはとっくの昔にデビュタントをしている年頃なのに、城から出る事も許されず、社交界に出られないまま十八歳になった。
家督を継がないグレーテルは、嫁がなければ、クラ厶家のお荷物になってしまう。
人々は、姿を現さなくなってしまったグレーテルを病弱な娘であるとか、あの娘は精神を患ってしまっているのだとか、好き勝手に噂を立てている。
けれど、姿の見えない彼女の存在も、そのうち忘れ去られてしまいそうだ。
「あら。形見のドレスがあるでしょう? 古臭いけれど、お前にぴったりじゃないこと? それが嫌なら、メイドに裁縫を教えて貰いなさいな。この城で一生暮らすつもりなら、少しは役立つでしょうから」
「……は……い」
継母と使用人達のクスクスと嘲笑う声が耳を刺す。
グレーテルは、自分だけでなく、亡き母クラウディアまで、侮辱されたような気になり、ショックを隠しきれず、泣きながら自分の部屋に戻った。
ベッドの枕に顔を埋めると、グレーテルは使用人に聞かれないように、声を殺して泣く。
もう、この城に彼女の味方をしてくれる者はいない。何故なら、少しでも使用人がグレーテルの肩を持てば、ザビーネによって、不当に解雇されてしまうからだ。
不意に、ノックをする音がしてグレーテルは顔を上げる。
「グレーテル。入っても良いかい?」
「っ……は、はい、ヘンゼルお兄様」
穏やかで優しい義兄の声がすると、グレーテルは慌てて体を起こして涙を拭いた。
出来の良いヘンゼルは、ザビーネから溺愛されているが、継母とは違いグレーテルにとても優しく、親身になって接してくれる。
時には、継母を嗜めてくれる事もある。この城の中でグレーテルが最も信頼出来る者は、義兄のヘンゼルだけだ。
三歳年上のヘンゼルは、文武両道で長身、その美貌は太陽の息子、と呼ばれるほど美しい。快活で、社交的な青年に育っていた。
公私共に評判の良い彼なら、いくらでもご令嬢達から引く手数多だろうが、不思議な事に婚約したというめでたい話は聞かない。
ヘンゼルはグレーテルの側まで来ると、彼女の隣に座る。そして、グレーテルの猫のように柔らかく、ふわふわした黄金の髪を優しく撫でた。
「大丈夫かい? たんぽぽのお姫様。またお母様に、意地悪されたんだね。許しておくれ、本当にあの人には……困ったものだ」
「きっとお父様が亡くなったら、私は使用人にされてしまうわ。ヘンゼルお兄様、ザビーネお母様は、どうして私の事を愛して下さらないの?」
「お父様が亡くなったら、だなんて滅多な事を言うもんじゃないよ、グレーテル」
グレーテルの言葉に、ヘンゼルは溜息をついて頭を振る。義妹の肩を優しく撫でると、不意に抱き寄せ耳元に唇を寄せた。
彼女は両親に溺愛され、まるでおとぎ話の姫君のように可憐で愛らしく、無垢な少女に育った。
瑠璃色の瞳に、ふわふわの黄金の髪。木苺のような赤い唇は陶器人形のような肌に映え、瑞々しい。
愛らしい微笑みは周囲の人々を惹きつけ、グレーテルは『たんぽぽ』と言う愛称で、家族や使用人達から親しまれ、愛されていた。
けれど、幼い彼女の幸せはそう長くは続かなかった。
優しい母が、闘病の末に天に召されてしまったのだ。
愛する母を失い、悲しみに暮れる幼いグレーテルの身を案じたベルケル伯爵は、愛娘のために新しい母親が必要だと考えた。
「私の愛しいたんぽぽ。お前に新しいお母様を紹介しよう。それから、グレーテルは、昔から兄妹を欲しがっていただろう?」
「あたらしい、おかあさま?」
長らく悲しみに暮れていたのは、グレーテルだけではない。最愛の妻を亡くし、酒浸りになっていたベルケル伯爵もそうだ。
堕落していく父を、グレーテルは子供ながらに心配していた。
しかし、いつの頃からかベルケル伯爵は酒を辞め、以前のように身なりを整えるようになり、外出をする事が多くなった。
優しい乳母が城にいても、亡くなった母の代わりにはならない。外出ばかりで、グレーテルを構ってくれない父親に対して、寂しさは募るばかり。
ある日、ベルケル伯爵は優しく微笑んで、グレーテルを抱き締めると、ゆっくりと立ち上がり客人を紹介した。
「そうだよ、グレーテル。彼女の名はザビーネ。新しいお義母様だよ。そしてこの子が、お前のお兄様となるヘンゼルだ」
羽がついたお洒落な帽子を被ったザビーネは、グレーテルがこれまで会った女性の中で、最も美しい人だった。綺麗に整えられた神秘的な黒髪、燃えるような赤い瞳、そしてドレスから見える豊満な胸。
その場にいるだけで、周囲が華やぐような美しく、知的な女性だったが、その表情はどこか尖っていて、冷たい印象を受けた。
ザビーネはドレスの裾を掴み、グレーテルの前まで来ると、扇を広げて挨拶をする。そして、小さな彼女を巨人のように見下ろした。
「まぁ……うふふ。なんて愛くるしいのでしょう。お噂通りですわね、グレーテル。今日から、私の事は、ザビーネお母様と呼んでちょうだい」
「は……はい、ザビーネおかあさま」
ザビーネは優しく微笑んだが、目の奥は笑っていなかった。
————この継母に対して、敬意を持って『おかあさま』と呼ばなければいけない。
幼いグレーテルは、本能的にそのように感じ、威圧的なザビーネに恐怖を覚えた。
ふと、グレーテルが視線をずらすと、継母の隣にいた、自分より年上であろう少年に視線を向ける。
満月のような金色の瞳に、燃えるような赤髪は、父親譲りなのだろうか。彼もまた、母親に良く似ていて、幼いながらに気品のある整った顔立ちをしている。
彼は、グレーテルを見つめると優しく微笑んだので、緊張が解れるような気がした。
兄妹がいなかった彼女にとって、年齢の近い、年上の『お兄様』と遊べるのはとても新鮮な事だった。
「はじめまして、グレーテル。君がたんぽぽのお姫さまなんだね。僕はヘンゼルだよ。これからよろしくね」
「はじめまして、ヘンゼルおにいさま。よろしくね」
突然現れた継母の存在に驚きつつも、優しい笑顔で彼に手を差し伸べられると、幼いグレーテルは、なんの躊躇もなく連れ子の彼の手を取り、共に走り出す。
子供たちは大人と打ち解けるよりも早く、二人はあっという間に、本当の兄妹のように親密になった。
✣✣✣✣
ベルケル伯爵は、美しい後妻のザビーネに夢中になっていた。
彼女の我儘ならばなんでも叶え、何年経てども美しい妻を、美の女神のように崇めていた。
使用人の噂話によれば、ザビーネは元々この国の貴族ではなく、異国生まれの娼婦だった。その美貌と教養から、少数の上流貴族や知識人達を相手にする、高級娼婦として生きていたのだという。
そんな彼女は、客の一人だったベルケル伯爵に、見初められたのだ。
高級娼婦が貴族の愛人となり、そこから紆余曲折あって本妻になる事は、この国において別段、めずらしい事ではない。実際に、王族の愛人として有名な者もいる。
とはいえ当初は娼婦と蔑んでいた使用人達も、年数が経てば、知的でユーモアのセンスがある伯爵夫人に、惹きつけられていた。
ただ一人、グレーテルを除いては。
「あの……ザビーネお母様。私のドレスが、ずいぶん古くなってしまっているのです。わ、私にも一着新しいドレスを買って頂きたいのですが……」
新しいドレスを試着し、上機嫌の継母を鏡越しに見ながら、グレーテルは遠慮がちに話しかけた。もう、ずいぶんと長い間、新しいドレスを買ってもらえていない。刺繍もほつれてしまっていて、これでは客人に挨拶も出来ないだろう。
それどころか、グレーテルは最低限の衣服しか与えられていない。
父にねだってみても、お母様に頼みなさいと、笑顔でやんわりと断られてしまう。まるで人が変わってしまったかのように、ベルケル伯爵は娘の事を顧みなくなった。
本当ならば、グレーテルはとっくの昔にデビュタントをしている年頃なのに、城から出る事も許されず、社交界に出られないまま十八歳になった。
家督を継がないグレーテルは、嫁がなければ、クラ厶家のお荷物になってしまう。
人々は、姿を現さなくなってしまったグレーテルを病弱な娘であるとか、あの娘は精神を患ってしまっているのだとか、好き勝手に噂を立てている。
けれど、姿の見えない彼女の存在も、そのうち忘れ去られてしまいそうだ。
「あら。形見のドレスがあるでしょう? 古臭いけれど、お前にぴったりじゃないこと? それが嫌なら、メイドに裁縫を教えて貰いなさいな。この城で一生暮らすつもりなら、少しは役立つでしょうから」
「……は……い」
継母と使用人達のクスクスと嘲笑う声が耳を刺す。
グレーテルは、自分だけでなく、亡き母クラウディアまで、侮辱されたような気になり、ショックを隠しきれず、泣きながら自分の部屋に戻った。
ベッドの枕に顔を埋めると、グレーテルは使用人に聞かれないように、声を殺して泣く。
もう、この城に彼女の味方をしてくれる者はいない。何故なら、少しでも使用人がグレーテルの肩を持てば、ザビーネによって、不当に解雇されてしまうからだ。
不意に、ノックをする音がしてグレーテルは顔を上げる。
「グレーテル。入っても良いかい?」
「っ……は、はい、ヘンゼルお兄様」
穏やかで優しい義兄の声がすると、グレーテルは慌てて体を起こして涙を拭いた。
出来の良いヘンゼルは、ザビーネから溺愛されているが、継母とは違いグレーテルにとても優しく、親身になって接してくれる。
時には、継母を嗜めてくれる事もある。この城の中でグレーテルが最も信頼出来る者は、義兄のヘンゼルだけだ。
三歳年上のヘンゼルは、文武両道で長身、その美貌は太陽の息子、と呼ばれるほど美しい。快活で、社交的な青年に育っていた。
公私共に評判の良い彼なら、いくらでもご令嬢達から引く手数多だろうが、不思議な事に婚約したというめでたい話は聞かない。
ヘンゼルはグレーテルの側まで来ると、彼女の隣に座る。そして、グレーテルの猫のように柔らかく、ふわふわした黄金の髪を優しく撫でた。
「大丈夫かい? たんぽぽのお姫様。またお母様に、意地悪されたんだね。許しておくれ、本当にあの人には……困ったものだ」
「きっとお父様が亡くなったら、私は使用人にされてしまうわ。ヘンゼルお兄様、ザビーネお母様は、どうして私の事を愛して下さらないの?」
「お父様が亡くなったら、だなんて滅多な事を言うもんじゃないよ、グレーテル」
グレーテルの言葉に、ヘンゼルは溜息をついて頭を振る。義妹の肩を優しく撫でると、不意に抱き寄せ耳元に唇を寄せた。
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