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死の世界と光の神②
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屈託の無い笑顔はなんの悪びれも無い。
女性に手を出す速さは、流石はヴィズルの息子と心の中で納得したエマだったが、自覚のあるヴィズルとは違い、悪意が無いバルドルは余計に質が悪い。
エマはロキとの教訓を生かすように、落ち着いて深呼吸をすると、背後から包容するバルドルの腕にやんわりと手を伸ばして、ゆっくりと彼に向き合った。
「――――バルドル様。いくら人間が相手とは言え、恋仲ではない女性を突然抱きしめてはいけませんよ」
「人間の娘達は、私が抱きしめると誰もが恥らって寵愛を受け入れてくれたのだがそんな事を言われたのは、君が初めてだ」
バルドルは驚いたように目を丸くして、エマの肩から手を離した。異教の神に口答えをしてどんな反応が返ってくるかと思っていたが、バルドルは、ヴァルキリー達の言うとおり根は優しい性格なのだろう。
内心、胸を撫で下ろしたエマは彼を見つめて言葉を続ける。
「貴方は、とても魅力的な方ですけれど、私は貴方のお父様だけで間に合っていますわ。誰にも悟られないようにしているけれど、ヴィズル様は私の事を誰よりも愛していますから」
「君は私の寵愛を必要としていないのかい? 母上は、私の光の力を膣内に注がれるのは女にとって大変な名誉で、女神であれ人であれ、私の子を孕むと神々の祝福を受けられるというのだけれど」
エマはその言葉に軽いため息をついた。フリッグが息子を溺愛しているというのは海の宮殿に行った時に感じていたが、どうやら随分と行き過ぎているようだ。
世界中のありとあらゆる物が、息子を傷付けないようにと、魔術を使う位だから、幼い頃からこの世界の中心は彼だと言い聞かせた事だろう。
バルドルは、戸惑いと驚きを隠せない様子でエマの顔をまじまじと見つめてくる。
「私には貴方の寵愛は必要ありませんわ。それに貴女のお母様が黙ってはいないでしょう」
「そ、そうなのか……」
バルドルは、残念そうに肩を落とすと叱られた子供のようにエマに問い掛けた。
「君は、父上にもそんな風に接しているのか?」
「もちろんそうですわ。初めて宮殿に連れて来られた時、出会った瞬間に私を手籠にしようとしたのですが頬をひっぱたきましたもの。自己紹介もまだなのにキスするなんて嫌だわ、そう思いませんこと?」
その言葉を聞いて、バルドルは思わず吹き出してしまった。あの偉大なる戦の父、死の神と恐れられ他の神々に王として崇められる偉大なるオーディンが、人間の少女にせまって頬を叩かれるなんて想像もつかない。
神々の王となれば、無礼な振る舞いをする人間など直ぐに踏みにじる事ができただろう、だがこの美しい歌姫のその振る舞いさえも、楽しめるほどに彼女を愛している。
そして、エマもあの気まぐれで貪欲な戦神の愛を信じていた。
「エマ、君と父上がどうやって互いの心の扉を開いたのかわからないが、父上が君に惹かれるのはわかる気がするよ。君はとても魅力的な人だ。この天界の中でどんな女神よりも美しい声を持っていて、まるで猫のように気まぐれで愛らしく、知的で芯が強く、誇り高い女性だ。本当に興味が尽きない」
そう言うと、バルドルはエマの手の甲に口付けた。真剣に口説かれているのかしら、と思うと思わずエマは苦笑した。
先程のお説教を受けて進歩はしただけマシだろうか、とエマは肩を竦めて言う。
「ありがとうございます」
二人は再び席に着くと、先程よりも腹を割って話ができるようになったような気がした。バルドルは不吉な夢を見た事で、死の世界の事を考えるようになったという。
「死の世界は私の従姉弟が支配しているんだ。彼女とは逢った事はないが、幸福な場所だと聞く。死者達は死んだ家族とともに幸せに暮らしているそうなんだ」
「皆で一緒に……幸せに」
エマの心はまたしても揺らいだ。
何よりも家族の事を大切に思っていたし、幼い妹と弟は自分の子供のように可愛がっていてきちんと、両親の元へと行けたのか毎日心配をしていた。ヴィズルの事はもちろん愛しているが、家族の事も大事に思っている。
もし、ロキの言うとおり本当に僅かの間だけでも逢えるなら、家族に会いたいという気持ちが強くなってしまう。
「エマ、大丈夫かい?」
「ええ、何でも無いですわ」
心配そうに自分を見つめるバルドルの視線を欺くように、エマは紅茶を飲み干した。
✤✤✤
ヴィズルはまだ死者の世界から戻ってきていない。
隻眼の戦神が戻るまでバルドルがこの宮殿に滞在すると言うが、ヴィズルが居ないと、まるで半身が抜け落ちたように落ち着かない。
甘い時を過ごして、彼の肌の感触や温もりを感じ互いの心の扉を開いてから、ベッドの冷たさが身に染みるようになってしまった。
うなじに感じるヴィズルの静かな吐息を思い出すように指先で首筋を撫でると、エマはベッドから身を起こした。
フギンとムニンも、エマの就寝中は別の部屋で眠りについている。ショールを羽織って、窓辺に立ち、戦士たちが眠りについた静かな天界の美しい星空を見ていた。
「――――心は決まりましたか、エマ嬢」
「っっ!?」
背後から聞き覚えのある静かな低い声がしてエマの心臓が飛び上がった。這い寄る影のようにトリックスターが、エマの両肩にやんわりと手を添えられると、歌姫は体を硬直させたまま肩越しに顔をあげた。
「ロキ……様、どうやって部屋に侵入したのですか? 大声を出しますよ」
「それは野暮な質問ですね。私が行けない場所などどこにも存在していないのです。ふむ、その言葉は貴女の本心では無いでしょう?」
エマは窓辺でロキに挟まれ、ショールを強く握りしめながら凛とした表情で陰気な道化師の顔を睨みつけた。美しいがどこか掴み所の無い黒い霧のようなロキは、まるでエマの心を見透かすように笑うと、エマの顎を長い指先で掴んで、唇を親指でなぞる。
「家族に逢える機会は、今この瞬間しかありません。私は気まぐれですから」
「――――わかりました。再びヴィズル様の元へと戻って来れるのですね? それが出来るなら家族にきちんと別れの挨拶をします」
「ええ、もちろんですよ。貴女は賢明な判断をされましたね。さぁ、兄上がもうすぐ天界に着かれます。その前に行きましょう」
ロキはそう言うと、華奢なエマの体を抱き上げた。漆黒のローブでエマを覆い、そのまま黒い渦と共に床に吸い込まれていく。
エマは目を閉じてロキの首元に抱きつき、世界樹の地下にあるという死者の国へと向かった。
冷たい空気が肌に触れ、死者のか細い悲鳴のように風を切る音が鼓膜に届いた。ロキに抱きつきながら、エマは薄っすらと虹色の瞳を開いた。
寒々しい氷と雪の薄暗い世界、真っ赤に煮えたぎる炎の泉から、数本の川が流れそれがまるで、薄暗い世界の光源のようだった。
冬の木々が寒々しく生えていて、とてもバルドルが言っていたような、素晴らしい幸福な死者の国の印象とはかけ離れているように思う。
「これが……死者の国?」
「ええ、少し地味ですが、ヘルの死の宮殿は美しいですよ。宮殿とは随分と違いますから、怯えていらっしゃるようですねぇ」
エマは死の世界を前にして、ロキの指摘どおり恐怖を感じていた。ここは聖書に出てくる煉獄のようなイメージだ。そんな彼女を楽しげに笑いながら、ロキはゆっくりと黄金の橋の前に舞い降りた。
「死者達は、この黄金の橋を渡って門番の前を通り、死者の国の女王である娘に逢うのです。心配ありませんよ、私がヘルの所まで連れて行ってあげましょう」
(悔しいけれど、今はロキに従うしか無いわ。それにしても何て寒いのかしら……)
エマは観念するように、ロキの漆黒のローブに包まれながら黄金に輝く橋を渡る。遠くの方で揺らめく死者のような影を目にするが、この世界は無音だ。
肩越しに振り向くと、老若男女問わず項垂れたように歩く死者の列が見える。暫く歩いて大柄の門番の女戦士が見えてきた。彼女は二人を見下ろすとロキに話しかける。
「ロキ様、ヘル様よりお話はお伺いしております。道中番犬が居ますが、吠える事は無いでしょう。その娘は北欧の神を#信じている_・__#のですから」
「一体、どう言う意味なの?」
「ご苦労。兄上が来たときはさぞかし吠えたでしょう。見たかったなぁ」
エマは首を傾げた。
番人もロキも彼女の質問には答えず、トリックスターはエマを抱き寄せる。
なんだか居心地が悪く嫌な予感がするが、ロキに連れて来られた以上は彼と共に宮殿に戻らねばならない。他の死者達に混じって、エマとロキは黄金の橋を渡りきると、さらに北方の方向に下る。
氷の大地の寒さに、エマは白い吐息を吐いた。周りの死者達も無言のまま、薄いローブを羽織り直して、精気の無い表情で吐息を吐いている。
それから暫く歩くと、首が痛くなる程高い垣根と大きな門の死の宮殿が現れた。
その前には鎖で繋がれた、建物のように大きな冥府の番犬が、よだれを垂らしながら死者達を見ていた。エマは思わず喉を鳴らしてロキの方に体を寄せた。あんな恐ろしい化け物に襲われれば、ひとたまりもないだろうと心臓が激しく脈打つ。
「…………」
「あの番犬はヘルヘイムに相応しくない死者を追い出す役目をしているのです。あ、後はヘルをこの世界に追いやった兄上には激しく吠えますね」
どうして、義理の弟の娘をこの世界へ追放したのかエマにはわからなかった。義理とはいえ姪に当たる人物なはずだが、ヴィズルはあまり他の神々の事について口にすることは無いので、どのような経緯があったのかは分からない。
宮殿よりも高い天井の死者の館は炎が灯り暖かく、乾燥した花が飾られていた。
黄金の玉座には、ロキに似た美しい美女が座っている。上半身は瑞々しく、下半身は死者のように青黒く変色している。
「お久しぶり、ヘル。お父さんと逢うのは何百年ぶりだろうか。相変わらず美しい」
「いいえ、お父様。貴方とお会いしたのは随分と昔で私が子供の時だ。それで、その娘がオーディンの愛人か」
嘘をつくロキに鼻で笑ったヘルは、玉座の上からエマを見下ろした。エマは、緊張したように一歩前に出ると死者の国の王女を見上げ、丁寧に挨拶をする。
「そうです、死に別れた妹や弟、両親と再び会えるとロキ様から聞いて死者の国に下りました」
「なるほど、両親とは死別しあの崖から落ちて妹弟、そしてお前も死んだようだ」
死者の女王ヘルは、傍らに置いていた本を引き寄せるとパラパラとページをめくった。そして再び本を閉じると冷たい眼差しで言う。
「お前の両親も、幼い兄弟も北欧の神を信仰していない。別の神を信じている。彼らはこの死者の国にはいない。彼らは十字架に磔になった救世主を信じ、天使が祝福する天国にいる」
「そ、そんな……っ、ロキ様はこの世界にいるとっ……!」
そう言ってロキを振りむこうとすると、背後からトリックスターに両手首を掴まれて身動きが取れなくなった。
「父上に謀られたのだ、エマ。お前はこの北欧の神を信じている。戦士ではない魂が宮殿に留まっているの掟破りだ。お前は永遠にこの死者の国から出られぬ」
「い、いや! 嘘よっ……助けてヴィズル様!」
ロキに騙された事を知って青ざめ抵抗するエマを再び軽々と抱き上げると、道化師は陰気な表情で笑った。
「あーあ、可哀想なエマ嬢。義姉上を怒らせるからですよ。安心なさい、私の計らいで他の死者とは違い特別に豪華な部屋で幽閉される事になります。
一人では退屈でしょ? 私が時々貴女に会いに行きますよ。今度はあの双子の執事に邪魔されることは無いですからね」
ロキの言葉から、フリッグの差し金だと知ると涙がこぼれ落ちてきた。いつもは強気なエマもびくともしない黒衣の道化師に抱かれながら冷たい廊下を進んでいく。
死の宮殿の扉が閉められるのをエマは絶望的な目で見ていた。
「ヴィズル……!!」
女性に手を出す速さは、流石はヴィズルの息子と心の中で納得したエマだったが、自覚のあるヴィズルとは違い、悪意が無いバルドルは余計に質が悪い。
エマはロキとの教訓を生かすように、落ち着いて深呼吸をすると、背後から包容するバルドルの腕にやんわりと手を伸ばして、ゆっくりと彼に向き合った。
「――――バルドル様。いくら人間が相手とは言え、恋仲ではない女性を突然抱きしめてはいけませんよ」
「人間の娘達は、私が抱きしめると誰もが恥らって寵愛を受け入れてくれたのだがそんな事を言われたのは、君が初めてだ」
バルドルは驚いたように目を丸くして、エマの肩から手を離した。異教の神に口答えをしてどんな反応が返ってくるかと思っていたが、バルドルは、ヴァルキリー達の言うとおり根は優しい性格なのだろう。
内心、胸を撫で下ろしたエマは彼を見つめて言葉を続ける。
「貴方は、とても魅力的な方ですけれど、私は貴方のお父様だけで間に合っていますわ。誰にも悟られないようにしているけれど、ヴィズル様は私の事を誰よりも愛していますから」
「君は私の寵愛を必要としていないのかい? 母上は、私の光の力を膣内に注がれるのは女にとって大変な名誉で、女神であれ人であれ、私の子を孕むと神々の祝福を受けられるというのだけれど」
エマはその言葉に軽いため息をついた。フリッグが息子を溺愛しているというのは海の宮殿に行った時に感じていたが、どうやら随分と行き過ぎているようだ。
世界中のありとあらゆる物が、息子を傷付けないようにと、魔術を使う位だから、幼い頃からこの世界の中心は彼だと言い聞かせた事だろう。
バルドルは、戸惑いと驚きを隠せない様子でエマの顔をまじまじと見つめてくる。
「私には貴方の寵愛は必要ありませんわ。それに貴女のお母様が黙ってはいないでしょう」
「そ、そうなのか……」
バルドルは、残念そうに肩を落とすと叱られた子供のようにエマに問い掛けた。
「君は、父上にもそんな風に接しているのか?」
「もちろんそうですわ。初めて宮殿に連れて来られた時、出会った瞬間に私を手籠にしようとしたのですが頬をひっぱたきましたもの。自己紹介もまだなのにキスするなんて嫌だわ、そう思いませんこと?」
その言葉を聞いて、バルドルは思わず吹き出してしまった。あの偉大なる戦の父、死の神と恐れられ他の神々に王として崇められる偉大なるオーディンが、人間の少女にせまって頬を叩かれるなんて想像もつかない。
神々の王となれば、無礼な振る舞いをする人間など直ぐに踏みにじる事ができただろう、だがこの美しい歌姫のその振る舞いさえも、楽しめるほどに彼女を愛している。
そして、エマもあの気まぐれで貪欲な戦神の愛を信じていた。
「エマ、君と父上がどうやって互いの心の扉を開いたのかわからないが、父上が君に惹かれるのはわかる気がするよ。君はとても魅力的な人だ。この天界の中でどんな女神よりも美しい声を持っていて、まるで猫のように気まぐれで愛らしく、知的で芯が強く、誇り高い女性だ。本当に興味が尽きない」
そう言うと、バルドルはエマの手の甲に口付けた。真剣に口説かれているのかしら、と思うと思わずエマは苦笑した。
先程のお説教を受けて進歩はしただけマシだろうか、とエマは肩を竦めて言う。
「ありがとうございます」
二人は再び席に着くと、先程よりも腹を割って話ができるようになったような気がした。バルドルは不吉な夢を見た事で、死の世界の事を考えるようになったという。
「死の世界は私の従姉弟が支配しているんだ。彼女とは逢った事はないが、幸福な場所だと聞く。死者達は死んだ家族とともに幸せに暮らしているそうなんだ」
「皆で一緒に……幸せに」
エマの心はまたしても揺らいだ。
何よりも家族の事を大切に思っていたし、幼い妹と弟は自分の子供のように可愛がっていてきちんと、両親の元へと行けたのか毎日心配をしていた。ヴィズルの事はもちろん愛しているが、家族の事も大事に思っている。
もし、ロキの言うとおり本当に僅かの間だけでも逢えるなら、家族に会いたいという気持ちが強くなってしまう。
「エマ、大丈夫かい?」
「ええ、何でも無いですわ」
心配そうに自分を見つめるバルドルの視線を欺くように、エマは紅茶を飲み干した。
✤✤✤
ヴィズルはまだ死者の世界から戻ってきていない。
隻眼の戦神が戻るまでバルドルがこの宮殿に滞在すると言うが、ヴィズルが居ないと、まるで半身が抜け落ちたように落ち着かない。
甘い時を過ごして、彼の肌の感触や温もりを感じ互いの心の扉を開いてから、ベッドの冷たさが身に染みるようになってしまった。
うなじに感じるヴィズルの静かな吐息を思い出すように指先で首筋を撫でると、エマはベッドから身を起こした。
フギンとムニンも、エマの就寝中は別の部屋で眠りについている。ショールを羽織って、窓辺に立ち、戦士たちが眠りについた静かな天界の美しい星空を見ていた。
「――――心は決まりましたか、エマ嬢」
「っっ!?」
背後から聞き覚えのある静かな低い声がしてエマの心臓が飛び上がった。這い寄る影のようにトリックスターが、エマの両肩にやんわりと手を添えられると、歌姫は体を硬直させたまま肩越しに顔をあげた。
「ロキ……様、どうやって部屋に侵入したのですか? 大声を出しますよ」
「それは野暮な質問ですね。私が行けない場所などどこにも存在していないのです。ふむ、その言葉は貴女の本心では無いでしょう?」
エマは窓辺でロキに挟まれ、ショールを強く握りしめながら凛とした表情で陰気な道化師の顔を睨みつけた。美しいがどこか掴み所の無い黒い霧のようなロキは、まるでエマの心を見透かすように笑うと、エマの顎を長い指先で掴んで、唇を親指でなぞる。
「家族に逢える機会は、今この瞬間しかありません。私は気まぐれですから」
「――――わかりました。再びヴィズル様の元へと戻って来れるのですね? それが出来るなら家族にきちんと別れの挨拶をします」
「ええ、もちろんですよ。貴女は賢明な判断をされましたね。さぁ、兄上がもうすぐ天界に着かれます。その前に行きましょう」
ロキはそう言うと、華奢なエマの体を抱き上げた。漆黒のローブでエマを覆い、そのまま黒い渦と共に床に吸い込まれていく。
エマは目を閉じてロキの首元に抱きつき、世界樹の地下にあるという死者の国へと向かった。
冷たい空気が肌に触れ、死者のか細い悲鳴のように風を切る音が鼓膜に届いた。ロキに抱きつきながら、エマは薄っすらと虹色の瞳を開いた。
寒々しい氷と雪の薄暗い世界、真っ赤に煮えたぎる炎の泉から、数本の川が流れそれがまるで、薄暗い世界の光源のようだった。
冬の木々が寒々しく生えていて、とてもバルドルが言っていたような、素晴らしい幸福な死者の国の印象とはかけ離れているように思う。
「これが……死者の国?」
「ええ、少し地味ですが、ヘルの死の宮殿は美しいですよ。宮殿とは随分と違いますから、怯えていらっしゃるようですねぇ」
エマは死の世界を前にして、ロキの指摘どおり恐怖を感じていた。ここは聖書に出てくる煉獄のようなイメージだ。そんな彼女を楽しげに笑いながら、ロキはゆっくりと黄金の橋の前に舞い降りた。
「死者達は、この黄金の橋を渡って門番の前を通り、死者の国の女王である娘に逢うのです。心配ありませんよ、私がヘルの所まで連れて行ってあげましょう」
(悔しいけれど、今はロキに従うしか無いわ。それにしても何て寒いのかしら……)
エマは観念するように、ロキの漆黒のローブに包まれながら黄金に輝く橋を渡る。遠くの方で揺らめく死者のような影を目にするが、この世界は無音だ。
肩越しに振り向くと、老若男女問わず項垂れたように歩く死者の列が見える。暫く歩いて大柄の門番の女戦士が見えてきた。彼女は二人を見下ろすとロキに話しかける。
「ロキ様、ヘル様よりお話はお伺いしております。道中番犬が居ますが、吠える事は無いでしょう。その娘は北欧の神を#信じている_・__#のですから」
「一体、どう言う意味なの?」
「ご苦労。兄上が来たときはさぞかし吠えたでしょう。見たかったなぁ」
エマは首を傾げた。
番人もロキも彼女の質問には答えず、トリックスターはエマを抱き寄せる。
なんだか居心地が悪く嫌な予感がするが、ロキに連れて来られた以上は彼と共に宮殿に戻らねばならない。他の死者達に混じって、エマとロキは黄金の橋を渡りきると、さらに北方の方向に下る。
氷の大地の寒さに、エマは白い吐息を吐いた。周りの死者達も無言のまま、薄いローブを羽織り直して、精気の無い表情で吐息を吐いている。
それから暫く歩くと、首が痛くなる程高い垣根と大きな門の死の宮殿が現れた。
その前には鎖で繋がれた、建物のように大きな冥府の番犬が、よだれを垂らしながら死者達を見ていた。エマは思わず喉を鳴らしてロキの方に体を寄せた。あんな恐ろしい化け物に襲われれば、ひとたまりもないだろうと心臓が激しく脈打つ。
「…………」
「あの番犬はヘルヘイムに相応しくない死者を追い出す役目をしているのです。あ、後はヘルをこの世界に追いやった兄上には激しく吠えますね」
どうして、義理の弟の娘をこの世界へ追放したのかエマにはわからなかった。義理とはいえ姪に当たる人物なはずだが、ヴィズルはあまり他の神々の事について口にすることは無いので、どのような経緯があったのかは分からない。
宮殿よりも高い天井の死者の館は炎が灯り暖かく、乾燥した花が飾られていた。
黄金の玉座には、ロキに似た美しい美女が座っている。上半身は瑞々しく、下半身は死者のように青黒く変色している。
「お久しぶり、ヘル。お父さんと逢うのは何百年ぶりだろうか。相変わらず美しい」
「いいえ、お父様。貴方とお会いしたのは随分と昔で私が子供の時だ。それで、その娘がオーディンの愛人か」
嘘をつくロキに鼻で笑ったヘルは、玉座の上からエマを見下ろした。エマは、緊張したように一歩前に出ると死者の国の王女を見上げ、丁寧に挨拶をする。
「そうです、死に別れた妹や弟、両親と再び会えるとロキ様から聞いて死者の国に下りました」
「なるほど、両親とは死別しあの崖から落ちて妹弟、そしてお前も死んだようだ」
死者の女王ヘルは、傍らに置いていた本を引き寄せるとパラパラとページをめくった。そして再び本を閉じると冷たい眼差しで言う。
「お前の両親も、幼い兄弟も北欧の神を信仰していない。別の神を信じている。彼らはこの死者の国にはいない。彼らは十字架に磔になった救世主を信じ、天使が祝福する天国にいる」
「そ、そんな……っ、ロキ様はこの世界にいるとっ……!」
そう言ってロキを振りむこうとすると、背後からトリックスターに両手首を掴まれて身動きが取れなくなった。
「父上に謀られたのだ、エマ。お前はこの北欧の神を信じている。戦士ではない魂が宮殿に留まっているの掟破りだ。お前は永遠にこの死者の国から出られぬ」
「い、いや! 嘘よっ……助けてヴィズル様!」
ロキに騙された事を知って青ざめ抵抗するエマを再び軽々と抱き上げると、道化師は陰気な表情で笑った。
「あーあ、可哀想なエマ嬢。義姉上を怒らせるからですよ。安心なさい、私の計らいで他の死者とは違い特別に豪華な部屋で幽閉される事になります。
一人では退屈でしょ? 私が時々貴女に会いに行きますよ。今度はあの双子の執事に邪魔されることは無いですからね」
ロキの言葉から、フリッグの差し金だと知ると涙がこぼれ落ちてきた。いつもは強気なエマもびくともしない黒衣の道化師に抱かれながら冷たい廊下を進んでいく。
死の宮殿の扉が閉められるのをエマは絶望的な目で見ていた。
「ヴィズル……!!」
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