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死せる英雄達の宴

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 フギンとムニンが広い部屋にエマを残して去ると、赤面しながら吐息を吐いた。初めて感じた淫らな戯れにエマは潤んだ瞳を揺れ動かすと気を取り直すようにベッドから降り、姿見で見慣れない姿の自分を見た。
 この宮殿にはどれだけのドレスが用意されているのだろう。先程よりも、幾らか肌の露出を抑えたドレスを用意してくれたのは、双子の執事達の気遣いかも知れない。何をするでもなくあてがわれた部屋を良くみれば本棚があり、暇を持て余したエマは一冊それを取る事にした。

「なんて書いてあるのかしら……。記号みたいに見えるわ。この世界の言葉なの?」

 そう呟いて、エマが指で文字をなぞるとまるで魔法がかかったように、記号のような文字が母国語へと変わる。驚いて何度も目を擦るが夢では無いようだ。その本は魔術に関して書かれていたり、この宮殿ヴァルハラで生息する生き物の事も書かれていた。
 ヴィズルの傍に居たあの大きな二匹の狼は、貪欲なる者、ゲリとフレキと呼ばれ主神に付き従っているようだ。彼らもムニンとフギンのように人の姿を取れると書かれていたが、エマは不思議そうに首を傾げた。

「あの子達も、人では無いの……? それにしてもこの本のお陰でこの世界の事がお勉強できそうね。死せる英雄たちの宴……これが二人が言っていた事かしら」

 勇敢に戦って死んだ英雄たちは、主神ヴィズルによって宮殿ヴァルハラに招かれる。彼等はここに迎えられる事が最大の栄誉であり、戦に明け暮れ、世界の終わりラグナロクまで鍛錬を怠らないのだという。死んでもなお、戦い続けなければいけない彼等の事を、エマは少し哀れみを感じた。もし、自分の歌が彼らの癒やしになるのならば彼等の為に歌を捧げてあげたいとさえ思う。
 どれほど長い間、この本に夢中になっていた事だろうか、ノックの音がしてエマは顔を上げた。もう空は暗くなっているようだ。扉越しに双子の執事の声が重なるようにして聞こえた。

「エマ様、宴が始まります」
「今、行きます」

 慌てるように、エマがドレスを整えると扉の方まで歩くと、こちらが開ける前に外側からゆっくりと扉を開けられた。外は薄暗く、燭台の炎に美貌の執事達が浮かび上がっている。長く続く廊下にはまるで、蛍なような小さな灯火が舞い幻想的で美しい。太陽の沈んだ空は満天の星空で、多数の流れ星が時々空を駆けていた。

「わぁ……すごく綺麗! それに故郷の空でもこんな綺麗な満天に輝く星なんて見た事ないわ」
「ふふふ、エマ様もそんな風に可愛らしく喜ばれるのですね」
「凄く緊張していらしたから仕方無い。オレ達初めてエマ様の可愛い笑顔を見れて、嬉しいんです」
「そ、そう……? だって突然知らない場所に来たから……」

 エマは恥ずかしくなって頬を染めた。幼い弟妹達を両親の代わりに育てるのに必死で、空をゆっくりと見上げている暇も無かった。年頃の娘らしく、はしゃいだのは何年ぶりだろう。フギンとムニンは、ただ素直に嬉しそうに微笑むと鳥のように首を傾げてエマを見て、両手を引いた。
 世界樹が刻まれた大きな扉を開けると、大きな吹き抜けの天井。宮殿ヴァルハラを支える柱には炎が宿っていた。そして神々を称えるが如く、両側に彼等の石像が飾られている。広間の床は美しく世界樹の模様が描かれていた。
 内装は荘厳かつ、戦場の中にある楽園を思わせるような佇まいだった。長く広いテーブルが左右に置かれ、そこには燭台と酒、そしてエマが見た事も無いような豪華な食事が置かれていた。既に席には戦士達が座って、彼等の後ろにはヴァルキリー達が控えている。
 そして、広間の一番奥には美しい装飾の長テーブル。その上にワインとチーズ、そして果実が盛り合わせられた銀の皿が置かれていた。その、一際ひときわ豪華な食事の前にヴィズルが足を組んで此方を見ていた。
 彼の右手には金属製の酒杯が握られ、足元には狼達が行儀よく座っている。恐らくヴィズルの隣に設けられた席がエマの特等席なのだろう。ヴィズルのまとう最高神としての厳格な威圧感は、遠目に見ても緊張する。

 彼は、笑みを浮かべるとエマに此方に来るように指で合図をした。背を伸ばすと緊張したようにドレスを握りしめる。そして、男女の死せる英雄達が自分を物珍しそうに見る中でエマは背筋を伸ばして彼の元へと向かった。
 緊張で心臓が飛び出してしまいそうだったが、それを悟られないように凛と前を向いて歩いた。ヴィズルの目の前までくるとスカートの裾を掴んで軽くお辞儀をし、ムニンに椅子を引かれ彼の隣に座った。フギンがエマにナフキンを手渡すと、ゆっくりと壁側の方へと移動して静かに控えた。

「俺を無礼者呼ばわりしていた割には、逃げ出さずに来たようだな。よく似合っているエマ」
「……っ、お話を聞いていたのですか? それは随分と悪趣味ですわ。でも……こんな高価なドレスを用意して頂いて、ありがとうございます」
「口の減らぬ女だな。俺は裸のままで結構だが、お前好みの露出の少ないドレスにしておいやったぞ。高価かどうかは人間の価値にしか過ぎない、気にするな」

 ヴィズルは頬を付きながら、笑うとエマを見た。変わらず尊大な態度の戦神だが、その翡翠の瞳は鋭く知性的だ。戦場を駆ける戦神にしては上品で美丈夫びじょうぶだが、人に隙を与えないような緊張感がある。エマは慣れない豪華な食事の前で、緊張しつつもナイフとフォークを取り、食事を始める。
 ヴィズルと言えば、豪華な肉料理も興味が無いのか、傍に控えるゲリとフレキに分け与え全く手を付ける様子も無い。ただワインとチーズを口に含み、英雄達の様子を満足げに眺めていた。

「ヴィズル様は、お食べにならないのですか?」
「俺には必要ない。ワインで胃袋を満たせればそれで結構だ。豪華な食事も全てこいつらの為さ」

 狼達は、ヴィズルから投げられた肉を満足そうに食事をたいらげ尻尾を振りながら主人とエマを眺めていた。先程見た時よりもまだ可愛らしく思える。

「それで、フギンとムニンはどうだ? あいつ等には特別な仕事も頼んであるが、満足頂けたかな、歌姫」
「――――っ! ヴィズル様、あんな……っ、部下をあんな、淫らな男娼みたいな事をさせて……っ。私には必要ありません」

 エマはみるみる赤くなって、ナイフとフォークを取り落としてしまった。思わず驚いたように戦士達が此方を見たのが、更に恥ずかしくなって取り繕うようにワインをぐっと飲む。ヴィズルは、吹き出すように笑うと背中に凭れかかった。あまりに分かりやすく、無垢なエマは数々の浮き名を流す彼に取っては新鮮な女に感じられたようだ。

「満足したようで結構だな。お前が信じる神は処女性を重んじるようだが、このアスガルドでは女神達は、沢山の愛人を持っているぞ……俺の別居中の妻もな」
「そ、そうなのですか……私は最愛の人は一人だけで十分です」

 確かに言われてみればどの神話の中の神々も、奔放な性格をしている。それは何も不思議では無いが、ヴィズルに配偶者が居たと言う事に驚き、そして何故か気持ちがざわついた。エマは彼を見ないようにして、食事に舌鼓を打っていると、その様子に目を細めながらヴィズルはワインを飲み干した。

「エマ、お前の歌を聞きたい。この者達に聞かせてやってくれ」
「はい……どんな歌でも良いのですか?」
「お前が一番好きな曲で良い。死せる英雄達の癒やしになるだろう」

 エマはナイフとフォークを置き、ナフキンで口元を拭き取ると少し緊張しながら、ヴィズルを見た。一番好きな曲とは、難題だが死してこの世界に来た英雄達が望む事はうっすらと彼女にも理解ができた。隻眼の主は、パンパンと両手を叩くと騒がしく盛りあがっていた彼等が黙り込んで、背筋を伸ばし最高神を見た。

死せる戦士達エインヘリャルよ、今日の演習もご苦労だった。お前達を讃え、宮殿ヴァルハラの歌姫となったエマが唄う」

 ヴィズルの紹介と共に、戦士達は此方を一斉に見つめた。双子の執事に案内されるまま、ヴィズルを背にして立った。村の中で寄り合いの場所で歌う時よりも桁違いに広く、大人数の前に立っている。緊張のあまり早鐘のように波打つ心臓を抑えた。戦士達の瞳は輝き、疲れた鍛錬の合間に一時の癒やしを期待するようにエマを見ていて、彼等の期待に答えたいと純粋に思えた。
 エマは両手を胸元に置くと、暫くして美しい声で歌い始めた。それは遠く離れた故郷にいる愛する恋人を想う曲だ。家族や友、最愛の恋人。逢えなくなってしまった両親の事を考えながら詩を作った。初めは緊張で声が震えたが、徐々に自分の世界へと入っていく。

 どこからか、すすり泣くような声が聞こえた。死せる英雄達は蜜酒を飲みながら死別した家族や戦友、恋人を思った。ヴィズルは腕を組み目を伏せながら美しいエマの声に耳を傾けていた。
 澄んだ歌声は宴会場に居た全ての魂を癒し、双子の執事達は心地良さに目を細めていた。エマが歌い終わると、誰もが拍手をして彼女を讃えた。

「なんて美しい歌声なんだ。故郷を思い出したよ」
「母よ……弟よ。懐かしい思い出が蘇った。本当にありがとう。君の声は天使のようだ」

 エマは人々の拍手喝采はくしゅかっさいに頬を染めた。村でもこんな風に喜ばれた事はない。彼等は涙を流して耳を傾けてくれていた。教会の手伝いも進んでやってきたエマにとって誰かの為になる事をするは、とても幸せに感じる事だった。

「これはこれは、なんと美しい歌声でしょう。人間とは思えぬ美声、まさに……詩の蜜酒でも飲んだかのような美しい歌姫」

 不意に、戦士の一人がぐにゃりと歪むとローブを脱いだ男が現れた。華奢な体を黒い服で包み、死人のように白い肌、黒い髪にヴィズルと同じ翡翠の瞳を持っていた。どこか陰気で暗く、そして中性的で美しい男は颯爽とエマに近付くと、跪くと懐から美しい一輪の華を捧げた。突然現れた客人に戸惑ったエマだが、この不気味な男の行為をむげには出来なかった。

「ありがとう……ございます。あっ……っ」

 受け取った瞬間指先に痛みが走り、エマは思わず自分の指を見た。花には棘があったのか指先にじんわりと血の玉が浮かび上がる。それを男は取るとやんわりと微笑んだ。

「美しい花には棘があるといいますからね……お気を付け下さい」
 
 男の赤い舌が、エマの血を舐めるように舌先を絡められると驚いて真っ赤になり手を引っ込めた。いつの間にか背後にフギンとムニンが控えて、不気味な男を睨み付けていた。エマは怖くなって彼等に導かれ、ヴィズルの隣に座った。その様子を見ると、ロキは楽しげに笑った。

「俺の歌姫に軽々しく触れるな、ロキ。悪戯がすぎるぞ」
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