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第三部 天界編
漆、狂華が散る―其の参―
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月読尊への代償を支払った若菜だったが、相変わらず丈の短い緋袴を履かされ、際どい巫女服を着せられている。あろうことか、月読尊の膝枕までさせられていた若菜は、小さく溜息をついた。
夜の世界で隠居生活を送る月読尊の日課は、兎の使役の踊りを見たり、歌を詠むことだ。そして満月が天辺に昇ると、酒を飲んでは目隠し鬼をして、捕まえた若菜の太ももを愛でるという、酔狂な遊びまでしている。
「はぁ、やはりお前の柔らかな膝が一番素晴らしいな。香しい華の香りに、肌の温もりが心地よい。しかし、若菜姫はどうやらご不満な様子だな。俺とこうして共に過ごすのが嫌か?」
「いえ、あ、あの……。そろそろ、有益な情報を教えて下さい。このままここに居ても、朔ちゃんを救えないし、時間だけが過ぎてしまって、私……。不安なんです」
若菜は困ったように溜息を付いて、自分の膝の上に頭を乗せ、のんびりと寛ぐ月読尊を覗き込む。若菜は、天照大御神の弟神である彼を、邪険に扱えず、好きなようにさせていたのだが、この怠惰な生活にもそろそろ痺れを切らしていた。
「そう急かすな、若菜姫。あの第六天魔王は処刑もされていなければ、封じられてもいないらしいぞ。以前とは状況が異なっている。その理由までは俺の耳には入っていないのだが、どうやら、なんらかの理由で朔は無傷で独房から出されたようだが……その先が分からん。相変わらず安倍晴明も勾留されているらしいが、恩赦されるという噂があるぞ」
「じゃあ……、二人とも無事なんですよね、まだ間に合う。でも……あの、私。もう一つ気掛かりなことがあるんです。天魔界で私と離れ離れになった式神たちが心配なの」
「若菜姫。神使によればお前の眷属たちも、兄上が天界まで拾い上げたようだ。案ずることはないぞ」
月読尊の言葉に若菜は、安堵したように柔らかな微笑みを浮かべた。朔が封じられてしまっては、いくら女神になったとはいえ、彼を助けることはできないだろう。
自分を庇った晴明も、どうやら酷い拷問を受けておらず、恩赦の噂まであるらしい。
そして、大事な式神や眷属たちがどういう訳か無事に天照大御神によって、天界まで導かれたと聞くと、若菜はソワソワと落ち着かない気持ちになる。
早く彼らと合流し、二人を助け出す案を皆で相談したい。
「あの、月読尊様。それでは私の眷属たちと会ってもいいですか? この夜の世界にみんなを呼んで貰えるなら……無理ならどこかで落ち合ったりしてお話したいの」
「ならん」
「え、ど、どうして駄目なの?」
「この世界から出て天国を歩けば、阿修羅王の犬たちに嗅ぎ付けられるぞ」
月読尊は、出逢った時のように無表情のまま若菜を見つめると、釘を刺した。若菜は、阿修羅王の臣下である淫靡な双子の天鬼を思い出し、顔が熱くなる。あの激しい快楽と、嗜虐的な二人の笑みが頭に浮かんでゾワゾワと背筋が寒くなる。彼らはまだ、修羅界から居なくなった自分を探しているのだろうか。
「羅刹と羅漢が、私を探しているんですか?」
「そのようだ。私の神使の話ではお前を拐かした不届き者を、血眼になって探している。……というのが、修羅界で噂になっているらしい。厄介なのはあの好色な阿修羅王が、お前を気に入っているところだな」
若菜は、月読尊の言葉に口を噤んだ。
阿修羅王と第三夫人に手籠にされ、双子に引き渡される時のことを思い出す。自分の妻にならないかと、阿修羅王に持ち掛けられた時は驚いて拒否したのだが、嫌な予感は的中した。
彼らの褒美として、自分を引き渡してもまた定期的に若菜の元を訪ねると言っていた。阿修羅王の言ったことが冗談でないとして、若菜が、失踪したことを知った彼はどう出るだろうか。
月読尊は、ゆっくりと若菜の膝から体を起こすと、彼女に向き直り胡座をかく。
「阿修羅王は、朔ちゃん……、第六天魔王を苦しめるために、私を彼らの元に送ったんだと思います」
「もしお前が、阿修羅王に手籠めにされていたのなら、それだけではないだろう。奴は三人の妃を娶っている。さらに修羅界のみならず、東の天国から北の天国まで愛人を持つという色狂いだからなぁ。心配するな、若菜姫……ここは安全だ。ここでゆるりと私と過ごし、酒を飲んで遊び呆けるといい。隠居生活も中々良いものだぞ、なんの権力争いにも巻き込まれず平和だ。若菜姫、ずっとここに私と共に居ろ」
そう言うと、月読尊は戸惑う若菜の手を握りしめ、やんわりと肩を引き寄せた。
あれから、月読尊は自分や神使たちと蹴鞠や和歌を詠んで遊び呆けるだけ。若菜は、月読尊を膝枕をしながら話し相手をしているが、このままでは時を忘れた浦島太郎のようになりそうだ。
月読尊はどの八百万の神とも交流が乏しいようで、日が経つにつれて、若菜を手離すことを渋るようになってきている。寂しさを埋めるために彼女が必要なようだった。
「今日は月下美人の花畑に連れて行ってやろう。美しいぞ」
「はい……」
✤✤✤
死んだ妹は、どの女神よりも愛らしかった。
彼女は天女のような無垢な微笑みで、羅刹と羅漢の後を楽しそうにずっとついてきていた。そして、自分たちが視界から居なくなると途端に泣き出してしまう。
そんな妹が愛しくて、ヨチヨチ歩きの時から双子の天鬼は彼女の守護者であり、騎士だと思っていた。妹もきっと二人を両親と同じく敬愛していたことだろう。
だから、あの運命の日に双子を追って猛スピードで馬車が行き交う、大きな通りに飛び出してしまったことは、予測できたはずの不幸な事故だった。
咄嗟に最愛の妹を助けようとした両親ともども、大きな馬車の車輪に巻き込まれ、馬の蹄の下敷きになって肉塊となった。あの姿は、永遠に忘れることなどできないだろう。
あんなに可愛かった妹も、優しい両親も物言わぬ肉片となり、見る影もなくなったショックで、声が枯れるほど泣き叫んだ。
そして、大人たちの怒号が聞こえて視界が真っ暗になる。
その後の二人の記憶は曖昧で、何があったのか、どうしていたのかさえ思い出せない。
気付けば牢屋で、泣きながら震えて抱き合う二人に、鎧を纒った褐色肌の巨人が大きな手を差し伸べていた。
「――――選べ。ここで野垂れ死ぬか、俺の犬になって生涯仕えるか。良い犬には良い褒美を与えてやるぞ。どうだ、悪い話ではあるまい」
羅漢と羅刹に、選択の余地は無かった。
両親以外の身寄りがない彼らは、ここで見捨てられると餓死するか、処刑されるか、あとは看守に体を売って贔屓にしてもらい、細々と命を繋ぐしかない。
二人は余計なことなど考えずに、差し伸べられた阿修羅王の手を取る。
それから天鬼の双子は、阿修羅王の背中を見て育ち、養父であり剣術の師匠として慕った。そして、絶対的な忠誠を尽くすべく主人として従った。手懐けられた双子は忠犬のようにかいがいしくよく働き、金も女も奴隷も名誉も全て手に入れたのだ。
だから、命の恩人である阿修羅王が赤いソファーに深く座り、若菜の行方を聞いた時には生きた心地がしなかったことだろう。
「――――ほう。若菜を容易く逃がすとは、この愚か者が!!」
「ぐはぁっ!」
「どのような扱いも構わんが、あの小娘は五体満足で生かして捕えておけと言った筈だが?」
阿修羅王は、羅漢の頭を踏みつけると眉間に皺を寄せる。羅漢は、ジリジリと自分の頭を踏みにじる主人の足の下で、いつ潰されるか分からない絶望に顔を歪ませ呻いていた。
羅刹は頬を殴られ、切れた口と鼻から血を流し、双子の兄をギロリと睨む。
羅刹が逃し、羅漢が捉えそこねたという共同責任だ。
阿修羅王は天帝が、いつになっても第六天魔王を封じておらず、殺しもしていないことを不審に思っていた。まさか、あの秩序を重んじる無感情な男が、今になって息子に情をかけるとは到底思えないが。
ともかく、若菜は大事な駒の一つである。彼女は万が一の保険のようなもので、目にかけてやっている優秀な犬に任せていただけに、阿修羅王は余計に腹立たしく思っていた。
「お前たちにやった奴隷は、俺の奴隷でもある。俺が望む時に、あの小娘を差し出すように準備をしておけと言っておいたはずだが?」
「阿修羅王様。僕たちは、千里眼を使って修羅界をシラミ潰しに捜索しましたが、若菜は見つからなかったのです。羅漢兄さんの話では、霧が立ち込め、神の気配がしたと言います。阿修羅王様、若菜は何者かにより拐かされたのです。これは神々の英雄に対する、貴方様への冒涜であり反逆です」
羅刹が声を震わせそう言うと、阿修羅王はようやく足を退け、再びソファーにどっしりと腰を降ろす。
修羅界の神が若菜を拐かしたのなら、鼻の効く犬たちはすぐに犯人を割り出せるだろう。
となると、やはり若菜の存在に興味を持った別の天国の神が、なんらかの理由で連れ出したことになる。
「阿修羅王様に楯突くためか……。それとも戦場で若菜を目撃し、噂を聞きつけて興味を持ったのかもしれません。気付けば瞬く間に周りが暗くなり、俺を含め、その場にいた者は全員睡魔に襲われました。あれは幻惑の神通力でしょう」
ようやく体を起こした羅漢が、弟の助け船に乗るようにして付け加える。
羅漢が言うように、第六天魔王が囚われた時その場にいた若菜は、多くの神々に目撃されている。
どんなに愚かな神でも、彼らの目の前で若菜を攫ったのだから、彼女が誰の捕虜になったのか理解しているはずだ。
「第六天魔王と通じる密偵でもいるのか? しかし、美しい獲物は、逃げれば逃げるほど手に入れたくなる。お前たちもあの小娘の肉体と魂を味わったのだろう? ならば、俺と同じように腸が煮えくり返っていることだろうな」
薄笑いを浮かべる阿修羅王を見ると、羅刹は指の爪を噛み始める。羅漢は歯をむき出して威嚇する飢えた獣のように、ギラギラとした視線を向けた。
阿修羅王は、ゆっくりと二人の目を見ると声を低くして言う。
「俺が、すべての天国にいる神々に告げよう。この天国の何処かに、第六天魔王の愛人である、裏切り者の天之木花若菜姫を匿っている神がいる。大人しく、この阿修羅王に引き渡さねば、反逆者として天国もろとも攻め込むとな。お前たちは他の天国を隅々まで調べろ。俺が許可する」
「御意」
「御意」
双子の天鬼は同時に目を輝かせた。
彼が反逆者と叫べば、東西南北の天国は黙っていない。神々も天帝も、生まれたばかりの縁もゆかりもない一人の女神によって、長く平和が保たれた天の秩序を乱されるのは、嫌うはずだ。
この天界で二度も英雄となった阿修羅王に逆らえる神々はいない。あの天帝でさえ、阿修羅王を腫れ物のように扱っているのだから。
「若菜姫を再び捕らえることができれば、きちんと、俺たちで分からせねばならんな。自分が誰の捕虜になり、誰に飼われて、生涯尽くさねばならないのかを」
可憐な若菜を抱き潰し、精液を注ぐことを想像するだけで羅漢は満たされた。
一方で、すべての邪魔者を排除して、最愛の妹と家族になることを目的とする羅刹は、どす黒い感情に支配され、目を泳がせている。
そして阿修羅王は、ひたむきに朔に想い続けて自分の好意を拒否する若菜を快楽で支配し、心まで自分の物にしたい欲望に狩られていた。
そうすれば第六天魔王は心の支えを失い、絶望の淵に落とされ、そして自分は欲しいものを手に入れることができ、一石二鳥だ。
三者三様の思惑が、蛇のように絡み合って醜い情念となって渦巻いている。
「国を滅ぼす女神とは、恐ろしいものよ」
阿修羅王はそう呟くと、喉の奥で低く笑った。
夜の世界で隠居生活を送る月読尊の日課は、兎の使役の踊りを見たり、歌を詠むことだ。そして満月が天辺に昇ると、酒を飲んでは目隠し鬼をして、捕まえた若菜の太ももを愛でるという、酔狂な遊びまでしている。
「はぁ、やはりお前の柔らかな膝が一番素晴らしいな。香しい華の香りに、肌の温もりが心地よい。しかし、若菜姫はどうやらご不満な様子だな。俺とこうして共に過ごすのが嫌か?」
「いえ、あ、あの……。そろそろ、有益な情報を教えて下さい。このままここに居ても、朔ちゃんを救えないし、時間だけが過ぎてしまって、私……。不安なんです」
若菜は困ったように溜息を付いて、自分の膝の上に頭を乗せ、のんびりと寛ぐ月読尊を覗き込む。若菜は、天照大御神の弟神である彼を、邪険に扱えず、好きなようにさせていたのだが、この怠惰な生活にもそろそろ痺れを切らしていた。
「そう急かすな、若菜姫。あの第六天魔王は処刑もされていなければ、封じられてもいないらしいぞ。以前とは状況が異なっている。その理由までは俺の耳には入っていないのだが、どうやら、なんらかの理由で朔は無傷で独房から出されたようだが……その先が分からん。相変わらず安倍晴明も勾留されているらしいが、恩赦されるという噂があるぞ」
「じゃあ……、二人とも無事なんですよね、まだ間に合う。でも……あの、私。もう一つ気掛かりなことがあるんです。天魔界で私と離れ離れになった式神たちが心配なの」
「若菜姫。神使によればお前の眷属たちも、兄上が天界まで拾い上げたようだ。案ずることはないぞ」
月読尊の言葉に若菜は、安堵したように柔らかな微笑みを浮かべた。朔が封じられてしまっては、いくら女神になったとはいえ、彼を助けることはできないだろう。
自分を庇った晴明も、どうやら酷い拷問を受けておらず、恩赦の噂まであるらしい。
そして、大事な式神や眷属たちがどういう訳か無事に天照大御神によって、天界まで導かれたと聞くと、若菜はソワソワと落ち着かない気持ちになる。
早く彼らと合流し、二人を助け出す案を皆で相談したい。
「あの、月読尊様。それでは私の眷属たちと会ってもいいですか? この夜の世界にみんなを呼んで貰えるなら……無理ならどこかで落ち合ったりしてお話したいの」
「ならん」
「え、ど、どうして駄目なの?」
「この世界から出て天国を歩けば、阿修羅王の犬たちに嗅ぎ付けられるぞ」
月読尊は、出逢った時のように無表情のまま若菜を見つめると、釘を刺した。若菜は、阿修羅王の臣下である淫靡な双子の天鬼を思い出し、顔が熱くなる。あの激しい快楽と、嗜虐的な二人の笑みが頭に浮かんでゾワゾワと背筋が寒くなる。彼らはまだ、修羅界から居なくなった自分を探しているのだろうか。
「羅刹と羅漢が、私を探しているんですか?」
「そのようだ。私の神使の話ではお前を拐かした不届き者を、血眼になって探している。……というのが、修羅界で噂になっているらしい。厄介なのはあの好色な阿修羅王が、お前を気に入っているところだな」
若菜は、月読尊の言葉に口を噤んだ。
阿修羅王と第三夫人に手籠にされ、双子に引き渡される時のことを思い出す。自分の妻にならないかと、阿修羅王に持ち掛けられた時は驚いて拒否したのだが、嫌な予感は的中した。
彼らの褒美として、自分を引き渡してもまた定期的に若菜の元を訪ねると言っていた。阿修羅王の言ったことが冗談でないとして、若菜が、失踪したことを知った彼はどう出るだろうか。
月読尊は、ゆっくりと若菜の膝から体を起こすと、彼女に向き直り胡座をかく。
「阿修羅王は、朔ちゃん……、第六天魔王を苦しめるために、私を彼らの元に送ったんだと思います」
「もしお前が、阿修羅王に手籠めにされていたのなら、それだけではないだろう。奴は三人の妃を娶っている。さらに修羅界のみならず、東の天国から北の天国まで愛人を持つという色狂いだからなぁ。心配するな、若菜姫……ここは安全だ。ここでゆるりと私と過ごし、酒を飲んで遊び呆けるといい。隠居生活も中々良いものだぞ、なんの権力争いにも巻き込まれず平和だ。若菜姫、ずっとここに私と共に居ろ」
そう言うと、月読尊は戸惑う若菜の手を握りしめ、やんわりと肩を引き寄せた。
あれから、月読尊は自分や神使たちと蹴鞠や和歌を詠んで遊び呆けるだけ。若菜は、月読尊を膝枕をしながら話し相手をしているが、このままでは時を忘れた浦島太郎のようになりそうだ。
月読尊はどの八百万の神とも交流が乏しいようで、日が経つにつれて、若菜を手離すことを渋るようになってきている。寂しさを埋めるために彼女が必要なようだった。
「今日は月下美人の花畑に連れて行ってやろう。美しいぞ」
「はい……」
✤✤✤
死んだ妹は、どの女神よりも愛らしかった。
彼女は天女のような無垢な微笑みで、羅刹と羅漢の後を楽しそうにずっとついてきていた。そして、自分たちが視界から居なくなると途端に泣き出してしまう。
そんな妹が愛しくて、ヨチヨチ歩きの時から双子の天鬼は彼女の守護者であり、騎士だと思っていた。妹もきっと二人を両親と同じく敬愛していたことだろう。
だから、あの運命の日に双子を追って猛スピードで馬車が行き交う、大きな通りに飛び出してしまったことは、予測できたはずの不幸な事故だった。
咄嗟に最愛の妹を助けようとした両親ともども、大きな馬車の車輪に巻き込まれ、馬の蹄の下敷きになって肉塊となった。あの姿は、永遠に忘れることなどできないだろう。
あんなに可愛かった妹も、優しい両親も物言わぬ肉片となり、見る影もなくなったショックで、声が枯れるほど泣き叫んだ。
そして、大人たちの怒号が聞こえて視界が真っ暗になる。
その後の二人の記憶は曖昧で、何があったのか、どうしていたのかさえ思い出せない。
気付けば牢屋で、泣きながら震えて抱き合う二人に、鎧を纒った褐色肌の巨人が大きな手を差し伸べていた。
「――――選べ。ここで野垂れ死ぬか、俺の犬になって生涯仕えるか。良い犬には良い褒美を与えてやるぞ。どうだ、悪い話ではあるまい」
羅漢と羅刹に、選択の余地は無かった。
両親以外の身寄りがない彼らは、ここで見捨てられると餓死するか、処刑されるか、あとは看守に体を売って贔屓にしてもらい、細々と命を繋ぐしかない。
二人は余計なことなど考えずに、差し伸べられた阿修羅王の手を取る。
それから天鬼の双子は、阿修羅王の背中を見て育ち、養父であり剣術の師匠として慕った。そして、絶対的な忠誠を尽くすべく主人として従った。手懐けられた双子は忠犬のようにかいがいしくよく働き、金も女も奴隷も名誉も全て手に入れたのだ。
だから、命の恩人である阿修羅王が赤いソファーに深く座り、若菜の行方を聞いた時には生きた心地がしなかったことだろう。
「――――ほう。若菜を容易く逃がすとは、この愚か者が!!」
「ぐはぁっ!」
「どのような扱いも構わんが、あの小娘は五体満足で生かして捕えておけと言った筈だが?」
阿修羅王は、羅漢の頭を踏みつけると眉間に皺を寄せる。羅漢は、ジリジリと自分の頭を踏みにじる主人の足の下で、いつ潰されるか分からない絶望に顔を歪ませ呻いていた。
羅刹は頬を殴られ、切れた口と鼻から血を流し、双子の兄をギロリと睨む。
羅刹が逃し、羅漢が捉えそこねたという共同責任だ。
阿修羅王は天帝が、いつになっても第六天魔王を封じておらず、殺しもしていないことを不審に思っていた。まさか、あの秩序を重んじる無感情な男が、今になって息子に情をかけるとは到底思えないが。
ともかく、若菜は大事な駒の一つである。彼女は万が一の保険のようなもので、目にかけてやっている優秀な犬に任せていただけに、阿修羅王は余計に腹立たしく思っていた。
「お前たちにやった奴隷は、俺の奴隷でもある。俺が望む時に、あの小娘を差し出すように準備をしておけと言っておいたはずだが?」
「阿修羅王様。僕たちは、千里眼を使って修羅界をシラミ潰しに捜索しましたが、若菜は見つからなかったのです。羅漢兄さんの話では、霧が立ち込め、神の気配がしたと言います。阿修羅王様、若菜は何者かにより拐かされたのです。これは神々の英雄に対する、貴方様への冒涜であり反逆です」
羅刹が声を震わせそう言うと、阿修羅王はようやく足を退け、再びソファーにどっしりと腰を降ろす。
修羅界の神が若菜を拐かしたのなら、鼻の効く犬たちはすぐに犯人を割り出せるだろう。
となると、やはり若菜の存在に興味を持った別の天国の神が、なんらかの理由で連れ出したことになる。
「阿修羅王様に楯突くためか……。それとも戦場で若菜を目撃し、噂を聞きつけて興味を持ったのかもしれません。気付けば瞬く間に周りが暗くなり、俺を含め、その場にいた者は全員睡魔に襲われました。あれは幻惑の神通力でしょう」
ようやく体を起こした羅漢が、弟の助け船に乗るようにして付け加える。
羅漢が言うように、第六天魔王が囚われた時その場にいた若菜は、多くの神々に目撃されている。
どんなに愚かな神でも、彼らの目の前で若菜を攫ったのだから、彼女が誰の捕虜になったのか理解しているはずだ。
「第六天魔王と通じる密偵でもいるのか? しかし、美しい獲物は、逃げれば逃げるほど手に入れたくなる。お前たちもあの小娘の肉体と魂を味わったのだろう? ならば、俺と同じように腸が煮えくり返っていることだろうな」
薄笑いを浮かべる阿修羅王を見ると、羅刹は指の爪を噛み始める。羅漢は歯をむき出して威嚇する飢えた獣のように、ギラギラとした視線を向けた。
阿修羅王は、ゆっくりと二人の目を見ると声を低くして言う。
「俺が、すべての天国にいる神々に告げよう。この天国の何処かに、第六天魔王の愛人である、裏切り者の天之木花若菜姫を匿っている神がいる。大人しく、この阿修羅王に引き渡さねば、反逆者として天国もろとも攻め込むとな。お前たちは他の天国を隅々まで調べろ。俺が許可する」
「御意」
「御意」
双子の天鬼は同時に目を輝かせた。
彼が反逆者と叫べば、東西南北の天国は黙っていない。神々も天帝も、生まれたばかりの縁もゆかりもない一人の女神によって、長く平和が保たれた天の秩序を乱されるのは、嫌うはずだ。
この天界で二度も英雄となった阿修羅王に逆らえる神々はいない。あの天帝でさえ、阿修羅王を腫れ物のように扱っているのだから。
「若菜姫を再び捕らえることができれば、きちんと、俺たちで分からせねばならんな。自分が誰の捕虜になり、誰に飼われて、生涯尽くさねばならないのかを」
可憐な若菜を抱き潰し、精液を注ぐことを想像するだけで羅漢は満たされた。
一方で、すべての邪魔者を排除して、最愛の妹と家族になることを目的とする羅刹は、どす黒い感情に支配され、目を泳がせている。
そして阿修羅王は、ひたむきに朔に想い続けて自分の好意を拒否する若菜を快楽で支配し、心まで自分の物にしたい欲望に狩られていた。
そうすれば第六天魔王は心の支えを失い、絶望の淵に落とされ、そして自分は欲しいものを手に入れることができ、一石二鳥だ。
三者三様の思惑が、蛇のように絡み合って醜い情念となって渦巻いている。
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