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第二部 天魔界編
伍、水に燃え立つ蛍―其の伍―
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八百万の神々が住むという高天原へ案内されると、そこには生家と同じ寝殿造の屋敷があった。
昔と同じように立派な桜の木が植えてあり、天から降り注ぐ花びらと、芳しい香りがここが神々の住む世界だと言う事を思い出させてくれる。
『この桜の木は、木花之佐久夜毘売からの贈り物です。愛らしい姫君によろしく、と言付けがあります』
案内人の天界人の言葉にわずかに晴明は苦笑する。
若菜はずいぶんと、木花之佐久夜毘売に気に入られ寵愛されているようだ。
彼女は三柱の子を生み、務めを果たすと夫と別れて高天原に戻ったという。
女だけの園で楽しく暮らしており何があったから知らないが、どうやら今ではすっかり異性に興味が無いようで、女神との間で浮名を流していると言う、いらぬ情報まで入手してしまった。
晴明は寝殿造の小さな階段を上がると、几帳で仕切られた部屋に、十二単姿の女性が座っていた。その懐かしい背中は何度忘れようとしても、忘れる事が出来なかった。
稲荷大明神の第一の使役で、父と自分を捨て天に帰った白狐、葛の葉を。
「母上」
「童子丸……いいえ、もう今は晴明と名乗っているのですね」
ゆっくりと振り返ると、艷やかな黒髪は白銀に変わり、狐の耳が現れた。涼し気な狐目はあの日別れた時と同じく、憂いを秘めていた。
その容姿も、在りし日の姿のままで若々しく時が止まっている。彼女が、人ではなく使役の神狐として正体がばれてしまって事を理由に、父と自分の前から去ってしまった。
天界の掟を破ったという事情を知っても、自分を捨てた母への恨みや、悲しみはそうやすやすと消えるはずも無い。
「まさか、貴女と再び出逢う事になるとは思いもしなかった」
「縋りつく幼いお前の事を忘れる事は無かった……こうして、天界で再び会える事を願っていたのですよ」
「――――私は母上は死んだものと思って生きてきた。いまさら会って話す事も無かろう」
「……晴明。たとえ天の上にいても、母はお前を見守って来ました。お前を手離した時の辛さは言葉には言い表せぬほど……苦しく、身が引き裂かれそうでした。受け入れられずとも、お前を愛していると伝えたかったのです」
涙を袖で抑える母を見ると晴明の心が軋んだ。いまさら母に捨てた事を詫びられても、不信感は拭えない。
だが同時に、探し求めていたあの日のままの姿の母を見るとすべてを許してしまいそうになる。
「出ていけとまでは言わぬ。いずれ私は詩乃……若菜の元へと帰るつもりだ。この寝殿造に彼女を娶って暮らす事も考えておる」
「あの娘を娶るつもりなのですね……神々の世界に人を連れ出すのは、厄介な事になりますよ。お前は他の八百万の神とは違い、半神で立場が弱い。
あの娘が人間で『神の繭』ならばなおさら、横柄な神々に目をつけられ玩具にされ無ければ良いですが」
天界の神々が全て神聖で善良と言うわけではない。人間を供物や奴隷のように思い、人の血が入った半神を、自分より格下だと見下すような神々もいるという事だろう。
「私がいる限り、若菜に指一本触れさせぬ。どの世界の神々が来ても彼女を渡さぬだろう」
晴明はそう言って母の横を通り過ぎた。どのような神々がきても、彼女を渡すつもりは無い。もう、彼女の転生を見守るだけの人生には戻れなくなってしまったと自覚しながらも、朔を思い出していた。
若菜と共に生きるには、第六天魔王となった朔を封印する手伝いをしなければいけない。
軽率に判断を下せるような問題ではなく、晴明は深く溜息をついた。
✤✤✤
若菜は店主に頼み込んで、客だと言うにも関わらず自室を掃除したり、廊下や風呂、厠を掃除をする。まるで小間使いのように率先して働いた。
まさか昼間から、旅籠屋の庭で陰陽師の術を使って鍛錬する訳にはいかずもっぱら手伝いが日中の仕事となっていた。
店主には感謝され、宿泊客には異国の女中だと物珍しがられつつも、好意的に声をかけられる日々に、若菜は小さな充実感を感じていた。
由衛と吉良と言えば将棋をするか、都の様子を見回り天狗や妖魔達の動向を探っている。
あの一件で多くの天狗を亡くした鞍馬山に動きは殆ど無いが、負傷したであろう法眼の姿は何処にも無く、鎖の緩くなった妖魔達は、いい意味でも悪い意味でも自由になってしまったという。
あの淫らで恐ろしい出来事を思えば、安堵感を覚えるが、妖魔の事を思うと自分の不甲斐なさに若菜は内心申し訳ない気持ちで一杯になってしまった。
白露と言えば、まるで忍者のようにどこかに隠れていて若菜が呼ぶまで姿を表さない。
見た目は美少年でか弱く見えるが、光明の式神をしていただけの事はありかなり優秀な密偵で、彼自身も独自に何かを探っているようだった。
「若菜さん、ちょいといいかい?」
女将に声をかけられ廊下の拭き掃除を終えた若菜は、額の汗を拭きながら振り返った。三十路半ばのほっそりとした女将は、亭主よりも元気で働き者の気持ちの良い人だ。
長期で泊まる客人が、宿で手伝う事も快く承知してくれ異人の血が混じった若菜に対しても、態度を変えず気持ちの良い対応をしてくれたので、若菜は彼女を好いていた。
もう一人の働き手である女中や亭主も、良心的で、この旅籠屋でずっと働くのも楽しいだろうとさえ思える。
「あ、女将さん。ちょうど廊下のお掃除が終わったところなんです。なんでしょう?」
「ああ、実はねぇ。折り入って頼みたい事があるんですよ。お客さんにこんな事を頼むなんて本当は気が引けるんだけど……若菜さん、あなた陰陽師なんだってねぇ。いやね、うちの女中が夜中に見てしまって」
いつでも戦えるように、陰陽師の鍛錬は欠かさずしていたがどうやらそれを旅籠屋の女中に目撃されてしまったようだ。
自分が陰陽師だと言うことを、隠しているわけでも無かったので、女将が何かしら問題を抱えているのならば、自分が解決してあげたいという気持ちになった。
「はい、実は……陰陽寮で働いていました。今はもう退魔寮になっていますが。女将さん何かありましたか?」
「ああ! キョウの都で天鬼って呼ばれていたのは若菜さんの事かい? 異人さんみたいな髪の色の腕の良い拝み屋がいるって聞いた事があったんですよ。
謝礼はほとんど受け取らなくて、金持ちは相手にしないって話だったから、世の中も捨てたもんじゃないねぇと思っていたんです。
実はねぇ、ここの街道に妖魔が良く現れるようになって客足が遠のいているんです。ちょいと山菜を取りにいくにも、恐ろしい妖魔がいては命懸けでね」
まさか自分の名前がキョウの辺境でも届いているとは驚いたが、若菜は頬を染めて頷いた。
貧しい人をほぼ無料で優先に退魔をしていたので、そんな噂を立てられたのだろうかと嬉しくなってしまった。
晴明には外に出ないようにと言われたが、世話になっている女将が困っているのを見過ごす事は出来ない。だが、天狗に拐われて彼らに迷惑を掛けてしまったのは事実で若菜は考え込んだ。
「最近、天鬼様を見かけないって皆が嘆いていたんですよ、もしや嫁がれてご隠居されたんじゃないかとねぇ」
「いいえ、引退はしてないですっ……少しお休みさせて頂いていました。女将さん、私が退魔します」
都の人々が自分を待ってくれていると思うと、若菜の胸の奥が熱くなった。陰陽寮で陰陽師になったのは光明に恩を返す為もあったが、何より困っている人の役に立てる事に生き甲斐を感じていたからだ。
晴明の言いつけを破る事に抵抗はあったが、彼も自分と同じように女将の依頼に答えていただろうと思う。
「ありがとうねぇ、若菜さん! 退魔寮は人手不足でこの辺りまで手が届かないみたいなんだよ。いつでも後回しなんです」
「安心して下さい、女将さん。私が祓っておきますから」
若菜はそう言うと、さっそく仕舞っておいた桔梗紋の巫女服に着替えた。小刀と護符を装備する。その気配を察知したかのように、吉良と由衛が姿を現した。
『姫、どうなさいましたか? 晴明様より寝殿造が出来上がるまで外出をせぬようにとの事でしたが』
『どうした嬢ちゃん。もう軟禁生活には飽き飽きか?』
心配そうにする由衛と、ニヤニヤ面白そうに笑みを浮かべる吉良に若菜は笑顔で振り向いた。
「この街道沿いに妖魔が現れて、女将さんが困っているんだよ。その……遠くに行くわけじゃないから、お世話になっているしお役に立ちたいの」
『しかし、姫が心配です……姫のことは私がお守りいたしますが、またいかがわしい妖魔に目を付けられでもしたらと思うと』
『小姑みてぇにうるせぇなァ、てめぇは。若菜のいいようにさせてやれよ。天狗が引っ込んだんだ、再びこの辺りを俺のシマに戻すためにも俺は手伝うぜ。勝手に暴れる奴ァ、落とし前つえねェとな』
『誰が小姑や! ほんまにお前は血の気が多すぎて嫌になるわ。これやからバカ狗は嫌やねん』
いつも通り悪態をつく由衛と吉良に笑いながら、二人を見つめると由衛も渋々頷き、そっと両手を取ると愛おしそうに口付けた。
『姫、着物姿も愛くるしいですが……巫女姿の清純さといったらもう……、妖魔には刺激がつよすぎる事でしょう。私が必ずやお守り致しますからね』
「う、うん……。一体なんのお話なの?」
若菜は首を傾げつつ、三人は旅籠屋を出ると街道に向かった。
女将が言うように、キョウの都中心を術者が退魔し、妖魔が集まりやすい都の北東の鬼門やその延長線上の裏鬼門に人手を置いている。
キョウの都に近いこの宿場町は後手に回ってしまうようだ。
手薄となった街道には、逃げ出した魑魅魍魎や妖魔が、警備の薄くなった場所に留まり、行商人や旅人、他の宿場町から逃げていた人々を襲っていたようだ。
久々の退魔にしては数が多いが、若菜は式神達と共に、妖魔や魑魅魍魎を手際よく退魔していく。中級妖魔にいたっては、吉良の姿を見た瞬間に、恐れ慄き逃亡する者もいた。
「ふぅ……、一通り終わったかな。この辺りに結界を張れば、しばらく効果はありそうだね」
『お疲れ様でした、姫。久しぶりのご勇姿、大変愛らしく、可憐で、手際の良いお仕事に惚れ惚れ致します。そこいらのクソ退魔師なんぞ足元にも及びませんね』
『相変わらず口が悪ぃなァ、由衛。さて、そろそろ帰るぞ。仕事の後は一杯やりてぇ』
二人の言葉に笑いながら、若菜は結界を張ると旅籠屋に戻る為に街道を引き返していた。
その様子を、天空で白い翼を生やした淡く光る二人の天界人がじっと見つめている。
――――晴明を迎えに来た、甲冑姿の衛兵だ。
『あれは、半神の晴明公の所にいた人間の娘じゃないか? 彼女を保護しておけば、天帝様の切り札になりそうだ』
『いや、待て。あの娘は未覚醒の『神の繭』だぞ。これ以上神が増えて、俺達の仕事が増えてはかなわない。覚醒する前に処分してしまおう』
『い、いや、……しかし、天帝様は人を傷つけるなと……おい!』
相棒の天界人が急降下すると、慌ててそれを追いかけるように、急降下した。
昔と同じように立派な桜の木が植えてあり、天から降り注ぐ花びらと、芳しい香りがここが神々の住む世界だと言う事を思い出させてくれる。
『この桜の木は、木花之佐久夜毘売からの贈り物です。愛らしい姫君によろしく、と言付けがあります』
案内人の天界人の言葉にわずかに晴明は苦笑する。
若菜はずいぶんと、木花之佐久夜毘売に気に入られ寵愛されているようだ。
彼女は三柱の子を生み、務めを果たすと夫と別れて高天原に戻ったという。
女だけの園で楽しく暮らしており何があったから知らないが、どうやら今ではすっかり異性に興味が無いようで、女神との間で浮名を流していると言う、いらぬ情報まで入手してしまった。
晴明は寝殿造の小さな階段を上がると、几帳で仕切られた部屋に、十二単姿の女性が座っていた。その懐かしい背中は何度忘れようとしても、忘れる事が出来なかった。
稲荷大明神の第一の使役で、父と自分を捨て天に帰った白狐、葛の葉を。
「母上」
「童子丸……いいえ、もう今は晴明と名乗っているのですね」
ゆっくりと振り返ると、艷やかな黒髪は白銀に変わり、狐の耳が現れた。涼し気な狐目はあの日別れた時と同じく、憂いを秘めていた。
その容姿も、在りし日の姿のままで若々しく時が止まっている。彼女が、人ではなく使役の神狐として正体がばれてしまって事を理由に、父と自分の前から去ってしまった。
天界の掟を破ったという事情を知っても、自分を捨てた母への恨みや、悲しみはそうやすやすと消えるはずも無い。
「まさか、貴女と再び出逢う事になるとは思いもしなかった」
「縋りつく幼いお前の事を忘れる事は無かった……こうして、天界で再び会える事を願っていたのですよ」
「――――私は母上は死んだものと思って生きてきた。いまさら会って話す事も無かろう」
「……晴明。たとえ天の上にいても、母はお前を見守って来ました。お前を手離した時の辛さは言葉には言い表せぬほど……苦しく、身が引き裂かれそうでした。受け入れられずとも、お前を愛していると伝えたかったのです」
涙を袖で抑える母を見ると晴明の心が軋んだ。いまさら母に捨てた事を詫びられても、不信感は拭えない。
だが同時に、探し求めていたあの日のままの姿の母を見るとすべてを許してしまいそうになる。
「出ていけとまでは言わぬ。いずれ私は詩乃……若菜の元へと帰るつもりだ。この寝殿造に彼女を娶って暮らす事も考えておる」
「あの娘を娶るつもりなのですね……神々の世界に人を連れ出すのは、厄介な事になりますよ。お前は他の八百万の神とは違い、半神で立場が弱い。
あの娘が人間で『神の繭』ならばなおさら、横柄な神々に目をつけられ玩具にされ無ければ良いですが」
天界の神々が全て神聖で善良と言うわけではない。人間を供物や奴隷のように思い、人の血が入った半神を、自分より格下だと見下すような神々もいるという事だろう。
「私がいる限り、若菜に指一本触れさせぬ。どの世界の神々が来ても彼女を渡さぬだろう」
晴明はそう言って母の横を通り過ぎた。どのような神々がきても、彼女を渡すつもりは無い。もう、彼女の転生を見守るだけの人生には戻れなくなってしまったと自覚しながらも、朔を思い出していた。
若菜と共に生きるには、第六天魔王となった朔を封印する手伝いをしなければいけない。
軽率に判断を下せるような問題ではなく、晴明は深く溜息をついた。
✤✤✤
若菜は店主に頼み込んで、客だと言うにも関わらず自室を掃除したり、廊下や風呂、厠を掃除をする。まるで小間使いのように率先して働いた。
まさか昼間から、旅籠屋の庭で陰陽師の術を使って鍛錬する訳にはいかずもっぱら手伝いが日中の仕事となっていた。
店主には感謝され、宿泊客には異国の女中だと物珍しがられつつも、好意的に声をかけられる日々に、若菜は小さな充実感を感じていた。
由衛と吉良と言えば将棋をするか、都の様子を見回り天狗や妖魔達の動向を探っている。
あの一件で多くの天狗を亡くした鞍馬山に動きは殆ど無いが、負傷したであろう法眼の姿は何処にも無く、鎖の緩くなった妖魔達は、いい意味でも悪い意味でも自由になってしまったという。
あの淫らで恐ろしい出来事を思えば、安堵感を覚えるが、妖魔の事を思うと自分の不甲斐なさに若菜は内心申し訳ない気持ちで一杯になってしまった。
白露と言えば、まるで忍者のようにどこかに隠れていて若菜が呼ぶまで姿を表さない。
見た目は美少年でか弱く見えるが、光明の式神をしていただけの事はありかなり優秀な密偵で、彼自身も独自に何かを探っているようだった。
「若菜さん、ちょいといいかい?」
女将に声をかけられ廊下の拭き掃除を終えた若菜は、額の汗を拭きながら振り返った。三十路半ばのほっそりとした女将は、亭主よりも元気で働き者の気持ちの良い人だ。
長期で泊まる客人が、宿で手伝う事も快く承知してくれ異人の血が混じった若菜に対しても、態度を変えず気持ちの良い対応をしてくれたので、若菜は彼女を好いていた。
もう一人の働き手である女中や亭主も、良心的で、この旅籠屋でずっと働くのも楽しいだろうとさえ思える。
「あ、女将さん。ちょうど廊下のお掃除が終わったところなんです。なんでしょう?」
「ああ、実はねぇ。折り入って頼みたい事があるんですよ。お客さんにこんな事を頼むなんて本当は気が引けるんだけど……若菜さん、あなた陰陽師なんだってねぇ。いやね、うちの女中が夜中に見てしまって」
いつでも戦えるように、陰陽師の鍛錬は欠かさずしていたがどうやらそれを旅籠屋の女中に目撃されてしまったようだ。
自分が陰陽師だと言うことを、隠しているわけでも無かったので、女将が何かしら問題を抱えているのならば、自分が解決してあげたいという気持ちになった。
「はい、実は……陰陽寮で働いていました。今はもう退魔寮になっていますが。女将さん何かありましたか?」
「ああ! キョウの都で天鬼って呼ばれていたのは若菜さんの事かい? 異人さんみたいな髪の色の腕の良い拝み屋がいるって聞いた事があったんですよ。
謝礼はほとんど受け取らなくて、金持ちは相手にしないって話だったから、世の中も捨てたもんじゃないねぇと思っていたんです。
実はねぇ、ここの街道に妖魔が良く現れるようになって客足が遠のいているんです。ちょいと山菜を取りにいくにも、恐ろしい妖魔がいては命懸けでね」
まさか自分の名前がキョウの辺境でも届いているとは驚いたが、若菜は頬を染めて頷いた。
貧しい人をほぼ無料で優先に退魔をしていたので、そんな噂を立てられたのだろうかと嬉しくなってしまった。
晴明には外に出ないようにと言われたが、世話になっている女将が困っているのを見過ごす事は出来ない。だが、天狗に拐われて彼らに迷惑を掛けてしまったのは事実で若菜は考え込んだ。
「最近、天鬼様を見かけないって皆が嘆いていたんですよ、もしや嫁がれてご隠居されたんじゃないかとねぇ」
「いいえ、引退はしてないですっ……少しお休みさせて頂いていました。女将さん、私が退魔します」
都の人々が自分を待ってくれていると思うと、若菜の胸の奥が熱くなった。陰陽寮で陰陽師になったのは光明に恩を返す為もあったが、何より困っている人の役に立てる事に生き甲斐を感じていたからだ。
晴明の言いつけを破る事に抵抗はあったが、彼も自分と同じように女将の依頼に答えていただろうと思う。
「ありがとうねぇ、若菜さん! 退魔寮は人手不足でこの辺りまで手が届かないみたいなんだよ。いつでも後回しなんです」
「安心して下さい、女将さん。私が祓っておきますから」
若菜はそう言うと、さっそく仕舞っておいた桔梗紋の巫女服に着替えた。小刀と護符を装備する。その気配を察知したかのように、吉良と由衛が姿を現した。
『姫、どうなさいましたか? 晴明様より寝殿造が出来上がるまで外出をせぬようにとの事でしたが』
『どうした嬢ちゃん。もう軟禁生活には飽き飽きか?』
心配そうにする由衛と、ニヤニヤ面白そうに笑みを浮かべる吉良に若菜は笑顔で振り向いた。
「この街道沿いに妖魔が現れて、女将さんが困っているんだよ。その……遠くに行くわけじゃないから、お世話になっているしお役に立ちたいの」
『しかし、姫が心配です……姫のことは私がお守りいたしますが、またいかがわしい妖魔に目を付けられでもしたらと思うと』
『小姑みてぇにうるせぇなァ、てめぇは。若菜のいいようにさせてやれよ。天狗が引っ込んだんだ、再びこの辺りを俺のシマに戻すためにも俺は手伝うぜ。勝手に暴れる奴ァ、落とし前つえねェとな』
『誰が小姑や! ほんまにお前は血の気が多すぎて嫌になるわ。これやからバカ狗は嫌やねん』
いつも通り悪態をつく由衛と吉良に笑いながら、二人を見つめると由衛も渋々頷き、そっと両手を取ると愛おしそうに口付けた。
『姫、着物姿も愛くるしいですが……巫女姿の清純さといったらもう……、妖魔には刺激がつよすぎる事でしょう。私が必ずやお守り致しますからね』
「う、うん……。一体なんのお話なの?」
若菜は首を傾げつつ、三人は旅籠屋を出ると街道に向かった。
女将が言うように、キョウの都中心を術者が退魔し、妖魔が集まりやすい都の北東の鬼門やその延長線上の裏鬼門に人手を置いている。
キョウの都に近いこの宿場町は後手に回ってしまうようだ。
手薄となった街道には、逃げ出した魑魅魍魎や妖魔が、警備の薄くなった場所に留まり、行商人や旅人、他の宿場町から逃げていた人々を襲っていたようだ。
久々の退魔にしては数が多いが、若菜は式神達と共に、妖魔や魑魅魍魎を手際よく退魔していく。中級妖魔にいたっては、吉良の姿を見た瞬間に、恐れ慄き逃亡する者もいた。
「ふぅ……、一通り終わったかな。この辺りに結界を張れば、しばらく効果はありそうだね」
『お疲れ様でした、姫。久しぶりのご勇姿、大変愛らしく、可憐で、手際の良いお仕事に惚れ惚れ致します。そこいらのクソ退魔師なんぞ足元にも及びませんね』
『相変わらず口が悪ぃなァ、由衛。さて、そろそろ帰るぞ。仕事の後は一杯やりてぇ』
二人の言葉に笑いながら、若菜は結界を張ると旅籠屋に戻る為に街道を引き返していた。
その様子を、天空で白い翼を生やした淡く光る二人の天界人がじっと見つめている。
――――晴明を迎えに来た、甲冑姿の衛兵だ。
『あれは、半神の晴明公の所にいた人間の娘じゃないか? 彼女を保護しておけば、天帝様の切り札になりそうだ』
『いや、待て。あの娘は未覚醒の『神の繭』だぞ。これ以上神が増えて、俺達の仕事が増えてはかなわない。覚醒する前に処分してしまおう』
『い、いや、……しかし、天帝様は人を傷つけるなと……おい!』
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