35 / 145
拾、傾国の華―其の伍―
しおりを挟む
気が付けば時間は五ツ半(21時)になっていた。残った仕事を、明日に持ち越さないよう、机に向かいながら白露より受け取った、光明が仕立てさせたと言う、土御門家の正装をチラリと横目で見つめ緊張した様子で若菜は溜息を漏らした。特別な日の為に作らせたものだと言われたが、こんなに高価なものを仕立てて貰ってもいいのだろうか。
明後日は、直弟子を決める試練の日だ。
大抵は一年に一回、見習いから陰陽師になる試練がありそこから選出されるのだが、今年は半年縮められていた。
これ程、都のあちこちで妖魔や魑魅魍魎、さらに天魔などの騒ぎが起これば人手不足に陥るのも致し方無く、試練が早められるのも納得が行く。
退魔の途中で命を落したり、目に余るような素行不良で破門された者を含め、5人もの陰陽師を失っている。見習いから四人、そして霊力の高い更なる新鋭の直弟子を一人選出する。
その候補は恐らく夕霧だろう。光明が彼を溺愛している様子を見ると、愛弟子と言われるのも時間の問題だ。そうなると彼は自分と同僚になり、頻繁に彼に出逢うことになり、その不安が若菜を眠れなくさせる。
彼はあくまで、光明の命令でした事だと自分に言い聞かせていた。夕霧を怖がり避けていても、暴走した妖魔の数は減らない。彼とは協力しあわなければいけないのだ。
『姫……?』
スッと襖が開く音がして、中から由衛が顔を覗かせた。
仕事の手を休めたせいか、此方を覗き込んでいる。由衛は別の部屋に居ても、何時も此方の様子を気にしている。
仕事が夜半まで続くと、疲労からそのまま机に伏せて眠りに落ちてしまう事もあるので気遣ってくれている様子だった。眠りに落ちてしまった時は、いつの間にか布団に入っていて朝を迎える。恐らく彼が抱き上げて、布団まで連れてきてくれているのだろう。
「由衛、起きてたんだね。大丈夫だよ……うぅーん、今日は此処までにしてお風呂に入って寝ようかな。先に寝てて良いよ」
若菜は、手を上げ猫のように伸びをすると気を取り直し式神に心配を掛けないようににっこりと笑った。その言葉を聞くと、由衛は笑みを浮かべたが正座をして言う。
『ええ、あの狗めと将棋を打っておりました。姫が床に着くまで私達は賭け……いや、勝負を楽しみますので』
『おぅ、若菜は気にするんじゃねェ……、ゆっくり暖まってきな。その間にこいつからたんまり巻き上げるんでな』
横から顔を出した吉良に由衛は小さく舌打ちをした。どうやら将棋の勝負で賭けをしていたらしい。今夜は、吉良も紅雀との逢瀬はお預けを食らっているのだろうか。
喧嘩ばかりして犬猿の仲なのかと思えば、最近はこうして空いた時間に、仲良く将棋をしたり晩酌をしたりしている二人を見ると、心がほんのりと和んだ。
こうやって、式神が好きなように自分の時間を過ごせるようにしてやるのは陰陽師として、彼等使役する事の罪悪感もある。大義名分があっても、彼等の自由を奪って死ぬまで働かせるのだから。
若菜の言いつけは一つ、人を傷付け無いこと。
それ以外は彼等の自由も感情もねじ伏せるような事はしたくない。彼等が本当はどう思っているのか分からないが、朔以外の家族に恵まれなかった若菜にとって、彼等は家族と同じだった。そんなものはまやかし、偽物だと言われても大切な存在だった。
「うん、分かった。喧嘩しない程度に勝負してね?」
若菜は笑って立ち上がると、風呂桶に手ぬぐいと櫛を入れ、女中と共有の女風呂へと向かった。あまり遅くなっては彼女達の入浴する時間と被って、気を使わせてしまう。そう思い、足早に向かった。
✤✤✤
今宵の満月は大きく、冷気のおかげで鋭く美しく輝いていた。前方には白髪の、美しい長い髪を妖艶に括り肩に流し寝間着姿に黒い羽織を纏った光明が歩いている。
そして自分の隣には、夕霧が歩いていた。癖のある黒髪を、緩く無造作に流して肩につくかつかないかで纏めている。緩やかな前髪の隙間から見える、黒い濡れた半月型の瞳は中性的で艶がある。服装も、陰間茶屋での女物の着物ではなく動きやすい軽装の陰陽師の服を身に纏っていた。
「――――今日は、朔様もご一緒、なんですね。三人でするのは……、陰間茶屋でも幾度かあったんだけど……僕少し緊張してきちゃいました」
夕霧は、後ろ手に手を組みながら小声で朔を見上げるようにして話掛けてきた。久方ぶりに光明から夜伽の声が掛けられた。珍しく自分の部屋に出向き、わざわざ夕霧を共に迎えに行くと言う。
恐らく3人で交わるも言う事なのだろう。
昨日の若菜の告白から、夕霧に対して嫌悪と嫉妬、殺意にも似た感情が募るが所詮この男も、光明に逆らえない傀儡にしか過ぎない。
朔は、無感情のままチラリと彼を見下ろす。
「――――そうか」
必要以上に会話をしたくない朔は、義務的に返事を返した。夕霧は冷たい朔に少し肩を硬直させつつも、はい、とにこやかに微笑んだ。
その会話に利き耳を立てていた光明は肩越しに妖艶な笑みを浮かべて笑い、夕霧に助け舟を出す。
「……フフフ……夕霧、朔は誰にでもこうなので気にする事はありませんよ。朔、お前も側近として明後日から直弟子になるこの子の面倒を見るのですから、優しくなさい」
まだ決まっていないが、夕霧の評判からしてかなり才能のある陰陽師なのだろう。
そして何より光明のお気に入りであり、陰間の時の性分か察しが良く聡明だ。
どうやら、琥太郎はエド任務という口実で、左遷になってしまったようだ。同じ側近でも折り合いが悪く、派閥が出来ていたので朔にとっては目の上のたん瘤のような存在だった。琥太郎が居なくなるだけで、陰陽師達を纏めやすくなる。
「僕、頑張って直弟子になれるよう明日の試験は全力で挑みます。朔様、宜しくお願いします」
歩きながら覗き込んでくる彼を見ると、頷いた。
「はい、光明様。夕霧のようにやる気のある陰陽師は育て甲斐があります。修行や躾に手を抜く気はありませんが……夜伽の時は別で」
「……朔様……流石光明様が最も信頼されてる方ですね、何だか妬けちゃうけど、尊敬します」
ほんのり頬を染めて、夕霧は光明と朔を交互に見た。
朔は冷え切った心を殺すようにして笑みを浮かべてそれに答える。内心はどうあれ、必ず光明が満足の行く答えを口にする事を心掛けていたので、光明は目を細めて朔を愛しそうに眺めた。更に、素直な言葉を口にする夕霧にも慈しみの眼差しを向けている。
光明にしてみれば明日の神聖な行事の前に、景気づけに、淫蕩な愛欲の儀式をするようなものだろう。
淫蕩な交わりも、若菜の変わりに自分がこの穢れた役割を背負うという事なら幾らでも耐える事ができた。きっと姉もそう思って、陰間茶屋で葛藤しながら引き受けたのだろう。
自分は何時もの事と快楽を享受しても、心を殺して演技をすれば慣れたものだが、彼女はあんなにも傷付いている。無力な自分に苛立ち朔は拳を握り締めてうなだれた。
――――だがそれももう直ぐ終わる。
幕府の役人達が、陰陽寮を取り締まりを始めようとしているのだ。
「おや、若菜ではありませんか……風呂上がりですか?」
その言葉にはっとしたように朔は顔を上げた。
若菜は少し濡れた稲穂の髪を垂らして桶を持ったまま此方を硬直したように見ていた。
三人が向かう方角は、朔や光明の自室である屋敷の母屋だ。
「……は、はい……光明様」
若菜は、風呂から上がり自室へと戻る途中に、前方から歩いてくる3人に気が付き、隠れる間もなく光明に声を掛けられてしまった。
光明の左には夕霧、そして右には目を見開いた朔がいる。若菜は、ズキズキと痛む胸を抑えるようにして頭を下げると、ふと光明が目を細めて口角に毒蛇のような笑みを浮かべた。
「風呂上がりのお前も愛らしいですが、残念ながら、今日は男同士で愉しもうと思いましてね……衆道で無ければ解り合えない事も沢山ありますから。若菜、お前は明日の為にも早く寝なさい」
――――衆道で無ければ解り合えない事も沢山ありますから
まるで、胸に硝子や短刀が突き刺さるような傷みを感じた。自分は異性で、やはり衆道の性愛に入れないと言う漠然とした思いを抱えていたからだ。だからこそ光明の、言葉は胸を抉るような痛みを感じた。
きっと彼は、自分の為に演技をしているだけで自分のを守る為に痛みを受け止めているのに、朔が、光明と夕霧と3人で夜伽をする事が辛い。彼に触れてほしくない無いという、自分勝手な嫉妬で胸が苦しくなる。
光明にとって、もし自分が用済みになってしまったら、この屋敷から追い出されて朔と離れ離れになるかも知れない。
そして何よりもこのおかしな、光明に必要とされない事の不安や、自分が居るべき場所を有能な夕霧に取られてしまうような恐怖感を感じるのががとても嫌だった。
――――こんな感情は抱きたくない。
「お休みなさい……!」
震える声で若菜は桶を抱きしめる。そんな彼女を見る光明の瞳は、言葉とは裏腹に執着心に満ちた鋭い光を放っていた。
「光明様……そんな言い方しちゃったら、若菜様が可哀想ですよ」
夕霧の言葉に弾かれたように、若菜は傷付いた表情で目を伏せ頭を項垂れて動き始めた。
「若……!」
夕霧が気遣う様に言うが、若菜はそのまま二人の横を通り過ぎようとして、慌てて朔が声を掛けようとすると夕霧がぎゅっと腕に絡み付いて制する。
「―――朔様、だめ」
光明に逆らっちゃだめ、と目で訴えかけられ唇を噛み締めながら前方を向いた。
朔が、自分の名を呼ぼうとする声に思わず振り向く。既に彼等は廊下の先を歩いており、ふと若菜の視線に気付くように、夕霧が此方を肩越しに向いた。
あの陰間茶屋で見せた、残忍な表情で笑みを浮かべ、若菜は怯えるようにして小走りに自室へと向かった。
その小さな背中を、まるで猛禽類が小ウサギを狙うかのような目付きで見送った事にはその場にいた誰もが気が付かないようで、直ぐに表情は元の線の細い美少年に戻った。
母屋まで歩いて、光明の寝室前まで到着した時
朔は夕霧の絡まった腕を払いのけ、声を押し殺すようにして前方の光明の背中に言葉を投げかけた。
若菜のあの傷ついた表情が眼裏から離れず、今すぐ追い掛けて抱き締めたい位だ。
「光明様、何故姉にわざわざあのような事を……?」
「そうですよ、あんな意地悪しなくても……。若菜様、とても傷付いた様子でしたよ?」
朔の言葉に続くように、夕霧も少し嗜めるように光明に言葉をかけるとやれやれと言った風に振り向いた。月明かりと、部屋から漏れる仄かな明かりが光明をぼんやりと冷たく彩っていた。
「……二人共相変わらず甘いですねぇ、これは躾ですよ。
若菜に足りないのは嫉妬心と執着心です……あの子から私を求めるように、逃れられぬように……愛するようにしなければね。夕霧、お前が愛弟子になれば、若菜は側近にします。朔と共に私の右腕になるようにね」
朔は、ある程度予想はしていたが思いの外早い出世に目を見開いた。そう言えば紅雀が、琥太郎が荷物を運び出している時に、式神の礼華にそれとなく後任は誰なのか、と聞いてみたが主人同士が険悪な為はぐらかされたようだった。
若菜が側近になると言う事は、すなわちこの男の愛人になると言う事だ。愛弟子の時も同じようなものだったが、暗黙の了解で組織に知られるようになる。
しかし嫉妬させるという幼稚な思考に内心苦笑する。
「――――琥太郎の変わりに、ですか?」
部屋へと招き入れながら光明は笑みを浮かべた。
「琥太郎には、エドで陰陽師を纏めて幕府の仕事を請負って頂きますよ。お前とはウマが合わなかったでしょう。連携の取れない側近は必要ありません。朔、若菜となら姉弟で上手くやっていけるでしょう」
側近としての仕事は、最近では信頼の厚い朔にばかり任せれていたのだが、その補佐を若菜は自分の仕事と並行してこなしていた。
それも手を抜かず、きちんと資料を纏めたり文を書いたりしている。おっとりとした姉だが、退魔の仕事も、自分より霊感は強くないものの経験で言えば幼い頃から生業としていた分、ここの年輩の陰陽師よりも経験豊富だ。
出生はどうあれ、藁をも掴む都の人々には密かに天鬼として今も信頼されている。
彼女はの実力は、姉や恋人だと言う事を抜きにしても申し分無いくらいに優秀だと朔は考えていた。
それは、彼女が体の関係ではなく、実力で認められたいと光明に助けられた恩に報いたい、朔の役に立ちたいと言う純粋な思いならきたものだった。
「――――姉は優秀な陰陽師です。俺と双翼になるには相応しい相手です」
彼女の評価は誇らしいが、問題はこの男にその思いを踏みにじられ、愛人にされる事だ。
「わぁ、それじゃあ三人でお仕事できますね! 僕楽しみだなぁ……。そう言えば光明様、側近になるってことは若菜様も愛人になるんですね。
ご姉弟で愛して貰えるんだ、愛が深いですよねぇ……。それに若菜様は、前世の恋人でしょ?」
「前世の……?」
――――朔は眉をひそめた。
光明が、前世の恋人と言う事は初めて知ったがそれが若菜から聞いた入れ替わった魂と関係しているのだろうか。
「……ええ、詩乃と言う名前でした。今とは違う容姿でしたが、無垢で愛らしい妾でしたよ」
朔を見ながらサラリとそう言うと、行灯に火を付けほんのりと甘い香が炊かれた。ゆっくりと光明が着物を脱ぐ。
だが、何故だろう。
光明が若菜を前世の妾である『詩乃』と言う名で呼んても心に響かないのは、例えこの男が恋人だったにせよ、身勝手で好色な光明に翻弄されただろう前世の娘が、幸せだったとは思えないからだ。それに、彼女の前世に興味はなく、愛しているのは若菜だ。
そして、淫蕩で退廃的な夜が始まった。
✤✤✤
若菜は知らぬうちに、目からポロポロと大粒の涙を溢れさせていた。早く部屋に戻りたくて廊下を小走りに走り、障子を開けて入った瞬間に壁にぶつかり小さく悲鳴をあげた。
「きゃっ……由衛……?」
『おっと……』
不意に抱き止められ見上げれば、金の狐目を細めて大粒の涙を溜める主人を見下ろす。ぶつかった反動で桶が畳に落ちたのに気づき、それを屈んで拾い上げ退けると由衛が心配そうにして若菜を見つめる。
『……姫? どうされましたか……? 急いで部屋に戻ってこられる気配が致しまして……何かありましたか? 涙が……』
由衛の指先が若菜の涙を救うと、ビクリと体を震わせ取繕うように微笑むが涙が止まらない。
「何でも無いよ、何でも無いの……平気だから……」
痩我慢をする若菜に溜息を付くと、抱き止めたまま、眦に唇を寄せて涙を吸い取られる。驚いた若菜の頬を由衛の大きな掌が愛しげに撫でる。金色の狐目が、キュッと細められた。
明後日は、直弟子を決める試練の日だ。
大抵は一年に一回、見習いから陰陽師になる試練がありそこから選出されるのだが、今年は半年縮められていた。
これ程、都のあちこちで妖魔や魑魅魍魎、さらに天魔などの騒ぎが起これば人手不足に陥るのも致し方無く、試練が早められるのも納得が行く。
退魔の途中で命を落したり、目に余るような素行不良で破門された者を含め、5人もの陰陽師を失っている。見習いから四人、そして霊力の高い更なる新鋭の直弟子を一人選出する。
その候補は恐らく夕霧だろう。光明が彼を溺愛している様子を見ると、愛弟子と言われるのも時間の問題だ。そうなると彼は自分と同僚になり、頻繁に彼に出逢うことになり、その不安が若菜を眠れなくさせる。
彼はあくまで、光明の命令でした事だと自分に言い聞かせていた。夕霧を怖がり避けていても、暴走した妖魔の数は減らない。彼とは協力しあわなければいけないのだ。
『姫……?』
スッと襖が開く音がして、中から由衛が顔を覗かせた。
仕事の手を休めたせいか、此方を覗き込んでいる。由衛は別の部屋に居ても、何時も此方の様子を気にしている。
仕事が夜半まで続くと、疲労からそのまま机に伏せて眠りに落ちてしまう事もあるので気遣ってくれている様子だった。眠りに落ちてしまった時は、いつの間にか布団に入っていて朝を迎える。恐らく彼が抱き上げて、布団まで連れてきてくれているのだろう。
「由衛、起きてたんだね。大丈夫だよ……うぅーん、今日は此処までにしてお風呂に入って寝ようかな。先に寝てて良いよ」
若菜は、手を上げ猫のように伸びをすると気を取り直し式神に心配を掛けないようににっこりと笑った。その言葉を聞くと、由衛は笑みを浮かべたが正座をして言う。
『ええ、あの狗めと将棋を打っておりました。姫が床に着くまで私達は賭け……いや、勝負を楽しみますので』
『おぅ、若菜は気にするんじゃねェ……、ゆっくり暖まってきな。その間にこいつからたんまり巻き上げるんでな』
横から顔を出した吉良に由衛は小さく舌打ちをした。どうやら将棋の勝負で賭けをしていたらしい。今夜は、吉良も紅雀との逢瀬はお預けを食らっているのだろうか。
喧嘩ばかりして犬猿の仲なのかと思えば、最近はこうして空いた時間に、仲良く将棋をしたり晩酌をしたりしている二人を見ると、心がほんのりと和んだ。
こうやって、式神が好きなように自分の時間を過ごせるようにしてやるのは陰陽師として、彼等使役する事の罪悪感もある。大義名分があっても、彼等の自由を奪って死ぬまで働かせるのだから。
若菜の言いつけは一つ、人を傷付け無いこと。
それ以外は彼等の自由も感情もねじ伏せるような事はしたくない。彼等が本当はどう思っているのか分からないが、朔以外の家族に恵まれなかった若菜にとって、彼等は家族と同じだった。そんなものはまやかし、偽物だと言われても大切な存在だった。
「うん、分かった。喧嘩しない程度に勝負してね?」
若菜は笑って立ち上がると、風呂桶に手ぬぐいと櫛を入れ、女中と共有の女風呂へと向かった。あまり遅くなっては彼女達の入浴する時間と被って、気を使わせてしまう。そう思い、足早に向かった。
✤✤✤
今宵の満月は大きく、冷気のおかげで鋭く美しく輝いていた。前方には白髪の、美しい長い髪を妖艶に括り肩に流し寝間着姿に黒い羽織を纏った光明が歩いている。
そして自分の隣には、夕霧が歩いていた。癖のある黒髪を、緩く無造作に流して肩につくかつかないかで纏めている。緩やかな前髪の隙間から見える、黒い濡れた半月型の瞳は中性的で艶がある。服装も、陰間茶屋での女物の着物ではなく動きやすい軽装の陰陽師の服を身に纏っていた。
「――――今日は、朔様もご一緒、なんですね。三人でするのは……、陰間茶屋でも幾度かあったんだけど……僕少し緊張してきちゃいました」
夕霧は、後ろ手に手を組みながら小声で朔を見上げるようにして話掛けてきた。久方ぶりに光明から夜伽の声が掛けられた。珍しく自分の部屋に出向き、わざわざ夕霧を共に迎えに行くと言う。
恐らく3人で交わるも言う事なのだろう。
昨日の若菜の告白から、夕霧に対して嫌悪と嫉妬、殺意にも似た感情が募るが所詮この男も、光明に逆らえない傀儡にしか過ぎない。
朔は、無感情のままチラリと彼を見下ろす。
「――――そうか」
必要以上に会話をしたくない朔は、義務的に返事を返した。夕霧は冷たい朔に少し肩を硬直させつつも、はい、とにこやかに微笑んだ。
その会話に利き耳を立てていた光明は肩越しに妖艶な笑みを浮かべて笑い、夕霧に助け舟を出す。
「……フフフ……夕霧、朔は誰にでもこうなので気にする事はありませんよ。朔、お前も側近として明後日から直弟子になるこの子の面倒を見るのですから、優しくなさい」
まだ決まっていないが、夕霧の評判からしてかなり才能のある陰陽師なのだろう。
そして何より光明のお気に入りであり、陰間の時の性分か察しが良く聡明だ。
どうやら、琥太郎はエド任務という口実で、左遷になってしまったようだ。同じ側近でも折り合いが悪く、派閥が出来ていたので朔にとっては目の上のたん瘤のような存在だった。琥太郎が居なくなるだけで、陰陽師達を纏めやすくなる。
「僕、頑張って直弟子になれるよう明日の試験は全力で挑みます。朔様、宜しくお願いします」
歩きながら覗き込んでくる彼を見ると、頷いた。
「はい、光明様。夕霧のようにやる気のある陰陽師は育て甲斐があります。修行や躾に手を抜く気はありませんが……夜伽の時は別で」
「……朔様……流石光明様が最も信頼されてる方ですね、何だか妬けちゃうけど、尊敬します」
ほんのり頬を染めて、夕霧は光明と朔を交互に見た。
朔は冷え切った心を殺すようにして笑みを浮かべてそれに答える。内心はどうあれ、必ず光明が満足の行く答えを口にする事を心掛けていたので、光明は目を細めて朔を愛しそうに眺めた。更に、素直な言葉を口にする夕霧にも慈しみの眼差しを向けている。
光明にしてみれば明日の神聖な行事の前に、景気づけに、淫蕩な愛欲の儀式をするようなものだろう。
淫蕩な交わりも、若菜の変わりに自分がこの穢れた役割を背負うという事なら幾らでも耐える事ができた。きっと姉もそう思って、陰間茶屋で葛藤しながら引き受けたのだろう。
自分は何時もの事と快楽を享受しても、心を殺して演技をすれば慣れたものだが、彼女はあんなにも傷付いている。無力な自分に苛立ち朔は拳を握り締めてうなだれた。
――――だがそれももう直ぐ終わる。
幕府の役人達が、陰陽寮を取り締まりを始めようとしているのだ。
「おや、若菜ではありませんか……風呂上がりですか?」
その言葉にはっとしたように朔は顔を上げた。
若菜は少し濡れた稲穂の髪を垂らして桶を持ったまま此方を硬直したように見ていた。
三人が向かう方角は、朔や光明の自室である屋敷の母屋だ。
「……は、はい……光明様」
若菜は、風呂から上がり自室へと戻る途中に、前方から歩いてくる3人に気が付き、隠れる間もなく光明に声を掛けられてしまった。
光明の左には夕霧、そして右には目を見開いた朔がいる。若菜は、ズキズキと痛む胸を抑えるようにして頭を下げると、ふと光明が目を細めて口角に毒蛇のような笑みを浮かべた。
「風呂上がりのお前も愛らしいですが、残念ながら、今日は男同士で愉しもうと思いましてね……衆道で無ければ解り合えない事も沢山ありますから。若菜、お前は明日の為にも早く寝なさい」
――――衆道で無ければ解り合えない事も沢山ありますから
まるで、胸に硝子や短刀が突き刺さるような傷みを感じた。自分は異性で、やはり衆道の性愛に入れないと言う漠然とした思いを抱えていたからだ。だからこそ光明の、言葉は胸を抉るような痛みを感じた。
きっと彼は、自分の為に演技をしているだけで自分のを守る為に痛みを受け止めているのに、朔が、光明と夕霧と3人で夜伽をする事が辛い。彼に触れてほしくない無いという、自分勝手な嫉妬で胸が苦しくなる。
光明にとって、もし自分が用済みになってしまったら、この屋敷から追い出されて朔と離れ離れになるかも知れない。
そして何よりもこのおかしな、光明に必要とされない事の不安や、自分が居るべき場所を有能な夕霧に取られてしまうような恐怖感を感じるのががとても嫌だった。
――――こんな感情は抱きたくない。
「お休みなさい……!」
震える声で若菜は桶を抱きしめる。そんな彼女を見る光明の瞳は、言葉とは裏腹に執着心に満ちた鋭い光を放っていた。
「光明様……そんな言い方しちゃったら、若菜様が可哀想ですよ」
夕霧の言葉に弾かれたように、若菜は傷付いた表情で目を伏せ頭を項垂れて動き始めた。
「若……!」
夕霧が気遣う様に言うが、若菜はそのまま二人の横を通り過ぎようとして、慌てて朔が声を掛けようとすると夕霧がぎゅっと腕に絡み付いて制する。
「―――朔様、だめ」
光明に逆らっちゃだめ、と目で訴えかけられ唇を噛み締めながら前方を向いた。
朔が、自分の名を呼ぼうとする声に思わず振り向く。既に彼等は廊下の先を歩いており、ふと若菜の視線に気付くように、夕霧が此方を肩越しに向いた。
あの陰間茶屋で見せた、残忍な表情で笑みを浮かべ、若菜は怯えるようにして小走りに自室へと向かった。
その小さな背中を、まるで猛禽類が小ウサギを狙うかのような目付きで見送った事にはその場にいた誰もが気が付かないようで、直ぐに表情は元の線の細い美少年に戻った。
母屋まで歩いて、光明の寝室前まで到着した時
朔は夕霧の絡まった腕を払いのけ、声を押し殺すようにして前方の光明の背中に言葉を投げかけた。
若菜のあの傷ついた表情が眼裏から離れず、今すぐ追い掛けて抱き締めたい位だ。
「光明様、何故姉にわざわざあのような事を……?」
「そうですよ、あんな意地悪しなくても……。若菜様、とても傷付いた様子でしたよ?」
朔の言葉に続くように、夕霧も少し嗜めるように光明に言葉をかけるとやれやれと言った風に振り向いた。月明かりと、部屋から漏れる仄かな明かりが光明をぼんやりと冷たく彩っていた。
「……二人共相変わらず甘いですねぇ、これは躾ですよ。
若菜に足りないのは嫉妬心と執着心です……あの子から私を求めるように、逃れられぬように……愛するようにしなければね。夕霧、お前が愛弟子になれば、若菜は側近にします。朔と共に私の右腕になるようにね」
朔は、ある程度予想はしていたが思いの外早い出世に目を見開いた。そう言えば紅雀が、琥太郎が荷物を運び出している時に、式神の礼華にそれとなく後任は誰なのか、と聞いてみたが主人同士が険悪な為はぐらかされたようだった。
若菜が側近になると言う事は、すなわちこの男の愛人になると言う事だ。愛弟子の時も同じようなものだったが、暗黙の了解で組織に知られるようになる。
しかし嫉妬させるという幼稚な思考に内心苦笑する。
「――――琥太郎の変わりに、ですか?」
部屋へと招き入れながら光明は笑みを浮かべた。
「琥太郎には、エドで陰陽師を纏めて幕府の仕事を請負って頂きますよ。お前とはウマが合わなかったでしょう。連携の取れない側近は必要ありません。朔、若菜となら姉弟で上手くやっていけるでしょう」
側近としての仕事は、最近では信頼の厚い朔にばかり任せれていたのだが、その補佐を若菜は自分の仕事と並行してこなしていた。
それも手を抜かず、きちんと資料を纏めたり文を書いたりしている。おっとりとした姉だが、退魔の仕事も、自分より霊感は強くないものの経験で言えば幼い頃から生業としていた分、ここの年輩の陰陽師よりも経験豊富だ。
出生はどうあれ、藁をも掴む都の人々には密かに天鬼として今も信頼されている。
彼女はの実力は、姉や恋人だと言う事を抜きにしても申し分無いくらいに優秀だと朔は考えていた。
それは、彼女が体の関係ではなく、実力で認められたいと光明に助けられた恩に報いたい、朔の役に立ちたいと言う純粋な思いならきたものだった。
「――――姉は優秀な陰陽師です。俺と双翼になるには相応しい相手です」
彼女の評価は誇らしいが、問題はこの男にその思いを踏みにじられ、愛人にされる事だ。
「わぁ、それじゃあ三人でお仕事できますね! 僕楽しみだなぁ……。そう言えば光明様、側近になるってことは若菜様も愛人になるんですね。
ご姉弟で愛して貰えるんだ、愛が深いですよねぇ……。それに若菜様は、前世の恋人でしょ?」
「前世の……?」
――――朔は眉をひそめた。
光明が、前世の恋人と言う事は初めて知ったがそれが若菜から聞いた入れ替わった魂と関係しているのだろうか。
「……ええ、詩乃と言う名前でした。今とは違う容姿でしたが、無垢で愛らしい妾でしたよ」
朔を見ながらサラリとそう言うと、行灯に火を付けほんのりと甘い香が炊かれた。ゆっくりと光明が着物を脱ぐ。
だが、何故だろう。
光明が若菜を前世の妾である『詩乃』と言う名で呼んても心に響かないのは、例えこの男が恋人だったにせよ、身勝手で好色な光明に翻弄されただろう前世の娘が、幸せだったとは思えないからだ。それに、彼女の前世に興味はなく、愛しているのは若菜だ。
そして、淫蕩で退廃的な夜が始まった。
✤✤✤
若菜は知らぬうちに、目からポロポロと大粒の涙を溢れさせていた。早く部屋に戻りたくて廊下を小走りに走り、障子を開けて入った瞬間に壁にぶつかり小さく悲鳴をあげた。
「きゃっ……由衛……?」
『おっと……』
不意に抱き止められ見上げれば、金の狐目を細めて大粒の涙を溜める主人を見下ろす。ぶつかった反動で桶が畳に落ちたのに気づき、それを屈んで拾い上げ退けると由衛が心配そうにして若菜を見つめる。
『……姫? どうされましたか……? 急いで部屋に戻ってこられる気配が致しまして……何かありましたか? 涙が……』
由衛の指先が若菜の涙を救うと、ビクリと体を震わせ取繕うように微笑むが涙が止まらない。
「何でも無いよ、何でも無いの……平気だから……」
痩我慢をする若菜に溜息を付くと、抱き止めたまま、眦に唇を寄せて涙を吸い取られる。驚いた若菜の頬を由衛の大きな掌が愛しげに撫でる。金色の狐目が、キュッと細められた。
0
お気に入りに追加
844
あなたにおすすめの小説
小さなことから〜露出〜えみ〜
サイコロ
恋愛
私の露出…
毎日更新していこうと思います
よろしくおねがいします
感想等お待ちしております
取り入れて欲しい内容なども
書いてくださいね
よりみなさんにお近く
考えやすく
【R18】幼馴染がイケメン過ぎる
ケセラセラ
恋愛
双子の兄弟、陽介と宗介は一卵性の双子でイケメンのお隣さん一つ上。真斗もお隣さんの同級生でイケメン。
幼稚園の頃からずっと仲良しで4人で遊んでいたけど、大学生にもなり他にもお友達や彼氏が欲しいと思うようになった主人公の吉本 華。
幼馴染の関係は壊したくないのに、3人はそうは思ってないようで。
関係が変わる時、歯車が大きく動き出す。
淫らな蜜に狂わされ
歌龍吟伶
恋愛
普段と変わらない日々は思わぬ形で終わりを迎える…突然の出会い、そして体も心も開かれた少女の人生録。
全体的に性的表現・性行為あり。
他所で知人限定公開していましたが、こちらに移しました。
全3話完結済みです。
今日の授業は保健体育
にのみや朱乃
恋愛
(性的描写あり)
僕は家庭教師として、高校三年生のユキの家に行った。
その日はちょうどユキ以外には誰もいなかった。
ユキは勉強したくない、科目を変えようと言う。ユキが提案した科目とは。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる