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捌、月蝕は濃く―其の弐―
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初めての花街は、見るもの全て若菜にとって新鮮で興味深かった。両側に連なる提灯が既に夕暮れから夜に変わった街を鮮やかに彩っている。吉原と違い芝居小屋も花街にあるため、此処は女性も出入り出来るが、昼間に行われる為か女性の姿は無く、商人や武士等か燈籠の火と、まるで羽虫のように赤い格子の中にいる美しい遊女達に群がり、じっくりと見ていた。
何故かその光景が、若菜には美しい中にも業を感じて複雑な気持ちになっていた。
彼女達は―――勿論陰間も含め、この場所に囚われ春を売っているのだ。
先頭は光明と夕霧、続いて朔、そしてしんがりに若菜が歩いている。三人とも慣れたもので美しい遊女達を気に止めずに歩いている。格子の中から、男達に話しかけたり、吸い付け煙草を振る舞ったりしている。まるで異世界のような風景だ。
物珍しく思い若菜が立ち止まると、ふと遊女が声をかけてくる。
「そこの主さん、わっちとお話しんせんか?」
若菜は思わず体を固くして緊張した様子だったが、興味もあり彼女に近付いていく。自分とは比べもなにならない位美しい着物と、艶やかで麗しい美貌は同性でも思わず見とれてしまうものだった。
「主さん、花街に来たのはお初でありんすか?」
「は、はい……。お師匠様に連れて来られました」
素直に告げる若菜に遊女は笑い、吸い付け煙草を差し出す。それを受けとると生まれて初めて口につけ、咳き込んで返した。その様子を笑い、マジマジと若菜を見つめて楽しそうに言う。
「主さん、美童でありんすね。その様子じゃ筆下ろしもまだじゃありんせんか? わっちが相手を務めなんし」
隠語はわからないが、おそらく春を買えと言う事だろうか。頬を染め慌てる若菜の肩をやんわりと大きな手が触れた。
「何をしてるんだ、ね………詩乃。光明様が待ってるぞ」
「朔ちゃん、ご、ごめんなさい」
美童の横から現れたのはこれまた美しい青年で遊女が息を飲むのがわかった。客層は千差万別だが、やはり粋な若い男は遊女の目にも止まりやすい。そして二人は下級武士や商人ではなく着物も高級なものだった。
「お連れ様でありんすか? 今宵はお二人ともここでお過ごしくださんせ。ここの女郎は芸達者でありんすよ」
「いや、俺達は結構だ……他に用が――」
遊女の誘いに朔が煙たそうに断っていると、隣の遊女が食い気味に話し掛けてきた。
「おや、主さん……、土御門一門の西園寺様じゃ御座んせんか……? 本当に見れば見るほど粋な主さんでありんすね……。最近、風の噂じゃ、葵の所に通うてないようでありゃせんとか……主さんに惚れた葵が嘆いておりましたよ。何時でもわっちが相手になりんす」
朔は少し気まずそうにすると「結構だ」と断り、若菜の肩を抱いて光明の後を追った。若菜は先程の遊女の葵という女性の話が気になり、心の中でもやもやとして歩きながら彼を見上げた。何とも居心地の悪そうな表情だ。
「朔ちゃん、葵って誰……?」
「……っ。――――光明様の付き添いをして遊郭に出向くと客を付けられるんだ。勘違いするな、姉さんと契りを交わしてから、遊郭に一度も出向いてないし行く気もない……って……焼きもちか?」
見上げる若菜の表情が少し怒っているようだったので、思わず口端に笑みを浮かべた。
若菜と付き合う前は、情けない話だが義姉に対する屈折した気持ちを遊女相手に癒して貰っていた。自分でも薄情で身勝手だと思うが、どれだけ通って戯れても若菜以外に愛する事はできなかった。そして、こうして焼きもちを妬く彼女が愛しかった。
「……うん。でも、朔ちゃんがもう通ってないのは信じてるから……話してくれてありがとう」
素直に自分の焼きもちを認めた若菜がふと、表情を曇らせる。
「その人はずっと遊郭で朔ちゃんを待っているのかな。せめて、私がこんな事を口にするのは間違っているかも知れないけど、遊郭から出らるようになって欲しいな」
何故か、自分と愛し合った事で見たこともない彼女の希望を砕いてしまったような罪悪感で一杯になった。比較的自由の身で、朔の恋人の身分でこんな事を思うこと自体、傲慢な考えかもしれないが、場所に囚われてしまう女性の苦しみはわかるような気がする。
「姉さんは……優しすぎるな。他の者達はみな、遊女なんて気にも止めない者ばかりだ。葵は人気の遊女だ、直ぐに身請け先が決まる。だが、葵がもし俺に惚れてしまっているなら責任がある。
――だから、その想いには応えられないが、遊郭から出るために身請け先を見つけてやる事は出来る」
「本当?」
会った事もない恋敵を心配してしまうのが彼女だ。若菜にとっては付き合う前の事とはいえ、あまり良い気はしない筈なのに、自由を奪われたり、愛してる人を取られる気持ちが立場が違えど理解できるからだ。そして自分より他人の気持ちを優先してしまう彼女は自己犠牲が強い。
昔から変わらない優しさや無垢さは、どんな酷い目にあっても曲がる事は無く誰かの悪意に染まる事が無い。それが彼女の強さでもあり、最も、朔が愛している部分だった。
「何をしているのです……? 物珍しいのはわかりますが寄り道が過ぎますよ。夕霧も待ちくたびれています。朔、詩乃早くなさい」
不意に前方で腕を組んで妖艶に微笑む師匠が立ち止まり待っているのに気付き、若菜達は足早に後をついていった。
✤✤✤✤✤
遊郭街を抜けると、また先程とは違った華やかさを感じた。彼方が緋色の燭だとすれば此方は青色の燭である。陰間も嗜みとして流行っていると言う話だが、やはり武士やお忍びで来ているであろう僧侶が目につく。
此方も客層は違えど、人も多い。
若衆宿、若衆茶屋と呼ばれる店が幾つも点在していた。若菜が歩いていると、何となく絡み付くような視線を感じてしまいおどおどと目を伏せた。
すれ違う度に目立つ希な美貌を持つ光明や夕霧、朔はともかくとして、最終的に自分もマジマジと値踏みするように見られてしまって緊張する。
「ふふふ、あの者達にとってお前は透き通るような肌の上玉の美少年に見えるのです。春をひさぎたいのですよ。だが、安心して堂々として顔をあげなさい。お前は私の愛弟子で、私の許可なくして触れる事は叶いませんからね」
「詩乃様なら、売れっ子になるでしょうね。僕も郭では陰陽寮に身請けされるまで、一番の売れっ子だったけど、叶わないかも」
まるで自分の所有物かのような言い種に朔は拳をきつく握りしめた。いずれにせよ自分と側近の朔以外触れさせる気はないのだろう。
夕霧と言えば、その本心が何処にあるかもわからないようなゴマの擦り方をする。
「は、はい…………」
若菜は生返事をすると顔をあげた。ふと、視線を感じて歩きながら横をみると、高価な修験僧の格好をした男が一人とおそらく弟子と思われる修験僧が三人程ついていた。中心となる男は深紅と黒の山伏の格好をしていて、髪は燃え立つように波打ち襟足を括っているようだ。夜風に黒髪が靡いている。
人間場馴れした雰囲気で、威圧感のある美青年だ。あまりこの辺りで見掛けない彼等を思わず凝視すると真ん中の男性が口端に笑みを浮かべて頷いた。
――――何処かであの修験僧に出逢った事があるのだろうか。覚えていないが、反射的に笑みを浮かべ軽く会釈をした。
「どうしたんだ姉さん」
「えっ、ううん……あそこに修験僧の……あれ……?」
「何処にも居ないぞ……?」
朔の呼び掛けに気をとられ振り向きまたそちらを見ると既に其処には誰もいなかった。気のせいや、錯覚とは思えない。もしかしたら霊的なものかもしれないと若菜は心のうちで呟き首を傾げた。そうこうしているうちに光明は立ち止まり肩越しに二人を見ると微笑んだ。
「さて、着きましたよ。今宵の宴は楽しみですねぇ」
最早何が目的かわからないが、三人は暖簾を潜った。若菜は少し緊張した面持ちで辺りを見渡す。やはり中は遊郭といった内装だが、まだ此方は落ち着いた雰囲気だ。
齢は十五から二十位だろう陰間達が一斉に此方を見る。そして坊主や武士の客もちらりと此方を見る。
一様に美少年、美男子だ。美しい女物の着物を着ている者や男装そのものもいる。そこは客の好みで選ばれるのだろうか。
若菜は緊張した面持ちで彼等を見ていた。
「楼主は居ますか……?」
光明の艶のある声が響くと、奥から慌てて初老の男が出てきた。恐らくこの男が楼主なのだろう。
「へぇ、お待たせしてすみません。土御門光明様ですね…お待ちしたおりました。御付きの方もささ、どうぞ……野菊がお待ちしております」
通されると、光明の後に夕霧、側近の朔そして背後には若菜が付き従い階段を上がって二階の広く長い廊下を歩いていた。先頭では楼主が、一番大きな部屋を予約しており、豪華な食事と唄を歌う芸者も付けているらしい。
そして何やら何人か陰間と新造をつけていると言う。それに気分よく光明は返事をし会話を楽しんでいるようだった。
かなりの高額になるが、光明からすればまだまだ安いものだろう。
廊下の右手から下に目をやると、中庭が広がり左手には陰間達の部屋があるのだろう、賑やかな宴会の声が聞こえ、微かに夜伽の営みの声も何処からか聞こえてきていた。キョロキョロとしていた若菜は頬を染め先を急いだ。
そして、野菊が居る座敷へと向かい襖を開けると上座には既に彼がそこ座り右手に三味線をもった男女が控えていた。既に料理が運ばれており上座には光明が座るのだろう座椅子が用意されていた。そして付き従うようにしている夕霧を隣に座らせる。
二人には左手に席を用意されていた。
一番光明に近い場所が朔、そして次が若菜だ。
両側にそれぞれ陰間が付いているようで、朔の方は十五歳前後の若い女装の美少年、若菜の隣には同い年位の男装の美青年が座っている。
そして光明の右隣には野菊。噂に違わぬ美貌の持ち主で、美少女にも見える。烏の塗れば色の髪に市松人形のように切り揃えられた前髪から見える半月のような瞳の形、束ねて結い上げられた長い髪潤みのある瞳に薄い唇。そして美しい着物を着ている。齢は若菜と同い年か1つ程下に思える。
そろそろ、後家等女客を取り始めなければいけない年頃だ。若菜はその女性のような美しさに見惚れていた。朔は全く興味がないようで早々に席に付いたのを見ると若菜も慌てて正座する。
「お待ちしておりました。土御門光明様。この所宝玉が騒がしく、気味悪く感じておりましたので高名な陰陽師筆頭様に管理して頂けるなら安心です。更に今宵は、宴まで」
野菊は霊感があるのだろうか、木箱に入った呪煌々をゆっくりと差し出すと。目を細め妖艶な笑みを浮かべると受け取りゆっくりと蓋を開けると満足そうに口端に笑みを浮かべた。
「私を信用して頂いて嬉しいですねぇ。此方の宝珠は私が責任を持って管理を致しますので安心して下さい。さぁ宴を始めましょう」
呪煌々は一先ず、これから向かうだろう野菊の部屋に預けさせると三味線が小さくなり始める。御付きの陰間達がそれぞれポーズをして野菊を待っているようだった。そろそろと立ち上がると、座敷の中央まで歩く。恐らく今から舞踊が始まるのだろう。
「お連れ様のお名前は……?」
野菊がチラリと三人を見る。
どちらも野菊に見劣りしない位に美しい者達だ。朔は此方が見惚れる程に美しく凛とした美男子だ。
一瞬若菜を見た時に不思議そうな表情をしたが、夕霧まで視線を戻すと目を見開き一瞬体がうち震えた。動揺を隠すように、野菊は顔を隠した。
朔は飄々と既に隣の陰間に酒を注いで貰って飲んでおり、若菜は慣れぬこの場所で緊張したように視線を落とした。
夕霧と言えば見飽きた宴に興味はなく、高価な食事に舌鼓をうっている。
「私の手前にいるのが、右腕であり……側近の朔です。そして奥が愛弟子の詩乃、私の隣にいるのは陰陽師見習いの夕霧で、身請けをしました」
「左様で御座いますか、朔様、詩乃様……夕霧様、今宵は存分に楽しんで下さい」
そう言うと、三味線と歌に合わせて野菊と陰間達が舞い始めた。陰間は役者志望の者も多く遊女よりも躍りが上手い者も多いので、そういったものを見た事が未だかつて無い若菜は純粋に目を輝かせて見ていた。舞踊は話には聞いていたがこんなに人を惹き付けるものなのだろうか、と感動していた。暫く踊ると野菊は光明と相手をする為に上座の彼の隣に座ると、引き続き陰間三人が踊り始めた。
「詩乃、食事が冷めるぞ」
「えっ! う、うん……頂きます。……ん、美味しい」
箸で高価な食事をつついていた朔の声に現実に引き戻されると、陰陽寮で食べたことの無いようなご馳走に目を輝かせて舌鼓をうつ。まるでこの場所か何処なのか忘れてしまう位に、踊りも食事も若菜を楽しませるものだった。
光明と野菊は談笑し、夕霧がそれを割いて甘えるようにその場に入り込んでいた。
朔は淡々と隣の陰間に酒を次がせたり話の相手をしている。
「詩乃様、陰間茶屋は初めてかい……?」
暫くして食事を食べ終えると、隣に座っていた陰間が話し掛けてきた。名前も聞いて居なかったが、場馴れした感じで話し掛けられ初対面の人に緊張しつつも男性に見られて少し嬉しい気持ちもあった。
変装はバッチリだという事だ。
「はい、初めてです。陰間も花街も……あんな舞踊も見るのも初めてで、素敵です」
「それは良かった。気に入ったかい? 詩乃様はまるで女のように綺麗な手をしてる。顔立ちも日本人離れして、その目は異人さんのようだね」
「あ、あの……」
不意に若菜の手を握られると、ビクリと体を震わせ若菜は驚いて彼を見た。彼にして見れば、それが仕事なのでこうして色をかけてくるのは当然なのだろうが、異性も特定の人としか接した事の無い若菜は戸惑い頬を染めた。
その様子に笑って耳元で囁かれる。
「可愛い……男は初めてかい? 俺が陰間のイロハを教えてあげるよ」
「……っ……」
不意に袴越しに太ももを撫でられ青褪めた
ここは陰間茶屋で、自分は異性だ。
ふと、陰間が少し眉を潜めた。柔らかな太股は男性特有のものでなく、女性的な感触だった。
「残念だが、詩乃は宴会を楽しむ為に来てる。陰間には興味がない」
突然、隣の朔が助け船を出した。冷静に対処したいるがその表情は険しい。恋人の目の前で、しかも若菜に断りもなく触れたのだから当然の怒りだろう。若菜はまるで威嚇する黒豹のような彼にドキマギした。
その様子に陰間は察したように笑いながら手を離した。
「成る程……俺は男相手でも「女」相手でも相手する年だけど、お兄さんがそういうんじゃねぇ」
ふと、夕霧を連れたって光明が立ち上がると若菜と朔を見つめて和やかに笑みを浮かべた。
「お前達はそのまま宴会を楽しんでなさい……さ、行きますよ夕霧、野菊」
そう言うと二人は座敷を野菊が持つ部屋へと向かった。残された四人の中で、若菜の隣に居た陰間が話を続けた。
「ねぇ、お兄さん方。楼主さんの言い付けで俺達も仕事で春をひさがなくちゃいけないんだけど、そんな気はないだろ? だったら俺の部屋を朝まで使いなよ。そしたら俺達も休めるしさ。その代わり疑われない様にきちんと声を聞かせなよ」
その意味深な言葉に若菜は頬を染める。朔もまた少し苦笑しつつも考えるように腕を組んでいたが朔の隣にお酌をしていた陰間が、その提案を更に推すように言った。
「銭になって休めるんなら、こんな楽な仕事はないよ」
過酷な仕事であるのは、経験しなくても理解できるので、若菜と朔は顔を見合せ部屋を使わせて貰うことにした。恐らく、今宵は光明も夕霧と野菊の三人で淫らな遊びをするだろうし、 こうして二人きりになれる時間はとても貴重だった。
「ありがとうございます」
若菜が嬉しそうに微笑むと、二人は快諾して部屋へと案内してくれた。
何故かその光景が、若菜には美しい中にも業を感じて複雑な気持ちになっていた。
彼女達は―――勿論陰間も含め、この場所に囚われ春を売っているのだ。
先頭は光明と夕霧、続いて朔、そしてしんがりに若菜が歩いている。三人とも慣れたもので美しい遊女達を気に止めずに歩いている。格子の中から、男達に話しかけたり、吸い付け煙草を振る舞ったりしている。まるで異世界のような風景だ。
物珍しく思い若菜が立ち止まると、ふと遊女が声をかけてくる。
「そこの主さん、わっちとお話しんせんか?」
若菜は思わず体を固くして緊張した様子だったが、興味もあり彼女に近付いていく。自分とは比べもなにならない位美しい着物と、艶やかで麗しい美貌は同性でも思わず見とれてしまうものだった。
「主さん、花街に来たのはお初でありんすか?」
「は、はい……。お師匠様に連れて来られました」
素直に告げる若菜に遊女は笑い、吸い付け煙草を差し出す。それを受けとると生まれて初めて口につけ、咳き込んで返した。その様子を笑い、マジマジと若菜を見つめて楽しそうに言う。
「主さん、美童でありんすね。その様子じゃ筆下ろしもまだじゃありんせんか? わっちが相手を務めなんし」
隠語はわからないが、おそらく春を買えと言う事だろうか。頬を染め慌てる若菜の肩をやんわりと大きな手が触れた。
「何をしてるんだ、ね………詩乃。光明様が待ってるぞ」
「朔ちゃん、ご、ごめんなさい」
美童の横から現れたのはこれまた美しい青年で遊女が息を飲むのがわかった。客層は千差万別だが、やはり粋な若い男は遊女の目にも止まりやすい。そして二人は下級武士や商人ではなく着物も高級なものだった。
「お連れ様でありんすか? 今宵はお二人ともここでお過ごしくださんせ。ここの女郎は芸達者でありんすよ」
「いや、俺達は結構だ……他に用が――」
遊女の誘いに朔が煙たそうに断っていると、隣の遊女が食い気味に話し掛けてきた。
「おや、主さん……、土御門一門の西園寺様じゃ御座んせんか……? 本当に見れば見るほど粋な主さんでありんすね……。最近、風の噂じゃ、葵の所に通うてないようでありゃせんとか……主さんに惚れた葵が嘆いておりましたよ。何時でもわっちが相手になりんす」
朔は少し気まずそうにすると「結構だ」と断り、若菜の肩を抱いて光明の後を追った。若菜は先程の遊女の葵という女性の話が気になり、心の中でもやもやとして歩きながら彼を見上げた。何とも居心地の悪そうな表情だ。
「朔ちゃん、葵って誰……?」
「……っ。――――光明様の付き添いをして遊郭に出向くと客を付けられるんだ。勘違いするな、姉さんと契りを交わしてから、遊郭に一度も出向いてないし行く気もない……って……焼きもちか?」
見上げる若菜の表情が少し怒っているようだったので、思わず口端に笑みを浮かべた。
若菜と付き合う前は、情けない話だが義姉に対する屈折した気持ちを遊女相手に癒して貰っていた。自分でも薄情で身勝手だと思うが、どれだけ通って戯れても若菜以外に愛する事はできなかった。そして、こうして焼きもちを妬く彼女が愛しかった。
「……うん。でも、朔ちゃんがもう通ってないのは信じてるから……話してくれてありがとう」
素直に自分の焼きもちを認めた若菜がふと、表情を曇らせる。
「その人はずっと遊郭で朔ちゃんを待っているのかな。せめて、私がこんな事を口にするのは間違っているかも知れないけど、遊郭から出らるようになって欲しいな」
何故か、自分と愛し合った事で見たこともない彼女の希望を砕いてしまったような罪悪感で一杯になった。比較的自由の身で、朔の恋人の身分でこんな事を思うこと自体、傲慢な考えかもしれないが、場所に囚われてしまう女性の苦しみはわかるような気がする。
「姉さんは……優しすぎるな。他の者達はみな、遊女なんて気にも止めない者ばかりだ。葵は人気の遊女だ、直ぐに身請け先が決まる。だが、葵がもし俺に惚れてしまっているなら責任がある。
――だから、その想いには応えられないが、遊郭から出るために身請け先を見つけてやる事は出来る」
「本当?」
会った事もない恋敵を心配してしまうのが彼女だ。若菜にとっては付き合う前の事とはいえ、あまり良い気はしない筈なのに、自由を奪われたり、愛してる人を取られる気持ちが立場が違えど理解できるからだ。そして自分より他人の気持ちを優先してしまう彼女は自己犠牲が強い。
昔から変わらない優しさや無垢さは、どんな酷い目にあっても曲がる事は無く誰かの悪意に染まる事が無い。それが彼女の強さでもあり、最も、朔が愛している部分だった。
「何をしているのです……? 物珍しいのはわかりますが寄り道が過ぎますよ。夕霧も待ちくたびれています。朔、詩乃早くなさい」
不意に前方で腕を組んで妖艶に微笑む師匠が立ち止まり待っているのに気付き、若菜達は足早に後をついていった。
✤✤✤✤✤
遊郭街を抜けると、また先程とは違った華やかさを感じた。彼方が緋色の燭だとすれば此方は青色の燭である。陰間も嗜みとして流行っていると言う話だが、やはり武士やお忍びで来ているであろう僧侶が目につく。
此方も客層は違えど、人も多い。
若衆宿、若衆茶屋と呼ばれる店が幾つも点在していた。若菜が歩いていると、何となく絡み付くような視線を感じてしまいおどおどと目を伏せた。
すれ違う度に目立つ希な美貌を持つ光明や夕霧、朔はともかくとして、最終的に自分もマジマジと値踏みするように見られてしまって緊張する。
「ふふふ、あの者達にとってお前は透き通るような肌の上玉の美少年に見えるのです。春をひさぎたいのですよ。だが、安心して堂々として顔をあげなさい。お前は私の愛弟子で、私の許可なくして触れる事は叶いませんからね」
「詩乃様なら、売れっ子になるでしょうね。僕も郭では陰陽寮に身請けされるまで、一番の売れっ子だったけど、叶わないかも」
まるで自分の所有物かのような言い種に朔は拳をきつく握りしめた。いずれにせよ自分と側近の朔以外触れさせる気はないのだろう。
夕霧と言えば、その本心が何処にあるかもわからないようなゴマの擦り方をする。
「は、はい…………」
若菜は生返事をすると顔をあげた。ふと、視線を感じて歩きながら横をみると、高価な修験僧の格好をした男が一人とおそらく弟子と思われる修験僧が三人程ついていた。中心となる男は深紅と黒の山伏の格好をしていて、髪は燃え立つように波打ち襟足を括っているようだ。夜風に黒髪が靡いている。
人間場馴れした雰囲気で、威圧感のある美青年だ。あまりこの辺りで見掛けない彼等を思わず凝視すると真ん中の男性が口端に笑みを浮かべて頷いた。
――――何処かであの修験僧に出逢った事があるのだろうか。覚えていないが、反射的に笑みを浮かべ軽く会釈をした。
「どうしたんだ姉さん」
「えっ、ううん……あそこに修験僧の……あれ……?」
「何処にも居ないぞ……?」
朔の呼び掛けに気をとられ振り向きまたそちらを見ると既に其処には誰もいなかった。気のせいや、錯覚とは思えない。もしかしたら霊的なものかもしれないと若菜は心のうちで呟き首を傾げた。そうこうしているうちに光明は立ち止まり肩越しに二人を見ると微笑んだ。
「さて、着きましたよ。今宵の宴は楽しみですねぇ」
最早何が目的かわからないが、三人は暖簾を潜った。若菜は少し緊張した面持ちで辺りを見渡す。やはり中は遊郭といった内装だが、まだ此方は落ち着いた雰囲気だ。
齢は十五から二十位だろう陰間達が一斉に此方を見る。そして坊主や武士の客もちらりと此方を見る。
一様に美少年、美男子だ。美しい女物の着物を着ている者や男装そのものもいる。そこは客の好みで選ばれるのだろうか。
若菜は緊張した面持ちで彼等を見ていた。
「楼主は居ますか……?」
光明の艶のある声が響くと、奥から慌てて初老の男が出てきた。恐らくこの男が楼主なのだろう。
「へぇ、お待たせしてすみません。土御門光明様ですね…お待ちしたおりました。御付きの方もささ、どうぞ……野菊がお待ちしております」
通されると、光明の後に夕霧、側近の朔そして背後には若菜が付き従い階段を上がって二階の広く長い廊下を歩いていた。先頭では楼主が、一番大きな部屋を予約しており、豪華な食事と唄を歌う芸者も付けているらしい。
そして何やら何人か陰間と新造をつけていると言う。それに気分よく光明は返事をし会話を楽しんでいるようだった。
かなりの高額になるが、光明からすればまだまだ安いものだろう。
廊下の右手から下に目をやると、中庭が広がり左手には陰間達の部屋があるのだろう、賑やかな宴会の声が聞こえ、微かに夜伽の営みの声も何処からか聞こえてきていた。キョロキョロとしていた若菜は頬を染め先を急いだ。
そして、野菊が居る座敷へと向かい襖を開けると上座には既に彼がそこ座り右手に三味線をもった男女が控えていた。既に料理が運ばれており上座には光明が座るのだろう座椅子が用意されていた。そして付き従うようにしている夕霧を隣に座らせる。
二人には左手に席を用意されていた。
一番光明に近い場所が朔、そして次が若菜だ。
両側にそれぞれ陰間が付いているようで、朔の方は十五歳前後の若い女装の美少年、若菜の隣には同い年位の男装の美青年が座っている。
そして光明の右隣には野菊。噂に違わぬ美貌の持ち主で、美少女にも見える。烏の塗れば色の髪に市松人形のように切り揃えられた前髪から見える半月のような瞳の形、束ねて結い上げられた長い髪潤みのある瞳に薄い唇。そして美しい着物を着ている。齢は若菜と同い年か1つ程下に思える。
そろそろ、後家等女客を取り始めなければいけない年頃だ。若菜はその女性のような美しさに見惚れていた。朔は全く興味がないようで早々に席に付いたのを見ると若菜も慌てて正座する。
「お待ちしておりました。土御門光明様。この所宝玉が騒がしく、気味悪く感じておりましたので高名な陰陽師筆頭様に管理して頂けるなら安心です。更に今宵は、宴まで」
野菊は霊感があるのだろうか、木箱に入った呪煌々をゆっくりと差し出すと。目を細め妖艶な笑みを浮かべると受け取りゆっくりと蓋を開けると満足そうに口端に笑みを浮かべた。
「私を信用して頂いて嬉しいですねぇ。此方の宝珠は私が責任を持って管理を致しますので安心して下さい。さぁ宴を始めましょう」
呪煌々は一先ず、これから向かうだろう野菊の部屋に預けさせると三味線が小さくなり始める。御付きの陰間達がそれぞれポーズをして野菊を待っているようだった。そろそろと立ち上がると、座敷の中央まで歩く。恐らく今から舞踊が始まるのだろう。
「お連れ様のお名前は……?」
野菊がチラリと三人を見る。
どちらも野菊に見劣りしない位に美しい者達だ。朔は此方が見惚れる程に美しく凛とした美男子だ。
一瞬若菜を見た時に不思議そうな表情をしたが、夕霧まで視線を戻すと目を見開き一瞬体がうち震えた。動揺を隠すように、野菊は顔を隠した。
朔は飄々と既に隣の陰間に酒を注いで貰って飲んでおり、若菜は慣れぬこの場所で緊張したように視線を落とした。
夕霧と言えば見飽きた宴に興味はなく、高価な食事に舌鼓をうっている。
「私の手前にいるのが、右腕であり……側近の朔です。そして奥が愛弟子の詩乃、私の隣にいるのは陰陽師見習いの夕霧で、身請けをしました」
「左様で御座いますか、朔様、詩乃様……夕霧様、今宵は存分に楽しんで下さい」
そう言うと、三味線と歌に合わせて野菊と陰間達が舞い始めた。陰間は役者志望の者も多く遊女よりも躍りが上手い者も多いので、そういったものを見た事が未だかつて無い若菜は純粋に目を輝かせて見ていた。舞踊は話には聞いていたがこんなに人を惹き付けるものなのだろうか、と感動していた。暫く踊ると野菊は光明と相手をする為に上座の彼の隣に座ると、引き続き陰間三人が踊り始めた。
「詩乃、食事が冷めるぞ」
「えっ! う、うん……頂きます。……ん、美味しい」
箸で高価な食事をつついていた朔の声に現実に引き戻されると、陰陽寮で食べたことの無いようなご馳走に目を輝かせて舌鼓をうつ。まるでこの場所か何処なのか忘れてしまう位に、踊りも食事も若菜を楽しませるものだった。
光明と野菊は談笑し、夕霧がそれを割いて甘えるようにその場に入り込んでいた。
朔は淡々と隣の陰間に酒を次がせたり話の相手をしている。
「詩乃様、陰間茶屋は初めてかい……?」
暫くして食事を食べ終えると、隣に座っていた陰間が話し掛けてきた。名前も聞いて居なかったが、場馴れした感じで話し掛けられ初対面の人に緊張しつつも男性に見られて少し嬉しい気持ちもあった。
変装はバッチリだという事だ。
「はい、初めてです。陰間も花街も……あんな舞踊も見るのも初めてで、素敵です」
「それは良かった。気に入ったかい? 詩乃様はまるで女のように綺麗な手をしてる。顔立ちも日本人離れして、その目は異人さんのようだね」
「あ、あの……」
不意に若菜の手を握られると、ビクリと体を震わせ若菜は驚いて彼を見た。彼にして見れば、それが仕事なのでこうして色をかけてくるのは当然なのだろうが、異性も特定の人としか接した事の無い若菜は戸惑い頬を染めた。
その様子に笑って耳元で囁かれる。
「可愛い……男は初めてかい? 俺が陰間のイロハを教えてあげるよ」
「……っ……」
不意に袴越しに太ももを撫でられ青褪めた
ここは陰間茶屋で、自分は異性だ。
ふと、陰間が少し眉を潜めた。柔らかな太股は男性特有のものでなく、女性的な感触だった。
「残念だが、詩乃は宴会を楽しむ為に来てる。陰間には興味がない」
突然、隣の朔が助け船を出した。冷静に対処したいるがその表情は険しい。恋人の目の前で、しかも若菜に断りもなく触れたのだから当然の怒りだろう。若菜はまるで威嚇する黒豹のような彼にドキマギした。
その様子に陰間は察したように笑いながら手を離した。
「成る程……俺は男相手でも「女」相手でも相手する年だけど、お兄さんがそういうんじゃねぇ」
ふと、夕霧を連れたって光明が立ち上がると若菜と朔を見つめて和やかに笑みを浮かべた。
「お前達はそのまま宴会を楽しんでなさい……さ、行きますよ夕霧、野菊」
そう言うと二人は座敷を野菊が持つ部屋へと向かった。残された四人の中で、若菜の隣に居た陰間が話を続けた。
「ねぇ、お兄さん方。楼主さんの言い付けで俺達も仕事で春をひさがなくちゃいけないんだけど、そんな気はないだろ? だったら俺の部屋を朝まで使いなよ。そしたら俺達も休めるしさ。その代わり疑われない様にきちんと声を聞かせなよ」
その意味深な言葉に若菜は頬を染める。朔もまた少し苦笑しつつも考えるように腕を組んでいたが朔の隣にお酌をしていた陰間が、その提案を更に推すように言った。
「銭になって休めるんなら、こんな楽な仕事はないよ」
過酷な仕事であるのは、経験しなくても理解できるので、若菜と朔は顔を見合せ部屋を使わせて貰うことにした。恐らく、今宵は光明も夕霧と野菊の三人で淫らな遊びをするだろうし、 こうして二人きりになれる時間はとても貴重だった。
「ありがとうございます」
若菜が嬉しそうに微笑むと、二人は快諾して部屋へと案内してくれた。
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