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中編
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部屋の外に出た透真の身体に、暑くてジトっとした不快な夏の夜の空気がまとわりついてきた。
空を見上げても、星は1つも瞬いていない。どんよりとした雲に覆われている。
そんな夜空と街灯の明かりの下、キャリーケースを引っ張りながら、一人歩く。
ゴロゴロ、ゴロゴロ。
200mほど歩いて、1棟のマンションに入ると、エレベーターで4階に上がる。
人の気配はない。
4階の廊下を歩く。廊下を照らす照明の1つが、寿命を迎えかけているのか、点いたり消えたりを時折繰り返している。その度に、透真の影が消えたり生まれたり。
奥から2番目の部屋が、彼が仕事部屋として借りている部屋。透真はその部屋に入ろうとして止めた。
その部屋とは別の鍵を取り出して、一番奥の部屋の扉の鍵穴に挿して、開ける。
このマンションは基本単身者向けのワンルームだが、両端の部屋だけ主にファミリー向けの2DKの間取りになっている。
部屋の中は、灯りが点されていて明るい。
玄関にキャリーケースを置いて、そのまま部屋の中に入っていく。
そのまま、誰も座っていない二人掛けのソファに倒れ込むように身を投げ出した。
「……あれ? 透真、今夜はこっちに来ないんじゃなかったっけ?」
部屋の台所で、Tシャツにショートパンツという露出の多い格好で水を飲んでいた女性が声を掛けてきた。男の透真が中に入ってきても、身を隠したり非難する様子もない。
彼女はこの部屋の住人の一人である木島蓮華。
彼女に透真は身を起こすことなく返事を返す。
「……圭子に別れを告げられた」
二人が出会ったのは2年前。透真が以前バイトで働いていたレストランにランチを食べに行ったら、店長から声を掛けられたことがきっかけ。
「ねえ、透真君。女の子が二人厄介になれるところ、どこか心当たりない?」
お節介焼きのこの店長には、透真がバイトしていた頃かなり世話になった。透真の料理の師匠でもある。それで、バイトを辞めた後もしばしば食べに行っていて、常連客になっていた。
「どういうことですか?」
事情を聴くと、バイトの女の子が火事に遭ってしまい、ルームシェアしていた子ともども焼け出されて、行く当てがない、お金もない、と。それで、どうにかならないか、四方手を尽くしているのだけど……。
「それなら、俺の仕事場をしばらく貸しましょうか。マンションのワンルームを1室、別に借りて使っているので。仕事場なので、生活に使えるのは最低限しかないですが」
しばらく考えた後、透真が提案すると、店長も付け加える。
「なら、ウチに客用の布団があるから、それを持っていけばいいわ」
横で話を聞いていた当事者の女の子が止める間もなく、話をまとめてしまう。
その流れで、ルームシェアの子もレストランに呼んで、透真と3人で話をすることになった。なお、店長は仕事から離れることが出来ずに、カウンター席に座る3人の傍から聞き耳を立てるだけ。
そのバイトの子が木島蓮華。ルームシェアをしていた子が片口菫。ともに、声優の卵。蓮華はその年、養成所を出て、とある声優事務所に所属している。菫は蓮華と同じ養成所で学んでいる後輩。二人とも、北海道から単身上京してきた共通項で、意気投合してルームシェアを始めた矢先に火事に遭ってしまった。だからといって、実家からの支援は得られず、それどころか月々の仕送りも無く、日々の生活費は自分たちで稼ぐ必要がある。
こんなことを聞いた透真は、
「じゃあ、ウチで働く? 社員扱いで、仕事は経費精算くらいで月に1、2時間程度するだけでいい。生活するのに十分な給料は出すし、寮として住む部屋も用意する」
前年に、透真は自分の資産管理会社を立ち上げていた。起業した方がメリットがあるレベルにまで、投資で稼いでいた。
ただ、それを聞いた蓮華と菫は怪しく疑う表情を浮かべる。彼女たちにあまりに有利過ぎる話だから。
――何か裏があるのではないか。
と。
「……なぜ、そこまでしてくれるんですか?」
「夢を追いかけている人を応援したいからさ」
透真が本心から言っても二人は心を開かない。二人の顔を見て察しても、透真は次の言葉がなかなか出てこなかった。
――金なら十分持っているから、なんて言っても胡散臭がられるだろうし。
――例えば「足長おじさんになりたい」なんて言ったら、もっと引かれる。
――じゃあ、なんて言ったらいい?
実際は代償行為だ。圭子が透真の言葉に耳を傾けることが無くなっていた。オーディションの台本を手にすることも少なくなっていた。知らないメンズ化粧品の香りを身にまとって帰ってくることが多くなっていた。彼女が声優への情熱を失い始めているのを感じていた。透真は認めたくなく、見て見ぬふりをして忘れることにしたが。その代償行為。
蓮華と菫、二人というのも透真にとって都合が良かった。
――一人だったら圭子から浮気を疑われる。
この日、店を訪れたのは、店長に、圭子がリユースショップから出てくるのを見た、その愚痴をこぼしに来ている。
そこに助け舟を出してきたのが、仕事をしながら聞き耳を立てていた店長だった。
「この子に下心はないわよ。彼女持ちだし奥手だし。お金を持っているのも本当。通帳見せてもらったことあるけど、本当に桁が違ったわよ。まあ、初対面だから信用できないのは分かるから。少しずつで行ったらいいわ。それと、透真君も今の提案はあまりに急すぎよ。誰だって戸惑ってしまうわ」
店長に通帳を見せたことがあるのは本当。透真が店長に出資(?)しているから。以前、まだ蓮華がバイトに入る前、店の調理機器が相次いで故障した上に、悪質な無断キャンセルが重なったせいで、資金繰りに行き詰って困っていた店長に金を貸した。
「借りられないわよ。あなたもお財布厳しいでしょう」
「大丈夫だから、店長。是非、使ってください」
と押し問答しているうちに、通帳を見せることになって、その桁数を見た店長が折れた。閑話休題。
とりあえず、透真と蓮華たちの話し合いは、しばらく透真の仕事部屋を彼女たちが借りることで落ち着いた。社員のことは保留。
それと、店長は、透真から愚痴を聞いて、彼から「彼女持ち」の評価を消した。
「蓮華、お風呂出たよー。って、あれ? 透真、何でいるの?」
風呂場に続く脱衣所兼洗面所から、もう一人、女性が出てきた。それが片口菫。
透真の仕事部屋の隣で、木島蓮華と片口菫の二人は共同生活をしている。
あれから、2年。結局、彼女たちは社員にならずに、バイトとして透真の会社で働いている。バイトと言っても、仕事は経費の書類を少しまとめるくらいで、ほとんどない。だけど、表向きは仕事を色々していることになっている。なので、勤務時間は水増し、バイト代もマシマシで払われている。他にバイトをしなくても生活できるレベルで。声優として独り立ちする、その夢の実現を目指して進めるように。
ずっと雇っている形になるため、公的保険に加入している。蓮華も菫も生理が重いタイプのため、定期的に婦人科にも通っている。それまでの辛いときは、病院に行く精神的なゆとりも経済的な余裕も無かったから、ドラッグストアで売っている痛み止めを飲んで誤魔化していた。
寮の扱いで、仕事部屋の隣の今の部屋も借りた。その1室を3人でDIYして防音ルームに仕上げている。壁・床・天井全てを防音素材で張り固めて、映像音響設備も入れて、いつでも練習が出来るようにした。床に貼った素材は防振も兼ねているから、身体を使った演技やダンスの練習もできる。二人とも空いている時間があれば、その部屋にこもって、いつも練習をしている。最も時間をさくのは地道な声優としての基礎トレーニング。しばしば、練習で時間を忘れて、食事を二の次にしてしまうから、透真が食事の準備もする。
過去のバイトの飲食店の厨房でのバイト、お節介焼きの店長がいるレストランもその1つ、も、目的の1つは圭子に食べさせるためだった。バイトから資産運用にシフトした後、栄養学の勉強もした。資格も得た。栄養・体調面でも圭子のサポートするために。だけど、透真の料理を「美味しい」と言っていたのは始めの内だけだった。最近も用意していたが、ゴミ箱行になることの方がはるかに多かった。
「だって、外で美味しいもの、食べてきているもの」
だそうだ。彼女にしてみれば、栄養重視の透真のやり方は邪魔でしかなかった。食べたいものを好きなだけ食べられないこともストレスだった。
対して、蓮華と菫は今でも「美味しい」と言って食べる。どういう意図で食事を提供しているのか、あるいはどういうものが食べたいのか、と互いにコミュニケーションをとるようにしている。もうとっくの昔に圭子は透真の言葉に耳を貸さなくなっていた。
それから、悲しいことや辛いことがあったときの弱音や不満もそばで聞く。傷ついた心に寄り添うように。かつては、圭子がそんなことをこぼすときは、色々と透真は「アドバイス」をしていた。こうしたらいいんじゃないか、ああしたらよかったんじゃないか、と。だけど、それで癇癪を起されて、喧嘩になってしまった。その愚痴をかの店長にこぼしたら、
「それは透真君が悪いわよ。そういう時の女の子はね、具体的なアドバイスなんか求めていないわ。弱音や不満を受け止めて、寄り添って、慰めてほしいの。難しいことじゃないわ。ただ、横で話をちゃんと聞いて、『大変だったね』と慰める言葉を1つか2つかけるだけ、それだけでも十分なのよ」
と諭された。それ以来、店長のアドバイスの通りに透真は動いた。それを蓮華と菫にも当てはめただけ。
そうした生活が続いている。
「向こうの人から追い出されたんだって」
「……マジ?」
小声で話す蓮華に、同じように小声で菫が聞き返している。 透真の耳に届かないようにしているが、その耳にはかすかにだが届いてしまう
「マジらしいよ」
肯定の返事が返ってくると、菫は顔に笑みを浮かべて、同じように笑みを浮かべている蓮華と、ノーサウンドでハイタッチをかわしているのも、透真の視界の端にギリギリ入っている。入っていないと二人は思っているのだろう。
指摘はしない。する気力もない。
はっきり言わなくても、二人が圭子のことを認めていないのは透真は知っていた。温い環境で甘やかされている邪魔虫。もっと悪く言えば、寄生する虫以下ぐらいに思っているのも察していた。
知らないふりをしていた。
二人は圭子と同じ仕事をしたことは無かったが、一緒に仕事をしたことがある他の声優や制作スタッフからの圭子の評判が最悪なのを、透真は漏れ聞いていた。不真面目、練習不足、足手まとい、エトセトラ。お金の苦労をしたことがない悪い意味の「お嬢様」といった感じで。
でも、蓮華と菫が圭子のことを悪く言うのは避けていたのも、透真は気付いていた。一度だけ、「もう別れたら」と蓮華が言われたことがあったが、透真はそれを笑って聞き流した。ただ、その時に浮かべた笑みは苦いものだったことを覚えている。耳にしたのはその一度だけ。
そんな圭子でも切り捨てない透真の情の深さが、自分たちの今につながっていることが蓮華と菫には分かっていた。一対一なら、透真の好意に無条件にどっぷりと浸かっていた。だけど、互いを鏡のように見比べることで、そして、圭子という最大の反面教師の存在が、ずぶずぶの自堕落にならないように二人を引き締めていた。 ……ところまでは透真は気付かなかったが。
「ねえ、透真」
「……うん?」
ソファに横たわったままの透真の側に寄った菫の声掛けに、透真は身体は動かさず、顔だけを横に向けた。
初めて会ってから2年。菫も養成所を出た後、蓮華とは違う事務所に所属することが出来、最近はちょこちょこ仕事が回ってくるようになった。初めて会った時は、メイクで隠しきれていなかった顔の出来物も跡形もなく治って、風呂上がりのすっぴんで血色の良い弾力ある肌を見せている。ぱさぱさだった髪も艶が出て、絹糸のような美しさを出していた。
「ということは、透真はこれからは隣の部屋にずっといるということ?」
「そうなるな。これからも頼む」
「もっちろん!」
パッと華やいだ笑顔を浮かべて、菫が応えた。それに眩しさを覚えた透真は、少し顔を背け、それから「おっこらせ」と掛け声をかけて起き上がると、蓮華の方に顔を向け、彼女にも声を掛けた。
「蓮華も頼むな」
「うん」
言葉は簡潔でも顔を大きく上下させる蓮華も、2年前と様変わりしていた。初めて会った時は、くたびれて、すすけた感じさえあった。今ではそんな感じは皆無で、逆に、溌剌としたオーラが溢れんばかりだった。菫より長身の肢体は、服の上からは一見細身に見えるが、実際はバストもヒップも十分なボリュームをもっていて、魅力的な身体つきをしている。それは菫も同じで、とりわけ、バストは蓮華の張りのある感触とは違って、マシュマロのような柔らかさを持っている。
というのが、透真が抱いている印象。
なぜ、そんなことを彼が知っているのか? 簡単なことで、セックスをした間柄だから。1回だけだが。ただし、二人とそれぞれ1回ずつではなく、3人で1回。
なにが切欠で? たまたま二人同時に凹むことがあって、その弱音を透真が聞いていたら、二人に押し倒された。蓮華と菫が互いの弱音に共鳴して、透真もそれに同調してしまったのと、アルコールに飲まれたことが後押しになった。
翌朝、全裸の状態で目を覚ました3人の中で、透真だけが土下座して、
「無かったことにしてくれ」
と懇願した。
ただ、それは圭子への裏切りから来るものではなかった。なら、なにか? 「圭子を支えていた過去の自分」への裏切りから来た思いだった。
――最低だ。
頭を下げた状態で、自分の感情に気付いた透真は自己嫌悪に襲われた。
でも、蓮華と菫から掛けられた意外な言葉によって、その感情は彼方に蹴飛ばされる。
「じゃあ、あの人と別れることになったら、私たちを透真の愛人にして」
「……? 私たち?」
「そう。私たち」
「なぜ? 蓮華を、菫を、とかではなく」
「どちらか一人を選んで、と言ったら透真は誰も選ばないでしょ。だったら、二人まとめて愛人にしてちょうだい」
二択を迫られていたら、「選ぶことなんかできない」と確実に言っていた。不誠実の極みだなと自分で自分の心を抉りながら。最悪逃げ出していたかもしれない。
こんな考えを蓮華と菫には見透かされていた。選べるだけの決断力があれば、圭子をとっくの昔に切り捨てているか、自分たちを助けたりはしない、とも。だから、こうなるまえに「逃げ出されるくらいなら、次善の策を選ぼう」が二人が話し合って下していた決断だった。逃げ出されて、経済的に立ちいかなくなる不安からの回避、という打算と、これまで培ってきた「三人ならいいかな」という情が混ざりあっている。ここは、あとで二人から聞かされた話。
こんな二人の提案に、透真は首を縦に振るしか選択肢はなかった。
それが半年前のこと。そして、忘れてはいなかった。
菫が口火を切る。
「ねえ、透真、約束覚えている?」
「……あれか」
「そう、私たちを透真の愛人にする、っていう約束」
「……二人はそれでいいのか?」
透真も二人のことは憎からず思っている。異性としても魅力的だし、一度だけでもセックスをしたことでより情が深まっている。それでも、実際に約束の履行を迫られると首を再度縦に振るのは躊躇いがあった。普段なら。圭子とのやりとりでボロボロになった透真の心は、彼女たちから切り捨てられる恐怖には抗えない。だから、受け入れようとしたのだが、
「それとも、透真は私たちを愛人にするのはイヤ?」
少し風向きを変えてきたのは蓮華。「今更何を言い出すの?」と言おうとしたように見えた菫を彼女は視線だけで制して、ソファに座ったままの透真の前で腰を下ろした。そして、少し見上げるように透真の眼を覗き込んでくる。
「……イヤというか、愛人というのはいくら何でも」
イヤかと聞かれて、透真は躊躇う本心を隠さずに打ち明けるが、
「愛人が嫌なら、メイドとご主人様でもいいわ」
「!!」
蓮華の口から出てきたパワーワードに圧倒されてしまう。
「どんな形でもいいの。ビジネスライクなドライなつながりだけでなくて、情があるウェットなつながりも欲しいの」
「……それは、私からのサポートを絶たれないようにするために?」
「それが全くないと言ったら嘘になるけれど、もっとつながりが欲しいの。あなたが好きだから」
「……ゥ、ァ」
真正面からストレートな言葉を受けて、言葉にならない言葉しか口から出てこない。顔が真っ赤になったのを自覚する。
「菫も同じ。好きな人の傍らに堂々と立ちたい。そのための口実が欲しいの」
「……だけど、二人にそんなことを言われるほどいい人間ではないぞ。それこそ、取り柄なんかない。ちょっと他の同世代の人よりお金を多く持っている程度だ」
自己嫌悪に襲われた過去を思い出して、透真は自分を卑下する言葉を紡ぐが、
「優しいわ。困っていた私たちに手を差し伸べてくれた。声優になる夢を実現するためにバックアップもしてくれている。赤の他人なのに、見返りを何も求めずに。そんな透真だから、私たちは好きになったの」
「……だったら」
「なおさら愛人でなくてもいいのでは」と耳まで真っ赤になりながら言いかけた透真の言葉を蓮華は遮る。
「そして、『愛人』と言うのは私たちの決意の表れと受け取って。結婚して、家庭に入って、子供を産んで、は要らない。まだ守りには入らない。まだまだ声優として私たちは上を目指す、その決意として」
透真にはそう言う蓮華がまぶしかった。誇らしかった。心打たれた。
「……分かった。君たちの決意を尊重する」
蓮華と菫は顔を見合わせ、笑顔でハイタッチをかわした。今度は軽やかな音を立てて。
その音に促されるように、透真は心の中の想いを言葉にして紡ぐ。
「あと、これは知っておいてほしい。私も、蓮華と菫、君たちのことが好きだと言うことを」
空を見上げても、星は1つも瞬いていない。どんよりとした雲に覆われている。
そんな夜空と街灯の明かりの下、キャリーケースを引っ張りながら、一人歩く。
ゴロゴロ、ゴロゴロ。
200mほど歩いて、1棟のマンションに入ると、エレベーターで4階に上がる。
人の気配はない。
4階の廊下を歩く。廊下を照らす照明の1つが、寿命を迎えかけているのか、点いたり消えたりを時折繰り返している。その度に、透真の影が消えたり生まれたり。
奥から2番目の部屋が、彼が仕事部屋として借りている部屋。透真はその部屋に入ろうとして止めた。
その部屋とは別の鍵を取り出して、一番奥の部屋の扉の鍵穴に挿して、開ける。
このマンションは基本単身者向けのワンルームだが、両端の部屋だけ主にファミリー向けの2DKの間取りになっている。
部屋の中は、灯りが点されていて明るい。
玄関にキャリーケースを置いて、そのまま部屋の中に入っていく。
そのまま、誰も座っていない二人掛けのソファに倒れ込むように身を投げ出した。
「……あれ? 透真、今夜はこっちに来ないんじゃなかったっけ?」
部屋の台所で、Tシャツにショートパンツという露出の多い格好で水を飲んでいた女性が声を掛けてきた。男の透真が中に入ってきても、身を隠したり非難する様子もない。
彼女はこの部屋の住人の一人である木島蓮華。
彼女に透真は身を起こすことなく返事を返す。
「……圭子に別れを告げられた」
二人が出会ったのは2年前。透真が以前バイトで働いていたレストランにランチを食べに行ったら、店長から声を掛けられたことがきっかけ。
「ねえ、透真君。女の子が二人厄介になれるところ、どこか心当たりない?」
お節介焼きのこの店長には、透真がバイトしていた頃かなり世話になった。透真の料理の師匠でもある。それで、バイトを辞めた後もしばしば食べに行っていて、常連客になっていた。
「どういうことですか?」
事情を聴くと、バイトの女の子が火事に遭ってしまい、ルームシェアしていた子ともども焼け出されて、行く当てがない、お金もない、と。それで、どうにかならないか、四方手を尽くしているのだけど……。
「それなら、俺の仕事場をしばらく貸しましょうか。マンションのワンルームを1室、別に借りて使っているので。仕事場なので、生活に使えるのは最低限しかないですが」
しばらく考えた後、透真が提案すると、店長も付け加える。
「なら、ウチに客用の布団があるから、それを持っていけばいいわ」
横で話を聞いていた当事者の女の子が止める間もなく、話をまとめてしまう。
その流れで、ルームシェアの子もレストランに呼んで、透真と3人で話をすることになった。なお、店長は仕事から離れることが出来ずに、カウンター席に座る3人の傍から聞き耳を立てるだけ。
そのバイトの子が木島蓮華。ルームシェアをしていた子が片口菫。ともに、声優の卵。蓮華はその年、養成所を出て、とある声優事務所に所属している。菫は蓮華と同じ養成所で学んでいる後輩。二人とも、北海道から単身上京してきた共通項で、意気投合してルームシェアを始めた矢先に火事に遭ってしまった。だからといって、実家からの支援は得られず、それどころか月々の仕送りも無く、日々の生活費は自分たちで稼ぐ必要がある。
こんなことを聞いた透真は、
「じゃあ、ウチで働く? 社員扱いで、仕事は経費精算くらいで月に1、2時間程度するだけでいい。生活するのに十分な給料は出すし、寮として住む部屋も用意する」
前年に、透真は自分の資産管理会社を立ち上げていた。起業した方がメリットがあるレベルにまで、投資で稼いでいた。
ただ、それを聞いた蓮華と菫は怪しく疑う表情を浮かべる。彼女たちにあまりに有利過ぎる話だから。
――何か裏があるのではないか。
と。
「……なぜ、そこまでしてくれるんですか?」
「夢を追いかけている人を応援したいからさ」
透真が本心から言っても二人は心を開かない。二人の顔を見て察しても、透真は次の言葉がなかなか出てこなかった。
――金なら十分持っているから、なんて言っても胡散臭がられるだろうし。
――例えば「足長おじさんになりたい」なんて言ったら、もっと引かれる。
――じゃあ、なんて言ったらいい?
実際は代償行為だ。圭子が透真の言葉に耳を傾けることが無くなっていた。オーディションの台本を手にすることも少なくなっていた。知らないメンズ化粧品の香りを身にまとって帰ってくることが多くなっていた。彼女が声優への情熱を失い始めているのを感じていた。透真は認めたくなく、見て見ぬふりをして忘れることにしたが。その代償行為。
蓮華と菫、二人というのも透真にとって都合が良かった。
――一人だったら圭子から浮気を疑われる。
この日、店を訪れたのは、店長に、圭子がリユースショップから出てくるのを見た、その愚痴をこぼしに来ている。
そこに助け舟を出してきたのが、仕事をしながら聞き耳を立てていた店長だった。
「この子に下心はないわよ。彼女持ちだし奥手だし。お金を持っているのも本当。通帳見せてもらったことあるけど、本当に桁が違ったわよ。まあ、初対面だから信用できないのは分かるから。少しずつで行ったらいいわ。それと、透真君も今の提案はあまりに急すぎよ。誰だって戸惑ってしまうわ」
店長に通帳を見せたことがあるのは本当。透真が店長に出資(?)しているから。以前、まだ蓮華がバイトに入る前、店の調理機器が相次いで故障した上に、悪質な無断キャンセルが重なったせいで、資金繰りに行き詰って困っていた店長に金を貸した。
「借りられないわよ。あなたもお財布厳しいでしょう」
「大丈夫だから、店長。是非、使ってください」
と押し問答しているうちに、通帳を見せることになって、その桁数を見た店長が折れた。閑話休題。
とりあえず、透真と蓮華たちの話し合いは、しばらく透真の仕事部屋を彼女たちが借りることで落ち着いた。社員のことは保留。
それと、店長は、透真から愚痴を聞いて、彼から「彼女持ち」の評価を消した。
「蓮華、お風呂出たよー。って、あれ? 透真、何でいるの?」
風呂場に続く脱衣所兼洗面所から、もう一人、女性が出てきた。それが片口菫。
透真の仕事部屋の隣で、木島蓮華と片口菫の二人は共同生活をしている。
あれから、2年。結局、彼女たちは社員にならずに、バイトとして透真の会社で働いている。バイトと言っても、仕事は経費の書類を少しまとめるくらいで、ほとんどない。だけど、表向きは仕事を色々していることになっている。なので、勤務時間は水増し、バイト代もマシマシで払われている。他にバイトをしなくても生活できるレベルで。声優として独り立ちする、その夢の実現を目指して進めるように。
ずっと雇っている形になるため、公的保険に加入している。蓮華も菫も生理が重いタイプのため、定期的に婦人科にも通っている。それまでの辛いときは、病院に行く精神的なゆとりも経済的な余裕も無かったから、ドラッグストアで売っている痛み止めを飲んで誤魔化していた。
寮の扱いで、仕事部屋の隣の今の部屋も借りた。その1室を3人でDIYして防音ルームに仕上げている。壁・床・天井全てを防音素材で張り固めて、映像音響設備も入れて、いつでも練習が出来るようにした。床に貼った素材は防振も兼ねているから、身体を使った演技やダンスの練習もできる。二人とも空いている時間があれば、その部屋にこもって、いつも練習をしている。最も時間をさくのは地道な声優としての基礎トレーニング。しばしば、練習で時間を忘れて、食事を二の次にしてしまうから、透真が食事の準備もする。
過去のバイトの飲食店の厨房でのバイト、お節介焼きの店長がいるレストランもその1つ、も、目的の1つは圭子に食べさせるためだった。バイトから資産運用にシフトした後、栄養学の勉強もした。資格も得た。栄養・体調面でも圭子のサポートするために。だけど、透真の料理を「美味しい」と言っていたのは始めの内だけだった。最近も用意していたが、ゴミ箱行になることの方がはるかに多かった。
「だって、外で美味しいもの、食べてきているもの」
だそうだ。彼女にしてみれば、栄養重視の透真のやり方は邪魔でしかなかった。食べたいものを好きなだけ食べられないこともストレスだった。
対して、蓮華と菫は今でも「美味しい」と言って食べる。どういう意図で食事を提供しているのか、あるいはどういうものが食べたいのか、と互いにコミュニケーションをとるようにしている。もうとっくの昔に圭子は透真の言葉に耳を貸さなくなっていた。
それから、悲しいことや辛いことがあったときの弱音や不満もそばで聞く。傷ついた心に寄り添うように。かつては、圭子がそんなことをこぼすときは、色々と透真は「アドバイス」をしていた。こうしたらいいんじゃないか、ああしたらよかったんじゃないか、と。だけど、それで癇癪を起されて、喧嘩になってしまった。その愚痴をかの店長にこぼしたら、
「それは透真君が悪いわよ。そういう時の女の子はね、具体的なアドバイスなんか求めていないわ。弱音や不満を受け止めて、寄り添って、慰めてほしいの。難しいことじゃないわ。ただ、横で話をちゃんと聞いて、『大変だったね』と慰める言葉を1つか2つかけるだけ、それだけでも十分なのよ」
と諭された。それ以来、店長のアドバイスの通りに透真は動いた。それを蓮華と菫にも当てはめただけ。
そうした生活が続いている。
「向こうの人から追い出されたんだって」
「……マジ?」
小声で話す蓮華に、同じように小声で菫が聞き返している。 透真の耳に届かないようにしているが、その耳にはかすかにだが届いてしまう
「マジらしいよ」
肯定の返事が返ってくると、菫は顔に笑みを浮かべて、同じように笑みを浮かべている蓮華と、ノーサウンドでハイタッチをかわしているのも、透真の視界の端にギリギリ入っている。入っていないと二人は思っているのだろう。
指摘はしない。する気力もない。
はっきり言わなくても、二人が圭子のことを認めていないのは透真は知っていた。温い環境で甘やかされている邪魔虫。もっと悪く言えば、寄生する虫以下ぐらいに思っているのも察していた。
知らないふりをしていた。
二人は圭子と同じ仕事をしたことは無かったが、一緒に仕事をしたことがある他の声優や制作スタッフからの圭子の評判が最悪なのを、透真は漏れ聞いていた。不真面目、練習不足、足手まとい、エトセトラ。お金の苦労をしたことがない悪い意味の「お嬢様」といった感じで。
でも、蓮華と菫が圭子のことを悪く言うのは避けていたのも、透真は気付いていた。一度だけ、「もう別れたら」と蓮華が言われたことがあったが、透真はそれを笑って聞き流した。ただ、その時に浮かべた笑みは苦いものだったことを覚えている。耳にしたのはその一度だけ。
そんな圭子でも切り捨てない透真の情の深さが、自分たちの今につながっていることが蓮華と菫には分かっていた。一対一なら、透真の好意に無条件にどっぷりと浸かっていた。だけど、互いを鏡のように見比べることで、そして、圭子という最大の反面教師の存在が、ずぶずぶの自堕落にならないように二人を引き締めていた。 ……ところまでは透真は気付かなかったが。
「ねえ、透真」
「……うん?」
ソファに横たわったままの透真の側に寄った菫の声掛けに、透真は身体は動かさず、顔だけを横に向けた。
初めて会ってから2年。菫も養成所を出た後、蓮華とは違う事務所に所属することが出来、最近はちょこちょこ仕事が回ってくるようになった。初めて会った時は、メイクで隠しきれていなかった顔の出来物も跡形もなく治って、風呂上がりのすっぴんで血色の良い弾力ある肌を見せている。ぱさぱさだった髪も艶が出て、絹糸のような美しさを出していた。
「ということは、透真はこれからは隣の部屋にずっといるということ?」
「そうなるな。これからも頼む」
「もっちろん!」
パッと華やいだ笑顔を浮かべて、菫が応えた。それに眩しさを覚えた透真は、少し顔を背け、それから「おっこらせ」と掛け声をかけて起き上がると、蓮華の方に顔を向け、彼女にも声を掛けた。
「蓮華も頼むな」
「うん」
言葉は簡潔でも顔を大きく上下させる蓮華も、2年前と様変わりしていた。初めて会った時は、くたびれて、すすけた感じさえあった。今ではそんな感じは皆無で、逆に、溌剌としたオーラが溢れんばかりだった。菫より長身の肢体は、服の上からは一見細身に見えるが、実際はバストもヒップも十分なボリュームをもっていて、魅力的な身体つきをしている。それは菫も同じで、とりわけ、バストは蓮華の張りのある感触とは違って、マシュマロのような柔らかさを持っている。
というのが、透真が抱いている印象。
なぜ、そんなことを彼が知っているのか? 簡単なことで、セックスをした間柄だから。1回だけだが。ただし、二人とそれぞれ1回ずつではなく、3人で1回。
なにが切欠で? たまたま二人同時に凹むことがあって、その弱音を透真が聞いていたら、二人に押し倒された。蓮華と菫が互いの弱音に共鳴して、透真もそれに同調してしまったのと、アルコールに飲まれたことが後押しになった。
翌朝、全裸の状態で目を覚ました3人の中で、透真だけが土下座して、
「無かったことにしてくれ」
と懇願した。
ただ、それは圭子への裏切りから来るものではなかった。なら、なにか? 「圭子を支えていた過去の自分」への裏切りから来た思いだった。
――最低だ。
頭を下げた状態で、自分の感情に気付いた透真は自己嫌悪に襲われた。
でも、蓮華と菫から掛けられた意外な言葉によって、その感情は彼方に蹴飛ばされる。
「じゃあ、あの人と別れることになったら、私たちを透真の愛人にして」
「……? 私たち?」
「そう。私たち」
「なぜ? 蓮華を、菫を、とかではなく」
「どちらか一人を選んで、と言ったら透真は誰も選ばないでしょ。だったら、二人まとめて愛人にしてちょうだい」
二択を迫られていたら、「選ぶことなんかできない」と確実に言っていた。不誠実の極みだなと自分で自分の心を抉りながら。最悪逃げ出していたかもしれない。
こんな考えを蓮華と菫には見透かされていた。選べるだけの決断力があれば、圭子をとっくの昔に切り捨てているか、自分たちを助けたりはしない、とも。だから、こうなるまえに「逃げ出されるくらいなら、次善の策を選ぼう」が二人が話し合って下していた決断だった。逃げ出されて、経済的に立ちいかなくなる不安からの回避、という打算と、これまで培ってきた「三人ならいいかな」という情が混ざりあっている。ここは、あとで二人から聞かされた話。
こんな二人の提案に、透真は首を縦に振るしか選択肢はなかった。
それが半年前のこと。そして、忘れてはいなかった。
菫が口火を切る。
「ねえ、透真、約束覚えている?」
「……あれか」
「そう、私たちを透真の愛人にする、っていう約束」
「……二人はそれでいいのか?」
透真も二人のことは憎からず思っている。異性としても魅力的だし、一度だけでもセックスをしたことでより情が深まっている。それでも、実際に約束の履行を迫られると首を再度縦に振るのは躊躇いがあった。普段なら。圭子とのやりとりでボロボロになった透真の心は、彼女たちから切り捨てられる恐怖には抗えない。だから、受け入れようとしたのだが、
「それとも、透真は私たちを愛人にするのはイヤ?」
少し風向きを変えてきたのは蓮華。「今更何を言い出すの?」と言おうとしたように見えた菫を彼女は視線だけで制して、ソファに座ったままの透真の前で腰を下ろした。そして、少し見上げるように透真の眼を覗き込んでくる。
「……イヤというか、愛人というのはいくら何でも」
イヤかと聞かれて、透真は躊躇う本心を隠さずに打ち明けるが、
「愛人が嫌なら、メイドとご主人様でもいいわ」
「!!」
蓮華の口から出てきたパワーワードに圧倒されてしまう。
「どんな形でもいいの。ビジネスライクなドライなつながりだけでなくて、情があるウェットなつながりも欲しいの」
「……それは、私からのサポートを絶たれないようにするために?」
「それが全くないと言ったら嘘になるけれど、もっとつながりが欲しいの。あなたが好きだから」
「……ゥ、ァ」
真正面からストレートな言葉を受けて、言葉にならない言葉しか口から出てこない。顔が真っ赤になったのを自覚する。
「菫も同じ。好きな人の傍らに堂々と立ちたい。そのための口実が欲しいの」
「……だけど、二人にそんなことを言われるほどいい人間ではないぞ。それこそ、取り柄なんかない。ちょっと他の同世代の人よりお金を多く持っている程度だ」
自己嫌悪に襲われた過去を思い出して、透真は自分を卑下する言葉を紡ぐが、
「優しいわ。困っていた私たちに手を差し伸べてくれた。声優になる夢を実現するためにバックアップもしてくれている。赤の他人なのに、見返りを何も求めずに。そんな透真だから、私たちは好きになったの」
「……だったら」
「なおさら愛人でなくてもいいのでは」と耳まで真っ赤になりながら言いかけた透真の言葉を蓮華は遮る。
「そして、『愛人』と言うのは私たちの決意の表れと受け取って。結婚して、家庭に入って、子供を産んで、は要らない。まだ守りには入らない。まだまだ声優として私たちは上を目指す、その決意として」
透真にはそう言う蓮華がまぶしかった。誇らしかった。心打たれた。
「……分かった。君たちの決意を尊重する」
蓮華と菫は顔を見合わせ、笑顔でハイタッチをかわした。今度は軽やかな音を立てて。
その音に促されるように、透真は心の中の想いを言葉にして紡ぐ。
「あと、これは知っておいてほしい。私も、蓮華と菫、君たちのことが好きだと言うことを」
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