broken bell

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東洋の調度が飾られた居室の奥、安楽椅子に沈む矮躯わいくを香炉が吐く煙が取り巻く。
「大儀であった」
「有難いお言葉を賜り恐縮です」
シーハンを孤児院に送り届けた後、老大哥の邸に呼び出された。シルクの長衫を着こなす老大哥は、正面に跪く呉を眺め、煙管を唇に挟んで訊く。
「娘はどうだ。別れを寂しがっておったか」
「いえ」
「あやすのに手こずったのでは」
「小さすぎて事情を飲み込めないのが幸いしました」
「そうか」
落ち窪んだ眼窩の奥、濁った瞳に憐憫の切れ端がチラ付く。
「周囲の連中には好きに言わせておけ。お前の決断は正しい。マフィアが子を育てるのは難しい、人質にとられれば枷になる。付け加えるなら、お前は敵が多い。無頼な性向や放蕩癖を改めるのは容易くなかろうよ。真人間に預けたほうが将来は安泰じゃ、その点女房の葬儀を取り仕切った神父は信頼できる」
「心得ています」
シーハンはまだ三歳、物心が付いているかも怪しい。手放すタイミングは今をおいて他にない、これ以上成長すれば話が拗れる。
「よく耐えたな、浩然。立派に父親の務めを果たした」
老大哥が背後に顎をしゃくる。
闇から進み出た執事が捧げ持っていたのは、見覚えある長砲。鱗を模した光沢あるサテン生地が高級感を纏っている。
老大哥が乾いた唇から煙管を離し、莞爾と笑む。
「褒美じゃ。黒の色目と襟元の銀糸の刺繍が鱗に映えるじゃろ」
既視感を呼び起こす台詞に胸が冷え込む。走る車の窓から捨てた長砲が、何故かここにある。
数日前の新聞記事を思い出す。裏路地で見付かった乞食の死体は全裸だった。してみると配下が剥いだのか。

あの時、大人しく受け取っていれば何か違ったのか。
夜鈴はまだ生きて、手料理をこしらえて旦那の帰りを待っていたのだろうか。

詮無い問いに唇を曲げる。老大哥はあえて知らんぷりをし、呉は唯々諾々と茶番に付き合い、深々と頭を下げた。
「有難き幸せ。謹んで頂戴します」
感謝の言葉とは裏腹に冷めた目であらためる。よく洗ったらしく血は付いてない。予め脱がしてから殺したのか。銃口を向けられた相手は逆らえまい。
見れば見るほど着る気が失せる。上っ面だけは従順に礼を尽くして辞す間際、厳かに呼び止められた。
「待て」
背中を向けたまま立ち止まる。
「ここで着替えろ」
口元は笑んでいたものの、目は微塵も笑ってない。傍らには忠実な執事が控えている。
断ったらどうなるか、体を張って試してみるほど呉は愚かではない。
「御意に」
できるだけ軽く肯い、柄シャツの裾を払い、レザーパンツの後ろに差したリボルバーを抜く。
「落とさねえでくれよ。暴発しちまっても責任とれねえぜ」
肌身離さず持ち歩く拳銃の提出は恭順の証。
二挺の銃を執事に預け、衣擦れの音もしめやかに服を脱ぐ。
柄シャツのボタンを外して袖を抜き、パイソンのレザーパンツから脚を抜き、きちんと畳む。
今の呉は完全に丸腰だ。
老大哥は安楽椅子に身を沈め、甚くご満悦な様子で着替えを見守っていた。
広く厚い胸板に続く引き締まった腹筋、逞しく絞り上げた僧帽筋と鞭を束ねたような広背筋をさらす。
悪意を跳ね返すべく靭やかに鍛え抜いた体を眺め、在りし日を懐かしむ。
「こうしてると昔を思い出す。一張羅を仕立ててやったのを覚えておるか」
「もちろん。忘れませんよ」
皮膚に刻まれた夥しい瘢痕はんこんを視姦され、痛みなどとうに麻痺した古傷がちりちり疼く。
下穿きを引き上げ上着に袖を通す。薄暗がりの中で首尾よく脱皮を終え、大人然たいじんぜんとした風格備わる長砲を羽織り、威儀を正して微笑む。
「その節はお世話になりました」
「紐が曲がっておるぞ。相変わらず不器用じゃな、どれ」
好々爺の招きに応じ跪く。
すかさず腕が伸び、胸元の紐を結んでいく。悪夢の残像と重なる動きに吐き気がこみ上げる。

『爸爸の股に生えた赤い蛇をごらん。お嬢ちゃんはここから生まれたんだよ』

呉を後ろから羽交い絞めにした老人が囁き、意志を裏切りもたげ始めた陰茎をもてあそぶ。
皺ばんだ手が無理矢理脚をこじ開け、自ら育てた陰茎をシーハンに見せびらかす。

『この赤い蛇がお嬢ちゃんの爸爸だよ』

紐が蝶々の形に締まる。
「良い子だ」
緩慢に瞬いた瞳がしっとり濡れ、萎びた手が頬を包む。
「可哀想に」

コイツは狂っている。
動機は妄執、あるいは歪んだ独占欲。自ら刺客を差し向け妻子を奪っておきながら、独りになった呉を本気で憐れむ倒錯が、至高の愉悦を生む。

「妻も子も、お前が愛した者は皆離れていく」

ワシ以外は。

呪詛に似た囁きを吹き込み、沈黙を貫く呉の顎に手をかけ、鱗が浮いた首筋をさする。
「もっと早く取り戻したかったんじゃが、葬式に間に合わなんですまんな」
体の芯に殺意が根差す。
頬に添えられた手をとり、沸々と滾る本心を伏せ、媚びる。
「お気持ちだけで十分です」


呉が退室したのち、奥の間に一人残された老大哥は執事に命じ、古いビデオテープを持ってこさせた。
ビデオデッキにセットしてボタンを押すや粗い映像が流れだす。ブラウン管テレビの画面に映し出されたのは、全裸で縮こまった年端もいかぬ少年。
右半身は灰緑の鱗で覆われ、硬質な琥珀の虹彩は爬虫類の因子を宿す。
『お立合いの皆々様、今宵は特別な趣向を凝らしました。どうぞご覧ください』
調教師の口上に伴い、少年の眼前に何かがぶちまけられた。大量の蛇の群れ。少年の顔が極大の恐怖と生理的嫌悪に引き攣り、琥珀の瞳に涙が浮かぶ。
『こちらの蛇には孔に潜り込む習性がございます。中でも人肌に温められた孔が大好物ときた』
『いやだ、助けて、ッぁ』
身動きできない少年に鎌首もたげた蛇の群れが襲いかかる。
『コイツらとって、ぁっぐッ、追っ払って』
しゃぶります。気持ちよくします。なんでも言うこと聞きます。だからどうかお願いそれだけは。
『さあ、交尾のはじまりです』
気が狂わんばかりに泣きじゃくり、後ろ手を括られた状態で逃亡を図る少年を追い、大小の蛇が群がる。
鋭い呼気に乗じて踊る二股の舌が皮膚を舐め、ひんやりした鱗が体温を吸い取っていく。
『安心しろ、毒はねえ。牙は抜いてある』
一匹が後孔に頭をもぐらせ、くぐり、みちみち窄まりを押し広げ進んでいく。
残りは腿や腕に絡み付き、あるいは腋を通って締め上げる。
『苦し、たすけっ、あぁあ゛ッ、ひぐ』
小さい蛇が幼く未熟なペニスに巻き付いて擦り立て、別の蛇が二股の舌を出し入れ乳首を苛む。
尻を上げ突っ伏す少年を、暗く狭く湿った隧道を好む習性と、巣籠の本能が赴くまま蛇が犯す。
『ぁ゛ッ、あ゛ッ、あぁあ゛ッ、ぁッ』
内側から腹を食い破られる恐怖と嫌悪がせめぎい、直腸を埋める体積に悶絶し、前立腺を押し潰す刺激に喘ぐ。
双排泄腔ケツマンに蛇が出たり入ったりしてるぜ』
『ぅあっ、ぁああ』
蛇が体を這い上り、口にもぐりこみ、不気味に蠢いて喉の奥をめざす。
上下の口を塞がれた息苦しさに暴れ、痙攣を起こす少年の胎内を蛇が耕す。
『ぅぐっ、ぃぐ』
骨と肉を圧搾する激痛にもがき、喉が歪に膨らむ。
調教師が尾を掴み、涎の糸引く蛇を力ずくで引っ張り出す。
『あぶねえ、胃まで行く所だった』
吐瀉物のぬかるみに突っ伏し、激しくえずく少年の尻に淫らにくねる蛇が入り、胎内で暴れ回る。
腹が膨らんではへこむ。直腸を産道に作り変える責め苦。
『ふッぐ、ぅぐッ、ふ』
既に一匹が入った状態で別の一匹が割り込み、肛門のふちが裂ける。
多数の蛇に凌辱され、噛まれる恐怖に怯えた少年が、涙と汗と洟汁にまみれて這いずる。
『お前のケツん中が気に入ったみたいだな。見ろ、どんどん入ってく』
二匹目が肛門に滑り込む。二輪挿し。上の口にも蛇が出入りし、喉が膨らむ。
『んっむ゛、んぶ』
『ははっ、腹が孕んだみてえに膨らんでら。お得意様に産卵シーンをお見せできるようたんまり種付けしてもらえ』
何十匹も絡まり蠢く蛇の沼に浮き沈み、体中の穴を塞がれ溺れ死ぬ少年の痴態を、あらゆるアングルからカメラが映す。
二匹の蛇が貪欲にアナルを拡張し、互いに身を拉いで媚肉の隧道を這いずり、一際敏感な粘膜を巻き返し前立腺を責め抜く。
ずんぐりした蛇の頭が直腸の奥まりを経て、入り口が開き始めた結腸まで届く。
『ご覧ください、リトルスネイクが子宮口を突かれてます!』
『ん゛ッん゛ッ、んん゛ッ』
前立腺と精嚢を同時に裏漉しされる苦痛、および内臓を圧迫される息苦しさが被虐の快感にすりかわり、体液の濁流にまみれ、身も心も堕とされた少年が呻く。
明かりを落とした部屋の中、拷問じみて猟奇的な蛇責め映像に見入る。
その昔蟲中天が企画した、シリーズ物のポルノの一本。画面で嬲りものにされている少年は先ほどまでここにいた男の面影を留めている。
「大きくなったな」
呉を取り立てたきっかけはこのビデオ、蛇と交わる少年に興味を持ったのが最初だ。彼なら愛する娘の番いにふさわしいと見込んだ。
老大哥は不能で勃たない。代わりに手を翳し、世にも惨めで浅ましい泣き顔を慈しむ。
「お前はワシの物じゃ。それを忘れるな」


『もうすぐ決行の日ね。アンタにも手伝ってもらうから』
のちに黒後家蜘蛛と呼ばれる少女が、独房の少年を手招いて耳打ちする。
少女とはそこそこ長い付き合いだ。同期は殆ど死ぬか変態に買われていった。
居残り組の中で正気を保っている、数少ない仲間。
『地下暮らしにはうんざり。こんなとこで終わるのは嫌。アンタだってそうでしょ、外に出たいわよね』
生まれ持ったしたたかさに鋭敏な才覚を備えた少女は、その美貌と手管で若い調教師をたらしこみ、逃亡の計画を練った。
何をすればいいと尋ねる少年に、少女は妖艶に微笑んでこういった。
『時間稼ぎ』

外に出てどうすんだ。

『自分で考えなさいよ』

そこはここよりマシなのか。

『毎日鞭でぶっ叩かれて腹に詰め物されずにすむのよ、天国じゃない』

ずいぶん前に父親と交わした約束を思い出す。あの男は出世して迎えに来いと言った。

お前は?
ここ出たら何すんだ。

『大好きな人と逃げるのよ、どこまでも。騒々しい天国のはてまで』

黒後家蜘蛛が夢見る少女のように笑い、両手を広げて回る。
薔薇色の未来を思い描く姿を見ているうちに心が決まり、ブラウン管テレビの画面に目を移す。

じゃあ俺は、アイツに会いに行く。

テレビには大好きなコメディアンが映っていた。軽快なトークを披露し、ステージで喝采を浴びている。
『それって素敵!第一のファンを名乗って握手とサインゲットしてきなさい。リスペクトこめて頭をピンクに染めてったら感動するわよ、きっと』
てっきり馬鹿にされるかと身構えたが、少女は朗らかに同意し、少年の野望を後押ししてくれた。

少年と少女、それにリカルドは作戦を打ち合わせた。ネックになるのは調教師の元締めの動向。
リカルドと少女が鍵を盗み、地上に繋がる扉を開けるまで、コイツを引き付けておくのが少年の役目。
ところが、予定が狂った。
『餌の時間だぞ』
鉄扉の軋みに振り返ると、夕食を乗せたトレイを持ち、調教師が立っていた。
テレビの前から離れた少年がトレイを受け取るのを確認後、さっさと踵を返そうとする。

少年は戸惑った。

調教師があっさり帰ることは極めてまれだ。普段は少年の食事が終わるのを見届け、あるいはそれすら待ちきれず、部屋に居座って調教の続きを再開するのに。

他に用があるのか。
見たいテレビでもあるのか。

咄嗟に行く手に回り込み、扉を背にして塞ぐ。
『邪魔だ。どけ』
調教師が顎をしゃくる。少年は焦りに支配され知恵を絞る。

こんなはずじゃなかった。
今行かせたら全部おじゃんだ。

肩を押してどかそうとする調教師と相対し、シャツの裾を掴んで一気に脱ぐ。
『行かないでご主人様』
虚を衝かれた調教師に接近し、自ら跪いてズボンのジッパーを下ろす。
『俺と遊んで』
自分を殺し心を殺し精一杯媚びる。萎えた陰茎を素手で持ち、撫で擦って口に導く。
『悪いな、聞きてえラジオがあるんだ。お楽しみは明日に持ち越しって事で』
調教師が鼻で嗤い、愛玩動物にするように髪をかき回す。少年は諦めず、片手に持ったペニスをしゃぶる傍ら、残りの手でズボンを下ろして自慰をはじめる。
『ふ、うっ』

ここから逃げるためならなんだってやる。
どんなに惨めで恥ずかしいまねだってする。

娑婆に会いたい人がいる。

『アンタのこと考えたら熱いの止まんなくて、独りでしてもじんじんしてっ、も、むり』

切ない声で喘ぎ、カウパーが滲むペニスをしごきたてる。

『お願いします、ご奉仕させてください。体中の孔って孔が疼いて、おかしくなっちまいそうなんだ』

無理矢理言わされる以外で求めたのは初めてだ。
教えられた通りにペニスをねぶり、上顎のぬめりをまぶして育て、残りの手で糸引くまでカウパーを捏ね回す。

『ッ、は、ガマンできねえ』
『……淫乱め。前は手遅れな位べとべと、総排泄腔も開ききってんじゃねえか』
『早く来て』

裾を咥えて捲り上げ、黒ずんだ乳首を赤ん坊さながら吸い立てる。調教師がくすぐったげに笑い、少年の尻を叩いて跨らせる。

騎乗位はさんざん仕込まれた。
だから耐えられる。

『はッ、ぁあ』

男の胴に馬乗り、指でアナルを寛げ、ゆっくりじらすように尻を沈めていく。
収縮する肉襞でペニスを食い締め跳ね回り、発情した蛇めいて裸身をくねらす。

『俺はアンタの物だよ。いじめないでやさしくしてよ、うんと気持ちよくすっからさ』

痴態を上回る媚態で劣情をそそり、小刻みに絶頂しながらさらなる高みに昇っていく。
少年の本性は蛇だ。溺れているふりで溺れさせ、絡み付いて深みに堕とす。

突き上げに夢中な男は、鉄扉の隙間から忍び込んだ少女に気付かない。
『あッ、ふッ、ぁあッ』
感じているふりをして派手に喘ぎ、少女に目配せする。少女が気配を消して調教師の上方に回り込み、何かを無造作に放る。
リボルバー。
男と繋がったまま咄嗟に手を出し、宙に旋回する銃を掴んで脳天に擬す。
『てめえ、』
上体を起こすのを許さずトリガーを引く。
凄まじい反動。
緊縛に耐え抜いた柔軟な関節と痛みに慣らされた体が、生き地獄で一日一日積み上げた経験と悪辣な知恵が、発砲の衝撃を上手く逃がす。
至近距離から放たれた弾丸が顎を砕き、白い骨のかけらと血をぶちまける。
男が暴れたせいで狙いがずれた。
思わず舌打ちし構え直すも、あっけなく振り落とされた。
『ふひゃへひゃはっへ!』
間欠泉の如く血がしぶく顎を押さえ立ち上がる男、その肩と膝に続けざま弾丸を撃ち込む。

『リトルスネイクじゃねえ、ラトルスネイクだ』

たまらず跪く男を見下ろし、銃床でしたたか殴り付け額をかち割る。
四発目はあらん限りの憎しみと殺意を込めて丸出しの股間に。
去勢の激痛に白目を剥いて吠え猛り、余力を振り絞って捨て身の突撃をかます。
五発目、狙いを外す。まずい。
『あがっ!』
眼前まで迫った調教師が大きく仰け反り、白濁した泡をふく。首に巻き付いているのは少年を躾けるのに用いた乗馬鞭。
『往生際が悪い』
素早く背後をとった少女が、黒い鞭を両手に張り渡し、それを調教師の首に掛けて絞め殺す。
眼球の毛細血管が破裂し、窒息で赤黒くむくんだ顔から舌がたれる。
『あっ、ぐ』
少年は銃の撃鉄をカチカチ上げ下げし、放心状態で蹲っていた。
『立てる?』
あれだけ自分を苦しめた男が死んだ。あっけなく。
こんなに簡単だとは思わなかった。
『なんて顔してんの、体を張ったんだから誇りなさい』
とどめをさしたのは少女だ。少年ではない。
間抜けな死に顔にやるせなさを感じ、死体を蹴り付ける。何度も何度も気が済むまで。
『ははっ、は』
下に何もはかず委縮しきった股間をさらしたまま、涙を拭くのも忘れ泣き笑いし、足が痛くなるまで死体を蹴りまくる。
『遊んでないでとっとと行くわよ』
先に立った少女がじれて促す。調教師の頭を踏み付け、唾を吐き、空っぽの顔を上げる。
『リカが待ってるの、急いで』
『……娑婆に出たらホントにいいことあんのかな』
体の奥には違和感が残っていた。
魂の根っこをこそぎ取られたような、何かがどうしようもなく損なわれてしまった喪失感。
のろくさズボンを引き上げる少年を一瞥、ともに地獄を生き抜いた少女が蓮っ葉に肩を竦める。
『アンタ次第でしょ、それは』


タイヤが石を噛んで跳ねる。
後部シートの呉が目を開けるや、老大哥があてがった代理の運転手が謝罪する。
「すいません。起こしてしまいましたか」
「今どのへん?」
「もうすぐご自宅に着きます。そうですね、十分位で」
両手の指を組んで大きく伸びをする。
「もういいや。歩いて帰る」
「え?」
慌てる運転手を制してドアを蹴り開け、快楽天にほど近い路上に降り立ち、首を左右に倒してほぐす。
「ちょっと待ってください、哥哥を一人で帰したのが老大哥の耳に入ったらお叱りをうけます」
「黙っときゃばれねえって。長砲抜け殻は部屋に運んどけ」
車の中で着替えは済ませていた。元の柄シャツとレザーパンツを身に付け、運転手を置き去りに路地に入る。
「付いてきたら殺す」
振り向きもせず言い放てば、足音が諦めて引き返していく。
どれ位歩いたろうか、道端に男が行き倒れていた。まだ若い。構わず素通りしかけ、足を止める。

青年は血だらけだった。
服はズタズタに切り裂かれ、あちこち怪我をしている。野暮ったい黒縁眼鏡はずり落ち、意外と長い焦げ茶の睫毛が縁取る瞼は青ざめていた。

「生きてんの?死んでんの?」
爪先で小突けど反応はない。束の間思案し、煙草に火を点け青年の手を裏返す。
「ッ゛……!?」
焼きを入れられたショックで目覚めた青年が悶絶する間も、丁寧に煙草をねじこむ。
「生きてたのか。シカトすんな」
呉を突き飛ばし手をひったくる。息を吹きかけ火傷をさます様は、なかなか滑稽で笑えた。
「乞食にしちゃ若え」
「……捨てんの?」
「あん?」
恨みがましいジト目で見詰めるのは、呉が指に挟んだ煙草。
「くれ。もったいねえ」
ちゃっかり煙草をせびる青年をまじまじ見下ろす。
呉の風体はカタギとは縁遠い。
付け加えるなら、初対面で煙草を押し付けてきた人間にお零れをねだるあたり相当図太い。
物欲しげな相手の前でもったいぶって煙草をふかす。
錆びたダクトが這い回る荒廃しきった路地裏に、細い煙が立ちのぼる。
「ん」
辛抱強く待てをした青年の唇に、半分ほど灰にしたご褒美を突っ込む。
「有難てえ」
げんきんに顔を輝かせて吸いさしをふかし、盛大にむせる。
「キッツ……」
「そうか?普通だろ」
「銘柄は?」
胸ポケットに突っ込んだ箱を覗かせた所、大袈裟な顰めっ面を返された。
「モルネスじゃねえのか」
「女じゃあるめえしメンソールなんざ喫わねェよ」
当てが外れたものの煙草は捨てず、ちびちび喫っては顔を歪める。呉は新しい煙草を咥えて訊く。
「なんでこんな所に倒れてんだ」
「……腹が減って」
「その怪我は?誰にやられた」
「言いたくねェ」
「追われてんの」
「関係ねえ」
「反抗期のガキか」
面白ェ奴。腐れ縁の神父以外とどうでもいい軽口を叩き合うのは久しぶりだ。
茶髪の青年は死ぬほどまずそうに煙草をふかす。
「……だりー」
「何が」
「なんもかんも全部」
「でっかくでたな」
喉の奥で笑って一瞥を投げれば、不機嫌に黙り込んだ青年が口を開く。
「……組織を裏切って逃げてきた」
「ギャングなのか」
「捕まりゃ嬲り殺し」
「死にたくねえのか」
一度頷いてから虚ろな目で宙を見据え、気だるげに煙を吐く。
「でも、生きていたかねえ」
呉の心中を代弁するようにひとりごち、孤独の翳りが張り付いた顔を仰向ける。
「質問いい?」
怪我と空腹で朦朧としてるのか、目の焦点が合ってない。先ほどの会話は限りなく譫言に近い。
「運転できるか」
「ああ……」
「安全運転でイケるか」
「ビビリなんで」
「んじゃ問題ねえ。事務所の下は定食屋だ、賄い出すぜ」
「マジ?」
興味を示す青年に肩を貸し、腰を支えて引っ張り上げる。
「名前は」
ラウ
「下は」
「言いたくねえ」
「奇遇だな。俺も」
「アンタ何?」
「マフィア。蟲中天て知ってるか」
「人殺しの手伝いはやりたくねえ」
「パシリ兼運転手なら」
「……応相談」
勝手にずり落ちてく無気力加減に舌打ち、乱暴に蹴り起こす。
「役に立て劉。そーすりゃ可愛がってやる」
路地が次第に遠ざかり、凭れ合った影が長く尾を曳く。劉は呉と歩みを揃え、言った。
「アンタ、名前は」
ウー。通り名はラトルスネイク」
「頭は地毛?」
「当ててみ」
劉の脚が踊るように縺れて前のめり、釣られてたたらを踏む。一度は持ち直し、二度目は耐えきれずゴミ山に突っ込む。
転倒の拍子に煙草の火が消えた。
「畜生」
だしぬけに視界が翳る。隣に寝ていたはずの劉が起き上がり、吸いさしの先端を近付け、小さく燻る熾火を移す。下剋上の狼煙を上げるシガレットキス。
面食らって前を向けば、今しがた気まぐれに拾った青年……劉が、そばかすの散った童顔を気恥ずかしげに背け、ふてくされたように呟く。
「役に立ちましたよね、俺」
「……やるじゃん」

新たな腐れ縁のはじまり。

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