タンブルウィード

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二十七話

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東の空の彼方が朝日の恩寵に染まり始めている。
礼拝堂にはシスターたちが集っていた。皆が長椅子に掛け、うなだれた顔には一様に憔悴の色が濃い。シスターゼシカを除く面々は炊き出しで疲れていたというのに、誰も寝てはいなかった。そうするのが自らの務めだと信じてやまなかった。
シスターコーデリアが落ち着きなくロザリオの数珠を手繰り、シスターエリザはそわそわと徘徊する。シスターロザリーは白磁の聖母子像の前に額突いて微動せず、シスターモニカは無辜の犠牲者改め気高き生存者であるシスターゼシカに膝枕をしている。そのシスターゼシカとてまどろんでいるだけで、誰も寝てはいない。神父と子供たち、そしてあの青年の帰還を自分の目で確認するまでは眠れるはずもない。
「主よ、我々をお見守りください」
時間の経過と共に募り行く諦観と絶望に耐えかねたか、一人が囁く。水面に一滴しずくを落とすように、信仰にまで昇華された信念の祈りが明け方の静寂に染み渡りゆく。

「主よ、我々をお導きください」
また一人後に続く。
「主よ」
また一人。
「主よ」
また一人。
「主よ」
そして全員が。

アルトでまたはソプラノで次々と唱和し、全員の無事な帰還を狂おしく願い、いと高き主にお縋りする。
組まれた手を高く掲げ、こうべを低く垂れて。ステンドグラスで御子の遍歴と受難を描く礼拝堂を、殷々と尼僧たちの声が満たしていく。
「どうか神父様をお救いください」
シスターエリザが組んだ手を額にあて、祈る。
「なにとぞ子供たちをお救いください」
シスターアデリナが組んだ手を床に伏せ、祈る。
日頃いがみあっているシスターも日頃から仲睦まじいシスターもそれぞれがひたむきに、ただ祈ることしかできない無力な女たちが全力で悪あがき、祈りを束ねて天に届ける。
シスターゼシカの薄い瞼が震え、色を失った唇がか細い吐息を紡ぐ。
「あの子たちを……ブラザーピジョンをお助けください」
彼女は心から悔い改める。あの心優しい青年に慄いたこと、さしのべられた手を拒んだことを。彼は悪くないと理性は知っていた、なのに本能が逆らった。
神父が尼僧や孤児との生活を許した弟子が疚しい人間であるはずない、邪まな心根の持ち主であるはずないのに信じきれなかった。彼をけだものの同類と見なした自分の弱さが、シスターゼシカは恥ずかしい。
「ブラザーピジョンは私が重たい物を運んでると必ず代わってくれたんです。洗濯物も進んで取り込んでくれました」
あるいは、母か姉のように慕ってくれていたのかもしれない。彼はまだ17歳、青年にも届かない少年だ。神父が微笑ましく愛でるのがよくわかる、純粋な心の持ち主だ。
ロザリオを絡ませた手を握り締め、シスターゼシカが懇願する。
「どうか神様、皆を無事に帰してください」
それはまるで献身を描いた宗教画の如く、巡礼ピルグリムの如く厳かな雰囲気に包まれて。
ステンドグラスから注ぐ光が徐々に澄み渡り、世界をすみずみまで掃き清めていく。
東の空から差し掛けられた梯子が長い夜の終わりを告げると同時に、礼拝堂の扉が蹴り開けられた。
尼僧が一斉に振り向き、逆光の眩しさに目を眇める。開け放たれた扉の向こうには右半身が鱗に覆われた男が仁王立ちしていた。両手は何かで塞がっている。
「こーゆー時なんてんだっけ?えーと……」
唐突に指を弾き、二股の舌を踊らせがてらあくどく嗤ってみせる。
「『求めよ、さらば与えられんギブアンドテイク』てか」
次の瞬間、せいぜい男の胸あたりまでしかない人影が現れた。
すり抜けた数珠を巻き上げもせず固まるシスターコーデリア、信じられない面持ちで腰を浮かすシスターエリザ、聖母から視線を切って振り返るシスターロザリー、両手で口元を覆ったシスターモニカ。逆光を背負った小さな影の群れが、号泣しながら駆け込んでくる。子供たちだ。
「えーーーーんシスターあああああ、怖かったよおおおおおお!」
天使ではない証拠に些か行儀が悪すぎる。
チェシャが大粒の涙を盛り上げた目でまっしぐらに走り寄り、シスターアデリナがそれを受け止め、手挟んで潰した顔を覗き込む。
「チェシャ、よく無事で!ああみんな顔を見せて頂戴、どこも痛くない?」
尼僧服の裾をからげてすっとんできたシスターエリザに、ぐずりながらチェシャが懺悔する。
「ごめんなさいシスターエリザ、あたしたちみんなが留守の間にこっそり台所のタルト盗み食いしようとしたの、卑しくて悪い子だからばちがあたっちゃったのよ」
「アレはわたくしたちのお楽しみで、お夕飯が入らなくなるってあれほど……」
「お尻ぺんぺんでもご飯お預けでもガマンする、だからまたここにおいて」
「タルトなんていくらでも焼いてあげますよ」
シスターエリザとアデリナに抱きしめられたチェシャが洟を啜り、シスターモニカが忙しなく立ち回り指示を飛ばす。
「怪我してる子はこちらへきなさい、お医者さんを呼んだから!」
「シスターゼシカは大丈夫?俺……ごめん、なんもできなくて……アイツらがシスターにひどいことすんの、ただ見てただけで」
「いいのよハリー」
「よ、よくねっ、ひぐっ」
漸く再会できた安堵と悔しさがせめぎあい、クシャクシャの顔でしゃくりあげるハリーをシスターゼシカがかき抱く。
「おかえりなさいを言わせてもらえただけで救われたの」
子供たちは全員いる、一人も欠けてない。
軽い脱水症状を起こしている子こそいたが、それ以外はほぼ擦り傷だけで覚悟していたほどひどくない。
礼拝堂から響く物音と歓声で仲間の帰還を知った残留組が合流し、ヴィクに溌剌とした笑顔が生まれる。
「チェシャ!ハリー!みんな!」
「無事かヴィク!」
「あたしたちならぴんぴんしてるわよ、連中の顔面で爪研ぎできなかったのが心残りだけどね」
「ごめん僕だけ……こ、怖くて。ハリーたちが連れてかれちゃったのに立ちんぼで、ただ見てるだけの弱虫で」
「あとでちゃんと先生に教えてくれたじゃん」
「ハリーが袋のネズミでチューチュー言ってる間、先生たちにアイツらの事しっかり伝えてくれたんでしょ?あたしたちが帰ってこれた何十分の一かはヴィクのおかげよ、胸を張りなさい」
ふんぞり返るチェシャの横で鼻の下をこするハリー、感極まったヴィクが体当たりをかますように抱き付く。勢い余って押し倒し、泣き笑いしていたヴィクが跳ね起きる。
「シーハンは!?」
「あそこ。さっきまでシスターコーデリアのパンツみてーなピンク髪のおっさんが抱っこしてたんだけど、いなくなっちまったみてえ」
「なんであんたがシスターコーデリアのパンツの色知ってんの、さては下着泥棒したでしょ!?」
チェシャとハリーの痴話喧嘩をよそに外に出れば、扉に寄りかかってシーハンが眠っていた。朝日が冴え冴えと照らす顔。薄緑の鱗が美しく光っている。
おずおずと歩み寄り、正面から相対し、好きな子が目を開ける奇跡の一瞬を生唾呑んで待ち構える。
「妈妈……」
寝言で母を呼んで眠りから覚めたシーハンの目が、ヴィクの顔の中心で焦点を結ぶ。
「おかえりなさい」
「ヴィク……」
よく見知った友達に微笑まれ、シーハンもまた微笑む。
「守れなくてごめん」
「待っててくれたから許してあげる」
一人一人子供を抱きしめ言祝ぐシスターたちは感動の対面に興ざめし、礼拝堂から離れていく男に気付きもしない。
「帰るのか」
轍に抉り返された芝生を突っ切り、正門に赴くラトルスネイクを労ったのは、教会の外で見張りをしていたキマイライーターだ。伝説の賞金稼ぎに問われ、天邪鬼は肩を竦める。
「ふやけたノリは嫌いでね。場違ェなガラガラ蛇はとっとと退散するにかぎる」
「あれは君が運転してきたのか?車体にバンビーナと書いてあるが」
キマイライーターが杖でさす先には凹凸がすごいピンクのバスが泊まっている。
「最近ノシてるミルクタンクヘブンって知ってっか、あそこに対抗して貧乳専門風俗はじめたんだ。おいてる嬢は一応18以上だから安心しとけ。あのバスは出張営業用に買ったんだ、たまにアップタウンのどんちゃん騒ぎに呼ばれっから。金持ちは仮性ロリコンが多いんだよ」
「マフィアも接待せねば生き残れんとは難儀な時代だな」
「お上と裏は昔からずぶずぶに癒着してんだろ」
「風俗店のバスに子供たちを乗せて送り届けるのは感心せんが、よくやったと褒めておこうか。公私混同を避けた理由は?」 
「腐れ縁の頼まれごとにテメェの舎弟引っ張りだすなァだせえだろ?バスの運転くらい楽勝よ」
「ボコボコじゃが?」
「飛ばしてきたんで」
「バスを操縦した経験は」
「ねェけど?てかハンドル握んの自体久しぶりだわ、偉くなってからパシリにやらせてたし。ダメだな人任せにすると勘が鈍って」
「部下の苦労がしのばれるね。いずれ過労で倒れるんじゃないか」
「アンタも乗ってくかい、ヤギの一声でンめ~~~こと宣伝効果抜群のキマイライーターがお得意様になってくれりゃあ店に箔が付く」
「妻一筋なのでね」
「竿が萎れた言い訳じゃねェの」
「破廉恥な広告塔で凱旋したくないというのが本音じゃよ」
ラトルスネイクはどこまでもさばさばしている、表面上は娘への未練などまるで感じさせない。サングラスの奥の瞳の色は巧妙に隠されて、キマイライーターにさえ本心を見抜かせない。ラトルスネイクがおどけた素振りで片手を振り、我が道を行く歩みを再開する。
「気が変わったら来い。サービスするぜ」
娘に別れも告げず立ち去る背中を、キマイライーターが苦笑で見送る。
礼拝堂から伝わる喜びの余韻が夜明けの空気を華やがせる中、門の向こうに最後の影が現れた。ラトルスネイクが立ち止まり目を細め、キマイライーターが眉をひそめる。
朝靄のベールを裂いて歩んできたのは、ペトロクロスをカソックの胸元にさげた神父。裸にモッズコートだけを羽織ったピジョンを背負い、沈痛な面差しを俯けている。
「神父、彼は?」
「戦闘後に気を失いました。高熱を出しています」
「それはいけない、早くベッドに寝かせないと。シスターたちが呼んだ医者に診てもらいたまえ」
「長時間の緊張の糸が切れたのでしょうね。打撲の怪我もひどい……感染症が心配です」
実際はもっと懸念すべき事柄があったが、それにこの場で言及するほどキマイライーターは無粋ではない。
「中は掻き出してやったの?ちゃんと後始末しとかねーと腹くだすぜ」
ラトルスネイクは例外だ。神父が嘆かわしげにため息を吐く。
「あなたって人は本当に」
「上出来な元相棒だろ」
「上首尾に運んだのは認めます。どいてください」
「もっと労ったって地獄にゃ落ちねーと思うけどな」
「こう見えて意外と重いんですよ、彼。早く奥で休ませたいです」
ピジョンをおぶった神父が口の減らない自称元相棒をどかし、礼拝堂へと向かっていく。ラトルスネイクは皮肉っぽく口の片端を歪め、釘をさす。
「後で取り立てにくるから忘れんじゃねーぞ」
「せめて治療費は持たせてほしい。今回の失態は後援者のワシに責任の一端がある」
「有難いです」
厚意からの申し出を慎み深く受け入れ、巨大な扉の先の身廊に踏み入る。
「ただ今帰りました」
「神父様!」
「ああ、ご無事だったのですね!よかった……我らがいと高き主は空の上からちゃんと見てらっしゃいますのね」
「ブラザーピジョンはどうなさったのです、大丈夫でしょうか」
「大変、すごい熱!怪我のせいかしら……」
「なんて痛ましい」
「むごいわ」
シスターたちが一斉に駆け寄って二人を取り巻き、ピジョンの額に手をあてては引っ込め、甲斐甲斐しく介抱にあたる。
平凡な青年の身にどんな災難が降りかかったか、勘が鋭い尼僧の一部は気付いていたが敢えて口には出さない。子供たちも不安げに寄って来て、ぞろぞろと部屋まで付いてくる。特にヴィクは青ざめて、ピジョンにしきりと呼びかけていた。
「ピジョンさん、チェシャたち許してくれたよ。シーハンとまた会えたよ。ピジョンさんのおかげだよ」
聞こえてるかどうかは定かではない。ピジョンは真っ赤な顔で息を荒げている。体温の上昇が大量の発汗を促し、モッズコートが湿っていた。
その後シスターたちは手分けしてピジョンの看護にあたった。なかんずく神父は付きっ切りで見守り、ぬるくなったタオルを交換する。

ピジョンは数日間意識不明だ。
高熱を出した状態で昏々と眠り続け時折酷くうなされている。往診にきた医者の見立てによると、心因性のショックが関係しているそうだ。
「その、お医者様。ブラザーピジョンは目覚めるのでしょうか?」
「彼次第でしょうね。幸い怪我は大したことありませんが……まれによくあるんですよ、医学用語じゃ解離性健忘っていうんですが。体と心の両方に自分じゃ受け止めきれない程の打撃を受けたんでしょうね。破傷風の予防注射はぬかりなく打っておきましたんでご安心を、アレは厄介ですから」
ピジョンはずっと眠っている。時折譫言めいた寝言を口走り、あどけなさを残す顔を苦しげに歪める。枕元に立てかけたスナイパーライフルではドリームキャッチャーが揺れていた。
賞金稼ぎは総じて頑丈だ、見た目は華奢でも打たれ強い。ピジョンも例にもれず、体は既に治っている。覚醒を頑なに拒むのは心の方に問題があるからに違いない。あるいは初の本格的な戦闘に凌辱の精神的外傷がなったせいか……。
「ピジョンさんにはまだ会えないの?」
「ごめんなさいね、ご負担をかけてしまうといけないから」
「そっか……」
「落ち込まないで。あなた達の優しい気持ちはきちんと伝わってますよ」
今日も今日とてこりずに押しかけるヴィクとチェシャとハリーとシーハンを、シスターモニカがやんわり宥める。シーハンがおずおずと前に出て、摘みたての蛇いちごを渡す。
「お見舞いあげてくれる?」
「もちろん。元気になったらいただきますね」
「あたしもマグノリアのお花とってきたの、飾ってちょうだい」
チェシャとシーハンから差し入れを受け取ったシスターコーデリア。子供たちが去るのと入れ違いにドアが開き、憔悴の色が著しい神父が出てきた。
「綺麗ですね」
「本当に……神父様、わたくしに何かできることは?」
「彼と二人にさせてください」
子供たちのプレゼントを抱えて部屋に戻り、静かにドアを閉ざす。
「今日もたくさんお見舞いが届きましたよ。実に瑞々しくおいしそうな蛇いちごですね、試しに一粒味見してみましょうか。ああ、口の中で甘酸っぱい果汁が弾けて最高です。こちらはマグノリアの花ですね、チェシャは木登りが得意ですから直接とってきたのでしょうか?嗅いでごらんなさい、とてもいい香りです」
ピジョンは答えない。相変わらず眠り続けている。時折低く呻き、夜には凄まじい悲鳴を上げることもある。寝言に登場する頻度が高い人物は母と弟。「先生」「ヴィク」「シスター」とも口にする。

謝るように。
償うように。

「どんな夢を見てるんでしょうね」

悪夢は終わったのに、彼はまだ目覚めない。

ここ数日で神父は随分と痩せた。顔色も優れない。何日も徹夜でピジョンを看病しているせいだ。彼のモッズコートはシスターたちの手で洗われ、庭のロープに干されている。ドッグタグは胸元にさがったまま、心臓の上に位置を占める。
詫びて済まされることではない、自分の不覚が今回の惨事を招いた。組んだ両手に額をおしあて、神父が悔やむ。

「私は師として未熟でした。弟子などとるべきではなかった。思い上がっていました」

どんなにか救いを祈りたくても、ほかならぬ神父自身が神の実在を信じきれずにいる。

「巻き込んでしまってすいません。君は無垢でいられるはずでした」

組んだ手で額を支え、独白する。しめやかな衣擦れが耳朶をくすぐり、反射的に目を上げる。
「……うさん……」
初めてその名を呼ぶのを聞いた。
弟子がまたうなされていた。全身にびっしょり汗をかき、キツく目を瞑っている。以前聞いたところによれば、彼の父親は生まれる前に消えたはずだが……

「とうさん、たすけて」

物心付く前に自分と母を捨てた男に、舌足らずに縋る。
そこで呼ぶのは母ではないかと疑問を呈す神父の前で、いとけない子供に戻ってしまった青年がくり返す。

「かあさんをたすけて」

ああ、本当にこの子はどこまで。

彼は自分の救済を求めたのではない、愛する母の救済を希った。
全く記憶にないはずの父親に自分たちを捨てたクズに、それでも母が語り聞かせた面影を頼って、強くかっこいい絶対的な存在への憧れを託して、今まさに受難に見舞われている最愛の人を助けろと。

どんな夢を見ているかはわからない。
想像もしたくない。
ただ確実に言えるのは過去の記憶の復元かもしれない夢の中でピジョンが苦しみ、父に助けを求めていることだけだ。

ならば。

「私が父さんですよ」
偽りを口にし、火照った頬に片手を添える。

「ここにいます」

今だけ仮の父親を演じきり、息子ほど年の離れた青年の哀しみを癒す。

「全部忘れておしまいなさい。酷い事はなかったんです。私は何も見てなかった」

君は汚されてなどいない。

「君は勇敢に戦い誘拐された子供たちを助けだした、犠牲者は一人も出ていません。もちろん君も犠牲者ではない、誇り高き生存者です。亡霊と暗闇は逃亡しました。もしまた現れても大丈夫、私が払います。父として、師として、あなたを守ります」

壊されてなどいない。

「あなたは無謀にも単身モーテルに突入し囚われた。暗闇と亡霊に袋叩きにされた。しかし心は折れず、出遅れた私の登場を待って逆襲を果たしました。それが事実です」

現実を欺け。
記憶を偽れ。

このまま何年何十年目覚めなくても世話を続ける覚悟だった、怒り狂った弟に殴り殺されようとかまわなかった。

もし課された十字架の重さにこの子の心が砕け散るなら喜んで偽証の罪を犯そう、悪魔にだろうと神にだろうと魂を売ろう。

「狙撃手ピジョン・バードはナイトアウルと組んでレオン・ゴーストならびにレオン・ダークネスを追撃、子どもたちを救出。現在は負傷がもとで高熱を発しています。目を開ければ嫌な事は全て忘れています、酷い事は起きなかったんです」

君を彼女の二の舞にはさせない。
辺境の街とともに焼き滅ぼされた初恋の少女を思い出し、力強く説く。
胸の裡で芽吹いた父性が狂おしい愛情を根付かせて、嘗て愛した女の面影を青年に見る。
聖書の朗読と礼拝で鍛え上げた声は不可思議な抑揚を持ち、熱で朦朧とするピジョンの脳裏に染み渡っていく。
神父は自分の声が素晴らしいことを知っている。洗脳や催眠に向いていることも。
無意識でさえ人を虜にしてしまうのだから、怪我と熱と心因性のショックで昏睡状態の人間の耳に、故意に仕組んで囁いたら……

「あなたを誇りに思います」

引鉄を引く。
撃鉄が落ちる。

絞り出された言葉を待って瞼が上がり、穏やかに凪いだ赤錆の瞳が覗く。

「……喉、渇きました」
風が吹き込む窓の外では子どもたちが走り回っていた。神父は一瞬目を見張り、それから愛おしげに表情を崩し、蛇いちごを一粒摘まむ。
首の後ろに手を入れて支え、ゆっくり抱き起こしたピジョンの口元に蛇いちごをあてがえば、乾いた唇が指先をはむ。
「おいしいですか」
「はい」
「シーハンがとってきてくれたんですよ」
まどろむ目が不思議そうに神父を見上げ、枕元のスナイパーライフルとマグノリアを確認後再び返ってくる。
しっとり汗ばんだ前髪をかきあげ、なめらかな額に接吻して微笑む。
「おかえりなさいピジョン・バード」

数日ぶりに目覚めたピジョンは、あの夜の記憶の一部を完全に忘却していた。

教会に穏やかな日常が戻った。シスターエリザ特製のパン粥を啜って回復したピジョンは仕上げの修行に復帰し、居候から半年を経て巣立ちを許可される。

「十発中十中、お見事ですね。風の強さと向きを完璧に読んでその都度調整し、段々に並べた的を全て撃ち抜くとは申し分ない腕前です」

断罪区域で行われたプライベートレッスン最終日、課題をクリアした弟子に師が拍手を捧げる。
ピジョンから離れた場所にはサイズや形状がばらばらの酒瓶が、狡猾な段差をもうけられた机に並べられていた。
ただ一列に並べた瓶を撃ち落とすだけなら簡単だが、こちらはさらに高度な技術と反射神経を要求される。
それを完璧にこなしたピジョンはスナイパーライフルを下げ、モッズコートのポケットから一粒の種をだす。
「何をなさってるんですか」
「自己満足の置き土産です」
ピジョンは今日、ここを去る。その前にどうしてもしておきたいことがあった。
許されざる罪人が葬られ草一本も生えない断罪区域に跪き、自らの手を汚し種を埋める。
「墓標は建てられないけど、マグノリアならいいかと思って。花は死者の慰めになりますし、たぶん」
「なるほど」
「怒らないんですか?」
「何故?そもそも私が彼らをここに埋めた訳じゃないんですから、施しを咎めるのもおかしいでしょうに」
土を軽く叩いて固めたあと、師匠と肩を並べて教会に帰る。門前にはシスターと子どもたちが集合していた。空はよく晴れていて巣立ちにはいい日だった。
「お名残りおしいですわブラザーピジョン、本当に行ってしまいますの?」
「ずっといてくれたっていいんですのよ、神父様の跡を継いで司祭になれば良いじゃないですか」
「お誘いは嬉しいけどせっかちな弟を待たせてるんです、寂しがってるから早く行ってやんないと。シスターたちには大変お世話になりました、また遊びにくるんで元気でいてください」
「きちんとご飯食べなきゃダメですよ」
「貴重な男手の出戻りは歓迎しますことよ」
シスターアデリナのハグを皮切りにシスターたちが殺到する。シスターアデリナがどさくさ紛れに頬にキスをし、シスターモニカが両手を握り締めて泣き崩れ、シスターロザリーが照れ臭そうに微笑む。子どもたちも我先にと纏い付き、コートの裾を引っ張って回りだす。
「もういっちゃうの~せっかく楽しくなってきたのに~」
「かくれんぼの鬼してくれるって約束したじゃん!」
「ごめんよ、また今度ね。シーハンも色々ありがと、持ってきてくれた蛇いちごおいしかったよ。神父さんやみんなと仲良くね」
「うん……またね」
「次にピジョンさんが来る時までにでっかくなってるから、その時は稽古付けてね」
「俺は師匠ってがらじゃないよ、先生に教えてもらいなさい」
「生憎弟子は一人で手一杯ですので。失礼、『元』でしたか」
「意地悪しないでください、ひょっとしてやきもちですか?」
「どちらにでしょうか」
「そりゃ俺に子どもをとられて妬いてるんじゃないかって……ああくそ、冗談が上手くないですね反省します」
「素直な子は好きですよ」
神父の嫌味に苦笑いで頭をかき、おもむろに真剣な顔に豹変する。
「その後ゴーストとダークネスの行方はわかりましたか」
「いいえ。潜伏しているなら協力者を頼った可能性が高いでしょうね、あれからボトムで孤児院襲撃や児童誘拐が起きてないのは幸いですが」
「キマイライーターが動いてくれたんですよね」
「あの方は一流の賞金稼ぎに顔が利きますから。選りすぐりの手練れを張り込ませてくださったので、ボトムの犯罪率も低下しているそうですよ。重い腰を上げなかった新聞社にも例の兄弟の悪行をたれこんだので、しばらく大人しくしてるしかないんじゃないでしょうか。アンデッドエンドを出たなら別ですけど」
「すごいな……とてもまねできないや」
事後の対策は万全だ。たまさか街ですれ違うのを妄想しただけで動悸が早まるが、子どもたちの安全が確保できたのは喜ばしい。
あの夜の詳細を思い出そうと必ず頭痛するが、暴行の後遺症ではないように願うばかりだ。
目は真剣なまま、口元だけで弧を描いた神父が断言する。
「次に会ったら確実に仕留めます」
最後にゼシカのもとにやってくる。
「お世話になりました。お元気で」
コートで拭いた手を遠慮がちにさしだし……やっぱりやめて引っ込める。しかしゼシカは逃げを許さず、ピジョンの手を両手で捕まえて言い放った。
「あの時は酷いことを言ってすいません」
「なんでシスターが謝るんですか、あなたはそんなことしなくていいのに」
「許された弱さに甘えて他者を傷付けるのは傲慢です。ただ泣き寝入りしていた私の分まで、ブラザーピジョンは役目をはたしてくださいました。今後も高い志を忘れず羽ばたいて、大勢の方を救ってください」
ピジョンを激励するシスターゼシカの顔から、男性への怯えや嫌悪は拭い去られていた。
あるいは傷を悟らせまいと気丈に振る舞っているだけだとしても、ピジョンを真っ直ぐ見据える目は紛れもない感謝と信頼を湛えている。
ピジョンは報われた。
涙がこみ上げた目を瞬き、まだ足りず拳でぐいと拭き、皆に向かって別れの挨拶をする。
「じゃあいってきます!」
シスターたちがハンカチを、子どもたちが手を振って送り出す。胸ではピジョンが走るスピードに合わせ、一人前と認められた証の十字架が跳ねていた。
もうすぐスワローに会える。まずなんて声をかけようか?ごめん?すまない?いやいや俺が謝らなきゃならないのは理不尽だ、絶対あっちが悪い。
だけど稼ぎ名間違えたのは言い訳できないし、ここは兄さんが大人になって頭を下げてやるべきだろうか?
前だけ見て走っているピジョンはラトルスネイクを助手席に乗せた車とすれ違ったのも、その車を運転する不健康な顔色の男にも気付かない。
弟子が視界から消え去るまで門前に立ち尽くしていた神父が、祝福の光あふれる青空を仰いで呟く。
「主のご加護を」
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