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四話
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神父の私室は質素な内装で統一されている。
木製の本棚には神学や哲学に関する蔵書が詰めこまれ、飴色の光沢帯びたウォルナットの机の上は几帳面に整頓が行き届いている。
清貧たっとぶ実直な人柄が滲み出る居室には目を引く家具調度の類もない。
唯一の華やぎといえば、壁に掛けられた額縁の中の集合写真だろうか。
教会の前で撮られたとおぼしき写真には神父と修道女、および孤児院で暮らす子どもたちが写っている。机上の写真立ても例に漏れず、子どもにじゃれ付かれ弱腰で微笑む神父や、食卓を囲み祈りを捧げる修道女たちの日常の一場面が切り取られていた。
アットホームな雰囲気を好む人間には居心地よく寛げる空間であるが、呉はお気に召さなかったらしい。それも道理で、この部屋は彼が快適と定めた空間とは対極の場所だ。
酒と女と音楽とけばけばしいいネオンに満ちた快楽天こそ呉にとっての桃源郷だ。
「シケた部屋」
「あなたの好みは聞いてませんよ。紅茶でいいですか?ああすいませんコーヒー党でしたっけ、忘れてました」
「わざと間違えやがったな?せこい嫌がらせしてんじゃねえよ」
腐れ縁をこじらせた十数年来の付き合いだ。今さら呉の好みを間違える訳がない。
『彼は私の……なんと言いますか、話すと長くなる腐れ縁です』
例の狙撃のあと墓地にやってきた神父は、旧い知人として何食わぬ顔で呉を紹介し、ピジョンには着替えと手当てを勧め一旦部屋に帰した。
邪魔者が退散し2人きりになるや、神父に案内され勝手知ったる梟の巣に踏み入った呉は不躾にあたりを見回す。
「酒ねえの酒」
「教会はアルコール禁制です。私物の持ち込みも駄目ですよ」
サングラスの奥の金瞳を眇め、入ってすぐの壁に掛けられた写真を見詰める呉。
右端最前列、神父の裾を掴んで背中に隠れようとしている女の子がいる。今朝ピジョンが出会ったシーハンだ。
透けるように薄緑がかった肌とインペリアルトパーズの瞳は、呉とよく似た爬虫類の特徴を備えていた。
シーハンに視線が移った瞬間、軽口に水をさされたように呉の顔に複雑な色が浮かぶ。
後ろめたさと愛着に言葉にできない感情をごた混ぜにしたような、傍若無人なこの男には至極珍しく人間臭い表情。
あるいは父性の片鱗、まっとうとさえ言い換えてもいい表情は瞬き一回のちにすぐかき消え、神の家を土足で蹂躙し、聖書が推奨するあらゆる美徳に唾するようなスレた笑顔が戻ってくる。
「とかいって奥に隠してんじゃねえの」
「勝手に開けないでください、盗っ人根性が直りませんね」
「手癖が悪ィのはお互い様じゃん」
「心外ですね、あなたほど悪食じゃありませんよ」
ガラス扉を開け放ち、勝手に戸棚を漁りはじめる呉の狼藉に、手早くコーヒーを淹れた神父が心底あきれ返ったため息を吐く。
安楽椅子にゆったりと掛けた神父は膝の上で手を組み、口元だけで微笑む。
「可愛い弟子を手ごめにしかけた強姦魔をもてなす義理はありません。毒を盛らないだけ感謝してほしいですね」
「口先からデマほざくなよ覗き魔」
椅子を勧められなかった腹いせに行儀悪くテーブルにのっかり、カップの片方をひったくる。
鱗が浮かぶ片頬を悪辣に歪めた笑みには、神父の本性をよく知るが故の毒気ある痛快さが滲みだす。
共に辛苦を乗り越えてきた長年の相棒……否、互いに手を組み数々の悪事をこなしてきた共犯者へ、相手の本心を見透かした上でその思惑をほのめかす笑顔だ。
「屋根にへばり付いて、スコープ越しにずっと見てやがったろ。どこから?出だしから?俺とガキが墓場でドンパチしてるとこも、ガキが追い詰められて泡食うとこも、俺がまんまと一発食らってグラサン弾かれたとこもか」
「ぶざまで笑えましたね。腕が落ちたんじゃないですか、ラトルスネイク」
「馬鹿言え元気に現役よ」
「十代二十代の頃なら余裕風吹かして隙に付け入られるなんてミス犯さなかったでしょうに。マフィアの幹部になどなるものじゃありませんね、部下にお世辞しか言ってもらえなくなる。自惚れは身の破滅を招きますよ」
呉の慢心を論い、涼しい顔でコーヒーを啜る神父。
否定も肯定もせずはぐらかす態度は底が見えず、呉は憎々しげに食い下がる。
「あのガキと遊んでりゃ沸いてくると思ったのさ、見てンのはわかってたしよ」
「おや、気付いてましたか」
「『わざと』知らせたろ?まったくいい性格してやがる」
神父の声色に驚きはない。短い呟きには得心の響きがこもっていた。
テーブルに直に座った腕は、パイソンのレザーパンツに包まれた足を挑発的に組み替え、艶めかしく赤い二股の舌で唇をなめあげる。
「スコープが光を弾いてバレバレだ。テメェほどの狙撃手が日除けの布もせず反射光で位置知らせるようなミスするかよ」
「監視されているのを承知の上で強姦未遂を働く方も大概いい性格してますよ」
サングラスの奥の目が滴るような悪意と劣情を孕み、前へと身体を傾げた呉が神父の頬へ手を添える。
「見せ付けてやったのさ。どうだ、まざりたくなったろ」
昂然と顎を上げて呉を見返し、頬から顎へと滑りおりたその手を払って冷笑する。
「あなたが下ですか」
「お前が下。2人で挟んで坊主を嬲ってもいい」
「ご冗談を、乱交は守備範囲外ですので」
「金弾んでも?昔は何でもやったろ」
神父がカップをおくのを合図に呉が熱い吐息を絡め、鼓膜を這うような囁きを吹き込んでくる。
「アイツの瞳……おもしれェな、昔のお前にそっくりじゃん。偶然か?興奮すると真っ赤に光って、それでムラムラしちまった」
「ただの偶然ですよ、ミュータントと交わりが進んで特殊体質持ちが多く生まれてますし」
「偶然じゃねェなら」
「邪推です」
呉が言わんとしていることはわかるが、あの話題は2人の間でタブーなはずだ。
黙約を破る気なら彼にも考えがある。
無言の脅しが利いたのか、呉がへらへら笑って引き下がる。
「ぶっちゃけあそこまでやる気はなかった。あの瞳ェ見てると止まらなくなるんだ、殴って犯してめちゃくちゃにしたくなる」
「私の身代わりを仕立てる気ですか?」
中庭で歓声を上げ遊び回る子供たちを窓越しに眺め、あくまで穏やかに募る。
「いい年なんですから、誰彼構わず場当たり的にさかるのはおやめになったらいかがです。いくら蛇が絶倫だからって発情期のサイクル位あるでしょうに」
「嫉妬?」
「悪ふざけが過ぎたら本当に当てていました。命拾いしましたね」
窓から斜めにさす日に横顔を温め、笑っているのに笑っていないうすら寒い笑顔で牽制すれば、呉がツマラなそうに鼻を鳴らす。
「随分ご執心だなあのガキに」
「キマイライーターに紹介頂いた一番弟子ですからね」
「なるほどねェ……だからあんなキレたのか」
「心当たりがあるみたいですね。やっぱりあなたからちょっかいかけたんですか、そんなことだろうとは思いましたが」
「おっと誤解すんな、俺様ちゃんは無実で冤罪。こっちが何も言わねえそばから勝手に取り立て人だと決め付けやがって、だもんでちょーっと頭に血ィのぼっちまったのさ。お前の大好きな神父様とやらはキマイライーターとデキてて、資金繰りの為に爺にケツ貸すスキモノだって」
おどけて両手を挙げた呉の暴露に、神父は顎に指を添え独りごちる。
「斬新な解釈ですね。お稚児趣味のキマイライーターに孤児を斡旋しているとか、裏で女衒の真似事をしてキマイライーターに修道女を目合わせているとか、その手の下世話な中傷には慣れているのですが」
「したらキレちまってさ、面倒くせーのなんのって。仕方ねェから遊びに付き合ってやったんだが、こちとら弾の無駄撃ちまでさせられていい迷惑よ」
「敗者の虚勢は見苦しいですね」
神父の指摘に呉はわかりやすく憮然とする。
目下格下への侮りが生んだ油断は言い訳にならないと、彼自身忸怩たるものを感じているのだ。
呉は確かにピジョンを見くびり全く本気を出していなかった。しかし手を抜いていたとはいえ、蟲中天の武闘派幹部にして賞金稼ぎ歴20年のベテランが駆け出しの青二才に遅れをとるなど本来ありえない事態だ。
ピジョンを辛勝に導いたのは細心の注意力と観察眼、慎重に逃げ隠れて機会をとらえる忍耐力だった。
呉があたり構わず乱射し、墓石や地面に多数の弾痕を残していたのも裏目にでた。
「えらっそうに講釈たれやがって。大体R.I.P弾は狙撃用じゃねーだろ」
「『Radically Invasive Projectile』の頭文字をとった略称なので本来は『過激に侵入する弾丸』という意味ですね。あなたにぴったりじゃないですか」
「死人に言や安らかに眠れって弔いだが、生きてる奴にゃぶっ殺すって宣戦布告だ」
「そうですが、それがどうかしましたか。殺害と弔いが同時にできるなんて効率的じゃないですか」
「前もおんなじこと言ってたなお前」
サングラス越しの眼光鋭く、当時の神父の口癖を正確にまねる。
「『スコープのレティクルは十字架とおんなじ形だから、引鉄を引くのと懺悔が同時にできて都合がいい』」
「よく覚えてますね。ちょっと引きます」
「とち狂った事ほざいてやがったから印象残ってんのさ」
「お気付きですかラトルスネイク、あなたの撃ち方には癖があります。ただでさえ二挺拳銃の制御は難しく実戦向きではありません、その反動を手首の柔軟さで散らすのがあなたが得意とする戦闘スタイルです。発砲と同時に鎌首もたげるように手首が仰け反り、直後に反撃の隙が生じます。彼はそれを読んでいたのですよ」
常人ならば目視すらかなわない小数点以下のタイムロス。
ピジョンはそこに勝機を見出した。
「優れたガンファイターには経験が培った流儀がある。故に皆癖が強く、突出した長所と短所を併せ持っています。重心が左足に寄るから弾道が僅かに左に曲がる、引鉄を引くタイミングと瞬きの頻度が同期する。癖の大半は無意識に身に付いたもので、意識的に矯正するのは至難の業。ならば彼らと異なる間合いで戦わざるえない、優れたスナイパーの条件とは何か」
ただひたすた待ちに徹して相手の癖を読み切り、上手く付け入る事。
「優れたスナイパーとは『癖がない』スナイパーであると、私は思います」
ただただ平凡であること、平凡を極められること。
そこにこそピジョンだけが得られる、本当の強さがある。
呉は足を振るのをやめ、神父の性格の悪さに降参したように乾いた笑いを上げる。
「あ―ハイハイわかったなるほどね、わかっちまったお前がギリギリまで撃たなかった理由。俺様ちゃんにどこまで歯向かえっか、放置プレイでお試しってか」
どの時点から見ていたのか。
最初からか途中からか、神父は教会の屋根に陣取りライフルを構え、裏手の墓地で行われる呉とピジョンの戦闘をスコープ越しに見守っていた。
呉がピジョンを殺しそうになれば援護狙撃で助ける予定だったのか、ここで終わるなら所詮その程度と弟子を見限り何もせず済ます予定だったのか、それはわからない。
「指導にあたって数ヶ月、途中経過を見るには手っ取り早いかと思いまして。あなたは髄から暴力に染まりきった人格破綻者ですけど、自分より明らかに力が劣る子供を嬲り殺すようなまねはしないでしょうしね」
「寸止め生殺しかよアホらしい、アイツも可哀想にな、大好きな先生にはめられてその事を教えてさえもらねーときた」
「先の結果で良い教訓が得られました。狙撃の腕前は向上していますので、今後の課題は体術ですね。投石に来るスラムの方々を追い払える程度の心得はありますが、あなたに簡単に組み敷かれてしまうようでは行く先が思いやられます。賞金稼ぎ間でも通じる近接格闘スキルを覚えさせなければ」
テーブルに居直る呉の事など眼中にないかのように呟きはじめる神父。
呉は下唇を突き出して鼻白み、次いで面白がる。
「お前、わざと追い返そうとした?」
誰を、とは聞かなかった。
「口先じゃあ可愛い弟子とかのろけながら罠にかけて逃げ帰らせようとしてんじゃん。本当は先生役なんてウンザリで、さっさと放免してもらいてーんじゃねーの。足手まといのお荷物なんていらねえ、使えねえ弟子なんざいらねえ、1人の方がずっと気楽だ。誰かを教え導くとか育てるとかお前にゃ向いてねーよ、ホントはあのガキが目障りで、キマイライーターの爺さんに言われたから仕方なく面倒見てるだけじゃねーの」
だから本当に危なくなる限界まで引鉄を引かず、呉の暴走を許した。
呉に力負けしたピジョンがあえなく組み敷かれ、ガンパウダーを局部に塗され惨めに喘ぐ姿を、無機質なスコープの奥から冷徹に凝視し続けた。
呉が呈した疑問を食えない顔で受け流し、コーヒーの最後の一滴を飲み干す。
「この程度で挫けるなら賞金稼ぎに向いてませんよ。現実の厳しさを教えて、早めに見切りを付けさせるのも大事です」
神父は計算高い男だ。呉の待ち伏せを知りながらパパラッチの追跡をピジョン一人に任せたのも、二人が鉢合わせて銃撃戦に流れるのを予期したからか。
神父にとって呉は弟子の成長を知る試金石にして、さらなる成長を促す為に用意した障害にすぎなかった。
「テメェの手ェ汚さず人にやらせんのがマジ最悪」
「残念というべきか光栄というべきか、私は日頃の行い正しく彼に大変信頼されております。なのでいくらシビアにあたったところで、『先生は俺のために厳しくしてくれてるんだ』と殊勝な心がけにしてしまうだけでして。その点初対面のあなたは見るからに凶暴な無頼漢、子供たちや修道女たち、私を守りぬく前提で全力を出せるじゃないですか」
神父はピジョンの性格を完璧に把握していた。だからこそ偶然を演出し、突発的な成り行きに見せかけて呉との戦いを仕組んだ。
なんら反省の素振りなく言い放ち、最後の詰めは甘かったにしろ、呉から見事一本とった弟子の資質を誇るように結ぶ。
「他人の為に戦うときが最も力を出せるんですよ、あの子は」
続いて口の前に指を立て、内緒のポーズで呉に伝える。
「ですから、ね。あなたにも少しだけ手伝ってもらいました」
「事後承諾は手間賃せびるぞ」
「昔の誼から貸しを回収しただけです」
悪戯っぽくほくそ笑む神父に愛想を尽かし、呉は懐から出した何かをテーブルに放る。神父が驚いて目を剥く。
テーブルの上に投げ置かれたのは、表紙が傷んで剥がれかけた一冊の古い聖書だった。
「どうしてあなたが……」
「マーダーオークションに出てた」
「出したんですよ」
「資金繰り行き詰ってんのか」
「ほっといてください、布教活動には軍資金がいるんです」
呉と喋っているとだんだん物言いが砕けて地が出てくる。だからコイツは苦手だ。
マーダーオークションでは賞金首の愛用品のみならず、伝説的な賞金稼ぎの愛用品も競売の対象となる。
賞金稼ぎ関連のアイテムは持ち主の死後に遺族や知人がオークションに流す物をはじめ、生活苦から本人が供出する物まで様々だ。
神父が苦渋の決断で手放した小判の聖書は、先日開催されたマーダーオークション最大の目玉として脚光を浴びた。
「懐かしいモンが出てきて目ェ疑った」
「いくらで落としたんですか」
「口座見りゃわかるだろ、もう振り込んでる。億は行ってねェよ」
「そうですか……」
「行ってほしかった?」
「せっかく出したんですから高く売れるに越した事はありません。報酬が入れば教会の雨漏りも直せますし、孤児院の部屋も建て増しできます」
「で、泣く泣く身銭を切ったって訳か」
「聖書を読むだけでは誰も救われませんが、落札されれば子どもたちに食事を与えられます」
実の所ピジョンが案じている以上に教会の経営は苦しい。ボランティアの善意だけでは立ちゆかない状況まで追い込まれている。
経済状態の逼迫を重く見た神父は、自らの持ち物の中で最も値打ちがあるアイテムを周囲に黙ってオークションに出品した。
呉は聖書の表紙をトントンと指で叩き、下卑た笑みで口元を緩めて恩着せがましく告げる。
「バードバベルを滅ぼした夜梟のバイブルときちゃ、金に糸目を付けず欲しがる俗物がわんさか群がる。落札の瞬間はめちゃくちゃ盛り上がったぜェ、来なかったのがもったいねえ。ウチの若ェの……劉ってんだが、コイツに一枚噛ませてな。なかなか面白れー芸ができんだよ、指先ちょいちょいで金縛りだ。競り負けた野郎は口から魂抜けちまって傑作よハハッ」
「…………一応礼をするべきでしょうか」
さも嫌そうに聖書を受け取って中を検めた神父の申し出に、呉は極端に顔を近付けて目を覗き込む。
「いいのかよ、神父サマが姦淫の罪を犯して」
「望みのままに」
聖書を閉じて机上に戻すや、片手で素早くカーテンを引いて子供たちの姿と声を遮る。
薄暗い居室に張り詰めた沈黙が落ちる。
獲物に食らい付く蛇の如く底光る呉の眼差しを受けて立ち、暗闇をくすぐる衣擦れも艶めかしく、細く繊細な指でじらすようにカソックの詰襟を寛げていく。
呉も待ってましたと舌なめずりし、安楽椅子に沈んだ神父の上半身に手を滑らすが、いざ行為にのめりこもうとするや机上に放置されたボロボロの聖書が目にとまる。
『神様はいないかもしれないけど、いるかもしれないって信じることで救われる人もいるのよ』
脳裏に響くのは十数年前にこの聖書を持っていた、屈託ない少女の声だ。
「……萎えた。帰るわ」
興ざめしたように前戯を中断、カーテンを勢いよく開け放って光を取り入れる。
窓から白々と溢れる光に目が眩み、それを手庇で遮る神父。
はだけた襟元から覗く鎖骨と痩せた胸板の誘惑を断ち切り、肩越しに手を振って呉が嘯く。
「あの街唯一の忘れ形見だろ。粗末にしたら運命の女が泣くぜ」
大股にドアへと歩む呉を見送り、カソックの襟元を禁欲的に閉じて神父が問いかける。
「会っていかれないんですか?」
「遠目で十分」
茶化すように答える後ろ姿には、あえて冗談にする事で笑えない現実に折り合いを付ける諧謔が感じられた。
捨て鉢な足音が廊下を去っていくのを待ち、神父は小さく呟く。
「そっちが本命でしょうに」
テーブルの上の焼け焦げだらけの聖書に手をおき、とっくに失せてしまったぬくもりの残滓に縋るように瞠目する。
「昔の事ですよ」
木製の本棚には神学や哲学に関する蔵書が詰めこまれ、飴色の光沢帯びたウォルナットの机の上は几帳面に整頓が行き届いている。
清貧たっとぶ実直な人柄が滲み出る居室には目を引く家具調度の類もない。
唯一の華やぎといえば、壁に掛けられた額縁の中の集合写真だろうか。
教会の前で撮られたとおぼしき写真には神父と修道女、および孤児院で暮らす子どもたちが写っている。机上の写真立ても例に漏れず、子どもにじゃれ付かれ弱腰で微笑む神父や、食卓を囲み祈りを捧げる修道女たちの日常の一場面が切り取られていた。
アットホームな雰囲気を好む人間には居心地よく寛げる空間であるが、呉はお気に召さなかったらしい。それも道理で、この部屋は彼が快適と定めた空間とは対極の場所だ。
酒と女と音楽とけばけばしいいネオンに満ちた快楽天こそ呉にとっての桃源郷だ。
「シケた部屋」
「あなたの好みは聞いてませんよ。紅茶でいいですか?ああすいませんコーヒー党でしたっけ、忘れてました」
「わざと間違えやがったな?せこい嫌がらせしてんじゃねえよ」
腐れ縁をこじらせた十数年来の付き合いだ。今さら呉の好みを間違える訳がない。
『彼は私の……なんと言いますか、話すと長くなる腐れ縁です』
例の狙撃のあと墓地にやってきた神父は、旧い知人として何食わぬ顔で呉を紹介し、ピジョンには着替えと手当てを勧め一旦部屋に帰した。
邪魔者が退散し2人きりになるや、神父に案内され勝手知ったる梟の巣に踏み入った呉は不躾にあたりを見回す。
「酒ねえの酒」
「教会はアルコール禁制です。私物の持ち込みも駄目ですよ」
サングラスの奥の金瞳を眇め、入ってすぐの壁に掛けられた写真を見詰める呉。
右端最前列、神父の裾を掴んで背中に隠れようとしている女の子がいる。今朝ピジョンが出会ったシーハンだ。
透けるように薄緑がかった肌とインペリアルトパーズの瞳は、呉とよく似た爬虫類の特徴を備えていた。
シーハンに視線が移った瞬間、軽口に水をさされたように呉の顔に複雑な色が浮かぶ。
後ろめたさと愛着に言葉にできない感情をごた混ぜにしたような、傍若無人なこの男には至極珍しく人間臭い表情。
あるいは父性の片鱗、まっとうとさえ言い換えてもいい表情は瞬き一回のちにすぐかき消え、神の家を土足で蹂躙し、聖書が推奨するあらゆる美徳に唾するようなスレた笑顔が戻ってくる。
「とかいって奥に隠してんじゃねえの」
「勝手に開けないでください、盗っ人根性が直りませんね」
「手癖が悪ィのはお互い様じゃん」
「心外ですね、あなたほど悪食じゃありませんよ」
ガラス扉を開け放ち、勝手に戸棚を漁りはじめる呉の狼藉に、手早くコーヒーを淹れた神父が心底あきれ返ったため息を吐く。
安楽椅子にゆったりと掛けた神父は膝の上で手を組み、口元だけで微笑む。
「可愛い弟子を手ごめにしかけた強姦魔をもてなす義理はありません。毒を盛らないだけ感謝してほしいですね」
「口先からデマほざくなよ覗き魔」
椅子を勧められなかった腹いせに行儀悪くテーブルにのっかり、カップの片方をひったくる。
鱗が浮かぶ片頬を悪辣に歪めた笑みには、神父の本性をよく知るが故の毒気ある痛快さが滲みだす。
共に辛苦を乗り越えてきた長年の相棒……否、互いに手を組み数々の悪事をこなしてきた共犯者へ、相手の本心を見透かした上でその思惑をほのめかす笑顔だ。
「屋根にへばり付いて、スコープ越しにずっと見てやがったろ。どこから?出だしから?俺とガキが墓場でドンパチしてるとこも、ガキが追い詰められて泡食うとこも、俺がまんまと一発食らってグラサン弾かれたとこもか」
「ぶざまで笑えましたね。腕が落ちたんじゃないですか、ラトルスネイク」
「馬鹿言え元気に現役よ」
「十代二十代の頃なら余裕風吹かして隙に付け入られるなんてミス犯さなかったでしょうに。マフィアの幹部になどなるものじゃありませんね、部下にお世辞しか言ってもらえなくなる。自惚れは身の破滅を招きますよ」
呉の慢心を論い、涼しい顔でコーヒーを啜る神父。
否定も肯定もせずはぐらかす態度は底が見えず、呉は憎々しげに食い下がる。
「あのガキと遊んでりゃ沸いてくると思ったのさ、見てンのはわかってたしよ」
「おや、気付いてましたか」
「『わざと』知らせたろ?まったくいい性格してやがる」
神父の声色に驚きはない。短い呟きには得心の響きがこもっていた。
テーブルに直に座った腕は、パイソンのレザーパンツに包まれた足を挑発的に組み替え、艶めかしく赤い二股の舌で唇をなめあげる。
「スコープが光を弾いてバレバレだ。テメェほどの狙撃手が日除けの布もせず反射光で位置知らせるようなミスするかよ」
「監視されているのを承知の上で強姦未遂を働く方も大概いい性格してますよ」
サングラスの奥の目が滴るような悪意と劣情を孕み、前へと身体を傾げた呉が神父の頬へ手を添える。
「見せ付けてやったのさ。どうだ、まざりたくなったろ」
昂然と顎を上げて呉を見返し、頬から顎へと滑りおりたその手を払って冷笑する。
「あなたが下ですか」
「お前が下。2人で挟んで坊主を嬲ってもいい」
「ご冗談を、乱交は守備範囲外ですので」
「金弾んでも?昔は何でもやったろ」
神父がカップをおくのを合図に呉が熱い吐息を絡め、鼓膜を這うような囁きを吹き込んでくる。
「アイツの瞳……おもしれェな、昔のお前にそっくりじゃん。偶然か?興奮すると真っ赤に光って、それでムラムラしちまった」
「ただの偶然ですよ、ミュータントと交わりが進んで特殊体質持ちが多く生まれてますし」
「偶然じゃねェなら」
「邪推です」
呉が言わんとしていることはわかるが、あの話題は2人の間でタブーなはずだ。
黙約を破る気なら彼にも考えがある。
無言の脅しが利いたのか、呉がへらへら笑って引き下がる。
「ぶっちゃけあそこまでやる気はなかった。あの瞳ェ見てると止まらなくなるんだ、殴って犯してめちゃくちゃにしたくなる」
「私の身代わりを仕立てる気ですか?」
中庭で歓声を上げ遊び回る子供たちを窓越しに眺め、あくまで穏やかに募る。
「いい年なんですから、誰彼構わず場当たり的にさかるのはおやめになったらいかがです。いくら蛇が絶倫だからって発情期のサイクル位あるでしょうに」
「嫉妬?」
「悪ふざけが過ぎたら本当に当てていました。命拾いしましたね」
窓から斜めにさす日に横顔を温め、笑っているのに笑っていないうすら寒い笑顔で牽制すれば、呉がツマラなそうに鼻を鳴らす。
「随分ご執心だなあのガキに」
「キマイライーターに紹介頂いた一番弟子ですからね」
「なるほどねェ……だからあんなキレたのか」
「心当たりがあるみたいですね。やっぱりあなたからちょっかいかけたんですか、そんなことだろうとは思いましたが」
「おっと誤解すんな、俺様ちゃんは無実で冤罪。こっちが何も言わねえそばから勝手に取り立て人だと決め付けやがって、だもんでちょーっと頭に血ィのぼっちまったのさ。お前の大好きな神父様とやらはキマイライーターとデキてて、資金繰りの為に爺にケツ貸すスキモノだって」
おどけて両手を挙げた呉の暴露に、神父は顎に指を添え独りごちる。
「斬新な解釈ですね。お稚児趣味のキマイライーターに孤児を斡旋しているとか、裏で女衒の真似事をしてキマイライーターに修道女を目合わせているとか、その手の下世話な中傷には慣れているのですが」
「したらキレちまってさ、面倒くせーのなんのって。仕方ねェから遊びに付き合ってやったんだが、こちとら弾の無駄撃ちまでさせられていい迷惑よ」
「敗者の虚勢は見苦しいですね」
神父の指摘に呉はわかりやすく憮然とする。
目下格下への侮りが生んだ油断は言い訳にならないと、彼自身忸怩たるものを感じているのだ。
呉は確かにピジョンを見くびり全く本気を出していなかった。しかし手を抜いていたとはいえ、蟲中天の武闘派幹部にして賞金稼ぎ歴20年のベテランが駆け出しの青二才に遅れをとるなど本来ありえない事態だ。
ピジョンを辛勝に導いたのは細心の注意力と観察眼、慎重に逃げ隠れて機会をとらえる忍耐力だった。
呉があたり構わず乱射し、墓石や地面に多数の弾痕を残していたのも裏目にでた。
「えらっそうに講釈たれやがって。大体R.I.P弾は狙撃用じゃねーだろ」
「『Radically Invasive Projectile』の頭文字をとった略称なので本来は『過激に侵入する弾丸』という意味ですね。あなたにぴったりじゃないですか」
「死人に言や安らかに眠れって弔いだが、生きてる奴にゃぶっ殺すって宣戦布告だ」
「そうですが、それがどうかしましたか。殺害と弔いが同時にできるなんて効率的じゃないですか」
「前もおんなじこと言ってたなお前」
サングラス越しの眼光鋭く、当時の神父の口癖を正確にまねる。
「『スコープのレティクルは十字架とおんなじ形だから、引鉄を引くのと懺悔が同時にできて都合がいい』」
「よく覚えてますね。ちょっと引きます」
「とち狂った事ほざいてやがったから印象残ってんのさ」
「お気付きですかラトルスネイク、あなたの撃ち方には癖があります。ただでさえ二挺拳銃の制御は難しく実戦向きではありません、その反動を手首の柔軟さで散らすのがあなたが得意とする戦闘スタイルです。発砲と同時に鎌首もたげるように手首が仰け反り、直後に反撃の隙が生じます。彼はそれを読んでいたのですよ」
常人ならば目視すらかなわない小数点以下のタイムロス。
ピジョンはそこに勝機を見出した。
「優れたガンファイターには経験が培った流儀がある。故に皆癖が強く、突出した長所と短所を併せ持っています。重心が左足に寄るから弾道が僅かに左に曲がる、引鉄を引くタイミングと瞬きの頻度が同期する。癖の大半は無意識に身に付いたもので、意識的に矯正するのは至難の業。ならば彼らと異なる間合いで戦わざるえない、優れたスナイパーの条件とは何か」
ただひたすた待ちに徹して相手の癖を読み切り、上手く付け入る事。
「優れたスナイパーとは『癖がない』スナイパーであると、私は思います」
ただただ平凡であること、平凡を極められること。
そこにこそピジョンだけが得られる、本当の強さがある。
呉は足を振るのをやめ、神父の性格の悪さに降参したように乾いた笑いを上げる。
「あ―ハイハイわかったなるほどね、わかっちまったお前がギリギリまで撃たなかった理由。俺様ちゃんにどこまで歯向かえっか、放置プレイでお試しってか」
どの時点から見ていたのか。
最初からか途中からか、神父は教会の屋根に陣取りライフルを構え、裏手の墓地で行われる呉とピジョンの戦闘をスコープ越しに見守っていた。
呉がピジョンを殺しそうになれば援護狙撃で助ける予定だったのか、ここで終わるなら所詮その程度と弟子を見限り何もせず済ます予定だったのか、それはわからない。
「指導にあたって数ヶ月、途中経過を見るには手っ取り早いかと思いまして。あなたは髄から暴力に染まりきった人格破綻者ですけど、自分より明らかに力が劣る子供を嬲り殺すようなまねはしないでしょうしね」
「寸止め生殺しかよアホらしい、アイツも可哀想にな、大好きな先生にはめられてその事を教えてさえもらねーときた」
「先の結果で良い教訓が得られました。狙撃の腕前は向上していますので、今後の課題は体術ですね。投石に来るスラムの方々を追い払える程度の心得はありますが、あなたに簡単に組み敷かれてしまうようでは行く先が思いやられます。賞金稼ぎ間でも通じる近接格闘スキルを覚えさせなければ」
テーブルに居直る呉の事など眼中にないかのように呟きはじめる神父。
呉は下唇を突き出して鼻白み、次いで面白がる。
「お前、わざと追い返そうとした?」
誰を、とは聞かなかった。
「口先じゃあ可愛い弟子とかのろけながら罠にかけて逃げ帰らせようとしてんじゃん。本当は先生役なんてウンザリで、さっさと放免してもらいてーんじゃねーの。足手まといのお荷物なんていらねえ、使えねえ弟子なんざいらねえ、1人の方がずっと気楽だ。誰かを教え導くとか育てるとかお前にゃ向いてねーよ、ホントはあのガキが目障りで、キマイライーターの爺さんに言われたから仕方なく面倒見てるだけじゃねーの」
だから本当に危なくなる限界まで引鉄を引かず、呉の暴走を許した。
呉に力負けしたピジョンがあえなく組み敷かれ、ガンパウダーを局部に塗され惨めに喘ぐ姿を、無機質なスコープの奥から冷徹に凝視し続けた。
呉が呈した疑問を食えない顔で受け流し、コーヒーの最後の一滴を飲み干す。
「この程度で挫けるなら賞金稼ぎに向いてませんよ。現実の厳しさを教えて、早めに見切りを付けさせるのも大事です」
神父は計算高い男だ。呉の待ち伏せを知りながらパパラッチの追跡をピジョン一人に任せたのも、二人が鉢合わせて銃撃戦に流れるのを予期したからか。
神父にとって呉は弟子の成長を知る試金石にして、さらなる成長を促す為に用意した障害にすぎなかった。
「テメェの手ェ汚さず人にやらせんのがマジ最悪」
「残念というべきか光栄というべきか、私は日頃の行い正しく彼に大変信頼されております。なのでいくらシビアにあたったところで、『先生は俺のために厳しくしてくれてるんだ』と殊勝な心がけにしてしまうだけでして。その点初対面のあなたは見るからに凶暴な無頼漢、子供たちや修道女たち、私を守りぬく前提で全力を出せるじゃないですか」
神父はピジョンの性格を完璧に把握していた。だからこそ偶然を演出し、突発的な成り行きに見せかけて呉との戦いを仕組んだ。
なんら反省の素振りなく言い放ち、最後の詰めは甘かったにしろ、呉から見事一本とった弟子の資質を誇るように結ぶ。
「他人の為に戦うときが最も力を出せるんですよ、あの子は」
続いて口の前に指を立て、内緒のポーズで呉に伝える。
「ですから、ね。あなたにも少しだけ手伝ってもらいました」
「事後承諾は手間賃せびるぞ」
「昔の誼から貸しを回収しただけです」
悪戯っぽくほくそ笑む神父に愛想を尽かし、呉は懐から出した何かをテーブルに放る。神父が驚いて目を剥く。
テーブルの上に投げ置かれたのは、表紙が傷んで剥がれかけた一冊の古い聖書だった。
「どうしてあなたが……」
「マーダーオークションに出てた」
「出したんですよ」
「資金繰り行き詰ってんのか」
「ほっといてください、布教活動には軍資金がいるんです」
呉と喋っているとだんだん物言いが砕けて地が出てくる。だからコイツは苦手だ。
マーダーオークションでは賞金首の愛用品のみならず、伝説的な賞金稼ぎの愛用品も競売の対象となる。
賞金稼ぎ関連のアイテムは持ち主の死後に遺族や知人がオークションに流す物をはじめ、生活苦から本人が供出する物まで様々だ。
神父が苦渋の決断で手放した小判の聖書は、先日開催されたマーダーオークション最大の目玉として脚光を浴びた。
「懐かしいモンが出てきて目ェ疑った」
「いくらで落としたんですか」
「口座見りゃわかるだろ、もう振り込んでる。億は行ってねェよ」
「そうですか……」
「行ってほしかった?」
「せっかく出したんですから高く売れるに越した事はありません。報酬が入れば教会の雨漏りも直せますし、孤児院の部屋も建て増しできます」
「で、泣く泣く身銭を切ったって訳か」
「聖書を読むだけでは誰も救われませんが、落札されれば子どもたちに食事を与えられます」
実の所ピジョンが案じている以上に教会の経営は苦しい。ボランティアの善意だけでは立ちゆかない状況まで追い込まれている。
経済状態の逼迫を重く見た神父は、自らの持ち物の中で最も値打ちがあるアイテムを周囲に黙ってオークションに出品した。
呉は聖書の表紙をトントンと指で叩き、下卑た笑みで口元を緩めて恩着せがましく告げる。
「バードバベルを滅ぼした夜梟のバイブルときちゃ、金に糸目を付けず欲しがる俗物がわんさか群がる。落札の瞬間はめちゃくちゃ盛り上がったぜェ、来なかったのがもったいねえ。ウチの若ェの……劉ってんだが、コイツに一枚噛ませてな。なかなか面白れー芸ができんだよ、指先ちょいちょいで金縛りだ。競り負けた野郎は口から魂抜けちまって傑作よハハッ」
「…………一応礼をするべきでしょうか」
さも嫌そうに聖書を受け取って中を検めた神父の申し出に、呉は極端に顔を近付けて目を覗き込む。
「いいのかよ、神父サマが姦淫の罪を犯して」
「望みのままに」
聖書を閉じて机上に戻すや、片手で素早くカーテンを引いて子供たちの姿と声を遮る。
薄暗い居室に張り詰めた沈黙が落ちる。
獲物に食らい付く蛇の如く底光る呉の眼差しを受けて立ち、暗闇をくすぐる衣擦れも艶めかしく、細く繊細な指でじらすようにカソックの詰襟を寛げていく。
呉も待ってましたと舌なめずりし、安楽椅子に沈んだ神父の上半身に手を滑らすが、いざ行為にのめりこもうとするや机上に放置されたボロボロの聖書が目にとまる。
『神様はいないかもしれないけど、いるかもしれないって信じることで救われる人もいるのよ』
脳裏に響くのは十数年前にこの聖書を持っていた、屈託ない少女の声だ。
「……萎えた。帰るわ」
興ざめしたように前戯を中断、カーテンを勢いよく開け放って光を取り入れる。
窓から白々と溢れる光に目が眩み、それを手庇で遮る神父。
はだけた襟元から覗く鎖骨と痩せた胸板の誘惑を断ち切り、肩越しに手を振って呉が嘯く。
「あの街唯一の忘れ形見だろ。粗末にしたら運命の女が泣くぜ」
大股にドアへと歩む呉を見送り、カソックの襟元を禁欲的に閉じて神父が問いかける。
「会っていかれないんですか?」
「遠目で十分」
茶化すように答える後ろ姿には、あえて冗談にする事で笑えない現実に折り合いを付ける諧謔が感じられた。
捨て鉢な足音が廊下を去っていくのを待ち、神父は小さく呟く。
「そっちが本命でしょうに」
テーブルの上の焼け焦げだらけの聖書に手をおき、とっくに失せてしまったぬくもりの残滓に縋るように瞠目する。
「昔の事ですよ」
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