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a sick-nurse
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スワローが風邪をひいた。
「ぶえっくし!!」
「くしゃみに可愛げがない。減点」
スワローときたらまったくエチケットがなってない、くしゃみをする時も口をおさえず唾と菌を盛大に撒き散らす。
片手を立てて唾を避け、眉を曇らすピジョンの顰蹙を買い、スワローが洟を啜ってぼやく。
「何のコンテストだよ」
「俺の素直で可愛い弟コンテストかな」
「審査員も出場者も1人っきゃいねえんだから自動的に優勝だろ」
「さがせばもっといるかもね」
「育ちが悪ぃんだから大目に見ろ」
「同じ環境で育った身として認めたくない言い訳だな」
思えば昨夜から具合が悪そうだった。アレは酔っ払いの特徴ではなく風邪の兆候だったのか。
ピジョンがスワローの異変に気付いたのは数分前。
昼近くまで寝ているのに痺れを切らして叩き起こしにきたら、毛布を被って丸まっていた。
「いい加減起きろ、昼だぞ」「るっせ、ほっとけ」「アウトローリングにいくぞ」「かったりぃからパス」「パスって、生活費はどうするだよ?家賃滞納したら大家さんがうるさいぞ、キャサリンの命がかかってるんだ」「一人で行ってこい」「俺が選んだ依頼に文句付けなけりゃね」「テメェが選んでくんなァ結婚詐欺だのケチなコソ泥だのザコばかりじゃねーか」「女性を食い物にする悪党をほっとけないだろ」
毛布をひっぺがそうとするピジョンと、しぶとく抵抗するスワローの押し問答は数十秒間続いた。
途中でピジョンは違和感を抱く。
毛布から垣間見える顔がやけに赤い。息遣いも苦しそうだ。
「お前……具合悪いのか。ひょっとして熱ある?」
「別に」
「嘘吐け、汗びっしょりじゃないか。見せてみろ」
しっとりした髪が纏わる額に手をかざせば、ぞんざいに払いのけられてしまった。
「さわんな、うぜえっての」
「熱はからせろよ」
「手のひらでわかるもんか」
「ちょっと待ってろ、体温計もってくる」
「いらねーよ」
「駄目だって」
面白いほどうろたえる。
毛布を剥いで上体を起こすスワローに「じっとしてろよ」と念押し、洗面台に消えるピジョン。
続いて戸棚をかき回す物音が響き、さほど待たせず体温計を持って帰って来る。
「これ挟んで」
「自分でやるよ、ひっ付くな」
ピジョンからひったくった体温計を腋の下に挟む。
軽快な音が鳴ると同時に抜いてジト目で凝視、スワローの顔がみるみる不機嫌になっていく。
脇から覗き込んだピジョンが眉をひそめ、体温計を奪い返す。
「いわんこっちゃない、薄着で遅くまで出歩いてるからだ」
「ちゃんと羽織って出たよ」
「タンクトップなんて肌着みたいなもんだろ、上に一枚羽織っただけじゃ効果ないって」
「テメェの汗と血と色んな体液が染みこんだボロコートよかマシだね、ホツレだらけじゃねーか」
「俺のコートの事は今いいだろ」
憎まれ口に覇気がない。本当に体調が悪いのだ。
思い返せば、毛布を引っ張る手も少し弱々しかった。ピジョンはため息を吐いてベッドに起き上がった弟を観察する。
黒いタンクトップは汗を吸って肌に張り付き、会話で体力を消耗したのか、息はさっきより荒くなっている。
ピジョンは体温計を振ってぼやく。
「殺しても死なないお前が風邪ひくなんて空からジェリービーンズが降るな」
「大喜びで啄んどけ。ボーッと上向いてるだけで食費が浮いてラッキーだろ、デフォルトで口閉め忘れてるマヌケ顔が役に立ったじゃん」
「無理して悪態吐くなよ」
本当にスワローときたら、口から先に生まれてきたような毒舌だ。
体温計で計ったところかなりの高熱だった。口を利くのさえ辛いだろうに、強がって隙を見せまいとする。
意地っ張りな弟にあきれたピジョンは有無を言わせず命令する。
「寝てろ」
「暇で死んじまう」
「暇で死んだ人は世界が始まってから一人もいないから安心しろ」
「わかんねーじゃんそんなの」
スワローはじっとしてるのが死ぬほど苦手だ。子供の頃からそうだった、しょっちゅうちょこまか動いてはピジョンを手こずらせたが風邪となれば話は別。
ピジョンは洗面所へ行き、プラスチックのボウルに水を注いでロックアイスを入れる。そこへハンドタオルを浸し、いそいそスワローの寝室に引き返す。ドアから寝室を覗くと同時、うっかりボウルを手放しそうなほど仰天。
「スワロー!!」
「やべ」
ベッドに起き直ったスワローが一服しようとしていた。
水が跳ねる勢いでボウルをおいてライターと煙草を没収。
ドッグタグとナイフの次に大事な煙草とライターをもぎとられたスワローが、尖った犬歯を剥いて抗議する。
「ざけんな、返せ」
「喉腫れてるのに煙草とか何考えてるんだ、全快するまで許さないからな」
「大袈裟にすんな、こんなのどうってこと」
スワローが体を折って激しく咳き込む。
ベッドに突っ伏して咳き込む弟を見るに見かね、傍らに跪いて背中をさすってやる。
「急に大きな声だすから……」
「~~ッ、てめぇがイラツかせっからだろげほがほっ」
咽喉をおさえて涙目のスワロー。熱っぽい瞳でピジョンを睨み、嗄れた声で罵る。
「病人が喫煙なんて論外。飲酒もだめ。夜遊びも」
「人生の楽しみを奪うなよ」
「もっと高尚な楽しみ見付けろ、クロスワードパズルとか外の枯れ葉が落ちてくの数えるとか」
「で、最後の一枚が落っこちる時にむかえがくるってか」
ピジョンはこれ見よがしにため息を吐き、スワローから取り上げた煙草とライターをポケットにしまいこむ。
それからタオルをよく絞り、几帳面に折り畳んでスワローの額へ持っていく。
スワローはぷいと横を向く。
「こっち向け」
「やだ」
「手間かけさせるな」
「お前の命令なんて聞かねー」
「お願いしてるんだよ」
仕方ない。
ピジョンはスワローの耳元で優しく囁く。
「いい子だから。な?」
「その手は……」
今だ。
スワローが隙を見せた一瞬、顎を掴んで力ずくで固定し額にタオルをのっける。
「テメ」
「何か欲しいものある?食べたいものとか飲みたいものとか」
「ビール」
「アルコール以外」
「クソ使えねえ」
スワローが舌打ち、イエローゴールドの髪がばらける。
ピジョンは苦笑いして腰を浮かす。
「汗かいて喉渇いたろ、レモネードかなんか作ってくる」
「……コーラがいい」
「OK、冷蔵庫見てくる」
やっぱり、スワローは元気がない。本来ならもっと憎まれ口が返ってくるはずだ。大丈夫なのか。医者に診せた方がよくないか。でもカネが……いや、スワローの一大事にカネなんて気にしちゃられない。
たとえスワローが風邪をひいた原因が薄着で夜遊び女をとっかえひっかえ遅くまで飲み歩いた自業自得の極みでも、熱にうかされ苦しむ弟をほっとけない。
スワローは17歳だ。今のご時世17歳は成人の範疇だ。とっくに子供を作って父親や母親になっている者も多い。けれどもピジョンにしてみればスワローはまだ子供、やることなすこと危なっかしく手のかかる弟だ。
母さんのぶんまで俺がしっかりしなきゃ。
アイツの面倒見てやらないと。
様子がおかしいのにもっと早く気付くべきだった、昨日の時点で薬を飲ませてれば悪化しなかったかもしれない。スワローは大の薬嫌いだから、帰ってすぐベッドに直行したに決まってる。
風邪と泥酔の見わけも付かないなんて俺の目は節穴か?
キッチンへ赴き冷蔵庫を検める。ろくなものがない。日々ピザの出前やデリカッセンの総菜で済ませてるツケが回ってきた。
コーラが1本残っていたのを見付け、栓抜きやコップと一緒に取ってもどる。
「お待たせ」
スワローはベッドにぐったり横たわっていた。ピジョンがコーラの瓶を掲げると億劫そうに起き上がり、「遅ェ」と顎をしゃくる。
尊大な態度にムッとするが、相手は病人だと自分に言い聞かせて耐える。
「ちょっと待て、今開けるから」
テーブルにコップをおき、栓抜きで王冠を回そうとしたピジョンから瓶をひったくり、愛用のナイフの切っ先を噛ませる。
「いたっ!?」
ポン、空気が抜ける音に続いて勢いよく外れた王冠がピジョンの額を直撃。
スワローは構わず瓶を手掴みで一気飲み、うまそうに喉を鳴らす。
「コップ使えよ、せっかく持ってきたんだから」
「いちいち注ぐかよ面倒くせえ」
コーラを半分ほど干して大きくげっぷ。
顎に滴る雫を手の甲で拭い、だるそうにピジョンを振り返る。
「アウトローリングは?早く行かねーといいの持ってかれちまうぜ」
「お前をおいていけないだろ」
「そりゃまた優しいこって。家賃は?払えんの」
「頑張ってやりくりする」
コーラで喉の火照りが癒えたのか、少し楽になったスワローがベッドに寝転がる。ピジョンは安堵の色を浮かべ、はだけた毛布を首まで掛け直す。
その日、ピジョンはほぼ付きっ切りでスワローを看病した。
「暇だ、テレビ持ってこい」「居間の?」「それ以外にあるかよ」「配線が面倒臭いし」「今にもくたばりそうな病人のお願い断んの」「わかったよ」「暇だ、漫画買ってこい」「テレビは?」「ろくなのやってねえじゃん」「お前が見たいって言ったんだろ」「今は漫画の気分なんだよわかれよ」
哀しいかな、ピジョンはベッドに寝たきりの弟に顎でこき使われた。スワローがテレビを見たいとごねればベッドの正面にセッティングしてやり、漫画を見たいとねだれば近くのマガジンスタンドまでとんでった。
少しでもスワローが楽になればとただそれだけを願い、ピジョンは身を惜しまず奔走する。
希望通りテレビと漫画を与えられたスワローといえば、熱は上がり咳が激しくなる一方だ。
ピジョンはキッチンに立ち、深鍋でミルク粥を煮込む。母直伝、風邪の時の定番料理だ。
スプーンで一口味見、「甘さが足りないか」と砂糖を一匙足してよくかきまぜる。
「よし」
鍋を火からおろして深皿に中身を移す。
湯気に乗じて広がる匂いが食欲をそそる。
「もうひと口……」
ダメだ、スワローが腹を空かせて待ってるのに。
震える手で匙を近付けては遠ざけ、断腸の思いで誘惑を断ち切る。
魔がさす前にと皿をボードに移し、寝室へ持っていく。
「できたよスワロー」
「げほげほげほがっがほっ!!」
スワローはベッドに突っ伏して死にそうな顔色。全身汗びっしょりで、タンクトップが素肌に吸い付いている。イエローゴールドのモップ髪が全体的にしおたれて、痛々しいほどの憔悴ぶりだ。
「また酷くなってないか?意地張らず医者行けよ」
「ぜってえやだ」
「なんでだよ、注射が怖いとか?」
「たいしたことねェのに医者なんか行ったらぼられんだろ、風邪なんて寝ときゃ勝手に治んのに騒ぎすぎだっての」
「たいしたことあるかないか診てもらわなきゃわかんないだろ、こじらせて肺炎になったら大変だ」
「医者なんてろくでもねーのばかりだ」
スワローが皮肉っぽく口の片端を持ち上げ、ぬるくなったコーラの残りを飲み干す。
空き瓶を力なく床に転がし、ピジョンに一瞥よこす。
「母さんの馴染みのヤブ覚えてる?」
「ライナーさん?ドイルさん?ロバートさんもいたっけ」
「俺がちびん時お医者さんごっこしねえかって」
「え」
初耳だ。ピジョンの顔が引き攣る。
「ちょっと待て、ちびん時って何歳だよ。5歳?6歳?何されたんだ」
「母さんにゃ内緒って約束で千ヘルむしったよ。もうけた」
「聞いてないぞそんな……どうしてすぐ言わないんだよ」
幼い弟が母の馴染みにイタズラされていたのにも気付かないなんて。咄嗟にスワローの肩を掴んで乗り出す、罪悪感に駆られるがまま揺さぶる。
「母さんの馴染みに何かされたらすぐ呼べって言ったろ」
「相変わらずおめでてェな、来たとこで何ができんだ」
守れもしねェくせに。
「絶対やめさせた」
スワローに変なことするなんて許さない。
知りたくなかった事実を突き付けられ、ピジョンの顔がやるせなく歪む。
拳を握り込んで自分を責める兄に対し、寝返りを打って鼻を鳴らすスワロー。
「医者はやだね。口止め料むしれんならともかく、カネ払って他人にあちこちさわらせるなんて意味わからねェ」
過去のトラウマがあるなら無理強いしたくない。葛藤の末、しばらく様子を見ることにする。
厚手の皿によそった粥をすくい、匙をスワローに近付ける。
「ほら、ミルク粥。腹減ったろ」
「いらねえ」
「栄養付けなきゃよくならないぞ」
「粥なんて食う気しねー」
「お前のために作ったんだぞ」
「食わせてくれよ」
「仕方ないな……」
スワローが起きるのを手伝い、粥に息を吹きかける。口を窄めて粥を冷ますピジョンを、スワローがおかしそうに観察している。
「口開けろ」
「ん」
「あーん」
スワローが大人しく口を開ける。扁桃腺が腫れていた。注意深く匙を入れれば、殆ど液状の粥を力なくって嚥下する。
「うまいか」
「……わかんねえ」
「砂糖足りなかったかな」
改善点ありだな、と心の中でメモする。
その後もピジョンは粥を冷ましてスワローの口に運び続けた。まるで鳥の餌付けだ。ピジョンはほのぼのと顔を和ませて懐かしむ。
「キャサリンにピペットで水あげてたの思い出す」
「鶏と比べんな」
「お前より可愛げあるよ」
罵詈雑言の倍返しに身構えるものの、予想を裏切りスワローは大人しい。いよいよ体調が悪化してきたのか、口論をくり広げる余力も失くしてしまったようだ。
スワローはミルク粥を三分の一食べた。
「もういいのか」
「ああ……」
残りはピジョンが綺麗に食べた。
からの鍋と皿をシンクに浸けて戻り、苦しげに咳をするスワローに付き添って体を拭いてやる。
「離せ、自分でやる」
「お前の裸なんか見慣れてる」
「恥ずかしがってねェようぜえんだよ」
スワローに万歳させ黒いタンクトップを脱がす。汗でぐしょ濡れだ。また熱が上がったのか、肌が全体的に赤らんでいる。
ボウルに汲んだお湯でタオルを濡らして絞り、几帳面に折り畳む。
腕まくりして傍らに跪き、しなやかに引き締まったスワローの身体を浄めていく。
スワローは美しい体をしていた。
すべらかな首筋と尖った喉仏、薄い胸板と割れた腹筋、恥骨の突起がアクセントになる形よい細腰。
大人になりかけの少年の色香が、華奢な骨格に滴っている。
清拭の最中に生唾を飲み、首を振って欲情を戒める。
裸の胸元にはピジョンとおそろいのタグの鎖が縺れていた。
「外すぞ」
「やだ」
「かけたままじゃ邪魔だろ」
「余計なことすんな」
スワローがピジョンの手をひっぱたき、強情な顔付きでタグを握りこむ。
「……いい。このまんまで」
「わかったよ」
仕方なくそのままにして胸板を拭く。鎖に手をかけて少し持ち上げ、タオルに汗を吸わせる。
スワローは絶対タグを外さない。
どんなに体調が悪くても、否、だからこそ手放さない。
彼にとっては唯一無二のお守りなのだ。
弟が口には出さない本音がいじらしくて、首から爪先まで心をこめて拭き終える。
「終わったぞ」
「ああ……」
礼は言わないスタイルだ。タオルをボウルの縁にかけて腰を上げ、ふと脇腹の傷痕に気付く。
「前からあったっけ。犬に噛まれた痕みたいな」
もう完治しているが、他と比べて新しい気がする傷痕をなにげなく指さす。スワローの表情が一瞬豹変、すぐまた戻る。
「坑道ん時のだろ?コヨーテに噛まれたんだ」
「嘘だ、あの後シたけど気付かなかったぞ」
「初めてでいっぱいいっぱいだったかんな、俺の身体隅々までじっくり見たって断言できる?」
反論できない。
「……痛かった?」
「別に、どってことねェよ。お前に言われるまで存在忘れてた」
数年前の傷痕にしては新しく見えるそれを見詰め、ピジョンは自分こそ痛そうに顔をしかめる。
おもむろに傷に手を添え、なでる。
「無茶はするなよ」
スワローが助けにきてくれたのは嬉しいし有り難いけど、もしコイツに何かあったら、ピジョンは自分が許せない。
あらためて見直せばスワローの身体は新旧大小の傷痕だらけだ。子供の頃から現在に至るまで、様々な相手と戦い傷付いてきた。
足手まといのピジョンを守り、庇って。
セックスの時は電気を消している事が多いから、自分で脱がすまで気付いてやれなかった。目だけ眇めて悪戯っぽく笑い、ピジョンに一瞥をよこす。
「慰めてくれよ」
くだらないおふざけ、無理を押した軽口。
傷痕を見せず強がる弟に愛しさを駆り立てられ、ベッドに乗り上げてスワローの脇腹に急接近。
「なん、」
「じっとして」
動揺を帯びた身じろぎを小声で制し、赤く痛々しい傷痕をくちびるで辿っていく。自分から言い出したくせに、スワローは面食らっている。
コイツにできることならなんでもしてやりたい。
兄さんとして。
それ以上に……
「他にしてほしいことは」
脇腹に穿たれた傷痕からくちびるを放し、悔しげに潤んだ目で睨み付ける弟に伺いを立てる。
しおらしいスワローは可愛い。
食べてしまいたい。
スワローが耳たぶまで染めて俯き、毛布の上に片手を投げだす。
「……ん」
握ってくれなんて口が裂けても言えない。
だからこんなひねくれた態度になる。
「わかった」
ベッドの端に掛け直したのち、物分かりよく大人びた微笑を浮かべてスワローの手をとり、息を吹きかけ擦り立てる。
やっぱり熱が高い。
手のひらから伝わる火照りが不安をもたらすが、すぐに安心させる笑みを取り繕い、余った手で髪を梳いてやる。
「他には」
「唄え」
「えっ」
「なんでもって言ったじゃん、嘘かよ」
ピジョンは歌が苦手だ。自分の歌唱力が弟に劣るのは子供の頃からいやというほど思い知らされているし、人前で唄うのは恥ずかしい。
スワローはピジョンと手を繋いだままジト目で無言催促。
兄に二言はない。
空咳で喉の調子を整え、覚悟を決めて深呼吸したのち、口を開けたまま固まってスワローを覗き込む。
「……なにを唄えば」
「ンなのテメェで考えろ」
「好きにしていいってことだよな?後出しで文句いうなよ」
弟の罵倒を拡大解釈、喉に息を通す。
以前母の誕生日に唄った讃美歌。ピジョンにとっては思い出の歌、スワローにはどうだかわからない。
風邪で臥せっている弟の為に、心をこめて歌を紡ぐ。
こみ上げる羞恥に耐え、目を瞑って集中し、楽しかった母の誕生会を瞼の裏に思い描いて、弟が早く癒えるようにと歌に託した祈りを捧げる。
スワローの美声には数段劣る。
リズム感もさほどよくない。
スワローを凌ぐ美点をしいて挙げるとすれば、ただどこまでもひたむきに、誠実の美徳を尽くす一点のみだ。
スワローはうっとり目を閉じ、際立って上手くも下手でもない、音程に正確を期す一生懸命さだけは伝わってくる歌声を聞いていた。
兄の歌声こそ世界一の子守歌だといわんばかりの安らいだ表情。
気持ち良さそうにまどろむ弟を一瞥、ピジョンの口元が満ち足りて綻ぶ。
「おやすみスワロー」
弟が寝入ったのを確かめ、額に軽くキスをする。
今さらながら空腹を思い出し、キッチンへ立とうと腰を上げるや、くいと手を引かれる。
ベッドに仰向けたスワローが片腕を敷いて顔を覆い、ピジョンの指の股にじれったげに指を噛ませる。
「……手ェ握って」
まるきり子供返りした、拗ねた声で訴える。
イエローゴールドの前髪がばらけて目元を隠し、憔悴の色が激しい表情は窺い知れない。
耳たぶまで赤らんでいるのは嘘寝の照れか熱のせいか。
弟が素直に甘えてくるなどめったにない。寝言なら寝言でいい、そういうことにしておく。
ピジョンは尻を戻し、心許なげなスワローの手をしっかり握り直す。
「どこにもいかないよ。ずっとそばにいる」
「うん……」
もにゃもにゃと呟いて、ほんのかすか口元を緩める。
子供の頃とまるで同じだ。
ピジョンが先に起きていなくなると、スワローは大声でさがしまわった。
「俺が寝るまで……」
「寝てからも。寝たあとも」
おくれ毛を指で梳き、ピアスだらけの耳の外郭にかけてやる。
起きている時は憎たらしいけど寝ている時は可愛い。
黙っていれば美少年なのだ、弟は。
自分と血が繋がってるのが信じられないほどに。
「可愛いスワロー」
額にあてた手で熱を吸い上げ、囁く。
「俺のスワロー」
お前がはなしてくれなきゃどこにも行けない。
けれども、こんなに可愛いお前をふりほどけるわけがない。
スワローが以前、風邪で寝込んだ時にしてくれた事を思い出す。
ピジョンが唄って欲しいと乞えば恥を忍んでこたえてくれた、意地っ張りで素直じゃない弟に今してやれることを考え、無防備な顔の横にゆっくり手を付く。
スワローの唇は燃えそうに熱かった。
「……あんまり素直だと調子狂うな。憎たらしいくらいがちょうどいい」
だから、早く元気になれ。
「伝染してくれてもいいよ。お前に優しくしてもらえるならそれもいい」
熱が下がるように願い、唇を重ねる。
放しがたく離れがたい手を再び握り締めたのち、首から外したドッグタグを手のひらに潜らせる。
「ボウルの水かえてくる」
代理のタグを持たせ、ぽんぽんと頭を叩いて離席する。
ベッドに横たわったスワローは手中のタグを握るや、緩慢な動作で口元へ持っていき、夢半ばでキスをした。
しょっぱなヤな予感がした。
「まさか風邪かよ」
喉がいがらっぽい。身体が熱くてけだるい。なんもかんもやる気が起きねえ。たまにはそんな日もある、特に二日酔いの朝は。いや昼?どっちでもいい。
思えば昨日の夜から具合が悪かった。踊るのを早々に切り上げ、夜遊びもそこそこに帰ってきたのは変な咳が出るからだ。
「しくった」
期せずして舌打ち。
アウトローリングのルールは早いもん勝ち、午前中に駆けこまねえといい依頼はみんなかっさらわれちまって残ってんのはコソ泥だの結婚詐欺師だのチンケな賞金首ばかりだ。
余りもんで満足できっか、ノロマどもに先越されるなんざ冗談じゃねえ。毛布を剥いで起き上がりしな、咽喉に血の味がのぼってくる。
「げほげほげほげほげほっ!!」
激しく咳き込んで突っ伏す。全身べっとり嫌な汗をかく。心臓の鼓動も早え。這いずってでも行くか、知らんぷりで二度寝をきめこむか究極ってほどでもねえ二択を迫られる。
……いいや、寝ちまえ。
悪寒と倦怠感が体を支配し、ベッドに転がって毛布をひっかむる。
束の間の平穏はせっかちな足音と声にぶちやぶられた。
「もう昼だぞ早く起きろスワロー、アウトローリングに遅れる」
「るっせえ駄バト、寝かせとけ」
「ベッドと添い遂げる気なら止めないけどね」
寝室のドアを開け放ってピジョンが乗り込んでくる。コイツの方から訪ねてくるなんて寝汚い俺に痺れを切らした時くらいなもんだ、一歩でも踏み込んだらナニされるかわかってやがる、だから俺は時々わざと寝坊のカマをかけピジョンを取って食うのだ。
が、今日はお芝居じゃねえ。本当に体調が悪ィのだ。
だからってそれを口に出すのも癪だ、僕調子が悪いんだから手加減してよお兄様ってか?
くそったれ、口が裂けても言うか。
鈍感なピジョンは俺の気も知らず毛布をひっぺがそうとする。
だるい体に鞭打ち逆らい、毛布をまとって巣篭り。
毛布の引っ張り合いに負けたピジョンがぽかんとマヌケ面をさらす。
「お前……具合悪いのか?ひょっとして熱ある?」
あるよ大アリだよ、いちいち言わせんじゃねえ喉痛えんだ。マシンガンのように罵倒してやりてえのをぐっとこらえる。
俺が風邪だと知ったピジョンの狼狽ぶりはなかなか見ものだった。日頃ぴんしゃんしてるぶん、ぐったりしてんのが珍しかったのかもしれない。
こちとら息するだけでも焼けるように喉が痛い、関節痛で手足が軋み瞬きすらも億劫だ。寝汗をびっしょり吸ったタンクトップが肌の毛穴を塞いで気持ち悪ィ、茹だった頭じゃマトモに思考が働かねえ。
「さわんな、うぜえっての」
「熱はからせろよ」
「手のひらでわかるもんか」
「ちょっと待ってろ、体温計もってくる」
「いらねーよ」
「駄目だって」
ピジョンは心配性をこじらせてる、17になった弟の世話を焼くのがコイツの生き甲斐だ。母さんの代わりとでも思い上がってやがんのか、だとしたらお笑い草。
ピジョンはドタバタ家中駆け回って体温計だの氷枕だのを用意した。やかましい物音が癇に障った。
俺が腋の下に挟んだ体温計を一瞥、ピジョンが嫌味ったらしく感心する。
「殺しても死なないお前が風邪ひくなんて空からジェリービーンズが降るな」
「大喜びで啄んどけ。ボーッと上向いてるだけで食費が浮いてラッキーだろ、デフォルトで口閉め忘れてるマヌケ顔が役に立ったじゃん」
「無理して悪態吐くなよ」
そう言ってため息。知ったことか。俺にとっちゃ悪態は息とおんなじ、吐いてないと生きてけねえ。
風邪をひいてよかったことと言ったら、ピジョンを自由に使いパシれる位だ。ベッドでゴロ寝した俺のわがままを、ピジョンは片っ端から叶えてくれた。テレビが見たいとねだれば居間から移し、漫画が欲しいとごねりゃ近所の本屋に飛んでった。
ピジョンを顎でこき使うのは楽しい。アイツが俺のために何かしてんの見ると心が安らぐ。
俺を寝かし付けたあとピジョンはキッチンに引っ込んだ。コトコト調理の音がする。湯気に乗じて漂ってくる牛乳の匂い……風邪ん時の定番メニュー、ミルク粥だ。甘党兄貴のこった、どうせまた大量に砂糖ぶちこむのに決まってる。
食えたもんじゃねえぞ、ったく。それよか味見でたいらげちまわねえか不安だ。
「……自分の面倒くらい余裕で見れらァ」
俺なんかほったらかしてアウトローリング行ってくりゃいいのに。
ピジョンの干渉が煩わしく厭わしい反面、愛しさと嬉しさをかきたてる。
アイツん中じゃ俺はずっと小さいまま、助けを必要としてる弟なのだ。ひとりじゃ靴紐も結べねえガキ。
扉の隙間から流れてくる粥の匂いが懐かしい記憶を刺激する。ピジョンが風邪で寝込んだ時、母さんが作ってくれた。
母さん、どうしてんだろ。
いまもせっせと男を股ぐらに咥えこんでんのか。
「アホくさ」
ホームシックは柄じゃねえ。
風邪で気が弱くなってると認めるのは癪だが、瞼の裏に浮かんでくるのは昔の事ばかりだ。
ピジョンがいて、母さんがいて、俺がいた遠い昔。
しばらくしてドアが開き、ピジョンがお手製ミルク粥を運んできた。
「できたよスワロー」
「げほげほげほがっがほっ!!
喉が焼けるように痛み、毛布を掴んで突っ伏す。ピジョンが顔を曇らせる。
「また酷くなってないか?意地張らず医者行けよ」
「ぜってえやだ」
「なんでだよ、注射が怖いとか?」
「たいしたことねェのに医者なんか行ったらぼられんだろ、風邪なんて寝ときゃ勝手に治んのに騒ぎすぎだっての」
「たいしたことあるかないか診てもらわなきゃわかんないだろ、こじらせて肺炎になったら大変だ」
「医者なんてろくでもねーのばかりだ。母さんの馴染みのヤブ覚えてる?」
「ライナーさん?ドイルさん?ロバートさんもいたっけ」
「俺がちびん時お医者さんごっこしねえかって」
「え」
ピジョンが絶句するのがおもしれえ。鳩がジェリービーンズの散弾くらったような顔。
母さんの馴染みの医者に手をだされたのはホント。確か俺が5歳の時だ。それが原因で医者嫌いになったってのは口からデマカセ、ヤブにかからねェ為の方便。
赤の他人、それも男に体中べたべたさわられんのは気持ち悪ィし苦い薬や注射も願い下げ。我ながらガキっぽい理由だとあきれるが、嫌なもんは嫌なのだ。
俺にべたべたすんのが許されんのはイイ女とピジョンだけだ。イイ女の範疇に母さんもギリ入れてやる、年増なのがネックだけど。
「ちょっと待て、ちびん時って何歳だよ。5歳?6歳?何されたんだ」
脱がされてあちこちいじられたり、裸の胸に聴診器をあてられただけだ。
そのあと股間に手を導かれて揉まされたが、力一杯握り締めてやったらすげえ顔したっけ。ざまみろ。
「母さんにゃ内緒って約束で千ヘルむしったよ。もうけた」
「聞いてないぞそんな……どうしてすぐ言わないんだよ」
冷めきった俺の心と裏腹に、納得いかないピジョンが食い下がる。
「母さんの馴染みに何かされたらすぐ呼べって言ったろ」
「相変わらずおめでてェな、来たとこで何ができんだ」
守れもしねェくせに。
「絶対やめさせた」
まっすぐに俺を見詰め、力をこめて断言する。
兄貴は本気に見えた。本当にめでてェヤツ。
ああそうさ認めてやる、コイツは死ぬほどお人好しの単純馬鹿だからもし俺が車の陰で助けを求めたら蟻んこの観察打ち切ってすっとんできたかもしれねえ。
で、どうなる?標的が変わるだけか仲良く肩を並べて変態の餌食になるかどっちかだ。
俺がオモチャにされるのは別にいい、物心付いた頃からなれっこだ。だけど兄貴は別、俺のモノにゃ指一本さわらせねえ。
「医者はやだね。口止め料むしれんならともかく、カネ払って他人にあちこちさわらせるなんて意味わからねェ」
その後ピジョンは俺にミルク粥を食わせた。正直こそばゆかった。肝心の粥は作ったヤツまんまの気の抜けた味がした。
ミルクで煮こんだ米粒はペースト状になり、腫れた咽喉をすべりおちていく。まるで餌付けだ。
次に俺を脱がして汗を拭く。ピジョンの手付きは眠たくなるほど優しく丁寧で、自分が何か価値のあるものになった気さえしてくる。
ドッグタグを外すのは拒否った。当たり前だ。
途中コヨーテ・ダドリーんとこで付いた傷がバレてヒヤッとしたが、上手くごまかせたはずだ。俺の身体に傷が増えた理由なんてコイツは知らなくていいこった。
ピジョンの方が痛そうな顔してんのがおかしくてからかってやる。
「慰めてくれよ」
冗談だった。なのにピジョンは真に受けた。おもむろに俺におっかぶさり、無防備な脇腹にキスをする。
「ッ…………、」
不意打ちは反則だろ。
俺の腹にキスをしたピジョンは、ピンクゴールドの前髪を散らし、ひたむきな上目遣いでこっちを見てくる。
「他にしてほしいことは」
フェラチオ。素股。アナルセックス。
ふざけた軽口が浮かぶが、切羽詰まった今のピジョンなら全部やりかねない気がして言うのが憚られた。
いや、さすがにねえか。フェラチオまでならイケっかもだけど、それ以上は体に障るとか熱が上がるとか全力で拒否るはずだ。ていうか、拒否ってくんねーと困る。
体は死ぬほどしんどいのに、心は死ぬほど抱きたがってる。ピジョンの馬鹿が挑発するからだ。
くちびるが触れた場所からじれってえ熱が広がって疼きだす。
欲しいものなんて最初っから決まってる。
大真面目なピジョンの顔をまともに見れず、俯いて片手を投げだす。
「……ん」
どうかしてる。わかってる。全然俺らしくねえ。でも仕方ねえ、全部ピジョンが悪い。お前のせいで身体のどこもかしこも火照ってちまって、手でも握っててもらわねえと自分を押さえこめねえんだ。
ピジョンは微笑んで俺の手を握る。ひんやりした手が気持ちいい。ガキの頃はよくこうして手を繋いで寝たっけと思い出す。
俺のピジョン。
可愛い兄貴。
食っちまいたい。
息をするだけで咽喉が焼ける、体はだるくてしんどい、陽炎のように視界が霞む。ピジョンの手を握ってると、それがちょっとだけ、だいぶマシになる。
ピジョンの手に手を絡めたまま、束の間うたた寝する。
夢を見た。懐かしい夢だ。
昼寝から目が覚めると隣にいたはずのピジョンが何故か忽然と消えていて、俺はちょこまかと兄貴をさがしまわる。クローゼットを開け、抽斗を開け、しまいにゃキッチンの収納庫を開け、トレーラーハウスの中を大声あげてひっかきまわす。
『ピジョ』
どこだ。
『ピジョ?』
どこだよばかったれ。
俺をほうってどっかいくなよ、ちゃんと手ぇ握ってろよ、呼んだらすぐ出てこいよ。俺はめちゃくちゃに暴れ狂い、シーツを引っこ抜いて抽斗は全開にし、冷蔵庫ん中のものを全部かきだし、トレーラーハウスの中心で顔をくしゃくしゃにして叫ぶ。
『ピジョ!』
「……手ェ握って」
おいてかれんのやだ。
遠ざかる背中にほんの僅か前のめって呼びかけ、記憶と混同した夢半ばで手を掴む。
熱と涙で潤む目をしばたたき、汗でしんなりしたイエローゴールドの髪をたらして俯く。
子供の頃と面影がダブるピジョンが帰ってきて、ベッドの端っこに行儀よく座る。
「どこにもいかないよ。ずっとそばにいる」
「うん……」
もにゃもにゃと呟いてほんのかすか口元を緩める。
「俺が寝るまで……」
「寝てからも。寝たあとも」
腫れ塞がった喉の痛みも全身に走る悪寒も、ピジョンの囁きと手だけでふしぎと癒されていく。
「可愛いスワロー。俺のスワロー」
ピジョンがこんなこと言うわけねえ。だからきっと、これは夢だ。高熱が生み出す都合のいい夢。
ピジョンは俺を甘やかし、求愛のように囀って、啄むようなキスをする。
「あんまり素直だと調子狂うな。憎たらしいくらいがちょうどいい」
すり抜けた手のかわりに冷たく固い物がもぐりこむ。ドッグタグだ。
「伝染してくれてもいいよ。お前に優しくしてもらえるならそれもいい」
兄貴がぽんぽんと俺の頭を叩き、今度こそどこかへ去っていく。俺は追わなかった。代わりのタグが手の中にあるからだ。ピジョンは絶対帰って来ると確信、ドッグタグを唇に運ぶ。
たまには看病してもらうのも悪くねえなと思った。
「ぶえっくし!!」
「くしゃみに可愛げがない。減点」
スワローときたらまったくエチケットがなってない、くしゃみをする時も口をおさえず唾と菌を盛大に撒き散らす。
片手を立てて唾を避け、眉を曇らすピジョンの顰蹙を買い、スワローが洟を啜ってぼやく。
「何のコンテストだよ」
「俺の素直で可愛い弟コンテストかな」
「審査員も出場者も1人っきゃいねえんだから自動的に優勝だろ」
「さがせばもっといるかもね」
「育ちが悪ぃんだから大目に見ろ」
「同じ環境で育った身として認めたくない言い訳だな」
思えば昨夜から具合が悪そうだった。アレは酔っ払いの特徴ではなく風邪の兆候だったのか。
ピジョンがスワローの異変に気付いたのは数分前。
昼近くまで寝ているのに痺れを切らして叩き起こしにきたら、毛布を被って丸まっていた。
「いい加減起きろ、昼だぞ」「るっせ、ほっとけ」「アウトローリングにいくぞ」「かったりぃからパス」「パスって、生活費はどうするだよ?家賃滞納したら大家さんがうるさいぞ、キャサリンの命がかかってるんだ」「一人で行ってこい」「俺が選んだ依頼に文句付けなけりゃね」「テメェが選んでくんなァ結婚詐欺だのケチなコソ泥だのザコばかりじゃねーか」「女性を食い物にする悪党をほっとけないだろ」
毛布をひっぺがそうとするピジョンと、しぶとく抵抗するスワローの押し問答は数十秒間続いた。
途中でピジョンは違和感を抱く。
毛布から垣間見える顔がやけに赤い。息遣いも苦しそうだ。
「お前……具合悪いのか。ひょっとして熱ある?」
「別に」
「嘘吐け、汗びっしょりじゃないか。見せてみろ」
しっとりした髪が纏わる額に手をかざせば、ぞんざいに払いのけられてしまった。
「さわんな、うぜえっての」
「熱はからせろよ」
「手のひらでわかるもんか」
「ちょっと待ってろ、体温計もってくる」
「いらねーよ」
「駄目だって」
面白いほどうろたえる。
毛布を剥いで上体を起こすスワローに「じっとしてろよ」と念押し、洗面台に消えるピジョン。
続いて戸棚をかき回す物音が響き、さほど待たせず体温計を持って帰って来る。
「これ挟んで」
「自分でやるよ、ひっ付くな」
ピジョンからひったくった体温計を腋の下に挟む。
軽快な音が鳴ると同時に抜いてジト目で凝視、スワローの顔がみるみる不機嫌になっていく。
脇から覗き込んだピジョンが眉をひそめ、体温計を奪い返す。
「いわんこっちゃない、薄着で遅くまで出歩いてるからだ」
「ちゃんと羽織って出たよ」
「タンクトップなんて肌着みたいなもんだろ、上に一枚羽織っただけじゃ効果ないって」
「テメェの汗と血と色んな体液が染みこんだボロコートよかマシだね、ホツレだらけじゃねーか」
「俺のコートの事は今いいだろ」
憎まれ口に覇気がない。本当に体調が悪いのだ。
思い返せば、毛布を引っ張る手も少し弱々しかった。ピジョンはため息を吐いてベッドに起き上がった弟を観察する。
黒いタンクトップは汗を吸って肌に張り付き、会話で体力を消耗したのか、息はさっきより荒くなっている。
ピジョンは体温計を振ってぼやく。
「殺しても死なないお前が風邪ひくなんて空からジェリービーンズが降るな」
「大喜びで啄んどけ。ボーッと上向いてるだけで食費が浮いてラッキーだろ、デフォルトで口閉め忘れてるマヌケ顔が役に立ったじゃん」
「無理して悪態吐くなよ」
本当にスワローときたら、口から先に生まれてきたような毒舌だ。
体温計で計ったところかなりの高熱だった。口を利くのさえ辛いだろうに、強がって隙を見せまいとする。
意地っ張りな弟にあきれたピジョンは有無を言わせず命令する。
「寝てろ」
「暇で死んじまう」
「暇で死んだ人は世界が始まってから一人もいないから安心しろ」
「わかんねーじゃんそんなの」
スワローはじっとしてるのが死ぬほど苦手だ。子供の頃からそうだった、しょっちゅうちょこまか動いてはピジョンを手こずらせたが風邪となれば話は別。
ピジョンは洗面所へ行き、プラスチックのボウルに水を注いでロックアイスを入れる。そこへハンドタオルを浸し、いそいそスワローの寝室に引き返す。ドアから寝室を覗くと同時、うっかりボウルを手放しそうなほど仰天。
「スワロー!!」
「やべ」
ベッドに起き直ったスワローが一服しようとしていた。
水が跳ねる勢いでボウルをおいてライターと煙草を没収。
ドッグタグとナイフの次に大事な煙草とライターをもぎとられたスワローが、尖った犬歯を剥いて抗議する。
「ざけんな、返せ」
「喉腫れてるのに煙草とか何考えてるんだ、全快するまで許さないからな」
「大袈裟にすんな、こんなのどうってこと」
スワローが体を折って激しく咳き込む。
ベッドに突っ伏して咳き込む弟を見るに見かね、傍らに跪いて背中をさすってやる。
「急に大きな声だすから……」
「~~ッ、てめぇがイラツかせっからだろげほがほっ」
咽喉をおさえて涙目のスワロー。熱っぽい瞳でピジョンを睨み、嗄れた声で罵る。
「病人が喫煙なんて論外。飲酒もだめ。夜遊びも」
「人生の楽しみを奪うなよ」
「もっと高尚な楽しみ見付けろ、クロスワードパズルとか外の枯れ葉が落ちてくの数えるとか」
「で、最後の一枚が落っこちる時にむかえがくるってか」
ピジョンはこれ見よがしにため息を吐き、スワローから取り上げた煙草とライターをポケットにしまいこむ。
それからタオルをよく絞り、几帳面に折り畳んでスワローの額へ持っていく。
スワローはぷいと横を向く。
「こっち向け」
「やだ」
「手間かけさせるな」
「お前の命令なんて聞かねー」
「お願いしてるんだよ」
仕方ない。
ピジョンはスワローの耳元で優しく囁く。
「いい子だから。な?」
「その手は……」
今だ。
スワローが隙を見せた一瞬、顎を掴んで力ずくで固定し額にタオルをのっける。
「テメ」
「何か欲しいものある?食べたいものとか飲みたいものとか」
「ビール」
「アルコール以外」
「クソ使えねえ」
スワローが舌打ち、イエローゴールドの髪がばらける。
ピジョンは苦笑いして腰を浮かす。
「汗かいて喉渇いたろ、レモネードかなんか作ってくる」
「……コーラがいい」
「OK、冷蔵庫見てくる」
やっぱり、スワローは元気がない。本来ならもっと憎まれ口が返ってくるはずだ。大丈夫なのか。医者に診せた方がよくないか。でもカネが……いや、スワローの一大事にカネなんて気にしちゃられない。
たとえスワローが風邪をひいた原因が薄着で夜遊び女をとっかえひっかえ遅くまで飲み歩いた自業自得の極みでも、熱にうかされ苦しむ弟をほっとけない。
スワローは17歳だ。今のご時世17歳は成人の範疇だ。とっくに子供を作って父親や母親になっている者も多い。けれどもピジョンにしてみればスワローはまだ子供、やることなすこと危なっかしく手のかかる弟だ。
母さんのぶんまで俺がしっかりしなきゃ。
アイツの面倒見てやらないと。
様子がおかしいのにもっと早く気付くべきだった、昨日の時点で薬を飲ませてれば悪化しなかったかもしれない。スワローは大の薬嫌いだから、帰ってすぐベッドに直行したに決まってる。
風邪と泥酔の見わけも付かないなんて俺の目は節穴か?
キッチンへ赴き冷蔵庫を検める。ろくなものがない。日々ピザの出前やデリカッセンの総菜で済ませてるツケが回ってきた。
コーラが1本残っていたのを見付け、栓抜きやコップと一緒に取ってもどる。
「お待たせ」
スワローはベッドにぐったり横たわっていた。ピジョンがコーラの瓶を掲げると億劫そうに起き上がり、「遅ェ」と顎をしゃくる。
尊大な態度にムッとするが、相手は病人だと自分に言い聞かせて耐える。
「ちょっと待て、今開けるから」
テーブルにコップをおき、栓抜きで王冠を回そうとしたピジョンから瓶をひったくり、愛用のナイフの切っ先を噛ませる。
「いたっ!?」
ポン、空気が抜ける音に続いて勢いよく外れた王冠がピジョンの額を直撃。
スワローは構わず瓶を手掴みで一気飲み、うまそうに喉を鳴らす。
「コップ使えよ、せっかく持ってきたんだから」
「いちいち注ぐかよ面倒くせえ」
コーラを半分ほど干して大きくげっぷ。
顎に滴る雫を手の甲で拭い、だるそうにピジョンを振り返る。
「アウトローリングは?早く行かねーといいの持ってかれちまうぜ」
「お前をおいていけないだろ」
「そりゃまた優しいこって。家賃は?払えんの」
「頑張ってやりくりする」
コーラで喉の火照りが癒えたのか、少し楽になったスワローがベッドに寝転がる。ピジョンは安堵の色を浮かべ、はだけた毛布を首まで掛け直す。
その日、ピジョンはほぼ付きっ切りでスワローを看病した。
「暇だ、テレビ持ってこい」「居間の?」「それ以外にあるかよ」「配線が面倒臭いし」「今にもくたばりそうな病人のお願い断んの」「わかったよ」「暇だ、漫画買ってこい」「テレビは?」「ろくなのやってねえじゃん」「お前が見たいって言ったんだろ」「今は漫画の気分なんだよわかれよ」
哀しいかな、ピジョンはベッドに寝たきりの弟に顎でこき使われた。スワローがテレビを見たいとごねればベッドの正面にセッティングしてやり、漫画を見たいとねだれば近くのマガジンスタンドまでとんでった。
少しでもスワローが楽になればとただそれだけを願い、ピジョンは身を惜しまず奔走する。
希望通りテレビと漫画を与えられたスワローといえば、熱は上がり咳が激しくなる一方だ。
ピジョンはキッチンに立ち、深鍋でミルク粥を煮込む。母直伝、風邪の時の定番料理だ。
スプーンで一口味見、「甘さが足りないか」と砂糖を一匙足してよくかきまぜる。
「よし」
鍋を火からおろして深皿に中身を移す。
湯気に乗じて広がる匂いが食欲をそそる。
「もうひと口……」
ダメだ、スワローが腹を空かせて待ってるのに。
震える手で匙を近付けては遠ざけ、断腸の思いで誘惑を断ち切る。
魔がさす前にと皿をボードに移し、寝室へ持っていく。
「できたよスワロー」
「げほげほげほがっがほっ!!」
スワローはベッドに突っ伏して死にそうな顔色。全身汗びっしょりで、タンクトップが素肌に吸い付いている。イエローゴールドのモップ髪が全体的にしおたれて、痛々しいほどの憔悴ぶりだ。
「また酷くなってないか?意地張らず医者行けよ」
「ぜってえやだ」
「なんでだよ、注射が怖いとか?」
「たいしたことねェのに医者なんか行ったらぼられんだろ、風邪なんて寝ときゃ勝手に治んのに騒ぎすぎだっての」
「たいしたことあるかないか診てもらわなきゃわかんないだろ、こじらせて肺炎になったら大変だ」
「医者なんてろくでもねーのばかりだ」
スワローが皮肉っぽく口の片端を持ち上げ、ぬるくなったコーラの残りを飲み干す。
空き瓶を力なく床に転がし、ピジョンに一瞥よこす。
「母さんの馴染みのヤブ覚えてる?」
「ライナーさん?ドイルさん?ロバートさんもいたっけ」
「俺がちびん時お医者さんごっこしねえかって」
「え」
初耳だ。ピジョンの顔が引き攣る。
「ちょっと待て、ちびん時って何歳だよ。5歳?6歳?何されたんだ」
「母さんにゃ内緒って約束で千ヘルむしったよ。もうけた」
「聞いてないぞそんな……どうしてすぐ言わないんだよ」
幼い弟が母の馴染みにイタズラされていたのにも気付かないなんて。咄嗟にスワローの肩を掴んで乗り出す、罪悪感に駆られるがまま揺さぶる。
「母さんの馴染みに何かされたらすぐ呼べって言ったろ」
「相変わらずおめでてェな、来たとこで何ができんだ」
守れもしねェくせに。
「絶対やめさせた」
スワローに変なことするなんて許さない。
知りたくなかった事実を突き付けられ、ピジョンの顔がやるせなく歪む。
拳を握り込んで自分を責める兄に対し、寝返りを打って鼻を鳴らすスワロー。
「医者はやだね。口止め料むしれんならともかく、カネ払って他人にあちこちさわらせるなんて意味わからねェ」
過去のトラウマがあるなら無理強いしたくない。葛藤の末、しばらく様子を見ることにする。
厚手の皿によそった粥をすくい、匙をスワローに近付ける。
「ほら、ミルク粥。腹減ったろ」
「いらねえ」
「栄養付けなきゃよくならないぞ」
「粥なんて食う気しねー」
「お前のために作ったんだぞ」
「食わせてくれよ」
「仕方ないな……」
スワローが起きるのを手伝い、粥に息を吹きかける。口を窄めて粥を冷ますピジョンを、スワローがおかしそうに観察している。
「口開けろ」
「ん」
「あーん」
スワローが大人しく口を開ける。扁桃腺が腫れていた。注意深く匙を入れれば、殆ど液状の粥を力なくって嚥下する。
「うまいか」
「……わかんねえ」
「砂糖足りなかったかな」
改善点ありだな、と心の中でメモする。
その後もピジョンは粥を冷ましてスワローの口に運び続けた。まるで鳥の餌付けだ。ピジョンはほのぼのと顔を和ませて懐かしむ。
「キャサリンにピペットで水あげてたの思い出す」
「鶏と比べんな」
「お前より可愛げあるよ」
罵詈雑言の倍返しに身構えるものの、予想を裏切りスワローは大人しい。いよいよ体調が悪化してきたのか、口論をくり広げる余力も失くしてしまったようだ。
スワローはミルク粥を三分の一食べた。
「もういいのか」
「ああ……」
残りはピジョンが綺麗に食べた。
からの鍋と皿をシンクに浸けて戻り、苦しげに咳をするスワローに付き添って体を拭いてやる。
「離せ、自分でやる」
「お前の裸なんか見慣れてる」
「恥ずかしがってねェようぜえんだよ」
スワローに万歳させ黒いタンクトップを脱がす。汗でぐしょ濡れだ。また熱が上がったのか、肌が全体的に赤らんでいる。
ボウルに汲んだお湯でタオルを濡らして絞り、几帳面に折り畳む。
腕まくりして傍らに跪き、しなやかに引き締まったスワローの身体を浄めていく。
スワローは美しい体をしていた。
すべらかな首筋と尖った喉仏、薄い胸板と割れた腹筋、恥骨の突起がアクセントになる形よい細腰。
大人になりかけの少年の色香が、華奢な骨格に滴っている。
清拭の最中に生唾を飲み、首を振って欲情を戒める。
裸の胸元にはピジョンとおそろいのタグの鎖が縺れていた。
「外すぞ」
「やだ」
「かけたままじゃ邪魔だろ」
「余計なことすんな」
スワローがピジョンの手をひっぱたき、強情な顔付きでタグを握りこむ。
「……いい。このまんまで」
「わかったよ」
仕方なくそのままにして胸板を拭く。鎖に手をかけて少し持ち上げ、タオルに汗を吸わせる。
スワローは絶対タグを外さない。
どんなに体調が悪くても、否、だからこそ手放さない。
彼にとっては唯一無二のお守りなのだ。
弟が口には出さない本音がいじらしくて、首から爪先まで心をこめて拭き終える。
「終わったぞ」
「ああ……」
礼は言わないスタイルだ。タオルをボウルの縁にかけて腰を上げ、ふと脇腹の傷痕に気付く。
「前からあったっけ。犬に噛まれた痕みたいな」
もう完治しているが、他と比べて新しい気がする傷痕をなにげなく指さす。スワローの表情が一瞬豹変、すぐまた戻る。
「坑道ん時のだろ?コヨーテに噛まれたんだ」
「嘘だ、あの後シたけど気付かなかったぞ」
「初めてでいっぱいいっぱいだったかんな、俺の身体隅々までじっくり見たって断言できる?」
反論できない。
「……痛かった?」
「別に、どってことねェよ。お前に言われるまで存在忘れてた」
数年前の傷痕にしては新しく見えるそれを見詰め、ピジョンは自分こそ痛そうに顔をしかめる。
おもむろに傷に手を添え、なでる。
「無茶はするなよ」
スワローが助けにきてくれたのは嬉しいし有り難いけど、もしコイツに何かあったら、ピジョンは自分が許せない。
あらためて見直せばスワローの身体は新旧大小の傷痕だらけだ。子供の頃から現在に至るまで、様々な相手と戦い傷付いてきた。
足手まといのピジョンを守り、庇って。
セックスの時は電気を消している事が多いから、自分で脱がすまで気付いてやれなかった。目だけ眇めて悪戯っぽく笑い、ピジョンに一瞥をよこす。
「慰めてくれよ」
くだらないおふざけ、無理を押した軽口。
傷痕を見せず強がる弟に愛しさを駆り立てられ、ベッドに乗り上げてスワローの脇腹に急接近。
「なん、」
「じっとして」
動揺を帯びた身じろぎを小声で制し、赤く痛々しい傷痕をくちびるで辿っていく。自分から言い出したくせに、スワローは面食らっている。
コイツにできることならなんでもしてやりたい。
兄さんとして。
それ以上に……
「他にしてほしいことは」
脇腹に穿たれた傷痕からくちびるを放し、悔しげに潤んだ目で睨み付ける弟に伺いを立てる。
しおらしいスワローは可愛い。
食べてしまいたい。
スワローが耳たぶまで染めて俯き、毛布の上に片手を投げだす。
「……ん」
握ってくれなんて口が裂けても言えない。
だからこんなひねくれた態度になる。
「わかった」
ベッドの端に掛け直したのち、物分かりよく大人びた微笑を浮かべてスワローの手をとり、息を吹きかけ擦り立てる。
やっぱり熱が高い。
手のひらから伝わる火照りが不安をもたらすが、すぐに安心させる笑みを取り繕い、余った手で髪を梳いてやる。
「他には」
「唄え」
「えっ」
「なんでもって言ったじゃん、嘘かよ」
ピジョンは歌が苦手だ。自分の歌唱力が弟に劣るのは子供の頃からいやというほど思い知らされているし、人前で唄うのは恥ずかしい。
スワローはピジョンと手を繋いだままジト目で無言催促。
兄に二言はない。
空咳で喉の調子を整え、覚悟を決めて深呼吸したのち、口を開けたまま固まってスワローを覗き込む。
「……なにを唄えば」
「ンなのテメェで考えろ」
「好きにしていいってことだよな?後出しで文句いうなよ」
弟の罵倒を拡大解釈、喉に息を通す。
以前母の誕生日に唄った讃美歌。ピジョンにとっては思い出の歌、スワローにはどうだかわからない。
風邪で臥せっている弟の為に、心をこめて歌を紡ぐ。
こみ上げる羞恥に耐え、目を瞑って集中し、楽しかった母の誕生会を瞼の裏に思い描いて、弟が早く癒えるようにと歌に託した祈りを捧げる。
スワローの美声には数段劣る。
リズム感もさほどよくない。
スワローを凌ぐ美点をしいて挙げるとすれば、ただどこまでもひたむきに、誠実の美徳を尽くす一点のみだ。
スワローはうっとり目を閉じ、際立って上手くも下手でもない、音程に正確を期す一生懸命さだけは伝わってくる歌声を聞いていた。
兄の歌声こそ世界一の子守歌だといわんばかりの安らいだ表情。
気持ち良さそうにまどろむ弟を一瞥、ピジョンの口元が満ち足りて綻ぶ。
「おやすみスワロー」
弟が寝入ったのを確かめ、額に軽くキスをする。
今さらながら空腹を思い出し、キッチンへ立とうと腰を上げるや、くいと手を引かれる。
ベッドに仰向けたスワローが片腕を敷いて顔を覆い、ピジョンの指の股にじれったげに指を噛ませる。
「……手ェ握って」
まるきり子供返りした、拗ねた声で訴える。
イエローゴールドの前髪がばらけて目元を隠し、憔悴の色が激しい表情は窺い知れない。
耳たぶまで赤らんでいるのは嘘寝の照れか熱のせいか。
弟が素直に甘えてくるなどめったにない。寝言なら寝言でいい、そういうことにしておく。
ピジョンは尻を戻し、心許なげなスワローの手をしっかり握り直す。
「どこにもいかないよ。ずっとそばにいる」
「うん……」
もにゃもにゃと呟いて、ほんのかすか口元を緩める。
子供の頃とまるで同じだ。
ピジョンが先に起きていなくなると、スワローは大声でさがしまわった。
「俺が寝るまで……」
「寝てからも。寝たあとも」
おくれ毛を指で梳き、ピアスだらけの耳の外郭にかけてやる。
起きている時は憎たらしいけど寝ている時は可愛い。
黙っていれば美少年なのだ、弟は。
自分と血が繋がってるのが信じられないほどに。
「可愛いスワロー」
額にあてた手で熱を吸い上げ、囁く。
「俺のスワロー」
お前がはなしてくれなきゃどこにも行けない。
けれども、こんなに可愛いお前をふりほどけるわけがない。
スワローが以前、風邪で寝込んだ時にしてくれた事を思い出す。
ピジョンが唄って欲しいと乞えば恥を忍んでこたえてくれた、意地っ張りで素直じゃない弟に今してやれることを考え、無防備な顔の横にゆっくり手を付く。
スワローの唇は燃えそうに熱かった。
「……あんまり素直だと調子狂うな。憎たらしいくらいがちょうどいい」
だから、早く元気になれ。
「伝染してくれてもいいよ。お前に優しくしてもらえるならそれもいい」
熱が下がるように願い、唇を重ねる。
放しがたく離れがたい手を再び握り締めたのち、首から外したドッグタグを手のひらに潜らせる。
「ボウルの水かえてくる」
代理のタグを持たせ、ぽんぽんと頭を叩いて離席する。
ベッドに横たわったスワローは手中のタグを握るや、緩慢な動作で口元へ持っていき、夢半ばでキスをした。
しょっぱなヤな予感がした。
「まさか風邪かよ」
喉がいがらっぽい。身体が熱くてけだるい。なんもかんもやる気が起きねえ。たまにはそんな日もある、特に二日酔いの朝は。いや昼?どっちでもいい。
思えば昨日の夜から具合が悪かった。踊るのを早々に切り上げ、夜遊びもそこそこに帰ってきたのは変な咳が出るからだ。
「しくった」
期せずして舌打ち。
アウトローリングのルールは早いもん勝ち、午前中に駆けこまねえといい依頼はみんなかっさらわれちまって残ってんのはコソ泥だの結婚詐欺師だのチンケな賞金首ばかりだ。
余りもんで満足できっか、ノロマどもに先越されるなんざ冗談じゃねえ。毛布を剥いで起き上がりしな、咽喉に血の味がのぼってくる。
「げほげほげほげほげほっ!!」
激しく咳き込んで突っ伏す。全身べっとり嫌な汗をかく。心臓の鼓動も早え。這いずってでも行くか、知らんぷりで二度寝をきめこむか究極ってほどでもねえ二択を迫られる。
……いいや、寝ちまえ。
悪寒と倦怠感が体を支配し、ベッドに転がって毛布をひっかむる。
束の間の平穏はせっかちな足音と声にぶちやぶられた。
「もう昼だぞ早く起きろスワロー、アウトローリングに遅れる」
「るっせえ駄バト、寝かせとけ」
「ベッドと添い遂げる気なら止めないけどね」
寝室のドアを開け放ってピジョンが乗り込んでくる。コイツの方から訪ねてくるなんて寝汚い俺に痺れを切らした時くらいなもんだ、一歩でも踏み込んだらナニされるかわかってやがる、だから俺は時々わざと寝坊のカマをかけピジョンを取って食うのだ。
が、今日はお芝居じゃねえ。本当に体調が悪ィのだ。
だからってそれを口に出すのも癪だ、僕調子が悪いんだから手加減してよお兄様ってか?
くそったれ、口が裂けても言うか。
鈍感なピジョンは俺の気も知らず毛布をひっぺがそうとする。
だるい体に鞭打ち逆らい、毛布をまとって巣篭り。
毛布の引っ張り合いに負けたピジョンがぽかんとマヌケ面をさらす。
「お前……具合悪いのか?ひょっとして熱ある?」
あるよ大アリだよ、いちいち言わせんじゃねえ喉痛えんだ。マシンガンのように罵倒してやりてえのをぐっとこらえる。
俺が風邪だと知ったピジョンの狼狽ぶりはなかなか見ものだった。日頃ぴんしゃんしてるぶん、ぐったりしてんのが珍しかったのかもしれない。
こちとら息するだけでも焼けるように喉が痛い、関節痛で手足が軋み瞬きすらも億劫だ。寝汗をびっしょり吸ったタンクトップが肌の毛穴を塞いで気持ち悪ィ、茹だった頭じゃマトモに思考が働かねえ。
「さわんな、うぜえっての」
「熱はからせろよ」
「手のひらでわかるもんか」
「ちょっと待ってろ、体温計もってくる」
「いらねーよ」
「駄目だって」
ピジョンは心配性をこじらせてる、17になった弟の世話を焼くのがコイツの生き甲斐だ。母さんの代わりとでも思い上がってやがんのか、だとしたらお笑い草。
ピジョンはドタバタ家中駆け回って体温計だの氷枕だのを用意した。やかましい物音が癇に障った。
俺が腋の下に挟んだ体温計を一瞥、ピジョンが嫌味ったらしく感心する。
「殺しても死なないお前が風邪ひくなんて空からジェリービーンズが降るな」
「大喜びで啄んどけ。ボーッと上向いてるだけで食費が浮いてラッキーだろ、デフォルトで口閉め忘れてるマヌケ顔が役に立ったじゃん」
「無理して悪態吐くなよ」
そう言ってため息。知ったことか。俺にとっちゃ悪態は息とおんなじ、吐いてないと生きてけねえ。
風邪をひいてよかったことと言ったら、ピジョンを自由に使いパシれる位だ。ベッドでゴロ寝した俺のわがままを、ピジョンは片っ端から叶えてくれた。テレビが見たいとねだれば居間から移し、漫画が欲しいとごねりゃ近所の本屋に飛んでった。
ピジョンを顎でこき使うのは楽しい。アイツが俺のために何かしてんの見ると心が安らぐ。
俺を寝かし付けたあとピジョンはキッチンに引っ込んだ。コトコト調理の音がする。湯気に乗じて漂ってくる牛乳の匂い……風邪ん時の定番メニュー、ミルク粥だ。甘党兄貴のこった、どうせまた大量に砂糖ぶちこむのに決まってる。
食えたもんじゃねえぞ、ったく。それよか味見でたいらげちまわねえか不安だ。
「……自分の面倒くらい余裕で見れらァ」
俺なんかほったらかしてアウトローリング行ってくりゃいいのに。
ピジョンの干渉が煩わしく厭わしい反面、愛しさと嬉しさをかきたてる。
アイツん中じゃ俺はずっと小さいまま、助けを必要としてる弟なのだ。ひとりじゃ靴紐も結べねえガキ。
扉の隙間から流れてくる粥の匂いが懐かしい記憶を刺激する。ピジョンが風邪で寝込んだ時、母さんが作ってくれた。
母さん、どうしてんだろ。
いまもせっせと男を股ぐらに咥えこんでんのか。
「アホくさ」
ホームシックは柄じゃねえ。
風邪で気が弱くなってると認めるのは癪だが、瞼の裏に浮かんでくるのは昔の事ばかりだ。
ピジョンがいて、母さんがいて、俺がいた遠い昔。
しばらくしてドアが開き、ピジョンがお手製ミルク粥を運んできた。
「できたよスワロー」
「げほげほげほがっがほっ!!
喉が焼けるように痛み、毛布を掴んで突っ伏す。ピジョンが顔を曇らせる。
「また酷くなってないか?意地張らず医者行けよ」
「ぜってえやだ」
「なんでだよ、注射が怖いとか?」
「たいしたことねェのに医者なんか行ったらぼられんだろ、風邪なんて寝ときゃ勝手に治んのに騒ぎすぎだっての」
「たいしたことあるかないか診てもらわなきゃわかんないだろ、こじらせて肺炎になったら大変だ」
「医者なんてろくでもねーのばかりだ。母さんの馴染みのヤブ覚えてる?」
「ライナーさん?ドイルさん?ロバートさんもいたっけ」
「俺がちびん時お医者さんごっこしねえかって」
「え」
ピジョンが絶句するのがおもしれえ。鳩がジェリービーンズの散弾くらったような顔。
母さんの馴染みの医者に手をだされたのはホント。確か俺が5歳の時だ。それが原因で医者嫌いになったってのは口からデマカセ、ヤブにかからねェ為の方便。
赤の他人、それも男に体中べたべたさわられんのは気持ち悪ィし苦い薬や注射も願い下げ。我ながらガキっぽい理由だとあきれるが、嫌なもんは嫌なのだ。
俺にべたべたすんのが許されんのはイイ女とピジョンだけだ。イイ女の範疇に母さんもギリ入れてやる、年増なのがネックだけど。
「ちょっと待て、ちびん時って何歳だよ。5歳?6歳?何されたんだ」
脱がされてあちこちいじられたり、裸の胸に聴診器をあてられただけだ。
そのあと股間に手を導かれて揉まされたが、力一杯握り締めてやったらすげえ顔したっけ。ざまみろ。
「母さんにゃ内緒って約束で千ヘルむしったよ。もうけた」
「聞いてないぞそんな……どうしてすぐ言わないんだよ」
冷めきった俺の心と裏腹に、納得いかないピジョンが食い下がる。
「母さんの馴染みに何かされたらすぐ呼べって言ったろ」
「相変わらずおめでてェな、来たとこで何ができんだ」
守れもしねェくせに。
「絶対やめさせた」
まっすぐに俺を見詰め、力をこめて断言する。
兄貴は本気に見えた。本当にめでてェヤツ。
ああそうさ認めてやる、コイツは死ぬほどお人好しの単純馬鹿だからもし俺が車の陰で助けを求めたら蟻んこの観察打ち切ってすっとんできたかもしれねえ。
で、どうなる?標的が変わるだけか仲良く肩を並べて変態の餌食になるかどっちかだ。
俺がオモチャにされるのは別にいい、物心付いた頃からなれっこだ。だけど兄貴は別、俺のモノにゃ指一本さわらせねえ。
「医者はやだね。口止め料むしれんならともかく、カネ払って他人にあちこちさわらせるなんて意味わからねェ」
その後ピジョンは俺にミルク粥を食わせた。正直こそばゆかった。肝心の粥は作ったヤツまんまの気の抜けた味がした。
ミルクで煮こんだ米粒はペースト状になり、腫れた咽喉をすべりおちていく。まるで餌付けだ。
次に俺を脱がして汗を拭く。ピジョンの手付きは眠たくなるほど優しく丁寧で、自分が何か価値のあるものになった気さえしてくる。
ドッグタグを外すのは拒否った。当たり前だ。
途中コヨーテ・ダドリーんとこで付いた傷がバレてヒヤッとしたが、上手くごまかせたはずだ。俺の身体に傷が増えた理由なんてコイツは知らなくていいこった。
ピジョンの方が痛そうな顔してんのがおかしくてからかってやる。
「慰めてくれよ」
冗談だった。なのにピジョンは真に受けた。おもむろに俺におっかぶさり、無防備な脇腹にキスをする。
「ッ…………、」
不意打ちは反則だろ。
俺の腹にキスをしたピジョンは、ピンクゴールドの前髪を散らし、ひたむきな上目遣いでこっちを見てくる。
「他にしてほしいことは」
フェラチオ。素股。アナルセックス。
ふざけた軽口が浮かぶが、切羽詰まった今のピジョンなら全部やりかねない気がして言うのが憚られた。
いや、さすがにねえか。フェラチオまでならイケっかもだけど、それ以上は体に障るとか熱が上がるとか全力で拒否るはずだ。ていうか、拒否ってくんねーと困る。
体は死ぬほどしんどいのに、心は死ぬほど抱きたがってる。ピジョンの馬鹿が挑発するからだ。
くちびるが触れた場所からじれってえ熱が広がって疼きだす。
欲しいものなんて最初っから決まってる。
大真面目なピジョンの顔をまともに見れず、俯いて片手を投げだす。
「……ん」
どうかしてる。わかってる。全然俺らしくねえ。でも仕方ねえ、全部ピジョンが悪い。お前のせいで身体のどこもかしこも火照ってちまって、手でも握っててもらわねえと自分を押さえこめねえんだ。
ピジョンは微笑んで俺の手を握る。ひんやりした手が気持ちいい。ガキの頃はよくこうして手を繋いで寝たっけと思い出す。
俺のピジョン。
可愛い兄貴。
食っちまいたい。
息をするだけで咽喉が焼ける、体はだるくてしんどい、陽炎のように視界が霞む。ピジョンの手を握ってると、それがちょっとだけ、だいぶマシになる。
ピジョンの手に手を絡めたまま、束の間うたた寝する。
夢を見た。懐かしい夢だ。
昼寝から目が覚めると隣にいたはずのピジョンが何故か忽然と消えていて、俺はちょこまかと兄貴をさがしまわる。クローゼットを開け、抽斗を開け、しまいにゃキッチンの収納庫を開け、トレーラーハウスの中を大声あげてひっかきまわす。
『ピジョ』
どこだ。
『ピジョ?』
どこだよばかったれ。
俺をほうってどっかいくなよ、ちゃんと手ぇ握ってろよ、呼んだらすぐ出てこいよ。俺はめちゃくちゃに暴れ狂い、シーツを引っこ抜いて抽斗は全開にし、冷蔵庫ん中のものを全部かきだし、トレーラーハウスの中心で顔をくしゃくしゃにして叫ぶ。
『ピジョ!』
「……手ェ握って」
おいてかれんのやだ。
遠ざかる背中にほんの僅か前のめって呼びかけ、記憶と混同した夢半ばで手を掴む。
熱と涙で潤む目をしばたたき、汗でしんなりしたイエローゴールドの髪をたらして俯く。
子供の頃と面影がダブるピジョンが帰ってきて、ベッドの端っこに行儀よく座る。
「どこにもいかないよ。ずっとそばにいる」
「うん……」
もにゃもにゃと呟いてほんのかすか口元を緩める。
「俺が寝るまで……」
「寝てからも。寝たあとも」
腫れ塞がった喉の痛みも全身に走る悪寒も、ピジョンの囁きと手だけでふしぎと癒されていく。
「可愛いスワロー。俺のスワロー」
ピジョンがこんなこと言うわけねえ。だからきっと、これは夢だ。高熱が生み出す都合のいい夢。
ピジョンは俺を甘やかし、求愛のように囀って、啄むようなキスをする。
「あんまり素直だと調子狂うな。憎たらしいくらいがちょうどいい」
すり抜けた手のかわりに冷たく固い物がもぐりこむ。ドッグタグだ。
「伝染してくれてもいいよ。お前に優しくしてもらえるならそれもいい」
兄貴がぽんぽんと俺の頭を叩き、今度こそどこかへ去っていく。俺は追わなかった。代わりのタグが手の中にあるからだ。ピジョンは絶対帰って来ると確信、ドッグタグを唇に運ぶ。
たまには看病してもらうのも悪くねえなと思った。
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