タンブルウィード

まさみ

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十六話

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犬は俺の恩人。
何故かって?聞いて驚け見て笑え、俺は犬に育てられた。
……なんだそのしらけたツラ。ははん、信じてねェな?それじゃあ話してやるよ、俺様の涙なしでは聞けねェ身の上話。いい?遠慮すんな、ホントは聞きてぇくせに。
いちばんはじめにあったのは真っ暗闇。
そこは真っ暗くて息苦しい場所で、全く身動きできなかった。体中の毛穴に何かが詰まった感覚……生きながら窒息していく絶望。
自分の身になにが起こってるかなんてわからねェ。俺はひとりぽっちでそこにいた。もがいて、あがいて、でも無駄だ。口を開けると何かがながれこんでじゃりじゃりしたが、それでも弱々しく泣かずにゃいられなかった。そのまんまあと数時間ほっとかれたらじきに窒息死、地獄へ送り返されていたろうさ。
どっこい、そうはならなかった。
ハッハッ……荒っぽい息遣い。
ハッハッ……だれかが、いやなにかが近付いてくる。
次第に上の方が明るくなって、おぼろに光がさしこんでくる。突然ぼかんと穴が開いて、強烈な光があふれた。生まれて初めて見る太陽の光……こっちをのぞきこむ、真っ黒い影。
ソイツは「わん!」と一声吠えた。熱い舌が俺の顔といわず体といわず全身べろべろなめまわす。
当時の俺は、それが「犬」って生き物だと知らなかった。
ろくに言葉もしゃべれねえ、よちよち歩きの赤ん坊だ。刷り込みなんて現象も知らなかった。
真っ暗闇から息を吹き返して二度目の産声を上げた時、俺は人間をやめて、犬の子に生まれ変わった。
お袋は土ん中に生き埋めにされた俺を、一心不乱に掻きだして助けてくれたのさ。エサをさがして徘徊中に、今にもかき消えそうな弱々しい泣き声を聞き付けて……
俺の親が、なんで赤ん坊を生き埋めにしたのかはしらねえ。しったこっちゃねえ。堕ろすカネがなくて産んではみちゃが手に余ったか、大方そんなことか。
俺が世界で唯一お袋とよぶのは、俺を股からひりだした淫売じゃねェ。他の兄弟と一緒に乳をのませて養ってくれたメス犬だ。
俺の命の恩人にして育ての親……お袋はどんな気まぐれか、てめえが見付けた赤ん坊に情でもわいたのか、土まみれの汚ねェかたまりを咥えて帰って、腹を痛めた子犬と分け隔てなく育て始めた。
兄弟はどう思ってたんだろうな……ちょっと毛色の違う新入り、位に思ってたのか。黒いの茶色いの斑のと連中もバラエティーに富んでたから、たまたま毛が生えてねェのがいても動じなかった。
案外すんなり俺は溶けこんだ。姿形がちょびっと違うからって、いじめられることもねえ。お袋がそれを許さなかったからだ。俺は毛むくじゃらの兄弟とじゃれあい、お袋の乳首をちゅぱちゅぱ吸って大きくなった。
お袋はとても魅力的なメス犬で、ハンサムなオス犬と番っちゃ、しょっちゅうぽこぽこ子どもを産んだ。
で、ソイツらは一年かそこらで独り立ちしていった。俺は図体のでけェ行き遅れで、乳歯が生えても末っ子扱い。犬は一年たちゃ大人だが、人間は手がかかるもんな。
ようやく乳離れしたころからお袋や兄貴にくっ付いて、残飯の漁り方をおしえてもらった。
栄養が足りねェなら狩りをするのをおぼえた。
危険を知らせる吠え方、縄張りの守り方……お袋は俺に、犬として地べたで逞しく生き抜く知恵と術を授けてくれた。

俺はお袋が大好きだった。
兄弟が大好きだった。

俺の家族は犬で、俺自身も犬だと思い込んで疑いもしなかった。
路地裏の残飯をあさるのに抵抗なんか感じねェし、泥水を啜るのも日常茶飯事。ネズミは生で食べた。もちろん糞尿はたれながし。一回も洗ってねェ体はシラミとノミだらけだが、お袋がキレイになめてくれるから問題ねぇ。
俺にゃ名前がなかったが、そんなもん必要なかった。
長短と高低を変えて吠えるだけ、寄り添うだけで心が通じた。
ある日、俺は兄弟とゴミ漁りにでかけた。
スラムのお宝スポットの路地裏、ポリバケツからあふれた残飯をあさってたら、突然知らねェ男たちに取り囲まれた。ソイツらは口々に何かを怒鳴り、網をぶん投げた。咄嗟の事で逃げるのを忘れた。手足に巻き付く網にもがく俺をひきずって、トラックの荷台にのせようとする男たち。
アレは保護じゃねえ、「捕獲」だ。
兄弟は狂ったように吠えたて、男たちに襲いかかった。俺は網を食いちぎろうと躍起になった。なんでこんなことになったんだ、エサをあさりにきただけなのに……男たちはわけのわからない言葉で喚く。網越しに兄弟に手を伸ばすが届かず、そこへお袋が駆け付けて、俺を取り返そうと凶悪な面構えで跳躍―
乾いた銃声が爆ぜた。
お袋の身体が宙でびくんとはね、どしゃりと落ちた。
目の前でお袋が撃ち殺された。それから―……記憶が途切れた。網ん中で無茶苦茶に暴れたのはボンヤリ覚えている。網の向こうには兄弟たち、地面に突っ伏したお袋を取り囲んでうなだれている。
四肢は微痙攣すれどもう立てず、濁った目玉が虚ろに俺を映し、力尽きて閉じられる。
あっけなく、お袋は死んだ。
畜生の最期だった。
あとで知ったこと。ちょっと前から、俺の存在は界隈で噂になってた。犬に育てられた犬人間がいるらしい、なんでも犬そっくりに啼いて四足で歩くんだとか、見世物にしたら高く売れるぞ……
俺を捕獲した人買い連中は、犬に育てられた犬人間のふれこみで、俺を芸人一座に売り飛ばした。お前も知ってんだろ、ジャンクヤードで人気のフリークショー……アレにでてたんだよ。首輪を付けられて、鎖で引き回されてな。お手、ちんちん、伏せ……生きるためならなんでもやった。
売り飛ばされてからはヒサンだったぜ。
檻に閉じ込められて家畜扱い、売り上げ少ねェ日は飯抜き。
座長と団員は性悪ぞろいで何か気に喰わねェことがあるたんび俺を殴る蹴るして憂さを晴らしやがる。お前は犬だから犬扱いが妥当だってのが連中の口癖だ。
まったく、檻の外のがどれだけ幸せだったかわかりゃしねえよ。少なくとも自由があった、お袋や兄弟たちがいた。名前なんて必要なかった、吠え方に僅かな変化を付けるだけで意志疎通が成立した。
一座に引き取られてからは「マッドドッグ」の芸名をお仕着せられたが、ちっとも馴染めやしなかった。
それでも歳月が過ぎて、俺は犬じゃねェ、犬人間としての自分を次第に受け入れ始めた。そうするよりほかなかったからだ。
座長や団員、客の受け売りで人語をおぼえ、書けはしねェがしゃべれるようになった。
団員の中に賢い奴がいて、暇を見ちゃ勉強を教えてくれたのも役に立った。
せいぜいはたちちょいのひょろっこい優男だったけどな……根性悪ぞろいの一座の中じゃ浮いてる新入りで、俺のことをそりゃあ憐れんでかわいがってくれたよ。
狂犬マッドドッグじゃあんまりだって、人の名前をこっそりくれたりな。
檻ん中で俺がなにを考えていたかわかるか。
もう一度外に出て家族に会いたい、ぶっちゃけそれに尽きる。
引き離された兄弟の安否が気になって、不安でたまらなかった。あの後すぐ荷台に放りこまれて、続けざまに銃声が響き、甲高い犬の悲鳴が弾けた。みんなどうなったんだ?俺を助ける為に無茶をして、お袋の二の舞に……

散り散りになった兄弟。
生き別れの家族。

転機が訪れたのは、今のお前と同じ年ごろになった時。
営業不振で一座の解散が決まって、俺はまた売られそうになった。
冗談じゃねえ。今度の買い手は人間を殺し合わせて賭けを行うギャングだと聞かされて、俺は脱走を決意した。犬死にはごめんだ。協力者を囲い込むのはむずかしくねェ。前からなにかと親切にしてくれた優男が、わざと檻の鍵を開けて、逃亡を手引きしてくれた。
そん時聞いたんだが、俺につけた名前は優男が昔飼ってた犬の名前だそうだ。
ショックだったか?いんや別に。かえって腑に落ちたね、優しくしてくれたわけが。
くそったれ一座で唯一俺を人間扱いしてくれた男が、俺ん中に最愛の飼い犬の面影を見出してたとすりゃ、犬人間冥利に尽きるじゃねえか。
餞別だよと言って、ソイツは最後に首輪をはずしてくれた。
そうして俺はふたたび娑婆に解き放たれたのさ……同じお袋の乳を吸って育ち、人間の身勝手に翻弄されて生き別れになった、同朋はらからをさがすために。

「―ってのが、俺の身の上話さ」
「長くて退屈。どんだけ盛ってんの、それ」
ここぞとドヤ顔をきめこむマッドドッグ・ドギ―に、おざなりな拍手を送って突っ込めば、「全部真実だよ」と不満げに返される。
「色々端折るが……そんなこんなで俺様は賞金稼ぎになったわけさ」
「犬に育てられた犬人間ね……眉唾だな」
「信じねェのは勝手だ。けどお前も見たろ?俺は犬の心がわかる」
確かに。
認めるのは大いに癪だがこのあばた面の醜男が寸手で制してくれたおかげで、スワローは境界線を跨がずにすんだのだ。あの異様な直感の冴えは、犬と気持ちが通じ合っているからといえなくもない。
スワローは警戒心と不審感を等分に割った視線で、隣を飄々と歩く男を観察する。
マッドドッグ・ドギ―と名乗るこの怪しい人物は、スワローと同業の賞金稼ぎで、今夜のショウに乗じて潜り込み、コヨーテ・ダドリーを挙げる算段らしい。早い話がライバルだ。はちあわせしたい相手ではない。
「コヨーテ・ダドリーの悪名は前からスラムに知れ渡ってる。血みどろドッグショーじゃ飽き足らず、悪趣味なスナッフポルノを撮って荒稼ぎする変態野郎。無茶苦茶な近親交配で短命、障害持ちの犬をわんさか作り出すのもほっとけねェ。とっくに動物愛護団体のブラックリスト入りを果たしちゃいるが、所詮は法権力や拘束力を持たねェ非営利団体NPO。賞金首として公けに登録されるまでだーれも手出しできなかったのさ」
馬鹿げた話だが、それが真実だ。スワローとて世間の理不尽は身に染みてる。この世界は善意や親切などでは動いていない、損得の勘定で回っているのだ。
たまたま同道することになったドギ―にうんざりする。
そもそも初対面で痴漢された相手に一度助けてもらったくらいで好感をもてるはずない、常識的に考えて無理だ。いくら目的が同じとはいえ、協力できるとも思えない。
ただでさえ少ないパイを争っている現状で、ライバルが増えるのは歓迎せざる事態だ。
スワローは腕を組む。
「話戻すけどさ。なんでケツさわったの」
「そこにケツがあったから」
「殺すぞ」
「運指だよ、指のトレーニング。本番前にトチって突き指でもしたら目もあてらんねーだろ?」
「ブチ殺すぞ」
「お前のケツは実にシュッとしてカタチがいい逸材だから、逆にさわんなきゃ失礼だろーが?ジーンズで強調された腰のくびれと臀のラインは生唾もんで、このケツを揉まなきゃきっと後悔するって……」
ごにょごにょと語尾が萎む。苦しい言い訳をひねりだし、汗まみれのあばた面に愛想笑いを浮かべるドギ―に、一歩踏み込んで脅しをかける。
「痴漢が趣味特技の賞金稼ぎたァ驚きだな。野郎のケツ揉みしだいて楽しいかよ?てめェのお袋とやらも息子がこんな変態に育っちまってがっかりだな」
「いいケツ見るとガマンできねーんだ、道端でさかるお袋を思い出してノスタルジックな里心がムラムラと……なあ知ってるか、犬はお互いのケツを嗅ぎ合うのが親愛のあかしなんだ。肛門が性感帯だから、そこをさわってスキンシップをとるんだ。ちびの頃は兄弟同士じゃれあってケツの匂いをくんかくんかしたもんさ、俺は半分犬だからドッグスタイルで挨拶したんだ」
「俺様を牝犬ビッチ扱いか。エロいケツだの誘ってんのかだの調子のりくさった戯言ほざいてたよなえェ?」
スワローの目が油断なく据わり、真っ向からドギ―を射竦める。
「同業者だって知ってたのか」
「近頃のアンデッドエンドでストレイ・スワロー・バードを知らなきゃもぐりだぜ」
やっぱり勘付いていたか。
髪と瞳の色を変えて見張りの目はごまかせても、情報通の同業者はだませなかった。スワローは小さく鼻を鳴らす。
「リアクション見る為にケツさわったのか」
「滅相もねえ、純粋な下心だ」
「あそこで騒げばライバルが一人脱落だもんな」
スワローが極端に喧嘩っ早くキレやすいことは、すでに賞金稼ぎのあいだに知れ渡っている。もし痴漢にブチぎれ、空気を読まずに暴れていたら……
この男は、そこまで計算に入れてたのか?
ドギ―が大袈裟に両手を広げ、いやらしさ満点の媚び諂いの笑みを広げる。
「お前を追い返すためにわざと痴漢したって?」
「どっちが悪い悪くねえは関係ねェ、場をひっかきまわして行列乱しゃポイっと摘まみだされる、それが狙いだ」
もしくは、スワローが「その程度」かどうかはかろうとしたのか。
「ヤリ逃げ上等さっさと人ごみに紛れちまえば退場余儀なくされんのは俺だけ。そこいくと痴漢ってなァうまいこと考えたぜ、足踏んだ踏まねえ、肩触れた触れねえの喧嘩沙汰じゃどうしたって両成敗だからな」
余裕の笑みさえ浮かべて切り返せば、動揺をあらわにしたドギ―がすごすごと手をおろす。
狂犬マッドドッグドギ―はただのスケベではない。スワローを策に嵌めて強制退場させるために、あえて確信犯で痴漢を働いたのだ。
キレやすいと噂のスワローなら即座に怒り狂い騒ぎ立てると踏んだのだろうが、実際は彼の方が一枚上手だった。
「もっと転がしやすいの想像してたんだが……話と違うじゃねェか」
スワローの読みが当たってると肯定したも同然だ。かといって痴漢の罪は軽くならないが。
「人をダシにしようなんざ見え透いてんだよ、負け犬野郎」
「許せよ少年、背に腹はかえられねェ大人の事情だ。数日張り込んでダドリーの野郎が夜逃げを計画してんのがわかった、勝負を仕掛けんなら今夜を除いてあとがねェ」
「同感だね、俺も同じこと思ってた」
「じゃあ話は早ェ。俺に譲れ」
「ダドリーを?お前に?」
剣呑に目を細める。ドギ―は大真面目に首肯する。
「あの野郎はマッドドッグ・ドギ―が倒す。全犬のパブリックドッグエネミーをこれ以上野放しにしておけねえ、必ず対価ヴィクテムを払わせてやる」
嘗て犬に助けられ、犬に育てられた男が静かに宣言するのを冷めた目で流し見、ばっさり即答。
「やなこった、アイツは俺のエモノだ。アイツの身柄を突き出してバイク買うんだ」
「だったら手ェ組むか?」
あきれるほど切り替えが早い。ドギ―が悪戯っぽい稚気の光る眼で、ちょいちょいと人さし指の先を動かす。
「単独行動の予定だったが、ツレになったのもなにかの縁。最近噂のストレイ・スワロー・バードの実力、ぜひ拝見してえな」
「足手まといは引っ込んでな」
「味方にすると生き残る率が上がる」
「さっきのはまぐれだろ」
「俺は犬の気持ちがわかるんだ」
ドギ―が自信たっぷりにくりかえし、鉄格子の檻に愛情深いまなざしをなげる。
ふたりは現在、廃品の山の影で立ち話をしている。檻からはちょうど死角になっており、犬たちも大人しい。
ドラム缶には焚き火の痕跡があり、あたり一帯にゴムの焼ける異臭が漂うなか、スワローは顰め面でだまりこむ。
面倒くさい展開になった。
それがスワローの嘘偽らざる本音だ。
マッドドッグ・ドギ―は信用できない。初対面で試された相手に、好印象を抱けというのが無茶だ。方針転換してスワローを懐柔にかかったのも、うまいことダシにして裏切るか利用するか、必ず下心があるはずだ。
ドギ―が皮肉っぽく片頬笑んで迫る。
「俺もお前もなんとかもぐりこめたはいいが、この先どう転ぶか皆目わからねェ。コヨーテ・ダドリーの居所は?罠は?放し飼いの犬と見張りは?金網からこっち側は危険要素の地雷原、一瞬だって気が抜けねェ。行きはよいよい帰りは怖い、ショーがハネたら設営に回ってる舎弟も戻ってきて状況はどんどん不利になる。一人で行動するよか二人で組んで、お互い知恵を出し合った方が勝ち目がある……だろ?」
「犬は群れるのが好きってホントだな」
「そうさ、犬は群れでこそ本領を発揮する生き物だ」
スワローはさもいやそうにため息を吐き、腰に手を付く。
「……ひとりじゃねえよ。ツレがいる」
「どこに?」
「下水道を通ってやってくる……予定だったんだが」
「失敗したのか」
「かもな。姿がねえ」
「じゃ諦めろ、今頃死んでるさ。乗り換えるなら今がお得だ」
ドギ―があっさり言って積極的に自分を売り込み、スワローはちょっと本気で考え直す。
劉は行方知れずのまま、先程遠目に確認した待ち合わせ場所にも見当たらない。下水道で何かがあったか……コヨーテ・ダドリーに捕まったか、既に殺されたかした可能性が高い。
「…………チッ」
役立たずめ。せめてナイフは返して死ねよ。
苛立ちまぎれに舌打ち。スクラップ置き場のふもとに転がる、馬鹿でかい業務用冷蔵庫を蹴り付ける。
その時だ。
「だれかくる」
ドギ―が山の反対側に向き直り、不格好な団子鼻を膨らませる。
「男……二人……見回りだ。一人は腋臭、もう一人は水虫」
「わかんのかよ、そんなこと」
犬人間マッドドッグの嗅覚をなめるな」
堂々と言いきってから、慌てて業務用冷蔵庫の扉を開けて身をおしこめる。半信半疑のスワローの片腕を引っ張り、無理矢理中へ。
「てめェなにす!」
「しー」
暴れるスワローを抱き締めてまるめこみ、その唇に太い指を押し付け、カウントダウンを開始。
冷蔵庫の扉を隔てても匂いの知覚に至るのか、上向いた鼻が忙しく蠢く。
「20フィート……10フィート……5フィート……」
冷蔵庫の扉はほんの少し開いている。視認能わぬ僅かな隙間から、二人分の靴音と共に、ひそめた話し声が接近してくる。
懐中電灯の光が地面をほの明るく照らし、犬の遠吠えが大気を介して響く中、ぶっきらぼうな声が飛び交わされる。
「見回りなんてご自慢のワン公にやらせときゃいいのに。俺達がわざわざ出張る意味あるか?」
「このへんは焼却処分の煙がキツいから犬もきたらがねーんだよ、鼻がばかになる」
具体的に何を焼いたのか……知りたくはない。
「最初が腋臭」
ドギーがすぐ耳元でどうでもいい情報を吹き込む。
懐中電灯の光が移ろい、顔の見えない男がぼやく。
「旦那のビョーキにも困ったもんだぜ。幼少時のトラウマって奴か、ありゃあ」
「だろうな……」
「アイツも撮るのか?結構気に入ったみてェだが……あの人の趣味だきゃわかんねー」
「そういうお前もノリノリで手伝ってたじゃねーか」
「仕事だかんな。まあ……オンナみてえなカオで泣くもんだから、ちょっとよろっときたが」
オンナみてえなカオで泣く。
その一言で反射的に劉の顔が浮かび、扉の隙間ににじりよるスワローにドギーが小声でチクる。
「今のが水虫」
「解説ドーモ、頼んでねえよ」
水虫の方が朗らかに笑い、懐中電灯をふざけて揺らす。
「知ってるか?あのアナルパール、しっぽの部分に犬が興奮する匂いの成分をしみこませてんだとさ」
「げっ、そうなのか……どーりで夢中でじゃれ付いてたわけだ、気の毒に」
「獣姦マニアはヨダレたらして悦ぶぜ」
「旦那が手配されてからこっち、勝手にとびこんできてくれっからモデルにゃ事欠かねェ。賞金稼ぎの入れ食いだ」
「実際売れんのかよ?」
「さあ……世の中いろんなのがいっから、連中が犬に追っかけ回されて悦ぶ変態もいるんじゃねーの?狩る側と狩られる側が逆転するハンターハントの趣向だとさ」
「あのイエローも……」
「外道に目ェ付けられちまってお気の毒様。まァ……ケツほじられてびんびんに勃ってたし、ドSドМの変態同士なら相性イイんじゃねーか。案外それめあてでもぐりこんだのかも」
「気合の入ったマゾ犬志願だな……仲間の居場所も吐きゃしねェし」
イエロー……中国人……劉だ、間違いない。
会話の断片を繋ぎ合わせて確信に至り、奥歯にぎりっと力がこもる。
あの野郎、さっそく足引っ張りやがって。だからいやだったんだ、他人と仲良しこよしで組むなんてよ。見捨てる?切り捨てる?そうしろと理性が叫ぶ。
わざわざ助けに行くなんて馬鹿馬鹿しい、コヨーテ・ダドリーがなんでか劉を気に入ったんなら好都合、アイツをオトリにして隙を突きゃあいい。たとえばダドリーがカメラを回し、劉が犬に犯される現場を撮ってる時にでも上手く忍び寄って……

『お前が改めなきゃ、一緒にやっていけない』

遠い記憶の彼方から、悲哀に満ちた声が追いかけてくる。
瞼の裏の暗闇を過ぎる情景……コヨーテに群がられてボロボロになった兄と、犬に襲われてボロボロになった劉の姿が被り、胸が不穏に騒ぎだす。

仲間の居場所も吐きゃしないし、と男は言った。
劉はまだ、スワローのことを話してない。
スワローの存在をひたすらひたむきに隠し通し、ただひとり拷問を耐え忍んでいる。
自分の寝込みを襲ってオナニーを強制し、嘲笑い辱めた男を、体を張って庇い続けている。

『……親孝行だな』
本当のことを話して、本当だと認められた。
今まで仮に組んだ相棒は、まさか俺に限ってとだれも信じなかった。
やりたい放題が祟って巣に帰れない、帰り道もわからない、迷子の迷子の野良ツバメ。
ロンリーひとりぽっちのロンサムかわいそうな、ストレイ・スワロー・バード。
『否定する根拠もねーだろ、だれだって家族は大事だ。まあ……中には大事にしたくねーのもいるけど』
今ここにいない、俺のせいでいなくなっちまった、死ぬほどお人好しな兄貴とおなじように。
庇う価値のねえ奴を、庇い続けている。

男達が去るのを辛抱強く待ち、冷蔵庫の扉を蹴り開けて転がり出る。
地面に手足を付いて目一杯空気を吸ったドギ―が、意味深に聞いてくる。
「水虫と腋臭が話してたのって」
「ツレだよ」
「とっ捕まっちまったみてーだな」
そしてそれ以上のことをされてる。
ドギ―がぼかした真意に気付かないほど、スワローも鈍感じゃない。
劉は見殺しにしても、ナイフだけは取り返しにいく。
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