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If you want to be happy, be.
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ピジョンが風邪をひいた。
「は……」
赤く染まった鼻がむずがゆい。
菌が飛び散らないよう咄嗟に俯きくちゅんとかわいいくしゃみを放てば、スワローがさもいやそうに身を引く。
「ンだそのあざとかわいいくしゃみ。女ウケ狙ってんのかムカツク」
「女の子なんていないだろ」
「ジェシカがいんだろ」
「ジェシカは裸で寝転がってるだけでなにもしない、目に毒だから下着くらいはかせろよ」
「はア?女日照りが続いて頭どうかしちまったのか、特殊性癖に目覚めてどん引き」
「お前が酔っ払って粗大ゴミ置き場から拾ってきたんだろ?責任もてよ」
「お前好みのカオとスタイルしてっからちょうどいいプレゼントだと思ってよ。抱いて寝りゃちったァあったまるかもだぜ」
「ビニル樹脂製の女体じゃ無理な相談だね」
ティッシュで洟を噛みながら忌々しげに睨む先、部屋の隅には等身大のラブドールが転がっている。
パッと見女性の全裸死体が転がっているようでシュールな光景だ。
ジェシカとはスワローが泥酔した晩に連れ帰った中古のラブドールだ。
ドアを開けたピジョンは最初、スワローが全裸の女の肩を抱いてると間違えどん引きした。
コイツどこでなにをしてた、まさかレイプしたんじゃあるまいな、とりあえず何か着せなきゃとパニクってモッズコートを羽織らせる段に至り、ようやくそれが精巧なラブドールにすぎないと自覚したのだ。
以来彼女はアパートに居候している。
拾ってきた張本人に邪魔くさいとっとと捨てろと催促されても、人のカタチをしたものを捨てるのはしのびない、最悪死体を捨てにきたと誤解されこじれると優柔不断に決めかねて、使用済みのラブドールはピジョンの部屋のインテリアと化している。付け加えると、名付け親はピジョンではない。ジェシカはラブドールのシリーズ名だ。
スワローはそっけなく鼻を鳴らし周囲を見回す。
ピジョンの部屋は本人の性格をあらわすように整頓されている。
シンプルなホワイトのスチールラックには、作者別に几帳面に分類された娯楽小説を主に漫漫画の雑誌や単行本、月刊バンチのバックナンバーがおさめられている。
壁に額入りで掲げられているのはキマイライーターのサイン色紙。
その隣のチェストの上は、小型のマリア像が安置され簡易的な祭壇と化している。
ピジョンは大層信心深く、何か悪いことがあるとこの祭壇の前に跪いて祈りを捧げる。
マリア像自体は大した値打ちもない安物の骨董だが、他にも行く先々でメダイやイコンを買い集めては祭壇に飾るので、その一角は神々しい異彩を放っている。
「……はっ。教会なんかに行くからおかしな趣味に目覚めちまったんだ」
スワローは知っている。
兄がメダイやイコンを蒐集するのは、一種の贖罪だ。
誰かを狙撃した日、心ならずも傷付けてしまった日。
ピジョンはその罪滅ぼしに安っぽいメダイを買って帰り、祭壇に捧げ懺悔する。
チェストの上に鎮座するマリア像はどことなく母の面影を宿し、そんなピジョンを優しく見守っている。
チェストの正面にはパイプベッドが位置し、袖にライフルが一挺立てかけられている。ピジョンが愛用し、常に手入れを欠かさない狙撃銃だ。
「……おかしな趣味じゃない。神様を信じてなにが悪いんだ」
「神様がなにしてくれたよ、お前の風邪治してくれんの」
「信じるものは救われるっていうだろ」
「お話になんねーな。その無様なナリで仕事できんの?できねーだろ。はっくちゅんで引き金滑って、通りすがりの頭が破裂したら傑作だな。なあわかってんのピジョン、もうすぐ家賃の納期だぜ?滞納やらかしゃまーたうるさくどやされる。どうするよ、今度こそキャサリンがケツの毛毟られちまったら。油でカラッと揚げりゃおいしいフライドチキンの完成だ」
「悪い冗談やめろ、大家さんはいいひとだ。ちょっと、かなり変わってるけど」
「足手まといがでけえ口叩くな。テメエが寝込んでる間の賄いは俺持ちだ、これでまた余計な仕事が増えらァ、兄貴さまさまだね」
「う……」
ピジョンとスワローは通常組んで仕事をしている、二人一組の賞金稼ぎだ。
その片割れが風邪でダウンしたとあらば、全ての依頼がスワロー一人の肩にかかってくる。
スワローはわざとおっかない顔を作り、高熱に苦しむ兄に迫る。
「そこんとこどう考えてんの?」
「…………ごめん」
「賞金稼ぎの自覚がねー」
「ごめんてば」
「マジで謝ってんの?誠意がねーよな」
「でも……お前だって悪い」
「はァ?なんで」
「それはお前が……」
ピジョンの顔を覗き込んで追及すれば、ごにょごにょと口の中で呟いて真っ赤になる。
「はっきり言え」と片耳に手を立てなじれば、潤んだ目に怒りを燃やし、たまらなく嗜虐をそそる羞恥の表情で睨み付ける。
「ヤッたあと!!お前が!!俺の毛布を奪って素っ裸で蹴り出したからじゃないか!!」
「覚えてねーことで責められてもな」
「爆睡してたもんな」
「朝起きたら素っ裸で震えてんだもん、笑えたわ。よく起きなかったな」
一昨日の晩、ピジョンはスワローに抱かれた。
二人でアパートを借りてから、好奇心旺盛なスワローはどこでも節操なくピジョンを求めるようになったが、最後までする場合は大抵どちらかの部屋に行く。そちらの方があとの始末が楽だからだ。
一昨日はピジョンの部屋でしたのだが事後にぐっすり寝入ってしまい、同じく熟睡していた兄の毛布を剥ぎ取った。
早い話、ピジョンの風邪っぴきの元凶はスワローだ。
スワローが兄の毛布をひとりじめしたから、追い出されたピジョンが割を食った。
「せめてパンツはいとけよ」
「布一枚でどうにかなる話かよ」
「てゆーか全部俺のせい?勝手に転がり出たのかもしんねーじゃん」
「原因は絶対お前。寝相の悪さは身に染みてる」
苦しげな咳で会話が中断、サイドテーブルの水差しからコップ一杯水を汲んで呷る。本来話ができる体調でもないのだ。
ピジョンは憔悴しきった面持ちで、我関せずと耳をほじる弟に切々と訴えかける。
「ぶっちゃけ任すの不安だけど家のことは頼む……ゴミ出しは水曜日の朝、冷蔵庫の中はからっぽだからスーパーで牛乳とたまごを」
「なあ、コンドーム持ってね?俺の切らしちまって」
「チェストの右上の抽斗に……なんだって?」
どうしてこの流れでコンドームが出てくるんだ?
面食らって瞬くピジョンをよそに、チェススト右上の抽斗から十連コンドームのシートをちぎりとってスタジャンの胸ポケットに突っこみ、スワローは颯爽と出ていこうとする。
毛布を剥いで身を乗り出したピジョンが、慌てて声を上げる。
「ちょ待て、どこ行くんだ」
「クラブへ踊りに」
「女漁りに?」
「モテねー男の発想だな、むこうから勝手に寄ってくんの」
しゃあしゃあ軽口叩いて手を振るスワローに追い縋るも、床に降り立たんとした足から途端に力が抜け、高熱と発汗でふやけきった身体があっけなく崩れ落ちる。
信じられない。コイツ、自分のせいで風邪をひいた兄貴をほっぽってクラブへ遊びにいくのか?
あらためて見直せば夜遊びへ繰り出す準備は万端。
イエローゴールドの髪を整髪料で無造作に立たせ、愛用のスタジャンを引っかけた下に、若者向けのパンキッシュなシャツを着ている。
両手の指には髑髏や悪魔をあしらったゴツいシルバーリングが光り、くびれた細腰をアピールするダメージジーンズには、二連のチェーンが巻かれている。
繁華街を肩で風切り闊歩する、ハイティーンの不良少年スタイル。
どう考えてもこれからスーパーでカートを引き、牛乳やたまごを買ってきてくれそうには見えない。
「なに考えてんだ、今日くらいセフレと夜遊びは慎めよ」
「しんきくせーツラと咳でお楽しみを邪魔すんな、しらけちまうぜ」
「俺が寝込んでるのに……」
「だから?手取り足取りなにからなにまで面倒見てやりゃ満足か、序でに腰取り下の世話までしてやりゃ言うことなしか」
「そうじゃなくて……」
怒りが高じて咳がますます酷くなる。ピジョンは熱っぽい涙目でノブに手をかけた弟を睨み、申し訳なさそうに俯いて続ける。
「俺のことはほっといていいけど、最低限うちのことはやってほしい。このザマじゃ飯も作れないし」
「外で食う」
俺の分は?とは聞けない。
スワローはとことん自分勝手だ、風邪で苦しむ兄を気遣う素振りなどちっとも見せない。もとはといえばコイツのせいで風邪をひいたのに不公平だ。
口惜しげに唇を噛んで唸るピジョンのもとへ気まぐれに引き返し、挑発的に肩を竦める。
「風邪が治るまで帰ってくんなってんならそーすっけど」
「……セフレのとこに転がりこむのか」
男か女か両方か。不特定多数のセフレを囲っているスワローは、連泊先に困らない。
困るのはピジョンだけだ。
スワローがいなくなると、とても困る。
そんな本音、意地でも口に出せない出したくない。コイツを調子にのらせるのは大いに癪だ。
お前がいないと心細いなんて、体調が辛い時はただいてくれるだけでいいなんて、たかが弟にそこまで依存してるなんて事実断じて認めたくなくてベッドの傍らに座りこめば、寝間着がわりのТシャツをめくりあげ、なめらかな手がしのんでくる。
「!ッあ、」
「風邪が伝染っから当分お預けだな」
ひんやりした手が肌の火照りを心地よく吸い取ってくれる。やめろ、ホント無理だ今は……咳のし過ぎで掠れた声は音にならず、相手の服を掴んで必死に首を振るも、スワローは意地悪く股間へ手を移し、ズボンの上からそこを揉みほぐす。
「あッ、ぅっく」
「体温上がって感じやすいんじゃね?」
「すあろやめ……っ、ホント今はだめだ、身体がだるい……っは」
生地越しのもどかしい刺激に飢え、言葉と裏腹に腰がせり上がる。
スワローが残忍に唇を引き、じらすようにゆっくりとジッパーをおろし、下着をずらして兄の股間を直になぶる。
大量の汗を吸い、ボクサーパンツは既にぐっしょり湿っている。
「あっあ」
スワローの手がペニスににちゃりと絡み、カリ首を親指で擦り立てる。身体がキツい。眩暈がする。頭が茹だり、視界が朦朧とぼやけていく。
風邪特有の寒気と熱に性感が加わって、ぞくぞくが止まらないピジョンは、腰砕けにへばってスワローの足首にしがみ付く。
「…………全ッ然勃たねェ。しんどいのマジなんだ」
「さっきからそう言ってるだろ……」
舌打と共に手を引っ込めたスワローが、ひどく冷淡に足首に取り縋るピジョンを見下し、両手でおもむろに体を抱え上げる。
「うわ!?」
突然のお姫様抱っこに驚くピジョンを、次の瞬間にはベッドに乱暴に放り投げ、マットレスで軽く弾む肩を押さえこむ。
ギ、とベッドが軋む。何をされるか怯え身構えるピジョンの肩に、容赦ない指の圧が食い込む。
一方スワローは間近で覗き込めどキスはせず、目を瞑って無体な仕打ちを待ち受ける兄に、無関心な色の瞳で吐き捨てる。
「ヤレねー兄貴に用はねー。風邪が伝染る前に消えるわ」
「ゴムサンキュ」と限りなく優しく囁き、胸ポケットからちぎりとった一個を、物欲しげに開いたピジョンの口に咥えさせる。
念入りな調教によって口に突っ込まれたモノは嫌がらず咥えるよう仕込まれたピジョンは、ビニル袋入りのコンドームを唇に挟み、狂おしく乞うような凝視を注ぐ。
かきたてられた熱をじれったく持て余す兄を無視、あっさりベッドを下りて部屋を突っ切るスワロー。ピジョンが見守る前でドアが閉じ、スワローが外出する。
「……はあ」
特大のため息とともにぽろりとコンドームが落ちる。
わかってる、アイツはそういうヤツなんだ。
気まぐれな優しさに期待するのが間違いだ。
出て行ってくれるならかえって有り難い、よしなごとに悩まされずぐっすり眠れる。
しんどい体に鞭打ってアイツが食い散らかしたピザを片付けなくていいし、アイツが脱ぎ捨てたパンツを洗濯籠に回収しなくていいし、弟の世話から晴れて解放されて万々歳だ。
「……いいよ別に。寝てれば治る」
すぐへこたれる自分を元気付け、もそもそ毛布を被り直す。
医者にはなるべく行きたくない。出費が馬鹿にならない。
生活費にあてる以外は、母への仕送りと教会への寄付にとっておきたい。
ピジョンはベッドに横になり、ひとりぽっちで心細い夜をすごす。
部屋は静かだ。
ピジョンの苦しげな咳と息遣い、しめやかな衣擦れの他は、薄い壁を隔てた隣室の蛇口が開け閉めされる音しか聞こえない。
ぐったりと目を瞑り、早く寝ようと努力する。
静寂がさらにもう一段階深まって、外の物音がしじまを渡ってくる。
痴情が縺れた男女の諍い、酔っ払いのでたらめな歌に続く銃声、激しい赤ん坊の泣き声……
劣悪なスラムに境を接し、「ならず者の天下」の別名で知られる界隈の日常的な騒音の数々に、ピジョンはいちいち胸を痛める。
角の煙草屋の奥さんが旦那に殴られてないといい、機嫌よく歌っていた酔っ払いがチンピラの凶弾に倒れてないといい、夜泣きの止まない赤ん坊が早く抱きしめてもらえるといい……
風邪なんかひいてなけりゃ、窓を開けて確かめる位はするのに。
関わりゃ馬鹿を見るとスワローに蔑まれても、すぐ近くで倒れて死にかけている人をほっとけないし、めちゃくちゃに殴られてる人を見過ごせないし、泣きじゃくる赤ん坊を見にいかずにはいられない。それが間違ってるとはどうしても思えない。
「ふ…………、」
静かすぎて落ち着かない。
思い出したくないいやなことばかり蒸し返されて、ピジョンはキツく目を閉じ毛布の奥深くにもぐる。
たとえば、いい人だと信じて裏切られた人のこと。
たとえば、小さい頃よく見た悪い夢のこと。
『どうした腹ボテ、もっと高くケツ上げな!てめえのアナルをガキに見せてやれ!』
『妊婦に挿れんのは初めてだけどイイ感じに締まるじゃねェか、羊水だかなんだか知らねー汁で股ぐらがびちょびちょだ。おいガキ目ェかっぴろげてよく見ろ、テメェのママンがずぼずぼアナル犯されてるとこをよ』
あんなことなかった。
なかったんだ。
いやに息苦しい。酸欠でパニックに陥る。何かべとべとするものが口を塞いでいる。嵐が吹き荒ぶ暗闇の中、ベッドの上で影が動いている。
『あっあっあァあっあ―――――――――――――――ッ!!』
はちきれそうに腹の膨らんだ母が、ベッドに四つん這いバックで犯されている。
若い母にのしかかる男の顔は見えず、不吉な闇に覆われている。
男は凄まじい絶倫で、何回も母を犯し続ける。
涙と血と洟水でべとべとに顔が汚れきった母が、雷が引き裂く虚空へ手を伸ばす。
ピジョンも必死に宙を掻きもがき手を伸ばす……が、届かない。
ピジョンの腕は短すぎ、その手は小さすぎ、得体の知れない男にいじめられてる母を助けることもできやしない。
臨月の腹が押し潰されるたび母は息苦しそうに喘ぎ、なにもできないピジョンは母と生まれてくる赤ちゃんの心配をする。
おねがいピジョのママいじめないで、ピジョなんでもするよ、代わりにピジョのこといじめていい、だからママにかわいそうなことしないで、ピジョとママの赤ちゃんいじめないで……
ピジョンの願いが通じたのか、影になった男が唐突に振り向いて―
「………ッ………!!」
弾かれたように目を開け、束の間の夢であったことに途方もない安堵を憶える。
「……ひさしぶりに見たな」
昔は結構な頻度で見ていた気がする。
大人になってからは見なくなって最近では殆ど忘れかけていたのに、最悪のタイミングでぶり返した。
シーツは大量の寝汗を吸って変色している。
シャツもびっしょり濡れそぼり、肌に貼り付いて気持ち悪い。
額にたれた髪をかきあげるのも怠く、再び目を瞑り悪夢を漱ぐ優しい思い出をたぐりよせる。
「元気かなあ、母さん……」
母さんに会いたい。
元気な声が聞きたい。
笑ってる顔が見たい。
身体が弱ったことからホームシックに駆られ、不吉な夢を払いのけるよすがが欲しくて、ベッド脇のライフルを抱え上げる。
銃身にはピジョンお手製のドリームキャッチャーが括られている。
コイツと添い寝すれば、きっと悪夢を祓ってくれる。
ひたむきにそう信じ、自分を守らんと胎児の如く丸まったピジョンは、ライフルを膝に抱えこむ。
弾は抜いてあるので暴発の恐れはない。
「ん……」
使い慣れたライフルを両手で抱きしめれば、ヒヤリとした金属の質感が気持ちよく、太く固い銃身にくちびるを這わせる。
身体が熱くてたまらない。
酷くもどかしい。
「はァ……」
銃身に圧されたくちびるが潰れ、唾液の筋が付く。
スワローにいたずらされたせいか、勃ち上がる直前で力尽きたペニスが切なく疼き、熱で朦朧としたピジョンは、両脚のあいだに挟んだ銃身をゆっくり上下させる。
「ぅ、あ」
銃身がズボンの股間を掠めるたび鋭い性感が走り、反射的に内股で締め付ける。
ピジョンは自分がなにをしてるかわかってない。
「はぁっ、あふ、ふぁ……」
素面に戻れば青くなるだろうが、高熱で茹だりきった身体はその火照りすら欲動と勘違いし、待てができない子どものように膝を揺すり立て、開けては閉じ、閉じては開け、無二の相棒と頼むライフルで自分自身を慰め続ける。
「あぁッ」
銃身に圧され股間が柔く潰れ、いやらしい汁がズボンの前に滲み広がる。
「うぁ……あふ……る、し……すあろ……」
手が止まらない。
でもコレじゃイケない。
最後までしてくれるスワローはいない、兄をおいて出ていってしまった。
ピジョンは強く唇を噛み、ライフルにちゅっとキスをする。
冷たい無機物はとても弟の代わりにならないが、弟に見立てて口付け、丁寧に舐め上げているうちに、どんどん妄想と現実の境がふやけていく。
「あっあぁっひあっあっ、そこィっ、もっと擦って、あッ」
ほっとかれて寂しい。
はやく帰ってきてほしい。
アイツはなんで俺にいじわるするんだ、本当に帰ってこなかったらどうしたらいいんだ……
そんな不安をキレイさっぱり一掃したくて、高熱で箍がゆるみきったピジョンは、ライフルを使ったオナニーに声を上げてのめりこむ。
ライフルを股に挟んで擦り立て、弱々しく勃ち上がりかけたペニスをいじめぬく。
固く太い銃身が股間を摩擦する快感にはしたなく喘ぎ、ヨダレをたらして悶え、片手でシーツをかきむしる。
「あッお前のっ、好き、だからっ、もっと強く擦って、はぁあ」
ピンクゴールドの髪をしどけなく纏わせ、のぼせきった顔に淫蕩な法悦が広がる。
股に挟んだ銃身にぐりぐり膨らみを押し付け、ボクサーパンツでは吸いきれずズボンまで滲み出た先走りを指ですくい口に運び、一際強くライフルで股を圧迫。
「あぁああああああああ―――――――――――――――――――ッ!」
ビュッ、ビュッと白濁が散る。
ピジョンが放った精液は下着とズボンに遮られライフルを汚さず、自慰で体力を使い果たした彼は、そのまま緩く銃を抱いて眠りに落ちる。
ライフルでオナニーしていた最中は、どんな仕打ちも快楽にすりかえる淫売の表情をしていたが、寝顔はあどけない子どものようだ。
『街からでてけ売女の息子!』
男の子が石ころを投げる。仲間たちも追随する。
ピジョンはやめてよと泣いて懇願するも、泣けば泣くほど彼らは面白がり、ピジョンを追いかけ回して石を投げ付ける。
『お前の母ちゃんは男を食い物にする汚い売女だって、うちの母ちゃん言ってたぜ』
『早く街から出てけ、お前たちがいるとみんな迷惑だ』
『うちの父ちゃん返せ、今月の稼ぎ全部お前んとこに突っ込んじまったんだぞ!そんで母ちゃんと大喧嘩だ!』
『おれ知ってるぜ、売女の息子は売女になるんだ、大人になったらカラダを売っておまんまもらうんだ』
『穴を使って稼ぐんだろ?きったねェ!』
『インバイの血は争えねーな』
空き缶、ゴミ、棒……いろんなものが降ってくる。
ピジョンは頭を抱えて蹲る。全身擦り傷だらけであちこち痛いが、投げ付けられる言葉のほうがもっと痛い。
『売女の息子はいくらだよ、言えよ!』
瞼がじんわり熱を帯びる。もう少しで涙腺がプツンと切れて、しょっぱい涙をドバドバ垂れ流す寸前、向こうからまっしぐらに駆けてきた誰かがリーダー格の男の子を殴り飛ばす。
『コイツは売りもんじゃねえ、俺のもんだ!』
小さい弟だった。
ピジョンよりひと回りも小さいスワローは、だけど当時から凄まじく強く、悪ガキどもの集団に突っ込んで一人また一人と殴り倒していった。
ピジョンは何もできず、ただ茫然と弟の暴れっぷりを見守っていた。
頭突きをくらってのびた最後の一人の顔面を踏ん付けたスワローが、肩で息をしながら兄を振り返り、心底軽蔑の表情で吠え猛る。
『なんでやり返さねーんだよ!?』
そんなの無茶だ。
相手が多すぎる。勝てっこない。
そんな言い訳よりなにより先にピジョンの口から飛び出したのは、一方的に与えられる痛みに耐え続けた、彼の本心だった。
『……だって、いたいじゃないか』
スワローはあっけにとられる。
『てめえの手が?』
『それもだけど……殴られたらいたい』
『本気で言ってんのかよ、さんざんボコられてキズだらけで……殴られたら殴り返せよ、じいっと唇噛んでガマンしてんじゃねえ、てめえ見てっと心底イライラするぜ、言われっぱなしやられっぱなしでめそめそしやがって!母さん馬鹿にされてダンマリか、売女よばわりもいい子でスルーか、くそっくらえだぜお人好しがよ!!なんで俺がお前のようなグズのせいでイラ付かなきゃいけねーんだ、兄貴なら兄貴らしくテメェの尻拭い位しとけよ!』
たまりにたまったものがブチぎれ、自分の胸ぐら掴んで喚き散らすスワローをしっかり見据え。
声が震えないよう祈りながら、胸ぐらを掴む手に手を添え、告げる。
『いたいのをいたいのでかえしてたら、ずっとみんないたいままだよ』
その瞬間、スワローが浮かべた感情は何なのか。
驚き、あきれ、困惑……ひょっとしたら、ピジョンもスワローも知らない何か。
ピジョンは勇気をふりしぼって弟を見返し、噛んで含めるように言い聞かせる。
『俺たちの母さんは売女だ。男のひとに体を売って稼いでる』
『ああ』
『でも、わるいことはしてない』
誇らしげに言いきって、あたり一面に倒れ伏す悪ガキどもを見回す。
『俺たちにやさしくてみんなにやさしい、キレイで自慢の母さんだ。母さんは男のひとを気持ちよくさせる仕事をしてるけど、それは別にぜんぜん悪いことじゃない。恥ずかしがることじゃない。俺たちはそれでずっと食べさせてもらってるんだ』
だからさ。
胸を張っていんだよスワロー。
『だれがなんといったって、俺たちの母さんは最高だ。俺たちを捨てず、ぶたず、腹ぺこのまんまほっとかず、トレーラーハウスでいろんな街に引っ越して、大勢の男のひとに体を売って、俺たちをがんばって育ててくれてる。俺はそんな母さんが大好きだよ。売女で、インランで、や、やらしくて、でも汚れてるなんて思ったこと一度もない。母さんはキレイだもの。だけどさ、怒ったら、叩いたら、ホントが嘘になるだろ。俺はだれでもいたくしたくない、やさしいやりかたで仲良くなりたい。いたいのはいやだ、だれだっていやだ、だったら俺がガマンする』
いいんだ。
お前と母さんがいてくれるなら、ガマンできる。
幼い弟を訥々と諭しながら、ピジョンの視界は何故か霞んで、頬にはぽたぽた何かが滴っていた。
『俺たちの母さんは、いい母さんだ』
だから、母さんを哀しませるようなことは絶対しない。
『俺達は売女の息子だけど、コイツらの言う通り大人になったらそうなるかもしれないけど、自分がいたいことされたからいたいことしていいんだってなったら、俺たちにいっぱいやさしくしてくれた母さんのこと、裏切っちゃうだろ』
スワローは一言一句、大人しく兄の言葉を聞いていた。
スワローにはまだ難しすぎるかもしれない理屈をゆっくりと吸い込んで、胸ぐらを締め上げる手にもう一度力をこめ、きっぱりと断言する。
『……だったら、お前のぶんまで俺がやる』
燃え上がる血色の瞳。
苛烈な決意の表情。
『殴られたら殴り返す。蹴られたら蹴り返す。ヤられたらヤり返す。お前がもってかれたぶんまで、たまたま弟に生まれちまったこの俺が、全力で取り立ててやる』
そしてスワローは言った。
兄の手の甲に強く爪を食い込ませ、燃え滾る眼差しに不敵な誓いを託し、だれにも譲れない、譲りたくない兄弟の絆を刻み込むように。
いまから俺はお前専属の取り立て人だ。
お前を痛め付けた連中に、きっちりヴィクテムを払わせてやる。
カーテンを閉め忘れた窓で儚いネオンが瞬く。
深夜に目が覚めたピジョンは、枕元に袋がおかれているのに気付いて中身をあさる。出てきたのは熱冷ましの薬と栄養ドリンク。
「スワロー……帰ってきた、のか?」
ずるり、と何かが落ちて視界を塞ぐ。「うわっ!?」びっくりして額をまさぐれば、水浸しのハンドタオルが降ってくる。ろくに絞ってないうえきちんと畳んでもない。
「…………アイツ」
看病というにはいい加減で雑すぎるが、これがスワローの精一杯だ。
額の熱を吸い取ったタオルはすっかりぬるくなり、そのせいか少し楽になった気がする。
ドアの外に足音が近付き、ベッドに仰向けに寝たまま、ピジョンはその瞬間を待ち侘びる。
無造作にドアが開き、入ってきたスワローが目をまるくする。
「起きたの」
「今ね」
「銃抱いて寝てっからびびった。そっちのシュミに目覚めちまった?」
「……大目に見ろ。中途半端で出てくから体が火照ったんだ」
肯定も否定もせず曖昧にとぼければ、薄暗い部屋を突っ切って枕元に腰掛けたスワローが、憮然と頬杖付いて虚空に視線を投げる。
「……帰ってこないんじゃなかったのかよ」
「気が変わった」
「やけに早いじゃないか」
「別に。クラブで踊んのも飽きたし……だーれも俺のステップに付いてこれねーんだもん」
「風邪伝染るぞ」
「いまさらだな」
本当に今さらだ。
夢の続きと勘違いしそうな優しさの不意打ちに泣きたくなり、ピジョンはおずおずとためらいがちに、暗闇を手探りする。
「……お前がいなくてさびしかった」
「おセンチじゃん。怖い夢でも見たのかよ」
帰ってきた本当の理由はけっして口にしない、意地っ張りな弟の手に手を絡め、自分の口元に導いてキスをする。
「……いいのと悪いの、両方」
「ふーん。お守り役立たねえな」
「役に立ったさ。半分は」
手作りのドリームキャッチャーを馬鹿にされむきになれば、スワローは喉の奥で楽しげに笑い、汗にまみれた兄の髪をいたずらに梳いてかきあげる。
「スワロー、あのさ」
ピジョンが何か言いかけると同時、スワローが指の股にぐっと力をこめ、とびきり甘い美声で囁く。
「セックスすると治んだって。試してみるか」
「……遠慮しとく」
「ンだよノリ悪ィの」
「今ヤると腰が死ぬ」
もとから本気じゃなかったのか無理強いはせず、ピジョンと手を組んだまま片膝立て寄り添い続けるスワローが、熱のない口調で言いだす。
「なんかさ。やってほしーことある」
「……してくれるの?お前が?」
びっくりしすぎて一瞬風邪も吹っ飛んだ。
ピジョンが呆然と見詰める先、スワローが露骨に顔を顰めて毒突く。
「やめろってその目。今回の件はテメエが鍛えてねえのが全面的に悪ィが、減るもんじゃなしパンツ位はかせてやってもよかったなって、まーそーゆーこった。ハンセイとかザイアクカンじゃねえぞ?けどまァ、バックアップがなくなるのは痛手だしよ……ご覧の通り俺さまはバンチのルーキー部門トップに輝く最強ナイフ使いだが、背中に睨み利かすヤツがいるのといねーのじゃ仕事のしやすさが段違いだ」
スワローは素直にごめんなさいができない生き物だ。
常日頃の不遜な態度をやや潜め、バツ悪げに言い訳するのに吹き出しかけるもなんとか堪え、スワローを差し招く。
「じゃあ……一個いいかな」
「なんだよ」
「お前にしかできないことで、俺がいまいちばんしてほしいこと」
スワローが興味を引かれ、兄の口元に耳を近付ける。
ベッドに臥せたピジョンは喉を唾で湿し、弟にだけ聞こえる声でささやかな「お願い」をする。
「げ」、といわんばかりにスワローが渋面を作るも、言質をとったピジョンは期待に輝くまなざしで弟を見詰め、スワローは大袈裟なため息一回、開き直って宣言する。
「……これっきりだぞ」
深く息を吸い込んで吐き、咳払いで喉の調子を整える。ピジョンは弟の手を握ったまま安心しきって目を瞑り、スワローは「あ~……」と声量を上げ下げ調節、不機嫌に目を閉じる。
最初の一音で空気が変わった。
窓ガラスにドロップスのようなネオンが映えるアパートの一室、薄暗い部屋の中でスワローは歌いだす。
手垢にまみれた退屈な讃美歌……リクエストされなければ絶対唄わないが、ことあるごとにピジョンが口ずさんでいたので自然とすりこまれてしまった。
母の誕生日になにも贈れなかったピジョンが、代わりに捧げた思い出の歌を、スワローは心を無にして紡ぐ。
彼の歌声は美しい。
普段は口汚く下品なことしか言わないが、天性のリズム感と美声に恵まれており、熾天使の生まれ変わりのように瑞々しい張りと伸びのある声が至高のハーモニーを織りなして闇に溶けると、界隈を絶え間なく騒がせていた諍いや争い、甲高く爆ぜる銃声や赤ん坊の夜泣きまでも浄められ静まっていく。
掃き溜めの奇跡の如く。
地べたの恩寵の如く。
ならず者の天下に凪が訪れる。
とっくに声変わりこそ済ませているが、しっかり芯が通った歌声は、この世のいかなる理不尽もはねかえす強靭さと、この世のいかなる理不尽にも穢されざる純粋さを備え、世界にたった一人、彼が心から愛する兄に捧げられる。
目を閉じて聞き惚れていたピジョンが、感に堪えず呟く。
「………やっぱりキレイだ」
子守唄に大の苦手の讃美歌をおねだりされたスワローの方はといえば、舌を火傷した悪魔みたいに情けない顔で、口直しのキスをする。
心を浄化する讃美歌の余韻が漂うなか、枕元に手を付いて前屈みにくちびるを奪ったスワローを、ピジョンは小さく叱る。
「しょうがないヤツだな。風邪ひいても知らないぞ」
「したらおそろいになれるな」
「馬鹿」
根負けして苦笑い。
「讃美歌なんか唄ったから口ン中が気持ちワリィ」
スワローがピジョンのくちびるから熱を吸いだしにかかるのを、こちらは熱を移そうと弟のくちびるを啄んで、荒く弾む息の合間ごと睦言を飲み干す。
「かわいい兄貴」
「かわいいスワロー」
「てめえのほうがかわいいだろ、必死でよ。熱でしんどいのに変な意地張ってよ、ひとりぽっちホントはやだったのにさ。おいてけぼりにされて、俺ンこと考えながら一人でヤッてたんじゃねえの」
「お前のほうがかわいい。クチじゃナマ言ったくせに、俺のこと心配で早く切り上げたんだろ。タオルの絞り方全然なってないぞ、シーツまでびしょびしょだ。歌……うたうの、ものすごい恥ずかしがるくせに、俺のおねだり、ちゃんときいてくれた。かわいいよ本当、食べちゃいたい」
かわいいと囁いて、囁かれるたびぞくぞくする。
『……だったら、お前のぶんまで俺がやる』
燃え上がる血色の瞳。
苛烈な決意の表情。
『殴られたら殴り返す。蹴られたら蹴り返す。ヤられたらヤり返す。お前がもってかれたぶんまで、たまたま弟に生まれちまったこの俺が、全力で取り立ててやる』
あの頃も今も変わらない。スワローはスワローのままだ。
夢の余韻を引きずってるのか、胸が詰まって苦しい。何故かまなじりを伝う涙はそのままに、少しばかり大きくなりすぎた弟の背中に手を回す。
暗闇の中、ドッグタグが小刻みに揺れる胸の鼓動に抱かれながら、ピジョンはあの頃から変わらぬ願いをそっと口にする。
「俺のかわいいスワロー。ずっと一緒にいてくれ」
「だれが手放すもんかよ、俺のかわいい兄貴を」
赤錆の瞳と瞳が出会い、スワローが犬歯を剥いて笑うのを見届け、幸福感に包まれたピジョンは安らかな眠りに身をゆだねる。
どうか、この熱が永遠に引きませんように。
ピジョンは祈った。
「は……」
赤く染まった鼻がむずがゆい。
菌が飛び散らないよう咄嗟に俯きくちゅんとかわいいくしゃみを放てば、スワローがさもいやそうに身を引く。
「ンだそのあざとかわいいくしゃみ。女ウケ狙ってんのかムカツク」
「女の子なんていないだろ」
「ジェシカがいんだろ」
「ジェシカは裸で寝転がってるだけでなにもしない、目に毒だから下着くらいはかせろよ」
「はア?女日照りが続いて頭どうかしちまったのか、特殊性癖に目覚めてどん引き」
「お前が酔っ払って粗大ゴミ置き場から拾ってきたんだろ?責任もてよ」
「お前好みのカオとスタイルしてっからちょうどいいプレゼントだと思ってよ。抱いて寝りゃちったァあったまるかもだぜ」
「ビニル樹脂製の女体じゃ無理な相談だね」
ティッシュで洟を噛みながら忌々しげに睨む先、部屋の隅には等身大のラブドールが転がっている。
パッと見女性の全裸死体が転がっているようでシュールな光景だ。
ジェシカとはスワローが泥酔した晩に連れ帰った中古のラブドールだ。
ドアを開けたピジョンは最初、スワローが全裸の女の肩を抱いてると間違えどん引きした。
コイツどこでなにをしてた、まさかレイプしたんじゃあるまいな、とりあえず何か着せなきゃとパニクってモッズコートを羽織らせる段に至り、ようやくそれが精巧なラブドールにすぎないと自覚したのだ。
以来彼女はアパートに居候している。
拾ってきた張本人に邪魔くさいとっとと捨てろと催促されても、人のカタチをしたものを捨てるのはしのびない、最悪死体を捨てにきたと誤解されこじれると優柔不断に決めかねて、使用済みのラブドールはピジョンの部屋のインテリアと化している。付け加えると、名付け親はピジョンではない。ジェシカはラブドールのシリーズ名だ。
スワローはそっけなく鼻を鳴らし周囲を見回す。
ピジョンの部屋は本人の性格をあらわすように整頓されている。
シンプルなホワイトのスチールラックには、作者別に几帳面に分類された娯楽小説を主に漫漫画の雑誌や単行本、月刊バンチのバックナンバーがおさめられている。
壁に額入りで掲げられているのはキマイライーターのサイン色紙。
その隣のチェストの上は、小型のマリア像が安置され簡易的な祭壇と化している。
ピジョンは大層信心深く、何か悪いことがあるとこの祭壇の前に跪いて祈りを捧げる。
マリア像自体は大した値打ちもない安物の骨董だが、他にも行く先々でメダイやイコンを買い集めては祭壇に飾るので、その一角は神々しい異彩を放っている。
「……はっ。教会なんかに行くからおかしな趣味に目覚めちまったんだ」
スワローは知っている。
兄がメダイやイコンを蒐集するのは、一種の贖罪だ。
誰かを狙撃した日、心ならずも傷付けてしまった日。
ピジョンはその罪滅ぼしに安っぽいメダイを買って帰り、祭壇に捧げ懺悔する。
チェストの上に鎮座するマリア像はどことなく母の面影を宿し、そんなピジョンを優しく見守っている。
チェストの正面にはパイプベッドが位置し、袖にライフルが一挺立てかけられている。ピジョンが愛用し、常に手入れを欠かさない狙撃銃だ。
「……おかしな趣味じゃない。神様を信じてなにが悪いんだ」
「神様がなにしてくれたよ、お前の風邪治してくれんの」
「信じるものは救われるっていうだろ」
「お話になんねーな。その無様なナリで仕事できんの?できねーだろ。はっくちゅんで引き金滑って、通りすがりの頭が破裂したら傑作だな。なあわかってんのピジョン、もうすぐ家賃の納期だぜ?滞納やらかしゃまーたうるさくどやされる。どうするよ、今度こそキャサリンがケツの毛毟られちまったら。油でカラッと揚げりゃおいしいフライドチキンの完成だ」
「悪い冗談やめろ、大家さんはいいひとだ。ちょっと、かなり変わってるけど」
「足手まといがでけえ口叩くな。テメエが寝込んでる間の賄いは俺持ちだ、これでまた余計な仕事が増えらァ、兄貴さまさまだね」
「う……」
ピジョンとスワローは通常組んで仕事をしている、二人一組の賞金稼ぎだ。
その片割れが風邪でダウンしたとあらば、全ての依頼がスワロー一人の肩にかかってくる。
スワローはわざとおっかない顔を作り、高熱に苦しむ兄に迫る。
「そこんとこどう考えてんの?」
「…………ごめん」
「賞金稼ぎの自覚がねー」
「ごめんてば」
「マジで謝ってんの?誠意がねーよな」
「でも……お前だって悪い」
「はァ?なんで」
「それはお前が……」
ピジョンの顔を覗き込んで追及すれば、ごにょごにょと口の中で呟いて真っ赤になる。
「はっきり言え」と片耳に手を立てなじれば、潤んだ目に怒りを燃やし、たまらなく嗜虐をそそる羞恥の表情で睨み付ける。
「ヤッたあと!!お前が!!俺の毛布を奪って素っ裸で蹴り出したからじゃないか!!」
「覚えてねーことで責められてもな」
「爆睡してたもんな」
「朝起きたら素っ裸で震えてんだもん、笑えたわ。よく起きなかったな」
一昨日の晩、ピジョンはスワローに抱かれた。
二人でアパートを借りてから、好奇心旺盛なスワローはどこでも節操なくピジョンを求めるようになったが、最後までする場合は大抵どちらかの部屋に行く。そちらの方があとの始末が楽だからだ。
一昨日はピジョンの部屋でしたのだが事後にぐっすり寝入ってしまい、同じく熟睡していた兄の毛布を剥ぎ取った。
早い話、ピジョンの風邪っぴきの元凶はスワローだ。
スワローが兄の毛布をひとりじめしたから、追い出されたピジョンが割を食った。
「せめてパンツはいとけよ」
「布一枚でどうにかなる話かよ」
「てゆーか全部俺のせい?勝手に転がり出たのかもしんねーじゃん」
「原因は絶対お前。寝相の悪さは身に染みてる」
苦しげな咳で会話が中断、サイドテーブルの水差しからコップ一杯水を汲んで呷る。本来話ができる体調でもないのだ。
ピジョンは憔悴しきった面持ちで、我関せずと耳をほじる弟に切々と訴えかける。
「ぶっちゃけ任すの不安だけど家のことは頼む……ゴミ出しは水曜日の朝、冷蔵庫の中はからっぽだからスーパーで牛乳とたまごを」
「なあ、コンドーム持ってね?俺の切らしちまって」
「チェストの右上の抽斗に……なんだって?」
どうしてこの流れでコンドームが出てくるんだ?
面食らって瞬くピジョンをよそに、チェススト右上の抽斗から十連コンドームのシートをちぎりとってスタジャンの胸ポケットに突っこみ、スワローは颯爽と出ていこうとする。
毛布を剥いで身を乗り出したピジョンが、慌てて声を上げる。
「ちょ待て、どこ行くんだ」
「クラブへ踊りに」
「女漁りに?」
「モテねー男の発想だな、むこうから勝手に寄ってくんの」
しゃあしゃあ軽口叩いて手を振るスワローに追い縋るも、床に降り立たんとした足から途端に力が抜け、高熱と発汗でふやけきった身体があっけなく崩れ落ちる。
信じられない。コイツ、自分のせいで風邪をひいた兄貴をほっぽってクラブへ遊びにいくのか?
あらためて見直せば夜遊びへ繰り出す準備は万端。
イエローゴールドの髪を整髪料で無造作に立たせ、愛用のスタジャンを引っかけた下に、若者向けのパンキッシュなシャツを着ている。
両手の指には髑髏や悪魔をあしらったゴツいシルバーリングが光り、くびれた細腰をアピールするダメージジーンズには、二連のチェーンが巻かれている。
繁華街を肩で風切り闊歩する、ハイティーンの不良少年スタイル。
どう考えてもこれからスーパーでカートを引き、牛乳やたまごを買ってきてくれそうには見えない。
「なに考えてんだ、今日くらいセフレと夜遊びは慎めよ」
「しんきくせーツラと咳でお楽しみを邪魔すんな、しらけちまうぜ」
「俺が寝込んでるのに……」
「だから?手取り足取りなにからなにまで面倒見てやりゃ満足か、序でに腰取り下の世話までしてやりゃ言うことなしか」
「そうじゃなくて……」
怒りが高じて咳がますます酷くなる。ピジョンは熱っぽい涙目でノブに手をかけた弟を睨み、申し訳なさそうに俯いて続ける。
「俺のことはほっといていいけど、最低限うちのことはやってほしい。このザマじゃ飯も作れないし」
「外で食う」
俺の分は?とは聞けない。
スワローはとことん自分勝手だ、風邪で苦しむ兄を気遣う素振りなどちっとも見せない。もとはといえばコイツのせいで風邪をひいたのに不公平だ。
口惜しげに唇を噛んで唸るピジョンのもとへ気まぐれに引き返し、挑発的に肩を竦める。
「風邪が治るまで帰ってくんなってんならそーすっけど」
「……セフレのとこに転がりこむのか」
男か女か両方か。不特定多数のセフレを囲っているスワローは、連泊先に困らない。
困るのはピジョンだけだ。
スワローがいなくなると、とても困る。
そんな本音、意地でも口に出せない出したくない。コイツを調子にのらせるのは大いに癪だ。
お前がいないと心細いなんて、体調が辛い時はただいてくれるだけでいいなんて、たかが弟にそこまで依存してるなんて事実断じて認めたくなくてベッドの傍らに座りこめば、寝間着がわりのТシャツをめくりあげ、なめらかな手がしのんでくる。
「!ッあ、」
「風邪が伝染っから当分お預けだな」
ひんやりした手が肌の火照りを心地よく吸い取ってくれる。やめろ、ホント無理だ今は……咳のし過ぎで掠れた声は音にならず、相手の服を掴んで必死に首を振るも、スワローは意地悪く股間へ手を移し、ズボンの上からそこを揉みほぐす。
「あッ、ぅっく」
「体温上がって感じやすいんじゃね?」
「すあろやめ……っ、ホント今はだめだ、身体がだるい……っは」
生地越しのもどかしい刺激に飢え、言葉と裏腹に腰がせり上がる。
スワローが残忍に唇を引き、じらすようにゆっくりとジッパーをおろし、下着をずらして兄の股間を直になぶる。
大量の汗を吸い、ボクサーパンツは既にぐっしょり湿っている。
「あっあ」
スワローの手がペニスににちゃりと絡み、カリ首を親指で擦り立てる。身体がキツい。眩暈がする。頭が茹だり、視界が朦朧とぼやけていく。
風邪特有の寒気と熱に性感が加わって、ぞくぞくが止まらないピジョンは、腰砕けにへばってスワローの足首にしがみ付く。
「…………全ッ然勃たねェ。しんどいのマジなんだ」
「さっきからそう言ってるだろ……」
舌打と共に手を引っ込めたスワローが、ひどく冷淡に足首に取り縋るピジョンを見下し、両手でおもむろに体を抱え上げる。
「うわ!?」
突然のお姫様抱っこに驚くピジョンを、次の瞬間にはベッドに乱暴に放り投げ、マットレスで軽く弾む肩を押さえこむ。
ギ、とベッドが軋む。何をされるか怯え身構えるピジョンの肩に、容赦ない指の圧が食い込む。
一方スワローは間近で覗き込めどキスはせず、目を瞑って無体な仕打ちを待ち受ける兄に、無関心な色の瞳で吐き捨てる。
「ヤレねー兄貴に用はねー。風邪が伝染る前に消えるわ」
「ゴムサンキュ」と限りなく優しく囁き、胸ポケットからちぎりとった一個を、物欲しげに開いたピジョンの口に咥えさせる。
念入りな調教によって口に突っ込まれたモノは嫌がらず咥えるよう仕込まれたピジョンは、ビニル袋入りのコンドームを唇に挟み、狂おしく乞うような凝視を注ぐ。
かきたてられた熱をじれったく持て余す兄を無視、あっさりベッドを下りて部屋を突っ切るスワロー。ピジョンが見守る前でドアが閉じ、スワローが外出する。
「……はあ」
特大のため息とともにぽろりとコンドームが落ちる。
わかってる、アイツはそういうヤツなんだ。
気まぐれな優しさに期待するのが間違いだ。
出て行ってくれるならかえって有り難い、よしなごとに悩まされずぐっすり眠れる。
しんどい体に鞭打ってアイツが食い散らかしたピザを片付けなくていいし、アイツが脱ぎ捨てたパンツを洗濯籠に回収しなくていいし、弟の世話から晴れて解放されて万々歳だ。
「……いいよ別に。寝てれば治る」
すぐへこたれる自分を元気付け、もそもそ毛布を被り直す。
医者にはなるべく行きたくない。出費が馬鹿にならない。
生活費にあてる以外は、母への仕送りと教会への寄付にとっておきたい。
ピジョンはベッドに横になり、ひとりぽっちで心細い夜をすごす。
部屋は静かだ。
ピジョンの苦しげな咳と息遣い、しめやかな衣擦れの他は、薄い壁を隔てた隣室の蛇口が開け閉めされる音しか聞こえない。
ぐったりと目を瞑り、早く寝ようと努力する。
静寂がさらにもう一段階深まって、外の物音がしじまを渡ってくる。
痴情が縺れた男女の諍い、酔っ払いのでたらめな歌に続く銃声、激しい赤ん坊の泣き声……
劣悪なスラムに境を接し、「ならず者の天下」の別名で知られる界隈の日常的な騒音の数々に、ピジョンはいちいち胸を痛める。
角の煙草屋の奥さんが旦那に殴られてないといい、機嫌よく歌っていた酔っ払いがチンピラの凶弾に倒れてないといい、夜泣きの止まない赤ん坊が早く抱きしめてもらえるといい……
風邪なんかひいてなけりゃ、窓を開けて確かめる位はするのに。
関わりゃ馬鹿を見るとスワローに蔑まれても、すぐ近くで倒れて死にかけている人をほっとけないし、めちゃくちゃに殴られてる人を見過ごせないし、泣きじゃくる赤ん坊を見にいかずにはいられない。それが間違ってるとはどうしても思えない。
「ふ…………、」
静かすぎて落ち着かない。
思い出したくないいやなことばかり蒸し返されて、ピジョンはキツく目を閉じ毛布の奥深くにもぐる。
たとえば、いい人だと信じて裏切られた人のこと。
たとえば、小さい頃よく見た悪い夢のこと。
『どうした腹ボテ、もっと高くケツ上げな!てめえのアナルをガキに見せてやれ!』
『妊婦に挿れんのは初めてだけどイイ感じに締まるじゃねェか、羊水だかなんだか知らねー汁で股ぐらがびちょびちょだ。おいガキ目ェかっぴろげてよく見ろ、テメェのママンがずぼずぼアナル犯されてるとこをよ』
あんなことなかった。
なかったんだ。
いやに息苦しい。酸欠でパニックに陥る。何かべとべとするものが口を塞いでいる。嵐が吹き荒ぶ暗闇の中、ベッドの上で影が動いている。
『あっあっあァあっあ―――――――――――――――ッ!!』
はちきれそうに腹の膨らんだ母が、ベッドに四つん這いバックで犯されている。
若い母にのしかかる男の顔は見えず、不吉な闇に覆われている。
男は凄まじい絶倫で、何回も母を犯し続ける。
涙と血と洟水でべとべとに顔が汚れきった母が、雷が引き裂く虚空へ手を伸ばす。
ピジョンも必死に宙を掻きもがき手を伸ばす……が、届かない。
ピジョンの腕は短すぎ、その手は小さすぎ、得体の知れない男にいじめられてる母を助けることもできやしない。
臨月の腹が押し潰されるたび母は息苦しそうに喘ぎ、なにもできないピジョンは母と生まれてくる赤ちゃんの心配をする。
おねがいピジョのママいじめないで、ピジョなんでもするよ、代わりにピジョのこといじめていい、だからママにかわいそうなことしないで、ピジョとママの赤ちゃんいじめないで……
ピジョンの願いが通じたのか、影になった男が唐突に振り向いて―
「………ッ………!!」
弾かれたように目を開け、束の間の夢であったことに途方もない安堵を憶える。
「……ひさしぶりに見たな」
昔は結構な頻度で見ていた気がする。
大人になってからは見なくなって最近では殆ど忘れかけていたのに、最悪のタイミングでぶり返した。
シーツは大量の寝汗を吸って変色している。
シャツもびっしょり濡れそぼり、肌に貼り付いて気持ち悪い。
額にたれた髪をかきあげるのも怠く、再び目を瞑り悪夢を漱ぐ優しい思い出をたぐりよせる。
「元気かなあ、母さん……」
母さんに会いたい。
元気な声が聞きたい。
笑ってる顔が見たい。
身体が弱ったことからホームシックに駆られ、不吉な夢を払いのけるよすがが欲しくて、ベッド脇のライフルを抱え上げる。
銃身にはピジョンお手製のドリームキャッチャーが括られている。
コイツと添い寝すれば、きっと悪夢を祓ってくれる。
ひたむきにそう信じ、自分を守らんと胎児の如く丸まったピジョンは、ライフルを膝に抱えこむ。
弾は抜いてあるので暴発の恐れはない。
「ん……」
使い慣れたライフルを両手で抱きしめれば、ヒヤリとした金属の質感が気持ちよく、太く固い銃身にくちびるを這わせる。
身体が熱くてたまらない。
酷くもどかしい。
「はァ……」
銃身に圧されたくちびるが潰れ、唾液の筋が付く。
スワローにいたずらされたせいか、勃ち上がる直前で力尽きたペニスが切なく疼き、熱で朦朧としたピジョンは、両脚のあいだに挟んだ銃身をゆっくり上下させる。
「ぅ、あ」
銃身がズボンの股間を掠めるたび鋭い性感が走り、反射的に内股で締め付ける。
ピジョンは自分がなにをしてるかわかってない。
「はぁっ、あふ、ふぁ……」
素面に戻れば青くなるだろうが、高熱で茹だりきった身体はその火照りすら欲動と勘違いし、待てができない子どものように膝を揺すり立て、開けては閉じ、閉じては開け、無二の相棒と頼むライフルで自分自身を慰め続ける。
「あぁッ」
銃身に圧され股間が柔く潰れ、いやらしい汁がズボンの前に滲み広がる。
「うぁ……あふ……る、し……すあろ……」
手が止まらない。
でもコレじゃイケない。
最後までしてくれるスワローはいない、兄をおいて出ていってしまった。
ピジョンは強く唇を噛み、ライフルにちゅっとキスをする。
冷たい無機物はとても弟の代わりにならないが、弟に見立てて口付け、丁寧に舐め上げているうちに、どんどん妄想と現実の境がふやけていく。
「あっあぁっひあっあっ、そこィっ、もっと擦って、あッ」
ほっとかれて寂しい。
はやく帰ってきてほしい。
アイツはなんで俺にいじわるするんだ、本当に帰ってこなかったらどうしたらいいんだ……
そんな不安をキレイさっぱり一掃したくて、高熱で箍がゆるみきったピジョンは、ライフルを使ったオナニーに声を上げてのめりこむ。
ライフルを股に挟んで擦り立て、弱々しく勃ち上がりかけたペニスをいじめぬく。
固く太い銃身が股間を摩擦する快感にはしたなく喘ぎ、ヨダレをたらして悶え、片手でシーツをかきむしる。
「あッお前のっ、好き、だからっ、もっと強く擦って、はぁあ」
ピンクゴールドの髪をしどけなく纏わせ、のぼせきった顔に淫蕩な法悦が広がる。
股に挟んだ銃身にぐりぐり膨らみを押し付け、ボクサーパンツでは吸いきれずズボンまで滲み出た先走りを指ですくい口に運び、一際強くライフルで股を圧迫。
「あぁああああああああ―――――――――――――――――――ッ!」
ビュッ、ビュッと白濁が散る。
ピジョンが放った精液は下着とズボンに遮られライフルを汚さず、自慰で体力を使い果たした彼は、そのまま緩く銃を抱いて眠りに落ちる。
ライフルでオナニーしていた最中は、どんな仕打ちも快楽にすりかえる淫売の表情をしていたが、寝顔はあどけない子どものようだ。
『街からでてけ売女の息子!』
男の子が石ころを投げる。仲間たちも追随する。
ピジョンはやめてよと泣いて懇願するも、泣けば泣くほど彼らは面白がり、ピジョンを追いかけ回して石を投げ付ける。
『お前の母ちゃんは男を食い物にする汚い売女だって、うちの母ちゃん言ってたぜ』
『早く街から出てけ、お前たちがいるとみんな迷惑だ』
『うちの父ちゃん返せ、今月の稼ぎ全部お前んとこに突っ込んじまったんだぞ!そんで母ちゃんと大喧嘩だ!』
『おれ知ってるぜ、売女の息子は売女になるんだ、大人になったらカラダを売っておまんまもらうんだ』
『穴を使って稼ぐんだろ?きったねェ!』
『インバイの血は争えねーな』
空き缶、ゴミ、棒……いろんなものが降ってくる。
ピジョンは頭を抱えて蹲る。全身擦り傷だらけであちこち痛いが、投げ付けられる言葉のほうがもっと痛い。
『売女の息子はいくらだよ、言えよ!』
瞼がじんわり熱を帯びる。もう少しで涙腺がプツンと切れて、しょっぱい涙をドバドバ垂れ流す寸前、向こうからまっしぐらに駆けてきた誰かがリーダー格の男の子を殴り飛ばす。
『コイツは売りもんじゃねえ、俺のもんだ!』
小さい弟だった。
ピジョンよりひと回りも小さいスワローは、だけど当時から凄まじく強く、悪ガキどもの集団に突っ込んで一人また一人と殴り倒していった。
ピジョンは何もできず、ただ茫然と弟の暴れっぷりを見守っていた。
頭突きをくらってのびた最後の一人の顔面を踏ん付けたスワローが、肩で息をしながら兄を振り返り、心底軽蔑の表情で吠え猛る。
『なんでやり返さねーんだよ!?』
そんなの無茶だ。
相手が多すぎる。勝てっこない。
そんな言い訳よりなにより先にピジョンの口から飛び出したのは、一方的に与えられる痛みに耐え続けた、彼の本心だった。
『……だって、いたいじゃないか』
スワローはあっけにとられる。
『てめえの手が?』
『それもだけど……殴られたらいたい』
『本気で言ってんのかよ、さんざんボコられてキズだらけで……殴られたら殴り返せよ、じいっと唇噛んでガマンしてんじゃねえ、てめえ見てっと心底イライラするぜ、言われっぱなしやられっぱなしでめそめそしやがって!母さん馬鹿にされてダンマリか、売女よばわりもいい子でスルーか、くそっくらえだぜお人好しがよ!!なんで俺がお前のようなグズのせいでイラ付かなきゃいけねーんだ、兄貴なら兄貴らしくテメェの尻拭い位しとけよ!』
たまりにたまったものがブチぎれ、自分の胸ぐら掴んで喚き散らすスワローをしっかり見据え。
声が震えないよう祈りながら、胸ぐらを掴む手に手を添え、告げる。
『いたいのをいたいのでかえしてたら、ずっとみんないたいままだよ』
その瞬間、スワローが浮かべた感情は何なのか。
驚き、あきれ、困惑……ひょっとしたら、ピジョンもスワローも知らない何か。
ピジョンは勇気をふりしぼって弟を見返し、噛んで含めるように言い聞かせる。
『俺たちの母さんは売女だ。男のひとに体を売って稼いでる』
『ああ』
『でも、わるいことはしてない』
誇らしげに言いきって、あたり一面に倒れ伏す悪ガキどもを見回す。
『俺たちにやさしくてみんなにやさしい、キレイで自慢の母さんだ。母さんは男のひとを気持ちよくさせる仕事をしてるけど、それは別にぜんぜん悪いことじゃない。恥ずかしがることじゃない。俺たちはそれでずっと食べさせてもらってるんだ』
だからさ。
胸を張っていんだよスワロー。
『だれがなんといったって、俺たちの母さんは最高だ。俺たちを捨てず、ぶたず、腹ぺこのまんまほっとかず、トレーラーハウスでいろんな街に引っ越して、大勢の男のひとに体を売って、俺たちをがんばって育ててくれてる。俺はそんな母さんが大好きだよ。売女で、インランで、や、やらしくて、でも汚れてるなんて思ったこと一度もない。母さんはキレイだもの。だけどさ、怒ったら、叩いたら、ホントが嘘になるだろ。俺はだれでもいたくしたくない、やさしいやりかたで仲良くなりたい。いたいのはいやだ、だれだっていやだ、だったら俺がガマンする』
いいんだ。
お前と母さんがいてくれるなら、ガマンできる。
幼い弟を訥々と諭しながら、ピジョンの視界は何故か霞んで、頬にはぽたぽた何かが滴っていた。
『俺たちの母さんは、いい母さんだ』
だから、母さんを哀しませるようなことは絶対しない。
『俺達は売女の息子だけど、コイツらの言う通り大人になったらそうなるかもしれないけど、自分がいたいことされたからいたいことしていいんだってなったら、俺たちにいっぱいやさしくしてくれた母さんのこと、裏切っちゃうだろ』
スワローは一言一句、大人しく兄の言葉を聞いていた。
スワローにはまだ難しすぎるかもしれない理屈をゆっくりと吸い込んで、胸ぐらを締め上げる手にもう一度力をこめ、きっぱりと断言する。
『……だったら、お前のぶんまで俺がやる』
燃え上がる血色の瞳。
苛烈な決意の表情。
『殴られたら殴り返す。蹴られたら蹴り返す。ヤられたらヤり返す。お前がもってかれたぶんまで、たまたま弟に生まれちまったこの俺が、全力で取り立ててやる』
そしてスワローは言った。
兄の手の甲に強く爪を食い込ませ、燃え滾る眼差しに不敵な誓いを託し、だれにも譲れない、譲りたくない兄弟の絆を刻み込むように。
いまから俺はお前専属の取り立て人だ。
お前を痛め付けた連中に、きっちりヴィクテムを払わせてやる。
カーテンを閉め忘れた窓で儚いネオンが瞬く。
深夜に目が覚めたピジョンは、枕元に袋がおかれているのに気付いて中身をあさる。出てきたのは熱冷ましの薬と栄養ドリンク。
「スワロー……帰ってきた、のか?」
ずるり、と何かが落ちて視界を塞ぐ。「うわっ!?」びっくりして額をまさぐれば、水浸しのハンドタオルが降ってくる。ろくに絞ってないうえきちんと畳んでもない。
「…………アイツ」
看病というにはいい加減で雑すぎるが、これがスワローの精一杯だ。
額の熱を吸い取ったタオルはすっかりぬるくなり、そのせいか少し楽になった気がする。
ドアの外に足音が近付き、ベッドに仰向けに寝たまま、ピジョンはその瞬間を待ち侘びる。
無造作にドアが開き、入ってきたスワローが目をまるくする。
「起きたの」
「今ね」
「銃抱いて寝てっからびびった。そっちのシュミに目覚めちまった?」
「……大目に見ろ。中途半端で出てくから体が火照ったんだ」
肯定も否定もせず曖昧にとぼければ、薄暗い部屋を突っ切って枕元に腰掛けたスワローが、憮然と頬杖付いて虚空に視線を投げる。
「……帰ってこないんじゃなかったのかよ」
「気が変わった」
「やけに早いじゃないか」
「別に。クラブで踊んのも飽きたし……だーれも俺のステップに付いてこれねーんだもん」
「風邪伝染るぞ」
「いまさらだな」
本当に今さらだ。
夢の続きと勘違いしそうな優しさの不意打ちに泣きたくなり、ピジョンはおずおずとためらいがちに、暗闇を手探りする。
「……お前がいなくてさびしかった」
「おセンチじゃん。怖い夢でも見たのかよ」
帰ってきた本当の理由はけっして口にしない、意地っ張りな弟の手に手を絡め、自分の口元に導いてキスをする。
「……いいのと悪いの、両方」
「ふーん。お守り役立たねえな」
「役に立ったさ。半分は」
手作りのドリームキャッチャーを馬鹿にされむきになれば、スワローは喉の奥で楽しげに笑い、汗にまみれた兄の髪をいたずらに梳いてかきあげる。
「スワロー、あのさ」
ピジョンが何か言いかけると同時、スワローが指の股にぐっと力をこめ、とびきり甘い美声で囁く。
「セックスすると治んだって。試してみるか」
「……遠慮しとく」
「ンだよノリ悪ィの」
「今ヤると腰が死ぬ」
もとから本気じゃなかったのか無理強いはせず、ピジョンと手を組んだまま片膝立て寄り添い続けるスワローが、熱のない口調で言いだす。
「なんかさ。やってほしーことある」
「……してくれるの?お前が?」
びっくりしすぎて一瞬風邪も吹っ飛んだ。
ピジョンが呆然と見詰める先、スワローが露骨に顔を顰めて毒突く。
「やめろってその目。今回の件はテメエが鍛えてねえのが全面的に悪ィが、減るもんじゃなしパンツ位はかせてやってもよかったなって、まーそーゆーこった。ハンセイとかザイアクカンじゃねえぞ?けどまァ、バックアップがなくなるのは痛手だしよ……ご覧の通り俺さまはバンチのルーキー部門トップに輝く最強ナイフ使いだが、背中に睨み利かすヤツがいるのといねーのじゃ仕事のしやすさが段違いだ」
スワローは素直にごめんなさいができない生き物だ。
常日頃の不遜な態度をやや潜め、バツ悪げに言い訳するのに吹き出しかけるもなんとか堪え、スワローを差し招く。
「じゃあ……一個いいかな」
「なんだよ」
「お前にしかできないことで、俺がいまいちばんしてほしいこと」
スワローが興味を引かれ、兄の口元に耳を近付ける。
ベッドに臥せたピジョンは喉を唾で湿し、弟にだけ聞こえる声でささやかな「お願い」をする。
「げ」、といわんばかりにスワローが渋面を作るも、言質をとったピジョンは期待に輝くまなざしで弟を見詰め、スワローは大袈裟なため息一回、開き直って宣言する。
「……これっきりだぞ」
深く息を吸い込んで吐き、咳払いで喉の調子を整える。ピジョンは弟の手を握ったまま安心しきって目を瞑り、スワローは「あ~……」と声量を上げ下げ調節、不機嫌に目を閉じる。
最初の一音で空気が変わった。
窓ガラスにドロップスのようなネオンが映えるアパートの一室、薄暗い部屋の中でスワローは歌いだす。
手垢にまみれた退屈な讃美歌……リクエストされなければ絶対唄わないが、ことあるごとにピジョンが口ずさんでいたので自然とすりこまれてしまった。
母の誕生日になにも贈れなかったピジョンが、代わりに捧げた思い出の歌を、スワローは心を無にして紡ぐ。
彼の歌声は美しい。
普段は口汚く下品なことしか言わないが、天性のリズム感と美声に恵まれており、熾天使の生まれ変わりのように瑞々しい張りと伸びのある声が至高のハーモニーを織りなして闇に溶けると、界隈を絶え間なく騒がせていた諍いや争い、甲高く爆ぜる銃声や赤ん坊の夜泣きまでも浄められ静まっていく。
掃き溜めの奇跡の如く。
地べたの恩寵の如く。
ならず者の天下に凪が訪れる。
とっくに声変わりこそ済ませているが、しっかり芯が通った歌声は、この世のいかなる理不尽もはねかえす強靭さと、この世のいかなる理不尽にも穢されざる純粋さを備え、世界にたった一人、彼が心から愛する兄に捧げられる。
目を閉じて聞き惚れていたピジョンが、感に堪えず呟く。
「………やっぱりキレイだ」
子守唄に大の苦手の讃美歌をおねだりされたスワローの方はといえば、舌を火傷した悪魔みたいに情けない顔で、口直しのキスをする。
心を浄化する讃美歌の余韻が漂うなか、枕元に手を付いて前屈みにくちびるを奪ったスワローを、ピジョンは小さく叱る。
「しょうがないヤツだな。風邪ひいても知らないぞ」
「したらおそろいになれるな」
「馬鹿」
根負けして苦笑い。
「讃美歌なんか唄ったから口ン中が気持ちワリィ」
スワローがピジョンのくちびるから熱を吸いだしにかかるのを、こちらは熱を移そうと弟のくちびるを啄んで、荒く弾む息の合間ごと睦言を飲み干す。
「かわいい兄貴」
「かわいいスワロー」
「てめえのほうがかわいいだろ、必死でよ。熱でしんどいのに変な意地張ってよ、ひとりぽっちホントはやだったのにさ。おいてけぼりにされて、俺ンこと考えながら一人でヤッてたんじゃねえの」
「お前のほうがかわいい。クチじゃナマ言ったくせに、俺のこと心配で早く切り上げたんだろ。タオルの絞り方全然なってないぞ、シーツまでびしょびしょだ。歌……うたうの、ものすごい恥ずかしがるくせに、俺のおねだり、ちゃんときいてくれた。かわいいよ本当、食べちゃいたい」
かわいいと囁いて、囁かれるたびぞくぞくする。
『……だったら、お前のぶんまで俺がやる』
燃え上がる血色の瞳。
苛烈な決意の表情。
『殴られたら殴り返す。蹴られたら蹴り返す。ヤられたらヤり返す。お前がもってかれたぶんまで、たまたま弟に生まれちまったこの俺が、全力で取り立ててやる』
あの頃も今も変わらない。スワローはスワローのままだ。
夢の余韻を引きずってるのか、胸が詰まって苦しい。何故かまなじりを伝う涙はそのままに、少しばかり大きくなりすぎた弟の背中に手を回す。
暗闇の中、ドッグタグが小刻みに揺れる胸の鼓動に抱かれながら、ピジョンはあの頃から変わらぬ願いをそっと口にする。
「俺のかわいいスワロー。ずっと一緒にいてくれ」
「だれが手放すもんかよ、俺のかわいい兄貴を」
赤錆の瞳と瞳が出会い、スワローが犬歯を剥いて笑うのを見届け、幸福感に包まれたピジョンは安らかな眠りに身をゆだねる。
どうか、この熱が永遠に引きませんように。
ピジョンは祈った。
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