少年プリズン

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三百三十八話

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 「なにごとだ、体感震度マグニチュード6.2の自然災害か!?」
 展望台が激しく揺れる。
 地震と錯覚するほどの衝撃に翻弄されてレイジの方へと倒れこむ、レイジが僕とロンの肩をしっかり抱いて庇うように上体を伏せる。至近距離で発生した轟音の波動で聴覚が飽和、大音響に痺れた鼓膜が回復して正常な聴覚を取り戻すまでの数秒間が完全な静寂に支配される。
 無音の静寂と濃密な闇に閉ざされた視界の彼方、天衝く大砲から放たれた砲丸が白煙の尾をたなびかせて空の高みに上っていく。
 どこまでもどこまでも遮る物ない夜空へと長大な楕円軌道に乗じて上り詰めた砲丸を見送り展望台の中央に立ち尽くすヨンイル。上着の胸を掴み、空の一点を凝視する顔は緊張に強張っている。
 真剣な表情を浮かべたヨンイルが祈るように仰ぎ見る中、遂に天心に達した砲丸が眩いばかりの閃光を放つ。
 光球が膨張する。
 周囲に鮮烈な光を撒き散らし膨張した砲丸がやがて炸裂、夜空で光が爆ぜる。
 「『はじまりに光あれと神は言った』
 天地創造の一節をしたり顔で口にするレイジの腕の中で僕はその光景を目撃した。夜空を明るく染め抜く光の饗宴。光に照らされ濃紺に明るんだ闇を内包する精緻な細工の蜘蛛の巣。
 極彩色に光り輝く糸で織られた大輪の花火が夜空に出現。放射線状に火花を散りばめて収束する花火は僕らが呆けて見ている前で赤からピンクへ、ピンクからオレンジへと濃淡が移り変わり見る者を飽きさせない。
 闇が濃ければ濃いほど光は映える。
 絢爛な花火は多彩な変化を見せて、極彩色の残光で闇を照らしだす。
 「すっげえ」
 花火に心奪われたロンが感嘆の声を発する。花火を見るのは生まれて初めてなのだろうか、興奮で頬が紅潮してる。そんなロンを微笑ましげに見やりながらレイジもまた称賛の口笛を吹く。僕は夜空から目が離せなかった。花火が青白く燻り燃え尽きて随分経ってもまだ衝撃冷め遣らず、放心状態で突端に座り込んでいた。
 だが、この場で最も驚いたのは五十嵐だ。
 「レイジ、こりゃあ何の真似だ!?」
 声に反応して眼下に目をやれば五十嵐が驚愕の面持ちで天を仰いでいた。首を痛めそうなほどに仰け反り、薄ぼんやりと白煙漂う夜空を仰ぎ見る五十嵐に笑いを噛み殺してレイジが説明する。
 「お別れパーティー。粋な仕掛けだろ?」
 「お前が発案者か?」
 「いんや」
 「俺や」
 レイジの隣にヨンイルが立つ。二週間ぶりの邂逅。
 ヨンイルを見た瞬間に五十嵐の顔が強張るが、ヨンイルは敢えてそれを無視して、堂々と胸を張り展望台の突端に仁王立つ。
 自分がたった今成し遂げた仕事に誇りを持ち充実感を覚えた職人の顔。弾痕が穿たれたゴーグルに手をやったヨンイルは口を開かず、ひどく大人びた顔で静かに五十嵐を見つめる。見つめ続ける。
 怨恨も憎悪もそこにはない、未練すらない。
 あるのはただ一抹の感傷だけ。ヨンイルの横顔にたゆたっているのは人知れず逝く者に対する追悼の念、東京プリズンを去る決意をした五十嵐に対する憧憬の念。
 いつもの腕白な笑顔からは想像できないほどに達観した表情のヨンイルが、火薬の匂いが大気に溶け混ざり漂う展望台に佇み、五十嵐を見つめる。
 この距離と暗さでも五十嵐の動揺が手に取るようにわかった。
 喉仏が動いて生唾を嚥下するさまさえ見えるようだった。
 物言わぬヨンイルの迫力に気圧されあとじさった五十嵐がそのまま身を翻し逃げ出そうとする。
 ヨンイルの凝視に耐えかねて背中を向けた五十嵐が、そのまま中庭を突っ切ろうと―……
 「逃げるな、五十嵐」
 凛とした声が響く。鞭打たれたように五十嵐が硬直する。
 展望台の突端に立ったヨンイルは、たった一言で完全に五十嵐の動きを封じ場の主導権を握った。僕は見知らぬ他人を見るような新鮮な思いでヨンイルの様子を窺った。レイジに肩を抱かれたロンも同様だ。
 ゴーグルを跳ね除けた下、吊り目がちの精悍な双眸から放たれる容赦ない眼差しに射竦められ、五十嵐の背中がわななく。
 数秒が過ぎた。僕とロンが固唾を飲んで両者を見比べる中、五十嵐がゆっくりと振り向く。
 「俺に用があんのはお前か。いまさら、仕返しするつもりか?」
 唇を捲り、皮肉げに笑う五十嵐に胸が痛む。
 五十嵐には似合わない露悪的で偽悪的な笑顔は、わざと作ってると誰にでもわかるぶざまな出来映えだった。
 「俺は明日東京プリズンからいなくなる。荷物纏めて宿舎をでて永遠にいなくなるんだ。リカの復讐は失敗した。いったんここから出ちまえばお前には二度と手が出せねえ。だから安心しろ、ヨンイル。お前は今までどおり暇な一日漫画三昧の気ままなムショライフに戻ればいい。だれにも気兼ねなく好きな漫画読んで遊び暮らしてここで一生終えるんだ。望み通り本に埋もれて大往生できるんだ。なあ、満足だろヨンイル。これがお前の望んだ結果だろ?」
 ヨンイルは否定も肯定もせず五十嵐の糾弾に身をさらしている。
 五十嵐の悲痛な表情からは、否定してほしいのか肯定してほしいのか自分でもわからず混乱してる様子が痛いほど伝わってきた。 
 「……お前にしたことが決して誉められたことじゃねえってのはわかってるよ。仮にも殺人未遂だ。追放処分だけで済んだのが奇跡みたいなもんだ。言い訳はしねえ。仕返ししたいならしろ。俺だってリカを殺された仕返しにお前を狙ったんだ。今度はおまえの番だよ、ヨンイル。憎しみってのはそうやって延々と連鎖してくんだ。俺もお前も逃げ切れねえ。俺は一生リカを助けられなかった後悔に縛られて生きいていく。お前は一生二千人を殺した罪の重さに縛られて生きてく。好きな手塚読んでるときもマスかいてるときもクソひるときもお前が二千人殺したって事実はいつでも付いて回るんだ」
 「ああ」
 「その中に、リカがいる」
 「ああ」
 「二千人の中にリカがいる」
 「ああ」
 「……俺、やっぱりお前嫌いだよ」
 五十嵐がひどく苦労して笑顔を作る。苦笑。ヨンイルはどんな顔をすればいいのかわからず困惑した様子。そして、笑うことにした。五十嵐につられて笑ったわけじゃない、自分で決めて笑ったのだ。
 「それで、東京プリズン発つ日に俺呼び出してどうするつもりか?仕返しするなら今だぜ。生憎俺は素手だ。警棒だって持ってきちゃねえ。俺めがけて大砲ぶっぱなせ。後腐れなく蹴りつける気ならそれもいい。お前を階段から突き落として捻挫させて全裸にさせて引っ掻いて銃で撃って、その借り全部まとめてズドンと返しちまえ」
 「五十嵐、ヤケになんなよ!」
 虚空に身を乗り出したロンが怒りもあわらに叫ぶが、五十嵐は取り合わない。
 「俺がおまえら囚人の信頼裏切ってひどくがっかりさせたのは事実だ。娘の復讐成功させる為に親切なフリで囚人に取り入った最低野郎だって、そう思われてもしかたねえ。こうやって東京プリズン発つ前夜に呼び出されて、心のどっかで覚悟してたんだよ。お礼参りって呼び方は古いかな」
 「なに悟ったふりしてんだよ中年、諦めよすぎだろ!東京プリズンにいられなくなったくらいで人生捨ててんじゃねえよ、あんた全部なくしたわけじゃねえだろ、まだ守るモンがあるだろ!」
 「カミさんならフィリピン帰ってやり直すさ。どのみち俺たちはもうおしまいだ。いや……とっくに終わってたんだよ、リカが死んだ時点で」
 五十嵐が静かな諦念を宿した目でひたとヨンイルを見据え、野太い声で宣言。
 「殺るなら殺れよ、ヨンイル。俺が成し得なかった復讐を、代わりに成し遂げてくれ」  
 「アホらし」
 ヨンイルが不敵に笑う。五十嵐が気色ばむ。空気が帯電したように場が緊迫してきな臭い火薬の匂いが大気に溶けて充満する。火薬の匂いが不吉に漂い殺伐とした空気が満ちる中、腰に手をあてふんぞり返ったヨンイルが大袈裟に首を振る。
 「あんた、俺をだれやと思うとる?寝転がって漫画のページめくる以外は便所のちり紙破く労力も厭うて
評判の図書室のヌシ、もとい西の道化ヨンイル様やで。復讐?んな面倒くさいことするかい。あんたか知っとるやろ、復讐成功さすのにどんだけ布石が必要か。わかりやすく漫画にたとえて言うなら伏線あるからこそ盛り上がるクライマックス、伏線も回収せんといきなり大砲でズドンやなんて美学のない殺し方ゴルゴ13が見とったら逆に撃ち殺されてまう」
 「いや、わかんねーからそのたとえ」
 ロンのツッコミをさらりと流してヨンイルが深呼吸、意味ありげな笑みを湛える。
 「お前をここに呼んだんは復讐なんてつまらんことする為とちゃう」
 「まさか本当に、ただ花火を見せるためだけに呼んだってのか?」
 信じ難いといった面持ちで叫び返す五十嵐にさらに何か言いかけたヨンイルを遮り靴音の大群が殺到、展望台にたゆたう白煙の帳を突き破り踊り込んできたのは今この場にいるはずのない顔ぶれ。
 「ヨンイルさん!!」
 「ワンフー!?何故君が、ここは東棟だぞ!」
 展望台に大挙してなだれこんできたのはワンフーを先頭にした西棟の囚人たち。ペア戦でヨンイルを熱狂的に応援していた囚人たちが二十名以上、我も我もと先を競い身軽に窓枠飛び越えて展望台の床を踏む。
 展望台に殺到した西棟の囚人たちはいずれも全身擦り傷だらけで囚人服はボロボロの状態、中には鼻血を流したり片方の瞼が青黒く腫れ上がった者、足首を捻挫したのかお互い肩を支え合ってる二人組もいて、無傷の者は一人もいない。 
 驚いてるのは僕たちだけじゃない。
 何を隠そう、他ならぬヨンイル自身がいちばん動揺してる。
 「おどれらなんでここに……ここ東棟やで、ちゃんとわかっとんかい!?渡り廊下越えなんて無茶しよってからに体がいくつあっても足りひんでホンマ、その分だとここ来るまでさんざんな目に遭うたろ、東棟の連中は容赦ないから……ああっ、パクお前鼻がヘンな方向曲がっとる!?リボンの騎士のプラスチック卿みたいな鼻になっとる!!」
 「ヨンイルさん一世一代の晴れ舞台だってのに西の囚人が知らんぷりできますか!」
 「花火師としての初仕事ぜったい成功させたるって医務室に見舞いにきた奴に片っ端から語ってたくせに今更なに言ってんスか、水くさい!俺らヨンイルさんの為にレッドワークで鉄屑集めまでしたんスよ、花火打ち上げる大砲まで一致団結して造ったんですよ!お呼びじゃないて言われても押しかけるに決まってるじゃないスか!!」
 「ヨンイルさんはくさっても西のトップ、命の恩人です!命の恩人が人生ここイチバンでどでかい花火打ち上げようってときにヨンイルさんの右腕を自負する俺が駆け付けなくてどうすんスか!」
 「ばかやろうっ、ヨンイルさんの右腕はおれだ!」
 「ふざけんなおまえなんか右足の小指で十分だ、ヨンイルさんの右腕の地位は渡さねえ!」
 西の囚人たちが怒涛の如く展望台に溢れ出してヨンイルに群がる。今や西の囚人の数は三十名以上に膨れ上がったが、展望台に入りきれず廊下に待機した人数を合わせれば最低五十人以上はいるだろう。
 展望台にいる僕らには実際見えなくても、窓向こうで飛び交う罵声と怒声が殺気立った喧騒を伝えてくる。
 「人気者だなあ」
 「他人事みてーに言うなよ。今のトップお前だろ」
 「いや、俺はロンにだけモテれば十分だから。それ以上を望むのは贅沢ってなもんさ」
 羨ましそうに言うレイジの脇腹をロンが小突けば、まんざらでもなさそうに王様が微笑む。のろける二人はさておき展望台を見渡せば、西の囚人たちの中に何名か東棟の囚人が混ざっていた。
 展望台の騒ぎを聞きつけて興味本位に潜り込んだのだ野次馬のひとりが、くるりと振り向く。 
 「カーギーさん!」
 ビバリーだった。
 「は?」
 おもわず自分の顔を指さす。カーギー……鍵屋崎だからカーギーが愛称か?ばかな。あまりにも短絡的なネーミングに絶句した僕のもとへとビバリーが小走りに駆けてくる。
 「ちょっと待て、なんだその珍妙な愛称は。以前レイジに付けられたキーストアという姓直訳の愛称も驚くべき短絡さであきれたが、君もそれに匹敵するぞ。第一あだ名で呼ぶのを許可した覚えはない、貴様だれに断って僕をカーギーなどという中途半端に省略した上に音を伸ばした珍妙な呼称で」
 「いえ、東京プリズンに来て十ヶ月以上たちましたしいつまでも『親殺し』呼ばわりじゃそっけないかなって僕なりに気をつかったんスけど……そんなことより、今晩は何のパーティーっスか?」
 「そんなこと?僕の呼称が『そんなこと』だと、僕は特別親しくもない他人にカーギーなどというカーネギーの略称みたいな人種はおろか国籍すら判別しがたい呼称を用いられたくは」
 「グッドタイミングビバリー。パーティーはこっからが本番だ」
 僕の抗議を遮りレイジが口を出す。ロンを抱いたのとは逆の手でビバリーを招いて夜空を見上げる。
 『Look at a flower blooming in desert.』
 砂漠に咲く花を見せてやる。
 「なんだってんだよ一体全体!?」
 恐慌をきたした五十嵐がむなしく叫ぶ。展望台は今や西の囚人と東の囚人で混沌とごったがえし、呼吸すら満足にできない過密状態で端に追い詰められた人間があわや転落しかける始末。西の囚人たちに掻き分け泳ぎ前進し、服を皺くちゃにされつつ大砲のもとに辿り着いたヨンイルの顔は生き生きしている。
 初めて漫画以外の生き甲斐を見つけて、いっそ無邪気なまでに純粋な喜びに満ち溢れた表情。
 「五十嵐はん、あんたに見せたいもんはコレや!これが俺の『けじめ』や!!」  
 弾痕も無残な祖父の形見のゴーグルの下、活発に目を輝かせて大砲を空に向ける。
 「じっちゃんの口癖。ひとを不幸にする爆弾よりひとを幸せにする花火のがずっとええて、俺が作りたいのは花火やて言うとったん思い出したんや!俺、ずっと勘違いしとったんや。俺が知っとるじっちゃんはいっつも爆弾作っとったから、俺も爆弾の作り方しか知らへんで、じっちゃん継いでイッパシの職人気取りで毎日毎日爆弾作っとった。でもな、じっちゃんが作りたかったのは、ホンマに打ち上げたかったんは花火なんや。爆弾よりずっと綺麗で、ずっとみんなに喜んでもらえるタダの花火やったんや!」
 火薬に煤けた手で大砲を動かして傾斜角を固定、空の一点に狙いを定める。ロンが息を呑む。レイジが十字架を握る。ビバリーが両手を組む。僕はただその場に立ち尽くし、成功を祈る。
 五十嵐の顔が悲痛に歪む。彼にもわかったのだ、ヨンイルがやろうとしていることが。
 懐から二個目の取り出し大砲に詰め、マッチを擦り、点火。
 大砲との必死の格闘を物語るように上着の裾がはだけて龍の刺青が覗いても構わず、ヨンイルが絶叫。
 
 「花火師ヨンイルの初仕事にして最高傑作、とくと見さらせこらあああっ!!」

 轟音。 
 大砲から放たれた砲丸が長大な放物線を描いて夜空に吸い込まれる。展望台に押しかけた野次馬が揃って同じ方向を見る。
 高く高く、どこまでも高く。
 それはまるで刺青の龍が肉体の呪縛から解き放たれ、上昇気流に乗じて空の高みに還っていくかのよう―……

 光が爆ぜた。

 極彩色の光が夜空を染め抜く。囚人たちの鼻先へと火の粉が舞い落ちる。ロンの横顔に花火が照り映える。レイジの胸にかかる十字架が花火の輝きを受けてきらめく。僕は言葉をなくし、砂漠の夜空を彩る花火の美しさに見惚れた。
 「……メイファとお袋にも見せてやりたかったな」
 燃え落ちる花火を目に映したまま、ロンがぽつりと呟く。
 「マリアに見せたかった。ついでにマイケルにも」
 つられたようにレイジが呟く。僕も同じことを考えていた。恵に花火を見せてやりたい。赤や橙の火花を散りばめて砂漠の夜空を彩る大輪の花火。輪郭すら掴めない儚い一瞬、鮮やかな残像を瞼の裏に焼き付けて燃え落ちる花火を恵に見せてやりたいと強く思った。
 展望台に居合せた誰もが魅入られたように夜空を仰ぎ、遠く離れた大事な人に花火を見せたりたいと思った。そして僕は、隣にサムライがいないのを残念に思った。彼と一緒に花火を見たかったと素直に思った。
 「五十嵐。あんたの言う通り、俺はたしかに過去ニ千人を殺した凶悪な爆弾魔で最低の人殺しや」
 夜風に吹かれて火の粉が舞い上がる中、大砲から離れて再び突端に歩み出たヨンイルが胸に手をあてる。
 黒く煤けた手。
 火薬を詰め、砲丸を取り、最高傑作の自賛に恥じない素晴らしい花火を打ち上げた手。
 血に汚れた爆弾魔の手ではなく、火薬に煤けた花火職人の手。
 「俺が人殺しなのは変わらん。あんたの娘は戻ってきいひん。せやけど俺の手は、爆弾生み出す為だけにあるんとちゃう。東京プリズンからいなくなる前にあんたを呼び出したんはこれを見せたかったからや。俺はたしかに凶悪な爆弾魔で最低の人殺しやけど、あんたがこの花火を見てちょっとでも綺麗やなって思うてくれたならちょっとはマシな人間になれた気がする。じっちゃんに近づけた気がする」
 胸から手をどけたヨンイルが真摯に答えを待つ。全身で五十嵐の感想を聞こうとしている。展望台を緊張感が包む。これだけの人数が集まっているにも拘わらず、ごくささやかな衣擦れの音と息遣いの他には火の粉が燻る音しか聞こえない。何故か今日に限っては中庭中央の監視塔も沈黙を守り、サーチライトが巡回する他に見張りの看守の気配もない。
 異常な静けさに支配された中庭にただひとり佇んだ五十嵐の鼻先に、風に吹き流された火の粉が舞い落ちる。
 緩慢な動作で五十嵐が手の平を返し、火の粉を受ける。
 無意識な動作で火の粉を握り潰し、五十嵐が言う。
 「悔しいけど、綺麗だったよ」
 乾いた目でヨンイルを見上げ、無理を強いて微笑む。
 不器用で優しい父親の笑顔。
 「リカとカミさんにも、見せてやりたかった」
 ゆっくりと五指を開く。最前、しっかり掴んだはずの火の粉は跡形もなく消えていた。僕には五十嵐が笑いながら泣いてるように見えた。笑顔も声も乾いているのに、失った物と掴めなかった物の重みを噛み締めて泣いているように見えたのだ。
 ロンの目は真っ赤だった。込み上げる涙を必死に堪えて、瞬き一つせずに五十嵐の姿を焼きつけていた。レイジはそんなロンにさりげなく寄り添い、片手を十字架に添え、片手でロンの手を握っていた。ワンフーは泣いていた。他にも何人が嗚咽を漏らしてる囚人がいた。
 ヨンイルは、泣かなかった。
 笑っていた。誇らしげに、照れ臭げに。
 その言葉が欲しかったのだと返すように。
 「爆弾作りなんかやめて花火一本に絞れよ。お前、才能あるよ。悔しいけど」
 今度こそ五十嵐が背を向け歩き出す。
 別れの挨拶はない。ただ無言で歩き去る五十嵐を展望台の囚人が見送る。
 「待てよ、いくなよ五十嵐!」
 ロンが衝動的に身を乗り出し展望台から落ちかけてレイジに止められる。それでもまだ追いすがろうとするロンに刺激されて何人かが「五十嵐!」と声をあげる。だが五十嵐は振り向かない。歩みを止めずにサーチライトの光も届かない暗闇へと溶けて―
 「行くな、五十嵐」
 知らず知らずのうちに僕も呟いていた。東京プリズンに来て十ヶ月間、五十嵐と出会った最初の日から今夜に至る回想が脳裏を席巻する。銜え煙草でジープを運転していた横顔。中庭での再会。親切に気を利かせて恵の担当医からの手紙を僕に届けてくれた。
 僕は五十嵐の中に理想の父親を見ていた。
 いつしか五十嵐に憧憬めいたものを覚えてさえいた。
 「戻ってこい五十嵐、お前がいなくなっちまうなんておかしいよ!タジマは自業自得だけどお前は何もしてねえじゃんか、そりゃ安田の銃盗んでヨンイル殺そうとしたのは事実だけど現にヨンイルはこうしてぴんぴんしてるじゃんか、前よりもっと元気に生き生きしてるじゃんかよ!!
 大丈夫だよコイツ殺しても死なねえレイジの同類だから、だから戻ってこいよ五十嵐、お前がいなくなったら寂しいよ!!畜生こんなクサイ台詞言わせんなよ、でも嫌だ、お前がいなくなるのは嫌だ!覚えてるだろ五十嵐俺に牌くれたときのこと、凱の子分どもにどつかれてしょげてた俺に牌を恵んでくれたことあったろ?アレで俺すっげえ励まされたのにっ……」
 ロンの声が詰まる。続けられず、下唇を噛んで俯く。
 しかし五十嵐は振り向かず次第に遠ざかる。
 孤独な靴音が闇に反響する…… 
 「せや、大事なこと忘れとった。ちょい待ち五十嵐!」
 ヨンイルが手足をばたつかせ待ったをかけたのはその瞬間だった。
 勢い余ってつんのめったロンが危うく転落しかけ、「ギリギリセーフ!」とレイジに抱きとめられる。靴音が止む。うろんげに振り向いた五十嵐をよそにマイペースに懐を漁ったヨンイルが取り出したのは一冊の本……
 否、漫画。
 「あんたに文句言いたことあったんや。俺が風邪ひいて入院してるときそっと枕もとにおいてくれた『ガムガムパンチ』やけど」
 よく見えるよう漫画を掲げて一気にページを開く。
 気が違ったとしか思えない奇行をだれもがあ然と見守る中、西の道化……もとい図書室のヌシは接着剤でぴたりと封印された最終ページを示して地団駄踏む。
 「最終ページ糊付けなんて陰湿な嫌がらせしくさりよって、図書室へのヌシへの挑戦と受けとってええんか!?だいいち糊付けなんて漫画への冒涜、漫画の神様手塚治虫への侮辱や!!俺はええ、しかし手塚に謝れ、土下座して謝れ!!『ガムガムパンチ』のラストを楽しみにしとった全国の読者に謝れ!!ほらお前らも何か言うたったれ、五十嵐はどうせ明日には東京プリズンからいぬるんや、これまでためこんだ鬱憤晴らしたれ!」
 「んないきなり言われたってヨンイルさん!?」
 ワンフーがうろたえる。野次馬がざわつく。
 やがて中の一人がヨンイルに触発され前に出る。他の囚人を押しのけて前に出たその人物を見て仰天する。いつのまに紛れ込んでいたのか、残虐兄弟を左右に従えた凱だったからだ。
 「五十嵐この野郎、よくも騙しやがって!親切なふりで俺たち腑抜けにして腹ん中じゃずっとヨンイルに復讐たくらんでたんだろ、見上げた黒さだなオイ、囚人みんなのよきお父さんの五十嵐さんよぉ」
 「俺たちの純情もてあそんでヨンイルに近付くダシにしやがったゲス野郎が、てめえにゃ地獄がお似合いだ。道化に見逃してもらったからってイイ気になんじゃねえぞ、俺が出所したら真っ先に殺しに行ってやっからな。なああんちゃん?」
 「おおとも弟よ」
 威勢よく五十嵐を罵り倒す凱たちに触発されてあちこちで怒号が上がる。「屑が」「ゲスが」「所詮五十嵐も東京プリズンの看守だったってことだな」「バスケの審判なんか頼むんじゃなかったぜ」「そういやこないだの試合、トラベリングで注意されたけどアレも相手方から賄賂貰ってわざとやったんじゃねえだろな」「金汚ねえゴキブリ野郎が」「お前だって売春班のガキども買ってたんだろ、五十嵐さんよお」
 根拠無根な中傷が飛び交う中、五十嵐は黙って耐えていた。囚人を裏切った自分には反論する資格がないと体の脇にこぶしを垂らして屈辱に耐える五十嵐めがけ、喧々囂々非難が浴びせられる。
 以前は実の父親のように五十嵐を慕っていた囚人たちが手の平返したように五十嵐を責め立てる。
 「てめえらこのやろう、さんざん五十嵐に世話になった恩忘れやがってデタラメばっか言いやがって!!てめえ凱、お前だって五十嵐によくしてもらったろ!?鉄パイプで殴られて前歯折ったときに医務室に運んでくれたの誰だよ、前歯接着剤でつけてくれたの誰だか思い出せよ親不孝もんが!!」
 堪忍袋の緒が切れたロンが凱に殴りかかろうとするが人ごみに押し返され近付けない、ビバリーは「やばいっスよおこれ」とただおろおろしてる。
 展望台は大混乱に陥った。ヨンイルは何のつもりであんなことを言ったんだと当惑した僕の視線の先を人影が大股に横切り、そして……
 悲鳴があがる。
 「ええと、君、凱くんでしたっけ?駄目ですよ、年長者に対してそんな口の利き方は」
 人ごみの渦中から颯爽と踊り出て凱の首を締め上げたのは、意外な人物……南の隠者、ホセ。待て、何故ホセがここに?展望台に押しかけた野次馬が思いがけぬ人物の登場に呆然とする。
 黒ぶち眼鏡の奥の目をうろんげに細めたホセが、威圧的な声音で囁く。
 「年功序列の概念はご存知ですか?なに、ご存知ではない?なら説明してあげましょう。年上の人間には常に敬意を払い接するようにという最低限の常識ですよ。トップがトップだけに東棟の囚人はマナーがなってないですねえ」
 「く、ぐるじ、ぐるじっ……」
 腕で首を圧迫された凱が泡を噴いてもがくが、隠者は容赦しない。
 獰猛な肉食獣をおもわせる双眸を剣呑に細め、口元をにやつかせ、凱の背中にぴたり腹を密着させる。もう少し力を込めれば凱を絞め落とせるだろうにそれをせず、敢えて苦しみを長引かせる
 「君たちだって他に言うべきことがあるでしょうに。自分の胸に手をあて聞いてみなさい。五十嵐さんと会えるのは今宵が最後なのですよ?いいんですか、こんな別れ方で。罵詈雑言で終わらせてしまって。君たちの怒りもいやはやごもっとも、大事な人に裏切られた痛み哀しみは吾輩このホセも十分承知しています。ですが」
 スッと目を伏せ、腕を緩める。漸く気道を解放された凱が激しく咳き込みくずおれ、残虐兄弟が「しっかり、ボス!」「人工呼吸だ、弟よ!」と左右から支える。残虐兄弟に助け起こされた凱にはすでに興味を失ったように人だかりに向き直り、眼鏡のブリッジに触れる。
 「くりかえしますが、今宵が最後。今宵を最後に彼は東京プリズンを去り永久に戻っては来ない。なのにいいんですが、つまらない意地を張って。君たちだって本当は引き止めたいくせに仲間の顔色を窺い罵って、それで本当に後悔しませんか。君たちが五十嵐さんに騙されたのも事実なら優しくされたのもまた事実。何故前者の真実しか見ようとしないのか不可解でなりません」
 「いいこというじゃんホセ。見なおした」
 レイジが茶化す。ホセは大人の余裕で微笑み返す。
 「ホセの言うとおり。お前らだって五十嵐に懐いてただろ?そこのお前はたしかズリネタのエロ本調達してもらったよな。Fカップの金髪美女がモデルの洋モノ。そっちのお前は看守にタコ殴りにされて足骨折したときに医務室まで運んでもらった。そっちのお前は五十嵐に煙草を……」
 「「なんで知ってんだよ!?」」
 「王様はなんでもお見通し」
 レイジが肩を竦める。展望台のざわめきがやがて収束、殺気が沈静化して微妙な沈黙が落ちる。
 ホセとレイジとヨンイルとが一定の距離をおき均衡を保った成果。
 数秒おいて靴音が再開、囚人の罵声がやんだのを潮に五十嵐が歩み去る。悄然と肩を落として立ち去る五十嵐を見送り、レイジが深呼吸。「しゃあねえなあ、最初か」と愚痴り、十字架の鎖に指を絡める。
 「元気でな、五十嵐。あんたちょっとマイケルに似てたよ」
 五十嵐が立ち止まる。
 レイジは笑っていた。
 五十嵐の背中に大切な人物を重ねるように懐かしげに目を細め、口元に微笑を滲ませ、幸福な思い出に浸る。
 「マイケルって俺の親父代わりだけど、不器用なとことか苦みばしった笑い方とかドキッとするくらい似てた。だからあんたのこと、嫌いじゃなかったぜ。あんたがいなくなるの残念だよ。俺のコーチはマイケルだけど、ここの囚人にバスケ教えてやったのはあんただ。ここの連中はバスケのボールも買えねえスラムの貧乏家庭育ちが大半だから、あんたから初めてバスケ習った奴きっと多いぜ。なあ?」
 「そう、だよ。あんたから初めてバスケ習ったんだよ、俺は」
 震える声でそう言ったのは、さっき、五十嵐の不正を疑った囚人。過去にトラベリングを注意されたその囚人は、水っぽく潤んだ目で五十嵐を睨み、ひきつけを起こしたようにしゃくりあげる。
 「俺んちは貧乏で、親父は最初からいなくて、お袋には十歳で捨てられて……東京プリズンに来てあんたに出会って、初めてバスケを知った。トラベリングを知った。ボール持ったまま歩くのが反則だってそんな基礎的なことも知らなくて最初はまごついたけど、あんたが根気良く練習に付き合ってくれたおかげじゃ今じゃ五人抜きできるようになったんだ。こないだの試合じゃスリーポイントシュートだってきめたんだ。だから」
 浅い呼吸に合わせて激しく肩が上下、堰が決壊したかのように絶叫。
 「ほめてくれよ、親父!!」
 それが引き金となった。  
 「行くな、五十嵐」
 気弱な声音でだれかが言った。置き去りにされる子供のように心細げに、必死に、縋るように。
 「行くな」
 「行くなよ」
 「行かないでくれ」
 「俺だってやだったんだ、本当は」
 「五十嵐がいなくなっちまうなんて嫌だって腹ン中じゃずっとそう思ってたんだ」
 「あんたに裏切られたって知っても頭じゃわかってても心が納得しなくて」 「あんたがくれた煙草最後の一本吸わずに残してあるのに」
 「あんたがくれたエロ本かぴかぴになってもまだ大事にとってあるのに」「俺が他の看守にぼこぼこにやられたとき、大丈夫かって心配してくれた。あんただけが心配してくれたんだ」
 「医務室まで付き添ってくれた」
 「見捨てなかった」
 「本当の親父みたいに」
 「見捨てないでくれた」……
 叫びが連鎖する。囚人が競って身を乗り出し五十嵐に追いすがる。虚空に手を伸ばし掻き毟りそれでも届かず地に膝付いて絶叫する、行かないでくれ、捨てないでくれと五十嵐にすがりつく。
 花火を打ち上げた時と同じかそれ以上の大音響が展望台を揺さぶる、夜気を震わせて鼓膜をびりびりと痺れさせる。
 展望台の突端から半ば以上身を乗り出した囚人がいる。
 五十嵐を追って虚空に身を踊らそうとして仲間に引きずり戻された囚人がいる。
 「行くなよ、寂しいよ!!」
 「あんたがいなくなったらだれがバスケの審判やんだよ、あんた以外の審判なんか認めねえ絶対!」
 「捨てないでくれよ父さん、俺もうケンカしねえから、悪さしねえから……」
 「このままずっと俺たちの親父でいてくれよ」 
 「東京プリズンにいてくれよ!!」
 五十嵐の肩が不規則に震える。歩みが再開、中庭を横切り闇に溶け込む五十嵐の背中を見届けて囚人が泣き崩れる。涙と鼻水を滂沱と垂れ流し、こぶしでコンクリの地面を殴りつけ、首を振る。ロンが乱暴に目を擦り涙をごまかす。凱と残虐兄弟までが地にくずおれて嗚咽を堪えている。
 ヨンイルとレイジとホセは三者三様の表情で五十嵐を見送った。

 僕は。
 僕は、

 「!!っ、」 
 気付けば駆け出していた。展望台の突端から身を乗りだし五十嵐が消えた方向の暗闇に目を凝らす。
 まだそこに五十嵐の残滓が漂っているかのように必死に目を凝らし、胸を苛む熱を吐き出すように喉振り絞り、今の感情をあまりに愚直すぎる言葉にして闇の向こうに伝える。

 「待っているから、帰ってこい!!父親が子供を捨てても、子供は父親を捨てられないんだ!!」

 僕の言葉が届いたかどうかはわからない。
 ただ、見間違いではないなら。
 サーチライトの光が気まぐれに照らし出した一瞬に暴かれた五十嵐は、片手をこぶしにして空へと突き上げた。
 もう僕らを裏切りはしないと。
 必ずまたここへ帰ってくると、誓うように。
[newpage]
 「すっげえ。ちっちぇえお口で奥までずっぽりくわえやがる」
 「さっすが男娼、フェラは十八番ってか」
 「俺のペロペロキャンディの味はどうだ?美味だろ」
 「はやく交代しろよ、はちきれちまいそうだよ」
 「あせんなって、まだまだ先はなげえんだから」
 力を込めて前髪を掴まれ頭皮から毛髪が毟れる。あまりの激痛に生理的な涙が滲むがそれでも舌の動きはとめられない。口を窄ませ頬を膨らませ唾液を潤滑油にペニスに舌を絡める。
 奉仕を中断したら恐ろしい折檻が待ってる。
 荒い息の狭間で交わされる情欲に掠れた囁き、野卑な口笛と嘲笑。
 早く順番を代われと僕にペニスを含ませてお楽しみ真っ最中の看守を同僚がせっつく。脇腹をつつかれた看守が乱暴にその手を振り払う。邪魔者扱いされた看守がぺっと唾を吐く。僕はただただ呼吸ができなくて苦しかった、口一杯にペニスが詰まってるせいで唾液も嚥下できない。 
 苦しい。気持ち悪い。吐きたい。
 胃袋が縮かんで喉もとに嘔吐の衝動がせりあがるのを必死に堪えて奉仕に励む。
 口をもごもごさせて必死にペニスをしゃぶる僕の頭を抱えこみ、興奮に息を荒げる看守。
 だらしなく弛緩した顔、恍惚とさまよう目、口からはみ出た舌……
 助けてビバリー。助けてママ。
 「はっ、ふっ、けふっ……」
 顎がこった。少し、休みたい。一分なんて贅沢は言わないから十秒だけ呼吸を整える時間が欲しいと潤んだ目で請えば更に喉の奥深くへと突っ込まれた。絶対わざと。頬は涎でべとべと。いったい何人に奉仕させられたのか入れ替わり立ち代りひっきりなしで記憶が判然としない。何本のペニスを咥えたかわからない。静流が僕を見捨てて房を出てから何分、いや何時間経ったのかもわからない。
 静流が戻ってくる気配はない。鉄扉が開く気配はない。
 「さぼんなよ。ちゃんと舌動かせよ」
 毛髪を毟られた頭皮が焼け付くように痛む。柿沼はとくにサディスティックな看守ばかりをそろえてきたみたいで、漸く自分の順番が来て狂喜した看守は僕の前髪を掴んで揺さぶって刺激を強める。前後に頭を揺さぶられるたび意識が断ち切れて目が回る。歪む視界に悪酔いしながら、それでも丁寧にペニスを舌を這わす。
 熱く潤んだ粘膜に包まれたペニスが硬さ大きさを増して急激に膨張、絶頂が近付く。
 「ひあっ……!」
 口の中でペニスが爆ぜる。全部は飲み干せずに口の端からたらりと白濁がたれる。青臭くて生臭いザーメンの味……独特の苦味。
 吐き出したいのを我慢して呑み込んで、性急に訴える。
 「ねえ、もういいでしょ、許してよ。約束どおり最高に気持ちよくさせてあげたっしょ、僕ちゃんといい子にして約束守ってしょ?イッたならもううちに帰してよ、ビバリーんとこに帰してよ!もうやだ、助けてママ、ママあ……」
 ママに会いたい。ビバリーんとこに戻りたい。
僕だって伊達に修羅場を体験してない。外にいた頃は渋谷の売春組織をシメてた前科もあるし大物代議士パトロンにつかまえて成り上がるまではさんざん辛酸舐めてきた。
 六歳からずっと小遣い稼ぎに体を売っていた。
 危ない目に遭ったこともある。ぺドでサドの客にあたったときは悲惨だった。内腿にじゅっと煙草を押し付けられたり目隠しされたりクスリ使われたり浣腸されたり、三人に輪姦されたこともある。あの時も体の震えがとまらなかった。一人目が口に突っ込んで二人目が貫いて三人目にはペニス悪戯されて、三人がヤるだけヤって満足して札束投げてホテルの部屋出たあとも長いこと起きあがれなかった。
 でも、今度はさらに多い。
 体がもつはずない。全部が終わったあと、きっと僕は壊れてしまう。以前の僕じゃいられなくなる。もう二度とビバリーに会えない予感がする。生きてママに会えない予感がする。
 「ママ、ママあ……おうちかえりたいよ、ママあ」
 ママに会いたい。僕にそっくりの赤毛のママ。若くて美人なママ。涎でべとべとの頬に滂沱の涙を流して哀願する、はやくおうちに帰してと懇願する。
 そんな僕を眺めてベッドを囲んだ看守たちは笑っていた。
 卑屈で邪悪な笑い。直接肌を刺す悪意の波動。
 「ぴーぴー泣いても最愛のママは助けにこねえぜ。諦めろ。お前のママは今頃若い男の下で節操なく腰振ってるよ。あんあんひんひんはしたない喘ぎ声張り上げて股ぐらびしょびしょに濡らしてるよ!」
 看守のひとりが僕の顎を掴んで高笑い。
 「雌犬の胎から生まれたガキは雌犬、娼婦の胎から生まれたガキは淫売。世の中ってもんはうまいこと循環してんな」
 看守のひとりが頬をぺちぺち叩いて知ったかぶる。
 「いいか?お前は売られたんだよ、静流に。見捨てられたんだよ、ママに。頼りのダチだって助けにきやしねえじゃんか。お前が声からして叫んだところで全部無駄、お前みてえに生意気なガキの為に危険を承知で地獄のどん底にとびこんでくる物好き世界中捜したっているわきゃねえだろが」
 「もちろん東京プリズンにだっていやしねえよ」
 看守のひとりが肩を突き飛ばす。
 圧迫感を与える低い天井に嘲りの哄笑が渦巻く。看守の顔には露骨な侮蔑が浮かんでいる。逃げられない。逃げ出せない。眉間が痛くなるまで奇跡を念じ助けを呼んだところで救いは来ない。
 絶望。
 ママの面影が薄れて底抜けに明るいビバリーの笑顔に取って代わる。ビバリー今どこで何やってんの、なんで僕のピンチに助けに来てくれないのさ役立たずと心の中で罵ってもビバリーはただお気楽に笑ってるだけ。「そりゃないっスよリョウさん、僕いま手が放せないんスから」とたわごとほざきながら目にも止まらぬ早業でキーを打ってる姿を想像、自暴自棄の衝動が込み上げて笑いたくなる。そっか、ビバリーは僕よりロザンナが大事なんだ。ロザンナを選ぶんだ。役たたずめ。友達甲斐のない奴。
 怖い。
 「許して、ください」
 怖い。
 だれも助けにきてくれない暗闇で看守に囲まれて僕はどうしたら、嫌だ助けてママ怖いここから出して酷いことしないで痛いことしないでおうちに帰して!!理性が蒸発して思考の洪水が殺到、心臓が爆発しそうに高鳴り全身の毛穴が開いて汗が噴き出す。
 好奇心猫を殺す。
 僕がこれまでほぼ無傷でピンチを切り抜けてこれたのは単に悪運が強かったからで、僕は今回だって何の根拠も確証もなくただ「これまでだって大丈夫だからこれからだって大丈夫」という口笛吹きたくなるくらい楽観的な見通しと無邪気な好奇心に突き動かされて静流を尾行した。 好奇心猫を殺す。
 静流をつけたりするんじゃなかったんだ。
 放置しておけばよかった。
 静流は災厄だ。静かなる災厄に関わったらおしまいだ。一条の光も射さないどん底から這い上がるにはどうすればいい?教えてだれか、ママ、ビバリー……静流。戻ってきてよしずる、助けてよ!こいつら君が命令すれば言うこと聞くんでしょう解放してくれるんでしょうならそうしてよ、君が柿沼と関係してたことは誰にも言わないから黙ってるからごまかしとおすからだから!
 「許して、ごめん、ごめんなさい!僕が悪かった謝るよ静流をつけたりしてごめん覗き見てごめん、ねえ謝ったんだからいい加減許して手錠はずしてよ、これ以上酷いことしないでよ!ねえなんで笑ってるの、僕すっごい真剣なのに……柿沼さんっ」
 戦慄の表情で柿沼を仰ぎ見る。
 柿沼はにやにや笑っていた。囚人を虐めるのが病みつきになったゲスの笑顔。嘆願も説得も一切通じない絶望の笑顔。致命的な断絶を痛感し、喉が引きつる。房の暗闇に溶け込むようにベッド脇に佇んだ柿沼はすでに僕の知る柿沼じゃない。僕を買いに来た柿沼じゃない……静流の奴隷の柿沼だ。
 こんなのって、ない。
 柿沼にはさんざんよくしてやったのに恩を仇で返すような真似しやがってと怒りが沸騰、鎖が許すぎりぎりまで身を乗り出して罵詈雑言浴びせる。
 「畜生こんなのってアリかよ、柿沼さんちょっと前まで僕のこと贔屓にしてたじゃん、フェラよくできたご褒美にキャラメルとか一口チョコとか恵んでくれたじゃんか!!僕にエプロンドレス着せて不思議の国のアリスのコスプレさせたくせに、僕を膝に抱っこして下から貫いてさんざんいやらしいこと囁いたくせに、僕のペニスいじくって「食べちゃいたいくらい可愛いピンク色だな」とか「生まれたての小魚みたいにピンピン元気よく跳ねてる」とか恥ずかしいこと」
 「悪いがリョウ、お前のカラダには飽きたんだ」
 怒りが沸点を突破、脳細胞が一片残らず蒸発しそうになる。
 理性の堰が決壊し自制の箍が外れる。脳天突き抜けるように甲高い奇声を発し柿沼を引っ掻こうと前傾。ああ、発情期の猫みたいにうるさい鳴き声。真っ赤に充血した目に臨界の憎悪を漲らせ、手錠の鎖を限界まで引っ張って捨て身で反撃する僕を指差し看守陣が爆笑。
 至近で嗤われて顔に唾がかかる。
 「可哀想になリョウ、お前はもう用済みだとさ」
 「お古のオモチャにゃ興味ねえとさ」
 「柿沼にフられちまったなあ」
 うるさい。黙れ。この野郎。
 腹の底で呪詛が渦巻く。喉の奥で威嚇の声を泡立てる。柿沼は僕を払い下げた。獰猛な同僚に。肉欲の奴隷と成り果てた看守に。
 僕は、
 「おねがいだから、酷いことしないで」
 懇願する。ただただ必死に懇願する。
 恐怖に掠れた声で、目に一杯涙をためて、演技ではなく素で許しを乞う。体の震えがとまらない。毛髪が毟れた頭皮が塩をすりこまれたみたいに疼く。口腔に沈殿する精液の後味、ザーメンの苦味……
 ああ、しまいに指先まで震えだした。
 ひょっとして、クスリの禁断症状?
 反射的にズボンを探ろうとし、ガキンと響いた金属音と鎖の抵抗で手錠に繋がれてることを思い出す。クスリが欲しい。欲しい欲しい欲しい頂戴くれ、クスリがあればヤなこと全部忘れられるクスリは僕の味方砂糖みたいに甘くないけど僕をいつだって幸福にしてくれる真っ白な……
 「お願い。注射器とってよ。僕のポケットに入ってるから……」
 目尻から大粒の涙が零れる。
 「ごめんなさい、もうわがまま言わないから、ちゃんと言うこと聞くからだからクスリだけ打たせて。ほんの十秒いや五秒でいい、五秒だけ手錠はずしてくれれば僕もみんなも今この場にいる全員が最高にハッピーになれるんだ!僕はクスリ打ってヤなこと全部忘れて頭真っ白で柿沼さんたちの相手したげる、ねっだから五秒だけ時間ちょうだい、クスリ打つ時間ちょうだいよ!」
 「おい、頭大丈夫か」
 「禁断症状じゃねえか?これ」
 「年季入ったヤク中だからなコイツ。いつも注射器持ち歩いてるって有名じゃんか」
 看守が僕の頭の上でのんびり会話を交わす。
 僕がこんなに焦ってるのに、苦しくて気持ち悪くて体の内側から毒素に蝕まれてるのに、柿沼たち看守はだらしなく間延びした顔で緊迫感に欠ける会話に興じてる。
 ひりつくような焦燥が猛烈な渇きに変じて喉を焼く。
 体が不規則に痙攣する。
 嘔吐の衝動が胃を締め上げる。
 指先の震えが鎖を介して伝わり手錠がカチャカチャ鳴る。
 クスリ、クスリのことしか考えられない!はやく外してよねえこれ外して……脳裏で続けざまに閃光が爆ぜる。脳髄を穿孔するフラッシュバック。
 鍵屋崎がいる。ざまあみろと笑ってる。
 銀縁メガネの奥の涼しげな切れ長の目で、苦悶に身をよじり、みじめに這いずりまわる僕を見下している。本当にイヤなやつ。お高く澄ましたツラに唾吐いてやりたい。
 サムライがいる。いつもと同じ仏頂面、人を寄せ付けない眉間の皺。
 レイジがいる。ロンがいる。
 最後はママ。
 虫に食われて穴だらけの顔のママ。
 うじゃうじゃ沢山の蛆虫が、肉が溶け崩れて骨の断面が覗いた穴を出たり入ったり。
 トンネル遊び、楽しそう。ママのお顔の穴を出たり入ったりひょっこり通り抜けて、額の真ん中の穴をくぐった蛆虫が頬の右側の穴からぴょこんと這い出して。丸々肥え太った蛆虫がママの顔を食い破り黒点が重なり拡大し骸骨に……

 リョウちゃんなんでそんな悪い子になっちゃったの?
 リョウチャンガイイコジャナイカラ ママコンナ姿二ナッチャッタ

 「ママ、ごめんなさい」 
 蛆虫がのろくさ大群で這いずって僕の足の指から上へ上へとよじのぼり……やだ、あっち行け!ばっちい!ちぎれんばかりに首を振り身をよじり半狂乱で蛆虫を払い落とす。しかし、大群の侵攻は止まない。
 コイツら存外しぶとい。
 腹ぺこ蛆虫さんがえっちらおっちら僕の足の指を這いのぼる。あはは、くすぐったい。笑いながら見下ろせば、足の先端が蛆虫に齧られて損なわれていた。やばい。はやくコイツら追い払わなきゃ焼き払わなきゃ蛆虫に食べられ骸骨にされちゃう、ええと、蛆虫撃退するにはどうすればいいんだっけ?ナメクジは塩で溶ける。塩がないから砂糖で代用で、白い粉を撒けばナメクジの仲間の蛆虫も溶けて消える……
 やっぱクスリが必要だ。
 「甘くない砂糖撒けば蛆虫だって溶けて消える、ねえだれか僕のポケットからワンパッケ覚せい剤とってベッドのまわりに撒いて、そうすれば蛆虫近寄れないから!ほら、ナメクジだって塩で溶けるっしょ?蛆虫だっておなじだよナメクジの親戚なんだもん白い粉は魔法の粉だから蛆虫だって消せちゃうよ!畜生もっとはやく気付いてればママ助けられたのに、ごめんね僕のせいで綺麗な顔台無し」
 肥大した自己嫌悪と恐怖心と劣等感が喉を塞いで息苦しい。
 手錠に繋がれて延々フェラチオ強制されてから最低二時間以上経過、こんなに覚せい剤断ったら禁断症状でるに決まってる。自殺行為。自滅行為。本格的にやばい。幻覚が作り出した妄想だってわかっていても手足の先を齧られる掻痒や蛆虫が這い回る感覚は現実以上にリアルだ。  
 現実が幻覚に浸食される。
 現実と妄想がごっちゃになり、しまいに区別がつかなくなる。
 「きたねえ、コイツ泡噴いてやがる」
 「長くはもたねえなあ」
 「いいから早く突っ込んじまえ、ケツ持ち上げて」
 「覚せい剤打たなくていいのか?」 
 「俺たちゃ看守で医者でも売人でもねえ、注射器の打ち方なんか知らねえよ。それに万一針さしてショック死でもされたら俺らの責任じゃんか、イヤだぜ、そんなくだらない理由でクビになんの」
 「そうだな。遅かれ早かれコイツ死ぬしな」
 「東京プリズンで長生きなんざクソ食らえだ」
 下卑た哄笑が弾ける。頭が朦朧とする。両側の看守が僕の肩を押さえ付ける、ズボンを膝まで引き摺り下ろしベッドに飛び乗った看守が僕の膝を割って軽々持ち上げる。僕の膝を抱えてひっくり返し、お尻丸見えの恥ずかしい体勢をとらせて舌なめずり。
 尻の柔肉を鷲掴み、股間で赤黒く勃起したペニスをー
 「あっ、あああああああっあああああああああっああ!!」
 いだ、い。
 背骨もへし折れんばかりに背中を仰け反らせ絶叫、嫌々とかぶりを振り行為の中断を訴えても完全無視でますます奥へと挿入される。異物を排泄しようとする直腸の弾力に逆らいペニスが穿孔する背徳的な感覚が凄まじい激痛を伴い引き延ばされる。
 いくら僕が趣味と実益を兼ねた男娼だからってこんな扱いってない。手首が、痛い。金属の輪で手首が削れて赤い溝が二重三重に走る。
 脳裏にまた鍵屋崎の顔が浮かぶ。いつもと同じ無表情。眼鏡の奥の目は醒め切って、無慈悲に無関心に僕を眺めている。
 自業自得だ。
 鍵屋崎の幻覚が吐き捨てる。これまでさんざんいたぶられた仕返しに、看守たちに嬲り者にされる僕を見て溜飲をさげる。涼しいツラをぶん殴りたい。五指を閉じてこぶしに固めた瞬間、鍵屋崎の幻覚はかき消えてビバリーが出現。

 ビバリー!!

 五指をほどき、無駄だとわかっていながら手錠を抜こうとする。
 手を伸ばすのが無理ならせめて大口開けてビバリーを呼ぼうと深呼吸した次の瞬間、ペニスが喉につかえて声がくぐもる。僕を下から貫いてるやつとは別の看守が上の口にペニスを押し込んできたのだ。
 「歯あ立てたら殺すぞ」
 凄みを帯びた低音で脅迫した相手に目を凝らせば柿沼だった。柿沼にフェラチオを強制された僕は、別の看守に突き上げられて不規則に跳ねつつ丁寧にペニスを舐める。しゃぶる。ねぶる。

 それから僕は、どん底の定義を身をもって味わった。
 思い知らされた。

 五人に輪姦されても奇跡的に最後の最後まで意識を保っていられた。 途中何度も意識が薄れて理性が飛んだけど、行為が終わって看守が上からどいた時の記憶は比較的鮮明だ。
 ヤるだけヤって満足した看守がさっぱりした顔つきでジッパーを上げて房を出て行く。
 騒々しい足音、砕けた雰囲気。
 「ケツの穴ゆるみきった男娼のわりにゃ意外と使えたな」
 「フェラは抜群だった」 
 「それっきゃ取り柄ねえからな」
 「言えてら」
 おぼろげな意識の彼方で遠ざかる話し声と足音を知覚。鈍い残響とともに鉄扉が閉じて廊下の明かりが遮断される。再び暗闇。
 起きなきゃ。服を着なきゃ。
 気だるい動作で床に手を伸ばし、囚人服を拾い上げようとして初めて手錠が外されてないことに気付く。これじゃ手が届かない。柿沼たちは手錠も外さず、精液まみれの僕を全裸で放置して行ってしまった。
 残されたのは僕ひとり。暗闇にただひとり。
 「……ひっうぐぅ、」
 寒い。暗い。怖い。寂しい。
 泡沫のように脳裏に散発するつたない単語、思考未満の散文的な感覚と感情。痛い。下肢が痺れて感覚がない。いつになったら鉄扉が開くのかわからない。もう一生開かないかもしれないという疑惑が脳裏を掠めて激しい不安に苛まれる。
 まだ柿沼たちがいた時のほうがマシだった。 
 ベッドパイプに手錠で繋がれたまま全裸で放置されて、格子窓からわずかに光射す暗闇に閉じ込められたまま鉄扉が開かなければ遅かれ早かれ餓死か凍死という最悪の未来に直面する。
 イヤだ。僕はママに会うまで絶対死なないって決めたんだ、生きてここを出るって誓ったんだ。
 でも。
 「ママあ、ひっ、ママ……」
 みじめたらしくしゃくりあげる。格子窓から射すわずかな光は周囲の暗闇を尚更濃く見せる逆効果。格子窓から射した光により濃厚に深まった暗闇が足元にひたひた押し寄せて体を包み芯から冷やしていく。
 喉がかれるまで呼んでも誰も来てくれない。
 見捨てられた、完全に。
 「自業自得」。
 さっき鍵屋崎が言ったとおりだ。今までさんざん酷いことばかりしてたからバチが当たったんだ。
 孤独が僕の核、暗闇が僕の皮膚。
 だれも来てくれなかった。僕が殴られても輪姦されてもだれも助けに来てくれなかった。売春班に落とされた鍵屋崎もこんな気持ちだったの、世界の底が抜けて奈落に吸い込まれてく絶望を味わったの?胎児のように胸に膝を引き付けまん丸く縮こまり、ぶつぶつ呟く。
 それからさらに気の遠くなる時間が経過。
 ゆっくりと思わせぶりに鉄扉が開き、暗闇に慣れた目には強烈すぎる蛍光灯の光が逆流。
 蛍光灯の逆光で黒く塗りつぶされた細身の人影に目を凝らす。
 「ただいま」
 静流がにこやかに挨拶して房に足を踏み入れる。優雅な歩調でベッドに近づく静流から無意識にあとじさり距離をとる。背中がベッドパイプにぶつかる。冷え冷えと硬い金属の棒が背中にめりこむ感触。
 今の僕にはもう、静流が得体の知れない化け物にしか見えなかった。なんでこんな風に挨拶できるの、僕を柿沼に売り渡して輪姦させておきながら一点の曇りもない笑顔を浮かべられるの?良心の呵責とは無縁な笑顔が恐ろしく不気味だ。
 静流に対する恐怖心は恐ろしく澄み切った深淵を覗き込んだ感覚と共通。
 双眸の深淵には清澄な水が湛えられ、底が見えず。
 底が、無い。
 
 絶叫。

 最初、それが僕の声だとわからなかった。
 僕の喉が発しているものだと信じられなかった。
 喉も裂けよとばかりに高音域の獣じみた咆哮。金属を擦り合わせた響きの甲高い悲鳴。

 「化けもの、あっち行け化け物!!なんなんだよ、なんなんだよお前……おかしいよ狂ってるよ、東京プリズンの囚人はみんな狂ってるけどお前最初から狂ってる、ここに来る前から狂ってる!だって絶対おかしい、普通の人間が東京プリズンの環境に適応できるわけない、東京プリズンに来てたった数日で順応できるわけない!東京プリズンは地獄だもの、野郎が野郎のカマ掘る地獄だもの、毎日五十人もリンチで囚人死んで砂漠に埋葬される世界でいちばん極楽に近い地獄だもの!お前みたいに苦労知らずの日本人がたった二日か三日かそこらで地獄にどっぷり染まれるはずない、お前は最初からイカレてたんだよ救いようないくらい!!」

 つま先でシーツを蹴りあとじさり全身で拒むも静流は歩みを止めない。余裕ありげな足取りで距離を詰めてベッドの傍らに立ち止まり、そして……
 「酷くされて可哀想に」
 思いやり深い口調で呟き、僕の頬にさわる。ひんやりと冷たい手に体温を奪われ全身に鳥肌が復活、脳天から奇声を発して首を振る。 
 「嘘、だ。こんなの変だよ、嘘だよ……だって僕ツイてるもん。今まで数え切れないくらい危ない目に遭ったけど無事切り抜けてきたもん、下水道で洪水に見舞われた時も五十嵐に銃口突き付けられた時も間一髪ビバリーが助けに来てくれて」
 ビバリー。
 頼りになる相棒、気のいい友達。お人よしなお調子者。
 「いつもいつだって助けに来てくれたんだ、必ず。僕が呼べば必ず」
 「じゃあ何で今回は来なかったのかな」
 無邪気に小首を傾げる静流を虚ろに見返す。
 そうだ。なんで今回は来なかったの、ビバリー。あんなに呼んだのに。何回も何十回も口に出して心で呼んだのに。口一杯に醜悪なペニス突っ込まれて苦しくて生理的な涙が滲んで、必死に嘔吐を堪えて舌を絡めて、心の中で呼んだのに。ママだってそうだ。ママはいつだって僕を置き去りにする、僕が苦しんでるの見て見ぬふりする。
 酷いママ。最低の女。あんたなんか母親じゃないと心の中で罵倒すれば、涙と鼻水が一緒くたに込み上げてくる。
 「可哀想に。捨てられたんだ」
 「違う!」
 「違わないよ。君は捨てられたんだ。だから誰もきみを助けに来なかった、酷い目に遭っていい気味だって放置したんだ」
 そうなの?僕、捨てられたの?
 ママの面影が薄れてビバリーの面影が消えて遂に何もなくなる。頭はからっぽ。心は麻痺したように何も感じない。捨てられてなんかないと否定したくてもビバリーが助けに来なかったのは後戻りできない現実。僕は暗闇にひとりぼっち。誰も助けに来なかった。内腿には血が流れたあと。シーツには精液のシミ。何もかもが手遅れ。
 ビバリーは間に合わず、僕は輪姦され、静流は笑っている。
 「でも、安心して。僕は君を捨てたりしない。こうして帰ってきたのが証拠だ」
 指一本動かす気力も喪失して廃人化した僕の右耳から左耳へ、空虚に声が通り抜ける。静流が僕の頬に手を添え振り向かせる。
 不意に静流が取り出したのは一本の鍵。僕の後ろに手を回して手錠の鍵穴にそれを挿し込めば、カチャリと小気味いい音がして輪が外れる。

 いまさら両手が自由になっても意味がない。

 ぼんやりベッドに座り込んだ僕の正面に回りこんだ静流が、ポケットからはみ出た注射器に目をとめ、何気なく手に取る。僕は静流のしたいようにさせた。
 打ちたきゃ打てばいい、勝手に。
 気まぐれ起こしてクスリを試してみたいならそうすりゃいいと投げやりな気持ちで眺めていたら、静流が僕の腕を取りひっくりかえし注射針を静脈に擬す。
 「今日見たことは他の皆に黙っていてくれるかな。交換条件といったらあれだけど、君の身に起きたことは口外しないでおくから」
 取り引きか。なかなかやるね。
 口元にうっすら自棄の笑みを吐く。
 知らず知らず引き込まれるように、こっくりと頷く。なんだかとっても愉快で滑稽な気分。腹の底から哄笑の衝動が込み上げて喉元でおさえるのに苦労する。僕もきっと、壊れちゃったんだ。
 内腿を見下ろす。生渇きの血の筋が蛇行して流れている。
 趣味と実益を兼ねた男娼の癖にいまさら何言ってんだって嗤われるかもしれないけど、最悪の形で処女を喪失した錯覚に襲われる。
 絶望のどん底にへたりこんだまま立ち直れない僕に微笑みかけ、ゆっくりと慎重に注射器のポンプを押し込む静流。
 静脈に注入された覚せい剤が血流に乗じて全身に巡りだし、さっきでの暗澹とした気分が嘘みたいに晴れていく。
 「っは……あ、ふ」
 涙で曇った視界に静流の微笑みが映る。
 僕の腕を優しくさすり、注射針のあとを指圧しながら、嫣然と囁く。
 「極楽浄土に逝けたかい」
 紅を落とし忘れた唇は禍々しく赤く。 
 僕の腕から指を放した静流がおもむろに服を脱ぐ。慣れた動作で上着を首から抜いて淫靡な痣が散らばった上半身をさらけだし、ズボンをずらして僕の上に大胆に跨る。全身にクスリが廻りはじめて恍惚とまどろんでいた僕は、静流に跨られても払いのけるのが面倒くさくて、そのまましたいようにさせることにした。
 ごくささやかな衣擦れの音。
 ベッドに仰臥した僕の腰に馬乗りになり、色白の裸身を薄紅の痣で引き立てた静流が吐息に乗せて誘惑。
 「今夜のことを全部覚せい剤が見せた夢にしてしまうなら、最後に僕を楽しませてよ」
 静流の本性は、とんでもない淫乱だった。
[newpage]
 恵と手を繋いで花火を見た。
 『綺麗だね、おにいちゃん』
 恵は生まれて初めて見る花火に心奪われていた。初々しく紅潮した頬におくれ毛が貼り付いたことに気付き、頬に手を伸ばして髪の毛を払ってやる。感謝を期待する行為ではない、兄としてただそうすることに喜びを感じたから。事実恵は僕が髪の毛を払ったことにも気付かず、夢中で空を仰ぎ続けていた。そんなに熱心に見上げていたら首を痛めると注意しようかと思ったが、恵の集中力を削ぐのが嫌で口を閉ざす。
 恵の邪魔はしたくない。恵さえ幸福ならそれでいい、それ以外は望まない。
 恵の笑顔がかげるのは何としても阻止せねばと兄としての使命感もあらたに、子供特有のふっくらした手を握りしめる。すべすべときめ細かい恵の手、清潔に爪を切りそろえた華奢な指。ピアノの鍵盤の上ではあんなに生き生きと跳ね回っていた五本の指が、今、それしか縋るものがないかのように必死に僕の手を握り返す。安心しきって僕に手を預けた恵の横顔を盗み見て、ささやかな幸せを噛み締める。
 空には花火が上がる。極彩色の光が織り成す絢爛な芸術。唇を半開きにして夜空を凝視する恵の頬に花火が照り映える。
 赤からピンクへ、黄色からオレンジへ。
 無心に夜空を仰ぐ恵の頬を鮮烈に彩る花火の残光。
 僕は幸せだった。確かに安らぎを感じていた。恵の手を握り体温を感じ、ただそれだけで深い安堵に包まれていた。そっと恵の表情を観察する。驚きに見開かれた大きな目、半開きに放心した唇。生まれて初めて見る花火に感動してるらしい素直な反応に自然と頬がほころぶ。
 可愛い妹。最愛の妹。僕の恵。
 『綺麗だね』
 いたく感じ入ったように恵がくりかえす。
 感嘆の吐息に溺れる恵を微笑ましく見つめ、今のありのままの気持ちを口にする。
 『恵のほうが綺麗だ』
 それは単純な事実、僕にとっての真実。あどけない頬を赤からピンクへと移り変わる花火に染めて、放心した表情で夜空を振り仰ぐ恵の姿はあまりに無防備で庇護欲を刺激する。
 黒々と濡れた瞳に花火が写り込む。
 恵の瞳で次々と花火がはじける。
 瞬き一回で消える儚い一瞬、盛大に花開き絢爛に朽ちていく極彩色の泡沫。夜空を華美に装飾する刹那の輝き。細いうなじで産毛がそよぎ、甘酸っぱい汗の匂いが立ちのぼる。徐徐に手に力を込める。二度とこの手を放さないと意志を込めて恵の手を強く握りしめる。
 五指から流れ込む恵のぬくもりで手のひらがじんわり温まる。
 この手を守る為なら何でもするとあの時下した決断に後悔はない。
 恵の手が血で汚れるなど僕には耐えられない。ならば僕が罪を被ったほうがいい、僕には恵を守る責任があるのだ。
 鍵屋崎優と由香利、血の繋がった実の両親の前で恵はいつも萎縮していた。生まれてきて申し訳ないと全身で謝罪するように目を潤ませ下を向いていた。
 鍵屋崎夫妻は実子の恵に対しても酷く冷淡で恵の存在は家でほぼ無視されていた。多忙な両親に放任されて育った恵は、孤独を紛らわすため一生懸命ピアノを練習した。両親を振り向かせたい一心で考案した一手段だったのかもしれない。恵の健気な想いはしかし、一度として報われることがなかった。
 鍵屋崎夫妻が自発的に練習風景を見に来ることは一度もなく、日々上達しつつある演奏に賞賛の拍手を送ることもなく、壁に防音処理が施された簡素な部屋にはピアノの音だけが寂しく響いた。
 恵は僕がいなければ駄目だ。僕に天才以外の付加価値があるならそれは恵の兄という一点のみ。僕は恵がいなければ駄目だ。恵は精神的に僕に依存しているが、僕もまた恵に依存している。
 とても正常とはいえない相互依存の兄妹関係。
 しかし、それでもいい。異常だっていいじゃないか。何か問題があるのか。僕はもともと異常な生まれ方をした人工の天才だ、もとから異常な人間が血の繋がりのない妹に異常な愛情を注いだところで倫理破綻はない。凡人の共感を拒むからこその天才だ。
 僕が奥底に抱えた秘密は僕の死とともに永遠に葬り去られる。
 鍵屋崎夫妻殺害の真相は永久に封印される。
 恵の将来のためにもそれがいちばんいいのだ。
 散発的に花火が上がる。乾いた炸裂音とともに夜空で花火が爆ぜる。閃光に明るんだ藍色の闇を背景に放射線状の軌跡を描く花火を見上げ、ふと違和感を覚え隣を振り向く。
 誰もいない。
 恵は僕の左側にいる、右隣には誰もおらず虚空があるのみ。
 本来、ここいにるべきはずの人間がいない。
 僕の隣にいるべきはずの男がいない。
 『どうしたの、おにいちゃん』
 恵が不思議そうに小首を傾げる。僕は恵に言葉を返さず、衝かれたように右側の虚空を凝視する。
 胸を吹き抜ける空虚な風の正体は何だ?
 胸にぽっかり穿たれた喪失感は?
 僕は恵と一緒に花火を見たかった。ヨンイルの最高傑作、素晴らしい花火。東京プリズンを去る五十嵐の前途を祝して空高く打ち上げられた送り花火。しかし、物足りない。恵が隣にいさえすればそれだけで十分のはずなのに、もう一人大事な人間を忘れているような気がするのは何故だ。  
 恵より大事な人間なんてこの世に存在しないはずなのに。

 僕の心は、「彼」を呼んでいる。
 ここにいない彼を求めて激しく疼きだす。

 彼。東京プリズンで出会った同房の男、初めて出来た友人。全幅の信頼を寄せる頼りになる相棒。いつも眉間に不機嫌な縦皺を刻み、本人にその気がなくとも人を威圧する仏頂面で、意志の強さと生来の頑固さを表明するように口を引き結んだ胡散臭い男。僕が辛い時には励ましてくれた。いつもそばにいてくれた。
 その彼が、いない。
 僕の視界から消えて手の届かないところへ行ってしまった。
 彼はどこにいる?周囲に視線を飛ばして探すが見つからない、恵と手を繋いだことも一瞬忘れて足を踏み出し周囲を見回すが花火が煌煌と照らす光と影の世界に彼はいない。
 『どこにいるんだ?』
 胸が激しく疼く。息を吸うたび肋骨の隙間に虚無が沁みる。おにいちゃん痛い、と恵が抗議の声を発するのを無視して花火に照らされた周囲を見回す。ここに彼がいなければ意味がない。僕は彼と一緒に花火を見たかった。あの夜展望台で二人並んで夜空を見上げ、ヨンイルが最高傑作と自賛する花火に陶酔する濃密な時間を共有したかった。
 『どこにいる、サムライ!僕を独りにしないと約束したろう!?』
 光に切り裂かれた闇の中に、虚しく声が響く。
 サムライはどこに行った、何故あの時あそこにいなかったという疑問が脳の奥で膨らみ暗澹と不安が渦巻く。同時に、荒削りに乾燥した唇の感触を反芻し頬が熱くなる。興奮か怒りか、自分でもわからない激情に翻弄されるがまま恵の手を引いて走り出す。
 恵が甲高い悲鳴をあげる。
 地上の狂乱に呼応するがごとく次々と花火が炸裂する。
 息を弾ませ疾走し必死にサムライを捜し求める。切迫した呼び声に闇は応じず沈黙する。闇に手を伸ばして掴むのは虚空だけ、サムライの面影すら掴めず何度も裏切られる。
 ぶざまだな鍵屋崎直。耳の裏側で嘲りの声がする。みっともない天才だともう一人の僕が嘲笑する。たかが友人一人のために大事な妹を引きずり回して、お前には恵さえいれば十分ではなかったのか?それ以上は望まないと言ったくせにあれは嘘かと僕を責める。
 そうだ。
 過去の僕には恵さえいれば十分だった、他には何もいらなかった。
 しかし、今は。
 『どこにいるんだサムライ、友人の自覚があるなら許可なく僕をひとりにするな!売春班に僕を助けに来たとき言った台詞は嘘か、タジマに襲われた夜に僕を抱いて言った台詞は嘘か!?僕は君のぬくもりを覚えている、ささくれた唇の感触を覚えている!恵以外の人間に接して不快じゃないと感じたのは君が生まれて初めてだ、君が初めての男なんだ!!』
 僕にはサムライがいなければ駄目だ。サムライがいなければ不足だ。サムライがいないと不安でたまらない。僕を独りにするな、サムライ。僕はすでに君なしではいられない体なんだ、体も心も君に依存しているんだ。花火の閃光が闇を切り裂く中をサムライを求めて走る。サムライを呼ぶ声は花火の炸裂音にかき消されて虚空に吸い込まれる。
 気付けば恵の姿は消えて僕は一人だった。喉嗄れるまで叫び、極彩色の光に彩られた明るい闇を掻き分けサムライを請い求める。

 どこにいるんだサムライ。
 僕を独りにしないでくれ。

 発狂しそうな焦燥に駆り立てられ、動揺に足を縺れさせ、走る。
 今の僕には君しかいないのに、君まで失ったら僕は本当に独りきりになってしまう。頼むから僕を拒絶しないでくれ、軽蔑しないでくれと必死に懇願する。心臓の動悸が速まる。耳の奥に鼓動を感じる。いつのまにか花火は消えてきな臭い残り香があたりに立ち込める。圧倒的な質量の闇が押し寄せて幾重にも僕の体を包み込む。暗黒の触手に四肢を絡めとられ身動きを封じられ、もがき苦しみながら僕は叫ぶ。
 『僕には君がいなければ駄目なんだ、孤独で窒息してしまうんだ!!』
 苦しい。助けてくれ。
 圧倒的な質量の暗闇が僕に覆いかぶさり押し潰そうとする、足元には闇より暗い暗黒を湛えた深淵が裂けて僕を呑み込もうとする。
 何故だ?
 サムライに拒絶された恥辱がまざまざと蘇る。不快感が喉を塞ぐ。
 静流の言葉を真に受けてサムライを試すような真似をした罰だ。もはやサムライの心は完全に離れてしまった。僕はまた選択を誤り大事な人間を失ってしまった。後悔しても遅い。取り返しがつかない。
 サムライは僕を軽蔑した、僕の本性に衝撃を受けて不快感を禁じえず激しく唾棄した。
 『許してくれサムライ、もう二度と触れないから、あんなことはしないから!一方的に触れて不快にさせたりしないと約束する、君の過去に触れないと約束する!だからっ』 
 だから。
 どうか、友人でいさせてくれ―……

 …………はっ、はっ、はあっ」  
 呼吸が荒い。心臓の音がうるさい。跳ね起きた時にはびっしょり寝汗をかいていた。濡れた前髪が額に被さって気持ちが悪い。
 悪夢から醒めると同時に背骨を抜かれるような安堵を覚えた。
 夢でよかった。隣のベッドを見ればもぬけのからだった。一瞬、呼べど捜せど姿の見えないサムライを求めて暗闇を彷徨する悪夢と地続きの現実に還ってきたかと心臓が止まったが杞憂だった。
 サムライは先に起きて洗面台に向かっていた。
 顎先を滴る汗を拭い、起き上がる。昨夜、五十嵐は東京プリズンを去った。展望台には囚人が集合し五十嵐を見送った。
 僕もあの場で五十嵐を見送った。
 サーチライトの光に暴かれた五十嵐の背中には父親の威厳が回復し、囚人たちの声援を受けて大股に去っていった。見送りにでた子供たちに情けない姿はさらないとでもいうふうに。
 「……大丈夫か?ひどくうなされていたようだが」
 「!」
 はじかれたように顔を上げる。
 蛇口を締めて振り向いたサムライが、表情に乏しい平板な顔をかすかに曇らせている。
 「無視はやめたのか。どんな気分の変化だ」
 脊髄反射で嫌味が口をつく。サムライは「皮肉を言う元気があれば大丈夫だな」と独りごち、首にかけた手拭いで顔を拭く。
 ベッドに腰掛けた僕は、夢の余韻から回復するまでの数秒間を放心状態で過ごす。目が腫れぼったい。ヨンイルの打ち上げ花火に付き合わされたせいで寝不足だ。今日も強制労働があるというのに、貧血を起こさないか不安だ。
 とにかく、顔を洗おう。
 ベッドから腰を上げ、洗面台に向かう。サムライはそんな僕を黙って見ていた。不意に眩暈に襲われ、足が無様に縺れる。バランスを崩して倒れ込んだ僕を咄嗟にサムライが支え起こす。
 鼻先に木綿の手拭いが垂れさがる。
 「寝惚けているのか?お前らしくもない」
 苦笑の滲んだ声は心なし温かい。逞しい腕に縋り上体を起こした僕は、洗顔を中断して駆け付けたサムライの顔を至近に見て、驚く。
 「唇を怪我したのか?」
 「何」
 「血がついてるぞ」
 自分の唇に触れて指摘する。間近に迫ったサムライの唇には一点、鮮やかな朱が塗られていた。唇が切れて出血しているのだ。僕の指摘につられて唇に触れたサムライが動揺をあらわにする。
 様子が変だ。
 サムライの態度に違和感を覚えた僕は、不審顔で畳み掛ける。
 「そういえば昨夜姿が見えなかったが、どこに行ってたんだ?唇を怪我したということは、誰かに顔を殴られたのか。平和主義の君に限ってあり得ないとは思うが最近は東京プリズンも物騒だ、各地で乱闘が勃発して多数の死傷者がでている。君もまさか乱闘に巻き込まれて……」
 だから、展望台に来れなかったのか?あれだけ騒ぎになれば離れた場所にいてもわかるはずなのにと言外に匂わせて詰問すれば、サムライが視線を揺らして狼狽。肩にかけた手拭いを掴み、きっぱりと首を振る。
 「妙な勘繰りをするな。俺が昨日展望台に行かなかったのはと軽々しく口外できん事情があったからだ。乱闘になど関わっておらん、心配には及ばん」
 「しかし現実に怪我をしてるじゃないか、唇が出血してるじゃないか。いいから見せてみろ、傷口から黴菌が入って腫れでもしたら大変だ。軽症だからと素人判断で放置せず医務室で消毒してもらうべきだ」
 「余計なことをするな」
 頑なに拒まれてむきになり、サムライの手を払いのけ、怪我の程度を診断しようと顔を近づける。サムライの抗議を聞き流して唇を観察した僕は、彼の唇を鮮やかに染めたそれが出血ではないと確認、驚きに目を見張る。
 上唇の先端に付着していたのは、真紅の口紅。
 無精ひげが顎に散り始めた厳つい顔には似つかわしくないことこの上ない口紅……
 「サムライ、君は女装趣味があるのか?展望台に来れなかった特殊な事情とは女装で徘徊してたからか」
 「違う」
 不機嫌極まりない顔で断言、手拭いで口紅を拭い去る。はらりと首からたれた手拭いには紅で模られた口唇の模様がある。赤い口紅。色白の肌を引き立てる鮮やかな真紅……
 『帯刀貢が苗を犯したと聞いても、彼の友人でいられるのかい?』 
 紅など塗らなくても妖艶に赤い唇をほころばせ、静流が微笑む。
 静流にはきっと、赤い口紅がよく似合う。形良い唇に映える真紅は色白の肌を引き立て、女性的な容姿の美少年をさらに魅力的に見せる。
 胸が不吉に騒ぐ。何故サムライの唇を染めた紅から静流を連想したのかわからない。意味はない、根拠はない、これっぽっちも。何故サムライの唇に口紅が付着していたのかもわからない……
 考えられる可能性は。
 昨夜、サムライはだれかと唇を重ねた。
 僕がいない場所で密やかに唇を重ねて口紅を移されたのだ。
 
 「直?」
 衝動的に鉄扉を開け放ち廊下にとびだす。乱暴に鉄扉を開け放った僕を、一足先に食堂へと向かっていた囚人たちがぎょっと振り返る。鉄扉に凭れつつ自嘲の笑いを吐く。
 「そうか。そういうことか。サムライには他に唇を交わす相手がいるのか。ならば僕に誘惑されても迷惑なだけだ、寝込みを襲われて抵抗するのは当然だ。僕へのキスにも特別な意味はない、彼の言うとおり一夜の気の迷いに過ぎない。僕が深く考えすぎていたんだ。まったく、想像力豊かなのも考え物だな。凡人が考え付かない可能性を次々と考慮して深刻に思い詰めて、馬鹿みたいじゃないか」
 深呼吸し、低い天井を見上げる。
 「無様だな、僕は」
 サムライにキスされて、ひとりで思い上がって。
 あんな行為には、何の意味もなかったのに。
 苛立ちを込めて吐き捨て、サムライを待たずに食堂に向かう。背後で鉄扉が開きサムライが駆け出してくるが無視して歩調を速める。
 体の脇でこぶしを握り、前だけ見て突き進む僕の脳裏には静流の微笑とサムライの狼狽した顔が重なり像を結ぶ。 
  
 『帯刀貢を返してもらいに来たのさ』

 耳の奥で殷々とこだまする静流の声。
 嵐の前兆。
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