少年プリズン

まさみ

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三百二十三話

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 手の中で拳銃が弾む。
 『Really!?』  
 突拍子もない声をあげてしまった。
 いきなり僕の手の中にとびこんできたのは見間違えようもない拳銃、グリップにはまだ五十嵐の手のぬくもりが残っている。
 視界に立ち込めた埃が晴れ、次第に視界が明瞭になる。
 おったまげた。目と鼻の先にタジマが迫っていた。
 「ひいっ!?」
 どうしよう!?
 タジマを顔に感じる。うわ、ちょっと顔近付けんなって口臭きついし目に毒だから!いや、それより今どうにかしなきゃいけないのは拳銃だ、僕の手の中の物騒な代物。いつ暴発したっておかしくない危険な凶器。銃の始末に困ってきょろきょろあたりを見まわしてみたけど、周囲のガキどもときたら完全にびびって逃げ腰で、舌打ちしたくなるくらいに使えない。
 「ビバリーねえちょっと調子よく他人のふりしないでよ、これ、この拳銃どうしよう!?」
 「僕に聞かれても知りませんて振らないで下さいよ、どっかそのへんにうっちゃっちゃえばいいじゃないスか!」
 「だって投げ捨てたショックで暴発とかしちゃったらやばいじゃん怖いじゃん、弾どこに飛ぶかわかんないし……嫌だよぼく股間ズドンとやられるの、イチモツ商売道具なのに!!」
 「これがホントの危機イチモツ、ってくだらないこと言わせないでください!!」
 「自分が勝手に言ったんじゃん、なんだよそのセンス最低最悪の駄洒落はあ!?」
 パニックのあまり僕もビバリーもおかしなこと口走ってる。いっそ笑えてきた。口角をひくつかせつつ、少しでもタジマから距離をとろうとあとじさる。ビバリーてば頼りにならない。さっき見直してもう見損なった。僕の隣で泡食ってるだけ。さっき見直してもう見損なった。物凄い速回しのパントマイムみたい。タジマはすぐそこまで迫ってる、床を踏み鳴らして突進してくる―……
 万事休す。観念して目を閉じる。サヨナラ、ママ、ビバリー。きっと僕はこのままタジマに轢き殺される運命なんだ……
 「銃を渡せ、リョウ!!」
 「へっ?」
 脳天から間抜けな声を発して目を見開く。弾かれたように顔を上げた僕の視界の隅に割り込んできたのは、サムライに肩を抱かれた鍵屋崎。相変わらず仲いいねお二人さんと嫉妬まじりに口笛でも吹きたくなる密着ぶり。
 いや、今そんなことどうでもいい。サムライと鍵屋崎が一万人の大群衆置いてけぼりにして親密に抱擁しようが告白合戦くり広げようがどうでもいいんだ。かぶりを振り振り脳裏に湧いた抱擁シーンを払拭、溺れるモノが藁をも掴む心細い気持ちで、恐れと焦りが入り混じった顔で鍵屋崎を仰ぐ。
 片方眼鏡のレンズが割れたせいで表情が読みにくくなっていたが、圧倒的な気迫は伝わってきた。加えて、鍵屋崎の焦燥は手にとるようにわかった。
 鍵屋崎が決死の形相で叫ぶ。
 「何を愚図愚図してるんだ、脳の命令が指先の神経に伝わるまで何秒要してるんだこの低脳め!銃を渡せといったら即反応しろ、0.3秒以内に銃を手放して頭を屈めるのが常道の反射行動じゃないか!!」
 高飛車な命令にカチンときた。つんけんした態度に反発が湧いて、無性に腹が立って、すぐそこまで迫ったタジマの存在を忘れてしまった。ったく鍵屋崎ってばやることなすこと癪にさわる、ちょっとはしおらしく落ちこめば可愛いものを人を上から見下すように威圧的に……
 「リョウ!!」
 「うるさい!!」
 大体鍵屋崎はいつもそうだ、僕は最初から鍵屋崎が気に入らなかった、なんだって皆こぞってあいつをちやほやするのか理解に苦しんだ。鍵屋崎が来てからまったく腹の立つことだらけ、そうだ、僕が最大のピンチに陥ってるのだって全部鍵屋崎が悪いんだあいつが原因なんだ!
 逆恨み?やつあたり?上等だよ。これがもし「お願い」なら聞いてやってもよかったけど「命令」なら話は別、だれが鍵屋崎の命令なんか聞いてやるもんか。男娼の意地にかけて鍵屋崎の思い通りになんかなってやるもんか。
 見てろ。
 「えいっ!」
 そして僕は、気合いを入れて銃を投げた。
 タジマ背後の鍵屋崎にではなく、ビバリーへと。
 「!?なっ、」
 鍵屋崎が絶句する。鍵屋崎の肩を抱いたサムライも驚愕に目を剥く。
 頭上を仰いだ二人の目に映ったのは、照明の光をはね返して鈍色に輝く銃身。鍵屋崎とサムライだけじゃなくその背後のロンも安田も、周囲の人間が示し合せたように上を向く。当然、タジマも例外ではない。
 鼻先を掠めるように高く高く浮上した銃めがけて跳躍……
 「させますかあああああああーーーーーー!!」
 唐突にビバリーが動いた。 
 「ぬあっ!?」
 タジマが奇妙な悲鳴をあげる。それはちょうどバレー選手が中空でボールを奪い合う光景に似ていた。タジマと同時に床を蹴ったビバリーが、持ち前の身軽さを生かして高く高く、信じられないほど高く跳ぶ。夢を見てるみたいだった。
 『I can fly!!!!』
 「僕は飛べる」……有言実行、ビバリーは飛んだ。跳んだ、というより飛んだと表現したほうが正しい高度の上昇だった。すごい、こんな特技があったなんてと驚嘆する僕の目の前でタジマの手から銃をひったくるビバリー。
 危ない!銃を掴んで安堵したのか、ビバリーが不安定にバランスを崩す。中空で大きく仰け反り、手足を振り回しながら後ろ向きに転倒……
 視界が反転、衝撃。咄嗟にビバリーの背後に回りこみ、背中を支える。無防備な後頭部を打たないように僕がクッションになったおかげでビバリーは大事に免れた。僕の背中に尻餅ついたビバリーが「アウチッ!」と顔をしかめてみせる。
 「こっちの台詞だよ。それよかはやくどいてよ、重たいよ。僕男を尻に敷くのは好きだけど尻に敷かれるのは趣味じゃな……」
 ビバリーの手元を覗きこみ、違和感を感じる。
 「あれ。拳銃は?」
 「え?」
 青褪めたビバリーと顔を見合わす。ビバリーの手中から忽然と銃が消失。おかしい、僕が見てる前でビバリーは確かに銃を掴んだはずなのに一体どこへ消えてしまったの?
 「なんじゃこりゃあああああ!」
 野太い絶叫。いやな予感。声のほうを振り向けば予想はばっちり当たっていた。ビバリーの手からすっぽ抜けた銃がとんでいったのは……
 こともあろうに、凱のところ。
 たまたま僕らのすぐそばにいた凱は、新たな持ち主として銃に選ばれてしまった。やばい。血気さかんな凱が銃なんて物騒なもん持ったらどうなるか……僕と同じ展開を予期したか、凱の周囲で大恐慌が巻き起こる。
 そりゃそうだ。相手は血の気の多いことで知られる東棟のナンバー3。レイジほど極端じゃないにしろ、キレたら何しでかすかわからないと恐れられる中国人。凱も自分の身に何が起こったか完全には理解してないみたいで、騒然と入り乱れ逃げ惑う野次馬と手中の銃とを見比べる。
 「おいてめえらなに逃げてんだよ置いてくなよ、俺様をどこの誰だと思ってやがる、東棟のナンバー3と名高い三百人のカシラの凱様だ!娑婆にいた頃は喧嘩の度に牛を解体する要領で青龍刀振りまわして相手びびらせて、逃げる奴あ片っ端から捌いて挽き肉にして高田馬場峠の人肉饅頭に……」
 「凱てめえっどさくさ紛れに自慢話してんじゃねえ、都市伝説ぽく脚色した自分語りに酔ってる暇あんならその銃よこしてやがれ!!」
 凱の演説に水をさしたのは、威勢いい声。
 ロンがいた。肋骨折れてぼろぼろの体のどこにあんなでかい声だす気力が残ってたのかとびっくりする。逆巻く人の流れの渦中にぽつねんと取り残された凱は、顔に怒気を滾らせて、数人の頭越しのロンに食ってかかる。
 「てめっ、半半のくせに生意気だぞ!今の話のどこに脚色入ってるってんだ、俺はありのままの事実を話したまでだ!聞いて驚け、娑婆にいた頃あ高田馬場の暴れ牛として……」
 「お前が高田馬場の暴れ牛なら俺は池袋のボス猫だよ!!」
 「ちっちぇえナリして吹かしてんじゃねえ、お前なんか頑張ったところで池袋の餌付け猫だ!!」
 「俺は十一から野良でやってきたんだよ人の手から餌もらうほど落ちぶれてねえよ、ふざけたこと言ってっとモツにして煮込むぞ、ちょうど屋台で食った薬敦排骨の味が懐かしくなってきた頃だ!!」
 「~~~鍋にぶちこんで煮込んでやらああああ、そしたら珍味猫鍋の完成だ!!」
 売り言葉に買い言葉で喧嘩勃発。
 ロンも凱も喧嘩っ早すぎ、いったん頭に血が上るとまわりが見えなくなるタイプの似た者同士だ。中指立てた挑発に激昂した凱が、野次馬を憤然と薙ぎ倒してこちらに向かってくる。
 ああもう、二人とも冷静になれよ、つまらない喧嘩なんかやってる場合じゃないっしょ!?凱もロンも手におえない馬鹿、医者も匙投げる極め付けの馬鹿だ。だれか二人にお灸据えてくれる……
 いた。
 「語彙の貧困さを露呈する知能指数の低い喧嘩はそこまでだ、天才権限で即刻打ちきる!!」
 ロンと凱のあいだに割り込んだのは、鍵屋崎。
 ロンを背に庇うように仁王立ち、肩で浅く息をしつつ凱を睨みつける。怖い顔だった。おそろしく真剣な顔だった。
 地下停留場は混乱の極みだった。次から次へと銃が人手に渡り、まかり間違って指が滑ったら流れ弾がどこに飛んでってもおかしくない状況で、レミングの恐慌を来たした囚人たちは我先にと地下停留場を逃げ出した。先行者を蹴倒し踏み倒し、逃走路を塞ぐ障害物は囚人だろうが看守だろうが構わず手当たり次第に薙ぎ倒して、数箇所しかない出口に大挙する。罵詈雑言が喧しく飛び交い、殺気立った足音が怒涛のごとく鼓膜を叩く極限状況下にて凱とロンとに説教をかます。
 「低脳ぶりもここに極まれりだ、場違いな喧嘩をしてる暇があるなら他にすべきことがあるだろう!優先順位を間違えるなロン、凱!」
 「……っ、」
 くるりと凱に向き直り、叱責をとばす。
 「さあ、銃をこちらに渡せ!拒否権は認めない、銃の所有者は君ではない、副所長の安田だ。君のように二十四時間ドーパミン過剰分泌で好戦意欲旺盛な危険人物に銃を持たせておけば被害が拡大する、元の持ち主に返すべきだ!!」
 ロンは脊髄反射だけど、鍵屋崎は天然だ。天然で凱に喧嘩を売ってる。本人に自覚がないぶんタチが悪い。馬鹿と天然は死んでも治らないって、ばかに真実味を帯びた俗説をしみじみと噛み締める。なるほど鍵屋崎の言い分は正論だ、血気さかんな凱に銃を持たせといたらどうなるかわかったもんじゃない。万一タジマと銃の取り合いになったら……
 「!そうだ、タジマ」
 「あそこっス!」
 ビバリーが指さす方を振り返ればタジマが雑踏に逆流して足止めを食っていた。出口に殺到する人ごみに埋もれて揉まれて、二進も三進もいかなくなってる。けど、時間稼ぎも三分が限界だろう。じきにタジマは辿り着いてしまう、腕力も体格もほぼ互角の凱とタジマが銃の争奪戦をくりひろげたら……暴発。乱発。血祭り。タジマが銃を手にしても凱が銃を手にしても最悪の結末しか思い描けないのは両者の人徳のなさが原因?それ以外ありえない。
 「銃を返せ!」
 「はっ、俺に命令するたあいつからそんな偉くなったんだ親殺し!?娑婆じゃ将来見込まれたお偉いエリートだったかもしれねえが、ここじゃあただの男娼崩れじゃねえか!生っ白い日本人は身の程わきまえて男に組み敷かれてりゃいいんだよ!!」
 説得は逆効果だ。皮肉なことに、鍵屋崎の言葉は火に油を注ぐ効果しかもたらさない。見かねたサムライが木刀をひっ掴み、凱の成敗に行こうとする。実力行使で銃を取り上げるつもりか?ごくりと生唾飲んで緊迫の展開を見守る僕とビバリー。
 「待てよ。凱に理屈は通じねえ、頭に血が上ってるんじゃなおさらだ」
 素早くサムライの行く手に回りこみ、自信をもってロンが断言。
 「ここは俺に任せとけ。あいつの性格は天敵の俺がいちばんよく知ってる、五秒で攻略してやらあ」
 まんざら虚勢とも思えない確信を込めた口調だった。疑わしげに互いの表情をさぐる鍵屋崎とサムライから体ごと凱へと向き直り、はきはきした切り口上で言う。
 「凱、銃なんかてめえには過ぎた代物だ!万一つるっと指すべって引き金引いちまったらどうするよ、指が一本残らず吹っ飛んじまったらマスかくときクソするときどうするんだ!てめえのナニもしごけねえケツも拭けねえ体たらくじゃムショ生活に支障でまくりだよな、それだけじゃねえ、お前がムショ出て真っ先にガキに会いに行ったときどうやって抱っこするんだよ!?銃の暴発で指が欠けちゃあ抱っこも高い高いもできねえぞ、親父失格だ!!」
 「……っ!!」
 ロンの顔は活き活きと輝いていた。対する凱はといえば、ロンの脅しが相当こたえたらしく大量の冷や汗をかいて型どおりに構えた銃を見下ろしてる。凱の弱みをまんまとついた心理作戦……いや、そんなごたいそうなもんじゃないか。とにかく、ロンの方が一枚上手だった。凱が銃を放り出すまで予言通り五秒もかからなかった。
 「親父失格の烙印押されるくれえなら潔く親バカを自称するぜ!!」
 ただ、誤算だったのは凱が必要以上に大きく腕を振りかぶったこと。
 開き直りの捨て台詞を吐き、凱が力任せにぶん投げた銃はロンの頭向こうへと落下……
 「俺かよ!?」
 絶望のうめきを洩らしたのは確かワンフーとか呼ばれてた西の囚人でヨンイルの腹心だ。反射的に手を突き出して銃をとったはいいものの、どうすればいいのかうろたえきっている。
 「安田の物は俺の物、安田は俺の物、東京プリズンは俺の物……今ここにあるもの全部俺の物だ、てめえら囚人の汚い手に触れさせてたまるかあああっあああっ!!」
 「ひいいっ!!」
 狂える咆哮をあげて手当たり次第に囚人を投げ飛ばし、タジマが突進。タジマに目を付けられた気の毒なワンフーは顔面蒼白、両手でひしと銃を抱きしめて、女々しく潤んだ目で周囲に助けを乞う。だが、皆逃げるのに必死でワンフーに構ってる暇などない。
 薄情な仲間の背中へと未練ありげに一瞥くれ、ワンフーが首を振る。
 「俺っ、俺まだ死にたくねえ、生きてここを出て凛々抱くまで死ねえって心に決めてんだよ!だからだから俺、凛々幸せにするために今度こそ真人間になるって約束して、スリで稼いだ金でアパート借りて結婚前提に同棲始めるまではくたばれねえから!」
 「発言は前提からして矛盾だらけだ!真人間になりたいならスリで敷金を稼ぐな!!」
 「前金だけ!!」
 「前金だけでもだ!!」
 僕が言いたいことを鍵屋崎が代弁してくれた。サムライの肩を借りてワンフーに走り寄ろうとした鍵屋崎とロンだが、三人の行く手を阻むように人の流れが渦巻いて、それ以上近付けない。
 傷だらけの顔を焦燥に歪めたワンフーが銃口を一瞥、続き鍵屋崎を一瞥、言い訳がましく呟く。
 「だからだからだからそのっ……悪ィ、ここでくたばるわけにゃいかねえんだ!!」
 「「あっ!!」」
 ビバリーと声が揃う。綺麗に唱和した僕とビバリーの視線の先、ワンフーが投げ捨てた銃が南の囚人の手に渡る。あれは確か……ルーツァイ。そんな名前の囚人だ。
 「ワンフーてめえ!?」
 「悪く思うなルーツァイ、俺には荷が重すぎる、お前が始末つけてくれ!一児の父親と見込んで頼む!」
 「タジマに銃を渡すなルーツァイ!」
 鍵屋崎の悲鳴。
 「銃は俺の物だ!!」
 タジマの罵声。 
 ルーツァイは動揺していた。鍵屋崎は渡すなといいタジマは渡せといい、そのどちらもが人ごみを掻き分けて徐徐に接近しつつある。
 危なっかしい手つきで銃をもてあそび、慎重にあとじさる。ルーツァイは優柔不断な性格らしく、鍵屋崎と五十嵐を見比べて今にも泣きそうに躊躇していた。迷う必要はない、鍵屋崎に銃を渡せばいいと十人が十人ともそう言うだろう状況下でルーツァイから正常な判断力を奪っていたのはタジマの脅威に他ならない。
 タジマはすでに人間ではなく人災だった。
 「しっ、死にたくねえ!死にたくねえ死にたくねえ死にたくねえ、メイファに会うまでは死にたくねえ!俺まだ親父らしいことなんにもしてねえのに、あいつまだちっちぇえから俺の顔だってろくに覚えてねえのに……刑務所でくたばった親父だってメイファに一生涯記憶されるなあごめんだっ」
 首振り人形と化したルーツァイが四囲に素早く視線を走らせ、苦渋の決断を下す。最もそれは、この場の誰の目にも暴挙としか映らない慮外の決断だった。
 鍵屋崎が「まずい」と舌打ち。人ごみに揉みくちゃにされて、だらしなく弛緩した襟刳りから鎖骨を覗かせて、脇目もふらずルーツァイに駆け寄ろうとする。サムライとロンも後に続く。サムライとロンを従えて一目散にルーツァイに駆け寄った鍵屋崎だが時既に遅し。
 「子供抱き上げる手で銃を撃つなんざ死んでもお断りだ!!」
 ルーツァイが大きく腕を振りかぶる。
 「またかよ!?」
 「まただ!」
 ロン脱力のつっこみにサムライが鋭く切り返す。呼吸ぴったりだ、などと妙に感心しつつ、照明の眩しさに目を細めて遥か頭上を仰ぐ。タジマと鍵屋崎が人ごみを抜けて踊り出すのは同時。銃はまた二人の頭上を軽々と飛び越えて、燦然と照明を照り返して、長大な放物線を描く。

 望まぬ者の手に身を委ね、欲する者の手には決して届かぬ拳銃。

 タジマは喉から手がでるほど拳銃を欲していた。拳銃があれば安田にとどめをさすことができると信じて疑わなかった。鍵屋崎は銃を取り返そうと必死だった。
 鈍い音。床を伝わる振動。
 幾人もの頭上を飛び越えて床に落下した拳銃にタジマが舌打ち、即座に方針転換する。拳銃を取りに行く時間は既にない。タジマの四囲には元同僚の看守が人ごみに紛れて忍び寄っていた。拳銃争奪戦に振りまわされて周囲に目を配る余裕がなかったタジマは、たった今までそのことに気付かず、もはや完全に包囲されてしまった。東京プリズンの看守も無能なヤツばかりじゃない。タジマに翻弄されるふりで油断を誘って、気付かぬ内に包囲網を敷く知恵があるヤツもいるのだ。
 「……くっ、そおおおおおおおおおおおっ!!」
 タジマがブチギレる。
 僕の位置からでもこめかみの血管が膨張するのが見えた。もうヤケクソだ、そんな心の叫びが聞こえた。かつての同僚を敵に回して、一分の隙なく取り囲まれて、タジマは完全に余裕を失っていた。
 僕らが銃の行方に目を奪われた一瞬にタジマは行動を起こした。
 「痛っ!?」
 タジマが目を付けたのは手近なロンだった。鍵屋崎とサムライは比較的軽傷だが、なんといってもロンは肋骨骨折の怪我人で、人質にはいちばん適してる。
 そう、人質。タジマはロンを道連れに心中するつもりだ。
 「ははっ、はははっはあはっ。どうせ俺はおしまいだ、副所長を撃ったんだから処罰されるに決まってる。だが一人じゃ逝かねえ。コイツも道連れにしてやる」
 タジマは笑っていた。破滅へとひた走る狂気に冒されていた。
 ロンを人質にとられて鍵屋崎は動きを封じられた。鍵屋崎が動けばロンが死ぬ、タジマに縊り殺される。タジマはロンの首に片腕をかけて締め上げて、徐徐に力を加えていた。
 「とうとう抱けずじまいだったが、時間はこれからたっぷりあらあ。まず最初にこいつを縊り殺して、地獄送りにしてやる。次はお前だ鍵屋崎。最後が安田だ。ロンとお前と安田を地獄に送りこんだあとに俺さまが下りていって、お前ら三人ケツひん剥いて順番に犯してやるさ。
 いいか、東京プリズンは俺の城だ。俺の物だ。だから東京プリズンにいる囚人も全部俺のもんだ俺の奴隷だ下僕だ肉便器だ、ここでいちばん偉いのは俺だそうだ俺なんだよ兄貴じゃなくて俺が俺こそいちばん誰も俺と兄貴を比べたりしねえ、ああ、ここは天国だなあ!!」
 「イカれてる……」
 ビバリーの腕に抱きつく。タジマはイカレてる。言動は正真正銘筋金入りの異常者のそれだ。ロンの首に腕を巻き付けて、胸の位置まで軽々吊り上げて、顔が青黒く変色してくさまを覗きこんでいる。
 「ひ、ぐ………はう」
 窒息の苦しみにロンがもがく。勢いよく宙を蹴り上げて首に絡んだ腕を掻き毟って、風の音に似て耳障りな喘鳴をもらす。だが、タジマは手加減しない。鍵屋崎を牽制するように、同僚たちを威嚇するように、絞殺一歩手前の凶悪な力を込めてロンの気道を圧迫する。
 ロンの抵抗が激しくなる。口から唾液の泡を噴いて、目には透明な涙の膜が張って、顔は青黒く膨れ始めていた。タジマは本気だ。ロンを殺すつもりだ。 
 「東京プリズンは犯り放題殺り放題の天国、兄貴が俺にくれた最高の職場なんだよ!俺は一生死ぬまで東京プリズンにい続けてやる、一生死ぬまでお前ら犯しつづけてやる!東京プリズンは俺の物」

 「『俺の物』?違う、『俺の物』だ」

 皮肉げな声が響いた。不敵な自信が表れた声だった。
 僕には即座に声の主がわかった。弾かれたようにそっちを向いた僕の目にとびこんできたのは、衝撃的な光景。
 レイジがいた。立っていた。そんなまさか。サーシャに背中焼かれて片目刺されて重傷なのになに平然と立ってるんだよ、ぴんぴんしてるんだよ。ついさっき気絶して担架で運びだされたくせに、もう治療終わったっての?
 いや、それより驚くべきことに。
 レイジの手の中に銃があった。ルーツァイが放り出したあの銃だ。勢いあまって床を滑って足元にぶつかった銃を拾い上げ、交互に手に渡して感触を馴染ませる。レイジの左目は白い眼帯で覆われていた。裸の上半身はガーゼと包帯で覆われて殆ど肌が見えなかった。
 レイジの手が高速で動く。慣れで五感を制した流れる動作。
 両腕をまっすぐ伸ばして銃を構える。
 しなやかに引き締まった体躯に純白の包帯を纏わせ、眼帯に覆われてない右目に精悍な光を宿して、レイジは大胆に笑う。

 「お前生きて……とことん俺の邪魔しやがるガキだ、けど無駄だ、お前のロンは俺の腕の中で死!!」
 『Good-bye.
 This gun sings a song of eternity for you who go for death.』
 この銃は死に逝くあなたに永遠の歌を唄う。 

 レイジには一分の隙もなかった。狩猟本能を備えた野生の豹のように四肢は強靭なバネを感じさせた。
 耳の奥に歌声が甦る。レイジがよく唄ってる音痴な鼻歌……あれはたしかストレンジ・フルーツ。甘く掠れた独特の響きの声は麻薬のように人を酔わす。
 堕落と退廃のローレライの歌声。
 レイジは今この瞬間も声にださず唄っていた。リズミカルに足拍子を踏みながら例の鼻歌を口ずさんでいた。
 機嫌よく唄いながら銃口を上向け、微笑む。

 『I shoot strange fruits』
 奇妙な果実を撃ちぬいてやる。

 タジマが絶叫した。人語を解さない怪物の断末魔をかき消したのは、一発の銃声。レイジの腕が俊敏に跳ね上がり、反動で四肢に巻いた包帯が生あるもののように激しく泳ぐ。
 四肢の包帯をたなびかせたレイジの顔は、銃火に照らされた瞬間も笑っていた。
 だが、タジマは生きていた。ぴんぴんしていた。胸にも眉間にも穴はひとつも開いてない。
 おそるおそる自分の胸を探ったタジマの顔が卑屈に笑み歪む。
 「おどかしやがって!!どうしたレイジ、ギャラリー大勢集ってる前で見事に外したなあおい、さすがの王様も長年のムショ暮らしで腕が錆びつ」
 轟音。
 タジマの演説を遮り、照明器具が落下した。天井の一隅に設置された巨大な照明器具だった。大外れなんてとんでもない、大当たりだ。レイジが放った弾丸は狙い違わず照明器具の設置個所を撃ちぬき、タジマの頭上を直撃。照明器具のガラス片が鋭利にきらめき、一面に飛び散る。照明器具に押し潰されたタジマはもはやぐうの音もでず、白目を剥いて失神してる。
 「……ばかげてる。距離と位置考えてあたるわけない、20メートルは離れてるじゃん。こんな人でごった返した場所で、正確に照明だけを撃ち落すなんて……どんな腕前だよ。50メートル先からスリーポイントシュート決めるよか難しいよ」
 ロンは照明器具がぶつかる前にタジマの腕から脱してかろうじて無事だった。
 床にへたりこんだロンのもとへサムライと鍵屋崎が駆け寄り、気遣わしげに助け起こす。残る右目を細めてロンの安否を確認、安堵の表情を覗かせた王様が手の中の銃を持て余し気味に舌打ち。
 「やっぱ片目ないと調子狂うな。慣れるのに時間かかりそうだ」
 そして、銃口から立ち上る硝煙をひと吹きした。
[newpage]
 「げほっ、がほごほっ!」
 「大丈夫か!?酸素を取りこんで肺を拡張、呼吸を安定させろ!」
 さすが天才、無茶を言う。
 などと妙なところに感心半分あきれ半分、青膨れの痣ができた首をさすりながら激しく咳き込む。
 漸く呼吸がらくになった。一時は本気で死ぬかと思った。
 タジマの腕が首にめりこんで絞め付けが一段と強くなって、酸素不足の呼吸困難で視界が急速に翳り始めて……
 ああ、これでおしまいか。
 とうとうおしまいか、と俺はなげやりに死を予期した。どんだけ足掻いても到底避けがたい死とやらを漠然と予感した。タジマの腕の中で死に物狂いに足掻きながら、体を反り返らせ宙を蹴り上げ必死に抵抗しながら、最後に脳裏に思い浮かべたのはお袋の顔、メイファの顔……レイジの顔。
 急速に翳りゆく視界と朦朧と薄れゆく意識の中、レイジの笑顔を反芻する。
 死ぬのは嫌だった。
 こんなところで死んでたまるかと心が悲鳴をあげた、生きたいと本音を絶叫した。生への渇望、衝動。酸素を欲して喘ぎながら、タジマの腕の中で首を仰け反らせてもがき苦しみながら俺はレイジを呼んだ。心の中でレイジの名前を呼んだ。
 タジマに絞め殺されるのは嫌だ、俺はまだ約束を守ってねえ、全身ぼろぼろになって戦いぬいたレイジに何も返してやってねえ。レイジとの約束守るまで死ねるか、と反発が湧いた。絞め付けはどんどん強くなる、きつくなる。
 タジマの腕が喉を絞めて息を塞き止めて、陸揚げされた魚のように勝手に体が跳ねた。窒息の苦しみ。最初は喉のあたりが窮屈になって、それから喉の内側が爆発するような圧倒的な膨張の感覚に襲われて、口の端から唾液の泡が零れた。
 苦しい、苦しい。
 死に瀕して生存本能に火がついた。俺はタジマの腕の中で無茶苦茶に暴れた。それこそ尻尾を引っ張られた猫みたいに無我夢中でタジマの腕に爪を立て、深々と容赦なく引っ掻いた。
 爪が腕の肉を抉る生々しい感触。手応えはたしかにあったがタジマは腕の力を緩めなかった、俺を絞め殺すのに夢中になって他のことは何も見えてないみたいだった。
 タジマは自暴自棄になっていた。
 俺を殺して鍵屋崎と安田に後追わせて、最悪自分も死ぬつもりだった。 
 「地獄に逝けよ、ロン。心配すんな、俺もすぐ行ってやらあ。ダチの鍵屋崎と安田にも後追わせてやらあ。お前ら三人並べてケツひん剥いて順番に犯してやら、誰の汁がいちばん遠くまで飛ぶか競争だあ!」
 俺の耳朶に熱い吐息を絡めてタジマが囁く。口臭が強烈だった。ヤニ臭く黄ばんだ歯を剥いた下劣な笑顔は醜悪そのものだった。
 たっぷり贅肉の付いた二重顎、弛んだ頬肉、狡猾で残忍な細い目は性欲を剥き出して爛々と輝いていた。腕の中で苦悶する俺を覗きこんで、タジマは凝りもせず嗜虐心を疼かせていた。
 俺の尻にあたる硬い感触……タジマは勃起していた。ズボンの股間がはちきれんばかりに膨張していた。こいつ、正真正銘の異常者だ。真性の変態、怪物だ。俺の首絞めながら悦んでやがる。舌なめずりせんばかりにご満悦の笑顔と股間の膨らみがその証拠。
 タジマに絞め殺されるなんざ癪だ、なんとかしなきゃ、俺はまだレイジとの約束も守ってねえ……こんなところで死んでたまるか、くそっ!
 その時だった、一発の銃声が響いたのは。
 「―え?」
 唐突だった。何が起きたのか瞬時にわからなかった。
 涙の膜が張った視界が朦朧とぼやけていて、息の通り道を塞がれた喉からは間延びした喘鳴がひっきりなしに漏れていた。力なく瞼を上げて薄目を開けた俺は、銃声の出所を探って視線をさまよわせる。鍵屋崎もサムライもきょとんとしていた、他の看守連中だってそうだ。
 不可思議な現象が起きていた。
 俺たち全員が振り仰いだ方角、地下停留場にごった返した人ごみが二手に割れて一本の道が出来ていた。地下停留場の人ごみを貫いた一本道の起点にはレイジがいた。両腕をまっすぐ伸ばして銃を構えていた。俺がよく見慣れた余裕の笑顔。
 百獣の王成る無敵の自信が表れた、不敵な笑顔。
 百獣の王ってのは普通獅子を指すだけど、レイジは豹だった。獰猛なる狩猟本能を備えた野生の豹、決して人に手懐けられることないしなやかでしたたかな美しい獣。俺の目は自然とレイジが構えた銃に吸い寄せられた。まっすぐこっちに向いた暗い銃口からは、一筋硝煙が立ち昇っていた。
 直前に弾丸が発射された痕跡があった。でも、弾はどこへ……
 俺の疑問を打ち消すように、虚勢が見え見えの哄笑をあげるタジマ。
 「おどかしやがって!!どうしたレイジ、ギャラリー大勢集ってる前で見事に外したなあおい」
 外れたのか?そんなまさか。レイジにできないことなんてないのに……
 俺はレイジの銃の腕に全幅の信頼をおいてる。そりゃ実際レイジが銃を撃つとこ見たこたないが、売春班の仕事場の扉を蹴破って俺を助けに来た時、指にかけたゴムを引き延ばして……
 レイジは撃ち放って、
 「さすがの王様も長年のムショ暮らしで腕が錆びつ」 
 見事にタジマの額を撃ちぬいて。
 タジマはまだ笑っていた、勝利の快感に酔い痴れた哄笑をあげていた。
 肥満した腹を波打たせて、俺の首に片腕をかけて、汚い唾をまきちらして。 だから気付かなかったのだ、頭上の異変に。
 「!!」
 そうか。そういうことか。 
 俺の判断は早かった。タジマの腕が緩んだ隙に思いきり爪を立てる、タジマが短く悲鳴を発して俺を落とす。
 今だ。
 タジマが腕をはねのけた瞬間を逃さず猫のように身をよじり床に着地、姿勢を低めて安全圏に転がり出る。背後でタジマが何かを叫び、俺の肩へと手を伸ばす―
 轟音。
 「ぎゃああああああっあひいいいいいいあああああっあっ!?」
 俺の肩にタジマの指先が触れる直前、照明器具が落下した。レイジが見事撃ちぬいた照明器具。レイジが銃を撃った直後から頭上の照明が不安定にぐらつき始めたことに俺はすぐ気付いたが、タジマは全然気付かなかった。
 逃げ遅れたタジマは照明の直撃を受けて、ぐるりと眼球が裏返った。
 失神。圧死してもおかしくない衝撃だったのにしぶといヤツだと辟易する。いや、レイジは最初からこれを狙ってたんだ。タジマは俺を捕えてた、俺を盾代わりに鍵屋崎たちを足止めしてた。タジマの胸を狙うのは不可能、眉間を狙うにしても万が一弾が逸れたら俺が犠牲になる。
 だから敢えて頭上の照明を狙った、何より俺の身の安全を優先した結果タジマを殺さずに止める方法を選んだ。簡単にタジマを殺すこともできたのに。
 間一髪、間に合った。俺はタジマに絞め殺されずに済んだ。ったく、どんだけ悪運強いんだと自分でも笑えてくる。床一面に散乱した微塵のガラス片が、照明の反射で鋭利に輝く。
 鍵屋崎は俺の傍らに片膝つき、慣れない手つきで背中を擦ってくれた。
激しく咳き込む俺を心配して、ぎこちなく脈をとってくれた。
 ブラックジャックが乗り移ったみたいに、本物の医者みたいに真剣な顔だった。
 「大事はない。脈は正常だ、心拍数も平常値に戻った。ロン、君の生命力の強さは尋常じゃないな。何度命の危機に瀕してもしぶとくしたたかに生き延びて……トカゲの尻尾は切られてもまた再生してプラナリアは分裂増殖する。まったく君のしぶとさときたら唯一の取り柄である自己再生能力の他は右脳も左脳もない、思考活動をしない単細胞生物並だ」
 「微妙に嬉しくねえ、その誉め方」
 「誉めてるんじゃない、あきれてるんだ」
 嫌味を言いつつも鍵屋崎の顔は和んでいた。
 安堵の息を吐く鍵屋崎の隣、サムライもまた肩の力を抜いていた。サムライもまた、俺を心配してくれたのだろう。
 「い、いでででででででででででででででっ!」
 「!?」
 レイジの声だった。
 弾かれたように顔を上げ、跳ね起きる。ぐらっときた。足で体重を支えられず一歩二歩と前のめりによろめいた。平衡感覚が狂っているのだろうか?指一本曲げるだけで全身の間接が軋んで大小の腱が焼き切れる激痛に襲われた。がくりと膝を折った俺の右脇に鍵屋崎が屈みこみ、左脇にサムライが屈みこみ、二人とも無言で俺の体を持ち上げる。
 「お前ら……」
 「善意じゃない。君を放置してさらに無茶をされると、監督不行き届きで保護責任が問われるからな」
 鍵屋崎が無愛想に言い放ち、サムライが苦笑する。
 二人の間に流れる空気はとても親密で柔らかい。そりゃ一万人の目の前でひしと抱き合ってたんだから柔らかくもなるよなと納得する。
 鍵屋崎とサムライに肩を抱かれて歩く。
 一歩ずつ一歩ずつ人ごみを泳いで慎重にレイジに歩み寄る。
 両脇を支えるぬくもりが心強かった。サムライは鍵屋崎の負担にならないようさりげなく、軽々と俺の体を担ぎ上げていた。鍵屋崎はそれに気付いてるのか、はたまた気付かないふりをしてるのか、仏頂面で前だけを見ていた。
 一歩一歩、着実にレイジに近付く。
 レイジは右腕を押さえてうめいていた。
 体を反り返らせ、また突っ伏し、七転八倒していた。
 「あー痛てえよ畜生、今のでまた傷口開いた!腕にびりっと反動きた、骨イッたかもしれねえ。くそ、この上骨にひびまで入ったらロン抱きしめることもできねえじゃん」
 「バカ言うなバカ」
 レイジが反射的に顔を上げる。虚を衝かれた間抜けヅラ。なんだか無性に笑いがこみあげてきた。思ったより元気そうじゃんか、コイツ。担架に仰向けに寝かされてるの見た時はマジで死んじまうかもと不安になったのに、あれこれ深刻に思い詰めた俺のほうがバカみたいじゃんか。
 「生きてたのかよ、お前。とっくにくたばっちまったのかと思ったよ、そんなナリで」

 そんなひどいなりで。ぼろぼろのなりで。

 全身包帯だらけで、左目は眼帯で覆われて、あちこちに乾いた血がこびりついて。よく動けたなと感心する。鍵屋崎とサムライから離れ、ぺたんと床に膝をつく。胸に満ちる温かい感情……安堵。レイジが生きててよかった。またこうして会えて、口が利けてよかった。本当によかった。
 「おおよ、このとおりぴんぴんしてるよ。ま、無傷ってわけにはいかねえけど……正直言うと今さっき目覚めたんだよ。会場がうるさくておちおち寝てらねえっつの、ちょっとは怪我人の安眠に気を遣えっての。で、目が覚めたら覚めたで会場見まわしてみりゃロンがなんだか大変なことになってるし……あのさロン、お前ちょっとはゴキブリコイコイみたく自分が振りまいてるフェロモンに気付けよ。トラブル巻きこまれ体質ってのか、ちょっと目をはなすとすぐ厄介事に巻きこまれて貞操の危機に……」
 レイジときたら、人の気も知らず軽口叩いてやがる。
 俺がどれだけ心配したか知らないで、平気な面でお説教してやがる。何様だこいつ。ああそうか、王様か。なら仕方ねえ。でもさ、俺、死ぬほど心配したんだぜ。お前がいなくなっちまったらどうしようって、またひとりぼっちになっちまったらどうしようって……

 もう二度と、こんなふうに馬鹿話できなくなっちまったら。
 もう二度と、お前の笑顔が見れなくなっちまったらって。

 俺の気持ちなんか知らずにレイジは上機嫌にぺらぺらしゃべってやがる。死の淵から生還した反動か、いつもより陽気に饒舌に、能天気な笑顔をふりまいて。でも、ナイフで切り裂かれた頬にはまだ血がこびりついていて、片目は眼帯でふさがれていて、他にも全身至るところにガーゼが貼ってあって。
 レイジの体で、傷がないところのほうが少ないくらいで。
 笑顔と口調が底抜けに明るいだけに、血の滲んだ包帯とガーゼが余計に痛々しくて。
 あの眼帯の向こうの目は、もう二度と見えないのに。永遠に光を失っちまったのに。 
 「……聞いてるのかロン?シケた面して黙りこんでんなよ、説教聞く態度ってのがあるだろちゃんと。ほい、ここに正座。お手。違う、お手は犬か。ロンお前ちゃんと反省しろよ、危なっかしくてしょうがねえよ。俺の目の届かないところでタジマやら凱やらにちょっかいだされてヤられちまったらって心配で心配で、こちとら三分以上気絶もできねえよ!ま、こんなザマになっちまったからこのさき目の届かない範囲が広がりそうだけどな」
 そう言って、自分の顔を指さして屈託なく笑う。
 取り返しのつかないことまでも冗談にしちまう残酷な優しさで。
 「聞けよロン。俺の左目が見えないからって左側で浮気したら承知しね、」
 『多句了!!』
 
 レイジに抱きついた。
 胸が破れそうに苦しくて、そうせずにはいられなかった。

 いきなり抱きつかれたレイジが後ろ手をついてバランスを崩す。慌てて駆け寄ろうとした鍵屋崎をサムライが目配せで諌める。俺はレイジの背中に腕を回して、しっかり抱擁して、汗臭い胸板に顔を擦り付けた。
 胸板に巻かれた包帯が頬にざらざらした感触を与えてきた。  
 『多句了、多句了』
 もう十分だ。十分だよ。
 無理するなよ。笑わなくていいよ。おかえりレイジ。生きててくれてよかった。十分だよ。
 「………泣き虫め。鍵屋崎とサムライがあきれてるぜ?いいのかよ、人前で」
 「放っとけよ。あいつらのほうが一万倍恥ずかしいことしてたから」
 「そうなの?やっべ、見逃した」
 「一万人の大群衆の前でひしと抱きついて離れなかった。完璧二人の世界入ってたぜ。まわりの連中みんなぽかーんとしてた。開いた口が塞がらないってヤツだ。鍵屋崎には自覚ねえみたいだけど、あれ、全員ひとり残らず出来てるって誤解したぜ。これから東棟で肩身狭くなるだろうな」
 「俺とお前だって似たようなもんじゃん」
 「どこがだよ」
 「これから見せつけてやるんだから」
 レイジが俺の頭に手をおき、甘やかすみたいに撫でる。俺に安心を与えてくれる優しい手。
 次の質問には勇気が要った。漸く搾り出した声はみっともなく掠れていた。
 「………目、痛くないか?体どこも変じゃないか。麻薬は抜けたのか」
 「正直言って、痛え。体のそこらじゅう冗談みたいに痛え。でも、気持ちいい。やること全部やり終わって気分爽快で、今すぐ天国に飛びたてそうに心が軽いから、ロンが重しになってくれてちょうどいいよ」
 「吹かすなよ。お前が天国にいけるわけねえだろ」
 「そうだな。そうだよな」
 レイジが俺の体に腕を回し、抱きしめる。褐色の肌に映える包帯の白さが目に焼き付く。レイジは体じゅう傷だらけでぼろぼろで、自慢の顔だってガーゼとバンソウコウだらけでとても見られたもんじゃなかったけど、相変わらずその微笑みだけは何ものにも侵しがたく綺麗だった。
 「神様がいる天国よりロンがいる地獄を選ぶよ。俺は」
 レイジのシャツを握り、ぬくもりを乞うように胸に顔を埋める。そばで鍵屋崎とサムライが見てようが人目があろうが気にしない。関係ない。俺はレイジを手放したくない、引き離されたくない。ずっとこうしていた……
 「なにやっとるかね君は、勝手に抜け出しちゃ駄目じゃないか!!」
 い?
 「やべ、バレた!」
 俺を胸からひっぺがしてレイジが急に焦りだす。声の方を振り仰げば、白衣を翻して医者が駆けて来たところだった。息を切らして駆けて来た医者は俺とじゃれてるレイジを見つけるや、烈火の如く怒りだす。
 「会場の騒ぎでちょっと目を離した隙にいなくなって……自分の立場がわかってるのかね君、背中に重度の火傷を負って右腕に怪我をして、他にも全身至るところに裂傷と打撲を負って!自分で勝手に点滴抜いて這い出してこんなところで何してるんだね?困った患者だよ!!」
 「おま、治療終わったんじゃねえのかよ!?」
 びっくりした。どうりで包帯が中途半端にほどけてると思ったら、治療の途中で勝手に抜け出してきやがったのか。そりゃあいつも温和な医者もキレるはずだ。
 「担架でじっと寝てるの性にあわねえんだよ、いつ誰に悪戯されるかわかんねえし!実際俺がちょっと気絶してる間に悲劇が起きたし……凱に唇奪われるなんざ一生の不覚だ、ああもうこの先ずっと夢に見ちまいそうだぜ最悪!!」
 「言い訳はあとで聞く。とりあえず戻りたまえ」
 「ロン抱くまで帰らねえ」
 「いや、帰れよ」
 「君が帰りたくなくても医者の威厳にかけて無理矢理連れ戻す!さあ医療班の諸君脇を固めて、元気良すぎる患者の腕をがっちり固めて……必要とあらば拘束も辞さないぞワシは!!」
 「いでででえいでっ、待てやめて本気で傷開くからそれ!?なに手錠手錠なの、怪我人に手錠ってひどくないかこのマッドサイエンサディスト!?俺をベッドに戻してえなら網タイツの似合う美脚ナースつれてこいよ、女神の胸枕ならぐっすり安眠できる!」 
 「そんなナースがいたらワシが後妻にしたいよ。我侭言わずワシの膝枕で我慢しなさい」
 『Oh my god!!Please please hear my request!!』
 レイジが俺へと手を差し伸べながら医者に引きずられてく……なんというか。最後までかっこよく決められないところがレイジらしい、と言えなくもない。脱力した俺の隣にやってきた鍵屋崎が、したり顔で首を振る。
 「元気そうで何よりだ……いい機会だから脳の切開手術でも受けたらいいんじゃないか?彼は」
 「キーストア!」
 鍵屋崎が顔を上げる。レイジが腕を一閃、鍵屋崎の腕の中に飛びこんできたのは……安田の拳銃。 
 「それ安田に返しといてよ。あと、その銃……」
 「医療班、担架を!怪我人を早急に処置しろ、輸液パックの用意はいいか!?」
 何かを言いかけたレイジの声はてきぱき指示をとばす医師にさえぎられた。それきりレイジは人ごみに消え、あとには銃を手にした鍵屋崎と俺とサムライが取り残された。
 銃を取り戻した鍵屋崎の背後では、気絶したタジマが照明の下から引きずりだされて担架が呼ばれていた。即死こそ免れたがタジマは重傷だった。少なくとも今晩は復活する見こみはないだろう。
 あとは安田に銃を返せばすべて終わる。
 「………」
 レイジについてようか、鍵屋崎と一緒にいようか迷う。レイジは人ごみの向こうで「俺を寝かしつけてえなら美脚ナースの胸枕かロンの子守唄だ!」とまだ騒いでる。俺に子守唄唄えってか?無茶な要求だ。
 「行って来い。あとは俺たちに任せろ。お前はレイジについててやれ」
 俺の心を見透かしたようにサムライが言い、念押しの笑顔で畳みかける。
 「王に褒美をくれてやれ。レイジを癒せるのはお前だけだ」
 決心がついた。後のことはサムライと鍵屋崎に任せよう、俺はレイジについててやろう。サムライの褒美がなにを指してるのかは漠然と察しがついたが、深く追及しないことにした。
 サムライに頷き返し、レイジを追おうと方向転換しかけて振り返れば、リング上ではヨンイルが素っ裸で寝ていた。風邪ひかないかあいつ?そのそばには五十嵐がいた。腑抜けた顔をさらして芒洋と虚空を仰いでいた。安田は医療班に肩の手当てを受けていた。どうやら大事には至らなかったらしいと安心する。リング付近には他に凱と売春班の面々もいた。
 ホセの姿は見当たらなかった。神出鬼没の隠者め、今度はどこへ……
 まあいい。ペア戦は終わったんだ。全部片がついたんだ。俺はレイジについててやろう。
 そう心に決めて、未練を断ち切り走り出す。
 「待てよ藪医者、王様なだめるの老体にゃ骨が折れるぞ。俺にまかせ……」
 人ごみに見え隠れする白衣の背中に声をはりあげ、一瞬動きを止める。途中、見覚えあるヤツとすれ違ったから。そいつは人ごみに身を隠して、足早に鍵屋崎の背後へと歩み寄っていた。なんだか胸がざわついた。まだ何か起こりそうな予感。幕が下りた舞台の裏側でもう一騒動持ち上がりそうな予感……
 まさか。考えすぎだ。激しくかぶりを振り、不安を打ち消す。「あいつ」がここにいること自体は全然不自然じゃない。鍵屋崎に歩み寄ったからって何も不思議じゃない。鍵屋崎とは当然顔見知りだろうし、「お疲れ様」とでも労いの一言をかけにいったに違いない。
 そうだ。この上「あいつ」が何をしでかすってんだ?
 サーシャとレイジは医務室に運ばれて、ヨンイルは気絶して。
 残る「あいつ」一人でなにができるってんだよ?
 「まさかな」
 考えすぎだと自分の考えを嘲笑い、地下停留場を抜ける通路へととびこむ。レイジを乗せた担架は医務室へと運ばれてく。背後の喧騒が遠ざかる。足を早めて担架に追い付き、ポケットに手を突っ込み、無意識に牌をまさぐり不安をごまかす。
 ペア戦は終わった。タジマの復讐劇にもヨンイルと五十嵐の因縁にも片が付いた。
 大団円。一件落着。それで万事よしじゃないか……
 
 その時だった。
 背筋に電流を通されたみたいな戦慄に襲われたのは。

 思い出したのは、目だ。

 俺と気付かずすれ違った瞬間の「あいつ」の目。黒ぶち眼鏡の奥、分厚い瓶底眼鏡の奥の眼光……
 油断ならない光を湛えた、鋭すぎる双眸。
 「大団円」?「一件落着」?いや、まだだ。まだ終わってない。東と北と西のトップが人事不省に陥っても、「あいつ」だけはぴんぴんしてる。「あいつ」だけは余力を蓄えて無傷で生き残ってる。
 それが何を意味するかわからないが、俺が今しがた背を向けた地下停留場で、とてつもなく不吉なことが起こりそうな予感がする。
 そして。
 通路の真ん中に呆然と立ち竦んだ俺の背後で、はっきりとそれは聞こえた。
 「五十嵐、俺を殺せ」
 断固とした、ヨンイルの声だった。
[newpage]
 「キーストア!」
 レイジが僕へと銃を投げる。
 「それ安田に返しといてよ。あと、その銃……」 
 何か言いかけたレイジの腕を引っ張り強引に人ごみへと連れ込む医師。
 「医者生活三十余年でこんなに元気な患者は見たことないよまったく、大人しく寝てないと鎮静剤を打つよ」
 「ひでえ横暴だ、人権無視だ、断固抗議!ロンと俺の仲を裂こうとするてんで性悪キューピッドめ!」
 「患者に人権はない!」
 医師と口論しつつ人ごみに連れこまれたレイジは、雑踏に紛れる最後の瞬間まで往生際悪く足掻いていた。ロンは僕とレイジを見比べて逡巡していた。複雑で不安げな面持ちだった。レイジを心配する気持ちと僕らに遠慮する気持ちが相半ばしてロンの顔を曇らせていた。
 ロンの心情を察した僕は銃を胸に抱えて口を開こうとして……
 「行って来い。あとは俺たちに任せろ。お前はレイジについててやれ」
 サムライに先回りされた。
 「王に褒美をくれてやれ。レイジを癒せるのはお前だけだ」
 物静かだが有無を言わせぬ口調で促され、ロンが決心する。きつく唇を結んで顔を上げ、サムライを見上げる。そして、駆け出す。レイジを追って人ごみに身を投じたロンの姿がやがて見えなくなるにつれ、緊張の糸が緩む。
 体が傾いだ。
 手中に抱えた銃の重量のせいか、疲労が溜まっていたせいか……そうだ、今晩だけで色々なことが起こりすぎた。僕の優秀なる頭脳の許容量を超える異常な出来事が次々と。だが、全部終わった。もう何も心配することはない、僕が憂うことは何もない。
 今日は特別な夜だった。
 東京プリズンにとっても僕にとっても、今この場にいる誰にとっても特別な意味を持つ運命の夜。
 東京プリズンの命運を分ける一戦が行われ、ペア戦に決着がつき、複雑に絡まり合った五十嵐とヨンイルの因縁も解かれた。
 今夜の出来事は正式な記録に残らずとも長く記憶に残る予感がする。
 看守と囚人の区別なく今晩この場に集った人々の記憶に残り続ける確信に近い予感がする。たった一晩の出来事が多くの人々の人生を左右することがある、たった一晩の出来事が価値観を根底から覆して目に映る光景を劇的に塗り替えてしまうことがある。それが今日、今晩だったのだ。
 僕の体には澱のように疲労が蓄積されていた。
 脆く繊細な神経は酷く張り詰めて、過度の緊張を強いられ通したせいで、すべてが終わった途端に安堵から来る眩暈に襲われた。急に床が傾いだ錯覚に襲われて平衡感覚が狂って、あっと思った瞬間には体が浮揚感に包まれていた。 床で足を滑らせた僕は、背中が床に激突する衝撃を予期して固く目を瞑る。
 ところが、そうはならなかった。
 後ろ向きに倒れた僕を力強い腕が支える。
 腋の下にさしこまれた二本の腕の主は僕の背後であきれ顔をしていた。
 「何もないところで転ぶとは器用だな」と感心してるようにも見えた。
 心外だ。
 「手を放せサムライ。肉体的接触なら先程のあれで十分だ」
 無様だ。なんたる失態だ、鍵屋崎直と羞恥に頬を染めて内心歯噛みする。
 気が緩んだ途端にこれだ、もう恥をかくのは沢山だというのに。
 思えば今晩だけで一生分の恥をかいた、かき尽くした。タジマには銃を発砲するぞと脅されて、一万人の大群衆が固唾を飲んで見守るリング上で痴態を晒された。その上ロンを強姦しろと命令されて甚だ不本意なことに屈辱的な芝居までする羽目になった。
 タジマを騙して油断を誘うために仕方なかったとはいえ口腔内の生温かい温度と感触が不快だった。冷静に考えれば凡人にもわかるだろう、僕がロンに欲情などするわけがないじゃないか、天才のプライドに賭けて断固否定する。鈍感なロンはズボンを脱がされる段階になってもまだ気付かなかったようだが、僕はただ演技をしていただけだ。
 タジマと群集を騙してサムライにだけ真意を伝える巧妙かつ狡猾な演技、それもこれもIQ180の優秀なる頭脳が発案したタジマの裏をかく計略だったのだ。
 でも、最も恥ずかしいのは……
 「同じことを二度言わせる気か?手を放せというんだこの低脳め、もう平衡感覚を取り戻した、ちゃんと二本の足でバランスをとって立つことができる。君の手を借りずに秒速3メートルで房に歩いて帰ることもできる。大体君は足に怪我をしてるじゃないか、さっき銃床で殴られてまた傷が開いたんじゃないか?くそ、何度包帯を替えればいいんだ。これぞ資源の無駄遣いというものだ、少しは反省しろ」
 「すまない」
 サムライが律儀に頭を下げる……素直に詫びられたら詫びられたでばつが悪い。これでは一方的に怒ってる僕のほうが悪者だ。
 「……前言撤回だ。訂正しよう、別に君が謝ることでも反省することでもないな。反省する必要があるのはタジマだ。しかし、これだけの大事件を起こしたんだ。いくらタジマに強力なコネがあっても、看守職への復帰は絶望的に不可能。それだけは喜ぶべきことだな」
 眼鏡のブリッジを中指を押し上げ、吐き捨てる。
 だが、サムライに両腕を掴まれて背後から吊られていてはさまにならない。サムライの腕を邪険に振り解き、苛立たしげに上着の裾を払って立ち上がる。あちこち転げまわったせいで全身埃だらけだった。眼鏡のレンズも片方割れて視界半分に亀裂が生じていた。
 鏡に映してみるまでもなく今の自分がひどい有り様だと察しがついた。
 レンズにひびが入って視界が利がないのが惨めだ。眼鏡を顔から外し、割れたレンズをじっくり観察する。早急に修理に出す必要があるな、と考える。
 「………君が、その」
 眼鏡の弦をいじくり回しつつ、口を開く。
 サムライがうろんげに僕を見る。横顔に視線を感じて頬が熱を帯びる。
 手元に意識を傾け、神経を集中する。ヨンイルに蹴られた衝撃でレンズが割れた眼鏡をあちこち角度を変えて矯めつ眇めつしつつ、努めてさりげなく、本心を口にする。
 「君がタジマを殺さなくて、良かった。君の剣はあんなふうに使うものじゃない。汚い男の汚い血で君の手と剣が汚れるなど到底耐えられない。僕はこれからもずっと、君と一緒にいたい。共にありたい。友人として……その、だからつまり、端的かつ理論的なおかつ合理的に結論すれば」
 言葉が淀む。高熱でも発したように頬が熱くなる。
 こんな訥弁、僕らしくもない。いつもみたいに自信を持って、威圧感を込めた口調で淘淘と言いきりたいのに、どうしてもそれができない。落ちつきなく眼鏡をさわりながらふと顔を上げて照明の落下地点に一瞥くれる。
 タジマは既に担架に乗せられ運び去られていた。後にはただ床一面に照明の破片が散らばり、後片付けを任された看守が慌しく行き交っているだけ。
 これで当分タジマと顔を合わせずに済むという安堵にも増して僕を救ったのは、サムライがタジマを殺さなかったという事実。
 狂気に取り憑かれて木刀を振るうサムライ、復讐に燃える眼光、返り血を浴びた般若の形相……
 もしあの時サムライがタジマを殺していたら、僕らはもう一緒にはいられなかった。
 サムライは僕にとってかけがえのない大事な存在だ。大切な人間だ。彼と離れ離れになるのは耐えられなかった。彼を失いたくないと痛感した。
 眼鏡をかけ直し、サムライの目をまっすぐ見つめる。
 「僕は」
 今の気持ちをサムライに伝えたい。
 さっきの抱擁だけじゃ足りない、伝えきれなかった気持ちを。
 サムライが無言で僕を見る。見つめ返す。
 サムライは僕の中に苗を見てるのだろうか、苗の幻影を重ねているのだろうか?……かまわない。それでもいい。
 僕を癒せるのはサムライだけだ。そしてまた、現在を生きるサムライを癒せるのも僕だけだと自負していいだろうか?自負することを苗は許してくれるだろうか?
 視線と視線が絡み合う。距離が接近する。胸の鼓動が高鳴り、手のひらがじっとりと汗ばむ。周囲の喧騒が潮騒のように遠のき、僕とサムライのまわりに不可侵の静寂が満ちる……
 「鍵屋崎、そろそろ銃を返してほしいのだが」
 咳払いとともに不機嫌な声が介入。
 振り向けば安田がいた。背広を脱いでシャツ一枚になっている。そのシャツもボタンが数個しか掛けられておらず、血の滲んだ包帯が扇情的に映える色白の素肌が覗いていた。はだけたシャツの隙間から薄い胸板と鎖骨を覗かせた安田が、看守二人に両脇を支えられてこちらにやってくる。
 「銃?勿論返すつもりだった、忘れるわけがない。僕が優先順位を間違えるはずないじゃないか、弾倉にはまだ一発残ってる、暴発の危険もある銃の存在を手に持ったまま忘れるはずがないじゃないか!」
 「わかったから、早く返したまえ」
 安田があきれ顔になる。なんだその顔はと文句を言いたくなる。元はといえば貴様が不注意だから僕がしなくてもいい苦労をする羽目になったんじゃないか、おかげでさんざんな目に……
 まあいい、過ぎたことだ。
 憮然たる態度で安田の手のひらに銃を置こうとして、ふと思い止まる。
 「副所長、貴方が銃を紛失したことは皆に知れ渡ってしまった。タジマが暴露してしまった」
 「ああ」
 首肯した安田を探るように見上げる。安田は意外にも落ち着き払っていた。何故だか清清しい顔をしていた。長年の苦悩から解放されたような、達観した表情だった。
 「自業自得の但馬看守はともかく、貴方にも相応な処分が下される。刑務所内で銃を紛失したのは副所長のミスだ、今回の騒動の発端はそもそも貴方が注意を怠って軽率な振るまいに及んだからだ」
 「こいつ、囚人のくせに生意気な!」
 「いい。続けたまえ」
 怒号を発した看守を遮り、安田が先を促す。僕は淡々と続ける。
 汗ばむ手のひらを隠すよう体の脇で握りこみ、喉の乾きを唾で潤し、挑むように顎を引く。
 「貴方は一体、どうなるんだ?当然無罪放免というわけにはいくまい、貴方にもなんらかの処罰が下される。たとえ貴方の銃で怪我したのが貴方自身を除いて誰もいなくても、刑務所内で看守が囚人に銃を向けたという事実こそ問題視されるべきだ。本来ありえざる由々しき事態として取り沙汰されるべきだ。ことは東京プリズンの日常の一部と化したリンチ及びレイプとは訳が違う。貴方はどう今回の責任をとるつもりだ?まさか……」
 そこで言葉を切り、切迫した眼差しで安田を仰ぐ。
 「まさか、東京プリズンを辞めるつもりじゃないだろうな?」
 「鍵屋崎。私は何故か君が他人とは思えない。君のことはまるで息子のように近しく思うよ」
 「答えをはぐらかすな、僕は副所長の進退問題について真剣に討議……」
 背中に衝撃。
 「!?」
 「鍵屋崎っ!」
 サムライが僕を呼び、安田が咄嗟に手をさしだす。僕の体を受け止めようとしたのだ。誰かが僕の背中にぶつかった、いや、突進してきたといったほうがいい。一人じゃない、二人、三人……立て続けにだ。視界が上下にぶれ、安田の腕に向かって倒れこむ。安田の腕に縋って顔を上げれば、眼鏡越しの双眸が憂慮の色を湛えてこちらを覗きこんでいた。
 「大丈夫か?君は少し体重が軽すぎる、ちゃんと栄養を摂ったほうがいい」
 「なら東京プリズンの食事事情を改善しろ、芋と菜と米と魚では献立が貧しすぎだ。こんな粗食で体が造れるわけがない、いいか、僕らは成長期なんだぞ?その点を重々考慮して献立の改善を要求……」
 ゴトリ、と鈍い音が鳴る。何か重たい物、たとえばそう、鉄の塊が床に落下した音……
 驚き、五指を広げた手を見る。
 拳銃がない。消失。
 顔から血の気が引く。いつどこで?「今」だ。今さっきだ。誰かが僕の背中にぶつかった、衝突のはずみで僕はよろめいて安田の腕の中に倒れこんだ。僕の背中にぶつかった人間はすでに人ごみに紛れこんで特定しがたいが手の中の拳銃は忽然と消えている。
 盗まれた?落とした?
 「鍵屋崎?」
 僕の肩を乱暴に揺さぶる安田が、拳銃の消失に気付いて血相を変える。
 「銃をさがすんだ!」と両脇の看守に指示、今にも膝が萎えて崩れ落ちそうな僕の肩を支える。本物の父親みたいに力強い手、ぬくもりと安心感を与えてくれる手……その時ふと、本当に唐突に、荒唐無稽な考えが脳裏を過ぎった。あとから考えれば現実逃避に過ぎない、根拠も何もない、ただそうあってほしいというだけの儚い希望。

 安田が僕の父親ならよかったのに。

 「あそこだ!」
 「!」
 サムライの声で一瞬にして我に返った。
 サムライの視線を追えば確かに銃があった、無造作に転がっていた。事もあろうにリングの上に。床に手を付いて首をうなだれた五十嵐の鼻先に。
 何故あんなところに?愕然とする。
 いくらなんでも距離が離れすぎている、床を滑ったにしては遠くに行き過ぎだ。誰かが故意に蹴飛ばしたとしか考えられない。しかし誰が、何の目的で?安田の腕から上体を起こし、犯人を特定しようとあたりを見まわす。
 無駄だ、僕の背中に突進した犯人も銃を蹴飛ばした犯人もわからない、人が多すぎる!
 「くそっ!」
 衝動的に安田を突き飛ばして走り出す。
 突然、胸騒ぎに襲われた。安田とサムライと看守二名が僕の後に続く。彼らも直感したのだ、五十嵐の目の届く範囲に銃を放置しておくのは危険だと。
 僕らが接近する足音に反応したか、五十嵐が緩慢に顔をもたげる。
 五十嵐が拳銃に目をとめる。死んだ魚のように濁った目に物騒なものが漣立つ。五十嵐がゆっくりゆっくりと拳銃に手をのばし、指を触れる…
 「やめろ五十嵐、銃に触れるな!」
 走りながら叫ぶ、五十嵐に今一度復讐を思い止まらせようと。
 銃に手を置いたまま、五十嵐がこちらを見る。固く強張った表情。手を引っ込めるべきか再び銃をとるべきか思いあぐねた、逡巡の表情。五十嵐もまた激しい葛藤に苛まれて自分では答えを出せずにいた、目の焦点は虚空をさまよって誰かに助けを求めていた、必死に縋っていた。

 救いの手は思いがけぬところから伸びた。

 「ええで五十嵐。撃てや」
 リングに上がろうとして、立ち止まる。
 リングを中心に低いどよめきが広がる。ヨンイルが薄目を開ける。
 五十嵐の手に被さったのは、ヨンイルの手。五十嵐に銃を掴ませたのは、命を狙われるヨンイル自身の手。寝ぼけているわけでもないらしく声はしっかりしていた。
 リングを囲んだ観客が慄然とする中、ゆっくり起きあがったヨンイルが無意識にゴーグルをさぐる。僕の手により首元に引き下げられたゴーグルには無残な亀裂が生じていた。
 弾丸が貫通したあとだ。
 弾痕が穿たれたゴーグルを名残惜しげに撫でつつ、ため息をつく。さんざん辛酸を舐めて人生に疲れきった年寄りのような、澱のように疲労が沈殿した吐息。
 たった一瞬で何十年もの歳月が経過したように老成した顔つき。
 「な、んで?」
 五十嵐のかすれた問い。驚愕に目を見開き、信じ難い面持ちで道化を仰ぐ。ヨンイルは少し困ったように笑う。
 「なんで、て。あんた、俺のこと殺したかったんやろ。娘さんの仇をとりたかったんやろ。なら撃てや。遠慮はいらん。眉間でも胸でも股間でも好きなとこ狙え。俺の体に棲んどる龍の息の根止めてくれ」 
 「何故そうなるんだヨンイル、僕に断りもなく勝手に結論をだすんじゃない!!」
 僕は動転していた、混乱していた。何故ヨンイルは今更こんなことを言い出す、すべてが片付いた今になって既に終わったことを、決着がついたことを蒸し返す?
 リングに一歩踏み出し、両手を広げる。
 「もう全部終わった、片が付いたんだ!君は助かったんだヨンイル、五十嵐の復讐は終わったんだ、君が間の抜けた寝顔をさらしてるあいだに問題は滞りなく処理されたんだ!それなのにわざわざ自分の命を危険に晒してこれは一体何の真似だ、君の言動は理解しがたい、支離滅裂の極みだ!
 君に放たれた弾丸は形見のゴーグルが代わりに受けた、君は奇跡的に無傷で窮状を切り抜けた、非常識なほどの悪運の持ち主だ!わかったか、わかったならさっさと戻って来い、ワンフーをはじめとする西の囚人が道化の帰還を待ち侘びているぞ!」
 僕を無視するヨンイルに苛立ち、最後は悲鳴のような叫びになった。
 僕にはヨンイルの行動が理解できない、何故この期に及んで自分の身を危険にさらすような真似を、五十嵐に復讐を促すような真似を?
 リング周辺の囚人が僕の叫び声に感化されてざわめきだし、場が緊迫する。
 思い詰めた面持ちで自分を見つめる西の囚人を睥睨し、ヨンイルは呟いた。
 「もう、ええ」
 かすかに笑みさえ含んだ、力ない声だった。
 ヨンイルが五十嵐の手ごと銃を握る。そうやって強引に銃を握らせる。ヨンイルにされるがまま、五十嵐が銃を手にとる。ヨンイルが満足げに頷き、傍らの免許証入れに一瞥くれる。正確には、上下に開いた免許証入れの写真に。
 「俺、全然気付かんかったんや。すっかり忘れとったんや、自分がしたこと」
 ヨンイルが目を伏せる。
 「あんたが怒るの無理ないわ。ここに来てから毎日毎日たのしくて、漫画読み放題で人生謳歌して、せやから忘れとったんや。……いや、ちゃうな。自然に忘れたんやなくて、心のどっかで忘れたがってたんやろな。
 さっき直ちゃん言うたろ、一生懸命俺に呼びかけとったろ。
 ちゃんと聞こえとったで。俺にとっての漫画はただの現実逃避の手段やて、きっついこと言うなあて内心苦笑したけど、その通りや。俺はなにか辛いことや苦しいことあるたび、現実に知らんぷりして漫画の世界に逃げこんだ。漫画の神様手塚治虫が作り出した世界に寝食忘れて浸りきって、俺もすっかり二次元の登場人物になりきって……」
 ヨンイルは淡々と語る。五十嵐リカの写真を見つめ、首をうなだれて。 
 「そうやって、取り返しのつかんことから逃げ切ろうとしてた。
 現実なんてつまらん、二次元のほうがなんぼマシか知らん。ホンマのことなんか知らんほうがええ。
 俺は阿呆やから、じっちゃんの口癖の意味はきちがえとったんや。ずっとずっと、長いこと勘違いしとったんや。じっちゃんの口癖。『いつか、どでかい花火を打ち上げるのが俺の夢じゃ』て爆弾いじくりながら言うとって……せやから、勘違いしてもうたんや。じっちゃんが言うとる花火は爆弾のことで、どでかい花火を打ち上げたいちゅーんはつまり、最高の爆弾作りたいてことかと…」
 ヨンイルは全裸だった。
 残り三つの照明が、龍に巻かれた肢体に艶やかな光沢を塗っていた。
 ヨンイルがそっと、首からさげたゴーグルにふれる。
 祖父との思い出を懐かしむように、口元を綻ばせて。
 「紛らわしいっちゅーねん、あのくそじじぃ。ホンモンの花火のこと指してるなんて阿呆やから気付きもせんかったわ、俺。死に際に枕元に呼ばれて『阿呆、アレは花火のことや』てお説教されたかて手遅れやっちゅーねん。
 俺はじっちゃんの口癖真に受けて、いつか最高の爆弾作ってじっちゃんの鼻明かしてやろて、じっちゃんびっくりさせたい一心で爆弾作りに明け暮れとったのに……なんやねん、それ。もっと早く言うてほしかったわ。そんなら俺、花火作ったのに。爆弾やなくて、花火作りに励んだのに。
 俺はただじっちゃんみたいになりとうて、他のこと何も見えてへんガキで、爆弾なんかどうでもよかったんや。俺はただ、じっちゃんに誉めてもらいたかったんや。『すごいな、さすが俺の孫や』て頭撫でてもらいたかったんや。
 はやく一人前になってじっちゃんに認められて……」
 ヨンイルの言葉が途切れる。
 「俺は、ピノコや。ブラックジャックのまわりちょこまかしてなんでも真似したがる、一人前と認められたくて必死に背伸びするピノコやったんや。けど、ピノコは爆弾作ったりせん。爆弾で二千人殺したりせん。じゃあ、俺はなんや?」
 ヨンイルが顔を上げ、まっすぐに僕を見る。
 僕なら核心から目を背けず欲しい言葉をくれるだろうと確信をこめ。
 「直ちゃん。俺はなんや」
 「人殺しだ」
 「そうや。人殺しや」
 我が意を得たりとヨンイルが頷く。
 「正直、俺はまだ死にとうない。世の中の漫画全部読み尽くすまで死にたくないてのが本音や。けど、あんたが俺を殺すのは正しい。正しいと言い切れなくても、少なくとも間違ってはない。あんたに殺されるなら納得できる、あんたの手で地獄に落とされるならまあしゃあないなって笑いながら逝ける」
 「悟りすぎだよ、お前」
 震える手で銃を掲げて、五十嵐がいびつに笑う。泣きたいのを我慢して笑ってるようなぎこちない笑顔。そんな五十嵐の前に無防備に身を晒し、無造作に手足を投げ出してヨンイルが笑う。
 「だってここ、東京プリズンやろ。東のはての砂漠のど真ん中の地獄やろ。ここに送られたら最後、どうせ生きては出られん。俺の懲役は二百年、どのみち生きて出れる見こみは限りなく低い。世の中に数かぎりなく何億冊何兆冊と漫画が溢れとっても、図書室の漫画はあらかた読み尽くしてもうた。手塚治虫の絶版本『ガムガムパンチ』はここにいる限り手に入らん。
 なら、ここであんたに殺されるのもそんなに悪くないかなって……少なくとも、最悪の死に方やないやろ」
 「ヨンイル、それでいいのか!?ゴーグルを盾に、祖父に救われた命じゃないか!!」
 五十嵐が引き金を絞り、ヨンイルの眉間に銃口を固定。リング周辺から地下停留場の奥へと足元を這うように低いどよめきが広がる。西の囚人が口々に悲鳴をあげる。
 金切り声で叫ぶ僕を無視し、ヨンイルは五十嵐に語りかける。
 「俺はあんたの娘を殺した」 
 ただ、ありのままの真実を。
 残酷に胸を抉る真実を。
 「だから、俺を殺してもええんや。みんなが見てるまえで娘の仇をとってええんや。あんたの娘は、五十嵐リカは、もっと生きててもいいはずだった。くだらんテロなんかに巻き込まれずに済んだら今も元気で暮らしてるはずだった。あんたの免許証入れに挟まった写真は一年ごとに新しくなって、今ごろは和登さんみたいにボーイッシュなべっぴんになったリカちゃんが笑いかけとるはずだった」
 「そうだよ。そのとおりだよ。わかってるじゃねえかヨンイル、腐れ外道の人殺し。リカはお前に殺されたんだ、お前が勘違いで作りつづけた爆弾で殺されたんだよ。だからリカの写真はこれ一枚きり、リカは永遠に十一歳のまま、俺の記憶と写真に残り続けなきゃいけなくなった。ヨンイル。五年前のお前はほんのガキだった、物の道理のわからねえ子供だった。さぞかし腕白で人の言うこと聞かねえ、じいちゃん泣かせのガキだったんだろうな」
 「大当たり。じいちゃんにはいつもゲンコツ落とされとった。痛いんやで、アレ。目から火花がでたわ」
 「リカは、いい子だった」
 「うん」
 「親の言うことをよく聞く、聞きすぎるほどによく聞く、全然手のかからねえ……」
 「うん」
 「俺には勿体ないほどの」
 「うん」
 「なんでも一人でやって、十一歳て年齢以上にしっかりしてて、将来こいつを嫁に貰う男は幸せだなあってやきもち焼いたくらいに」
 「…………」
 「リカの父親になれて、幸せだった。あいつが俺たちの娘に生まれてきてくれて、本当に嬉しかった」
 五十嵐が深く息を吸う。指の震えはいつしか止まっていた。ヨンイルを射殺する決心が固まったのだ。
 弾丸は全部で六発、残り一発。至近距離で眉間に撃ち込めばヨンイルは即死。
 やめろ、と叫びたかった。しかし声が出なかった。僕が崩れ落ちないよう肩を支える安田もサムライも、食い入るようにヨンイルと五十嵐を見比べていた。
 ヨンイルはすでに覚悟を決めていた。五十嵐に銃を持たせたのはヨンイル自身だ。それがわかるから僕らは何も言えなかった、ヨンイルと五十嵐の最後のやりとりをただ見守ることしかできなかった。
 最期の会話というにはあまりに和やかで微笑ましい内容だった。ヨンイルと五十嵐の表情は、気の置けない者同士が他愛ない話でもしてるように柔らかかった。ヨンイルは相変わらず全裸で、素肌の至るところに痛々しく血が滲んでいた。
 天からの光に晧晧と映える刺青は、鱗を剥がされた龍が断末魔の苦しみにのたうちまわっているようにも見えた。龍の胴体から滴り落ちる血をそのままに手足に伝わせて、ヨンイルは安らかに目を閉じた。
 「リカは、いい子だったんだ」
 五十嵐の声が嗚咽にかすれる。
 「聞いとる」
 ヨンイルが優しく言う。 
 「ヨンイル、悪い。やっぱり駄目だ。お前のこと殺さずに済みそうにない。鍵屋崎にも迷惑かけた。俺のこと必死に説得してくれたのに、結局こうなっちまった。それだけじゃねえ。俺のこと信頼してくれた連中のこと、いちばん酷いやり方で裏切っちまった。こんな、最悪の形で……俺、やっぱり父親に向かねえよ。かっこいい父親になろうと俺なりに頑張ってみたけどてんで駄目で、みんなをがっかりさせちまった」
 「直ちゃんは許してくれる。俺の自慢のダチやし」 
 ヨンイルが八重歯を覗かせて笑った。
 一生僕の瞼の裏に焼き付くことになる笑顔。
 『アンニョンヒ ケセヨ』
 五十嵐が韓国語で別れを告げる。ヨンイルの眉間に銃口がめりこむ。ヨンイルが手探りに床をさぐり、免許証入れを拾い上げる。額に銃をつきつけられたまま薄目を開ける。ヨンイルの手の中で笑っているのは、五年前のテロに巻き込まれて殺された五十嵐の娘……五十嵐リカ。
 ヨンイルはそのまま暫く、じっと写真に目を落としていた。
 そして。

 『ミハンハムニダ』
 ごめんなさい、と言った。
 五十嵐リカに、自分がかつて殺した二千人の人々に、心の底から謝罪した。
 謝って済むことではないとわかっていても、死ぬ前にどうしてもこれだけは言いたいと衝動に駆られて、嗚咽でも命乞いでもなく口から零れた一言だった。
 命と引き換えた、潔い謝罪だった。
 
 僕の中で何かが切れた。
 
 「あああああああああっああああああああっあああああああ!!!!」
 
 五十嵐は引き金を引いた。
 今度こそ、本当に、ヨンイルは死んだ。
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