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三百十五話
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人けのない通路で看守と囚人が対峙する。
五十嵐は手に銃を握っていた。こないだビバリーが地下停留場で拾って僕の口利きで五十嵐から安田へと返されるはずだった銃。
なんで五十嵐が銃を持ってるの、もうとっくに安田に返されたものと信じて疑わなかったのに。何がどうなってるんだ一体、さっぱり理解力が追い付かず思考が空転して混乱の深みに嵌まる。
五十嵐が約束を破るなんてそんなまさか。僕は五十嵐を信頼してた。いや、信頼してたという言い方は変かもしれない。僕には友達なんか必要ないって今まで突っ張ってきたのに「信頼」なんて言葉簡単に使っちゃいけない。
他人を信じたら裏切られる、それが世界の鉄則。世間の常識。他人を信じたら馬鹿をみる、他人に心を許したら付け込まれる。弱みを見せるな弱音を吐くな、他人を信頼するな、利用しろ。
そうだ、僕はこれまでずっとそうやって生きてきた。
娑婆にいた頃も東京プリズンに来てからも他人を騙して陥れて賢くしたたかに生き抜いてきたんだ。僕には友達なんかいらない、必要ない。友達なんかいざって時邪魔になるだけだ、そんなうざったいもん要らない。絶体絶命の窮地を切り抜ける機転さえあれば足手まといでお荷物な友達なんか必要ない。
ビバリーだってそうだ。
お人よしでお節介で口うるさいパソコンオタク。同房の相棒。だから何?僕とビバリーはただそれだけのドライな関係だ。レイジとロン、サムライと鍵屋崎みたくべったり依存してるわけでも必要以上にひっついてるわけでもないさっぱりした関係なのだ。そりゃ僕もビバリーにちょっかいかけることもある、ビバリーのノーマルな反応や動揺ぶりが面白くて肩にしなだれかかって猫なで声で甘えたこともある。
けどそれだって、ビバリーが靡かない前提があるからこそ安心してちょっかいかけられるんだ。
ビバリーは何?
僕の何?
ただの同房者でそれ以上でも以下でもない、はずだ。じゃあなんで僕はこんなに落ちこんでるの、ビバリーがそばにいなくてこんなに不安なの?今この場所にビバリーがいてくれたらどれだけ心強いかなんて無意識にありもしないこと想像してるの、むなしい期待をかけてるの?今ここにいるのは僕と五十嵐の三人だけ、他の連中は地下停留場に殺到して試合に夢中になってる。今まさにサーシャ対レイジの死闘が行われてる地下停留場からは潮騒のような歓声が聞こえてくる。
数週間にわたり大々的に開催されたペア戦の締めくくり、北の皇帝サーシャと東の王様レイジの対決は今晩最大の目玉で、地下停留場にこぞって沸いてでた囚人たちは片時もリングから目を離さず試合に集中してる。まさか今この瞬間に、人けのない裏通路で別の対決が行われてるなんて夢にも思わず。
やれやれめでたいね、人の気も知らずに。
とりあえず、落ちつこう。状況を整理しよう、分析しよう。深呼吸で動悸をしずめた僕は、五十嵐の背中と正面のヨンイルとを見比べながらおずおず口を挟む。
愛想笑いは忘れずに。
「ねえ、これなんの冗談なわけ?決勝戦のトリ、レイジとサーシャの試合をほうっぽって看守と囚人がこんな裏通路でさ」
引き金にかけた指がぴたりと止まる。
安堵に胸撫で下ろした僕は、芝居がかった動作で両手を広げ、五十嵐の背に歩み寄る。
「ねえ五十嵐さん、どうしてヨンイルに銃口つきつけてるの?その銃、安田さんのだよね。僕がこないだ副所長に返しといてってお願いしたブツだよね」
「て、お前が持ってたんかい!」
ヨンイルが驚きあきれた顔をするのに肩を竦めて反論。
「人聞き悪いこと言わないでよ、濡れ衣だよ。銃を拾ったのは僕じゃなくて同房のビバリーさ。前々回だかのペア戦の翌日に地下停留場行って、バスが出た駐車場に銃が転がってるの偶然見つけて、こんな物騒なもん放ったらしてちゃまずいって懐に隠して持って帰ってきちゃったわけ。でも、房に持ち帰ったはいいけど後始末に困って僕に泣きついてきたから仕方なく……」
曖昧に言い淀んで五十嵐を一瞥する。僕は五十嵐を信頼していた。いや、信頼してたという言い方がおかしいなら信用していた。信じて頼ることはできなくても信じて用いることならできる看守だと評価していたのだ。けど五十嵐は僕を裏切った。どんな事情があるにせよ僕との約束を破り、今の今まで制服の懐に拳銃を隠し持っていたのは事実。
五十嵐は東京プリズンの良心だ。東西南北の垣根を超えて囚人に慕われる親切な看守。他の看守みたいに囚人をクズ扱いして殴る蹴るの暴行を働かず、親身になって相談に乗ってくれる頼れる大人。
その五十嵐が、囚人皆から慕われる五十嵐が何故ヨンイルに銃口を向けている?東京プリズンで人望を集める五十嵐がなにをとち狂ってヨンイルのどたまに銃口つきつけている?
目を疑う。驚愕。信じられない。
手足の先から冷えてゆくような感覚。戦慄。喉を鳴らし生唾を飲み込み、ヨンイルを振り仰ぐ。
「ヨンイル、君、なにかラッシーの気に障るようなこと言うかするかしたの?」
「はあ!?」
心外なといわんばかりに大仰に目を剥いてヨンイルが抗議の声をあげる。だってそれしか考えられない、五十嵐が囚人の眉間に銃口つきつけるなんて。五十嵐が今日まで誰にも内緒で銃を持ち歩いてた件に関してはとりあえず保留。おおかた仕事が忙しくて安田に会う暇なくて返し忘れてたとか、種明かしすれば「なあんだ」と肩透かし食うような内容のはず。五十嵐だって人間だ、物忘れもすればドジも踏む。弾をこめた銃をうっかり返し忘れてずるずる日が経っちゃうことも絶対ないとは言いきれない。
五十嵐がヨンイルに銃を向けたのは、「たまたま」かもしれない。
ヨンイルの無神経な言動に逆上した五十嵐が、たまたま懐にあった銃の存在を思い出して、衝動的に引き金に指をかけたのかもしれない。すべては偶然だ。不幸な事故だ。念入りに練りこまれた計画殺人であるわけがない。五十嵐がヨンイルを殺すために銃を返さずに持ち歩いてたなんて、そんな、まさか。
第一五十嵐にはヨンイルを殺す動機がない。五十嵐にとってヨンイルは、西の道化という特別な地位にあることを除けばその他大勢とおなじくただの囚人でしかない。
「だってそれしか考えらんないじゃん、ラッシーがこんなに怒るなんてさ。可哀想にラッシー、ヨンイルにひどいこと言われて傷付いたでしょ。なんて言われたの?奥さんと離婚秒読みだってからかわれたの、髪の毛にフケ浮いてるとかデリカシーのないこと言われたの?フケなんて気にすることないって、独り暮らしの中年男が一日や二日風呂入るの忘れたり頭洗いそびれるのはよくあること……」
「アホぬかせ」
ヨンイルが白けた顔をする。銃口をつきつけられているのに堂に入った態度だ。肩の位置に両手を挙げたヨンイルが僕から五十嵐へと視線を転じる。油断ない目つき。
「俺はただ、美味しい餌に釣られてコイツについてきただけや」
「美味しい餌?」
五十嵐の表情をさぐりながらヨンイルが続ける。
「ついさっき地下停留場で声かけられたんや、突然。俺にええ話があるって。リョウ、お前知っとるか?東京プリズンの図書館にあるブラックジャックにはピノコの姉の素顔でてきいひんのや。が、五十嵐がもっとる秋田文庫版にはピノコの姉の素顔がばっちり出てくるらしい。五十嵐はな、俺にその秋田文庫版をやる自分についてこいてそうぬかしよったんや。地下停留場の人ごみで手渡して万一なくしたら困るから人けのないところで取り引きをって……」
「ブラックジャックを餌に釣られたわけ?」
「早い話、そうやな」
ヨンイルは馬鹿だ。深刻な顔でなに話し込んでるんだと興味を覚えてついてきた僕も馬鹿みたい。まぎらわしいっちゃないよまったく、人騒がせな。脱力してよろけた僕は、「待てよ」と疑問を感じて踏み止まる。そうなると、五十嵐はブラックジャックを餌にヨンイルを裏通路におびきだしたことになる。現在地下停留場ではサーシャ対レイジの最終決戦が行われてて、観客の目はそっちにいってて、僕らを除いて人っ子ひとりいない裏通路はしんと静まり返っている。五十嵐は注意深く人目を避けて閑散とした裏通路にヨンイルを誘い込んで、そして……
引き金に指をかけた?
最初からヨンイルを殺すつもりで?
「……………っ、」
全身の毛穴が開いていやな汗が噴き出す。冷や汗。まさかそんな。信じられない。さっきから何度口の中で唱えただろう。けどもう誤魔化すのは無理だ、不可能だ、限界だ。目の前の現実がはっきりと物語ってるじゃないか。五十嵐はヨンイルに殺意を抱いてる。最初からヨンイルを殺すつもりで地下停留場で接触して、目撃者のいない裏通路へと言葉巧みに誘導した。
ヨンイルは図書室のヌシの異名をとるほどの漫画オタクで特に手塚治虫に傾倒してる。五十嵐が持ってるブラックジャックにピノコの姉の素顔が載ってると聞けばいてもたってもいられず、ほいほい尻軽についていってしまうのも十分ありえる。
「あ、ははははははは。でも、どうして?肝心の動機が全然わかんないんだけど」
そう、動機だ。それが最大の疑問。五十嵐がヨンイルに殺意を抱いてたなんて初めて知った。今までそんな素振りなんか少しも見せなかったのに、囚人に分け隔てなく親切に接して信頼を獲得してたのに、それ全部今この時のための伏線だったなんてそんなのアリ?
ヨンイルに怪しまれず近付いて殺すための周到な罠だったなんて……そんなオチ、アリなの?
「だってラッシーが殺したい人間て奥さんのはずでしょ。アル中でヒステリーで夫婦喧嘩のたんびに手当たり次第に物投げてラッシーを罵り倒す奥さんのはずでしょ。ラッシー、これまでも度々僕のところにクスリもらいにきたよね。よく効く睡眠薬をもらいにきたよね、寝つきのよくない奥さんのために。でも、ラッシーがどれだけ尽くしたところで奥さんとの仲はもう元通りにならなくて、それでずっと離婚しようかどうしようか悩んでたんじゃないの?僕にはわかるよ、ラッシーの気持ちが。すっごくよくわかる」
まったくのデタラメだけど。
心の中で舌をだし、情感たっぷりに頷いてみせる。五十嵐を刺激しないよう無防備に両手を広げて背後に歩み寄り、心の隙間に付け入るしんみりとした口調で続ける。
「辛かったねラッシー。奥さんのためによかれと思ってしたことが報われなくて腐るのは当然だよ。リカちゃん死んでつらいのは奥さんだけじゃないのに、ラッシーの気持ちなんかちっとも考えず当たり散らすばかりで……
でもラッシーは優しいから、離婚できなかったんだよね。浮気もできなかったんだよね。フィリピン生まれの奥さんを親類縁者がひとりもいない異国に放り出すなんて酷い仕打ちできなくて、ずっとずっと我慢してたんだよね」
悲劇の芝居に酔いながら、胸に手をあて大袈裟にかぶりを振る。
舌先三寸で詐欺を働くのは得意だ。人の弱みにつけこむのも。
とりあえず、ラッシーを懐柔して銃をしまわせなきゃ。裏通路で発砲騒ぎが起きたら好奇心から現場に居合わせた僕まで巻きこまれて最悪独居房送りになっちゃう。冗談じゃない、僕は無実で無関係だ。五十嵐がヨンイル殺したいならどっか他の場所でやってくれ、僕の目の届かない場所でずどんと片付けてくれ。勝手についてきたくせに無茶言ってる自覚はあるけど、五十嵐とヨンイルの睨み合いはひどく緊迫してて、僕の足は棒みたいに竦んで、今更後戻りもできない。
状況はよく飲み込めないけど、僕が五十嵐を説得するしかないみたい。
損な役回りだよまったく。
心の中で舌打ち、顔には慈愛に満ちた微笑を湛えて五十嵐の背後にたたずむ。今の僕はきっと、背中に翼を生やして祝福のラッパを吹き鳴らす天使みたいな笑顔でいることだろう。無垢に潤んだ上目遣いで五十嵐を仰ぎ、天に祈りを捧げるように胸の前で五指を組む。
「ラッシー、一生のおねがい。はやくその物騒なオモチャをしまって。僕、ラッシーが人を殺すところなんて見たくない。そんなことしたらきっと天国のリカちゃんも哀しむよ」
あえて娘の名前をだしたのは、五十嵐の親心に訴えかける効果を期待したから。僕の予想はまんまと当たり、五十嵐の指が引き金から外れ、腕がゆっくりと垂れ下がる。やったね、僕の勝利。指を弾いてほくそ笑みたくなるのを堪え、首をうなだれて立ち尽くす五十嵐へと救いの手をさしのべる。
「さあ、銃を返して。大丈夫だよ、心配いらな……」
脳裏で火花が散った。
頭蓋骨を揺さぶる衝撃、激痛。ぱっくり裂けた眉間から一筋、鼻梁に沿って生温かい液体が滴り落ちる。
「え?え??な……」
痛い。ちょっとこれマジ痛いよ、洒落にならない。おそるおそる顔に手をのばし、熱く脈打つ眉間を庇う。いつだったか、これと同じことがあった。ちょっとしたデジャヴュ。いつだったか、売春班帰りの鍵屋崎を通路で呼びとめて喧嘩売ったことがある。
『ヤられてるとき妹さんの顔思い浮かべた?』
反応は激烈だった。あの冷静沈着な鍵屋崎が僕の挑発にキレて、理性をかなぐり捨てて掴みかかってきたのだ。鍵屋崎に胸ぐら掴まれ押し倒される。
反転した視界に映る汚い天井、一瞬の浮遊感、床と激突した背中に衝撃。僕の顔面めがけ狂ったようにこぶしを振るう鍵屋崎の顔、眼鏡越しの双眸は憎悪にぎらついて狂気に呑みこまれて爛々と輝いて……
振り上げ振り下ろされるこぶしに飛び散る返り血。僕の血。
こぶしが顔面にめりこむたび額が裂けて口の中が切れて鼻血を噴いて、
『ヤられてるとき妹さんの顔思い浮かべた?』
あの時と同じだ。まったく同じだ。僕の眉間めがけて銃身を振り下ろした五十嵐の冷酷無比な顔、憎悪にぎらついて狂気に呑みこまれて爛々と輝く双眸。足が縺れ、よろめく。片方の肘が背後の壁に衝突し、そのまま壁に背中を預けるようにずり落ちて尻餅をつく。
壁際に力なくへたりこんだ僕を見下ろして、五十嵐が口を開く。
「知ったふうな口をきくな小僧。うざいんだよ」
感情の削げ落ちた平坦な口調。腰が抜けてすぐさま立てなかった。銃身で殴打された眉間がずきずき疼いた。おそるおそる眉間から手をどけて見下ろしてみれば、手のひらはべったり血で汚れていた。出血が多い。額の怪我は傷が浅くても出血が派手だとどこかで聞いたことがある、だから僕の怪我だって大したことはない……はずだ。はずだけど、痛い。はは、膝が笑っちゃってどうにも立てないや。壁に縋って上体を起こそうと何回何十回となく頑張ってみても、膝に力が入らずどうしても挫折しちゃう。
どうしようビバリー、どうしようママ。
だれか助けて。どうしよう怖いよ、滅茶苦茶怖いよ、だって五十嵐普通じゃないもん、僕の説得も全然通じなくて切れた額からは血が滴って服に染みて五十嵐は片手に銃を持って引き金に指をかけていつでも撃てる状態で!!
「あう、あう……」
舌が萎縮して口が上手く動かない。赤ん坊帰りしたみたいにあうあうと意味不明な発声をするばかり。あんまり異常な出来事が立て続けに起きておしっこ漏らしちゃいそうだ。おしっこちびるのなんて子供の頃ふざけ半分にロシアンルーレットされて以来だ。
立ちあがらなきゃ。逃げなきゃ一刻もはやくここから逃げなきゃ安全な場所に避難しなきゃ地下停留場に行って危険を知らせなきゃ!
五十嵐の様子はどう見たって普通じゃない。正気じゃない。今の五十嵐なら誰彼構わず手当たり次第に発砲しかねない。遠く歓声が聞こえる。通路のコンクリ壁に反響して僕らのもとに届く潮騒めいた歓声。会場の奴らは人の気も僕の気も知らずに浮かれ騒いで試合に夢中で、本当なら僕もあそこにいたはずなのに、ビバリーと一緒に試合見物してたはずなのに!
「リョウ、お前が言ったんだぞ。お前が俺の背中を押したんだぞ。殺したい奴がいるなら遠慮なく殺せ、そうしたところで誰も俺を責めない、俺は悪くない。俺がこいつに復讐するのは間違ってないってそう言ったんだぞ」
「ふく、しゅう?」
言ってないよそんなこと、ありもしないこと捏造するなよ。そりゃ僕はたしかに決勝前夜に五十嵐とばったり出くわして、ビバリーと喧嘩した憂さ晴らしにあることないこと吹き込んだ。調子にのりすぎたって認める、反省する。でも一言だって、五十嵐の復讐が正しいなんて肯定した覚えはない。そもそも復讐ってなにさ、五十嵐とヨンイルのあいだにどんな因縁があるって言うのさ。
血が流れこんだ片目を塞ぎ、床にぺたりと座りこんだ姿勢で物問いたげに五十嵐を見上げる。
僕の鼻先から銃口をどけ、体ごと振り返る。五十嵐の腕が上がり、再びヨンイルへと銃口が向く。
「リョウ、お前は勘違いしてたんだ。俺は一言だって殺したい相手が家内だなんて漏らしてない。俺が殺したい奴はまったくの別人で、お前がよく知る人間だ。図書室に行きゃ毎日会える愉快な道化だよ」
「あー……ちょっとええか?」
五十嵐の演説を遮ったのは銃口を向けられた当のヨンイル。遠慮がちに挙手したヨンイルが、自分に向けられる銃口の圧力などものともせずあっけらかんと言う。
「話をいちばん最初に戻すけど。あんたが秋田文庫版ブラックジャックもっとるっちゅーんのはデタラメで、俺をおびきだすための餌で」
「デタラメじゃねえ。秋田文庫版ブラックジャックはちゃんと持ってた。ピノコの姉の素顔もこの目で確認したぜ」
「ホンマか!?」
ゲンキンにもヨンイルの顔がぱっと輝く。五十嵐に掴みかからんばかりの剣幕で一歩を踏み出したヨンイルが、銃口など眼中にないかのように片手で跳ね除けて続ける。道化め、暴発が怖くないのかよ。あきれかえった僕の視線の先、興奮したヨンイルが身振り手振りをまじえて饒舌にまくしたてる。
「どやった感想はピノコの姉っちゅーくらいやからやっぱり顔似て美人、いやまって言わんといて、自分の目で確かめるから!!さあ早く約束のブツをこっちによこせよこさんかい、もう待ちきれへん、これ以上焦らされたら気が変になってまうさあ早く秋田文庫版ブラックジャックを!!」
完全に度を失い鼻息荒くしたヨンイルが五十嵐の肩を掴んで前後に揺さぶる。銃口もはげしくぶれる。もし五十嵐の指がうっかり滑って引き金を引いちゃったら……
「馬鹿っ、暴発したらどうすんだよ!流れ弾がとんできたら責任とれよ、てかヨンイル僕とラッシーのやりとり聞いてなかったのかよ、君ラッシーに命狙われてんだよ、銃口向けられて絶体絶命危機一髪のピンチなんだよ!?」
ヨンイルを取り押さえようと飛び出しかけた僕の眼前でそれは起きた。
「!あ、」
五十嵐がヨンイルのゴーグルをひったくる。ゴーグルを取り返そうと頭上に手を伸ばしたヨンイルに致命的な隙ができる。
五十嵐の目に殺意が奔騰、銃を持った腕がひるがえる。
ああ駄目だ、間に合わない。
絶望的な予感に苛まれて目を閉じた僕は、いつまでたっても銃声が聞こえないことを不審がって慎重に目を開ける。
予想外の光景があった。ヨンイルは撃たれてなかった。少なくとも、まだ。
ヨンイルの口に抉りこまれた銃口。
五十嵐が引き金を引けば、たちまちヨンイルの顔が爆発して血と肉片が周囲に飛び散る。
「ひとの話は最後まで聞けよ」
五十嵐の口元に笑みが浮かぶ。悪意を篭めたどす黒い笑み。グリップを支える手に力をこめて銃口をごり押し、鼻息荒く顔を近付ける。ヨンイルは口を全開にして銃筒の三分の一までを受け容れたが、どうしてもそれ以上は入らない。しかし五十嵐はかまわず、ヨンイルの顔が苦痛に歪むのを眺めつつ、鋼鉄の銃口で粘膜をひっかく。喉の奥深く達するまで銃口を突っ込み、首を仰け反らせたヨンイルが嘔吐の衝動に抗い目に涙を浮かべるさまを観察しつつ五十嵐は囁く。
「お前に言ったことは嘘じゃない。俺はたしかに秋田文庫版ブラックジャックを持っていた、その中にはピノコの姉の素顔もばっちり出ていた。でも、今は手元にない。どこにもない」
五十嵐の顔が泣き笑いに似た歪み方をする。
「あれはリカが集めた本だ。リカが小遣いで買い揃えた漫画だ。だからリカと一緒に燃やした」
ヨンイルの目が大きく剥かれる。口がきければ「なんちゅーことを!」と怒鳴り散らしてたかもしれない。だが実際には口一杯に銃を突っ込まれていたため声を発せず、非難がましくうめいただけ。ヨンイルから取り上げたゴーグルを頭上に掲げた五十嵐が、硬い銃身で口内の粘膜を削りながら、ヨンイルの耳元に口を近付ける。
「ヨンイル、まだわからないか。どうして俺がお前を階段から突き落としたのか、その理由が。わかるなら言ってみろよ、なあ。あててみろよ」
粘着質に囁いた五十嵐がヨンイルの口腔から銃を引き抜く。唾液の糸を引いて口腔から抜かれた銃をよそに、体を二つに折ってはげしく咳き込むヨンイル。手の甲で無造作に顎を拭い、五十嵐の表情を注意深く観察する。
僕は五十嵐の狂気に魅入られていた。これが本当にあの五十嵐だろうか、囚人に親切なことで知られる人望厚い看守だろうか。ヨンイルの口腔に銃を突っ込んでかき回せて呼吸困難にさせて、もがき苦しむさまを冷ややかに眺めていたコイツが本当に五十嵐と同一人物?
壁に背中を預け、床に両手をつき、愕然と目を見開いて五十嵐を凝視する。
ヨンイルが足元に唾を吐く。コンクリ床に吐き捨てた唾には血が滲んでいた。無理矢理銃を突っ込まれてかき回されたせいで口の中が切れたらしい。鉄錆びた後味に顔をしかめたヨンイルが、きっぱりと宣言する。
「知らんわ、あんたが俺を一方的に目の敵にする理由なんか。俺には心当たりも身に覚えもない。気に入らんことあるならはっきりそう言ってくれたらええんや、こんな回りくどい手え使う必要なんかどこにもない。ホンマ気分悪いわ。なんで俺があんたの誘いに乗ったと思う、それもこれもピノコの姉の素顔見たい一心で、秋田文庫版ブラックジャック読みたい一心やないか!図書室のヌシが漫画に賭ける情熱舐め腐りよって…ハートブレイクンや。漫画の神様手塚治虫の名を騙って道化をおびきだすなんて言語道断やで!」
ヨンイルは本気で腹を立てていた。アホここに極まれり。
自分の胸に人さし指をつきつけ、地団駄踏んで悔しがるヨンイルを前にスッと五十嵐の表情がなくなる。
「…………そうか。なら教えてやるよ、俺がおまえを殺したいほど憎む理由ってやつを」
虚無と絶望とが綯い交ぜとなった、底の見えない目。
「…………!」
どん、と鈍い音が鳴る。背後の壁に背中を叩き付けた僕は、ひきつけを起こしたように硬直し、ヨンイルと五十嵐とを素早く見比べる。五十嵐の横顔は良心の最後の一片までもが消し飛んだように冷ややかだった。ヨンイルの胸を銃口で突いて無理矢理顔を起こさせた五十嵐が、無表情に口を開き、命令する。
僕もヨンイルも予想だにしないことを。
「服を脱げ」
五十嵐は手に銃を握っていた。こないだビバリーが地下停留場で拾って僕の口利きで五十嵐から安田へと返されるはずだった銃。
なんで五十嵐が銃を持ってるの、もうとっくに安田に返されたものと信じて疑わなかったのに。何がどうなってるんだ一体、さっぱり理解力が追い付かず思考が空転して混乱の深みに嵌まる。
五十嵐が約束を破るなんてそんなまさか。僕は五十嵐を信頼してた。いや、信頼してたという言い方は変かもしれない。僕には友達なんか必要ないって今まで突っ張ってきたのに「信頼」なんて言葉簡単に使っちゃいけない。
他人を信じたら裏切られる、それが世界の鉄則。世間の常識。他人を信じたら馬鹿をみる、他人に心を許したら付け込まれる。弱みを見せるな弱音を吐くな、他人を信頼するな、利用しろ。
そうだ、僕はこれまでずっとそうやって生きてきた。
娑婆にいた頃も東京プリズンに来てからも他人を騙して陥れて賢くしたたかに生き抜いてきたんだ。僕には友達なんかいらない、必要ない。友達なんかいざって時邪魔になるだけだ、そんなうざったいもん要らない。絶体絶命の窮地を切り抜ける機転さえあれば足手まといでお荷物な友達なんか必要ない。
ビバリーだってそうだ。
お人よしでお節介で口うるさいパソコンオタク。同房の相棒。だから何?僕とビバリーはただそれだけのドライな関係だ。レイジとロン、サムライと鍵屋崎みたくべったり依存してるわけでも必要以上にひっついてるわけでもないさっぱりした関係なのだ。そりゃ僕もビバリーにちょっかいかけることもある、ビバリーのノーマルな反応や動揺ぶりが面白くて肩にしなだれかかって猫なで声で甘えたこともある。
けどそれだって、ビバリーが靡かない前提があるからこそ安心してちょっかいかけられるんだ。
ビバリーは何?
僕の何?
ただの同房者でそれ以上でも以下でもない、はずだ。じゃあなんで僕はこんなに落ちこんでるの、ビバリーがそばにいなくてこんなに不安なの?今この場所にビバリーがいてくれたらどれだけ心強いかなんて無意識にありもしないこと想像してるの、むなしい期待をかけてるの?今ここにいるのは僕と五十嵐の三人だけ、他の連中は地下停留場に殺到して試合に夢中になってる。今まさにサーシャ対レイジの死闘が行われてる地下停留場からは潮騒のような歓声が聞こえてくる。
数週間にわたり大々的に開催されたペア戦の締めくくり、北の皇帝サーシャと東の王様レイジの対決は今晩最大の目玉で、地下停留場にこぞって沸いてでた囚人たちは片時もリングから目を離さず試合に集中してる。まさか今この瞬間に、人けのない裏通路で別の対決が行われてるなんて夢にも思わず。
やれやれめでたいね、人の気も知らずに。
とりあえず、落ちつこう。状況を整理しよう、分析しよう。深呼吸で動悸をしずめた僕は、五十嵐の背中と正面のヨンイルとを見比べながらおずおず口を挟む。
愛想笑いは忘れずに。
「ねえ、これなんの冗談なわけ?決勝戦のトリ、レイジとサーシャの試合をほうっぽって看守と囚人がこんな裏通路でさ」
引き金にかけた指がぴたりと止まる。
安堵に胸撫で下ろした僕は、芝居がかった動作で両手を広げ、五十嵐の背に歩み寄る。
「ねえ五十嵐さん、どうしてヨンイルに銃口つきつけてるの?その銃、安田さんのだよね。僕がこないだ副所長に返しといてってお願いしたブツだよね」
「て、お前が持ってたんかい!」
ヨンイルが驚きあきれた顔をするのに肩を竦めて反論。
「人聞き悪いこと言わないでよ、濡れ衣だよ。銃を拾ったのは僕じゃなくて同房のビバリーさ。前々回だかのペア戦の翌日に地下停留場行って、バスが出た駐車場に銃が転がってるの偶然見つけて、こんな物騒なもん放ったらしてちゃまずいって懐に隠して持って帰ってきちゃったわけ。でも、房に持ち帰ったはいいけど後始末に困って僕に泣きついてきたから仕方なく……」
曖昧に言い淀んで五十嵐を一瞥する。僕は五十嵐を信頼していた。いや、信頼してたという言い方がおかしいなら信用していた。信じて頼ることはできなくても信じて用いることならできる看守だと評価していたのだ。けど五十嵐は僕を裏切った。どんな事情があるにせよ僕との約束を破り、今の今まで制服の懐に拳銃を隠し持っていたのは事実。
五十嵐は東京プリズンの良心だ。東西南北の垣根を超えて囚人に慕われる親切な看守。他の看守みたいに囚人をクズ扱いして殴る蹴るの暴行を働かず、親身になって相談に乗ってくれる頼れる大人。
その五十嵐が、囚人皆から慕われる五十嵐が何故ヨンイルに銃口を向けている?東京プリズンで人望を集める五十嵐がなにをとち狂ってヨンイルのどたまに銃口つきつけている?
目を疑う。驚愕。信じられない。
手足の先から冷えてゆくような感覚。戦慄。喉を鳴らし生唾を飲み込み、ヨンイルを振り仰ぐ。
「ヨンイル、君、なにかラッシーの気に障るようなこと言うかするかしたの?」
「はあ!?」
心外なといわんばかりに大仰に目を剥いてヨンイルが抗議の声をあげる。だってそれしか考えられない、五十嵐が囚人の眉間に銃口つきつけるなんて。五十嵐が今日まで誰にも内緒で銃を持ち歩いてた件に関してはとりあえず保留。おおかた仕事が忙しくて安田に会う暇なくて返し忘れてたとか、種明かしすれば「なあんだ」と肩透かし食うような内容のはず。五十嵐だって人間だ、物忘れもすればドジも踏む。弾をこめた銃をうっかり返し忘れてずるずる日が経っちゃうことも絶対ないとは言いきれない。
五十嵐がヨンイルに銃を向けたのは、「たまたま」かもしれない。
ヨンイルの無神経な言動に逆上した五十嵐が、たまたま懐にあった銃の存在を思い出して、衝動的に引き金に指をかけたのかもしれない。すべては偶然だ。不幸な事故だ。念入りに練りこまれた計画殺人であるわけがない。五十嵐がヨンイルを殺すために銃を返さずに持ち歩いてたなんて、そんな、まさか。
第一五十嵐にはヨンイルを殺す動機がない。五十嵐にとってヨンイルは、西の道化という特別な地位にあることを除けばその他大勢とおなじくただの囚人でしかない。
「だってそれしか考えらんないじゃん、ラッシーがこんなに怒るなんてさ。可哀想にラッシー、ヨンイルにひどいこと言われて傷付いたでしょ。なんて言われたの?奥さんと離婚秒読みだってからかわれたの、髪の毛にフケ浮いてるとかデリカシーのないこと言われたの?フケなんて気にすることないって、独り暮らしの中年男が一日や二日風呂入るの忘れたり頭洗いそびれるのはよくあること……」
「アホぬかせ」
ヨンイルが白けた顔をする。銃口をつきつけられているのに堂に入った態度だ。肩の位置に両手を挙げたヨンイルが僕から五十嵐へと視線を転じる。油断ない目つき。
「俺はただ、美味しい餌に釣られてコイツについてきただけや」
「美味しい餌?」
五十嵐の表情をさぐりながらヨンイルが続ける。
「ついさっき地下停留場で声かけられたんや、突然。俺にええ話があるって。リョウ、お前知っとるか?東京プリズンの図書館にあるブラックジャックにはピノコの姉の素顔でてきいひんのや。が、五十嵐がもっとる秋田文庫版にはピノコの姉の素顔がばっちり出てくるらしい。五十嵐はな、俺にその秋田文庫版をやる自分についてこいてそうぬかしよったんや。地下停留場の人ごみで手渡して万一なくしたら困るから人けのないところで取り引きをって……」
「ブラックジャックを餌に釣られたわけ?」
「早い話、そうやな」
ヨンイルは馬鹿だ。深刻な顔でなに話し込んでるんだと興味を覚えてついてきた僕も馬鹿みたい。まぎらわしいっちゃないよまったく、人騒がせな。脱力してよろけた僕は、「待てよ」と疑問を感じて踏み止まる。そうなると、五十嵐はブラックジャックを餌にヨンイルを裏通路におびきだしたことになる。現在地下停留場ではサーシャ対レイジの最終決戦が行われてて、観客の目はそっちにいってて、僕らを除いて人っ子ひとりいない裏通路はしんと静まり返っている。五十嵐は注意深く人目を避けて閑散とした裏通路にヨンイルを誘い込んで、そして……
引き金に指をかけた?
最初からヨンイルを殺すつもりで?
「……………っ、」
全身の毛穴が開いていやな汗が噴き出す。冷や汗。まさかそんな。信じられない。さっきから何度口の中で唱えただろう。けどもう誤魔化すのは無理だ、不可能だ、限界だ。目の前の現実がはっきりと物語ってるじゃないか。五十嵐はヨンイルに殺意を抱いてる。最初からヨンイルを殺すつもりで地下停留場で接触して、目撃者のいない裏通路へと言葉巧みに誘導した。
ヨンイルは図書室のヌシの異名をとるほどの漫画オタクで特に手塚治虫に傾倒してる。五十嵐が持ってるブラックジャックにピノコの姉の素顔が載ってると聞けばいてもたってもいられず、ほいほい尻軽についていってしまうのも十分ありえる。
「あ、ははははははは。でも、どうして?肝心の動機が全然わかんないんだけど」
そう、動機だ。それが最大の疑問。五十嵐がヨンイルに殺意を抱いてたなんて初めて知った。今までそんな素振りなんか少しも見せなかったのに、囚人に分け隔てなく親切に接して信頼を獲得してたのに、それ全部今この時のための伏線だったなんてそんなのアリ?
ヨンイルに怪しまれず近付いて殺すための周到な罠だったなんて……そんなオチ、アリなの?
「だってラッシーが殺したい人間て奥さんのはずでしょ。アル中でヒステリーで夫婦喧嘩のたんびに手当たり次第に物投げてラッシーを罵り倒す奥さんのはずでしょ。ラッシー、これまでも度々僕のところにクスリもらいにきたよね。よく効く睡眠薬をもらいにきたよね、寝つきのよくない奥さんのために。でも、ラッシーがどれだけ尽くしたところで奥さんとの仲はもう元通りにならなくて、それでずっと離婚しようかどうしようか悩んでたんじゃないの?僕にはわかるよ、ラッシーの気持ちが。すっごくよくわかる」
まったくのデタラメだけど。
心の中で舌をだし、情感たっぷりに頷いてみせる。五十嵐を刺激しないよう無防備に両手を広げて背後に歩み寄り、心の隙間に付け入るしんみりとした口調で続ける。
「辛かったねラッシー。奥さんのためによかれと思ってしたことが報われなくて腐るのは当然だよ。リカちゃん死んでつらいのは奥さんだけじゃないのに、ラッシーの気持ちなんかちっとも考えず当たり散らすばかりで……
でもラッシーは優しいから、離婚できなかったんだよね。浮気もできなかったんだよね。フィリピン生まれの奥さんを親類縁者がひとりもいない異国に放り出すなんて酷い仕打ちできなくて、ずっとずっと我慢してたんだよね」
悲劇の芝居に酔いながら、胸に手をあて大袈裟にかぶりを振る。
舌先三寸で詐欺を働くのは得意だ。人の弱みにつけこむのも。
とりあえず、ラッシーを懐柔して銃をしまわせなきゃ。裏通路で発砲騒ぎが起きたら好奇心から現場に居合わせた僕まで巻きこまれて最悪独居房送りになっちゃう。冗談じゃない、僕は無実で無関係だ。五十嵐がヨンイル殺したいならどっか他の場所でやってくれ、僕の目の届かない場所でずどんと片付けてくれ。勝手についてきたくせに無茶言ってる自覚はあるけど、五十嵐とヨンイルの睨み合いはひどく緊迫してて、僕の足は棒みたいに竦んで、今更後戻りもできない。
状況はよく飲み込めないけど、僕が五十嵐を説得するしかないみたい。
損な役回りだよまったく。
心の中で舌打ち、顔には慈愛に満ちた微笑を湛えて五十嵐の背後にたたずむ。今の僕はきっと、背中に翼を生やして祝福のラッパを吹き鳴らす天使みたいな笑顔でいることだろう。無垢に潤んだ上目遣いで五十嵐を仰ぎ、天に祈りを捧げるように胸の前で五指を組む。
「ラッシー、一生のおねがい。はやくその物騒なオモチャをしまって。僕、ラッシーが人を殺すところなんて見たくない。そんなことしたらきっと天国のリカちゃんも哀しむよ」
あえて娘の名前をだしたのは、五十嵐の親心に訴えかける効果を期待したから。僕の予想はまんまと当たり、五十嵐の指が引き金から外れ、腕がゆっくりと垂れ下がる。やったね、僕の勝利。指を弾いてほくそ笑みたくなるのを堪え、首をうなだれて立ち尽くす五十嵐へと救いの手をさしのべる。
「さあ、銃を返して。大丈夫だよ、心配いらな……」
脳裏で火花が散った。
頭蓋骨を揺さぶる衝撃、激痛。ぱっくり裂けた眉間から一筋、鼻梁に沿って生温かい液体が滴り落ちる。
「え?え??な……」
痛い。ちょっとこれマジ痛いよ、洒落にならない。おそるおそる顔に手をのばし、熱く脈打つ眉間を庇う。いつだったか、これと同じことがあった。ちょっとしたデジャヴュ。いつだったか、売春班帰りの鍵屋崎を通路で呼びとめて喧嘩売ったことがある。
『ヤられてるとき妹さんの顔思い浮かべた?』
反応は激烈だった。あの冷静沈着な鍵屋崎が僕の挑発にキレて、理性をかなぐり捨てて掴みかかってきたのだ。鍵屋崎に胸ぐら掴まれ押し倒される。
反転した視界に映る汚い天井、一瞬の浮遊感、床と激突した背中に衝撃。僕の顔面めがけ狂ったようにこぶしを振るう鍵屋崎の顔、眼鏡越しの双眸は憎悪にぎらついて狂気に呑みこまれて爛々と輝いて……
振り上げ振り下ろされるこぶしに飛び散る返り血。僕の血。
こぶしが顔面にめりこむたび額が裂けて口の中が切れて鼻血を噴いて、
『ヤられてるとき妹さんの顔思い浮かべた?』
あの時と同じだ。まったく同じだ。僕の眉間めがけて銃身を振り下ろした五十嵐の冷酷無比な顔、憎悪にぎらついて狂気に呑みこまれて爛々と輝く双眸。足が縺れ、よろめく。片方の肘が背後の壁に衝突し、そのまま壁に背中を預けるようにずり落ちて尻餅をつく。
壁際に力なくへたりこんだ僕を見下ろして、五十嵐が口を開く。
「知ったふうな口をきくな小僧。うざいんだよ」
感情の削げ落ちた平坦な口調。腰が抜けてすぐさま立てなかった。銃身で殴打された眉間がずきずき疼いた。おそるおそる眉間から手をどけて見下ろしてみれば、手のひらはべったり血で汚れていた。出血が多い。額の怪我は傷が浅くても出血が派手だとどこかで聞いたことがある、だから僕の怪我だって大したことはない……はずだ。はずだけど、痛い。はは、膝が笑っちゃってどうにも立てないや。壁に縋って上体を起こそうと何回何十回となく頑張ってみても、膝に力が入らずどうしても挫折しちゃう。
どうしようビバリー、どうしようママ。
だれか助けて。どうしよう怖いよ、滅茶苦茶怖いよ、だって五十嵐普通じゃないもん、僕の説得も全然通じなくて切れた額からは血が滴って服に染みて五十嵐は片手に銃を持って引き金に指をかけていつでも撃てる状態で!!
「あう、あう……」
舌が萎縮して口が上手く動かない。赤ん坊帰りしたみたいにあうあうと意味不明な発声をするばかり。あんまり異常な出来事が立て続けに起きておしっこ漏らしちゃいそうだ。おしっこちびるのなんて子供の頃ふざけ半分にロシアンルーレットされて以来だ。
立ちあがらなきゃ。逃げなきゃ一刻もはやくここから逃げなきゃ安全な場所に避難しなきゃ地下停留場に行って危険を知らせなきゃ!
五十嵐の様子はどう見たって普通じゃない。正気じゃない。今の五十嵐なら誰彼構わず手当たり次第に発砲しかねない。遠く歓声が聞こえる。通路のコンクリ壁に反響して僕らのもとに届く潮騒めいた歓声。会場の奴らは人の気も僕の気も知らずに浮かれ騒いで試合に夢中で、本当なら僕もあそこにいたはずなのに、ビバリーと一緒に試合見物してたはずなのに!
「リョウ、お前が言ったんだぞ。お前が俺の背中を押したんだぞ。殺したい奴がいるなら遠慮なく殺せ、そうしたところで誰も俺を責めない、俺は悪くない。俺がこいつに復讐するのは間違ってないってそう言ったんだぞ」
「ふく、しゅう?」
言ってないよそんなこと、ありもしないこと捏造するなよ。そりゃ僕はたしかに決勝前夜に五十嵐とばったり出くわして、ビバリーと喧嘩した憂さ晴らしにあることないこと吹き込んだ。調子にのりすぎたって認める、反省する。でも一言だって、五十嵐の復讐が正しいなんて肯定した覚えはない。そもそも復讐ってなにさ、五十嵐とヨンイルのあいだにどんな因縁があるって言うのさ。
血が流れこんだ片目を塞ぎ、床にぺたりと座りこんだ姿勢で物問いたげに五十嵐を見上げる。
僕の鼻先から銃口をどけ、体ごと振り返る。五十嵐の腕が上がり、再びヨンイルへと銃口が向く。
「リョウ、お前は勘違いしてたんだ。俺は一言だって殺したい相手が家内だなんて漏らしてない。俺が殺したい奴はまったくの別人で、お前がよく知る人間だ。図書室に行きゃ毎日会える愉快な道化だよ」
「あー……ちょっとええか?」
五十嵐の演説を遮ったのは銃口を向けられた当のヨンイル。遠慮がちに挙手したヨンイルが、自分に向けられる銃口の圧力などものともせずあっけらかんと言う。
「話をいちばん最初に戻すけど。あんたが秋田文庫版ブラックジャックもっとるっちゅーんのはデタラメで、俺をおびきだすための餌で」
「デタラメじゃねえ。秋田文庫版ブラックジャックはちゃんと持ってた。ピノコの姉の素顔もこの目で確認したぜ」
「ホンマか!?」
ゲンキンにもヨンイルの顔がぱっと輝く。五十嵐に掴みかからんばかりの剣幕で一歩を踏み出したヨンイルが、銃口など眼中にないかのように片手で跳ね除けて続ける。道化め、暴発が怖くないのかよ。あきれかえった僕の視線の先、興奮したヨンイルが身振り手振りをまじえて饒舌にまくしたてる。
「どやった感想はピノコの姉っちゅーくらいやからやっぱり顔似て美人、いやまって言わんといて、自分の目で確かめるから!!さあ早く約束のブツをこっちによこせよこさんかい、もう待ちきれへん、これ以上焦らされたら気が変になってまうさあ早く秋田文庫版ブラックジャックを!!」
完全に度を失い鼻息荒くしたヨンイルが五十嵐の肩を掴んで前後に揺さぶる。銃口もはげしくぶれる。もし五十嵐の指がうっかり滑って引き金を引いちゃったら……
「馬鹿っ、暴発したらどうすんだよ!流れ弾がとんできたら責任とれよ、てかヨンイル僕とラッシーのやりとり聞いてなかったのかよ、君ラッシーに命狙われてんだよ、銃口向けられて絶体絶命危機一髪のピンチなんだよ!?」
ヨンイルを取り押さえようと飛び出しかけた僕の眼前でそれは起きた。
「!あ、」
五十嵐がヨンイルのゴーグルをひったくる。ゴーグルを取り返そうと頭上に手を伸ばしたヨンイルに致命的な隙ができる。
五十嵐の目に殺意が奔騰、銃を持った腕がひるがえる。
ああ駄目だ、間に合わない。
絶望的な予感に苛まれて目を閉じた僕は、いつまでたっても銃声が聞こえないことを不審がって慎重に目を開ける。
予想外の光景があった。ヨンイルは撃たれてなかった。少なくとも、まだ。
ヨンイルの口に抉りこまれた銃口。
五十嵐が引き金を引けば、たちまちヨンイルの顔が爆発して血と肉片が周囲に飛び散る。
「ひとの話は最後まで聞けよ」
五十嵐の口元に笑みが浮かぶ。悪意を篭めたどす黒い笑み。グリップを支える手に力をこめて銃口をごり押し、鼻息荒く顔を近付ける。ヨンイルは口を全開にして銃筒の三分の一までを受け容れたが、どうしてもそれ以上は入らない。しかし五十嵐はかまわず、ヨンイルの顔が苦痛に歪むのを眺めつつ、鋼鉄の銃口で粘膜をひっかく。喉の奥深く達するまで銃口を突っ込み、首を仰け反らせたヨンイルが嘔吐の衝動に抗い目に涙を浮かべるさまを観察しつつ五十嵐は囁く。
「お前に言ったことは嘘じゃない。俺はたしかに秋田文庫版ブラックジャックを持っていた、その中にはピノコの姉の素顔もばっちり出ていた。でも、今は手元にない。どこにもない」
五十嵐の顔が泣き笑いに似た歪み方をする。
「あれはリカが集めた本だ。リカが小遣いで買い揃えた漫画だ。だからリカと一緒に燃やした」
ヨンイルの目が大きく剥かれる。口がきければ「なんちゅーことを!」と怒鳴り散らしてたかもしれない。だが実際には口一杯に銃を突っ込まれていたため声を発せず、非難がましくうめいただけ。ヨンイルから取り上げたゴーグルを頭上に掲げた五十嵐が、硬い銃身で口内の粘膜を削りながら、ヨンイルの耳元に口を近付ける。
「ヨンイル、まだわからないか。どうして俺がお前を階段から突き落としたのか、その理由が。わかるなら言ってみろよ、なあ。あててみろよ」
粘着質に囁いた五十嵐がヨンイルの口腔から銃を引き抜く。唾液の糸を引いて口腔から抜かれた銃をよそに、体を二つに折ってはげしく咳き込むヨンイル。手の甲で無造作に顎を拭い、五十嵐の表情を注意深く観察する。
僕は五十嵐の狂気に魅入られていた。これが本当にあの五十嵐だろうか、囚人に親切なことで知られる人望厚い看守だろうか。ヨンイルの口腔に銃を突っ込んでかき回せて呼吸困難にさせて、もがき苦しむさまを冷ややかに眺めていたコイツが本当に五十嵐と同一人物?
壁に背中を預け、床に両手をつき、愕然と目を見開いて五十嵐を凝視する。
ヨンイルが足元に唾を吐く。コンクリ床に吐き捨てた唾には血が滲んでいた。無理矢理銃を突っ込まれてかき回されたせいで口の中が切れたらしい。鉄錆びた後味に顔をしかめたヨンイルが、きっぱりと宣言する。
「知らんわ、あんたが俺を一方的に目の敵にする理由なんか。俺には心当たりも身に覚えもない。気に入らんことあるならはっきりそう言ってくれたらええんや、こんな回りくどい手え使う必要なんかどこにもない。ホンマ気分悪いわ。なんで俺があんたの誘いに乗ったと思う、それもこれもピノコの姉の素顔見たい一心で、秋田文庫版ブラックジャック読みたい一心やないか!図書室のヌシが漫画に賭ける情熱舐め腐りよって…ハートブレイクンや。漫画の神様手塚治虫の名を騙って道化をおびきだすなんて言語道断やで!」
ヨンイルは本気で腹を立てていた。アホここに極まれり。
自分の胸に人さし指をつきつけ、地団駄踏んで悔しがるヨンイルを前にスッと五十嵐の表情がなくなる。
「…………そうか。なら教えてやるよ、俺がおまえを殺したいほど憎む理由ってやつを」
虚無と絶望とが綯い交ぜとなった、底の見えない目。
「…………!」
どん、と鈍い音が鳴る。背後の壁に背中を叩き付けた僕は、ひきつけを起こしたように硬直し、ヨンイルと五十嵐とを素早く見比べる。五十嵐の横顔は良心の最後の一片までもが消し飛んだように冷ややかだった。ヨンイルの胸を銃口で突いて無理矢理顔を起こさせた五十嵐が、無表情に口を開き、命令する。
僕もヨンイルも予想だにしないことを。
「服を脱げ」
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