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三百十三話
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とうとう最終決戦がはじまった。
泣いても笑ってもこれが最後、本当の本当に最後の試合なのだ。
東京プリズンの命運を分ける一戦、俺たちの明日を決める一戦。
数週間にわたり開催された東京プリズン最大の娯楽行事、三度の飯より喧嘩が好きなガキどものストレス発散のために地下停留場で行われたルール無用の殺し合い……ペア戦。
極東の砂漠に存在する刑務所の地下で週末の夜毎催される人種も国籍も問わない壮絶無比な殺し合い。
無法地帯にして治外法権、日本の法律どころかどの国の法律だって及ばない砂漠のはての刑務所だからこそ許された血みどろの殺し合い。
東京プリズンでは毎日死者がでる。
危険が付き物の強制労働では事故やら何やらで人が死に、看守による行き過ぎた体罰やら囚人によるリンチやらで人が死ぬ。砂漠に掘られた穴はそのまま熱中症でぶっ倒れた囚人を埋める墓穴になる。処理班の仕事は尽きない。
さらに付け加えるなら東京プリズンの衛生環境は劣悪で、水道水をがぶ呑みした囚人や食事にあたった囚人が食中毒を起こしてぽっくり逝っちまうのは日常茶飯事。処理班の仕事は尽きない。
東京プリズンでは死が日常化してる。死が常に身近にある。
いつだれがどこでどんな死に方をしても不思議じゃない、いつだれが脱落してもおかしくない。
だが、俺が今挙げた奴らは何も好きで死を選んだわけじゃない。なかには東京プリズンの狂気にあてられて首を吊っちまう奴もいるが、大半の人間は自分から死を選んだわけじゃなく強制的に選ばされたのだ。
唯一の例外が、自ら名乗りを挙げてブラックワークに出場するガキども。
奴らは死にたがりだ。命賭けで生き残りを賭けた殺し合いに挑んで何が得られるのか俺にはさっぱり理解できない。
対戦相手をぶちのめした爽快感とかぶち殺した熱狂とか、俺にはさっぱり理解できないものに酔わされてるんだろう。
そういう奴らの目は完璧イッちまってる。爛々と狂気ばしった目。闇の中で輝く血に飢えたけだものの目。
正気の沙汰じゃない。狂ってる。いかれてる。戦慄の眼光。
そして今、サーシャと対峙したレイジの目もまた同じだった。完璧イッちまった目。爛々と狂気ばしった目。闇の中で輝く血に飢えたけだものの目。
いつも通り軽薄な言動で他の連中の目はごまかせてもおれの目はごまかせない、東京プリズン入所以来ずっとレイジの隣でレイジを見てきた俺の目だけはごまかしきれない。
「そうだ、大事なこと忘れてた」
「俺としたことがドジったぜ」とぼやきながらサーシャへと片腕をさしだすレイジに満場の注目が集まる。何の真似だ?心臓が跳ねあがる。
もうゴングは鳴っている、試合が始まって十秒が経過する。
東京プリズンの歴史に残る最終決戦の火蓋が切って落とされたというのに、レイジは余裕の表情を崩さず、ナイフを持ったのとは逆の手をなれなれしくサーシャにさしだしたではないか。
「……この私に『お手』でもしろと?」
サーシャの眉間に不快な皺が寄る。肩に流した髪が瘴気を噴き上げる白蛇に似て逆立つ怒りに駆られ、剣呑に目を細めたサーシャにもレイジは物怖じせず、悪びれたふうなくしれっと言ってのける。
「握手だよ握手。互いの健闘を祈ってな」
「あの馬鹿、余裕ぶっこくのもいい加減にしろ!!」
レイジの笑顔に感情が急沸騰した俺は、こぶしで金網を殴り付けて叫んでいた。金網を殴り付けた拍子に肋骨に激痛が走り、胸を押さえて蹲る羽目になった俺を鍵屋崎があきれ顔で見下ろす。
「ゴングが鳴ってから握手なんて順番逆じゃねえか、敵に隙見せてどうするよ?」
しかも相手はサーシャだ。
握手を求めて片腕さしだしたらぐさりとやられるに決まってる。
「まったく同感だ。一応訊くが、起てるか?」
「起てるよ!」
くそ、むかつく。鍵屋崎の足元には金網に背中を立て掛けたサムライが座りこみ、気難しげに腕組みして試合の様子を見守っている。眉間に深い縦皺を刻んだしかつめらしい顔には声をかけるのをためらわせる雰囲気がある。
近寄り難い沈黙。
唇を一文字に引き結び、ただらぬ気迫をこめた真剣な面持ちでリングを凝視するサムライから視線をひっぺがし、レイジの背中を睨みつける。
「あいつまさか俺の前だからって恰好つけてるのかよ。呑気に握手なんかしてる場合じゃねえだろ、わかってんのかよ、最終決戦なんだぞ。泣いても笑ってもこれが最後の試合なんだぞ!?」
そうだ、これが本当の本当に最後の試合なんだ。今まで俺たちがやってきたことの総仕上げ。レイジがサーシャを倒せばその瞬間に俺たちの勝利が確定して100人抜きの偉業達成、売春班をぶっ潰すことができる。そしたら俺と鍵屋崎はもう売春班に戻らなくてすむ、また大手を振って表を歩けるようになる。
けど、もしレイジが負けたら?
サーシャに殺されちまったら?
ありえない話じゃない。そりゃあレイジは滅茶苦茶強い。ブラックワーク無敗の伝説を打ちたてた無敵を誇る東棟の王様だ。
けど、今のレイジは万全の状態じゃない。片腕を怪我して、一週間も独居房行きを食らって、今晩独居房から出された足でろくな休息も挟まずリングに上がったんだから体はボロボロの状態のはず。
レイジが今こうして立ってるのだって奇跡に近いのだ。俺はレイジに勝ってほしい。レイジに生き残ってほしい。勿論売春班に戻りたくないからでもある。でもそれより何より俺はレイジを失うのが怖いのだ、俺の隣からレイジがいなくなるのが怖いのだ。
もう二度とレイジの笑顔を見れなくなるのが怖くて怖くてたまらないのだ。
レイジはいつも俺の隣で能天気に笑っていた。
悩み事なんか一個もない平和なツラで、自分が抱えた暗闇なんかこれっぽっちも見せずに、ただ俺を安心させようと笑っていた。ずっとずっとそうやって笑ってくれていた。俺は自分では気付かずレイジの笑顔からいつも元気を貰ってた。希望を分けてもらってた。
俺はいつもレイジの笑顔に守られてた。レイジの笑顔に救われていた。
レイジは俺の心の支えだった。
大丈夫、レイジはきっと勝つ。俺はレイジの勝利を信じてる。そう自分に言い聞かせながらも、悶々とこみあげてくる不安をごまかしきれない。
レイジの勝利を信じるふりをしながら無事を祈るふりをしながら、医務室での別れ際に兆した不吉な予感を拭えずにいる。
レイジの相手はサーシャだ。
蛇のように執念深くレイジを付け狙う北の皇帝。レイジを王座から引きずりおろして自分こそが東京プリズンの頂点に君臨するという野望を抱く男。
サーシャは試合にかこつけて、本気でレイジを抹殺にかかる。
邪魔なレイジを消しにかかる。
レイジを倒せばサーシャが東京プリズンの頂点に立てる。そうして東京プリズンには狂える皇帝が支配する暗黒の時代が訪れる。反逆者は軒並み処刑される独裁政権のはじまり。サーシャの天下の幕開け。
これはもう俺たちだけの問題じゃない。東京プリズンの命運をも左右する重要な試合なのだ。
「くだらない」
「俺は礼節を重んじる王様なんだよ」
唇を歪めて吐き捨てたサーシャに、おどけたふうに肩を竦めるレイジ。気を悪くした様子はない。握手を求めてさしだした手を引っ込める気配もなくにこにこと笑いかけている。
ここで意外なことが起きた。
満場の観衆が目を疑う。逡巡の末、ナイフを構えた腕をさげたサーシャが一歩二歩とレイジに歩み寄り、もう片方の手をさしだして握手に応じようとする。まさか。信じられない。犬猿の仲で知られる皇帝と王の握手が実現するなんて夢でも見てるんじゃないだろうか?実際、目に映る光景が信じられない数人の囚人が自分の頬をつねって悲鳴をあげている。
鍵屋崎は不審げに目を細めていたし、サムライの眼光は抜かりなく鋭かった。俺はあ然としていた。間抜けに口を開けて、レイジとサーシャが握手する決定的瞬間に見入っていた。
レイジとサーシャの距離がまた一歩狭まり、握手が交わされ……
「下賎な雑種めが、皇帝の気高き御手に触れられるとでも思ったのか」
サーシャの双眸で火花が弾ける。
背筋を悪寒が駆け下りた。
―「危ねえ!!」―
魔性に魅入られたようにサーシャの表情が邪悪に歪む。
金網を両手で揺さぶりレイジに危機を知らせようとした俺の眼前で、それは起きた。サーシャの腕が高々と振り上げられ、ナイフの切っ先が照明を反射して燦然と輝き、鋭利な銀光が矢のように目を射る。
やっぱり芝居だったのか、握手すると見せかけてレイジに先制攻撃を仕掛けるつもりだったのか!くそ、レイジの馬鹿アホ間抜け!こんな肝心な時に握手なんて余裕ぶっこいてるから……
「さらばだ東の王よ」
死刑宣告と同時にサーシャの腕が振り下ろされる。
「っ!」
反射的に目を閉じる。俺にはレイジの頚動脈が切り裂かれて爆発的な勢いで血が噴き出す幻覚さえ見えた。だが、実際は違った。レイジの頚動脈が切り裂かれることもなければ俺のもとまで血飛沫がとんでくることもなく、東の王の壮絶な最期を目撃した観衆がどよめく気配もない。
かわりに耳に押し寄せたのは、熱狂の歓声。
おそるおそる瞼をこじ開けてみた俺は、今度こそ絶句する。
リングに片膝ついたレイジが顔前にナイフを翳し、サーシャの先制攻撃を受けていた。
「相変わらずせっかちだな、サーシャ。気が短えのはベッドの上でもリングでも変わらないってか」
ナイフの反射光で顔を隈取ったレイジが不敵に笑う。
力と力が拮抗し、ナイフとナイフが軋る。
「俺、一応お前のこと立ててやったんだぜ。何千何万のファンが見てる前で誇り高い皇帝サマに恥かかせちゃ可哀想だろ。ここはひとつ大人な態度で握手交わして、固唾を飲んでこっち見てるファンに度量の広さアピールさせてやろうって王様の心遣いがわかんねーかな」
「要らぬ配慮だな」
ため息まじりにかぶりを振るレイジに返された声は、大気を白く曇らせるほどに凍えていた。片腕の膂力でナイフを押しこみながら眼光をぶつけあうレイジとサーシャ。ふとサーシャの笑顔が歪み、瀕死の獲物をいたぶる蛇のごとく陰湿な悪意が双眸にこもる。
「私の度量の広さは他でもないお前がいちばんよく知っているではないか。躾の悪いお前が私の背中に爪を立てた時、私が折檻したか?寛容に見逃してやったではないか」
レイジの双眸に険が宿り、笑顔が凄味を増す。サーシャと寝たことはレイジにとって触れられたくない話題だった。忘れてしまいたい過去だった。
俺だって聞きたくなかった。サーシャに抱かれたレイジがその背中に爪を立てただなんて、爪痕を残すほどに激しく抱かれたなんて知りたくなかった。耳を塞いで知らないふりをしてしまいたかった。
「……サーシャ、お前は大きな勘違いをしてるぜ」
レイジがいっそ気だるげに、ゆっくりと口を開く。説明するのも面倒くさそうな口調だった。顔前に翳したナイフで殺意の波動を受け止め、床についていた膝を慎重に起こす。
金属の刃と刃が掠れ合う耳障りな軋り音。
刃に乗せられて叩きつけられた殺意の波動を余裕の表情で受け流しつつ上体を起こしたレイジが、嘲弄の光を目に宿す。
「あれは『わざと』だよ。お前の抱き方が乱暴で腹立ったから仕返しに、な。ちょっとしたお茶目ってやつだ。自分のテクを過信してたんならお生憎さま。自分が気持ちよくなることしか考えてねえ自己中な抱き方で俺を満足させられるとでも思ったのかよ、早漏が」
サーシャが咆哮した。
カキンと音が鳴り、火花を散らしてナイフが放れる。
それまで一触即発の気迫でせめぎあっていたナイフとナイフが激突、高音域の軋り音を奏でて切り結ぶ。肉眼ではとらえられない苛烈な接戦。動体視力の限界に迫る敏捷さでサーシャの腕がひるがえりナイフが半弧を描く。
足腰の強靭なバネを駆使して瞬時に飛び退くレイジ。殺意の波動を全開で叩き付けたサーシャがレイジめがけて凄まじい剣幕で猛進。大気をびりびり震わす獣じみた咆哮を撒き散らして大股に突き進み、片手のナイフを振るう。
縦横無尽に虚空を切り裂き交差する銀の残像。
あまりに速すぎて動体視力が追いつかない。
「微塵の肉片に変えてやるぞ、千々に切り刻んで跡形もなくしてやるぞ!!」
「へえ、やれるもんならやってみろよ!」
レイジは楽しそうだった。心の底から楽しそうに哄笑していた。鬼気迫る笑顔。獲物の喉笛に食らいつきごっそり噛み千切る猛獣の笑顔。
野生の豹を手懐けることなどだれにもできないと絶望させる笑顔だった。
笑顔に凄味を増したレイジが素早く後退してサーシャから距離をとる。
ナイフをパートナーにダンスを踊るような足取り。優雅で華麗なステップ。足を縺れさせるような間抜けな真似はせず、背中に目でもついてるかのように後ろに跳躍したレイジがナイフを引き寄せて鋭い呼気を吐き、あざやかに反撃に転じる。
レイジが狙い定めたのはサーシャの脇腹、腎臓の位置。
「がらあきだぜ!」
「罠に決まっているだろう!!」
サーシャが狂喜する。肩に流した銀髪が千匹の蛇のように波打つ。無防備な脇腹に狙い定めて一直線に突き込まれたナイフが、甲高い音をたてて弾かれる。片足を一歩踏み出した前傾姿勢をとり、釣り込まれるように手首を突き出すのを読んだサーシャが即座にナイフを振り下ろしたのだ。
「!」
ガシャン、と金網が傾ぐ。
汗ばんだ手で金網を握りしめた俺の視線の先、身を乗り出したレイジの手首から鮮血が噴き出したと思ったのは錯覚で、実際にはその寸前にレイジは手を引っ込めていた。危なかった。あと0.1秒でも反応が遅れていればレイジの手首にはぱっくりと口が開いていた。
心臓に悪い。
安堵の息を漏らして金網に体を預けた俺の隣で、鍵屋崎が冷静に呟く。
「……これまでの試合が遊びに見えるな」
鍵屋崎の物腰は落ち着いていたが、こめかみを流れ落ちる一筋の冷や汗までは隠せない。
鍵屋崎の言いたいことはよくわかった。俺と凱、鍵屋崎とヨンイルの試合とは迫力が比べ物にならない。なにせ今リングで戦ってるふたりは生え抜きの暗殺者なのだ。外では当たり前に人殺しを生業にしてきたのだ。
レイジは人殺しに躊躇しない。サーシャは人殺しに逡巡しない。
物心つくかつかないかの子供の頃から呼吸するように人を殺してきたサーシャとレイジが死力を尽くしてたがいの命を奪いあう光景は壮絶を極めた。
油断も隙もない獣の眼光。リング上で交錯する二匹の獣。
レイジは恐ろしくナイフの扱いに長けていた。ナイフはぴったりとレイジの手に馴染んでレイジの意志通りに動いた。
ひるがえり泳ぎ踊るナイフ。
鮮烈な軌跡を描く銀光。
片腕を怪我したハンデなど殆ど感じさせない俊敏な身のこなし。
レイジの耳朶をナイフが掠める。鋭い擦過音。
しかし、あたらない。レイジはナイフに身を晒して平然としてる。恐怖心を捨て去ったかのように余裕綽々と構えている。サーシャの焦りが募り、攻撃が加速する。サーシャの腕が鞭のように撓り、残像を曳いたナイフが正確にレイジの心臓を狙う。刺突。サーシャの腕がまっすぐに伸びきり、手の先に握られたナイフがぎらつく。
「レイジ!!」
喉振り絞り叫ぶ。
どよめき。
大方の予想とは裏腹にレイジは無事だった。憎たらしいほどぴんぴんしていた。
「無茶にも程があるぜ、王様……」
腰砕けにへたりこみそうになった。
「さっすが、ロシアの殺し屋は筋がいい」
冷や汗ひとつかかずにレイジが口笛を吹く。レイジの心臓めがけて突きこまれたナイフは、レイジが寸前に蹴り上げた片足により阻まれていた。正確には、レイジが履いたスニーカーによって。
王様はとんでもない無茶をやらかす。もし片足を蹴り上げるのが一瞬でも遅れていれば、いや、スニーカーの側面を貫通したナイフが足を刻んでいたら……想像しただけで眩暈を覚える。
薄っぺらいゴム底を貫通してスニーカーの側面を突き破ったナイフに一瞥くれ、レイジが悪戯っぽく微笑む。
「サーシャ、俺が前に言ったこと覚えてるか?」
「なんのことだ?」
サーシャが不機嫌に問い返す。ゆっくりと片足を引っ込めてナイフを抜いたレイジが淡々と続ける。
「監視塔でやりあったときに言ったろ。『お前はアマチュアで俺はプロだ。だからお前は俺に勝てない』って」
そういえばたしかにそんなことを言っていた。監視塔でサーシャとナイフを交えたレイジがあざやかに勝ちを決めて言い放った言葉。
「どういう意味だか知りたくないか」
レイジがキスを迫るようにサーシャに顔を近付ける。レイジのスニーカーからナイフを引き抜いたサーシャが眉間に皺を刻む。
サーシャが不審がる気持ちもわかる。サーシャはアマチュアで自分はプロ。レイジは平然とそう言ってのけたが、サーシャもかつてはロシアンマフィアの父親の命令で暗殺を請け負ってきたのだ。
暗殺を生業にしてきたという点ではレイジとおなじプロだろうに。
「お前はサーカスで育った。ガキの頃からナイフ投げの見世物で食い扶持稼いできた。そこが俺とお前の違い。お前のナイフ投げは所詮サーカスの客を楽しませるための子供だましの芸の域をでてない。お前だって何も最初から人殺しの技術を仕込まれたわけじゃない、最初は全然そんなつもりなかったはずだ。だろ?違うか?」
サーシャの顔色が青ざめる。
レイジはあっけらかんと続ける。
「俺はそうじゃなかったんだ。俺が物心ついた時から仕込まれてきたのは単純に人を殺す技術。人を喜ばす必要なんてない、楽しませる必要なんかこれっぽっちもない、人を殺すためだけの。そこが俺とお前の違い。お前は途中から人殺しになったけど、俺は最初から人殺しだった。効率よく人を殺すためだけに技を磨いて身に付けた」
レイジの笑顔に狂気渦巻く深淵が開く。
「途中で人殺しに転身したお前が、生まれつきの人殺しにかなうわけないんだよ」
二の腕に鳥肌が立った。
「でもまあ、サーカス仕込みの曲芸のわりにはなかなかイケてたぜ。健闘に敬意を表してアマチュアからセミプロに格上げしてやってもいい……」
二の腕が鳥肌立ったのは、レイジの笑顔に気を呑まれたからじゃない。サーシャの眼光に圧倒されたから。サーシャと目が合ったから。
地獄のような目だった。
レイジの言葉を遮るようにサーシャが腕を振りかぶり、ナイフを投げ放つ。サーシャが宙に投擲したナイフが一直線に向かう先にいたのは……俺。
「「ロン!」」
サムライと鍵屋崎の声が重なる。逃げようとした。でも、足が竦んで一歩も動けなかった。金縛り。視線の先でレイジが慌てて駆け出し、サーシャに背中を向ける。あの馬鹿、こんな大事な時に敵に背中を向けてどうする?それこそ襲ってくださいと言ってるようなもんだろ。
笑顔を引っ込めたレイジが何かを叫んで全力疾走する。あの距離から間に合うわけない。サーシャの奴、正気か?場外の人間を攻撃したら即失格なのに……
ガシャン、と金網が鳴った。
慄然と立ち竦んだ俺の目と鼻の先でナイフが止まった。柄の部分がひし形の網目に嵌まりこんだのだ。助かった、と安堵したのも束の間。
俺は気付いてしまった。サーシャの策略に。
「レイジ、後ろだ!」
転げるように駆けて来るレイジに叫ぶが、遅い。俺の無事を確認したレイジの顔が安堵に溶け崩れる。畜生、腑抜けたツラしやがって。リングでよそ見なんかしてんじゃねえよ。サーシャはレイジの行動を全部読んでいた。俺めがけてナイフを投げたらレイジが血相変えて駆け出すに違いないと踏んで、距離的に間に合わなくても俺を助けようとしゃにむに走り出すに違いないと踏んで、レイジの注意を逸らして隙を導くために………。
レイジはまんまとサーシャの罠にひっかかった。
窮地に陥った俺を放っとけずに、自分がおかれたのっぴきならぬ状況も度忘れして、敵に背中を曝け出すという致命的なミスを犯した。
金網に挟まったナイフと俺の顔とを見比べて胸を撫で下ろしたレイジの背後に影がさす。
サーシャが持ってるナイフは一本じゃない。
レイジが振り向いた時には、既に遅く。
「無様だな」
サーシャが振り上げたナイフがレイジの片腕を容赦なく切り裂き、包帯が宙に泳ぐ。
サーシャが切り裂いたのは、レイジが怪我したほうの腕だった。
泣いても笑ってもこれが最後、本当の本当に最後の試合なのだ。
東京プリズンの命運を分ける一戦、俺たちの明日を決める一戦。
数週間にわたり開催された東京プリズン最大の娯楽行事、三度の飯より喧嘩が好きなガキどものストレス発散のために地下停留場で行われたルール無用の殺し合い……ペア戦。
極東の砂漠に存在する刑務所の地下で週末の夜毎催される人種も国籍も問わない壮絶無比な殺し合い。
無法地帯にして治外法権、日本の法律どころかどの国の法律だって及ばない砂漠のはての刑務所だからこそ許された血みどろの殺し合い。
東京プリズンでは毎日死者がでる。
危険が付き物の強制労働では事故やら何やらで人が死に、看守による行き過ぎた体罰やら囚人によるリンチやらで人が死ぬ。砂漠に掘られた穴はそのまま熱中症でぶっ倒れた囚人を埋める墓穴になる。処理班の仕事は尽きない。
さらに付け加えるなら東京プリズンの衛生環境は劣悪で、水道水をがぶ呑みした囚人や食事にあたった囚人が食中毒を起こしてぽっくり逝っちまうのは日常茶飯事。処理班の仕事は尽きない。
東京プリズンでは死が日常化してる。死が常に身近にある。
いつだれがどこでどんな死に方をしても不思議じゃない、いつだれが脱落してもおかしくない。
だが、俺が今挙げた奴らは何も好きで死を選んだわけじゃない。なかには東京プリズンの狂気にあてられて首を吊っちまう奴もいるが、大半の人間は自分から死を選んだわけじゃなく強制的に選ばされたのだ。
唯一の例外が、自ら名乗りを挙げてブラックワークに出場するガキども。
奴らは死にたがりだ。命賭けで生き残りを賭けた殺し合いに挑んで何が得られるのか俺にはさっぱり理解できない。
対戦相手をぶちのめした爽快感とかぶち殺した熱狂とか、俺にはさっぱり理解できないものに酔わされてるんだろう。
そういう奴らの目は完璧イッちまってる。爛々と狂気ばしった目。闇の中で輝く血に飢えたけだものの目。
正気の沙汰じゃない。狂ってる。いかれてる。戦慄の眼光。
そして今、サーシャと対峙したレイジの目もまた同じだった。完璧イッちまった目。爛々と狂気ばしった目。闇の中で輝く血に飢えたけだものの目。
いつも通り軽薄な言動で他の連中の目はごまかせてもおれの目はごまかせない、東京プリズン入所以来ずっとレイジの隣でレイジを見てきた俺の目だけはごまかしきれない。
「そうだ、大事なこと忘れてた」
「俺としたことがドジったぜ」とぼやきながらサーシャへと片腕をさしだすレイジに満場の注目が集まる。何の真似だ?心臓が跳ねあがる。
もうゴングは鳴っている、試合が始まって十秒が経過する。
東京プリズンの歴史に残る最終決戦の火蓋が切って落とされたというのに、レイジは余裕の表情を崩さず、ナイフを持ったのとは逆の手をなれなれしくサーシャにさしだしたではないか。
「……この私に『お手』でもしろと?」
サーシャの眉間に不快な皺が寄る。肩に流した髪が瘴気を噴き上げる白蛇に似て逆立つ怒りに駆られ、剣呑に目を細めたサーシャにもレイジは物怖じせず、悪びれたふうなくしれっと言ってのける。
「握手だよ握手。互いの健闘を祈ってな」
「あの馬鹿、余裕ぶっこくのもいい加減にしろ!!」
レイジの笑顔に感情が急沸騰した俺は、こぶしで金網を殴り付けて叫んでいた。金網を殴り付けた拍子に肋骨に激痛が走り、胸を押さえて蹲る羽目になった俺を鍵屋崎があきれ顔で見下ろす。
「ゴングが鳴ってから握手なんて順番逆じゃねえか、敵に隙見せてどうするよ?」
しかも相手はサーシャだ。
握手を求めて片腕さしだしたらぐさりとやられるに決まってる。
「まったく同感だ。一応訊くが、起てるか?」
「起てるよ!」
くそ、むかつく。鍵屋崎の足元には金網に背中を立て掛けたサムライが座りこみ、気難しげに腕組みして試合の様子を見守っている。眉間に深い縦皺を刻んだしかつめらしい顔には声をかけるのをためらわせる雰囲気がある。
近寄り難い沈黙。
唇を一文字に引き結び、ただらぬ気迫をこめた真剣な面持ちでリングを凝視するサムライから視線をひっぺがし、レイジの背中を睨みつける。
「あいつまさか俺の前だからって恰好つけてるのかよ。呑気に握手なんかしてる場合じゃねえだろ、わかってんのかよ、最終決戦なんだぞ。泣いても笑ってもこれが最後の試合なんだぞ!?」
そうだ、これが本当の本当に最後の試合なんだ。今まで俺たちがやってきたことの総仕上げ。レイジがサーシャを倒せばその瞬間に俺たちの勝利が確定して100人抜きの偉業達成、売春班をぶっ潰すことができる。そしたら俺と鍵屋崎はもう売春班に戻らなくてすむ、また大手を振って表を歩けるようになる。
けど、もしレイジが負けたら?
サーシャに殺されちまったら?
ありえない話じゃない。そりゃあレイジは滅茶苦茶強い。ブラックワーク無敗の伝説を打ちたてた無敵を誇る東棟の王様だ。
けど、今のレイジは万全の状態じゃない。片腕を怪我して、一週間も独居房行きを食らって、今晩独居房から出された足でろくな休息も挟まずリングに上がったんだから体はボロボロの状態のはず。
レイジが今こうして立ってるのだって奇跡に近いのだ。俺はレイジに勝ってほしい。レイジに生き残ってほしい。勿論売春班に戻りたくないからでもある。でもそれより何より俺はレイジを失うのが怖いのだ、俺の隣からレイジがいなくなるのが怖いのだ。
もう二度とレイジの笑顔を見れなくなるのが怖くて怖くてたまらないのだ。
レイジはいつも俺の隣で能天気に笑っていた。
悩み事なんか一個もない平和なツラで、自分が抱えた暗闇なんかこれっぽっちも見せずに、ただ俺を安心させようと笑っていた。ずっとずっとそうやって笑ってくれていた。俺は自分では気付かずレイジの笑顔からいつも元気を貰ってた。希望を分けてもらってた。
俺はいつもレイジの笑顔に守られてた。レイジの笑顔に救われていた。
レイジは俺の心の支えだった。
大丈夫、レイジはきっと勝つ。俺はレイジの勝利を信じてる。そう自分に言い聞かせながらも、悶々とこみあげてくる不安をごまかしきれない。
レイジの勝利を信じるふりをしながら無事を祈るふりをしながら、医務室での別れ際に兆した不吉な予感を拭えずにいる。
レイジの相手はサーシャだ。
蛇のように執念深くレイジを付け狙う北の皇帝。レイジを王座から引きずりおろして自分こそが東京プリズンの頂点に君臨するという野望を抱く男。
サーシャは試合にかこつけて、本気でレイジを抹殺にかかる。
邪魔なレイジを消しにかかる。
レイジを倒せばサーシャが東京プリズンの頂点に立てる。そうして東京プリズンには狂える皇帝が支配する暗黒の時代が訪れる。反逆者は軒並み処刑される独裁政権のはじまり。サーシャの天下の幕開け。
これはもう俺たちだけの問題じゃない。東京プリズンの命運をも左右する重要な試合なのだ。
「くだらない」
「俺は礼節を重んじる王様なんだよ」
唇を歪めて吐き捨てたサーシャに、おどけたふうに肩を竦めるレイジ。気を悪くした様子はない。握手を求めてさしだした手を引っ込める気配もなくにこにこと笑いかけている。
ここで意外なことが起きた。
満場の観衆が目を疑う。逡巡の末、ナイフを構えた腕をさげたサーシャが一歩二歩とレイジに歩み寄り、もう片方の手をさしだして握手に応じようとする。まさか。信じられない。犬猿の仲で知られる皇帝と王の握手が実現するなんて夢でも見てるんじゃないだろうか?実際、目に映る光景が信じられない数人の囚人が自分の頬をつねって悲鳴をあげている。
鍵屋崎は不審げに目を細めていたし、サムライの眼光は抜かりなく鋭かった。俺はあ然としていた。間抜けに口を開けて、レイジとサーシャが握手する決定的瞬間に見入っていた。
レイジとサーシャの距離がまた一歩狭まり、握手が交わされ……
「下賎な雑種めが、皇帝の気高き御手に触れられるとでも思ったのか」
サーシャの双眸で火花が弾ける。
背筋を悪寒が駆け下りた。
―「危ねえ!!」―
魔性に魅入られたようにサーシャの表情が邪悪に歪む。
金網を両手で揺さぶりレイジに危機を知らせようとした俺の眼前で、それは起きた。サーシャの腕が高々と振り上げられ、ナイフの切っ先が照明を反射して燦然と輝き、鋭利な銀光が矢のように目を射る。
やっぱり芝居だったのか、握手すると見せかけてレイジに先制攻撃を仕掛けるつもりだったのか!くそ、レイジの馬鹿アホ間抜け!こんな肝心な時に握手なんて余裕ぶっこいてるから……
「さらばだ東の王よ」
死刑宣告と同時にサーシャの腕が振り下ろされる。
「っ!」
反射的に目を閉じる。俺にはレイジの頚動脈が切り裂かれて爆発的な勢いで血が噴き出す幻覚さえ見えた。だが、実際は違った。レイジの頚動脈が切り裂かれることもなければ俺のもとまで血飛沫がとんでくることもなく、東の王の壮絶な最期を目撃した観衆がどよめく気配もない。
かわりに耳に押し寄せたのは、熱狂の歓声。
おそるおそる瞼をこじ開けてみた俺は、今度こそ絶句する。
リングに片膝ついたレイジが顔前にナイフを翳し、サーシャの先制攻撃を受けていた。
「相変わらずせっかちだな、サーシャ。気が短えのはベッドの上でもリングでも変わらないってか」
ナイフの反射光で顔を隈取ったレイジが不敵に笑う。
力と力が拮抗し、ナイフとナイフが軋る。
「俺、一応お前のこと立ててやったんだぜ。何千何万のファンが見てる前で誇り高い皇帝サマに恥かかせちゃ可哀想だろ。ここはひとつ大人な態度で握手交わして、固唾を飲んでこっち見てるファンに度量の広さアピールさせてやろうって王様の心遣いがわかんねーかな」
「要らぬ配慮だな」
ため息まじりにかぶりを振るレイジに返された声は、大気を白く曇らせるほどに凍えていた。片腕の膂力でナイフを押しこみながら眼光をぶつけあうレイジとサーシャ。ふとサーシャの笑顔が歪み、瀕死の獲物をいたぶる蛇のごとく陰湿な悪意が双眸にこもる。
「私の度量の広さは他でもないお前がいちばんよく知っているではないか。躾の悪いお前が私の背中に爪を立てた時、私が折檻したか?寛容に見逃してやったではないか」
レイジの双眸に険が宿り、笑顔が凄味を増す。サーシャと寝たことはレイジにとって触れられたくない話題だった。忘れてしまいたい過去だった。
俺だって聞きたくなかった。サーシャに抱かれたレイジがその背中に爪を立てただなんて、爪痕を残すほどに激しく抱かれたなんて知りたくなかった。耳を塞いで知らないふりをしてしまいたかった。
「……サーシャ、お前は大きな勘違いをしてるぜ」
レイジがいっそ気だるげに、ゆっくりと口を開く。説明するのも面倒くさそうな口調だった。顔前に翳したナイフで殺意の波動を受け止め、床についていた膝を慎重に起こす。
金属の刃と刃が掠れ合う耳障りな軋り音。
刃に乗せられて叩きつけられた殺意の波動を余裕の表情で受け流しつつ上体を起こしたレイジが、嘲弄の光を目に宿す。
「あれは『わざと』だよ。お前の抱き方が乱暴で腹立ったから仕返しに、な。ちょっとしたお茶目ってやつだ。自分のテクを過信してたんならお生憎さま。自分が気持ちよくなることしか考えてねえ自己中な抱き方で俺を満足させられるとでも思ったのかよ、早漏が」
サーシャが咆哮した。
カキンと音が鳴り、火花を散らしてナイフが放れる。
それまで一触即発の気迫でせめぎあっていたナイフとナイフが激突、高音域の軋り音を奏でて切り結ぶ。肉眼ではとらえられない苛烈な接戦。動体視力の限界に迫る敏捷さでサーシャの腕がひるがえりナイフが半弧を描く。
足腰の強靭なバネを駆使して瞬時に飛び退くレイジ。殺意の波動を全開で叩き付けたサーシャがレイジめがけて凄まじい剣幕で猛進。大気をびりびり震わす獣じみた咆哮を撒き散らして大股に突き進み、片手のナイフを振るう。
縦横無尽に虚空を切り裂き交差する銀の残像。
あまりに速すぎて動体視力が追いつかない。
「微塵の肉片に変えてやるぞ、千々に切り刻んで跡形もなくしてやるぞ!!」
「へえ、やれるもんならやってみろよ!」
レイジは楽しそうだった。心の底から楽しそうに哄笑していた。鬼気迫る笑顔。獲物の喉笛に食らいつきごっそり噛み千切る猛獣の笑顔。
野生の豹を手懐けることなどだれにもできないと絶望させる笑顔だった。
笑顔に凄味を増したレイジが素早く後退してサーシャから距離をとる。
ナイフをパートナーにダンスを踊るような足取り。優雅で華麗なステップ。足を縺れさせるような間抜けな真似はせず、背中に目でもついてるかのように後ろに跳躍したレイジがナイフを引き寄せて鋭い呼気を吐き、あざやかに反撃に転じる。
レイジが狙い定めたのはサーシャの脇腹、腎臓の位置。
「がらあきだぜ!」
「罠に決まっているだろう!!」
サーシャが狂喜する。肩に流した銀髪が千匹の蛇のように波打つ。無防備な脇腹に狙い定めて一直線に突き込まれたナイフが、甲高い音をたてて弾かれる。片足を一歩踏み出した前傾姿勢をとり、釣り込まれるように手首を突き出すのを読んだサーシャが即座にナイフを振り下ろしたのだ。
「!」
ガシャン、と金網が傾ぐ。
汗ばんだ手で金網を握りしめた俺の視線の先、身を乗り出したレイジの手首から鮮血が噴き出したと思ったのは錯覚で、実際にはその寸前にレイジは手を引っ込めていた。危なかった。あと0.1秒でも反応が遅れていればレイジの手首にはぱっくりと口が開いていた。
心臓に悪い。
安堵の息を漏らして金網に体を預けた俺の隣で、鍵屋崎が冷静に呟く。
「……これまでの試合が遊びに見えるな」
鍵屋崎の物腰は落ち着いていたが、こめかみを流れ落ちる一筋の冷や汗までは隠せない。
鍵屋崎の言いたいことはよくわかった。俺と凱、鍵屋崎とヨンイルの試合とは迫力が比べ物にならない。なにせ今リングで戦ってるふたりは生え抜きの暗殺者なのだ。外では当たり前に人殺しを生業にしてきたのだ。
レイジは人殺しに躊躇しない。サーシャは人殺しに逡巡しない。
物心つくかつかないかの子供の頃から呼吸するように人を殺してきたサーシャとレイジが死力を尽くしてたがいの命を奪いあう光景は壮絶を極めた。
油断も隙もない獣の眼光。リング上で交錯する二匹の獣。
レイジは恐ろしくナイフの扱いに長けていた。ナイフはぴったりとレイジの手に馴染んでレイジの意志通りに動いた。
ひるがえり泳ぎ踊るナイフ。
鮮烈な軌跡を描く銀光。
片腕を怪我したハンデなど殆ど感じさせない俊敏な身のこなし。
レイジの耳朶をナイフが掠める。鋭い擦過音。
しかし、あたらない。レイジはナイフに身を晒して平然としてる。恐怖心を捨て去ったかのように余裕綽々と構えている。サーシャの焦りが募り、攻撃が加速する。サーシャの腕が鞭のように撓り、残像を曳いたナイフが正確にレイジの心臓を狙う。刺突。サーシャの腕がまっすぐに伸びきり、手の先に握られたナイフがぎらつく。
「レイジ!!」
喉振り絞り叫ぶ。
どよめき。
大方の予想とは裏腹にレイジは無事だった。憎たらしいほどぴんぴんしていた。
「無茶にも程があるぜ、王様……」
腰砕けにへたりこみそうになった。
「さっすが、ロシアの殺し屋は筋がいい」
冷や汗ひとつかかずにレイジが口笛を吹く。レイジの心臓めがけて突きこまれたナイフは、レイジが寸前に蹴り上げた片足により阻まれていた。正確には、レイジが履いたスニーカーによって。
王様はとんでもない無茶をやらかす。もし片足を蹴り上げるのが一瞬でも遅れていれば、いや、スニーカーの側面を貫通したナイフが足を刻んでいたら……想像しただけで眩暈を覚える。
薄っぺらいゴム底を貫通してスニーカーの側面を突き破ったナイフに一瞥くれ、レイジが悪戯っぽく微笑む。
「サーシャ、俺が前に言ったこと覚えてるか?」
「なんのことだ?」
サーシャが不機嫌に問い返す。ゆっくりと片足を引っ込めてナイフを抜いたレイジが淡々と続ける。
「監視塔でやりあったときに言ったろ。『お前はアマチュアで俺はプロだ。だからお前は俺に勝てない』って」
そういえばたしかにそんなことを言っていた。監視塔でサーシャとナイフを交えたレイジがあざやかに勝ちを決めて言い放った言葉。
「どういう意味だか知りたくないか」
レイジがキスを迫るようにサーシャに顔を近付ける。レイジのスニーカーからナイフを引き抜いたサーシャが眉間に皺を刻む。
サーシャが不審がる気持ちもわかる。サーシャはアマチュアで自分はプロ。レイジは平然とそう言ってのけたが、サーシャもかつてはロシアンマフィアの父親の命令で暗殺を請け負ってきたのだ。
暗殺を生業にしてきたという点ではレイジとおなじプロだろうに。
「お前はサーカスで育った。ガキの頃からナイフ投げの見世物で食い扶持稼いできた。そこが俺とお前の違い。お前のナイフ投げは所詮サーカスの客を楽しませるための子供だましの芸の域をでてない。お前だって何も最初から人殺しの技術を仕込まれたわけじゃない、最初は全然そんなつもりなかったはずだ。だろ?違うか?」
サーシャの顔色が青ざめる。
レイジはあっけらかんと続ける。
「俺はそうじゃなかったんだ。俺が物心ついた時から仕込まれてきたのは単純に人を殺す技術。人を喜ばす必要なんてない、楽しませる必要なんかこれっぽっちもない、人を殺すためだけの。そこが俺とお前の違い。お前は途中から人殺しになったけど、俺は最初から人殺しだった。効率よく人を殺すためだけに技を磨いて身に付けた」
レイジの笑顔に狂気渦巻く深淵が開く。
「途中で人殺しに転身したお前が、生まれつきの人殺しにかなうわけないんだよ」
二の腕に鳥肌が立った。
「でもまあ、サーカス仕込みの曲芸のわりにはなかなかイケてたぜ。健闘に敬意を表してアマチュアからセミプロに格上げしてやってもいい……」
二の腕が鳥肌立ったのは、レイジの笑顔に気を呑まれたからじゃない。サーシャの眼光に圧倒されたから。サーシャと目が合ったから。
地獄のような目だった。
レイジの言葉を遮るようにサーシャが腕を振りかぶり、ナイフを投げ放つ。サーシャが宙に投擲したナイフが一直線に向かう先にいたのは……俺。
「「ロン!」」
サムライと鍵屋崎の声が重なる。逃げようとした。でも、足が竦んで一歩も動けなかった。金縛り。視線の先でレイジが慌てて駆け出し、サーシャに背中を向ける。あの馬鹿、こんな大事な時に敵に背中を向けてどうする?それこそ襲ってくださいと言ってるようなもんだろ。
笑顔を引っ込めたレイジが何かを叫んで全力疾走する。あの距離から間に合うわけない。サーシャの奴、正気か?場外の人間を攻撃したら即失格なのに……
ガシャン、と金網が鳴った。
慄然と立ち竦んだ俺の目と鼻の先でナイフが止まった。柄の部分がひし形の網目に嵌まりこんだのだ。助かった、と安堵したのも束の間。
俺は気付いてしまった。サーシャの策略に。
「レイジ、後ろだ!」
転げるように駆けて来るレイジに叫ぶが、遅い。俺の無事を確認したレイジの顔が安堵に溶け崩れる。畜生、腑抜けたツラしやがって。リングでよそ見なんかしてんじゃねえよ。サーシャはレイジの行動を全部読んでいた。俺めがけてナイフを投げたらレイジが血相変えて駆け出すに違いないと踏んで、距離的に間に合わなくても俺を助けようとしゃにむに走り出すに違いないと踏んで、レイジの注意を逸らして隙を導くために………。
レイジはまんまとサーシャの罠にひっかかった。
窮地に陥った俺を放っとけずに、自分がおかれたのっぴきならぬ状況も度忘れして、敵に背中を曝け出すという致命的なミスを犯した。
金網に挟まったナイフと俺の顔とを見比べて胸を撫で下ろしたレイジの背後に影がさす。
サーシャが持ってるナイフは一本じゃない。
レイジが振り向いた時には、既に遅く。
「無様だな」
サーシャが振り上げたナイフがレイジの片腕を容赦なく切り裂き、包帯が宙に泳ぐ。
サーシャが切り裂いたのは、レイジが怪我したほうの腕だった。
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