少年プリズン

まさみ

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二百三十五話

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 翌日、医務室を訪ねた。
 昨日はタジマの一件で話し合うどころではなかった安田と面談するためだ。タジマに襲われた直後で錯乱していた僕は、廊下に佇む五十嵐と安田を押しのけ逃走した。
 あれから一日経ち、僕も落ち着いた。
 平常心を取り戻した今なら安田と冷静に話し合いをもてる。いや、それ以外にも安田に告げておかなければならない急を要する用件がある。
 その意味でも今日の面談は外せない。
 サムライが房を留守にした昼間、周囲に細心の注意を配りながら廊下を歩き、医務室へ向かう。昨日の今日でだいぶ神経過敏になっている。いつ背後からタジマに襲われるか、廊下の角からタジマがとびだしてくるかと一挙手一投足を警戒してしまう。
 タジマに襲われたショック冷め遣らぬ僕をサムライは心配し、強制労働で房を空ける寸前まで僕を一人にするのを渋り、強制労働を休もうかと真剣に検討してるようだった。
 あきれた男だ。
 『君は馬鹿か?健康状態も悪くない囚人が強制労働を休めるはずがないだろう。仮に看守に提案してみろ、謹慎中のタジマに強姦未遂された友人が心配だから一日休んでもよいかと口にした途端に右腕を折られるぞ。いや、右腕だけで済めばいいが気性の荒い看守なら左腕も折られるかもしれない。足かもしれない。五体満足でいたいならそんな馬鹿な理由で欠勤するのはやめろ、仮病を使うほうがまだ可愛げがある』
 『しかし俺の留守中またタジマが来たら、』
 サムライはなお躊躇した。余程自分の留守中に僕が襲われたことに責任を感じているらしい。サムライの留守中、僕が房に一人きりの機会を見計らい、性懲りなくタジマがやってこないとも限らない。
 用心棒の不在中に僕が襲われタジマに犯されてしまったらと考えるだけでサムライは険しい顔になる。憂慮の皺を眉間に刻んだサムライにうんざりとため息をつき、淡々と説得する。
 『いいから君は強制労働に行け。ブルーワーク勤務から看守の不興を買い格下げ処分されたらどうする、僕が心配なあまり欠勤したせいで君が処罰されるのは望まない事態だ。君はいつもどおり下水道に潜り勤勉に仕事をこなせ、僕のことは心配するな。生憎君なんかに心配されほど天才は落ちぶれてない』
 昨夜、サムライの腕に包まれ、サムライの胸に抱かれて子供のように泣きじゃくった気恥ずかしさも伴い、朝はまともにサムライの顔が見れなかった。サムライとまともに顔を合わせれば羞恥に熱くなった頬の赤さを知られてしまう、落ち着きなく泳ぐ視線を不審がられてしまうと危惧し、眼鏡のブリッジを押さえるふりで表情を隠す。
 『それに、今日は僕も用がある。医務室で安田と会う約束をとりつけた。昨日はタジマに邪魔されさんざんだったからな、仕切り直しだ。安田と行動を共にするなら安全だ、いくらタジマとて副所長と一緒にいるところに手を出さないはずだ。タジマは腰抜けの臆病者で自分の身がいちばん可愛い、安田に射殺すると脅迫された昨日の今日はベッドの中で震えているはず』
 『だといいがな』
 いまだ疑惑を拭い去れないようにサムライが言葉を濁す。僕の友人は頑固なだけではなく心配性だ。どうサムライを宥めたらいいものかと頭を悩ませ、俯き、仕方ないと覚悟を決める。
 もうすぐ出なければ強制労働に遅刻してしまうというのに、立ち去り難く正面に佇むサムライの目を覗きこむ。
 『……心配せずとも、約束は守る。君以外の男に抱かれるのはぞっとしないと昨日の一件で再確認した。同性に抱かれて心地よいと感じたのは君が初めてだ、サムライ。君は天才が認めた男だ、少しは自信を持て』
 サムライの腕の中は居心地良く、サムライの胸のぬくもりは僕が渇望した安息の眠りを与えてくれた。タジマや売春班で僕を陵辱した男たちとは大違いだ。
 サムライはただ僕を抱いてくれた。
 僕が泣き疲れて寝入るまでただずっと抱きしめてくれた。
 朝になり、サムライの腕の中で目覚めた時は、気恥ずかしさと同時に今まで体験したこともない満ち足りた安堵感が湧いてきた。誰かの体温をこんなに心地よく感じたのは久しぶり、そう、風邪で寝こんだ僕の手を恵が握ってくれたあの時以来かもしれない。家族でもない他人の体温をこんなに心地よく感じるなんて、といぶかしむ。
 力強い腕に身を委ね、あたたかい胸に顔を埋め、僕はぐっすり眠ることができた。
 東京プリズンに来てからついぞ無縁だった、安息の眠りを手に入れたのだ。
 『……わかった』
 やっとサムライが折れた。ため息をつき、未練ありげに双眸を翳らせ、物憂げな眼差しで僕を見守る。
 『だが、くれぐれもタジマには気をつけろ。あの男は正真正銘の異常者だ、おのれの性欲を満たすためなら何でもやる。性欲の化け物だ』
 『性欲の化け物か。うまいことを言うじゃないか』
 『笑い事じゃないぞ、お前自身に関わることだ。タジマに襲われたら一人で何とかしようとせず信頼できる人間に助けを求めろ、必ずお前の力になってくれる人間がいるはずだ。勿論俺も尽力する。強制労働の時間外はできるだけお前と行動を共にしタジマの動向に目を光らせる』
 『束縛されるのは好きじゃない』
 『好悪の問題ではない。昨夜とおなじことをもう一度言わせる気か』
 強情なサムライに反感を抱き、挑戦的に腕を組む。
 『もう一度言ってもらおうじゃないか』
 しまった、とサムライが顔をしかめる。が、武士に二言はないと常日頃豪語している手前みっともなく言い逃れするわけにも断るわけもにいかず、毅然たる態度で咳払いする。
 迷いを振りきるように顔を上げ、ひたと僕を見据える。真摯な双眸と誠実な面持ちには、過去に大切な者を亡くし、おなじ過ちは二度と犯さないと決意した男の覚悟が滲んでいた。
 『……俺はもう二度と後悔しないと決意した。大切な誰かを抱きしめるのに躊躇しないと、大切な誰かを一生失うくらいなら抱きしめたまま手放すものかと』
 言い終えたサムライが、羞恥に耐えかねたようにそっぽを向く。
 『狭量な男だと謗られようと、束縛していると非難されようと翻意はしない。言い逃れもしない。これは俺の覚悟だ。お前を手放し、他の人間に奪われるくらいなら……』
 サムライの横顔に苦渋の色が滲み、伏し目がちの双眸に葛藤が生じる。独占欲と悋気と純粋に誰かを想う思慕とが混沌と入り混じった、ひりつくような焦燥の色。だが瞬き一つ後にはそれも消え、僕へと向き直った顔には無骨な微笑みが浮かんでいた。
 『……いや、最後の言葉は忘れてくれ。俺もどうかしている』
 続く言葉を嚥下し、颯爽と踵を返すサムライ。ひたむきに思い詰めた眼差しで口にしかけた言葉は喉の奥で泡となり、遂に僕の耳に届くことはなかった。
 僕もどうかしている。サムライの言葉の続きが気になり、何故あの時肩を掴んで追及しなかったのか悔やむだなんて。そんなことをしたらサムライは確実に遅刻して看守に叱責されていたというのに……
 サムライが胸に秘めた言葉の続きを気にかけつつ、渡り廊下を経て中央棟に行く。図書室の行き帰りに見慣れた廊下を歩き、医務室への道順を辿る。じきに白いドアが見えてきた。ドアの前で立ち止まりこぶしを掲げ、軽くノックをする。
 「入りたまえ」
 促され、慎重にドアを開ける。医務室の中へと踏み込めば独特な消毒液の匂いが鼻腔を突く。白く清潔な天井と白く平板な床の合間にはデスクがあり、カルテが乱雑に散らばり積み上げられていた。少しは整理整頓しろと医師の襟首を掴みたくなる衝動をおさえ、足を進める。
 皮張りの椅子に腰掛けた初老の医師の向かいには安田がいた。三つ揃いのスーツを完璧に着こなし、インテリめいて聡明な風貌によく似合う銀縁眼鏡をかけている。怜悧な知性を宿した切れ長の双眸で僕を一瞥した安田が、無表情な顔をわずかに曇らせる。
 僕の顔を見て、昨夜のことを連想したのだろう。
 そんな顔をされると、必然嫌味を言いたくなる。
 「……副所長も暇ですね。今日中に片付けなければいけない書類仕事はないんですか、ジープに乗って視察には赴かないんですか?本来の職務を放棄して医務室で堂々サボリだなんて中間管理職も堕落したな」
 「嫌味を言う元気があれば大丈夫そうだな」
 安田が安心したように苦笑し、医師があきれ顔をした。後者は正常な反応だ。嫌味を言って喜ばれると複雑な気分だ。居心地悪げに立ち尽くした僕に気付いた医師が気を利かせて席を立つ。
 「話し合いの邪魔なら席を外すが……そうだ君、鍵屋崎と言ったね。なにか誤解してるようだから馴染みのよしみで一応フォローしておくが、副所長とて暇なわけではない。むしろ多忙だ。今日中に片付けねばならない書類は山積みで、午後には強制労働視察のルーティンワークも控えておる。貴重な時間を割いて医務室へ来たのだからあまりいじめないであげてくれ」
 「『いじめないでくれ』?心外だな、僕がいつ副所長をいじめたというんだ。彼には敬意を払って敬語で接してるつもりだが」
 言外に「あなたには敬意を払ってないから敬語も使わない」という嫌味を含め、医師を冷たく睨む。疲れたようにかぶりを振った医師が、立ち去り際呟いたのを聞き逃さない。
 「親御さんの顔が見てみたいね」
 何故か安田が咳払いした。
 ドアが閉じ、医師が退室した。医師が空けた椅子に腰掛ける。座り心地がよい皮張りの椅子に世田谷の実家で過ごした日々が甦り、鈍く胸が疼く。父の書斎にあった黒皮の椅子。鍵屋崎優はいつもあの椅子に腰掛け、僕が本を借りに書斎をノックしても気付かず、論文執筆や読書に没頭しているのが常だった。僕はいつも父の背中ばかり見ていた。
 鍵屋崎優の顔より背中の印象が強いのは、きっとそのせいだ。
 「……では、話し合いを始めよう」
 僕の物思いを経ち切ったのは落ち着き払った安田の声。事務的に用件を切り出した安田を見上げれば、若き副所長は無表情に話し出す。
 「昨日はとんだ邪魔が入り、話し合いが中断された。だから今日、ここで改めて話し合いの機会を持つことにした。それで鍵屋崎、例の件だが……」
 「あなたが不注意で紛失した銃のことですね。一応捜索は続けていますが、現時点では有力な手がかりは掴めてません」
 ワンフーのことは伏せた。悪戯心で安田の銃をスッたと発覚すればワンフーにどんな処罰が下されるかもわからないし、今重要視すべきは盗んだ犯人ではなく、現在銃を隠し持ってる人間だ。そちらのほうがより危険度が高い。
 「手がかりはない。ひとつもか」
 「なにひとつ」
 「そうか」
 心なしか安田は落胆したようだ。表情の読みにくい端正な面立ちにわずかに徒労の影が射した。
 「落胆には及びません。東京プリズンは広い、一週間やそこらで犯人を特定するのは難しいとわかりきってる。すべて想定内だ。東西南北どの棟の囚人が銃を持ってるかわからない現状ではひとつずつ地道に可能性を潰してゆくしかない。気の遠くなるような消去法だが、それがいちばん確実だ」
 気落ちした安田を励まそうというわけでもないが、一応フォローする。
 「とりあえず、西棟の囚人は銃を所持してないと判明しました。西の道化が全階全房捜索したんだ、信憑性は高い」
 「西の道化と顔見知りなのか?」
 「……ええ、まあ。図書室の常連なので」
 それで腑に落ちたと安田が頷く。
 「西の道化の人脈で、南のトップにもそれとなく銃の行方を聞いてみると取りつけました。ヨンイルは軽薄なお調子者で仮想と現実の区別がつかない男ですが、西のトップとして最低限の責任感はあります。秘密は守ってくれるはず……」
 「聞こえとるでー」
 間延びした声が割って入り、言葉を切る。おもむろに椅子を立ち声の方に歩みより、衝立のカーテンを引く。ロンが寝ているベッドの傍らにヨンイルがいた。折り畳み式の椅子に腰掛け、ベッドの枕元と足元の床に何十冊も漫画を積み上げている。
 ゴーグルをかけたまま夢中で漫画を読み耽るヨンイルにあ然とする。
 「何故ここにいるんだ!?」
 「見舞いや見舞い。入院中でロンもといアトムが退屈してるやろ思て、気ィきかせて漫画持ってきてやったんや。西の道化はどっかの王様と違て親切やろ、感謝せぇ」
 「アトムもといロンだ。逆だ逆」
 ベッドに上体を起こせるまで回復したロンが、漫画から顔も上げず訂正する。顔の腫れもだいぶ引き、憎まれ口を叩く元気も湧いてきたようだ。包帯はまだとれないが、歩き回れるようになるまであと少しといったところか。「どっちでもええやん、アトムのがかっこええし。百万馬力の科学の子やで」「名前馬鹿にすんなよ、割と気に入ってんだよ。由来は麻雀だけど」と口喧嘩するロンとヨンイルとを見比べ、昨日の記憶を反芻する。

 『まさかロンの脅し本気にしたのか?いくら俺様でも怪我人に手え出すかよ……ってのは建前で、顔の腫れが引くまで我慢するさ。顔が崩れたまんまじゃ萎えるからな……』

 僕の口腔に指に突っ込み、蹂躙しながらタジマは笑った。少なくとも、顔の腫れが引くまではロンに手だしはしないと明言した。タジマの言葉など信用できないが、それが事実だとしたらロンの回復を喜んでばかりもいられない。ベッドで寝たきりのロンが、夜、こっそり忍びこんだタジマに犯される光景を想像して気分が悪くなる。ベッドに起きあがれるまでに回復したとはいえ、ロンはまだ包帯もとれてなく、怪我も完全には癒えてない。骨折の完治には時間がかかる。ロンが自由に動き回れるようになるまであと数週間はかかるはず、その数週間のあいだにタジマに襲われたらひとたまりもないではないか。
 「どうかしたのか?」
 カーテンをたくし上げ、安田が顔をだす。僕がいつまでたっても帰ってこず、不審に思ったのだろう。訝しげに僕を覗きこむ安田を見上げ、緊張に乾いた唇を舐め、心を落ち着かせる。 
 「副所長、少しいいですか」
 「アトムのほうがかっこええて、改名しろ」「絶対いやだ。冗談はその馬鹿でかいゴーグルだけにしとけ」「アホ言うな、このゴーグルが馬鹿でかいのにはちゃんと意味が…」と喧々囂々議論を戦わせるロンとヨンイルを盗み見、安田を促して外にでる。ベッドから離れた壁際に安田を誘導し、二人並んで壁に凭れ掛かる。ここなら会話を聞かれるおそれもない。
 「なんだ?改まって。言いよどむなんて君らしくもない」
 「昨日のことですが」
 安田の目は見ず、言う。
 「……昨日、僕の房を訪ねた但馬看守が『ロンを犯す』と言いました。ロンがレイジと引き離され、医務室に入院中の今が絶好のチャンスだと。顔の腫れが引くまでは待つが、腫れが引き次第犯してやると」
 安田の眉間に嫌悪の皺が寄る。背広の胸で腕を組んだ安田が憂慮のため息をつくのを横目に、俯く。 
「但馬看守なら本当にやりかねない。タジマはロンに執着している、このまま放置しておけば必ずロンを犯しに来る。正直、僕には手に余る事態だ。どうすればいいかわからない。ロンは今絶対安静で動けない状態だ、タジマに襲われたらひとたまりもない。体重と体格が違いすぎる」
 「それで君はどうしたい?」
 胸の前で腕組みした安田が憂わしげにため息をつく。毅然と顔を上げ、しっかりと安田を見据える。
 「ロンを守りたい」
 「……」
 安田の眉が動き、かすかに意外げな表情が覗く。
 「誤解しないでほしい、僕はロンの友人じゃない。本来彼は関心の範疇外、ロンなどどうなってもいい。しかし今の僕たちは運命共同体だ。ロンとは共に参戦表明した、いや、ロンが参戦表明しなければ僕は永遠にリング脇でサムライの戦いを見守り続ける立場に甘んじていた。でも、もう引き返せない。ロンと僕、レイジとサムライの四人は今後も勝ち続けなければいけない。売春班をなくすために、生き延びるために」
 そうだ、僕の最終目標は生き延びること。
 生き延びてここを出て、いつか再び恵に会うこと。
 その為には売春班の悪夢を断ち切らねばならない。100人抜きを達成し、売春班を潰さなければ僕はこの先生き延びることができない。僕とロン、レイジとサムライの四人は運命共同体だ。誰か一人でも試合に負ければ100人抜き達成ならず、僕とロンは売春班に逆戻り、サムライは両手の腱を切られる。レイジも今までどおり自由に振る舞える王様ではいられなくなる。
 誰か一人欠けても駄目なのだ。僕たち四人で勝たなければ意味がないのだ。
 「……僕はロンの友人じゃないが、それでもロンを守りたいと思う。何とかしたいと思う。タジマに犯されると知っていながら何の手も打たず見殺しにするのはいやだ、リュウホウの時とおなじ間違いはしたくない。僕はリュウホウに何もしてやれなかった、彼の異変に気付いていたくせに自殺を止めることもできなかった。いやなんだもう、自分の無力に絶望するのは。最悪の事態を想定していながら保身にかまけて何もしない自分の卑劣さを憎むのは」
 傍観者に徹するのはラクだ、無関心を装えば安全だ。そうやって僕はリュウホウを見殺しにした、リュウホウの異変に気付いていながら救ってやれなかった。
 リュウホウはいつもいつだって救いを求めていたのに、僕を頼っていたのに。
 「僕は無力だが、何かができるはずだ。僕の決断で誰かが救えるはずなんだ、何かが変わるはずなんだ、これから起ころうとしている最悪の事態を防ぐこともできるはずなんだ」
 サムライは言った、周囲の人間を頼るのは恥ではないと、信頼できる人間に助力を乞うのは賢明な選択だと。ならばそうしよう、助けを求めよう。最悪の事態を回避するために、信頼できる大人に相談しよう。
 僕はロンを守りたい。
 レイジがいない今、ロンを守れるのはきっと僕だけだ。
 「副所長に頼みがあります、タジマの監視を強めてください。医務室を見張ってください。後ろ盾に守られたタジマは謹慎処分中でも平然と出歩いてる。数日中にロンを犯しにくる。タジマは性的異常者だ、真性の変態だ。僕と同じ目に遭えば最後、ロンが耐えられるとは思えない。今のロンは心も体も弱まってる、これ以上ロンがボロボロになるのはいやだ。ロンは短気で負けず嫌いでお節介でお人よしで心配性だが、でも十三歳だ。まだ十三歳なんだ」
 僕だってサムライがいなければ耐えられなかった。今、ロンのそばにはレイジがいない。レイジのいないロンが、タジマに犯されて平気でいられるはずがない。
 そんなことあっていいはずがない、絶対に。
 だから僕は安田の目を見て言う。体の脇でこぶしを握り締め、決断を迫るように一歩を踏み出す。
 「東京プリズンに正義があるなら貴方がその代行者になってください、安田副所長」 
 ロンを僕と同じ目には遭わせたくない。
 ロンは短気で負けず嫌いでお節介でお人よしで心配性で、ずっとそのままのロンでいてほしい。
 僕とおなじ地獄を見る必要なんて、どこにもない。
 痛みを堪える表情で頭を下げた僕を安田はじっと見つめていた。他人に頭を下げるのはこれで何度目だろう?だが不思議と屈辱感はなかった。僕はただ、安田の言葉を待っていた。
 「………私は不眠症でな」
 唐突に安田が呟いた。脈絡ない発言に驚き、虚を衝かれる。神経質な手つきで銀縁眼鏡の位置を直しながら安田が続ける。
 「医務室で睡眠薬を処方してもらっているが、寝つきはよくない。かすかな物音でも目覚めるほど眠りは浅い。どうしたらいいと思う?」
 「カウンセラーにでもかかったらどうですか。いい精神科医を紹介しますよ、仙台在住だから通院費がかかりますが」
 こんな時に何を言い出すんだと苛立てば、安田が冗談ぽく苦笑する。
 「それより、ベッドを替えてみるのはどうだ?医務室のベッドは寝心地がよさそうだ。ベッドが替われば不眠症も改善されるかもしれない」
 「………」
 「今日から早速医務室に泊り込んでみる。場所は……そうだな、扉のそばにするか」
 扉のそばなら誰が入ってきてもすぐわかる。
 言外にそう匂わせ、不敵な笑みを浮かべる安田に言葉をなくす。毒気をぬかれたように口を開閉する僕の隣、壁に背中を預けた安田が背広の胸をさぐる。
 「医務室は禁煙だ」
 指摘された安田がばつが悪そうに黙りこみ、微妙な沈黙が落ちる。安田とふたり並んで壁に凭れ掛かった僕はこの場に最もふさわしい言葉をさがす。そして漸く見つけたその言葉を、口にしたものかどうか迷う。
 逡巡は五秒ほど続いたが、落ち着かなく背広の胸をさぐる安田の横顔を窺い、決断する。
 「感謝します。副所長」
 背広の胸に手をおいたまま、安田が目を細める。 
 「……君は変わったな」
 安田の口元が綻び、柔らかい笑顔になる。年の離れた弟を見守る兄みたいな、若い父親のような表情。
 「だいぶ敬語が抜けてきた。良い兆候だ」 
 それか。
 脱力した僕は、ふとあることに気付く。安田の手元にはまだ銃が戻ってきてない、それは確かだ。だが昨日、安田は背広に手を突っ込み今すぐ視界から消えなければ射殺するぞとタジマを脅した。あれは一体……
 「質問があります。副所長は現在銃を携帯してない、昨日但馬看守を脅したのは……」
 背広の内側に手を潜らせた安田が意味ありげに目配せし、手を引きぬく。握りこぶしを僕の眼前に突き出し、指を開く。 
 シュボッ、と空気が燃焼する音とともにライターの炎が揺らめいた。
 「ハッタリだ。実力行使する価値もない相手には見せかけの芝居で十分だと思わないか」
 「……今まで外見に騙されていましたが、意外と食えない性格をしてるんですね」
 ちゃっかりライターで煙草に点火して紫煙をくゆらせながら、安田は皮肉げに笑う。
 「他人とは思えないな、鍵屋崎」
 失礼な男だ。肺がんになっても知らないぞ。
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