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二百二十五話
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試合終了のゴングが鳴った。
怒号と歓声が入り乱れる熱狂の中心、正方形のリングでは凱とロンが倒れている。ロンの回し蹴りをこめかみに食らい脳震盪を起こした凱と力尽きて昏倒したロンに降り注ぐのは野次と罵声。「マジかよ!」「こんなのってアリかよ、鉄板だと思ったのによ」「凱に二万円賭けた俺の立場はどうなんだよ」「大損だぜ」と自己中極まりない理由で金網を蹴りつけ殴りつけ揺すりたて、意識不明の凱とロンとに抗議する囚人をよそに売春班の面々はお互い肩を抱き合い狂喜している。
「やった、ロンが勝った!」
「売春班の底力思い知ったか!」
「もう誰にもタマなしのカマ野郎なんて言わせねえぞ!」
「半半、おっとロンには足向けて寝れねえな!」
滂沱と歓喜の涙を流す売春班の面々の隣ではホセが笑顔で拍手している。ヨンイルは感心したように口笛を吹き、僕はといえば驚愕のあまり言葉も忘れ呆然と立ち竦む。
ロンが凱に鳩尾を殴られ、大の字に寝転んだ時はもう駄目かと思った。金網越しに見守っていた僕でさえ敗北の確信を強めたのだから、周囲の観客さえ誰一人としてこの逆転劇を予想できなかったはず。僕の声にも反応せず、大の字に寝転んだまま凱の接近にも気付かないように見えたロンが最後の力を振り絞り捨て身の反撃に転じた結果、圧倒的優勢だった凱はこめかみへの一撃で脳を揺さぶられて昏倒して試合続行不能となり、全身擦り傷だらけでボロボロのロンが奇跡的勝利を掴んだのだ。
しかしこの結果もロンの機転、凱の懐にとびこんで太股に十字架を刺す行為なくしては実現しなかった。 僕に託された十字架を手のひらにしっかり握りこみ、凱の懐にもぐりこむと同時に力の限り振り下ろし太股に突き立て、凱の動きが止まったその一瞬に流れるような回し蹴りに移ったロンが鮮明に目に焼き付いてる。終盤はボクシングではなくただの喧嘩だが、ロンにはそっちの方が性にあっていたらしい。
「人には向き不向きがあると吾輩ロンくんを見て痛感しました。にわか仕込みのボクシングより長年身についた喧嘩の勘が物を言うのですね。今回の結果はロンくんの特性を存分に生かした勝利と言えましょう」
一人前のボクサーを育て上げるのには時間が足らなかったが、ロンの勝利を見届けたホセはひどく満足げだった。保護者的立場の人間としては、ロンの成長が純粋に嬉しいのだろう。
が、ロンに拍手を送りながらもこう呟いたのを聞き逃さない。
「残念無念、一人前のボクサーを育て上げるには時間が足りませんでした。かくなる上は一ヶ月といわず一年かけてみっちりボクシングの基礎から応用まで叩きこみダイヤモンドの原石を磨き上げ……」
「ロンは断ると思うがな」
僕らの横をすり抜け、二人がかりで担架を抱えた看守がリングに上がる。両者とも意識不明で自力で退場できない状態であり、またロンの方はひどい怪我をしてるので、このまま担架に乗せられ医務室へ運ばれることになるのだろう。凱を回収した担架に続き、ロンを寝かせた担架が僕らの目の前を通りすぎる。
僕はたまらず駆け出していた。
何故駆け出したのか、言葉ではうまく説明できない。ただ、ぐったりと担架に横たわるロンを見たら胸が痛くなり、何か一言かけてやらねばならないような使命感にかられ、気付いたら走り出していた。僕に続き、ホセとヨンイル、売春班の面々がロンに駆け寄る。
「ロン、大丈夫か」
大丈夫なわけがないし、意識を失ってるのだから答えられるわけがない。片方の瞼が青黒く腫れ、痛々しい擦り傷を無数に顔に作ったロンの手元を覗きこみ、言葉を失う。
意識を失ったロンは、それでも片手にしっかりと十字架を握り締めていた。
二度と手放さないと決意をこめるかのように、指が白く強張るほどに十字架を握り締めたロンは、何かをやり遂げたように満足げな表情をしていた。
痛々しい擦り傷さえなければ、良い夢を見てるようにもとれる平和な寝顔。
『レイジは理由があって来れないんだ』
『これを渡してくれと頼まれた。そばについてられない自分のかわりに、これを自分だと思ってそばにおいてくれと……ロンの勝利を願ってる、絶対に勝つと信じてる、だから頑張ってくれと』
自分がついた嘘が、空々しく残酷に耳に響く。
ロンは馬鹿だ。
僕の嘘をすっかり信じきって、この十字架がレイジに託されたものだと思いこんで、試合が終わった今も手に握り締めてはなさない。凱の血で先端が赤く変色した十字架を見下ろし、俯く。
そんな僕をよそに、売春班の面々がぞろぞろと担架を取り囲む。
「よくやったな、ロン」
「おつかれさん」
「半半とか馬鹿にして悪かったよ、おまえすげえよ、あの凱に勝っちまうなんてよ!はは畜生、思い出しただけで涙と鼻水がいっしょにでてくる」
「汚ねえなおい」
「そういうお前だって目から水でてんじゃねえか」
「心の汗だよ」
「今まで馬鹿にしてごめんな、悪く言ってごめんな。許してくれ」
「お前は売春班の誇りだよ」
「ゆっくり眠って疲れを休めてくれよ」
興奮した面持ちである者は目尻にうっすらと涙を浮かべ、ある者は滂沱と涙を流し、ある者は笑顔を湛え、口々にロンを称賛する。ぐちゃぐちゃに髪が乱れたロンの頭を親愛表現でなで、かきまわし、『一級棒!』『了不起』と惜しみなく最上級の賛辞を送る。
「ロンくん、よく頑張りましたね。ああでもグローブ投げ捨てたのはいただけません、吾輩の汗と血と涙と闘魂が染みたグローブを粗末に扱った罰として元気になったらうさぎ跳び二十周です」
本気か冗談か判別つかない発言をし、ロンの傍らに立ったホセがいとおしげに目を細める。黒縁眼鏡の奥の目は、教え子の成長をよろこぶ教師のごとく慈愛に満ちていた。
「俺的にはボクシングで決着つけてほしかったけど、ま、贅沢言えへんなあ。やることやって真っ白に燃え尽きたんや、本人に悔いはないやろ」
腰に手をあてたヨンイルが苦笑いする。
最後は、僕だ。
担架の傍らに立ち、ロンの寝顔を覗きこむ。瞼が腫れ頬が腫れ唇が切れ、二目ともつかない有り様だ。凱にさんざん殴られ蹴られたのだから当たり前だ。凱だけじゃない。この地下停留場に居合わせた客殆ど全員が敵という苦しい状況で、ロンは自分ひとりの力で勝利をもぎとったのだ。
レイジがいなくても、ロンは強い。
ある意味、レイジよりずっと強いかもしれない。
「………」
何て声をかけたらいいかわからない。ロンは気絶してるのだから、意識のない人間に声をかけるなど愚の骨頂だと冷めた考えもある。だがしかし、何か言わずにはいられない。 ロンに聞こえなくても届かなくても、称賛してやりたい。
そして僕は、自分でも意外な行動をとった。
ごく自然に、十字架を握り締めたロンの手に手を重ねる。最初は触れるだけ、徐徐に力をこめ、ロンの手を握る。おかしい、何をやってるんだろう僕は。東京プリズンに来た最初の頃はあれだけ他人に触れるのがいやでいやで仕方なかったのに、いつのまに自分から接触を試みるようになったんだ?
サムライに触られるは不快じゃないと学習して心境の変化でも起きたのだろうかと自己分析しつつ、どうにも慣れないぎこちない手つきでロンの手を握り締める。
人肌の体温が不快で、すぐに手を放したくなるんじゃないかと危惧したが、そんなことはなかった。
いつだったか、僕が風邪をひいたときにずっとそばについててくれた、恵の手のぬくもりを思い出す。
本当なら、ロンの手を握るべき人間は僕じゃない。今ここにいてロンの手を握らなければいけない人間は別にいる。
でも彼がいないなら、僕が代役をつとめるしかない。
ロンはしっかりと十字架を握っていた。今ここにいないレイジの代わりに。
だから僕は嘘をつく。
眠っているロンに、嘘をつく。
担架の傍らに屈みこみ、ロンの寝顔を覗きこみ、レイジに成り代わってその手を握り、レイジの言いまわしを真似てささやく。
『Congratulations.Goddess of victory smiled.』
おめでとう、勝利の女神が微笑んだぞ。
今の僕は鍵屋崎直ではない、と自己暗示をかける。鍵屋崎直ではない、鍵屋崎直ではない、今の僕はあの軽薄で自己中で薄情で尻軽なレイジだ。東棟の王様だ。軽薄な笑顔が似合う無敵の王様、ロンの試合にも姿を現さなかった薄情な人間、人けのない裏通路で今もサムライと死闘を演じてる男だと目を閉じて自分に言い聞かせる。自分を殺し自我を殺し、レイジになったつもりで薄目を開ける。
今の僕は鍵屋崎直ではない。
ロンの勝利を祝いに駆け付けた、レイジだ。
レイジはロンに約束した、「凱を倒したらご褒美のキスをしてやる」と。それは僕がついた嘘で、レイジはそんなこと一言も口にしなかったが、僕には嘘をつき通す義務がある。
あくまで嘘をつき通し、それが真実だとロンに信じこませる義務がある。
ロンの寝顔を覗きこみ、そっと、その額に唇をふれる。
ほんの一瞬、ふれるだけのキスをして唇をはなせば、安心したようにロンの指から力が抜けて十字架がこぼれおちた。僕の奇行に売春班の面々があ然とし、ホセとヨンイルが目を丸くする。
片手で床に落ちた十字架を拾い上げ、もう片方の手でしつこく唇を拭い、立ち上がる。
「……誤解するなよ、約束を守っただけだ。自分がついた嘘の責任は自分で負わなければな」
ロンの顔の横に十字架をおく。僕にキスされた瞬間レイジを思い出したのか、気を失ってるはずのロンが複雑そうな顔をした。こそばゆいような、気恥ずかしいような、何ともいえない表情だった。
僕の演技もなかなかのものだ。
「くそっ、半半のせいで大損だ!」
「あいつの勝利なんかだれも望んでなんかねえのによ!」
怒号の方角に目をやれば、凱の勝利に賭けてたらしい囚人が憎憎しげにこちらを睨んでいた。憤然とこちらにやってきた囚人から担架を守るように売春班の面々が立ち塞がる。
「てめえら、なんで俺たちがはるばる地下停留場まで出向いたと思ってやがる?生意気な半半が凱にケツ剥かれてぶっといもんぶちこまれてひんひんよがる姿見たくて地下停留場くんだりまで出向いてきたのに、こんなシケた結末認められるかってんだ!」
「仕切り直しだ、仕切り直し!」
「半半叩き起こしてもっかいリングに立たせろや」
柄の悪い連中に怒号を浴びせられ、うんざりとかぶりを振る。人さし指で眼鏡のブリッジを押し上げ、憤怒の形相で僕らを包囲した囚人を冷静に見渡し、言う。
「黙れ低脳ども。試合は既に終了した、いくら吠えようが結果は覆られない。ロンは自分ひとりの力と機転で凱に勝利したんだ。天才が断言する、ロンは君たちより遥かに上等な人間だ。君たちは劣等だ。僕はこの目で見た、ただのギャラリーに過ぎない君らが金網越しにロンを嬲る姿を。試合に出場登録もしてない君たちが横から手をだし足をだし挙句こうして口をだすさまは大変みっともない、見苦しさではモーツァルトに嫉妬するサリエリに匹敵する。いやサリエリと比べては故人に失礼だ、耳障りに喚き散らし金網を叩いて騒音を奏でる不協和音の集合体に騒音防止条例が適用できないのが残念だ」
「なっ……、」
怒りで顔が充血した囚人のひとりに襟首を掴まれる。その手を見下ろし、冷然と言う。
「汚い手でふれるな、反吐がでる。誰が僕にふれることを許可した?僕がふれる人間も僕にふれる人間も僕が決める、君はその対象外だ。まずは爪を切って最低三十回手を洗って精液の残滓をおとしてこい、話はそれからだ」
「~!!てんめえっ、」
逆上した囚人が僕めがけて腕を振り上げる、と見せかけ、逆の手に隠し持っていたペットボトルを担架めがけて投げつける。
「!」
まずい。
してやったりという笑顔の囚人の視線の先、担架に寝かされたロンの顔面めがけ、水入りのペットボトルが落下し……
木刀で弾かれた。
水滴をまきちらし、落下したペットボトルが木刀のひと振りで投げ飛ばされ、投げた本人の顔面を直撃。悲鳴を発してへたりこんだ囚人の鼻先に木刀を突きつけたのはサムライだった。
「お前にロンを非難する資格はない」
宙に舞ったペットポトルを猛禽の視力でとらえ、たちどころに馳せ参じたサムライが、鋭い双眸で周囲を威圧する。
「ロンは立派に戦った。ロンを侮辱する者は俺が許さん、いざ尋常に名乗りでろ」
サムライの脅しは効果抜群だった。
サムライの眼光に怯えた囚人がそそくさと退散し、人が刷けた。「カタナキチガイが」「親殺しふたりと半半ひとり、除け者同士美しい友情だな」と捨て台詞を吐いて立ち去る囚人には興味が失せ、担架のロンを一瞥したサムライがかすかに微笑む。
「よく頑張った」
一瞬目を奪われるほどに、柔らかな表情だった。
「サムライ、レイジはどうした」
レイジの姿がないことに一抹の危惧を抱きながら問えば、柔和な微笑から一転渋面をつくったサムライが答える。
「あんな頑固者は知らん」
そう言ったサムライが、不自然な角度に顔を傾げてることに気付きそちら側へ回りこんだ僕は驚愕した。
サムライのこめかみが切れ、流血していた。
どうしたんだ、という言葉が喉元まで出かけたのをぐっと飲み下す。どうしたんだなどと今更聞くまでもない、レイジにやられたのだ。木刀を片手にさげ、もう一方の手で尻ポケットから手拭いをとり、こめかみに押し当てればたちまち血に染まる。こめかみの切り傷に手拭いをあてがったサムライがため息をつく。
「俺のやり方で説得を試みたがてんで聞く耳を貸さん。レイジのことは当分放っておけ、頭を冷やす時間が必要だ」
「しかし……、」
ロンが目覚めたらなんて言えばいいんだ?
ロンが目覚めたとき、隣にレイジがいなければ不審がるだろう。そう逡巡しながら視線を揺らせば、人ごみの向こう、地下停留場に繋がる通路の出入り口に人影を発見。
通路の出入り口に佇んでいたのは僕のよく知る男。
両の耳朶に連ねたピアスと明るい藁束に似た色合いの茶髪という派手な外見が人目を引く男が、腕を組み壁に凭れた格好でじっとこちらを見つめていたように思えたのは目の錯覚だろうか。
眼鏡を外し、目を擦り、かけ直す。
再びそちらを見たときには、既にその姿は跡形もなくなっていた。
「どうした」
「いや……僕の視力は致命的に低下してるらしい。この場にいるはずもない人間の姿を幻視するなど、あまりに都合がよすぎて笑えてくる」
自嘲的にかぶりを振った僕の視線の先、売春班の面々に送られながらロンを乗せた担架が搬出される。ロンの出番が終了しても次にはまだ試合が控えている。ロンの試合に時間がかかり、あと二・三試合しか消化できないのがかえって好都合だ。
残り二・三試合なら、レイジが帰ってこなくともサムライだけで何とかなる。
「残り試合、しかと引き受けた。ゆるりと休め」
地下停留場から担架に寝かされ運び出されたロンを見送り、サムライが律儀に首肯。出番を促すゴングが鳴り響き、片手に木刀をさげ戦場へ赴くサムライの背中に声をかける。
「サムライ、『自分以外の男に体をふれさせたらお前を斬る』と言ったな」
「そうだ」
「やむをえない事情があって、どうしても体の一部をふれさせなければいけない場合でもか」
木刀を握り締めたサムライがくるりと振り向き、怪訝そうに眉をひそめる。
「体の一部とはどこだ」
「たとえば唇とか」
「言語道断だ」
想像するのも不快だとサムライが吐き捨て、憤然と歩き出す。
手拭いで血をとめたサムライが大股に歩み去るのを見送り、ため息を吐く。
「まったく、狭量な男だ」
ロンにキスしたことは僕の身の安全とサムライの心の平安の為に黙秘すべきだ、と僕は賢明な判断を下した。
怒号と歓声が入り乱れる熱狂の中心、正方形のリングでは凱とロンが倒れている。ロンの回し蹴りをこめかみに食らい脳震盪を起こした凱と力尽きて昏倒したロンに降り注ぐのは野次と罵声。「マジかよ!」「こんなのってアリかよ、鉄板だと思ったのによ」「凱に二万円賭けた俺の立場はどうなんだよ」「大損だぜ」と自己中極まりない理由で金網を蹴りつけ殴りつけ揺すりたて、意識不明の凱とロンとに抗議する囚人をよそに売春班の面々はお互い肩を抱き合い狂喜している。
「やった、ロンが勝った!」
「売春班の底力思い知ったか!」
「もう誰にもタマなしのカマ野郎なんて言わせねえぞ!」
「半半、おっとロンには足向けて寝れねえな!」
滂沱と歓喜の涙を流す売春班の面々の隣ではホセが笑顔で拍手している。ヨンイルは感心したように口笛を吹き、僕はといえば驚愕のあまり言葉も忘れ呆然と立ち竦む。
ロンが凱に鳩尾を殴られ、大の字に寝転んだ時はもう駄目かと思った。金網越しに見守っていた僕でさえ敗北の確信を強めたのだから、周囲の観客さえ誰一人としてこの逆転劇を予想できなかったはず。僕の声にも反応せず、大の字に寝転んだまま凱の接近にも気付かないように見えたロンが最後の力を振り絞り捨て身の反撃に転じた結果、圧倒的優勢だった凱はこめかみへの一撃で脳を揺さぶられて昏倒して試合続行不能となり、全身擦り傷だらけでボロボロのロンが奇跡的勝利を掴んだのだ。
しかしこの結果もロンの機転、凱の懐にとびこんで太股に十字架を刺す行為なくしては実現しなかった。 僕に託された十字架を手のひらにしっかり握りこみ、凱の懐にもぐりこむと同時に力の限り振り下ろし太股に突き立て、凱の動きが止まったその一瞬に流れるような回し蹴りに移ったロンが鮮明に目に焼き付いてる。終盤はボクシングではなくただの喧嘩だが、ロンにはそっちの方が性にあっていたらしい。
「人には向き不向きがあると吾輩ロンくんを見て痛感しました。にわか仕込みのボクシングより長年身についた喧嘩の勘が物を言うのですね。今回の結果はロンくんの特性を存分に生かした勝利と言えましょう」
一人前のボクサーを育て上げるのには時間が足らなかったが、ロンの勝利を見届けたホセはひどく満足げだった。保護者的立場の人間としては、ロンの成長が純粋に嬉しいのだろう。
が、ロンに拍手を送りながらもこう呟いたのを聞き逃さない。
「残念無念、一人前のボクサーを育て上げるには時間が足りませんでした。かくなる上は一ヶ月といわず一年かけてみっちりボクシングの基礎から応用まで叩きこみダイヤモンドの原石を磨き上げ……」
「ロンは断ると思うがな」
僕らの横をすり抜け、二人がかりで担架を抱えた看守がリングに上がる。両者とも意識不明で自力で退場できない状態であり、またロンの方はひどい怪我をしてるので、このまま担架に乗せられ医務室へ運ばれることになるのだろう。凱を回収した担架に続き、ロンを寝かせた担架が僕らの目の前を通りすぎる。
僕はたまらず駆け出していた。
何故駆け出したのか、言葉ではうまく説明できない。ただ、ぐったりと担架に横たわるロンを見たら胸が痛くなり、何か一言かけてやらねばならないような使命感にかられ、気付いたら走り出していた。僕に続き、ホセとヨンイル、売春班の面々がロンに駆け寄る。
「ロン、大丈夫か」
大丈夫なわけがないし、意識を失ってるのだから答えられるわけがない。片方の瞼が青黒く腫れ、痛々しい擦り傷を無数に顔に作ったロンの手元を覗きこみ、言葉を失う。
意識を失ったロンは、それでも片手にしっかりと十字架を握り締めていた。
二度と手放さないと決意をこめるかのように、指が白く強張るほどに十字架を握り締めたロンは、何かをやり遂げたように満足げな表情をしていた。
痛々しい擦り傷さえなければ、良い夢を見てるようにもとれる平和な寝顔。
『レイジは理由があって来れないんだ』
『これを渡してくれと頼まれた。そばについてられない自分のかわりに、これを自分だと思ってそばにおいてくれと……ロンの勝利を願ってる、絶対に勝つと信じてる、だから頑張ってくれと』
自分がついた嘘が、空々しく残酷に耳に響く。
ロンは馬鹿だ。
僕の嘘をすっかり信じきって、この十字架がレイジに託されたものだと思いこんで、試合が終わった今も手に握り締めてはなさない。凱の血で先端が赤く変色した十字架を見下ろし、俯く。
そんな僕をよそに、売春班の面々がぞろぞろと担架を取り囲む。
「よくやったな、ロン」
「おつかれさん」
「半半とか馬鹿にして悪かったよ、おまえすげえよ、あの凱に勝っちまうなんてよ!はは畜生、思い出しただけで涙と鼻水がいっしょにでてくる」
「汚ねえなおい」
「そういうお前だって目から水でてんじゃねえか」
「心の汗だよ」
「今まで馬鹿にしてごめんな、悪く言ってごめんな。許してくれ」
「お前は売春班の誇りだよ」
「ゆっくり眠って疲れを休めてくれよ」
興奮した面持ちである者は目尻にうっすらと涙を浮かべ、ある者は滂沱と涙を流し、ある者は笑顔を湛え、口々にロンを称賛する。ぐちゃぐちゃに髪が乱れたロンの頭を親愛表現でなで、かきまわし、『一級棒!』『了不起』と惜しみなく最上級の賛辞を送る。
「ロンくん、よく頑張りましたね。ああでもグローブ投げ捨てたのはいただけません、吾輩の汗と血と涙と闘魂が染みたグローブを粗末に扱った罰として元気になったらうさぎ跳び二十周です」
本気か冗談か判別つかない発言をし、ロンの傍らに立ったホセがいとおしげに目を細める。黒縁眼鏡の奥の目は、教え子の成長をよろこぶ教師のごとく慈愛に満ちていた。
「俺的にはボクシングで決着つけてほしかったけど、ま、贅沢言えへんなあ。やることやって真っ白に燃え尽きたんや、本人に悔いはないやろ」
腰に手をあてたヨンイルが苦笑いする。
最後は、僕だ。
担架の傍らに立ち、ロンの寝顔を覗きこむ。瞼が腫れ頬が腫れ唇が切れ、二目ともつかない有り様だ。凱にさんざん殴られ蹴られたのだから当たり前だ。凱だけじゃない。この地下停留場に居合わせた客殆ど全員が敵という苦しい状況で、ロンは自分ひとりの力で勝利をもぎとったのだ。
レイジがいなくても、ロンは強い。
ある意味、レイジよりずっと強いかもしれない。
「………」
何て声をかけたらいいかわからない。ロンは気絶してるのだから、意識のない人間に声をかけるなど愚の骨頂だと冷めた考えもある。だがしかし、何か言わずにはいられない。 ロンに聞こえなくても届かなくても、称賛してやりたい。
そして僕は、自分でも意外な行動をとった。
ごく自然に、十字架を握り締めたロンの手に手を重ねる。最初は触れるだけ、徐徐に力をこめ、ロンの手を握る。おかしい、何をやってるんだろう僕は。東京プリズンに来た最初の頃はあれだけ他人に触れるのがいやでいやで仕方なかったのに、いつのまに自分から接触を試みるようになったんだ?
サムライに触られるは不快じゃないと学習して心境の変化でも起きたのだろうかと自己分析しつつ、どうにも慣れないぎこちない手つきでロンの手を握り締める。
人肌の体温が不快で、すぐに手を放したくなるんじゃないかと危惧したが、そんなことはなかった。
いつだったか、僕が風邪をひいたときにずっとそばについててくれた、恵の手のぬくもりを思い出す。
本当なら、ロンの手を握るべき人間は僕じゃない。今ここにいてロンの手を握らなければいけない人間は別にいる。
でも彼がいないなら、僕が代役をつとめるしかない。
ロンはしっかりと十字架を握っていた。今ここにいないレイジの代わりに。
だから僕は嘘をつく。
眠っているロンに、嘘をつく。
担架の傍らに屈みこみ、ロンの寝顔を覗きこみ、レイジに成り代わってその手を握り、レイジの言いまわしを真似てささやく。
『Congratulations.Goddess of victory smiled.』
おめでとう、勝利の女神が微笑んだぞ。
今の僕は鍵屋崎直ではない、と自己暗示をかける。鍵屋崎直ではない、鍵屋崎直ではない、今の僕はあの軽薄で自己中で薄情で尻軽なレイジだ。東棟の王様だ。軽薄な笑顔が似合う無敵の王様、ロンの試合にも姿を現さなかった薄情な人間、人けのない裏通路で今もサムライと死闘を演じてる男だと目を閉じて自分に言い聞かせる。自分を殺し自我を殺し、レイジになったつもりで薄目を開ける。
今の僕は鍵屋崎直ではない。
ロンの勝利を祝いに駆け付けた、レイジだ。
レイジはロンに約束した、「凱を倒したらご褒美のキスをしてやる」と。それは僕がついた嘘で、レイジはそんなこと一言も口にしなかったが、僕には嘘をつき通す義務がある。
あくまで嘘をつき通し、それが真実だとロンに信じこませる義務がある。
ロンの寝顔を覗きこみ、そっと、その額に唇をふれる。
ほんの一瞬、ふれるだけのキスをして唇をはなせば、安心したようにロンの指から力が抜けて十字架がこぼれおちた。僕の奇行に売春班の面々があ然とし、ホセとヨンイルが目を丸くする。
片手で床に落ちた十字架を拾い上げ、もう片方の手でしつこく唇を拭い、立ち上がる。
「……誤解するなよ、約束を守っただけだ。自分がついた嘘の責任は自分で負わなければな」
ロンの顔の横に十字架をおく。僕にキスされた瞬間レイジを思い出したのか、気を失ってるはずのロンが複雑そうな顔をした。こそばゆいような、気恥ずかしいような、何ともいえない表情だった。
僕の演技もなかなかのものだ。
「くそっ、半半のせいで大損だ!」
「あいつの勝利なんかだれも望んでなんかねえのによ!」
怒号の方角に目をやれば、凱の勝利に賭けてたらしい囚人が憎憎しげにこちらを睨んでいた。憤然とこちらにやってきた囚人から担架を守るように売春班の面々が立ち塞がる。
「てめえら、なんで俺たちがはるばる地下停留場まで出向いたと思ってやがる?生意気な半半が凱にケツ剥かれてぶっといもんぶちこまれてひんひんよがる姿見たくて地下停留場くんだりまで出向いてきたのに、こんなシケた結末認められるかってんだ!」
「仕切り直しだ、仕切り直し!」
「半半叩き起こしてもっかいリングに立たせろや」
柄の悪い連中に怒号を浴びせられ、うんざりとかぶりを振る。人さし指で眼鏡のブリッジを押し上げ、憤怒の形相で僕らを包囲した囚人を冷静に見渡し、言う。
「黙れ低脳ども。試合は既に終了した、いくら吠えようが結果は覆られない。ロンは自分ひとりの力と機転で凱に勝利したんだ。天才が断言する、ロンは君たちより遥かに上等な人間だ。君たちは劣等だ。僕はこの目で見た、ただのギャラリーに過ぎない君らが金網越しにロンを嬲る姿を。試合に出場登録もしてない君たちが横から手をだし足をだし挙句こうして口をだすさまは大変みっともない、見苦しさではモーツァルトに嫉妬するサリエリに匹敵する。いやサリエリと比べては故人に失礼だ、耳障りに喚き散らし金網を叩いて騒音を奏でる不協和音の集合体に騒音防止条例が適用できないのが残念だ」
「なっ……、」
怒りで顔が充血した囚人のひとりに襟首を掴まれる。その手を見下ろし、冷然と言う。
「汚い手でふれるな、反吐がでる。誰が僕にふれることを許可した?僕がふれる人間も僕にふれる人間も僕が決める、君はその対象外だ。まずは爪を切って最低三十回手を洗って精液の残滓をおとしてこい、話はそれからだ」
「~!!てんめえっ、」
逆上した囚人が僕めがけて腕を振り上げる、と見せかけ、逆の手に隠し持っていたペットボトルを担架めがけて投げつける。
「!」
まずい。
してやったりという笑顔の囚人の視線の先、担架に寝かされたロンの顔面めがけ、水入りのペットボトルが落下し……
木刀で弾かれた。
水滴をまきちらし、落下したペットボトルが木刀のひと振りで投げ飛ばされ、投げた本人の顔面を直撃。悲鳴を発してへたりこんだ囚人の鼻先に木刀を突きつけたのはサムライだった。
「お前にロンを非難する資格はない」
宙に舞ったペットポトルを猛禽の視力でとらえ、たちどころに馳せ参じたサムライが、鋭い双眸で周囲を威圧する。
「ロンは立派に戦った。ロンを侮辱する者は俺が許さん、いざ尋常に名乗りでろ」
サムライの脅しは効果抜群だった。
サムライの眼光に怯えた囚人がそそくさと退散し、人が刷けた。「カタナキチガイが」「親殺しふたりと半半ひとり、除け者同士美しい友情だな」と捨て台詞を吐いて立ち去る囚人には興味が失せ、担架のロンを一瞥したサムライがかすかに微笑む。
「よく頑張った」
一瞬目を奪われるほどに、柔らかな表情だった。
「サムライ、レイジはどうした」
レイジの姿がないことに一抹の危惧を抱きながら問えば、柔和な微笑から一転渋面をつくったサムライが答える。
「あんな頑固者は知らん」
そう言ったサムライが、不自然な角度に顔を傾げてることに気付きそちら側へ回りこんだ僕は驚愕した。
サムライのこめかみが切れ、流血していた。
どうしたんだ、という言葉が喉元まで出かけたのをぐっと飲み下す。どうしたんだなどと今更聞くまでもない、レイジにやられたのだ。木刀を片手にさげ、もう一方の手で尻ポケットから手拭いをとり、こめかみに押し当てればたちまち血に染まる。こめかみの切り傷に手拭いをあてがったサムライがため息をつく。
「俺のやり方で説得を試みたがてんで聞く耳を貸さん。レイジのことは当分放っておけ、頭を冷やす時間が必要だ」
「しかし……、」
ロンが目覚めたらなんて言えばいいんだ?
ロンが目覚めたとき、隣にレイジがいなければ不審がるだろう。そう逡巡しながら視線を揺らせば、人ごみの向こう、地下停留場に繋がる通路の出入り口に人影を発見。
通路の出入り口に佇んでいたのは僕のよく知る男。
両の耳朶に連ねたピアスと明るい藁束に似た色合いの茶髪という派手な外見が人目を引く男が、腕を組み壁に凭れた格好でじっとこちらを見つめていたように思えたのは目の錯覚だろうか。
眼鏡を外し、目を擦り、かけ直す。
再びそちらを見たときには、既にその姿は跡形もなくなっていた。
「どうした」
「いや……僕の視力は致命的に低下してるらしい。この場にいるはずもない人間の姿を幻視するなど、あまりに都合がよすぎて笑えてくる」
自嘲的にかぶりを振った僕の視線の先、売春班の面々に送られながらロンを乗せた担架が搬出される。ロンの出番が終了しても次にはまだ試合が控えている。ロンの試合に時間がかかり、あと二・三試合しか消化できないのがかえって好都合だ。
残り二・三試合なら、レイジが帰ってこなくともサムライだけで何とかなる。
「残り試合、しかと引き受けた。ゆるりと休め」
地下停留場から担架に寝かされ運び出されたロンを見送り、サムライが律儀に首肯。出番を促すゴングが鳴り響き、片手に木刀をさげ戦場へ赴くサムライの背中に声をかける。
「サムライ、『自分以外の男に体をふれさせたらお前を斬る』と言ったな」
「そうだ」
「やむをえない事情があって、どうしても体の一部をふれさせなければいけない場合でもか」
木刀を握り締めたサムライがくるりと振り向き、怪訝そうに眉をひそめる。
「体の一部とはどこだ」
「たとえば唇とか」
「言語道断だ」
想像するのも不快だとサムライが吐き捨て、憤然と歩き出す。
手拭いで血をとめたサムライが大股に歩み去るのを見送り、ため息を吐く。
「まったく、狭量な男だ」
ロンにキスしたことは僕の身の安全とサムライの心の平安の為に黙秘すべきだ、と僕は賢明な判断を下した。
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