少年プリズン

まさみ

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二百二十一話

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 「まずい」
 焦燥に身を焦がされ、呟く。
 「まずいな」
 サムライも同意する。
 状況は極めて不利だ。
 眩い照明に暴かれ、満場の注視を浴びたリングの中央では疲労困憊のロンが膝を屈している。序盤こそ持ち前の敏捷性を生かした素早い動きで凱を翻弄し、死角をとった攻撃で互角に渡り合っていたロンだが、逆上した凱が猛攻を仕掛けだして空気が一変した。レイジとサムライには劣るとはいえ凱は東棟三番手の実力の持ち主、傘下三百人の大派閥のボスに成り上がった男だ。一週間の猛特訓から生還したといえどロンがかなうわけがない。
 体格差が克服できない以上ロンに勝ち目はない。
 凱の猛攻開始から十数分、顔前で腕を交差させた防御姿勢を崩そうものなら骨に響く打撃を食らうため、ロンは一瞬たりとも気が抜けない。交差させた腕で顔面を庇った体勢から反撃に転じるのはむずかしい。防戦一方の窮地に追い詰められたロンをよそに凱の快進撃は続く、動体視力さえ追いつかない猛攻で右こぶし左こぶしを交互にくりだし顔面や腹部を狙う。一瞬でも反応が遅れ防御が綻べば凱の攻撃をまともに受けてしまう。
 そして遂に、ロンは一撃を食らってしまった。
 顔面にくる、と予想したパンチが鼻先をかすめるように軌道を変えて鳩尾に抉りこんだのだ。防御が間に合わず、急所を痛打されたロンは、額におびただしい脂汗を浮かべた苦悶の表情でその場に膝を折った。相当痛かったのだろう、腹に腕を回しリングに片膝ついた体勢からすぐには立ち上がれず、苦鳴を噛み殺すように唇を引き結んでいる。
 そんなロンに嗜虐心をかきたてられたか、ゆっくりと両手をおろした凱が残虐な笑みを浮かべ、へたりこんだロンのもとへ歩み寄る。苦痛の色濃い眉間の皺、ふさがりかけた瞼をこじ開け、朦朧とかすんだ目を凝らして自分を見上げたロンめがけて足を振り上げる。
 「!がっ、」
 ロンの肩を邪険に蹴り飛ばす。痙攣する腹を庇い、激痛に耐えてしゃがみこんだロンは受け身もとれず、背中から金網に衝突した。無意識に金網を握り締めた僕の手にも衝撃と震動が伝わる。視線の先、金網を背にずり落ちたロンはぐったり顔を伏せたまま動かない。
 気絶してるのだろうか?脳震盪を起こしてるのかもしれない。
 「もう終わりかよ。減らず口叩いたわりには大したことねえな」
 疲労に息を荒げた凱がロンの頬を平手で叩く。頬をぶたれてもロンは反応を示さず、金網に背中を凭せ掛け、無造作に両足を投げ出した格好のまま浅く肩を上下させるのみ。反応がないのに苛立ったか、グローブを放り捨てた凱がロンのヘッドギアを毟り取り前髪を鷲掴み、無理矢理顔を起こす。前髪を掴まれ、強制的に顔を起こされたロンの表情が激痛に歪んで抗議とも苦鳴ともつかないうめきが口から迸る。絶頂を迎えた女性のように喉が仰け反り、頭皮ごと引き剥がそうとでもするかのような手を振りほどこうと暴れるが、凱の怪力のまえでは無駄な抵抗でしかなく、ロンがもがけばもがくほど興を添えることになる。
 「薄汚い半半の雑種が生粋の中国人にかなうわきゃねえだろうが。いつの時代も雑種よか純血種が尊ばれるのが世の習いだ、てめえも俺たちに媚売ってケツ貸してりゃあ痛い目見ずにすんだのによ」
 「……おまえの頭に詰まってんのはツバメの巣か」
 前髪を掴まれ、顔を起こされたロンが苦しげに笑う。
 「ケツは出すもんで入れるもんじゃねえ、男にヤられるなんてごめんだ」
 「毎晩レイジとたのしんでるくせに今さら処女気取りたあお高いね」
 「……なんだと」
 凱の嘲笑にロンの目が据わり、生気がよみがえる。反抗的な目つきが気に入らなかったのか、片腕一本で軽々ロンの体を吊り上げた凱が勢いをつけロンの背中を金網に叩き付ける。ロンの体重を受け止めた金網がガシャンと撓み、周囲のギャラリーが距離をとる。金網に背中を預け、ひどく苦労しつつ上体を起こしたロンの眼前に立ち塞がった凱が手庇をつくり、芝居がかって大仰な素振りであたりを見まわす。
 「で、肝心のレイジはどこだよ。姿が見えねえけど、そろそろ飽きられて捨てられたのか」
 わざとらしく周囲を見渡す凱の姿に、金網越しのギャラリーから意地の悪い忍び笑いがもれる。片手を金網にひっかけ気力を振り絞り、何とか二本足で立ってるロンが唇を噛み締める。しっとり汗にぬれた前髪の下、気の強い猫を彷彿とさせる双眸に苦渋が滲む。
 「残念だったな、いとしの王様が応援にこなくて。寂しいだろ、哀しいだろ?王様がそばについてなきゃなんにもできねえもんな腰抜けのロンちゃんは、参戦表明したのもそばにレイジがくっついてたからだろ。王様にケツ貸す見返りに守ってもらってたのにポイッと見捨てられてこれからどうするよ、ええ?」
 「レイジは関係ねえ。今リングに上がってるのは俺だ」
 苦渋の滲んだ顔で吐き捨てたロンが、まっすぐ凱を見つめて深呼吸。 
 「お前に言いたいことがある」
 毅然と顔を上げたロンは、強い意志を宿した目をしていた。
 「刑務所で男のケツ追っかけて、看守に賄賂おくって気に入らないやつはリンチで殺って、三百人の子分にさん付けで仰がれて調子のって……それ、ガキに自慢できるか」
 「………」
 子供の話題をふられ、凱の顔色が豹変。にやにや笑いをひっこめ、険悪な形相に変じた凱にも怯まず、ロンは淡々と続ける。説教くさい内容とは裏腹に、その口調はどこか哀しげだった。
 「外にガキいるんだろ、ガキが今のお前見たらどう思うか考えてみろよ。なにやってんだよこんなとこで、まだ小さいガキほったらかしてケツ掘ったりレイジ目の敵にしたり……ばっかじゃねーか。親父が刑務所送りになったってだけでめちゃくちゃ恥ずかしいのに」
 「黙れよ半半」
 「東京プリズンで成り上がるよか先にガキに手紙書いてやれよ。待っててくれる家族がいるくせに何やってんだ本当に。ガキにバレなきゃなにやっても恥ずかしくないってか、タジマと手を組んで俺を罠にかけてレイジの足引っ張ろうが子供にバレなきゃ親父の威厳は損なわれないってか?はは、笑えるぜ凱。お前が鼻の下のばして俺のケツ追っかけてるあいだに刑務所の送りの親父もったガキが石投げられていじめられてんのに、」
 「黙れ半半、偉そうに人様の家庭の事情に口だししやがって。オスとみりゃ人間だろうが犬だろうがかまわずヤりまくる台湾の淫売の股から産まれたくせに」
 筋骨隆々の体躯に殺気を漲らせた凱が、爛々と目を血走らせて金網に縋りついたロンを罵倒する。
 が、ロンは黙らない。
 万力めいた怪力で下顎を掴まれ、苦痛と恥辱とが入りまざった顔をギャラリーに堪能されても、僕たち以外に味方のいない四面楚歌の局面で罵声と野次とを一身に浴びても引き下がろうとしない。どんなに侮辱され罵倒され唾吐きかけられてもリングを下りようとせず、奥歯に力をこめた強情な顔つきでキッと前だけを見続ける。
 大胆不敵なロンに凱がたじろぐ。自分が睨みつければ誰でも目を逸らすのに、小柄な体格のロンに物怖じせず睨み返され動揺してるのだ。眼光の威圧にあとじさることなく、凱の目をまっすぐ見つめ返してロンが言う。
 「お前みてえなクズ親父に持ったガキが可哀想だ。どんな最低な親だっていなけりゃほんのちょっと寂しいって感じるんだよ、会いてえって思う一瞬があるんだよ。ガキがちっちぇえならなおさらだ。お前のガキ匙だって満足に持てねえじゃんか。匙もろくすっぽ握れねえガキほっぽりだして何やってんだ中国人、食事の作法に厳しいお国柄のくせに」
 「うるせえ」
 「後生大事にガキの写真持ち歩いてるくせに、ムショにぶちこまれてもガキのこと忘れられないくせに、子分どもの前じゃずいぶん強気なフリしてんじゃねえか。凱、白黒はっきりつけろよ。お前のイチバンはなんだ、レイジをぶっ倒して東のトップになることか、今ここで俺をぶち殺して中国人のすごさを見せつけることか?違う、そんなの全部暇潰しのごまかしだ。東京プリズンじゃ他にやることねえから、ストレス発散の仕方他に知らねえから俺やレイジを目の敵にしてしつこくちょっかいかけてくるんだろ。聞かせろよお前の望み、レイジぶち殺して俺ぶち殺してそれで満足なんて笑わせるなよ、東京プリズンにいるかぎり永遠に満足なんかしねえよ!」
 「うるせえ!!」
 外に残した子供という急所をつかれ、完全に冷静さを失った凱がロンの横っ面を張り飛ばす。が、ロンは止めない。東京プリズン入所から一年半、毎日のように凱とその子分にいやがらせされた恨みを晴らすように怒号をぶちまける。
 血を吐くように必死な声音で、説教より説得にちかい真摯な響きで、凱に対する本音を文字通り体当たりでぶつける。
 「本当はガキがいちばん大事なくせに、ガキに会いたくてたまんねえくせに無理だからってあきらめて、俺にイライラぶつけて……腰抜けはどっちだ、縮んだ金玉犬に食わせちまえ!」
 『焦燥!!』   
 イライラする、と怒鳴った凱がロンの胸を突き飛ばす。
 はでな音をたてて金網に激突したロンがそのままずり落ちる。胸を強打されて息が詰まったらしい。上着の胸をおさえてうずくまったロンの様子が尋常ではなく、肋骨が折れたのではないかと危惧する。額に脂汗を浮かべ眉をしかめ、息遣いを整えようと喘息めいた呼吸をくりかえすロンの頭上に大柄な影がさす。胸を圧迫された激痛でいまだに立ち上がれないロンを挑発するように凱が笑う。手負いの獲物をなぶる快感に酔いしれた残虐な笑み。
 「降参か。リングで土下座して俺のモンしゃぶりゃあ半殺しで許してやる」
 「……てめえのモンなんかしゃぶったら舌が爛れちまう」
 片腕で金網に縋り、なんとか腰を上げた姿勢でロンが強がるが憎まれ口にも覇気がない。顔色は蒼白で呼吸は荒い。脂汗が冷えた額は蝋のように白く、べっとりぬれた前髪が両目に被さって視界を遮っている。
 前髪をかきあげるのさえ億劫なのか、立っているだけでやっとのロンに舌打ちした凱が尊大に顎をしゃくる。金網越しに子分に合図したのだ。
 「!」
 ガシャン、と耳障りな音が鳴る。ロンの背後、凱を応援していた東棟の住人がおもいきり金網を蹴ったのだ。金網に寄りかかり、束の間休息をとっていたロンは無防備な背中を蹴られ、くぐもった苦鳴とともに片ひざ折る。
 「卑劣な真似を」
 サムライが苦い顔をする。
 一発だけではない。二発三発四発と蹴りは連続して金網に衝撃が走り、金網に凭れ掛かったロンは後頭部といわず肩といわず背中といわず靴跡の泥にまみれてゆく。背中を起こせばいいと頭ではわかっているが体が言うことを聞かないのだろう、指一本自分の思うとおりにならない苦境で、意識が混濁したロンは力尽きて座りこんだままだ。
 「格好わりいな半半」
 「あぐっ、」
 凱の子分が金網越しに蹴りを入れ、ロンの体がぐらりと傾ぐ。
 「お前ごときが凱さんに勝てるわきゃねえだろ」
 金網に肩で寄りかかるロンの右肩をスニーカーの靴底で蹴り付ける。
 「レイジの女なら大人しく守られてろ、試合にしゃしゃりでてくんじゃねえ。目ざわりなんだよ」
 「っ、ふ」
 蹴り。
 「台湾人は淫売くせえって本当だな」
 「あっ」
 蹴り。
 「ほら、早く土下座しろよ。そこに這いつくばって凱さんの黒くて太くて固いモノ喉の奥までくわえこんで俺たちたのしませてくれよ。ゲロ吐いたらゲロも食わせるからな」
 「かほっ、」
 蹴り。
 もはや何発食らったのかわからない。蹴りを食らうたびに右へ左へとロンの体が傾いで金網に衝突し鈍い音をたてる。僕は今この目ではっきりと目撃して確信した。東棟の囚人の殆どは凱の味方で、ロンを応援する物好きは大穴狙いの賭博師を除いて僕らしかいない。凱を贔屓する囚人の大半は中国人だが、東棟の台湾人もロンを庇うような言動はこれっぽっちも見せず、むしろロンがボロボロになるほどに仲間内でつつきあい愉快そうな笑い声をあげる。右から左からロンに蹴りを入れ、口汚く罵倒する囚人たちの不快さに断言する。
 「僕の認識は誤っていた。これは一対一の試合じゃない、実質三百対一の公開リンチだ」
 台湾と中国の血が混ざったロンは、どちらでもありどちらでもなく、どちらからも歓迎されない。
 台湾人が憎い中国人は混血のロンにあたり、中国人が憎い台湾人はロンにあたる。どちらも東棟における多数派である中国人と台湾人が直接ぶつかれば流血の惨事に発展するが、台湾からも中国からも厄介者扱いされるロンをいやがらせの標的にするかぎり両者間の不干渉が保たれる。
 「スケープゴート、か」
 生贄の羊。いやな言葉だ。しかし、現在のロンの境遇をあらわすのにこれほど的確な名称もない。リング外の囚人ですら、凱の号令で一致団結して無抵抗のロンを嬲っている。頭を蹴られ肩を蹴られ背中を蹴られ、ロンの体で蹴られてないところなどもうありはしないというのにそれだけでは飽き足らず、背中を蹴られたロンが前のめりに倒れてリングに突っ伏せば、頭上に水が降り注ぐ。
 「誰が気絶していいって言ったんだよ」
 金網越しにペットボトルを振りかざし、ロンの頭上に水をぶちまけた囚人が哄笑すればつられたように周囲が爆笑する。頭に水をかけられ、服がびしょぬれになってもロンは立ち上がらない。僕の位置からでは気を失ってるのかどうかもわからない。 
 「武士道に反する」
 隣を見る。憮然とした面持ちのサムライが、力をこめ木刀を握り締め、朗々と声をはりあげる。
 「我慢できん、俺がでる。ロン、戻って来い」
 「聞こえるかロン、すぐに戻るんだ!このままでは負けてしまう、迅速にサムライと交代しろ」
 水たまりに突っ伏したロンが僕らの声に反応し、ゆっくりと顔を上げる。リングに手をつき、肘を立て、大儀そうに上体を起こす。虚ろに酩酊した目、痣と生傷だらけの顔は正視に耐えない痛々しさで、嬲り者という言葉の定義をこの上なく的確に体現していた。底を尽きかけた気力をかき集め、震える肘を叱咤し腕を伸ばし、罵声に耐えて上体を起こしたロンがぼんやりとこちらを見る。 
 意識が薄らぎつつあるらしく、瞼は半ばまで下りていた。頬の腫れが酷く、唇の端には血が滲み、前髪の先からはぽたぽた水滴が滴っている。
 「ロン、帰って来い!」
 『拒絶!』
 な、に?
 ロンに拒否され、当惑する。なにを言ってるんだロンは?正気を保ってるのが奇跡のようなぼろぼろの有り様で、まだ戦い続けることができると、まだ勝利をあきらめてないとそう言うのか。馬鹿な。実質三百対一で勝てる見込みなどありはしない、つまらない意地を張るのはいい加減にしろと金網を握り締める。
 「そんなボロボロの状態で試合を続行できるわけがない、サムライと交代すれば凱に勝てるかもしれない!選択を誤るな、100人抜きには僕たちの未来が賭かっている。目先の勝敗にとらわれず冷静に戦局を判断しろ、ここで負ければ100人抜きの目標は達成できず売春班に逆戻り……」
 「メガネとサムライはひっこんでろ!!」
 手の甲で顎を拭い、ロンが絶叫する。そんな大声をだす気力がどこに残っていたのか、小柄な体躯からは想像でもきない苛烈な声だった。
 「一度買った喧嘩を払い戻せるか。これは俺の喧嘩だ、だれがなんて言おうが絶対にリングをおりねえぞ」 
 ロンの目に火がついた。まだやれる、まだいけると口の中で呟き、ひどく時間をかけて二本足で立ち上がったロンがぬれた前髪の隙間から鬼気をこめた双眸が垣間見える。
 「レイジがいなくても戦えるって今ここで証明しねえと、俺は一生こいつらに馬鹿にされる。腰抜けの半半て笑われて足蹴にされる運命だ。はは、冗談じゃねえぞ。レイジに甘えて守られて、それがあたりまえの顔して一生通すなんて我慢できねえ。俺だって守りたいんだよ、自分以外の誰かを守りたいんだ、惚れた女とか将来できるかもしれないガキとか守りたいんだよ!」
 今にも崩れそうな上体を膝に両手をついて支え、危うい前傾姿勢をとったロンが自嘲的に笑う。
 「……東京プリズンにぶちこまれたら最後、こっから出られる可能性は低い。この先惚れる女も自分のガキもできないかもしれない。けど、ここに来て、家族じゃないけど守ってやりたい奴ができたんだ」
 「誰だ」
 うわ言のように呟くロンに凱が鼻を鳴らす。 
 居丈高に問われ、ロンが笑う。泣いてるような笑顔になったのは、切れた唇が痛んだせいらしい。
 「暗闇で泣いてるガキ」

 『コーラの空き瓶並べて倒すのだって遊びに見せかけた訓練だよ、的に弾あてる初歩訓練。ガキの頃からそんなのばっかり。暗い部屋に閉じ込められて耳鍛えたり……』
 数日前、青空の下に寝転がって聞いたレイジの台詞がよみがえる。
 暗い部屋に閉じ込められた子供の頃のレイジ。
 暗闇の中で泣いてる子供。
 そうか。
 そういうことだったのか。

 「自分ひとり守れないやつが自分以外の誰かを守ろうとしても説得力ねえよ。だからこの試合は勝たなきゃ意味ねんだ、俺ひとりの力でお前倒して自分納得させなきゃ意味ねえんだ、お前を倒して自分の身くらい守れるって証明しなきゃ泣いてるガキを暗闇からひきずりだすこともできねえ。俺はずっと暗闇のガキにびびったままで、ずっとぎくしゃくしたままで……」
 誰と、と言わなくてもわかる。
 これは、ロンの賭けだ。自分ひとりの力で凱を倒し試合に勝利することで、ロンは他ならぬ自分自身にレイジに怯える必要などないと納得させたいのだ。現在のレイジにはかなわなくとも、暗闇の中でひとり膝を抱えた子供を守れるくらいには強くなったと証明したくて勝ち目のない戦いを挑んでいるのだ。
 公私混同もいいところだ。
 本当に、ロンは救いようのない馬鹿だ。今この場にいないレイジのために、目の周りに痣をつくり頬を腫らし唇に血を滲ませ、全身擦り傷だらけで必死になって。
 本当に、馬鹿だ。
 「どこへ行く鍵屋崎」  
 「同房の人間が満身創痍で戦っているのに姿を見せない薄情者の捜索だ。用心棒はついてこなくていい、ロンが再起不能になった場合にそなえ待機してくれ」
 不審げなサムライに命令し、肩を並べて試合を傍観してるホセとヨンイルとを見比べる。
 「僕がいないあいだロンを見ていてくれ。誤解するなよ、べつに彼を心配してるわけじゃない。ただ彼に昏倒されると後が面倒なだけだ。彼が負ければ100人抜きが達成できず僕たちは売春班に逆戻りだ、ロンの敗北という最悪の事態を回避するために早急にレイジを連れ戻す必要がある。僕は目に見えない絆や信頼関係の概念には懐疑的だが、あんな男でもいないよりはマシなはずだ」
 「言い訳はええからはよ行ってこい」
 ヨンイルが苦笑する。 
 「きみが提案しなければ吾輩が捜索に赴くところでした。ボクサーとセコンドは切っても切り離せない関係、ロンくんが今いちばん会いたい人間がセコンドにいなければ意味がありません。不在中の応援はお任せ下さい。おっと、その前に」
 ホセが気取った手つきで黒縁メガネをとり、柔和な微笑みを浮かべて金網の向こう側を見る。肩をぶつけあい金網にしがみついてるのは、ロンをしつこく蹴っていた凱の子分だ。
 「お行儀良く観戦できない子にはお仕置きも辞さないのが吾輩のルールです」
 黒縁メガネをズボンの尻ポケットに収納したホセが、物静かに金網を迂回し、凱の子分のもとへ接近。その後ろ姿を見送り、僕へと向き直ったヨンイルが苦笑を上塗りする。
 「ホセ、ああ見えて意外と気が短いんや」
 事態は一刻を争う、ぐずぐずしている暇はない。ヨンイルに別れを告げ、サムライに背を向けて走り出した僕の耳に、ホセに鉄拳制裁を下された連中の悲鳴がとびこんでくる。
 「因果応報だ」
 肩越しに振り返れば、惨劇の現場を目撃したサムライが口の中で般若心経を唱え、片手を立てて拝んでいた。
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