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百九十八話
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体に刺青を入れたのは十歳の時だ。
全身を彫るのにまず全裸になる。彫刻刀で皮膚を削り、墨を入れる。何より手先の繊細さと細心さが要求される施術は気が遠くなるほど長時間にわたり、しまいには精も根も尽き果てた。
施術した人間の顔はおぼろげにしか覚えていない。
皮膚を切り刻まれる激痛に頭の芯が鈍く痺れ体の芯を熱におかされ、目に映る光景すべてが歪んでいた。
施術した人間は組織が飼っているプロの彫り師で腕は超一流だが、皮膚を刻む際に拷問の如く身を苛む激痛を癒せるわけもなく、途中何度も失神寸前まで追いこまれた。
痛かった。ただ痛かった。
身を苛む純粋な激痛を堪える為に血が滲むほどに唇を噛んで悲鳴を殺し苦鳴を漏らし、強く強く手に握り締めた布をただひたすらに掻き毟る。溺れる者が藁をも掴む必死さで、一途に無心に縋るものを求めて。固く目を瞑り涙腺を引き締めても自然と涙が零れ、汗と一緒くたに顎から滴った。
背中にのしかかるのは大人の手。
惰弱な甘えも微力な抵抗も許さず後頭部を押さえつけ、がっちりと肩を固定する非情な手。
涙で瞼を濡らして身近に目を凝らせば、裸の肩を抱擁した腕には刺青が彫られていた。
今、自分を裸に剥いて容赦なく床に這わせているのはよく日に焼けた逞しい腕だ。筋骨隆々という形容がよく似合う大人の男の腕、どれほど暴れても振りほどくことなど到底無理な強靭な握力。その腕に彫られているのは雄雄しい龍。今まさに神風を巻き起こして昇天せんと螺旋の蛇腹をのたうせた龍の刺青が、肘から手首にかけ見事に表現されている。
野蛮な生命力に満ち溢れた半面毒々しく照り映える緑の鱗一枚一枚に神格を帯びた、人から畏怖される伝説上の生き物。
許される限り身をよじり、後頭部の手を見上げる。
その手にもまた、刺青があった。むきだしの肩の付け根から手の甲にかけて、龍の刺青が。
『少しくらい我慢しろ』
耳に吹き込まれる吐息。思考力を奪い去る呪詛。
『これは儀式なんだ』
『俺たちの仲間になる儀式』
『お前を正式に同志として迎え入れるため、勇気と忠誠心を証明する儀式』
『同志の証の龍の刺青を彫る儀式』
『刺青の大きさや入れる部位は組織への貢献度や成した功績によって違ってくる。俺はな、テロ弾圧政策を可決しようとした政治家を殺って収容所にぶちこまれ釈放された時に手柄を讃え刺青を入れられた。組織への貢献度に比例して、肩の付け根から手の甲にかけて。一般人にゃ奇異の目で見られるから夏でも半袖着れないのが辛いがな。公衆浴場にも行けねえし』
『そうだな、一生半袖着れないのは辛いな。闇の中でしか女を抱けないのも』
『痛みは一瞬だが刺青は一生ついてまわる。お前がどこで何をしても、将来女を抱く時にも』
『光栄に思え。正真正銘最年少の刺青保持者だ。その若さで刺青もってる奴なんざほかに見当たらねえよ。ガキの全身に刺青入れるのも酷な話だがよ』
『褒美だと思えよ』
『お前の功績でKIAの知名度が一気に高まったし、政治家連中もいつ自分が狙われるかびびりまくってるし。まだ皮も剥けてねえガキだろうが何だろが、優秀なやつは早く洗礼済ませて仲間にしちまえってのが上のご意向で組織の総意だ』
『一回刺青入れちまえば一生組織抜けられねえし』
他にとられるまえに、逃げられるまえに、一生消えない烙印を体に刻め。
ここでしか生きてけないように、ここ以外に居場所がないように。
決して組織を裏切らないように、裏切る気などはなから起こさないように獰猛極まる龍を身の内に孕ませる儀式。
激痛と恐怖を骨の髄まで刻み込み、組織への忠誠と畏怖を植えつけ、洗礼と偽り洗脳する儀式。
彫り師は口数少ない人間らしく、十歳の少年が裸に剥かれ、屈強な男に二人がかりで押さえつけられた末、布を掻き毟り身悶える痛ましい光景にも微塵も動じず、背中に燻し銀の切っ先を添える。
健康的に日焼けしたなめらかな裸の背中に、彫刻刀が添えられ、そして―
『!―っ、はあっ』
小刻みに、小気味よく。
一定のリズムで拍子をとり、木の皮を剥ぐように背中に彫刻刀を入れば、苦痛の極地とも恍惚の官能ともつかぬうめき声がたまらず漏れる。彫り師は手際良く無表情に、苦悶に歪む少年の顔にもおかまいなしに彫刻刀を打ちこむ。痛い。鼻水と涙を垂れ流し、みっともなく泣き喚けば少しは気がラクになるのだろうか。全身で暴れて慈悲を乞えばこのいつ終わるともしれない拷問から解放されるのだろうか。
しかし泣けない。情けない。
祖父は、頑固で偏屈で人嫌いの祖父は、唯一の肉親でもあり家族でもある孫が人前でみっともなく泣き喚くのを許すだろうか?痛みを我慢できず、狂ったように身悶えし、「許してくれ助けてくれ」と涙ながらに訴えるのをよしとするのだろうか?
―許すわけがない。拳骨を落とされるに決まってる。
祖父の背中にも龍の刺青がある。一緒に風呂に入ったとき、この目で見た。確認した。幼い頃から何度も何度も。両親の体のどこかにもまた、祖父とおなじ刺青が、自分を押さえ付けて抵抗を封じる男の腕とおなじ刺青が存在したのだろう。両親も祖父も組織の人間なのだから、組織に飼い殺しにされた人間なのだから。祖父の背中を思い出す。ずっと昔、もう記憶も霞むほど昔、自分をおぶってくれた背中を。両親がいない寂しさに駄々をこねて泣けば、祖父は自分をおぶってあやしてくれた。あれはまだ三歳かそこらの頃か、五歳をこえて泣けば「やかましい」と殴られたから。
あの頃はずいぶんと広く逞しく感じられた祖父の背中も、今やすっかり老いた。
最後に風呂に入った時に目撃した祖父の皮膚が縮み、弛み、背中一面の龍も色褪せて生彩を欠いていた。それが、なんだか哀しかった。
祖父の老いを痛感させられたようで。祖父の死期が迫ってるのを思い知らされたようで。
張りと艶のある皮膚にこそ鮮烈に映える刺青には子供心に憧れていた。若く潤いのある皮膚でこそ際立つ彩り豊かな刺青、祖父とおなじ刺青、両親にもあったという刺青。
生まれてこのかた家族そろったことがないから、家族そろって何かを共有するのに漠然と憧れていた。
祖父とそろいの刺青なら悪くないなとも、楽観的に考えていた。
刺青を入れるのを祖父に無断で請け負ったのは、心の片隅でどこか憧れていたからだ。祖父以外の人間の刺青を見たこともある。
祖父と親しく頻繁に家を訪れていた人間が酔った勢いで袖をからげ得意げに見せてくれたのだ。
それを知った祖父は何故か激怒し、「んなつまらんもん見せるな」と履き物を投げて知人を追い返したが、その理由が今は理解できる。
祖父は娘の忘れ形見であり、唯一の肉親たる孫に自分と同じ道を辿って欲しくなかったのだ。
まっとうに生きてほしかったのだ。
体に刺青なんか彫るな、組織になど入るな、自分の真似をするな憧れるな爆弾作りに手を出すな。孫が組織に目をつけられ利用されていることを祖父は深刻に気に病んでいた。組織とは縁を切れ、手を切れ、おまえはワシや娘夫婦のぶんまでまっとうに生きろと口を酸っぱくして言われたのを、祖父が説教する気力も失くしすっかり老け込んだ今になって懐かしく思い返す。
不孝やな、俺。
とんでもない不孝者や。
不孝なだけやなくて、虫がいい。
祖父の説教が聞けなくなった今になって、頭を張り飛ばされなくなった今頃になって、しわがれた怒鳴り声が懐かしくなるなんて。また、どつかれとうなるなんて。
熱に浮かされた頭が朦朧とし、視界が霞んで意識が遠のく。
布に取り縋った手から力が抜け、ぐったりと四肢が弛緩。
『さすがに無理か』
『もたねえだろうな、麻酔もなしじゃ』
『気ィ失ったほうがラクだないっそ。目が覚めりゃ晴れて組織に仲間入りだ』
『俺たちの仲間として認められるんだ』
肩を掴んだ手の持ち主が、耳元に口を近付け祝福する。
『オショスムニダ、同志』
「ようこそ、同志」。
『オショスムニダ、同志』
後頭部の手の持ち主が、そっくり同じ台詞を復唱する。
体を責め苛む激痛に意識が果てる寸前、瞼の裏に思い浮かべたのは祖父の面影。顔の上半分のゴーグルにさえぎられて表情は見えないが、何故だか祖父に「しょうもない奴やな、ホンマ」と言われた気がした。
『しょうもない奴やな、ホンマ』
夢じゃない。声は現実にした。
意気消沈した呟きに正気に戻り、跳ね起きる。いつのまに敷かれたのか、自分は布団に寝かされていた。 激痛に失神した自分が敷けるわけがないから、自分をここまで運んだ人間か祖父が手ずから敷いてくれたのだろう。
『何日も帰ってこないから、どこほっつき歩いとるんやあのあほんだらて腹に据えかねてしょうもないことばかり考えてもうたわ』
布団の傍らに正座した祖父が吶々と語る。深い皺が寄った顔に苦渋を湛え、痛ましい眼差しで。
祖父が心配するのも無理はない。
刺青を彫ってやるとそそのかされ、ふらりと家を出たきりずっと音沙汰なしだったのだから。
『……女と駆け落ちしたかと思った?』
冗談めかして聞けば、途端に頭をはたかれる。祖父に頭をはたかれるのも随分と久しぶりだ。昔は悪戯するたびに手加減なくはたかれたものだが、最近ではぱったり孫に手を上げなくなって少し物足りなく感じていた。
『アホ言えませガキ。十歳のガキに手え出す物好きがどこにいる、家出と勘違いして気ィ揉んだだけや』
『冗談やのに、そんなに怒ることないやん』
苦笑いとともに頭をさする。祖父は日本にいた期間が長く、家ではこうして日本語を話していた。正確には標準語ではなくどこかの訛りが入ってるらしいが、祖父譲りの日本語しか知らないからよくわからない。
成人して後、妻子を伴い渡った祖国の言葉より生まれ育った国の言葉が得意な祖父が、じっと物言いたげに孫を見つめている。どこか思い詰めた眼差しで、もう引き返せないところまで来てしまった人間特有の哀切な眼差しで。
『……入れてもうたんやな』
『ああ』
何を言われてるかすぐにわかったから、なるべくそっけなく頷いてみせる。
『身内に何の相談もせず親から貰った体に傷つける不孝モンがどこにおる』
『ここにおる』
『どつくど』
『痛っ、どついてから言うの卑怯や。……だって正直言うたら怒ったやろ、絶対』
『あたりまえや』
体はまだだるい。体の芯で熾火が燻っているようだ。体の節々が痛むのは皮膚の炎症のせいだろうか。いつのまに着せられたのか上半身にはTシャツを羽織り、下にはトランクスを穿いていた。何気なく毛布を剥ぎ、トランクスから突き出た足を見下ろす。
尖った膝小僧と華奢な脛、腕白な少年の足。
しょっちゅう箪笥の角にぶつけたり転んだりしてるせいですり傷が絶えない見慣れた足がそこにあるはずだった。
しかし、現実に布団に投げ出されていたのは。
毒々しく照り映える緑の鱗が螺旋状に巻き付いた足。
『……ああ』
終わったんや、と呟く。拷問から解放された安堵に浸かりながら、何かを得て何かを失った虚脱感とともに。祖父のもとを離れてからどれくらい監禁されていたのか正確な日数はわからない。一昼夜、いや、一週間かそれ以上か?わからない、判然としない。体力が果てるまで付っきりで刺青を彫られてるあいだ、霞がかかったように頭が朦朧としてここがどこで自分が誰かもわからなくなっていた。入れかわり立ちかわり誰かに肩を押さえつけられ、入れかわり立ちかわり監視されていたように思う。
周囲に何人の人間がいたのか、それすらも漠然としか把握できなかった。
自分を押さえ付けていた人間が二人、彫り師が一人、その助手が一人、監視役が二人か三人の厳重体制……そうだ、とにかく水が飲みたかった。喉が乾いて仕方がなかった。しかし身動きすらできなかった、少しでも動けば手元が狂うと叱責されさらに強く押さえつけられた。肩が軋むほどに、万力で容赦なく締め上げる拷問のように。
もう終わったんや。
全身が微熱をおびたように火照っているのは、体に彫られたばかりの刺青のせいだ。墨が肌に馴染むまでもうしばらく時間がかかる。余熱を持て余して気だるい体を抱きしめれば、祖父の呟きが耳に聞こえる。
『ホンマにアホやな』
大袈裟にかぶりを振り振り、ため息まじりに嘆く祖父にかちんと反感をおぼえる。あんなに痛い思いを味わったのに「アホ」の一言で片付けられては自分の苦労が報われないではないか。祖父へと向き直り、肩の付け根まで袖をめくりあげる。
あらわになった腕には一匹の龍、鱗一枚一枚が艶やかに照り映える躍動的な刺青。
『どや、かっこええやろ。じっちゃんとおそろいや』
「じっちゃんとおそろい」という言葉にはどこかこそばゆげで、かつ自慢げな響きがあった。確かにそれは祖父の背中に彫られた刺青をそのまま腕に移植したようにも見えるが、自分の場合は背中だけでなく全身に及んでいる。肩にも背中にも胸にも腹にも腰にも太股にも脛にも足首にも、四肢に巻きつくように巨大な龍が棲みついている。この刺青が完成するまで途中何度も失神した。激痛のあまり半狂乱で絶叫して意識を手放したが、その甲斐あって満足行く出来映えに仕上がって……
『入れてもらったんや、刺青。腕だけやない、体中に。肩にも背中にも胸にも腹にも腰にも太股にも脛にも足首にもあるんやで。すごいやろ、今度風呂に入ったとき見せたる。ちょーっと痛かったけどな、済んでもうたらたいしたことない。おかんとおとんにもおなじ刺青あったんやろ?家族揃って体に刺青てなんか格好ええな、極道家族や。じっちゃんが親分やな、きっと。いっつも眉間に皺寄せてぎょろ目剥いたおっかない顔してるもん……』
むきだしの腕を祖父の眼前に突きつけ、何かに憑かれたようにまくしたてる。うしろめたさをごまかすように、虚勢を張って。八重歯を覗かせた人懐こい笑顔で。
『格好ええやろ、じっちゃん』
祖父に誉めてもらいたくて、せっかく刺青を入れたのに。
家族に自慢したくて、歯を食いしばって痛みに耐えたのに。
『なんで泣くん』
頑張って痛みを堪えたのに、全身に刺青を入れたのに、そうまでして祖父の口から引き出そうとした称賛の言葉は聞けず、祖父は深々と顔を伏せ肩を震わすばかり。嗚咽もあげず、膝の上で握り締めたこぶしを涙でぬらすばかり。
これで組織の一員だとか、晴れて同志として認められたとか、そんなことはどうでもよかった。二の次だった。ただ自分は祖父に誉めてもらいたくて、誇りに思ってほしかっただけだ。
自分にとって祖父がそうであるように―
祖父は無言で涙をこぼし続ける。決して孫の顔は見ず、頑固に俯いて。
そんな祖父によわりきったように眉を下げ、少年はぽつりと呟く。
『………後生やから、誉めたってや』
祖父が他界したのは、その一ヶ月後だ。
形見のゴーグルを孫に遺して。
全身を彫るのにまず全裸になる。彫刻刀で皮膚を削り、墨を入れる。何より手先の繊細さと細心さが要求される施術は気が遠くなるほど長時間にわたり、しまいには精も根も尽き果てた。
施術した人間の顔はおぼろげにしか覚えていない。
皮膚を切り刻まれる激痛に頭の芯が鈍く痺れ体の芯を熱におかされ、目に映る光景すべてが歪んでいた。
施術した人間は組織が飼っているプロの彫り師で腕は超一流だが、皮膚を刻む際に拷問の如く身を苛む激痛を癒せるわけもなく、途中何度も失神寸前まで追いこまれた。
痛かった。ただ痛かった。
身を苛む純粋な激痛を堪える為に血が滲むほどに唇を噛んで悲鳴を殺し苦鳴を漏らし、強く強く手に握り締めた布をただひたすらに掻き毟る。溺れる者が藁をも掴む必死さで、一途に無心に縋るものを求めて。固く目を瞑り涙腺を引き締めても自然と涙が零れ、汗と一緒くたに顎から滴った。
背中にのしかかるのは大人の手。
惰弱な甘えも微力な抵抗も許さず後頭部を押さえつけ、がっちりと肩を固定する非情な手。
涙で瞼を濡らして身近に目を凝らせば、裸の肩を抱擁した腕には刺青が彫られていた。
今、自分を裸に剥いて容赦なく床に這わせているのはよく日に焼けた逞しい腕だ。筋骨隆々という形容がよく似合う大人の男の腕、どれほど暴れても振りほどくことなど到底無理な強靭な握力。その腕に彫られているのは雄雄しい龍。今まさに神風を巻き起こして昇天せんと螺旋の蛇腹をのたうせた龍の刺青が、肘から手首にかけ見事に表現されている。
野蛮な生命力に満ち溢れた半面毒々しく照り映える緑の鱗一枚一枚に神格を帯びた、人から畏怖される伝説上の生き物。
許される限り身をよじり、後頭部の手を見上げる。
その手にもまた、刺青があった。むきだしの肩の付け根から手の甲にかけて、龍の刺青が。
『少しくらい我慢しろ』
耳に吹き込まれる吐息。思考力を奪い去る呪詛。
『これは儀式なんだ』
『俺たちの仲間になる儀式』
『お前を正式に同志として迎え入れるため、勇気と忠誠心を証明する儀式』
『同志の証の龍の刺青を彫る儀式』
『刺青の大きさや入れる部位は組織への貢献度や成した功績によって違ってくる。俺はな、テロ弾圧政策を可決しようとした政治家を殺って収容所にぶちこまれ釈放された時に手柄を讃え刺青を入れられた。組織への貢献度に比例して、肩の付け根から手の甲にかけて。一般人にゃ奇異の目で見られるから夏でも半袖着れないのが辛いがな。公衆浴場にも行けねえし』
『そうだな、一生半袖着れないのは辛いな。闇の中でしか女を抱けないのも』
『痛みは一瞬だが刺青は一生ついてまわる。お前がどこで何をしても、将来女を抱く時にも』
『光栄に思え。正真正銘最年少の刺青保持者だ。その若さで刺青もってる奴なんざほかに見当たらねえよ。ガキの全身に刺青入れるのも酷な話だがよ』
『褒美だと思えよ』
『お前の功績でKIAの知名度が一気に高まったし、政治家連中もいつ自分が狙われるかびびりまくってるし。まだ皮も剥けてねえガキだろうが何だろが、優秀なやつは早く洗礼済ませて仲間にしちまえってのが上のご意向で組織の総意だ』
『一回刺青入れちまえば一生組織抜けられねえし』
他にとられるまえに、逃げられるまえに、一生消えない烙印を体に刻め。
ここでしか生きてけないように、ここ以外に居場所がないように。
決して組織を裏切らないように、裏切る気などはなから起こさないように獰猛極まる龍を身の内に孕ませる儀式。
激痛と恐怖を骨の髄まで刻み込み、組織への忠誠と畏怖を植えつけ、洗礼と偽り洗脳する儀式。
彫り師は口数少ない人間らしく、十歳の少年が裸に剥かれ、屈強な男に二人がかりで押さえつけられた末、布を掻き毟り身悶える痛ましい光景にも微塵も動じず、背中に燻し銀の切っ先を添える。
健康的に日焼けしたなめらかな裸の背中に、彫刻刀が添えられ、そして―
『!―っ、はあっ』
小刻みに、小気味よく。
一定のリズムで拍子をとり、木の皮を剥ぐように背中に彫刻刀を入れば、苦痛の極地とも恍惚の官能ともつかぬうめき声がたまらず漏れる。彫り師は手際良く無表情に、苦悶に歪む少年の顔にもおかまいなしに彫刻刀を打ちこむ。痛い。鼻水と涙を垂れ流し、みっともなく泣き喚けば少しは気がラクになるのだろうか。全身で暴れて慈悲を乞えばこのいつ終わるともしれない拷問から解放されるのだろうか。
しかし泣けない。情けない。
祖父は、頑固で偏屈で人嫌いの祖父は、唯一の肉親でもあり家族でもある孫が人前でみっともなく泣き喚くのを許すだろうか?痛みを我慢できず、狂ったように身悶えし、「許してくれ助けてくれ」と涙ながらに訴えるのをよしとするのだろうか?
―許すわけがない。拳骨を落とされるに決まってる。
祖父の背中にも龍の刺青がある。一緒に風呂に入ったとき、この目で見た。確認した。幼い頃から何度も何度も。両親の体のどこかにもまた、祖父とおなじ刺青が、自分を押さえ付けて抵抗を封じる男の腕とおなじ刺青が存在したのだろう。両親も祖父も組織の人間なのだから、組織に飼い殺しにされた人間なのだから。祖父の背中を思い出す。ずっと昔、もう記憶も霞むほど昔、自分をおぶってくれた背中を。両親がいない寂しさに駄々をこねて泣けば、祖父は自分をおぶってあやしてくれた。あれはまだ三歳かそこらの頃か、五歳をこえて泣けば「やかましい」と殴られたから。
あの頃はずいぶんと広く逞しく感じられた祖父の背中も、今やすっかり老いた。
最後に風呂に入った時に目撃した祖父の皮膚が縮み、弛み、背中一面の龍も色褪せて生彩を欠いていた。それが、なんだか哀しかった。
祖父の老いを痛感させられたようで。祖父の死期が迫ってるのを思い知らされたようで。
張りと艶のある皮膚にこそ鮮烈に映える刺青には子供心に憧れていた。若く潤いのある皮膚でこそ際立つ彩り豊かな刺青、祖父とおなじ刺青、両親にもあったという刺青。
生まれてこのかた家族そろったことがないから、家族そろって何かを共有するのに漠然と憧れていた。
祖父とそろいの刺青なら悪くないなとも、楽観的に考えていた。
刺青を入れるのを祖父に無断で請け負ったのは、心の片隅でどこか憧れていたからだ。祖父以外の人間の刺青を見たこともある。
祖父と親しく頻繁に家を訪れていた人間が酔った勢いで袖をからげ得意げに見せてくれたのだ。
それを知った祖父は何故か激怒し、「んなつまらんもん見せるな」と履き物を投げて知人を追い返したが、その理由が今は理解できる。
祖父は娘の忘れ形見であり、唯一の肉親たる孫に自分と同じ道を辿って欲しくなかったのだ。
まっとうに生きてほしかったのだ。
体に刺青なんか彫るな、組織になど入るな、自分の真似をするな憧れるな爆弾作りに手を出すな。孫が組織に目をつけられ利用されていることを祖父は深刻に気に病んでいた。組織とは縁を切れ、手を切れ、おまえはワシや娘夫婦のぶんまでまっとうに生きろと口を酸っぱくして言われたのを、祖父が説教する気力も失くしすっかり老け込んだ今になって懐かしく思い返す。
不孝やな、俺。
とんでもない不孝者や。
不孝なだけやなくて、虫がいい。
祖父の説教が聞けなくなった今になって、頭を張り飛ばされなくなった今頃になって、しわがれた怒鳴り声が懐かしくなるなんて。また、どつかれとうなるなんて。
熱に浮かされた頭が朦朧とし、視界が霞んで意識が遠のく。
布に取り縋った手から力が抜け、ぐったりと四肢が弛緩。
『さすがに無理か』
『もたねえだろうな、麻酔もなしじゃ』
『気ィ失ったほうがラクだないっそ。目が覚めりゃ晴れて組織に仲間入りだ』
『俺たちの仲間として認められるんだ』
肩を掴んだ手の持ち主が、耳元に口を近付け祝福する。
『オショスムニダ、同志』
「ようこそ、同志」。
『オショスムニダ、同志』
後頭部の手の持ち主が、そっくり同じ台詞を復唱する。
体を責め苛む激痛に意識が果てる寸前、瞼の裏に思い浮かべたのは祖父の面影。顔の上半分のゴーグルにさえぎられて表情は見えないが、何故だか祖父に「しょうもない奴やな、ホンマ」と言われた気がした。
『しょうもない奴やな、ホンマ』
夢じゃない。声は現実にした。
意気消沈した呟きに正気に戻り、跳ね起きる。いつのまに敷かれたのか、自分は布団に寝かされていた。 激痛に失神した自分が敷けるわけがないから、自分をここまで運んだ人間か祖父が手ずから敷いてくれたのだろう。
『何日も帰ってこないから、どこほっつき歩いとるんやあのあほんだらて腹に据えかねてしょうもないことばかり考えてもうたわ』
布団の傍らに正座した祖父が吶々と語る。深い皺が寄った顔に苦渋を湛え、痛ましい眼差しで。
祖父が心配するのも無理はない。
刺青を彫ってやるとそそのかされ、ふらりと家を出たきりずっと音沙汰なしだったのだから。
『……女と駆け落ちしたかと思った?』
冗談めかして聞けば、途端に頭をはたかれる。祖父に頭をはたかれるのも随分と久しぶりだ。昔は悪戯するたびに手加減なくはたかれたものだが、最近ではぱったり孫に手を上げなくなって少し物足りなく感じていた。
『アホ言えませガキ。十歳のガキに手え出す物好きがどこにいる、家出と勘違いして気ィ揉んだだけや』
『冗談やのに、そんなに怒ることないやん』
苦笑いとともに頭をさする。祖父は日本にいた期間が長く、家ではこうして日本語を話していた。正確には標準語ではなくどこかの訛りが入ってるらしいが、祖父譲りの日本語しか知らないからよくわからない。
成人して後、妻子を伴い渡った祖国の言葉より生まれ育った国の言葉が得意な祖父が、じっと物言いたげに孫を見つめている。どこか思い詰めた眼差しで、もう引き返せないところまで来てしまった人間特有の哀切な眼差しで。
『……入れてもうたんやな』
『ああ』
何を言われてるかすぐにわかったから、なるべくそっけなく頷いてみせる。
『身内に何の相談もせず親から貰った体に傷つける不孝モンがどこにおる』
『ここにおる』
『どつくど』
『痛っ、どついてから言うの卑怯や。……だって正直言うたら怒ったやろ、絶対』
『あたりまえや』
体はまだだるい。体の芯で熾火が燻っているようだ。体の節々が痛むのは皮膚の炎症のせいだろうか。いつのまに着せられたのか上半身にはTシャツを羽織り、下にはトランクスを穿いていた。何気なく毛布を剥ぎ、トランクスから突き出た足を見下ろす。
尖った膝小僧と華奢な脛、腕白な少年の足。
しょっちゅう箪笥の角にぶつけたり転んだりしてるせいですり傷が絶えない見慣れた足がそこにあるはずだった。
しかし、現実に布団に投げ出されていたのは。
毒々しく照り映える緑の鱗が螺旋状に巻き付いた足。
『……ああ』
終わったんや、と呟く。拷問から解放された安堵に浸かりながら、何かを得て何かを失った虚脱感とともに。祖父のもとを離れてからどれくらい監禁されていたのか正確な日数はわからない。一昼夜、いや、一週間かそれ以上か?わからない、判然としない。体力が果てるまで付っきりで刺青を彫られてるあいだ、霞がかかったように頭が朦朧としてここがどこで自分が誰かもわからなくなっていた。入れかわり立ちかわり誰かに肩を押さえつけられ、入れかわり立ちかわり監視されていたように思う。
周囲に何人の人間がいたのか、それすらも漠然としか把握できなかった。
自分を押さえ付けていた人間が二人、彫り師が一人、その助手が一人、監視役が二人か三人の厳重体制……そうだ、とにかく水が飲みたかった。喉が乾いて仕方がなかった。しかし身動きすらできなかった、少しでも動けば手元が狂うと叱責されさらに強く押さえつけられた。肩が軋むほどに、万力で容赦なく締め上げる拷問のように。
もう終わったんや。
全身が微熱をおびたように火照っているのは、体に彫られたばかりの刺青のせいだ。墨が肌に馴染むまでもうしばらく時間がかかる。余熱を持て余して気だるい体を抱きしめれば、祖父の呟きが耳に聞こえる。
『ホンマにアホやな』
大袈裟にかぶりを振り振り、ため息まじりに嘆く祖父にかちんと反感をおぼえる。あんなに痛い思いを味わったのに「アホ」の一言で片付けられては自分の苦労が報われないではないか。祖父へと向き直り、肩の付け根まで袖をめくりあげる。
あらわになった腕には一匹の龍、鱗一枚一枚が艶やかに照り映える躍動的な刺青。
『どや、かっこええやろ。じっちゃんとおそろいや』
「じっちゃんとおそろい」という言葉にはどこかこそばゆげで、かつ自慢げな響きがあった。確かにそれは祖父の背中に彫られた刺青をそのまま腕に移植したようにも見えるが、自分の場合は背中だけでなく全身に及んでいる。肩にも背中にも胸にも腹にも腰にも太股にも脛にも足首にも、四肢に巻きつくように巨大な龍が棲みついている。この刺青が完成するまで途中何度も失神した。激痛のあまり半狂乱で絶叫して意識を手放したが、その甲斐あって満足行く出来映えに仕上がって……
『入れてもらったんや、刺青。腕だけやない、体中に。肩にも背中にも胸にも腹にも腰にも太股にも脛にも足首にもあるんやで。すごいやろ、今度風呂に入ったとき見せたる。ちょーっと痛かったけどな、済んでもうたらたいしたことない。おかんとおとんにもおなじ刺青あったんやろ?家族揃って体に刺青てなんか格好ええな、極道家族や。じっちゃんが親分やな、きっと。いっつも眉間に皺寄せてぎょろ目剥いたおっかない顔してるもん……』
むきだしの腕を祖父の眼前に突きつけ、何かに憑かれたようにまくしたてる。うしろめたさをごまかすように、虚勢を張って。八重歯を覗かせた人懐こい笑顔で。
『格好ええやろ、じっちゃん』
祖父に誉めてもらいたくて、せっかく刺青を入れたのに。
家族に自慢したくて、歯を食いしばって痛みに耐えたのに。
『なんで泣くん』
頑張って痛みを堪えたのに、全身に刺青を入れたのに、そうまでして祖父の口から引き出そうとした称賛の言葉は聞けず、祖父は深々と顔を伏せ肩を震わすばかり。嗚咽もあげず、膝の上で握り締めたこぶしを涙でぬらすばかり。
これで組織の一員だとか、晴れて同志として認められたとか、そんなことはどうでもよかった。二の次だった。ただ自分は祖父に誉めてもらいたくて、誇りに思ってほしかっただけだ。
自分にとって祖父がそうであるように―
祖父は無言で涙をこぼし続ける。決して孫の顔は見ず、頑固に俯いて。
そんな祖父によわりきったように眉を下げ、少年はぽつりと呟く。
『………後生やから、誉めたってや』
祖父が他界したのは、その一ヶ月後だ。
形見のゴーグルを孫に遺して。
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