少年プリズン

まさみ

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百七十二話

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 「!」
 遥か先、角を折れた廊下から声が聞こえてきた。
  ロンと同時に顔を見合わせ、気配を殺して急接近。ふたりして壁に背中を密着させ、声がした通路をそっと覗きこむ。
 階段があった。
 東京プリズンには今は使われてない階段や閉鎖された通路が数多く存在する。後にエレベーターが設置されて利用者の足が遠のいた為に、今では蜘蛛の巣が張った階段が幾つも放置されているのだ。
 密談には最適の場だ。   
 人目を避け、わざわざ今は使われてない階段へと五十嵐を誘導したタジマが踊り場に立っていた。
 へりくだった低姿勢で合掌し、醜い愛想笑いを浮かべたタジマに向き合った五十嵐は憮然としていた。 
 「……またかよ但馬、いったいいつになったら貸した金返してくれるんだ。借金十万超えたぜ」
 「俺とおまえの仲でかてえこと言うなよ、借りた金はいつかちゃんと返すよ」
 「いつかっていつだ、何年先だ?」
 「返すもなにも今手元にねえもんどうしようもねえだろが」
 「おまえの手元に金が残らねえのは風俗通いで全部使っちまうからだろうが。知ってるんだぜ、おまえが新宿のSMクラブに通いつめてること。あの手の風俗は金かかるよな、売春班のガキどもただ食いするだけじゃ飽き足らずアブノーマルな趣味にまで手え出すなんて看守の風上にもおけねえ最低野郎だ」
 口にするのも汚らわしげに五十嵐が吐き捨て、嘔吐感さえ催す生理的嫌悪がロンの顔に渦巻く。
 「……どうりで人の耳にピアス穴開けたがるサドで変態なわけだ。イイ趣味してんなゲス野郎」
 「?なんのことだ」
 「うるせえ、黙ってろ」
 普段の横柄な態度はどこへやら、タジマが五十嵐を拝み倒していた。機嫌をとるように両手をすり合わせ、脂下がった顔で続ける。
 「つれねえこと言うなよ、同僚だろ。おまえもご無沙汰ならちょっとは俺の下半身事情わかるだろう、売春班が休止に追いこまれたせいで溜まりに溜まってはちきれそうなんだよ。売春班のガキでヌけねえなら外で女買うしかねえだろが。恨むんなら正義の味方気取りのレイジを恨め、けっ、あの茶髪のクソガキがペア戦100人抜きの条件に売春班撤廃だなんてとんでもねえこと言い出しやがってよ!」
 タジマが踊り場の壁を蹴る。壁の震動が天井に伝わり、漆喰の粉末が剥げ落ちる。 
 「今に見てろよくそったれが、どんな手使っても絶対100人抜き阻止して売春班に落としてやる!この俺様をなめた貸しは高くつくぜ、レイジのケツ剥いて黒くて硬いもんぶちこんで二度と生意気な口叩けないようにしてやる。ああ、たのしみでたのしみでしょうがねえ!レイジが負けたら鍵屋崎とロンも売春班に戻ってくる、またいつでもアイツらを抱けるようになるっ」
 怒り狂うタジマ。狂気に充血した目が異様な輝きを放ち、興奮に乾いた唇を何度となく舌で湿らせ汚い唾をまきちらす。タジマの頭の中で繰り広げられてる光景を想像すると吐き気がする。無意識に口を押さえた僕の隣、人を殺しそうな形相でロンが唸る。
 『寄生蟲的東京監獄(チーセンツォンダウェトンチンチエンユィ)』
 まったく同感だ。タジマは東京プリズンの寄生虫だろう。
 「ああ、今からたのしみだぜ売春班に戻ってきたロンと鍵屋崎を裸に剥いて犬のように四つん這いにして後ろから犯すのが!目に浮かぶぜ、あいつらが泣き叫ぶ顔が!ひんひん喘いでねだるように尻振る姿が!そうだいいこと思いついた、鍵屋崎とロンを絡めて遊ぶのもまた一興だな」

 なに、を言ってるんだこの変態性欲者で性格破綻者で異常者の低能は。

 あまりに常軌を逸脱した発言に、ロンの顔から血の気が引いてゆく。踊り場ではタジマが哄笑してる。耳をふさぎたくなるようなだみ声で、制服のボタンもはちきれそうに腹を揺らして。
 「そうだそうしよう、あいつら二人絡めてそれ見て楽しもう。鍵屋崎にはたっぷり仕込んでやったし、ロンのケツがイイ具合にこなれるまであいつにヤらせるのも……」
 「タジマ!」
 壁に背中を預けて座りこみたくなった。片手で口を押さえ、猛烈な吐き気と戦いながら踊り場を見上げれば五十嵐がタジマの襟首を掴んでいた。
 「……囚人いじめもほどほどにしとけよ、あいつらはおまえの性欲解消するためのオモチャじゃねえんだぞ。いいか、今度なんかあったら上に報告するからな」
 「よくそんなでかい口がきけるな」
 義憤に鼻息荒くした五十嵐に襟首を締め上げられてもタジマは動じない。襟首にかけられた手を力づくで引き剥がし、先ほどまでの低姿勢はどこへやら、下劣な本性をむきだした笑みを浮かべる。
 「いいのかよ、周りに『あのこと』ばらしても」
 「!」
 『あのこと』?
 「いやだよなあ、そりゃそうだよなあ。おまえのこと親父みたいに慕ってる囚人やなにも知らねえ同僚に秘密知られてシカトされるのは。とくにガキどもはがっかりだな、今までなにくれとなく良くしてくれた五十嵐さんが私怨で囚人殺しかけた極悪人だと知れば。そしたら今度はおまえがリンチの標的にされるんじゃねえか?まわり全部敵に回して東京プリズンで生き残るのは大変だな」

 私怨、極悪人、標的。

 わからない、タジマは何を言ってるんだ?五十嵐が過去に囚人を殺しかけたなんてにわかには信じがたい、だがタジマが嘘をついてるにしては五十嵐の態度がおかしい。 
 脳裏によみがえる光景。
 中空の渡り廊下を仰ぎ、夕暮れの中庭にたたずむ五十嵐。
 その手に握り締められた免許証入れ、娘の写真。 
 五十嵐に接近したタジマが、耳に吐息を吹きかけるようにねっとりと囁く。
 「弱みバラされるのがいやなら俺の言うとおりにしろよ」
 「………」
 舌打ち。
 制服のポケットを探り、皮の財布から紙幣を三枚抜き取る。胸に叩き付けられた紙幣に狂喜したタジマが「ひゃっほう!」と歓声を発する。
 「ありがとよ五十嵐、恩にきるぜ。これからも仲良くしてくれよ」
 有頂天に浮き足立ったタジマが階段を駆け上がってゆく。重たい足音を響かせて階段を駆け上がったタジマなど見向きもせず、俯き加減に立ち尽くす五十嵐。
 その手は体の両脇で握り締められ、屈辱と葛藤に打ち震えていた。
 「五十嵐さん」
 ハッと顔をあげた五十嵐と目が合う。タジマがいなくなれば隠れることもないだろうという安心感から無防備に階段の真下に歩み出る。  
 「……見ていたのか?ずっと聞いてたのか?」
 「いいえ、今偶然そこを通りかかったんです。僕たちが来た時にはもう話が終わってました」
 とっさに嘘をつく。その言葉を鵜呑みにしたのか疑ってるのか、傍目には窺いしれない複雑な面持ちで五十嵐が降りてくる。成り行きで立ち聞きしてしまったが、今の話は聞かなかったふりをするのが無難だろう。
 「で、何の用だ?」
 「バンソウコウを貸してください。サムライが怪我をしてしまったんで……」
 「ダチのためにバンソウコウ貰いにきたのか。優しいな」
 他人に「優しい」と評されると侮辱された気分になる。
 「気色悪いこと言わないでください。擦り傷だと甘く見て、後々黴菌にでも感染したら同房の僕が不快になるからです」 
 五十嵐に手渡されたバンソウコウを背後に突っ立っていたロンに預け、命じる。
 「先に帰ってろ」
 「先にって、おまえはどうすんだよ」
 「もう少しここにいる。個人的に五十嵐と話し合いたい重大な用件があるんだ」
 その言葉に五十嵐が警戒する。バンソウコウを押し付けられたロンは一瞬ぽかんとした顔をしたが、彼なりに気を利かせてくれたらしい。ひょっとしたら今見聞きしたことを整理する時間が欲しかったのかもしれない、うしろめたげに僕と五十嵐とを盗み見、廊下を走り去ったロンの足音が甲高く反響する。
 ロンがいなくなったあと。
 足音の残響が大気に溶けた廊下に僕とふたり取り残された五十嵐が、何とも形容しがたい顔をする。
 「鍵屋崎おまえ……、」
 続く言葉を無視し、ポケットから取り出したのは一通の手紙。面食らった五十嵐の手に手紙を預け、下を向く。
 「―妹へ、いや正確には妹の担当医への手紙です。僕の代わりに投函してもらえませんか」
 この数日間、機を見て五十嵐に渡そうとずっと持ち歩いていた手紙だ。
 恵の担当医から届いた手紙には「妹の近況を知りたいならいつでも手紙をくれ」と記述があった。

 はっきり拒絶されたとはいえ、恵がただひとりの大事な妹であることに変わりはない。

 恵の近況を知りたいという欲求は日増しに膨れ上がり、ついに返事をだすことにした。担当医を名乗る見知らぬ他人を介してでも恵と繋がりを保てるならその希望に縋りたい。恵が元気でいるか、風邪などひいてないか、それさえ知ることができるなら実際の文通相手が他人だろうがかまわない。
 ……否。
 僕はただ僕のしたことは無意味じゃなかったと、ちゃんと意味があったのだと第三者に認めさせたいのかもしれない。僕の存在は無意味じゃなかったと、僕の人生は無意味じゃなかったんだと恵のそばにいる人間に手紙を送り付ける行為を通じて主張したいのかもしれない。
 とことん自己本位で見下げ果てた人間だ。自分に殺意さえ沸く。    
 でもそれでも、欺瞞と偽善を積み上げた愚かしい行為に過ぎなくても、僕はやっぱり恵を身近に感じていたい。恵には僕の妹でいてほしい、家族でいてほしい。恵が僕のことを兄とも家族とも思っていなくても、僕の中で一生恵が妹であり家族である事実は変わらない。
 一方的な未練と執着にすぎなくても、僕はまだ恵の兄でいさせて欲しいのだ。
 下を向いたきり顔をあげられない僕を見つめ、ふっと五十嵐が微笑む気配がした。雰囲気が軟化し、ゆっくりと顔を起こす。丁寧な手つきで制服のポケットに手紙をしまい、五十嵐が請け負う。
 「ああ、ちゃんと届けるよ。間違っても飛行機にしてとばしたり鼻かんだりしねえから安心しろ、切手代はツケとくからな」 
 最後は冗談めかして言い、五十嵐が踵を返す。エレベーターではなく目の前の階段をのぼってゆく五十嵐の背中に何とも形容しがたい感情をかきたてられ、我知らず一歩を踏み出す。 
 「五十嵐さん」
 階段の半ばで五十嵐が振り向く。
 声をかけたはいいものの言葉が続かない。むなしく立ち竦んだ僕の耳元で声がする。
 
 『いやだよなあ、そりゃそうだよなあ』
 『おまえのこと親父みたいに慕ってる囚人やなにも知らねえ同僚に秘密知られてシカトされるのは。とくにガキどもはがっかりだな、今までなにくれとなく良くしてくれた五十嵐さんが私怨で囚人殺しかけた極悪人だと知れば』
 『そしたら今度はおまえがリンチの標的にされるんじゃねえか?まわり全部敵に回して東京プリズンで生き残るのは大変だな』

 脳裏を席巻するタジマの台詞。脅迫。
 タジマは五十嵐の弱みを握って金を強請っている。弱み。周囲に知られたくない秘密。五十嵐の秘密とはなんだ、過去に囚人を殺しかけたというのは本当なのか…
 間抜けに口を開閉すること三度、唇を引き結ぶ。
 「―アイロンくらいちゃんとかけたほうがいい、制服が皺だらけだと看守の権威が失墜する。そんなみっともない格好で出歩くのが許されるのは生活態度が悪くて妻帯者がいない男性だけです、タジマのように」
 「おいおい、看守に説教かよ。囚人のくせに生意気だな」
 冗談半分におどけた五十嵐の目が柔和に和み、優しげな父親の顔になる。
 「……娘によくおなじこと言われたよ。年の割に口うるさくてこまっしゃくれてたからな、リカは」
 もう決して戻らない過去を回想するようにしみじみと五十嵐が呟き、うなだれた背中で階段をのぼってゆく。僕は何故か鍵屋崎優を思い出した。
 鍵屋崎優の背中はいつも近寄りがたく威厳にあふれていて、半面、親近感や父親の愛情とは無縁だった。
 生きる気力を失った背中を見送り、世の中には情けない父親がいるものだと達観した。
 五十嵐はきっといい父親だったのだろう、とも。
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