少年プリズン

まさみ

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百三十三話

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 信じらんねえ。
 「…………」
 茫然自失した俺の顔が鏡に映る。蛇口を捻っても水がでない。緩めても緩めても全開にしても点々と水滴が落ちてくるだけで、その水滴だって次第に間延びして遂には出なくなる。

 水を止められた。

 いくら俺が馬鹿だってそれが意味してることくらいわかる、水を止められたら水が飲めなくなる。俺が篭城開始してから五日目、水道は大事な生命線だった。空腹に苛まれて眠れなくなるたびに水をがぶ呑みして胃を満たしたのに水を止められたらそれもできなくなる、水道水を止められたら飲料水が確保できなくなって食糧補給はレイジに頼るしかなくなるがレイジだってそう頻繁に食料を持ってやって来れるわけじゃない。鉄扉一枚隔てた廊下では看守がおっかない顔で睨みをきかせてる、怖い物なしの王様だって看守の目をかいくぐって食料を届けにくるのはむずかしい。
 「……信じらんねえ。イカレてやがる、完璧」
 毒づいてみても始まらない、事態が改善されるわけでもない。この絶体絶命危機的状況をどう打破すればいいか頭を回転させて素晴らしい名案を考え出そうとしたが無駄だった。まさかこんな手を打ってくるとは思わなかった。タジマの奴、俺が予想を裏切ってねばりにねばってるもんだから業を煮やして強行手段にでたんだろう。2・3日で音を上げると高を括ってた俺が意外な頑張りを見せて面目潰されたタジマが怒り狂って水道水止めたとしてもちっとも不思議じゃない、奴ならそれくらいやるだろう。

 頭が混乱して考えがまとまらない。水の出ない蛇口を全開にして腕組みして歩き回る。

 ベッドに塞がれた鉄扉の周辺にごろごろと転がっているのは昨日レイジが差し入れてくれた食料、というか缶詰だ。桃缶鯖缶カニ缶、あれだけ要らねえと拒絶したのにちゃっかりキャビア缶まで混ざってるのはいやがらせだろうか?本人の襟首掴んで聞いてみたいが肝心のレイジがいないし今はそれどころじゃない。缶詰ばかりなのはレイジいわく長期の保存が効く物ばかり厳選して持ってきたからだそうだ、俺の篭城がどれ位延びるか今の時点じゃわからないから常温でも腐らない缶詰がいいだろうと奴なりに考えあってのことらしいが床一面に足の踏み場もなく転がってて危なっかしいったらない。
 缶詰を避けて歩きながら考える考えるひたすら考える。
 長期戦を想定するなら水を止められるのはめちゃくちゃこたえる。俺があと何日何週間、いや、ひょっとしたら何ヶ月篭城するかわからないが一滴も水が飲めないのは命に関わる深刻な打撃だ。まあ俺はもともと鍵屋崎みたいな潔癖症じゃないからマメにシャワーを浴びて体を洗う習慣はないしその点は保ちそうだが……

 ―「てめえっ、いい加減にしろよ!!」―

 ドン、と壁が震えて通気口から怒声がもれてきた。怒声にびびって足もとの桃缶に蹴躓き、たたらを踏んで持ちこたえる。壁はまだ震えている、ドンドンドンと鈍い音が連続してるのは癇癪を起こした売春夫が力任せに壁を蹴り付けてるか殴り付けてる為らしい。隣と言っても鍵屋崎じゃない、その反対側だ。
 「お前のせいでシャワー止められて体洗えねえじゃんか、なんとかしろよ!」
 「はあ!?なんで俺のせいなんだよっ」
 言いがかりとしか思えない言い草に腹を立て、大股に壁に歩み寄る。
 「お前のせいだろうが、お前が自分勝手に篭城してるせいで『上』の怒り買って水道水止められたんだよ!ふざけんなよ畜生、いじけて仕事場にとじこもってるお前はシャワーなんか浴びなくてもいいだろがこちとらシャワー使えないと困んだよ、一刻も早く体洗って汚え汁洗い流してさっぱりしてえんだよ!!」
 ……正論だ。言ってることは無茶苦茶だが一面じゃ真実を言い当ててる。確かに水道水を止められたのは俺が篭城してるからで、水道水を止められた累が及ぶのは売春班全体だ。体の脇で怒りに震える拳を握り締め、ぐっと押し黙った俺の周囲で散発的に怒鳴り声が上がる。
 「てめえひとり強情張ってるせいで全員に迷惑かかんだよ、看守に睨まれて肩身狭いんだよ」
 「あきらめて素直にヤられちまえ、てめえひとりいつまでも貞操守ってられると思ってんじゃねえぞ」
 「野郎の処女なんか大事にとっとくようなもんじゃねえだろうが、どうせ俺たちがこっから抜け出せる望みなんか万に一つもねえんだ、開き直って男に抱かれちまったほうがラクになれるぜ」
 「開き直って股も開いちまえ」
 「ああ、シャワー浴びてえ。体べとついて気持ちわりィ」
 「恨むんなら自己中な半半を恨みな、俺たちを見捨てて見殺しにして自分ひとり助かりゃいいって知らんぷりしてる腰抜けを恨めよ」
 「なっ……、」
 嘲るように揶揄されてキレかけたが挑発に乗って房を飛び出すわけにはいかない。怒りに顔面朱に染めて立ち竦んだ俺の姿を壁越しに見透かしたように声のトーンが跳ね上がり通気口に反響した空疎な哄笑が天井を席巻してゆく。
 「なんだよ、本当のことだろうが!お前がそうやって強情張ってる間に俺たちがどんな目に遭わされてると思ってんだ?地獄だ!おまえが房の真ん中で大の字になってぐーすか鼾かいてる間に俺たちは男に抱かれて喉すりへるまで喘ぎ声あげさせられてんだ、ははっ、俺たちの喘ぎ声はいい子守唄になったか?仲間を見殺しにして手に入れた眠りはさぞかし気持いいだろうな」
 『ふざけんな』と絶叫したかった、壁がなければ襟首掴んで殴り倒したかった。仲間を見殺しにした俺がぐっすり眠れるわけがないじゃないか、見殺しにした見返りに安眠を手に入れられるわけないじゃないか。仲間を見殺しにした罪悪感に苛まれて浅い眠りの中でも悪夢にうなされてびっしょり寝汗をかいて飛び起きてる始末なのに……お前に何がわかるってんだよ、わかったふうな口きくなよ。そう言い返そうとして下唇を噛む。今の俺が何をどう言っても卑怯者の言い訳にしか聞こえない、俺が他の連中を見捨てて自分一人だけ売春を拒み続けてるのは動かし難い事実なんだから。
 俺が黙ってるから調子に乗ったのか、通気口から矢継ぎ早に怒声が降り注ぐ。
 「ああ、シャワー浴びてえなあ!」
 「水が使えねえと困るなあ!」
 「だれのせいなんだろな、ええっ」
 「さあな。バカみたいに意地張って駄々捏ねてる半半のガキのせいじゃねえか」
 「そうか、裏切り者のせいか」
 「売春班の中に裏切り者まじってるせいでとんだ迷惑だ、連帯責任なんて冗談じゃねえ」
 「ふざけんなよくそがっ、なんで関係ない俺までこんな目にあわなきゃなんねーんだよ!」
 怒り狂った売春夫がシャワーの先端を床に叩き付ける音、力任せに壁を殴る蹴る騒音が鼓膜に押し寄せてきて息詰まる圧迫感を感じる。
 耳をふさいで無視しようとした手から力が抜け、肩のあたりまで掲げた手首がだらりとたれさがる。今耳をふさぐのは卑怯だ、逃げるのは卑怯だ。俺以上にコイツらが追い詰められてるのは仕方ない、コイツらは売春班に配属されてから五日間一時も心休まることなく客をとってきたんだ。ごく真っ当な男が女の身代わりに男に抱かれるのがどれだけ屈辱的なことか十一歳でお袋の身代わりにされかけた俺にはよくわかる。今コイツらの声に耳をふさいじまったら俺は俺を軽蔑する、心の底から軽蔑する。俺にはコイツらの非難を受け止める義務がある、どんなに無茶苦茶な言いがかりをつけられようがどんなに理不尽な罵倒をされようが耳をふさいじゃいけない、知らん振りしちゃいけない。
 俺が今ここで知らん振りしてしまったらコイツらの痛みや苦しみまで無かったことになる。
 そんなことはできない、絶対に。
 「畜生、もうすぐ客がくるのに……」
 「なあ、これからずっとシャワー使えないまんまなのか?水も出ねえまんまなのか?」
 「さあな、半半に聞いてくれよ。あいつの気分次第で断水期間長引くんだからよ」
 「くそう、なんで俺がこんな目に……もうやだよお、こんな生活」
 「男にヤられるなんてやだよう、ケツいてえよう」
 「めそめそすんな、気色わりィ野郎どもだな。そうやってなよなよカマっぽいこと言ってから客に殴られるんだよ」
 「こんな辛い目に遭うなら生まれてこなけりゃよかった」
 「畜生、恨むぜお袋。だれも産んでくれなんて頼んじゃないのに」
 「聞いてんのか半半!全部てめえのせいだ、てめえがいなけりゃ全部丸くおさまるんだ!頼むから一刻も早く死んでくれ!!」
 湿っぽい愚痴と女々しい嗚咽、陰にこもった呪詛と血を吐くような罵倒。この五日間で神経をすりへらして心身ともにギリギリの極限状態に追い詰められた連中が恥も外聞もなく泣き叫んでいる、将来を誓い合った女の名前を呼ぶ奴、外に残してきたガキの名前をくりかえす奴、みんながみんな誰かに、何かに未練を残して心と体を引き裂かれる激痛を味わってる。

 俺が出てったら皆ラクになるのか?

 先が見えない絶望的な状況で通気口の闇を見つめているうちに、唐突に心動いた。俺が降参して出てったら、観念して諦念して客に抱かれてやったら他の連中も少しはラクになるのか?今よりマシな状態になるのか?俺がいるせいで売春班全体に迷惑がかかってる、被害が及んでる。もし今、扉の封鎖を解いて廊下に出て行ってタジマに土下座して謝ったら狂ったように泣き叫んでるコイツらは救われるのか…?
 
 「見苦しいぞ」

 催眠術が解けたように顔を上げる。
 俺の葛藤を見透かしたような声が通気口からもれてきた。冷静沈着に落ち着き払った……鍵屋崎の声だ。
 「あんだって?」
 嘲弄の響きを隠そうともしない声色に売春夫が気色ばみ、血気盛んに壁を殴り付けていた音が止む。重苦しい空気がたちこめる中、鍵屋崎は淡々と繰り返す。 
 「聞こえなかったか?見苦しいと言ったんだ、今の君たちの状態が。次の客が来るまで本を読もうと表紙に手をかけたところなのに品のないスラングが飛び交ってるせいで読書に集中できないじゃないか、少しは僕の都合も考えてくれたまえ」
 コイツ、今の状況下で読書なんてどういう神経なんだ?
 あ然とした沈黙が落ちた。水を打ったように静まり返った通気口には埃っぽい闇が蟠っていたが、ふいにその闇を震わせ、低いトーンの声が響く。
 「『こんな辛い目に遭うなら生まれてこなければよかった』と言った者がいたな」
 「俺だ……」
 感情が水漏れしない誰何の声におそるおそる返事を返したのはうってかわって気弱そうな声だった。通気口からもれてくる声を拾い上げて会話してるから直接顔を見ることはできないが、きっと顔面蒼白で憔悴しきってるんだろう。頬が殺げて眼窩が落ち窪んだガキの顔をぼんやりと脳裏に思い描く。
 「本気か?」
 「本気だよ。毎日毎日男にヤられて痛くて死にそうで、こんな生活がずっと続く位なら生まれてこないほうがマシだった」
 「甘えだな」
 「!?なっ、」
 何を言い出すんだコイツ。 
 「君が今そうして膝を抱えていじけながら『生まれてこなければよかった』なんて言えるのは『生まれてきた』からだろう。そんな大前提をないがしろにして安易に『生まれてこなければよかった』なんて自己憐憫にひたりきった戯言を吐く人間には虫唾が走る。君たちは自分が『生まれてない』状態を想像できるか?生まれてないということは即ち無、無を知覚できない無だ。無を知覚することは不可能だ、何故なら無は人間が『考える』ことはおろか『感じる』ことさえ阻む白紙の状態だから。僕らはこうして生きているあいだも常に何かを感じている、熱い寒い怖い冷たい痛い寂しい哀しい等の言葉の定義未満の淡く微妙な外面的内面的変化を感じ取って生きている。『生まれてこなければよかった』?君は本当にそれでいいのか。主体が存在しない無の世界に埋没して自我を消滅させるのが望みなのか」
 「……頭おかしいんじゃないか、言ってることわかんねえよ」
 俺もそう思う。必死に頭を働かせてみたが鍵屋崎の言ってることは難しすぎてちっともわからない。でも鍵屋崎の澱みない語り口には俺たち全員が真剣に聞かなければいけない気にさせる静かな気迫があった。推測の域は出ないけど、鍵屋崎は過去にもこうやって誰かに何かを説明したことがあるんじゃないか?おそろしく説明に慣れた饒舌な口調で続ける。
 「僕は『無』を解釈できない、だから怖い。『死』は『無』になることだ、だから怖い。『生まれてこなければよかった』?いいか、よく聞けよ。『生まれてこなければよかった』と口にした瞬間から堕落が始まるんだ。『生まれてこなければよかった』はこれまで出会ってきたすべての人間、自分の人生に関わってきた人間全部ひっくるめて否定して『無』にしてしまう言葉だ。生まれてこなければ決して会うことができなかった大事な人間まで貶める言葉だ。……君には子供がいるな」
 「!」
 「名前はメイファだと記憶してる。漢字で梅の花と書いてメイファか」
 「ああ……俺がつけたんだ」
 照れたような呟きをすくい上げたのは抑揚のない指摘。
 「いい名だな。君が生まれてこなければ彼女もまたこの世に生を受けることがなかった。その事実を忘れてるんじゃないか」
 「………」
 「一児の親なら矜持を持て。本当に生まれてこなければよかったような人間に成り下がりたくないなら生まれてこなければよかったなんて非生産的な繰り言は二度と吐くな」
 鍵屋崎が深呼吸する気配が伝わってきた。今や、一つに繋がった通気口で結ばれた房の全員が鍵屋崎の言葉に固唾を呑んで耳を澄ましていた。奇妙な連帯感が芽生え始めていることに動揺しながらも鍵屋崎の声を無視することができない、奴の屁理屈を鼻で笑い飛ばすことができない。
 壁に隔てられて各々の顔が見えない状況下にも関わらず、鍵屋崎は「声」の圧力だけでこの場の主導権を握ったのだ。
 場の雰囲気を完全に掌握した鍵屋崎が淡々と続ける。
 「『だれも産んでくれなんて頼んでない』。確か、そう言った人間がいたな」  
 耳が痛くなるような静寂。名乗りを上げるのを待つ気配。いや、名乗りを上げる者がいなくても構わず続けるつもりだったんだろう。
 「僕はその言葉が嫌いだ。大嫌いだ。いいか?胎児と意思疎通できる方法があったら今頃その発見者はノーベル賞を受賞してる。でも現実にそんな方法はない、自我が芽生えてない胎児には出生の拒否権がない。だからなんだ、それがどうした。『誰も産んでくれなんて頼んでない』からどうだって言うんだ、君たちの親はだれかに頼まれて君らを産んだんじゃない、自分が産みたくて産んだんだ。それだけだ。『誰も産んでくれなんて頼んでない』なんてよくそんな自己憐憫にひたりきった思い上がった台詞が吐けるな、悲劇の主役ぶったナルシシズムにでも酔ってるのか?あきれたな、そんなに生まれてきたのを後悔してるなら今から受精卵に退行して子宮にひきこもっていろ、いや、受精卵以前の段階、尾の生えた精子に退行して泳いでろ。生涯子宮にひきこもっていたいと渇望してる人間にロンを、彼を非難する資格はない」

 俺?

 いきなり話題を振られて面食らう。つられて自分の顔を指差して通気口を仰げば演説はまだ続いていた。通気口奥の闇を震わせて鉄格子の隙間から降り注いでくるのは鍵屋崎の冷静な声。
 「彼は少なくとも自分の頭で考えて選択して行動した、男に抱かれるのは絶対いやだと決意表明して扉を封鎖するという強行手段に出た。君たちも男に抱かれるのが嫌ならそうすればよかったんだ、自分の頭で考えて行動して危機を回避すればよかったんだ。自分じゃ何ひとつ行動を起こさずに受動態に徹して抱かれるままになってた人間が未だに篭城を続けてるロンを非難しても負け犬の遠吠えにしか聞こえない」
 「そういうお前はどうなんだよ!?」
 ありのままの事実を指摘するが如く言い終えた鍵屋崎の語尾に反発した売春夫が噛み付き、「そうだ」「そうだ」と同意の声が上がる。鍵屋崎はしばらく無言で自分にむけられた非難の矛先をやり過ごしていたが、やがて静かに答える。
 「無駄な抵抗はせず、効率的に男に抱かれてる」
 潮が引くように野次が遠のき静寂が戻ってきた。不均衡な沈黙を破ったのはシャワーの先端を壁に叩き付ける音。「やってらんねえぜ」「えらそうなこと言いやがって」と舌打ちしつつも鍵屋崎に一本とられたかんじで矛を納めた売春夫。三々五々通気口から離れてゆく売春夫の衣擦れの音を聞きながら矩形の闇を見上げて立ち尽くす。

 鍵屋崎が、俺を庇ってくれた?

 「……勘違いするなよ」
 すぐ隣から聞こえてきたのはばつが悪そうな呟き、ページをめくる音。ベッドに腰掛けて本をめくっているのだろう鍵屋崎が続ける。
 「君を庇ったわけじゃない、彼らがあまりに見苦しくて腹が立ったんだ。あと、読書の邪魔だ」
 違う、嘘をついてる。
 じっと聞き耳をたててみれば鍵屋崎の声はひどくしんどそうだった、自分の体だって辛いのに、俺を庇う余裕なんかないはずのなのに何で。通気口の闇を食い入るように見つめ、ためらいがちに口を開く。 
 「……なあ」
 「なんだ」
 「俺、やっぱり出てったほうがいいのかな」
 機械的にページを繰る音が止む。
 「俺が出てけばシャワーだって使えるだろ。俺だけこんなことやってて、こんなふうにガキっぽく意地張ってお前や他の連中に迷惑かけまくって本当に、」
 「自分の選択に自信を持て」
 おそらくは本から顔も上げずに答えてるんだろう、鍵屋崎の声はひんやりとそっけなかった。
 「男に抱かれるのはいやなんだろう。なら信念を貫き通せ、行動したことを後悔するな、多数派の意見に惑わされるな。周りの連中に支持されなくても関係ない、刑務所の中にまで民主主義は持ち込めない。君は君のしたいようにしろ、決して僕達に同情なんかするな、負い目なんか感じるな、くだらない罪悪感に振り回されて道を見失うな」
 静か過ぎるほど静かな激情を抑制した口調に自然と背筋がのびる。鉄格子を嵌め込まれた通気口の向こう、パタンと表紙を閉じた鍵屋崎がぶっきらぼうに呟く。
 「百人の凡人に共感をえられなくても一人の天才に認められれば十分だろう」
 奴一流のまわりくどい言い回しを咀嚼するのにちょっと時間がかかったが、その言葉は胸に染みた。通気口の下に佇み、見上げる。鍵屋崎になんて声をかけるか迷い、結局これしかないと、俺が今いちばん伝えたい言葉をおもいきって舌に上らせる。
 『謝謝』
 鍵屋崎は何も答えなかった。俺の声なんか聞こえなかったフリで読書に戻ったんだろう。一世一代の決心で口にした言葉を無視されて少しムッとしたが次の瞬間にはアイツらしいなと苦笑してしまう。
 鍵屋崎は強い。
 強すぎて、脆い。
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